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昭和歌謡が好きな人集まれ!

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:04
歌謡曲は好きだけど「演歌」は好きでない、昭和歌謡特に昭和戦前から昭和30年代頃までの日本の歌謡(レコード歌謡)が好きな人集まれ!。
あなたの好きな歌は何ですか!

560 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/03(Thu) 22:31
☆萩原朔太郎と古賀メロディ

『月に吠える』、『青猫』、『純情小曲集』などで知られ、昭和17年5月11日に亡くなった詩人・萩原朔太郎と古賀政男は、ギター、マンドリン愛好で非常に近い関係にあり、朔太郎は古賀政男宅をしばしば訪れる関係だった。そして朔太郎は大衆に根ざした「古賀メロディ」を高く評価し愛していた。

自らも、音楽家を夢見ていたというほどで、マンドリンやギターの演奏もし、マンドリンクラブを持っていました。

ギターで「影を慕いて」や、マンドリンで「丘を越えて」を弾いたそうです。出身地の「前橋文学館」にはこのギターが展示されてるそうです。

朔太郎の故郷、前橋では「萩原朔太郎記念演奏会」が定期的に開催され、朔太郎作曲のマンドリン曲「「機織る乙女」、「野火」、そして「朔太郎と古賀メロディ」と題して、「丘を越えて」や「影を慕いて」など古賀メロディが必ず演奏されるようです。

「群馬マンドリン楽団」のHPによると、『丘を越えて』『影を慕いて』『人生の並木路』『東京ラプソディ』などが演奏されるそうです。

作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。

序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。

 そして、古賀を、西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させたと評した。

 文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。

なお、萩原朔太郎の長女、葉子によるエッセイ集 『父・萩原朔太郎』 には、「流行歌では、「丘を越えて」「影を慕いて」「酒は涙か」など古賀致男のものが特に好きだった。「影を築いて」の前奏曲は、文の得意中の得意で、まるで指をギターに打ちつけるほどの感情をこめて弾いた。」という。また、マンドリンとギターによる〈朔太郎と葉子父娘で〉、古賀メロディの家庭合奏をよくしていたそうだ。

参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男の家によく遊びに来たそうですが、(演奏家・古賀政男にいわせれば)、朔太郎はマンドリンが下手だったそうです。

平成23年(2011)は、萩原朔太郎生誕125 年の節目の年で、10 月、晩年、下北沢に居を構えたゆかりの東京の「世田谷文学館」にて「生誕125年萩原朔太郎展」が開かれた。

常設展では、作家であり、舞踏家であり、手芸作家でもあった萩原朔太郎の長女「萩原葉子」の証言(朔太郎と葉子父娘の家庭合奏)の再現演奏があった。

「朔太郎と葉子父娘の家庭合奏」の再現では、マンドリンとギターによる古賀政男の『影を慕いて』『酒は泪か溜息か』、それに朔太郎の『 機織る乙女』など、朔太郎にちなむ世田谷区ゆかりの作曲家と作品を演奏した。...



・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

・宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)

・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫

・流行歌曲について  萩原朔太郎
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)


詩人・萩原朔太郎も愛してやまなかった「古賀メロディ」・・この名曲の宝庫、「日本の文化」を、これからも歌い継いでいってほしいものです。



561 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/12(Sat) 19:58
☆関 種子と「古賀メロディ」

初期の「古賀メロディ」を支えた歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。

乙女心    (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵(ずえ)の唄(貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931.12
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1932.1
南海小唄   (島田芳文作詞 古賀政男作曲) 1932.1
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から  (浜田広介作詩、 古賀政男作曲) 1932.3
秘めたる恋  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海  (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌   (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
曙に唄う (太田哲城作詞、 古賀政男作曲)1932.7
愛は紅い    (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影  (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
嵐の島 (西條八十作詞,  古賀政男作曲) 1933.2
初恋の唄   (西條八十作詩、 古賀政男作曲)1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲)1933.3
処女よさらば (西條八十作詞 古賀政男作曲)1933.9


乳姉妹の唄   (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲)1932.6
夢に泣く    (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1934.2
流れの乙女   (佐藤惣之助作詩、竹岡信幸作曲) 1934.12
雨に咲く花   (高橋掬太郎作詩、池田不二男作曲) 1935
野薔薇の歌  (佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲 1936国民歌謡
明日なき恋  (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1937
初恋の丘   (藤田まさと作詩、長津義司作曲) 1937.5
千人針 (サトウハチロー作詞、 長津義司作曲) 1938

・関種子
 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90




562 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/21(Mon) 10:32
>>561

「かた思い」(片思い)(浜田広助作詞、古賀政男作曲)26897 昭和7年6月


563 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/21(Mon) 10:55
「かた思い」(片思い)
浜田広助作詞、古賀政男作曲  昭和7年6月

佐藤千夜子
関種子 (昭和7年6月)

1.
ハアー
山は 山晴れ
野は野で晴れた
鳴くぞ ポーポと
山鳩が

2.
ハアー
鳴いて 鳴かれて
雌鳩に 雄鳩
飛ぶぞ 並んで
パサパサと

3.
ハアー
さても わたしは
あの娘を 好いた
好いて 逢わなきゃ
かた思い

4.
ハアー
浜のアワビの
とどかぬ思い
野良が 晴れても
気が塞ぐ




564 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/21(Mon) 11:37
窓に凭れて
作詞:島田芳文
作曲:古賀政男
歌唱:関  種子

(一) 
行きて返らぬ 若き日を
窓に凭れて 思いみる
夢多かりし かの頃の
雲のかからぬ 清らかさ
ああ 過ぎにし 過ぎにし春の
思い出よ

(二)
ただやすらけく ありし日の
胸のあこがれ 泡と消え
たけての今日の この胸に
地上の愛の なやましさ
ああ 涙に 涙にくるる
このこころ


関種子はクラッシックソプラノ歌手で、佐藤千夜子、長門美保、佐藤美子、四家文子、松原操などと共に活躍し、初期の古賀メロディーを中心に、ヒット曲を出した人気歌手でしたが、短い芸能界でした。

関種子は、クラッシックのソプラノ歌手で、本格的な声楽家です。
明治40年9月18日、岡山県生まれで、小学生の頃から琴に親しみ、上京後、東京音楽学校に進学、在学中に結婚、本科を首席で卒業しました。
坪内逍遥原作、山田耕筰作曲の歌劇『墜ちたる天女』で楽壇デビュー、クラッシックのソプラノ歌手の活躍を始めました。
『墜ちたる天女』の抜粋をコロムビアレコードに吹き込んだ縁で、昭和6年に同社からデビュー、『窓に凭れて』『嘆きの夜曲』『あけみの唄』『日本橋から』など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせています。


私は国立音大で関先生に教えを受けました。ご自宅にもレッスンに行きました。また、軽井沢でのセミナーにも参加しました。とても素晴らしいコロラツゥーラソプラノでした。先生が本邦初演の「ランムールのルチア」のアリアを頂き、練習しました。大学3年の時でした。中田喜直の「霧と話した」も初演でした。有名で日本語もドイツ語もイタリア、フランスと造詣が深く、素晴らしい声楽家でした。この頃は歌謡曲が声楽と言われていたそうです。しかし今のような文化ではなく、日本歌曲をどのように浸透してゆくか、迷った時代でした。NHKのラジオでの多くの音大での声楽家、オペラ歌手が今で言う歌謡曲を歌いました。美しい発音と発声法でマイクに頼らず、心を歌いました。私が卒業の時『心と声』と直筆で書いてくださいました。今70歳を目前にその意味がやっと解ってきました。
心の歌を歌うのは声を大切にしなくてはなりません。関先生にもっともっとお習いしたかった今日この頃でした。



565 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/21(Mon) 21:38
作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・
古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。

『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・・ジプシー音楽(ジプシー短音階)、セレナーデ風の佳曲。

タンゴと歌謡曲は戦前から密接な関係があったようで、歌謡曲の創世記に、ハバネラタンゴのリズムが使われた。古賀政男(「正男」)作曲、佐藤千夜子がビクターで吹込んだ《日本橋から》のリズムがそうである。
その後、関種子によって再録音(コロムビア)された。邦人歌曲においてタンゴのリズムが使われた最初の例であろう。

「日本橋から」以来、戦後にいたるまで歌謡曲では旋律に変化をあたえるリズムとして多用されるようになり、流行歌の発展には欠かせなくなりました。 
「赤い花」「銀座セレナーデ」「黒いパイプ」「夢去りぬ」「落葉しぐれ」・・、昭和22年東宝 『音楽五人男』挿入歌「バラ咲く小径」などがあげられる。

ジプシー音楽とハバネラが古賀メロディーの原点だった!ともいわれる所以だろう。

82年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは、ライバルであるビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表したのです。

これによって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。

また、昭和14年から、二人はコロムビア専属となるのだが、「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「熱砂の誓い」「紅い睡蓮」「サヨンの鐘」「麗人の歌」「三百六十五夜」・・
など戦後に至るまで、数え切れないほど沢山の「西條八十作詞・古賀政男作曲」の名曲を世に送り出すのです。

566 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/25(Fri) 21:25
>>564

関 種子(読み)セキ タネコ
20世紀日本人名事典の解説

昭和期の声楽家(ソプラノ) 国立音楽大学名誉教授;千種会主宰。



生年 明治40(1907)年9月18日
没年 平成2(1990)年6月6日
出生地 東京
本名 秋山 種子
学歴〔年〕 東京音楽学校本科〔昭和4年〕卒
主な受賞名〔年〕 紫綬褒章〔昭和49年〕,勲四等宝冠章〔昭和56年〕
経歴 昭和4年楽劇「墜ちたる天女」の主役として出演、以来第一線の歌手として活躍。31年「コンセールf」の結成に参加。また国立音大・名古屋音大各教授も務めた。著書に「音楽家になるには」。
出典  日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報



新撰 芸能人物事典 明治〜平成の解説

職業 声楽家
専門 ソプラノ
肩書 国立音楽大学名誉教授,千種会主宰
本名 秋山 種子
生年月日 明治40年 9月18日
学歴 東京音楽学校本科〔昭和4年〕卒
経歴 昭和4年楽劇「墜ちたる天女」の主役として出演、以来第一線の歌手として活躍。31年「コンセールf」の結成に参加。また国立音大・名古屋音大各教授も務めた。著書に「音楽家になるには」。
所属 団体日本演奏連盟(評議員),日伊音楽協会(理事)
受賞 紫綬褒章〔昭和49年〕,勲四等宝冠章〔昭和56年〕
没年月日 平成2年 6月6日 (1990年)
家族 姉=関 鑑子(ソプラノ歌手),弟=関 忠亮(バス歌手),娘=関 弘子(女優)
伝記 オペラ歌手奮闘物語―繰り返せない旅だから〈4(最終巻)〉 畑中 良輔 著(発行元 音楽之友社 ’09発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治〜平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治〜平成について 情報

567 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/25(Fri) 21:36
2009/9/18
「武岡鶴代 関種子」  今日のひと こと
 1895年・明治28年の今日、岡山県で後にソプラノ歌手となる武岡鶴代が生まれています。ハンカ・ペツォルトとマルガレーテ・ネトケ・レーベに師事し、1916年・大正5年東京音楽学校を卒業しました。
 1924年・大正13年に国立音楽学教授となり、1929年から3年間ドイツに留学しました。大正から昭和初期にかけてドラマチック・ソプラノとして活躍しました。
 1935年門下生の希望によりプロの音楽家を養成するための「鶴声会」を発足させました。その功績を称え「武岡鶴代賞」が設けられています。
 もう一人ソプラノ歌手の話題です。

 1907年・明治40年の今日、東京で関種子が生まれています。姉鑑子はソプラノ歌手としてうたごえ運動を起こしました。
 1924年東京音楽学校声楽科を卒業します。姉や武岡鶴代と同じネトケ・レーヴェの教えを受けました。
 卒業後も研鑽を積み、昭和4年に山田耕筰作曲のオペラ「堕ちたる天女」の初演で第七の天女でデビューしました。
 その後ソプラノ歌手として藤原歌劇団で「カルメン」のミカエラ役、「ファウスト」のマルガレータ役などを歌います。
 流行歌手としても、昭和6年に吹き込んだ「日本橋から」、「窓に凭れて」をはじめ、「嘆きの夜曲」、「乙女の春」、「雨に咲く花」などのヒット曲も多くあります。
 戦後は藤原歌劇団で「ラ・ボエーム」のミミ役などを歌い、オペラの舞台で活躍しました。オペラばかりではなく、コンサート歌手としても、歌曲のリサイタルなどでも幅広い活躍をしました。東京芸大や国立音大で後進の指導に当たり、多くの門下生を育てました。
1


568 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/26(Sat) 12:19
(参考)
h ttps://item.rakuten.co.jp/cfc-co/d6160/?scid=af_pc_etc&sc2id=af_102_1_10001643

<古賀政男名曲大全集>
2010年、コロムビアミュージックエンタテインメントは創立100周年を迎えます。その記念企画の一つとして今回ご案内いたしますのが、コロムビアの“顔”であり、昭和歌謡史上最大の巨人、古賀政男の作品全集です。5000曲ともいわれる“古賀メロディー”の膨大な作品の中から、コロムビア音源を中心に選びに選び抜かれた究極の名曲・全200曲。出演者も、藤山一郎を初め、淡谷のり子、霧島 昇、二葉あき子、李 香蘭、近江俊郎、神楽坂はん子、村田英雄、美空ひばりなど、まさに綺羅星のごとき大スターたちによる夢の饗宴盤となっています。
過ぎ去りし昭和を振り返りながら、もう二度と現れないであろう大作曲家の音楽の真髄に触れていただく、まさにコロムビア創立記念に相応しいBOXセットです。

CD10枚組
全200曲収録
別冊歌詞集付
専用ケース入り
古賀政男 名曲大全集
(1件)22,000円(税込)送料660円

商品番号 D6160 コロムビア創立100周年記念特別企画!
選びに選び抜かれた「古賀メロディー」の名曲200曲!!
【演歌・歌謡曲 CD】
古賀政男 名曲大全集 商品番号D6160


569 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/26(Sat) 21:23
>>559

日本の歴史は飢饉の歴史ともいえる。昭和に入っても飢饉はあった。
東北の大凶作による飢饉と社会不安、それは太平洋戦争に到る遠因ともいわれる。
日本は農業国家でまだ草深い、まだ貧しい時代だった。

226事件で決起した青年将校、すなわち士官学校卒の隊付将校が、自らの隊に抱えていた兵卒の部下たちは、その多くが農村出身者である。
昭和初期の不況によって、当時の農村部は壊滅的な貧困に陥っており、小作農家の多くは、子どもの都市部への出稼ぎや身売りによって、辛うじて小作料を埋め合わせている状況だった。
とりわけ、大凶作に見舞われていた東北の農村では、村役場が、公然と身売りの仲介を担い、多くの女性が、都市部の遊郭に売られていった。
小作農家の悲劇的な惨状とは裏腹に、こうした農村部からの労働力搾取、そして人身売買における中間搾取によって、国や財閥は大きな利益を得ていた。

実家の姉妹が売られたことを苦に、初年兵が消灯後に、隠し持っていた実包を銃に込め自殺する。
あるいは、演習中に銃を持って脱走し、身売りされた姉妹のいる遊郭に駆けつけて、心中を図る。
農村出身兵士のこうした痛ましいエピソードは、当時決して珍しいことではなかった。
部下たちの苦悶する姿を、目の当たりにしていた青年将校らは、貧困にあえぐ民衆から容赦なく搾取し、富を占有する財閥支配や、財界に癒着し党利党略に明け暮れる政党政治の腐敗、
そして、農村部の疲弊を傍目に、侵略戦争によって強引に不況を解消しようと画策する軍上層部に対し、不信感と危機感を強めていた。




570 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/26(Sat) 21:51
昭和大飢饉(大凶作)について
おしんみました。東北で飢饉が起こり、身売りでおしんの元に養女となる初子がやってくる場面など窮乏さががよくわかり、満州事変からはじまる太平洋戦争開戦、敗戦の流れがだいたいわかりました。石原莞爾は山形県出身と、誰がどう考えても飢える故郷のために軍人が立ち上がったと言ってはいけないのかもしれないけど立ち上がったのを見ると、現在では考えられない、上の方のほうが今以上に「責任」があった時代だったんだなと感じました。


戦争に関するテレビや映像、本はたくさん出回っていますが満州事変〜太平洋戦争のはじまりとも言える自然災害の東北での不作,凶作の飢饉は戦争を語る上で現代あまり有名ではないように感じます。いかがでしょうか?


571 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/14(Wed) 23:07
age

572 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/15(Thu) 14:58
昭和16年、軍関係の慰問演奏が多数行われ、この年発売されたレコードは「蘇州の夜」「夜霧の馬車」を初めとする等13曲。
この時期、李香蘭が参加した最も巨大規模と思われる音楽イベントが、
読売新聞主催・後楽園球場で2万人の観客を集めた「そうだその意気」発表会である。

製作過程
当時、各メディアは軍や国家機関の協力を得て、国策協力の歌を積極的に作っていた。


「露営の歌」東京日日新聞(現・毎日新聞)   
「兵隊さんよありがとう」朝日新聞
「婦人愛国の歌」主婦之友                 「出征兵士を送る歌」キング

「そうだその意気」もその流れの中、読売新聞が作った歌である。
後援は陸軍・海軍を含めた全ての省。情報局・大政翼賛会・日本放送協会。
作曲・古賀正男。作詞・西條八十。歌手は李香蘭・霧島昇・松原操。
多くの政府関係機関が後援を行い、コロムビアを代表する人気歌手と製作陣が参加する
大規模な音楽プロジェクトだった。

「聖戦完遂 国民総意の歌 募集」と題された記事が3月21日付に掲載され、
歌詞のテーマは「一億国民老若男女が朝夕高らかに唱和する如き平面にしてしかも神国に
第一線の将兵と共に戦いつつある決意を全国民に促し得る画期的名作を切望」して一般募集されたが
当選作が無く、結果的に作詞家の西條八十が担当する事になった。

作曲は古賀正男が担当したが、二晩徹夜して作ったメロディを軍人が気に入らず、
「戦意を高めるどころか、なんだ悲しくなるじゃないか」と作り直せと注文をつけた。
しかし古賀政男はこれ以外のメロディは作れないと、突っぱねたというエピソードがある。

実際聞いてみると前半は比較的静かで、後半にかけての盛り上がりがメリハリが効いている。
前半部分を軍人は気に入らなかったのかもしれないが、
注文通り作り直したら、勇ましいけれども単調な歌になっていたかもしれない。

5月10日、東京日比谷のコロムビア本社にてレコーディングが行われた。
合唱形式で歌われており、歌詞によって担当が異なっている。
1番 霧島昇 
2番 松原操 
3番 霧島昇と李香蘭の合唱 
4番 全参加者による合唱
4番は、この歌の副題が「国民総意の歌」という事もあって、全国民が歌う事をイメージしているのだろう。

銃後の全国民を対象にした歌で、歌詞を簡単に説明すると、
「中国戦線で戦う兵士達に感謝し、彼らに負けないように、銃後にいる私たちも仕事や社会奉仕に励もう」
という歌である。


そうだその意気(国民総意の歌、陸・海軍礼式歌)

西条八十作詞、古賀政男作曲 
歌;霧島昇/松原操/李香蘭  昭和16年


1 なんにも云えず 靖国の 
  宮のきざはし ひれ伏せば 
  熱い涙が こみあげる 
  そうだ 感謝の その気持 
  揃う揃う気持が 国護る

2 雁の鳴きわたる 月の空 
  今夜いまごろ 戦地では 
  弾丸(たま)を浴びてる 
  朋友(とも)がある 
  そうだ 済まない その気持 
  揃う揃う気持が 国護る

3 戦に勝つにゃ お互いが 
  持場 職場に 命がけ 
  こんな苦労じゃ まだ足りぬ 
  そうだ その意気 その気持 
  揃う揃う気持が 国護る

4 かがやく勲  皇軍に
  まけず遅れず  がっちりと
  共に戦う  銃後軍
  そうだ  進めば 盛り上がる
  凱歌凱歌  あかるい
  大アジア


573 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/17(Sat) 16:38

朝ドラ『エール』では、ヒット曲が出ないで悶々とする古関(古山)が話す中で「名曲ばかりの古賀メロディー」という会話がたびたび出てくる。

そんな中で、以下の中で、「そうだその意気」が聞ける。

西条八十作詞、古賀政男作曲「そうだその意気」霧島昇、松原操、李香蘭歌。


朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?
2020/05/14

h ttps://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/05/04/147322/3


574 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/18(Sun) 19:16
昭和5年(1930)10月20日、佐藤千夜子はビクタースタジオで[影を慕いて」「日本橋から」を吹き込み。その一週間後佐藤は日本を後にするが、翌昭和6年(1931)1月に発売された。
来年令和2年(2021)は、昭和96年。「影を慕いて」が世に出て、もうすぐ90年。
藤山一郎のコロムビア盤は昭和7年3月。


90年にわたる「古賀メロディ」の歴史。

【日本のクラッシック 古賀メロディ】・・「影を慕いて」を作曲した昭和3年(1928)から、頂点に上り詰め、亡くなった昭和53年(1078)まで、半世紀にわたる古賀メロディの歴史、それは、日本がまだ貧しかった昭和の初めから、戦前、戦中、戦後の日本の歴史の中でも最も苦難の歴史、大衆歌曲・歌謡曲というものが日本に出来て根ずいて隆盛の歴史そのものである。


575 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/18(Sun) 19:54
「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。作曲家はこれまでたくさん出たが、「古賀メロディ」ほど多くの
ヒット曲を持つ作曲家はいない。


576 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/18(Sun) 20:05
「古賀メロディ」紛いで、最近なんでもかんでも、いろいろ作曲家の名前の後に、「メロディ」をつけて、作曲家の曲を「何とかメロディ」で呼ぶことがあるようで違和感を感じている人もあるでしょう。

これらは、いつからか戦後昭和40年代前後の頃のテレビのナツメロブームの影響でしょうか、使い方も間違っていると思います。

西條八十、佐藤惣之助、サトウハチローなど、詩人の日本人の琴線に触れるの詩情溢れる「古賀メロディ」・・、昭和の初めから、人は敬意を持って「古賀メロディ」と呼んだのだ。

しかし、最近のはもちろん、「古賀メロディ」以外が、実際SP黄金時代に、そのように「メロディ」をつけて呼ばれてきたわけではない。

昭和の長い歌謡の歴史の中で「メロディ」をつけて実際にそう呼ばれてきたのは、たくさんある中で、「古賀メロディ」しかないのです。

「古賀メロディ」というのは、単に佐曲家の名前の後に「メロディ」という言葉をつけたものでなく、長い日本の歌謡史の中で生まれ多くの大衆によって育まれ与えられた「称号」ということができるでしょう。

日本人の心の琴線に触れる一種哀調を帯びた優しいメロディ、稀有で卓越した一連のたくさんの古賀作品、それに対する敬意と賞賛の意味が込められていると思われます。

577 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/28(Wed) 21:07
朝ドラ『エール』モデル・古関裕而と古賀政男のライバル関係「人気作曲家の明暗を分けた戦争」
天才と苦労人
刑部芳則 日本大学商学部准教授

朝ドラ 推し本

世田谷中原駅(現在の世田谷代田駅)。裕而と金子の姉妹(寿栄子、松子、子供は寛子)
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戦時下の古賀政男との違い
ヒットに恵まれない古関裕而と、ヒットメーカーとして名高い古賀政男。そのライバル関係は、戦時下に一変する。

米英との関係が悪化すると、両国を仮想敵国と見なし、日本国内の情報が漏れないように注意すべきだという危機意識も持つ必要性が生じるようになる。昭和16年4月に読売新聞社は、国民に防諜を喚起する国民総意の歌「そうだその意気」と、「海の進軍」の歌詞募集を行った。古関は、海老沼正男が作詞した「海の進軍」に曲をつけることとなった。歌は伊藤久男(山崎育三郎演じる佐藤久志のモデル)、藤山一郎、二葉あき子が吹き込んだ。

この作曲について古関は、「曲は短調だが、多分にグランド・マーチ風の四分の四拍子で、堂々たる艦船を表現したつもりである。私としては、終わりの四小節のメロディーが気に入っていた」という。曲調は短調だから暗いメロディーだが、「多分にグランド・マーチ風の四拍子」を用いているため、全体的に勇ましく「堂々たる艦船を表現」することに成功している。

この裏面になった「そうだその意気」は、「国民総意の歌」というとおり、一億国民の意識を戦時体制下で一つにする目的があった。歌詞は6000篇が集まったものの、優秀なものがなく、作詞は西条八十、作曲は古賀政男と流行歌の王者に依頼することとなった。「そうだその意気」は、霧島昇、松原操、李香蘭が吹き込んだ。

この企画を立てた陸軍省防衛課中佐大坪義勢は、西条の歌詞に注文をつけるくらい入れ込んでいた。吹き込みには、軍関係者、コロムビアの重役、部長、西条八十、新聞記者が並んだ。古賀政男のピアノ伴奏が終わると、軍関係者は「軟弱だ。戦意を高めるどころか、なんだか悲しくなるじゃないか」とケチをつけた。これに対して古賀は「私は、心を打ちこんで作曲したつもりですが、この詞にはこの曲しか作れません。気に入らなければ、他の人に頼んでください」と反論した。「そうだその意気」は、昭和16年5月に書き換えることなくそのまま発売された。

578 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/28(Wed) 21:20

   江口夜詩 (えぐち・よし/1903.7.1〜1978.12.8)


新型コロナウイルス騒動のため現在中断されているが、NHK朝の連ドラ「エール」のモデルになった作曲家・古關裕而 (1909〜89) についていろいろ調べるうち、江口夜詩という名前に出会った。古關が日本コロムビアに入社後ヒット曲を生み出せず、業を煮やした会社側がスカウトして来た作曲家が江口だった。彼はもともとポリドールで月給30円で雇われていた作曲家だったが、1932年(昭和7年)11月にリリースした「忘られぬ花」(歌/池上利夫=後の松平晃)がヒットし、一躍注目されるようになっていた。ポリドールの専属が切れて一年経った1933年(昭和8年)3月、コロムビアは江口に入社支度金二千円、月給三百円という破格の好条件を用意した。当時の古關の月給は二百円であったから、評価の違いは歴然である。
コロムビアに入社後すぐに江口は「十九の春」(歌/ミス・コロムビア)「急げ幌馬車」(歌/松平晃)などのヒットを連発、1934年(昭和9年)12月に発売された30枚の新譜のうち20枚が江口の手によるものという大活躍であった。この現状に、コロムビアは古關の解雇を考えた。しかし、古賀政男の強い反対により窮地を免れたのは「エール」で描かれていた通りである。
こんな物凄い作曲家・江口夜詩について、私はもっと知りたくなった。
そして調べているうちに、私がよく知っている曲の多くが江口の手によるものであることが分かり、驚きと嬉しさとが交差した。ミス・コロムビア(松原操)の大ファンである私は、「十九の春」こそ彼女の最高の作品だと信じて疑っていなかったが、この名曲も江口の手によるものだったのだ。冒頭の哀愁溢れるスチール・ギターを奏でているのは、松原によればディツク・ミネであるという。彼はこの楽器の名手で、レコード会社の枠を飛び越え、ギターを自転車の後ろに縛り付けて様々なレコーディングに参加していた。私が敬愛してやまない高峰三枝子の初レコーディング「螢の光」におけるデイツクの見事な間奏も、懐かしく思い出される。

579 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/01(Sun) 23:54
十九の春

歌:ミス・コロムビア

作詞:西條八十

作曲:江口夜詩 1933.6

ながす涙も 輝きみちし
あわれ十九の 春よ春
すみれつみつつ 散る白露に
泣きし十九の 春よ春

君はやさしく 涙は甘く
唄をうたえば 花散りぬ
乙女振袖 ゆく白雲も
われを眺めて 流れゆく

我世さみしと 嘆くな小鳥
春はまたくる 花も咲く
愛の光に 夜はほのぼのと
明けて十九の 春よ春

昭和8年(1933)、コロムビアの古賀政男とビクタ―の西条八十が、専属を超えて1年間、組んだ。
その中の一つでもある。
東京音楽学校を出たばかしの松原操が歌った。

580 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/03(Tue) 23:00
松原操(ミス・コロムビア)と古賀メロディ

「お蝶夫人]の唄 西条八十・作詞、古賀政男・作曲、ミス・コロムビア・歌(昭和8年1933、
気まぐれ涙  西條八十作詞、古賀政男作曲 ミス コロムビア(松原 操)
1933-09
誰も知らない  サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、ミス・コロムビア昭和14年(1939年) コロムビア新譜 叙情歌
新妻模様  西条八十作詞、古賀政男作曲 霧島 昇、ミス・コロムビア
目ン無い千鳥  サトウハチロー作詞、古賀政男作曲 霧島 昇、ミス・コロムビア、昭和15年
そうだその意気(国民総意の歌) 西条八十作詞、古賀政男作曲 霧島 昇、松原 操、李 香蘭
故郷の白百合  サトウハチロー作詞、古賀政男作曲 霧島 昇、松原 操
いさおを胸に  西条八十作詞、古賀政男作曲 弘田竜太郎編曲 楠木繁夫、松原 操
茜の雲の燃ゆる時, 大木 惇夫作詞、古賀 政男作曲,霧島 昇,松原 操
桜花に誓う(女子挺身隊の歌)西条八十作詞、古賀政男作曲(歌,松原操、奈良光枝、三原純子)昭和19年
三百六十五夜  西条八十作詞、古賀政男作曲 霧島昇・松原操 昭和23年



581 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/12(Thu) 23:50
「お蝶夫人」の唄 西条八十・作詞、古賀政男・作曲、ミス・コロムビア・歌(昭和8年1933、

長崎観光は“蝶々夫人ゆかりの地”グラバー園が柱になっていますが、その“蝶々夫人ブーム”ともいえる現象が見られたのは昭和8年(1933)でした。
アメリカ映画「マダム・バタフライ」が公開され、映画にあやかって演劇、音楽分野にも続々と“蝶々夫人もの”が登場します。
歌では同年の「お蝶夫人の唄」を皮切りに次々にレコードが出て、ブームに拍車をかけました。


グラバー園に建つ蝶々夫人の三浦環像

「お蝶夫人」の唄
(昭和8年=1933、西条八十・作詞、古賀政男・作曲、ミス・コロムビア・歌)

20近くある、お蝶夫人の歌の最初がこの歌、東京音楽学校を卒業したばかりの初々しい松原操(ミス・コロムビア)のデビュー曲{浮草の歌」と同じ最初の歌。




昭和8年1月早々、コロムビアはライバル(ビクター)の看板作詞家・西条八十(さいじょうやそ)さんと、自社の看板作曲家・古賀政男(こがまさお)さんにコンビを組ませるというショッキングな企画を発表、世間をアッと言わせます。
その“百万ドルコンビ”第1作で、5月に発売されました。
歌ったミス・コロムビアは同年3月「浮草の唄」でデビューしたばかりの覆面歌手。
本名は松原操(まつばらみさお=のちの霧島昇夫人)さん。
アイマスクを掛けた覆面写真に「これは誰でしょう」のというキャッチコピーで宣伝、話題を集め、歌もヒットしました。
戦後、長崎復興に観光が第一と考えた文化関係者が“グラバー邸はお蝶夫人ゆかりの地”のお墨付きを与えた際、この歌も有力な材料になりました。




582 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/13(Fri) 21:46
>>378


「お蝶夫人」の唄
  西条八十 作詞
  古賀政男 作曲  
  歌 ミス・コロムビア 
  昭和8年(1933)3月

一.
おもうお方は 帰らぬ人か
旅のつばめは また来たに 
恋の長崎 港の雨は
お蝶夫人の 涙雨

二.
私しゃ初恋心(おぼこ)の 日本娘
港育ちの 女郎花(おみなえし)
恋は気まぐれ 降るアメリカの
露にぬれたか 恥ずかしや

三.
ねんねおころり 坊やの父(てて)は
青い目の人 ふねの人
ねんねおころり 謡(うた)うたとても
声もとどかぬ 波の上

四.
来るか来るかの 頼りは来ずに
春の丸山 花が咲く
情け知らずの 入船出船
きょうも散る花 のせてゆく


いくつかある「お蝶夫人の歌」のさきがけ。「浮草の歌」とともに、ミス・コロムビア最初期の歌声。。。
美貌と美声を兼ねた、清純で美しい歌姫ミスコロムビアの歌声。
「流浪の民」「この道」「我が家の歌」など松原操名の声楽曲も多い。
お蝶夫人、日本では世界的プリマドンナ三浦環が歌った。
東京音楽学校(現東京芸術大音楽部)を出るか出ないか頃のミス・コロムビ(松原操)のコロムビア最初期の歌。
けなげな日本娘にふさわしい清純で綺麗なすばらしい歌唱。、今のクラッシック標ぼうの歌手でもここまでは歌えない、すばらしい歌唱。


379 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/26(Wed) 23:27
松原操の世界
h ttp://matubaramisao.com/kirisimanoboru&matubaramisao-cd-kiji%20index.html


プロフォール、ミスコロムビア(松原操)
h ttps://columbia.jp/artist-info/miss-columbia/prof.html


583 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/15(Sun) 21:17
大木敦夫と古賀メロディ

茜の雲の燃ゆる時 大木 惇夫[作詞],古賀 政男[作曲],霧島 昇,松原 操,コロムビア合唱団  コロムビア(戦前)
思い出の記 大木 惇夫[作詞],古賀 政男[作曲],霧島 昇 コロムビア(戦前)
雲のふるさと 大木 惇夫[作詞],古賀 政男[作曲],仁木 他喜雄[編曲],伊藤 久男
崙越(こんろん)超えて  大木 惇夫[作詞],古賀 政男[作曲],藤山 一郎 コロムビア(戦前)
われら空の子 大木 惇夫[作詞],古賀 政男[作曲],藤山 一郎,コロムビア合唱団 


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