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【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

244 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/09(Tue) 20:12
昭和53年、NHK朝の連続テレビ小説で『東京行進曲』(西條八十作詞、中山晋平作曲)を歌ったレコード歌手第一号、佐藤千夜子の生涯を描いた『いちばん星』が放送された。

『いちばん星』では、「エール」と違って、野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子、西条八十、古賀正夫( 政男)など、まさに昭和レコード歌謡を築き上げた人物が登場する。

昭和歌謡、大衆歌謡の源流とそこに関わった先人の熱い情熱と思いが描かれています。


大衆歌曲「歌謡曲」(クラッシックのことをこう呼んだ)はクラシック(洋楽)を基礎にして、さらに世界の音楽と邦楽の伝統を取り込みつつ融合発展したもので、大衆の間に浸透していくにつれ様々な抵抗や批判があった。それらにひるまず「歌謡曲」を確立してゆく、歌作りにかけた先人の弛まぬ熱い思いの歴史であった。

昭和4年、音楽評論家伊庭孝が流行歌(レコード歌謡)を批判したことから、西條との間で論争が起こった。「流行歌」が通俗かつ劣悪であるとされていたのだ。しかし、西條はものともせず流行曲作家として次々に映多くの映画主題歌などを手掛けてゆく。

『大衆をこよなく愛した詩人・作詞家 西條八十』、戦前から戦中・戦後・高度成長期まで約50年に渡り、童謡から流行歌まで幅広く作詞を手がけた西條八十。

詩人、仏文学者、作詞家、大学教授・・・ 多彩な仕事を残し「堕落」と言われようが、歌が持つ力を信じ、そっと寄り添う優しい簡潔な言葉で、大衆を励まし続けた昭和歌謡の源流。

西條八十の歌、そこに流れるものは、弱きものにそっと寄り添う「やさしさ」だと想います。

処女詩集『砂金』から、初期の童謡と純粋詩、あるいは訳詩、「東京行進曲」あたりから書きはじめた流行歌、後の歌謡曲、あるいは軍歌など書いてゆく。早稲田大学の仏文科で教鞭をとりながらの二束のわらじだった。

さらに各地の民謡、校歌、社歌の類、多くの少女小説まで書きまくった。

弟子にサトウハチロー、門田ゆたか、佐伯孝夫、丘灯至夫などがいる。

童謡から新民謡,歌曲、歌謡曲までを手がけた詩人・西條八十。

西條八十の詩には、成田為三、弘田龍太郎、本居長世、山田耕筰、中山晋平、草川 信、近衛秀麿、小松耕輔、橋本国彦、佐々木すぐる、平井康三郎、中田喜直・・から、古賀政男、松平信博、江口夜詩、万城目正、佐々木俊一、・・服部良一、古関裕而・・など多くの著名な作曲家が曲をつけている。

西條八十の歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇が いわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。

西條八十は「芸術とは人生に対する真剣な感動が盛り込まれていなければならぬ」と言っていて、この歌謡の中でも例えば「旅のつばくら淋しかないか」ですが、これはフラ ンスの女流詩人の「旅の燕は私の心の夢で、あなたについていく」がヒントになっていて 私だったら「旅のつばくろ淋しくないか」となってしまうところ、「 ― つばくら淋しか ― 」となるのは、さすがです。らとかの明るいはずのあ音が、歌うと(古賀政男作曲) 深く澄んだ寂蓼となって響きます。

彼が歌謡曲を作るきっかけとなったのは関東大震災の夜だった。被災した兄を見舞うため都内を歩いていました。瓦礫の山の中、人々は嘆き、悲しみ、叫ぶ人までいました。余震がひんぴんと繰り返された。都心や下町方面の空が炎のように赤く染まっていた。

朝鮮人の襲撃があると言って近所の男の人たちが竹槍をかまえて出ていった。病院へかけつけた父は母が池袋駅の構内に寝たまま避難して無事であることをたしかめると月島に住む兄英治夫婦を案じて築地の方角へ歩き出した。

 ところが、倒れた家屋や避難民の激しい動きにまきこまれ、いつのまにか上野の山(現上野公園)の方へおしよせられてしまった。自警団に阻まれたりして、けっきょく上野の山で一夜を明かす羽目となった。

その夜半、地獄のように遠く近く燃えさかる火災を眼下にみながら、恐怖にふるえる避難民の中からとつぜん一少年の吹くハ−モニカの音が響いた。

それは思いがけぬ美しく優しい音であった。



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