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【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 08:43
昭和6年(1931)「酒は涙かため息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・いずれも藤山一郎、
今から88年前、まもなく90年を迎える「古賀メロディ」。
《日本のクラッシック》「古賀メロディ」の歴史を振り返る。


2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 08:45
小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中、「りんどう峠」の島倉千代子が、「ハイのハイノハイ」ができなくて何度も通い、あの門から玄関までの長かったこと!と言わせた、長い石畳のなだらかな坂道。

そこに、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。

古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。

古賀政男は大きな邸宅に住み、当時の金で数十億といわれる群を抜いた著作権料。車がまだ一般的でなかったころから、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった昭和最高最大の印税長者古賀政男。

「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。

昭和30年代の古賀政男は、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

大きなお屋敷に住み、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、「素人物まね読本」とかの番組で「よかったね、よかったね!」など優しい声をかけていた。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオ放送はすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

のとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。

他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。



3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 08:48
毎朝、玄関でお金の音がする。
これは、昭和の大作曲家、古賀政男の自宅に、郵便局から毎朝、現金入りの書留が送られてきたという伝説。

藤山一郎に始まり作品数は5000曲とも言われ、印税が湯水のごとく沸いてくることは想像に難くない。

古賀政男のメロディーがありとあらゆる場所で流れている様は、まさに「印税長者」というにふさわしいだろう。

明大卒業と同時に代々木上原に移った古賀政男は、代々木上原に古賀村を作り同志を呼び集めたいと思っていた古賀政男は、代々木上原駅前の松林が気に入って、地主と掛け合い、昭和12年に、駅前の松林一山三千坪を手に入れた。

これが旧古賀邸、現在の「古賀政男音楽博物館」と、一体のJASRAC本部のビル。

−私は明大を卒業すると同時に代々木上原に移った。
この土地は私がコロムビアで売り出した縁起のいい場所でもあり、
かねて永住したいと考えていたのである。

私はこの三千坪の土地に「古賀村」を作りたかったのである。
ここに同志たちの家も建て、一同手を携えて音楽創造の道に邁進するー
それが私の夢であったのだ。(「古賀政男大全集」より)


当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水建設に建てさせ昭和13年に完成した。



4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 08:53
その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。

代々木上原駅前3000坪の豪邸、旧古賀邸には、玄関を入るなり高価な美術品が飾ってあって、美術館の如く、横山大観など、廊下や部屋の中あちこちに第一級の美術品が飾ってあった。

古賀政男は絵画を好み、自身でも沢山絵を書いていた。それらの自作の絵や、横山大観の絵、棟方志功よりプレゼントされた絵など第一級の美術品である。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や、数十台が留められる広い駐車場。大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。



5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 08:58
日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。古賀財団(古賀政男音楽文化振興財団)のテナントとして、「古賀政男音楽博物館」に一体隣接して、そびえ立つ威容はまさしく大衆音楽の聖地。

「古賀政男音楽博物館」には、滝廉太郎、野口雨情、本居長世、山田耕作、中山晋平、西條八十、古賀政男、藤原義江、藤山一郎・・美空ひばり、島倉千代子、北島三郎・・など明治以降、日本の大衆音楽に尽くした音楽家、詩人・作詞家、作曲家、歌手について、「大衆音楽の殿堂」で併せて現在246名が顕彰している。

入館料だけでその中で7000曲のうちから選んで無料で十分聞くことができ非常に貴重です。


顕彰者一覧 h ttp://www.koga.or.jp/information/sanctuary/index.html

5月18日はICOM(国際博物館会議)が提唱する「国際博物館の日」。古賀政男音楽博物館ではこれを記念して平成30年5月18日(金)は無料開館日。www.koga.or.jp/




6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:05
(参 考)
・藤森 照信著、藤森 照信写真「歴史遺産 日本の洋館〈第6巻〉 昭和篇(2)」講談社 (2003/3/19) ISBN-13: 9784062614863
 岩崎小彌太別邸(静岡県)、三井家別邸(北海道)、徳川義親邸(長野県)、細川護立邸(東京都)、原邦造邸(東京都)、林芙美子邸(東京都)、古賀政男邸(東京都)など。
 古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ p.126

・「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))


☆有名人の邸宅(参考)
古賀政男邸(代々木上原)   3000坪
田中角栄『目白御殿』(目白) 2575坪
鳩山会館(文京区)       2000坪
麻生太郎邸(渋谷)     1500坪
孫正義邸 (港区)    960坪
三木谷御殿(渋谷区)  272坪
鳩山由紀夫邸(大田区  205坪
長嶋茂雄邸(田園調布) 180坪
ひばり御殿(目黒)   173坪






7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:10
古賀政男と『七人の侍』

「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。

作曲家はこれまで数多出たが、「古賀メロディ」ほど多くのヒット曲を持つ作曲家はいない。

日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男

『古賀メロディ』と呼ばれたその作品は、昭和一桁時代から数多くの人に親しまれました。

その曲は底辺に寂寥感や哀愁を漂よわせたものが多く、それが同時代の日本人の心の琴線に触れて長く愛されて、日本歌謡史に多大の足跡を残しました。

その数多くのヒット作品、その多くは「映画主題歌」でもあります。

「古賀メロディー」ほど多くのヒット曲を持つ作品群はありません。 同時に「古賀メロディー」ほど、数多くの「映画主題歌」を持つものもありません。 

昭和3年、人生の、青春の苦悩から始まった古賀メロディ・・戦後、30年代青春歌謡と言われるものがはやったが、古賀メロディは元祖青春歌謡といえます。

戦前から戦後にかけて、まだ日本が草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、まだテレビもなかった時代、 唯一の娯楽は「映画」だった。

どんな小さな街にも、ちいさな映画館があって、そして映画公開を楽しみに待った。

その映画には主題歌があって、レコード全盛時代で映画とともに人々は、それを愛唱し
口ずさんだ、それが今に残る多くの名曲だった。

昭和6年、「チャッカリしてるわね」(同、西岡水朗作詞、天野喜久代歌)に始まり、「酒は涙か溜息か」(想い出多き女。 高橋掬太郎作詞)、 「丘を越えて」(姉、島田芳文作詞)、「鳩笛を吹く女の歌」(佐藤惣之助作詞)(いずれも藤山一郎歌、1931)など無声映画の時代から始まり、戦後30年代頃までよどみなく続きます。

人は古賀政男を大作曲家、歌謡界の大御所とよんだ。

五千曲に及ぶ作曲生活の中で、数多い名曲、ヒット曲を生み、それが築いた富は数十億円とも言われている。

広大な邸宅に住み、晩年に到るまで名声と富に囲まれて暮らしていた古賀政男。死後は国民栄誉賞に輝き、彼が生んだ古賀メロディーは、今後とも日本人の心の中に生き続けるだろう。

人間として、作曲家として文句のつけようのない生涯であったと誰しもが考える。

だが、この華やかさとはうらはらに、古賀政男は心を許した親しいものに「ぼくは寂しいのよ」と、よく打ちあけたことは知られている。

少年時代から死ぬまで古賀政男にとって、確かなものは、音楽への情熱しかなかった。

その心を歌に託せば、“哀しみ”と“寂しさ”になり、人々の心をうつのであろう。

まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ わが想い

古賀政男を作曲家としてスタートさせた処女作『影を慕いて』のあの“哀しみ”と“寂しさ”。

そして晩年に到るまで古賀政男の心に宿り、いつの時代の作曲活動にも活力となった
“寂しさ”と“哀しみ”とはなんだったのだろうか。・・

貧困の中での生い立ち,父の死、母と兄の確執、自殺未遂・・、
暗い青春にある日突然訪れた栄光。
古賀作品の本質と彼の青春は深くかかわりあっているのだ。
( 流転の旅 人間古賀政男 その青春
  「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978)))
 
昭和9年(1934)2月、大阪に創立されたテイチク(帝国蓄音機)は、昭和の初め外国資本で設立された日本コロムビアやビクターなどのレコード会社に追いつこうと、<重役兼、文芸部長兼、作曲家>として新進のヒット・メイカー古賀政男を招聘し制作の全権を委ねた。

古賀政男邸はこの「テイチク黄金時代」と言われたテイチク時代の昭和12年から13年にかけて作られた。

古賀は、マンクラの「7人の侍」と呼ばれる側近を呼び寄せ、昭和9年5月15日、銀座にテイチク東京文芸部《古賀文芸部》を組織し、仕事をスタートさせる。

このとき、淡谷のり子の紹介で専属契約したのがディック・ミネである。テイチク文芸部が反対するのを古賀のツルのひと声で昭和9年11月に録音、翌年1月に発売された「ダイナ」と「黒い瞳」は空前の大ヒット。

このことに味をしめて、以後、テイチクはジャズに力を入れていく。また楠木繁夫や、昭和11年には、ビクタ―の契約期間を過ぎた藤山一郎を呼び寄せた。




8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:24
古賀政男と『七人の侍』

「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。

作曲家はこれまで数多出たが、「古賀メロディ」ほど多くのヒット曲を持つ作曲家はいない。

日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男

『古賀メロディ』と呼ばれたその作品は、昭和一桁時代から数多くの人に親しまれました。

その曲は底辺に寂寥感や哀愁を漂よわせたものが多く、それが同時代の日本人の心の琴線に触れて長く愛されて、日本歌謡史に多大の足跡を残しました。

その数多くのヒット作品、その多くは「映画主題歌」でもあります。

「古賀メロディー」ほど多くのヒット曲を持つ作品群はありません。 同時に「古賀メロディー」ほど、数多くの「映画主題歌」を持つものもありません。 

昭和3年、人生の、青春の苦悩から始まった古賀メロディ・・戦後、30年代青春歌謡と言われるものがはやったが、古賀メロディは元祖青春歌謡といえます。

戦前から戦後にかけて、まだ日本が草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、まだテレビもなかった時代、 唯一の娯楽は「映画」だった。

どんな小さな街にも、ちいさな映画館があって、そして映画公開を楽しみに待った。



9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:25
古賀邸の秘書兼運転手兼作曲編曲家だった清水保雄など古賀政男には『七人の侍』という、懐刀とも言うべき、常に古賀政男の身近にいて、一切の、内部、外部の切り盛りを、滞りなく恙なくやって行く才腕がいた。

いわば強力な秘書軍団が居て陰に陽に古賀を支え続けたのだ。

古賀の苦難時代から起居を共にし行動を共にして、常にその直接相談役補佐役たりした人。 

古賀政男邸宅の門の右手前には「古賀ギター歌謡学院」がありました。

そこを通り過ぎて大きな石の門を入り、玄関までは歩いて数分もかかります。坂を登っていくと手入れの行きとどいた庭が広がっていて、その広さには驚きびっくりです。

3000坪の広大な古賀政男邸、坂を登った左側には大きな車庫が3つあって、幅2mもあるリンカーン、ベンツ、など高級車が何台も並んでいます。

右側に和洋折衷の洋館、その大きな玄関を入ると左側にレッスン室があってピアノが置かれていました。

あまり自動車が一般的でなかった昭和10年代から積極的に外車を駆使していた古賀政男。戦前戦後にかけて、その豪華なパッカード、フォードや、リンカーン、ベンツを縦横に操縦する人、古賀政男の意見を、対外的に自由に駆使する人が常にいた。

戦後に書かれた古賀政男自伝にも、清水保雄は古賀政男の自家用車を運転しており、アメリカなど海外に行った時も古賀の乗る車を運転していたことが記されています。

古賀政男は、「古賀文芸部」と言われた「テイチク東京文芸部」(銀座)発足にあたり、小山令道、東堂守三。茂木了次、清水保雄など、明大マンドリンクラブ以来の『七人の侍』を呼びいれたのだった。(また古賀メロディの多くに明大マンドリンクラブ演奏が多い、明大マンドリンクラブ演奏以外にも、古賀政男オーケストラ、古賀政男サロンオーケストラ等の名前もそうである。)

 いずれも、古賀政男が主催していた明大マンドリンクラブのメンバーで、古賀の子分衆であり、伝記類にもちらほらと名前の出てきて、古賀がコロンビアからテイチクに移った際に一緒にテイチクに入った人たちです。

清水保雄は、古賀政男の六歳下で、明大マンドリンクラブの学生時代から古賀に憧れて部下になり、秘書兼、書生兼、自家用車の運転手兼、雑用係で、かつテイチクで企画を担当していた。

さらに後の古賀自伝から、清水保雄は秘書兼書生だっただけでなく、古賀メロディの編曲を名前は出さずに相当やっていた事も分かります。

『七人の侍』は、古賀がテイチクを辞めて、再びコロムビアに移った時も、古賀とともにコロムビアに移った。

このように、古賀政男には『七人の侍』という、陰に陽に古賀を支え続けた「懐刀」とも言うべき、いわば強力な秘書軍団が居た。これが数え切れないほど沢山のヒット曲のある「古賀メロディ−」大成の秘密ともいえるのではないでしょうか。

53年8月4日、独自の曲調「古賀メロディー」作曲による業績により、古賀政男に「国民栄誉賞」が贈られ、王選手に次いで二番目。

生存者に贈る賞で、亡くなった人に贈ることに異論があったが、福田内閣は古賀氏に贈らない理由はないとして贈ることが決まった。博物館に展示されている。

☆古賀政男とその主な人脈
歌手; 佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環、
    淡谷のり子、楠木繁夫、松平晃、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、川畑文子、
    由利あけみ、渡辺はま子、伊藤久男、松島詩子、ディックミネ・・
詩人; 萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー 、島田芳文 ・・
作曲家;中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實・・
その他;棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香 蘭)、徳川無声、森繁久弥、山本富士子、美空ひばり、村田英雄、・・



10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:32
「古賀政男音楽博物館」  <大衆音楽の殿堂顕彰者>

「古賀政男音楽博物館」には明治以降、日本の大衆音楽に尽くした音楽家、詩人・作詞家、作曲家、歌手について、「大衆音楽の殿堂」で顕彰している。

滝廉太郎、野口雨情、、本居長世、山田耕作、中山晋平、弘田竜太郎・・から西條八十、古賀政男、藤原義江、藤山一郎、・・から、美空ひばり、島倉千代子、北島三郎・・までほとんどをカバ―している。

大衆音楽の殿堂顕彰者には明治以降、明治、大正、昭和、これまでのほとんどの大衆音楽に尽くした 作曲家、詩人・作詞家、歌手・演奏家併せて246名が顕彰展示されており、入館料だけで7000曲のうちから選んで無料で十分聞くことができ非常に貴重です。

最近の歌は、なんでも「名曲」、しかも60年以上の長い「昭和」の歴史になかで、ほんの昭和の最末期飽食の時代の歌だけで、昭和歌謡と言ってますが、これを見ると,聞くともっと深いことが分かります。昭和の本当の名曲を堪能することができるでしょう。

昔は大衆音楽というのは民謡くらいしかなかった。多くの音楽家のすぐれた才能や、たゆまぬ努力によって、大衆音楽の名曲は生まれました。
古賀政男音楽博物館では、日本大衆音楽の歴史を振り返り、その発展に貢献された方々の功績を顕彰する「大衆音楽の殿堂」,この殿堂ホールには、顕彰者のレリーフが掲げられているほかに、その年の顕彰者ゆかりの品々を展示さえている。

顕彰者の代表曲などは、地下1階「音楽情報室」の検索システムで入館料だけで何曲でも聞ける。 他に、作詞者名、歌手名、もちろん題名でも検索できる。


顕彰者一覧 h ttp://www.koga.or.jp/information/sanctuary/index.html

<大衆音楽の殿堂 顕彰者>  作曲家(抜粋) 75人

滝廉太郎、岡野貞一、田村虎蔵、下總壯一、本居長世、山田耕作、中山晋平、弘田竜太郎、
成田為三、草川 信、梁田 貞、杉山長谷夫、河村光陽、海沼 實、佐々木すぐる、佐々紅華、古賀政男、江口夜詩、竹岡信行、町田佳声、佐々木俊一、万城目正、仁木田喜雄、池田不二夫、古関裕而、服部良一、大村能章、阿部武雄,長津義司、上原げんと、団 伊久磨、中田義直、飯田三郎、中村八大,大久保徳次郎、いずみたく、倉若春生、吉田矢健治、利根一郎、市川昭介、八州秀章、細川潤一、宮川 泰、田村しげる、富田 勲、米山正夫、吉田正、猪俣公章、船村徹、遠藤実、・・



<大衆音楽の殿堂 顕彰者> 歌手(抜粋)100人
松井須磨子、藤原義江、佐藤千夜子、藤山一郎、関 種子、徳山 l(たまき)、田谷力三、淡谷のり子、松平 晃、楠木繁夫、中野忠晴、上原 敏、東海林(しょうじ)太郎、ミス・コロムビア(松原操)、二葉あき子、霧島 昇、ディックミネ、山口淑子(李香蘭)、伊藤久男、高峰三枝子、松島詩子、渡辺はま子、塩まさる,市丸、小唄勝太郎、高田幸吉、川田正子・孝子、河村順子、平井英子、安西愛子、松田トシ、灰田勝彦、岡晴夫,神楽坂はん子、美空ひばり、笠置しず子、小畑実、近江俊郎、竹山逸郎、榎本健一、高 英男、森繁久彌、奈良光枝、並木路子、宮城まり子、織井茂子、菊池章子、宮城まり子、三波春夫、村田英雄、、田端義男、三橋美智也、初代コロムビアローズ、ペギー葉山、橋幸夫、坂本 九、島倉千代子、こまどり姉妹、神戸一郎、菅原洋一、三浦光一、テレサテン、岸 洋子、小坂和也、フランク永井、ザ・ピーナッツ・・・



<大衆音楽の殿堂 顕彰者> 詩人・作詞家(抜粋)71人

吉丸 一昌、井上 赳、大和田建樹、高野公男、井上 赳、近藤朔風、林 柳波、武島羽衣、中村雨紅、清水かつら、加藤省吾、久保田宵二、斎藤信夫、加藤省吾,武内俊子、東くめ、

野口雨情、西條 八十、佐藤惣之助、島田芳文、サトウハチロー、藤浦 洸、菊田一夫、高橋 掬太郎、佐伯 孝夫、長田幹彦、門田ゆたか、藤田 まさと、野村俊夫、島田欣也、清水みのる、寺山修司、横井 弘、西沢爽、宮川哲夫、石本美由樹、矢野亮、星野哲郎、やなせたかし・・・

(平成30年4月現在)


11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:39
「古賀メロデー」というのは、いろいろあるが映画と積極的に提携して映画主題歌が多い。古賀政男が活躍した昭和一桁時代から、
10年代そして20年代初めにかけて、日本はまだ貧しい時代だった。貧しくとも心豊かな時代だっのだ、そして昭和30年代はすでに歌謡界の「大御所」だった。
そして「古賀メロデー」は、たとえば「人生の並木路」や「新妻鏡」・・など人生の苦悩、青春の苦悩と言う重いテーマをテーマとしたものにより名曲が多い。
古賀政男は亡くなる直前頃、・・古賀メロデーよいつまで続くんだ、古賀メロデーよ消えされ。これまでたくさんの歌を作ってきたが、僕の古賀メロデーが受け入れられる世の中というのは、不幸な時代なのだ、
今はハッピ−な歌が受け入れられる時代なんだ。・・というようなことをいっていたことがある。と、そして、亡くなる前日かに便せんに書かれたメモが、旧古賀邸跡の古賀政男音楽博物館に展示されている。

「もうぼくのメロデーが受け入れられる時代ではない。いまは明るいハッピーな歌が受け入れられているんだ。
そういう歌がいまの歌なんだ。」って。

これについて吉田正は、僕はまったく逆説だと思う。古賀先生が言いたかったのはね、
人間というのは、ハッピーな時だけではない。苦しいときも、悲しいときもある。
そういう人間の一番暗い面がでたときは、わたしの歌を聴いてくださいよって、そういうことだとぼくは思うんだ。
人間が苦境に立ったとき、そのときには自分の歌が歌われるはずだという確信があったんですよ。
先生には。・・と本で書いている
 「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版)

古賀政男(正男)初期のレコード
文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年2月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年2月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年11月 ビクター 51464
影を慕いて  古賀正男  同    1930年12月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1930年12月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年5月  ビクター 51689
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年5月 ビクター 51689
以上は,作曲家になる前の学生時代の作品

乙女心   鹿山鶯村  関種子   1931年5月 コロムビア 26275
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 26275
月の浜辺  島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄 島田芳文 藤山一郎 1931年6月 コロムビア 26325


昭和元年は大正15年、昭和は実質昭和2年から始まった。日本に本格的なレコード会社ができたのは昭和2年から3年にかけて。レコード音楽は昭和と共に始まった。古賀メロデーのルーツと言える「影を慕いて」が佐藤千夜子によって世に出るのは今から89年前の昭和5年だが、「影を慕いて」が作られた昭和3年、日本にはまだ、「波浮の港」、「アラビアの唄」、「君恋し」などしかなく、唱歌・童謡、民謡・新民謡など以外現在あるものはまだ殆どなかった。
「古賀メロデー」といわれるようになったのは、昭和10年代人々が敬意を込めてこう呼んだ。




12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:51
「古賀メロデー」というのは、いろいろあるが映画と積極的に提携して映画主題歌が多い。古賀政男が活躍した昭和一桁時代から、
10年代そして20年代初めにかけて、日本はまだ貧しい時代だった。貧しくとも心豊かな時代だっのだ、そして昭和30年代はすでに歌謡界の「大御所」だった。
そして「古賀メロデー」は、たとえば「人生の並木路」や「新妻鏡」・・など人生の苦悩、青春の苦悩と言う重いテーマをテーマとしたものにより名曲が多い。
古賀政男は亡くなる直前頃、・・古賀メロデーよいつまで続くんだ、古賀メロデーよ消えされ。これまでたくさんの歌を作ってきたが、僕の古賀メロデーが受け入れられる世の中というのは、不幸な時代なのだ、
今はハッピ−な歌が受け入れられる時代なんだ。・・というようなことをいっていたことがある。と、そして、亡くなる前日かに便せんに書かれたメモが、旧古賀邸跡の古賀政男音楽博物館に展示されている。

「もうぼくのメロデーが受け入れられる時代ではない。いまは明るいハッピーな歌が受け入れられているんだ。
そういう歌がいまの歌なんだ。」って。

これについて吉田正は、僕はまったく逆説だと思う。古賀先生が言いたかったのはね、
人間というのは、ハッピーな時だけではない。苦しいときも、悲しいときもある。
そういう人間の一番暗い面がでたときは、わたしの歌を聴いてくださいよって、そういうことだとぼくは思うんだ。
人間が苦境に立ったとき、そのときには自分の歌が歌われるはずだという確信があったんですよ。
先生には。・・と本で書いている
 「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版)

古賀政男(正男)初期のレコード
文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年2月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年2月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年11月 ビクター 51464
影を慕いて  古賀正男  同    1930年12月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1930年12月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年5月  ビクター 51689
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年5月 ビクター 51689
以上は,作曲家になる前の学生時代の作品

乙女心   鹿山鶯村  関種子   1931年5月 コロムビア 26275
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 26275
月の浜辺  島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄 島田芳文 藤山一郎 1931年6月 コロムビア 26325





13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:54
☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

佐藤千夜子  東京音楽学校  文のかおり(古賀正夫作詞)1929.12
関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞)    1931.7
淡谷のり子   東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞)   1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア 東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃  東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫  東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ  立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)       純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞)  1936
有島通男  東洋音楽学校  春まだ浅く  (石川啄木作詞)  1936.4
由利あけみ 東京音楽学校  黒いパイプ (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮   (西條八十作詞)   1939.9
二葉あき子 東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇  東洋音楽学校  誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子  東洋音楽学校  蛇姫絵巻(西條八十作詞)1940
菊池章子 東洋音楽学校  相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴 武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)  1933.1
渡辺はま子 武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝  東洋音楽学校  青い牧場  (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎  武蔵野音楽学校  明日もまた  (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子 宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1



14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 10:00
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月 井上静雄名
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)   1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲)   1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊     (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)       1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)     1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場    (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝) 1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

(戦後)
嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌    (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952



15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 10:12
■■NHKTV 「日本の名曲10曲」■■ 


「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本がまだ貧しかった80年以上前,明治・大正から昭和の初め、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその日本の抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子、佐藤千夜子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級大歌手・声楽家が愛して
歌った歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ日本の名曲でした。


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 10:15
霧島昇代表曲(古賀メロディ)
誰か故郷を想わざる 西條八十作詞 古賀政男作曲(1940):
新妻鏡          佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 霧島昇,二葉あき子 (1940)
目ン無い千鳥      サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 ミス・コロムビア (1940)
相呼ぶ歌         西條八十作詞 古賀政男作曲     菊池明子    1940
そうだその意気     西條八十作詞 古賀政男作曲     松原操・李香蘭 (1941)
勝利の日まで      サトウハチロー作詞 古賀政男作曲(1944)
麗人の歌         西條八十作詞 古賀政男作曲                (1946)
旅役者の唄       西條八十作詞 古賀政男作曲  (1946)
旅の舞姫         西條八十作詞 古賀政男作曲     二葉あき子 (1948)
三百六十五夜  西條八十作詞 古賀政男作曲     松原操 (1948)
あの夢この歌  西條八十作詞 古賀政男作曲 二葉あき子 (1948)
白虎隊 台詞:鈴木吟亮島田欣也作詞  古賀政男作曲 (1952)
ギター月夜   西條八十作詞 古賀政男作曲(1952)
湖畔のギター 野村俊夫作詞 古賀政男作曲  (1954)

三百六十五夜
作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:霧島昇・松原操

 みどりの風に おくれ毛が
 やさしくゆれた 恋の夜
 初めて逢(お)うた あの夜の君が
 今は生命(いのち)を 賭ける君


 たそがれ窓に 浮かぶのは
 いとしき人の 旅すがた
 我ゆえ歩む 道頓堀の
 水の夕陽が 悲しかろ


 気づよく無理に 別れたが
 想い出の道 恋の街
 背広に残る 移り香(が)かなし
 雨の銀座を ひとりゆく



17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 10:21
楠木繁夫は、作曲家・古賀政男を重役として迎えて間もないテイチクの専属になる。この時に、自らの名前が似ていることから、楠木正成(戦前は大楠公と呼ばれた)に傾倒していた当時のテイチク社長・南口重太郎によって、楠木繁夫という芸名が付けられるのであった。1935年(昭和10年)には、古賀政男とのコンビで、「白い椿の唄」「ハイキングの唄」「男のまごころ」「緑の地平線」と大ヒットが続き、一躍大ヒット歌手となる。その後も、「女の階級」「のばせばのびる」「啄木の歌」「人生劇場」とヒットを続けるが、昭和13年、古賀政男がテイチク上層部との対立から退社すると、楠木もビクターに移籍。「馬と兵隊」「東京ラグタイム」など、曲には恵まれたが、ヒットに結びつく作品は少なかった。
1939年(昭和14年)頃からは、スクリーンにも活躍の場を広げ、特に日活作品に数多く出演。マキノ正博の監督による「弥次喜多道中記」ではディック・ミネとコンビで弥次喜多を演じ、大映映画「歌う狸御殿」では、狸の国の総理大臣を演じた。テイチク時代に、同じ会社のヒット歌手・美ち奴との浮名を流し、周囲からは二人は結婚するものと噂が高かったが、1942年(昭和17年)に、再び古賀政男の誘いでコロムビアに移籍した後に撮影した「歌う狸御殿」で共演した歌手・三原純子と、翌年の年末に結婚。戦時中ながら、おしどり夫婦の歌手として、工場慰問などに活躍した。
第二次世界大戦後、自らの作曲作品「思い出の喫茶店」などをレコーディングする一方で、夫婦揃って出演した大映映画「春爛漫狸御殿」をはじめ、「蛇姫道中」「江の島エレジー」などスクリーンにも活躍するが、折から流行していたヒロポンと呼ばれる覚せい剤の影響で、往年の光彩を失っていった。1949年(昭和24年)、古巣のテイチクに移籍し、「紅燃ゆる地平線」「ハルピン恋し」などのヒットを出し、NHK紅白歌合戦にも出演している。純子との夫婦揃ってのステージや巡業に活躍していたが、かねてからのヒロポン中毒のため、1953年(昭和28年)の「湯の香恋しや」を最後にレコーディングから遠ざかった。さらに、脳溢血のため、音程が狂うという歌手にとっての致命的なダメージと、愛妻・純子の肺結核の悪化が重なり、1956年(昭和31年)の春に夫婦揃ってのステージを名古屋で務めた後、二人は二度と生きて会うことはなかった。将来に悲観した楠木は、宝くじの当選で新築したばかりという東京・新大久保の自宅で、1956年(昭和31年)12月14日、女中を映画見物に出かけさせた後、ひとり物置小屋で、首を吊って自殺。52歳という早すぎる死に、高木東六、松平晃ら生前に親しかった友人たちは「緑の地平線」を合唱して、楠木の棺を見送った。故郷・飛騨高山で転地療養していた妻の純子も、彼の後を追うように1959年(昭和34年)に38歳の若さで世を去って

楠木繁夫代表曲(古賀メロディ)テイチク
国境を越えて   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1934
男のまごころ   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1935
白い椿の唄    佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1935
ハイキングの唄  島田芳文作詞  古賀政男作曲 1935
緑の地平線    佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1935
慈悲心鳥の唄   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1936
女の階級     村瀬まゆみ作詞 古賀政男作曲 1936
啄木の歌     島田欣也作詞  古賀政男作曲 1936
のばせばのびる  江川貞夫作詞  古賀政男作曲 1937
真実一路の唄   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1937
人生劇場     佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1938
いさおを胸に   野村俊夫作詞、 古賀政男作曲 弘田竜太郎編曲 1944 松原操


18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 10:23
☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)

恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲) (川畑文子)1935.6
望郷の唄  (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに  (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣(びゃくえ)の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ   (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫)  1938




19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/30(Thu) 20:24
藤山一郎の影で、彼ほど知られていないが、藤山一郎とともに、忘れてはならない歌手に、藤山一郎の先輩で藤山一郎と同じく、東京音楽学校本科を首席で卒業し、ドイツリートの傍ら、初期の「古賀メロディ」を支えたクラッシックのソプラノ歌手・関種子がいる。
『乙女心』『窓に凭れて』『日本橋から』『青春図絵の唄(貞子の唄)』『博多小夜曲』『かた思い』『あけみの唄』『金色夜叉(お宮の唄)』『笛は冴ゆれど』『朝顔の唄』『秘めたる恋』『美わしの宵』『嘆きの夜曲』『去りゆく影』
『初恋の唄』『愛は紅い』『さらば上海』・・など多くの「古賀メロディ」を歌っている。

古賀政男がテイチクに移った後、1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍。

☆関種子の代表曲(古賀メロディ)

乙女心    鹿山鴬村作詞、 古賀政男作曲    1931.6
博多小夜曲  西岡水朗作詞 古賀政男作曲     1931.8
窓に凭れて  島田芳文作詞 古賀政男作曲     1931.12
南海小唄   島田芳文作詞 古賀政男作曲  1932.1
日本橋から  浜田廣介作詞、古賀政男作曲 1932.3
青春図会(ずえ)の唄(貞子の唄)  菊池 寛作詞 古賀政男作曲  1931.11
金色夜叉(お宮の唄) 佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1932.1
美わしの宵 島田芳文作詞、古賀政男作曲       1932.1
嘆きの夜曲  西岡水朗作詞,古賀政男作曲       1932.2
秘めたる恋  佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲      1932.3
あけみの唄  原阿佐緒作詞、古賀政男作曲       1932.5
かた思い   浜田廣介作詞 古賀政男作曲       1932.6
笛は冴ゆれど 佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲     1932.7
朝顔の唄   佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲      1932.7
さらば上海 時雨音羽作詞、古賀政男作曲       1932.7
愛は紅い 佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲      1932.10
去りゆく影 西條八十作詞、古賀政男作曲       1932.12
初恋の唄  西條八十作詞、古賀政男作曲       1933.3



20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/30(Thu) 22:08
☆古賀政男の主な編曲曲

アリランの唄〈朝鮮民謡〉1932(佐藤惣之助作詞、古賀政男編曲)
(コロムビア27066/淡谷のり子・長谷川一郎=蔡奎Y)
  ・・ 日本で「アリラン」が歌になった最初の歌とされる。

二見情話(沖縄民謡)1932(西岡水朗作詞、補作詞 照屋朝保、古賀政男作曲、編曲 佐々永治)

ヨサホイ節 (鹿山鶯邨=鹿山鶯村作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1934年9月、永井松子=音丸、テイチク

会津磐梯山(佐藤惣之助作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1938年、音丸、 テイチクTEI907

のぞかれた花嫁(玉川映二作詞、古賀政男編曲、杉 狂児歌)(1935.8テイチク50055)(アメリカ民謡曲)

軍艦行進曲(鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、演奏 明治大学マンドリン倶楽部)1938.2

愛国行進曲(森川幸雄作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、歌 藤山一郎) テイチク1938.2発売、レコード番号 2074

荒城の月 (土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9コロムビアCOL100542)明大マンドリンクラブ演奏・・李香蘭が慰問先の戦地でいつも最初に歌った歌

宵待草 (竹久夢二作詞、多 忠亮作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9 COL100542)
明大マンドリンクラブ演奏

南の花嫁さん1943.1(藤浦洸作詞・古賀政男編曲、高峰三枝子歌)コロムビアレコード 100596。(原曲 1935任光「彩雲追月」)(藤浦洸作詞・古賀政男作編曲、高峰三枝子歌)

イッチョライ節 (福井音頭)」1962年 モノラル 作詞:西村爽 作曲:古賀政男. ... 島倉千代子・守屋浩





21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/30(Thu) 22:24

☆「荒城の月」について

「荒城の月」(『荒城月』)(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)は無伴奏で、実際聞けるのは編曲版。
 
 大正6年、三浦環の命で山田耕筰が編曲したのが最初で一般に歌われているのはこれ。
 SP時代、主な編曲版としては次のものがある。

 古賀政男編曲版は、李香蘭が、戦地慰問で歌ったもの。慰問では必ず最初にこの歌を歌ったという。


『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲





22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/30(Thu) 22:35

『荒城の月』(土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏 1942.9

昭和一六年一二月八日、日本はマレー半島に上陸し、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し太平洋戦争に突入した。昭和一七年五月には、李香蘭の歌唱によって《荒城の月》が古賀政男指揮、明大マンドリン倶楽部の演奏で吹込まれた。編曲は古賀政男が担当した。前奏はマンドリンのカデンツァで始まり、悲愴なマンドリンオーケストラの演奏で、李香蘭が哀感を込めて独唱している。 


この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンターで見れる。

h ttp://www.youtube.com/watch?v=iXxYruH3XNM

戦時中各地を慰問してまわった李香蘭、その李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。
戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。 そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、この昭和17年古賀政男編曲になるもの。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。

戦時中慰問先で、明日をも知れぬ数多くの無名の兵隊さんを前にして「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

「荒城の月」を、オペラでも歌うつもりか、何と勘違いしているのか、あらん限りの力を振り絞って、頭の芯に突き刺さるような激しい声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手の歌。
今、テレビではそんな思わず耳を覆いたくなるような場面も少なくない。ぜひこの映画を見せてあげたい。

(参考)You Tube
アップロード日: 2010/01/15

荒城の月 李香蘭 古賀政男編曲、明大マンドリンクラブ伴奏 
彼女の本格クラシック的歌唱力はロシアのオペラ歌手及び三浦環に師事した証と言えるモノで、とてもアイドルスターとしての美貌だけではなくしっかりとした素質と教育の賜物だと感心させられた一曲です。






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24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/01(Sat) 21:32
古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)

1930
 佐藤千夜子  「文のかをり」・・・「影を慕いて」など
1931
 関種子    「乙女心」・・・「窓に凭れて」など 
 天野喜久代  「チャッカリしてるわね」
 河原喜久恵  「月の濱邊(月の浜辺)」・・([キャムプ小唄]のB面)・・「町子姉妹の唄」
 藤山一郎   「キャムプ小唄」・・「影を慕いて」など
 淡谷のり子  「私此頃憂鬱よ」(「酒は泪か溜息か」のB面)・・「佳人よ何処へ」など
1932
 中野忠晴   「夜霧の港」・・・「高原の唄」など
1933
 ミス・コロムビア(松原操)・・・「「お蝶夫人」の唄」・・・「目ン無い千鳥」など
 松平晃   「サーカスの唄」・・「母立つ丘」など
1934
 楠木繁夫  「国境を越えて」・・「白い椿の唄」など
1935 
 ディックミネ 「二人は若い」・・「人生の並木路」など
1936
 奥田瑛子  「別れの歌」・・・・「緑の月」など
1937
 由利あけみ 「黒いパイプ」・・・「愛国六人娘」など
1939
 李香蘭   「さらば上海」・・ 「迎春花」など
 霧島昇   「新妻模様」・・・・「誰か故郷を想わざる」など
 伊藤久男  「波を越えて」・・・「熱砂の誓い」など
1940
 二葉あき子 「あの花この花」・・「新妻鏡」など
 奥山彩子  「蛇姫絵巻」-・・・「母立つ丘」など
 渡辺はま子 「りぼんむすめ」・・「サヨンの鐘」など
 菊池章子  「相呼ぶ歌」・・・・「なつかしの蕃社」など
1943
 近江俊郎   「明日もまた」・・・「勝利の日まで」など    


25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/01(Sat) 21:52
☆李香蘭の歌う古賀メロディ

さらば上海 (時雨音羽作詞、古賀政男作曲)李香蘭1939.9(初唱1932関種子)
紅い睡蓮     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1940.11
興亜三人娘 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)奥山彩子、李香蘭,白光1940.12
黒き宝       (西条八十作詞、古賀政男作曲) 李 香蘭 1941.6
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(霧島昇、松原操、李香蘭)1941.7
夜霧の馬車 (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
北京の子守唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
迎春花(インチュンホワ)(西條八十作詞 古賀政男作曲)李香蘭 1942
夕月乙女   (西條八十作詞、古賀政男作曲)   李香蘭 1942.7
花の生命      (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲) 霧島昇、李香蘭 1942.8
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫、李香蘭 1942.8

荒城の月(土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲)、明大マンドリンクラブ伴奏、李香蘭 1942.9 COL100542

宵待草  (竹久夢二作詞、多忠亮作曲、古賀政男編曲)李香蘭、明大マンドリンクラブ伴奏1942.9 COL100542

若き日の夢    (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1943.3
サヨンの歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1943.5


26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/01(Sat) 22:03
☆主な古賀メロディーの映画主題歌。・・


・松竹映画1931.2 「チャッカリしてるわね」(柳井隆雄原作) (無声  映画)
 主題歌 チャッカリしてるわね(西岡水朗作詞 天野喜久代歌)
  (映画と関係ないが、片面が関種子「乙女心」♪朧月夜のその頃に・・)
・松竹映画1931.10 「想い出多き女」 (無声映画)
 主題歌 酒は涙か溜息か〈高橋掬太郎作詞 藤山一郎歌〉
 挿入歌 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞 淡谷のり子歌)
・松竹 1931.11清水宏監督「青春図絵」(菊池寛 原作)
 主題歌 青春図絵の唄(貞子の唄)(菊池寛詩、関種子歌)
・入江プロ 1936「白衣(びゃくえ)の佳人」
 主題歌「白衣の佳人の唄」 (佐藤惣之助作詞 デックミネ歌)
・新興キネマ1931「姉」
 主題歌 丘を越えて(島田芳文作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 窓に凭れて(島田芳文作詞 関 種子歌)
・松竹映画1932.1野村芳亭監督「金色夜叉」(無声映画)
 主題歌 お宮の唄(佐藤惣之助作詩、関 種子歌)
・松竹映画1932.3 島津保次郎監督「勝敗」
 主題歌 町子姉妹の唄(菊地寛詩、河原喜久恵歌)
・日活映画1932.7「鳩笛を吹く女の唄」(無声映画)
 主題歌 鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、井上静雄(藤山一郎)歌)
・大衆文芸プロ映画社1932「佳人よ何処へ」
 主題歌 あけみの歌〈原阿佐緒作詞、関種子歌〉
 挿入歌 佳人よ何処へ(原阿佐緒作詞 淡谷のり子歌)
・日活映画1932「上海」
 主題歌 さらば上海(時雨音羽作詞 関種子歌)
・新興キネマ1932「スキーの唄」
 主題歌. スキーの唄(島田芳文作詞 藤山一郎歌)
・新興キネマ1935 「貞操問答」(菊池寛原作)
 主題歌 白い椿の唄(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)
・日活映画1935.10大谷俊夫監督「のぞかれた花嫁」
 主題歌 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞 杉狂児歌)
 挿入歌 二人は若い(玉川英二作詞 ディック・ミネ, 星 玲子.歌)
・日活映画1935阿部豊監督「緑の地平線」
 主題歌 緑の地平線(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)
 挿入歌 ゆかりの唄(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)
 挿入歌 夕べ仄かに (島田芳作詩、デックミネ歌)
・日活映画1936島耕二監督「情熱の詩人啄木」
 主題歌 啄木の唄(島田磬也作詞 楠木繁夫歌)
 挿入歌 春まだ浅く〈石川啄木作詩 有島通夫歌〉
・テイチク提携東宝映画(PCL映画)1936東京ラプソディ」
 主題歌 東京ラプソディ(門田ゆたか作詩 藤山一郎歌)
 挿入歌 東京娘(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 青春の謝肉祭(カーニバル)(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
・日活映画1936渡辺邦男監督「慈悲心鳥」
 主題歌 慈悲心鳥の唄(佐藤惣之助作詩 楠木繁夫歌)
 挿入歌 さらば青春(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
・日活映画1936渡辺邦男監督「魂」
 主題歌 男の純情(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 愛の小窓(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)
・日活映画1936千葉泰樹監督「女の階級」(吉屋信子原作)
 主題歌 女の階級(村瀬まゆみ作詞 楠木繁夫歌)
 挿入歌 回想譜(今城靖児作詞 藤山一郎歌)
・日活映画1936「うちの女房にゃ髭がある」
 主題歌 うちの女房にゃ髭がある(星野貞志作詞 美ち奴、杉狂児歌)
 挿入歌 ああそれなのに(星野貞志作詞 美ち奴歌)
・日活映画1937.1.14渡辺邦男監督「検事とその妹」〈竹田敏彦原作『検事の妹』〉
 主題歌 人生の並木路(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)(テイチク1200)
 挿入歌 聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
・日活1937「真実一路」(山本有三原作)
 主題歌「真実一路の唄」(佐藤惣之助作詞 楠木繁夫歌)
・東宝映画1937.7西條八十原作、「白薔薇は咲けど」
 主題歌 白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 緑の月(佐藤惣之助作詩、奥田瑛子歌)
・日活映画1938「人生劇場―残侠編」(尾崎士郎原作)
 主題歌 人生劇場(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)


27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/01(Sat) 22:13
・東宝映画1940.2.21渡辺邦男監督「春よいづこ」(川口松太郎原作)
 主題歌 春よいづこ(西條八十作詞 藤山一郎、二葉あき子歌)
 挿入歌 なつかしの歌声(西條八十作詞 藤山一郎、二葉あき子歌)
・東宝映画1940渡辺邦男監督「新妻鏡」(小島政二郎原作)
 主題歌 新妻鏡(佐藤惣之助作詞 霧島昇、二葉あき子歌)
 挿入歌 目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、霧島昇、ミス・コロムビア歌)
・松竹映画1940「愛の暴風」
 主題歌 相呼ぶ歌(西條八十作詞、霧島昇、菊池章子歌)
・東宝映画1940「蛇姫絵巻」
 主題歌 蛇姫絵巻(西條八十作詩、志村道夫、奥山彩子歌)
・新興キネマ1940「誰か故郷を想わざる」
 主題歌 誰か故郷を想わざる(西条八十作詞 霧島 昇歌)
・東宝映画1940.10渡辺邦男監督「熱砂の誓い」
 主題歌 熱砂の誓い〈建設の歌〉〈西條八十作詩 伊藤久男歌〉
 挿入歌 紅い睡蓮(西條八十作詞 李香蘭歌)
・東宝映画1941山本嘉次郎監督「馬」
 主題歌 馬(佐藤惣之助作詞 伊藤久男、菊池章子歌)
(「めんこい仔馬」は、この映画のために作られたのがだが映画には入らなかった。)
・東宝映画1941「歌えば天国」
 主題歌 歌えば天国(西條八十作詩、藤山一郎、古川ロッパ、二葉あき子歌)
   (古賀メロディーらしからぬジャズ調の曲です。)
 挿入歌 リンゴが紅い(サトウハチロー詩、藤山一郎、古川ロッパ、松原 操歌)
挿入歌 働こうぜ友よ (佐藤惣之助作詩、藤山一郎歌)
・日活映画1941「海の豪族」
 主題歌 海の豪族(佐藤惣之助作詩 伊藤久男歌)
・松竹・満映合作映画1942「迎春花」(インチュンホウ)
 主題歌 迎春花(西條八十作詞 李香蘭歌)
・映画「蘭花扇(らんかせん)」(1942 5月)
 主題歌 花白蘭の唄(李香蘭、楠木繁夫歌)
・大映映画1942「歌う狸御殿」
 主題歌 歌う狸御殿(サトウハチロー作詞、楠木繁夫、三原じゅん子歌)
 挿入歌 どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、楠木繁夫歌)
・松竹映画1943清水宏. 監督:「サヨンの鐘」
 主題歌 サヨンの鐘(西條八十作詞、渡辺はま子歌)(台湾名 月光小夜曲)
 挿入歌 サヨンの歌(西條八十作詞、李香蘭歌)
 挿入歌 なつかしの蕃社(西條八十作詞、霧島昇、菊池章子歌)


28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/01(Sat) 22:21
・大映映画1943「青空交響楽」(サトウハチロ‐原作)
 主題歌 青い牧場(サトウハチロー作詞 藤山一郎、奈良光枝歌)
 挿入歌 故郷の白百合(サトウハチロー作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
・東宝映画1944「あの旗を撃て」
 挿入歌「雲のふるさと」(大木惇夫作詩、伊藤久男歌)(1946年NHK「ラジオ歌謡」)
・東宝映画1945.1成瀬 巳喜男監督「勝利の日まで」(サトウハチロー脚本)
 主題歌 勝利の日まで(サトウハチロー作詞 波平暁男、近江敏郎他歌)他
 挿入歌 祖国の花(サトウハチロー作詞、轟由紀子、奈良光枝歌)
 挿入歌 硬い約束(サトウハチロー作詞、三原じゅん子歌 )
・東宝映画1946渡辺邦男監督「麗人」(佐藤紅緑原作『麗人』再映画化)
 主題歌 麗人の歌(〈西條八十作詞 霧島 昇歌〉
・大映映画1946「或る夜の接吻」
 主題歌 悲しき竹笛(〈西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉
・東宝映画1947「こころ月の如く」
 主題歌 こころ月の如く〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
 挿入歌 旅の舞姫(〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
・新東宝映画1948渡辺邦男監督「あの夢この歌」(西條八十「唄の自敍傳」より)
 主題歌 あの夢この歌〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
・東宝映画1948市川崑監督「三百六十五夜」(小島政二郎原作)
 主題歌 三百六十五夜〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
 挿入歌 恋の曼珠沙華〈西條八十作詞 二葉あき子歌)
・新東宝映画1948 「湯の町悲歌」
 主題歌 湯の町エレジー(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)
・新東宝映画1949野村浩将監督「影を慕いて」(古賀政男原案)
 主題歌 影を慕いて(古賀政男作詞、藤山一郎歌)
・新東宝映画1949 「夢よもう一度」
 主題歌 夢よもう一度(西條八十作詩 二葉あき子歌)
 挿入歌 愛の灯かげ(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)


玉川英二、星野貞志はサトウハチロ‐の変名。



29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/01(Sat) 22:30
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/02(Sun) 07:55
関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 - 1990年(平成2年)6月6日)は昭和期のソプラノ歌手。本名秋山種子。

岡山県出身。小学生の頃から琴に親しみ、上京後、府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。また、1935年(昭和10年)には新興映画「突破無電」の主題歌「雨に咲く花」がヒット。
1936年(昭和11年)、国民歌謡が始まると奥田良三らと共に、しばしば歌唱指導に起用された。1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍し、「じゃがたら文」「初恋の丘」「明日なき恋」「千人針」「戦陣訓の歌」などをレコーディングしている。一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。


31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/02(Sun) 07:57
関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男氏コロムビア専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディング。1932年の『朝顔の唄(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌唱)』は、古賀氏が「ヒットにならないかもしれないが、良い歌を作ってみたい」と佐藤氏に伝え発表された曲。1934年に古賀氏がコロムビアからテイチクへ移籍。1935年『雨に咲く花(高橋掬太郎作詩・池田不二男作曲編曲)』ヒット直後、歌詩内容が「感傷的すぎる」とプレス中止。関さんはコロムビアでの歌手活動に消極的となったようです。当時、東京音
楽学校出身の方々が歌謡曲を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば伊庭孝氏は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない」。伊庭氏は音楽評論家でもあり、幅広い分野のエンターテイメント・アーティストを応援なさった方。伊庭氏のコメント内容は、かつて「浅草オペラ」に音楽学校関係者の大きな批判があったことも元となってるんではないでしょうか。また、四家さんは西条八十氏の作品をビクターで多数レコーディング。伊庭氏「『東京行進曲』のような唄が流行るから、大衆の音楽が荒れる」。西条氏「はやりうたは、大衆が支持するから流行る。私の作品を批判するなら、大衆を批判するべきだ」。伊庭氏と西条氏は仲が良くなかった。関種子さんは、東洋音楽学校声楽科教授だった1937年に日本ポリドール専属。『じゃがたら文(大木惇夫作詩・阿部武雄作詩作曲・関種子歌唱)』は独特な雰囲気です。また、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディング。



32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 10:26
関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 - 1990年(平成2年)6月6日)は昭和期のソプラノ歌手。本名秋山種子。

岡山県出身。小学生の頃から琴に親しみ、上京後、府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。また、1935年(昭和10年)には新興映画「突破無電」の主題歌「雨に咲く花」がヒット。
1936年(昭和11年)、国民歌謡が始まると奥田良三らと共に、しばしば歌唱指導に起用された。1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍し、「じゃがたら文」「初恋の丘」「明日なき恋」「千人針」「戦陣訓の歌」などをレコーディングしている。一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。


33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 10:37
☆関 種子と「古賀メロディ」

初期の「古賀メロディ」を支えた歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。

乙女心    (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵の唄(貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931.12
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932.1,
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から  (浜田広介作詩、 古賀政男作曲) 1932.3
秘めたる恋   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海  (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌   (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
愛は紅い    (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影  (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
初恋の唄   (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲) 1933.3




乳姉妹の唄 (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲) 1932.6
夢に泣く    (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1934.2
流れの乙女   (佐藤惣之助作詩、竹岡信幸作曲) 1934.12
雨に咲く花   (高橋掬太郎作詩、池田不二男作曲)1935
野薔薇の歌  (佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲 1936国民歌謡
明日なき恋  (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1937
初恋の丘   (藤田まさと作詩、長津義司作曲) 1937.5
千人針 (サトウハチロー作詞、 長津義司作曲) 1938

・関種子
 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90






34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 10:46
SP歌謡は、今危機にあると思います。昭和も遠くなりにけりとなって、「SP歌謡」を知る人も少なくなっていると思います。歌もハッピーなものばかり。テレビの歌番組で「昭和」とは、昭和の末、50年代以降のようですし、歌える歌手も居なくなった。

今こそ、このSP歌謡文化遺産を正しく残して行くことが大切です。


さて今、この状況を象徴するかのように、時々[花は・・]という復興支援ソングと言うのが聞こえてきます。地震直後から放影されていたものですが、でもこの歌には何か大切なものが抜けているのではないだろうか。


花が無くという大震災・大津波の被災とは不釣り合いな、ハッピ−な軽い文句ばかり、何の歌なのかもよくわからない。

遭難、避難された多くの人々があって、やはりその事実、悲しみ、嘆きに寄り添うことなしに、軽々しく復興支援ソングなどといってもらいたくないでしょう。


そんな中、震災直後からYou Tubeに、関種子歌唱 古賀メロディ「嘆きの夜曲」で、解説にはこうあります。・・

嘆きの夜曲 関種子 公開日: 2012/03/05    (*)
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。・・


80年前の古いレコード、それが80年後に起こったこの大震災・大津波(の憂い)をも予期したかのように包含していて、その鎮魂歌としてもぴったりするのは驚きです。(検索は*で)

短いフレーズのなかに、的確に、嘆き、苦しみを凝縮しているようで、詞もメロディーも、シンプルなゆえにかえって、時代を超えて、その事象に対する普遍性を保持して歴史の重みを感にさせる、名曲の名曲たるところで、すごいことです。


憂い,哀しみを歌ったら右に出るものは無い古賀メロディ、時代を超えて生き続ける理由もここにあるといえるでしょう。


35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 10:56
嘆きの夜曲

詩: 西岡水朗

曲: 古賀政男



呼んでみたとて かえらぬ人よ 
なぜに儚い 夢じゃやら
  
想いつかれて 心に秘めて 
暮れりゃ寂しい 雪ばかり 

泣いてみたとて かえらぬ恋よ 
なぜに尽きせぬ 涙やら

灯影つめたく 愁いはながく
絃(いと)のすさびも 嘆(な)くばかり






36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 11:27
昔、昭和戦前の流行歌の歌手は、殆ど東京音楽学校〈現在の東京芸術大学(音楽学部)の前進)その他の音楽学校出身者だった。

河原喜久恵、四家文子、徳山l(たまき)、関種子、藤山一郎(増永丈夫)、楠木繁夫、松原操(ミス・コロムビア)、二葉あき子などのように官製の東京音楽学校出身。四家文子、関種子、藤山一郎(増永丈夫)などは首席卒業だった。

その歌声を聴けばすぐわかる。

昭和3年,「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」、彗星のように大衆の中に浸透していった「古賀メロディ」が、やがて晋平の時代を引き継いで、さらに大衆の中に新しい時代を作り上げていくことになる。

そして、晋平の時代と「古賀メロディ」の時代を繋ぐ歌手がレコード歌手第一号・佐藤千夜子といえるだろう。その歌はさらに若い優れた歌手によって引き継がれていくのだ。

あの誰もマネのできない底辺に一種独特の哀調を帯びたその一連のメロディ、それが「古賀メロディ」と呼ばれるようになるのは昭和の初めである。

その「古賀メロディ」を世に広めた大きな功績は、佐藤千夜子とその後、それを引き継いだ藤山一郎や関種子などをはじめとした若き名歌手たちだった。

そういう意味で、後に「古賀メロディ」と呼ばれることになる「晋平節」とは異なる新しい新鮮な「歌謡曲」の分野で核となる古賀正男という一苦学生を世に送り出す上で決定的役割を果たした佐藤千夜子。

同時に、佐藤は自分が外国に勉強に行くことで結果的に、実際そうであったように古賀を中心に「歌謡曲」という新分野で若い後進声学家たちに、広く活躍の場を与え、結集させることに大きな功績があったと考えられる。

佐藤の昭和歌謡史上に果たした役割と功績は誠に大きいと言わなければならないといえるだろう。

関種子は、黎明期の日本の歌謡の歴史の中で、藤山一郎とともに佐藤千夜子に始まる古賀メロディを支え発展させた歌手として、藤山一郎とともに忘れてはならない名歌手でしょう。




[影を慕いて][日本橋から][片想い]については、ビクターの佐藤千夜子の後、コロムビアで藤山一郎、関種子によって歌い継がれた。

「影を慕いて」(昭和7年)藤山一郎
「日本橋から」(昭和7年)関種子
「かた思い」(片想い)(昭和7年)関種子

後に『古賀メロディ』と呼ばれる一連の今に残る多くの殊玉の名曲は、藤山一郎や関種子など音楽学校出身の優れた歌手・声学家によって支えられたといえるでしょう。

藤山一郎や関種子の流行歌デビューは、古賀政男のコロムビア専属作曲家としてのデビュー(昭和6年)そのものです。

関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディングしている、藤山一郎と共に『古賀メロディ』を語る上で無くてはならないかけがえのない歌手である。

・昭和の歌手シリーズ『関種子』
ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html

音楽学校出身の方々が「歌謡曲」を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば音楽評論家・伊庭孝は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない。」と猛烈に批判した。

そういう中で、関種子は、東洋音楽学校声楽科教授だった昭和12年(1937年)に、コロムビアから日本ポリドール専属となる。以後もずっとポリドールで活躍、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディングしている。




37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 11:43
☆古賀メロディと霧島昇

日本歌謡史に燦然と輝く古賀メロディー。「古賀メロディ」と言えば霧島昇、霧島昇と言えば《誰か故郷を想わざる》。

霧島昇は、藤山一郎、関種子、ディックミネ、松平晃、楠木繁夫、伊藤久男、李香蘭などとともに、古賀メロディをささえた代表的な名歌手の一人である。

霧島昇がコロムビアレコード専属歌手となったのは昭和11年である。

苦学しながら東洋音楽学校(現、東京音楽大学)を卒業。藤山一郎がビクターから、古賀政男のテイチクへ変わった昭和11年、テイチク黄金時代と言われる中、コロムビアはポリドールの東海林太郎の対抗馬としてデビューさせ、翌年「赤城しぐれ」(竹岡信幸作曲)がヒット。

昭和13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を、既にスターだった、ミス・コロムビア(本名松原操)とコンビで歌い、あっという間にスターの階段を上り詰めた。


昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米、昭和14年10月10日に帰国。

アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。

これを皮切りに、《新妻鏡》《目ン無い千鳥》《相呼ぶ歌》などの古賀メロディのヒットに恵まれ、戦後にかけて《誰か故郷を想わざる》など主に「古賀メロディ」を多く歌い広めている事で知られる。

「古賀メロディ」の名曲である「三百六十五夜」は、「愛染かつら」の「旅の夜風」で結ばれた霧島昇と、もとミス・コロムビアの松原操夫妻で歌った最後の曲で、以後、松原操は家庭に入り育児に専念、音楽シーンに顔を出すことはなかった。



☆霧島昇の代表曲(古賀メロディ)

誰か故郷を想わざる(西條八十作詞、古賀政男作曲)        1940.2
新妻模様      (久保田省二作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1940.3
新妻鏡 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子)1940.6
目ン無い千鳥 (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(ミス・コロムビア)1940.6
相呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲) (菊池章子) 1940.9
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操、李香蘭)1941.7
山の凱歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男)   1941.6
思い出の記    (大木惇夫作詞、古賀政男作曲)   1941.12
素晴らしき首途 (西條八十作詞、古賀政男作曲)    1942.5
花の生命     (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲)(李香蘭) 1942.8
故郷の白百合   (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(松原操) 1943.2
なつかしの蕃社  (西條八十作詞、 古賀政男曲)(菊池章子) 1943.5
勝利の日まで(NHK版) (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)   1944.6

麗人の歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
旅役者の唄    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
裏町セレナーデ  (野村俊夫作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1946
旅の舞姫     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1947
高原の乙女     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
あの夢この歌   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1948
三百六十五夜    〈西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1948.9
母を呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(高峰三枝子) 1949
希望に燃えて   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男他)  1949
ギタ‐月夜     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1952
白虎隊(詩吟 荒国誠)(島田磬也作詞、 古賀政男作曲)    1952









38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 11:57
◇戦後の主な古賀メロディ・・

圧倒的に西條八十が多い!。


麗人の歌     1946(〈西條八十作詞 霧島 昇歌〉
悲しき竹笛    1946(〈西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉
こころ月の如く  1947〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
旅の舞姫     1947(〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌
嘆きの小鳩    1947 (西條八十作詞、藤山一郎歌)
あの夢この歌   1948〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
三百六十五夜   1948〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
恋の曼珠沙華   1948〈西條八十作詞 二葉あき子歌)
湯の町エレジー  1948(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)
雨の夜汽車    1948(西條八十作詞、奈良光枝歌)
待ちましょう   1948(西條八十作詞、松田トシ歌)
トンコ節     1948(西條八十作詞、久保幸江歌)
誰に恋せん    1948(藤浦洸作詞、 高峰三枝子歌)(大映映画「誰に恋せん」主題歌)
友情の歌     1948(藤浦洸作詞、藤山一郎歌)  (大映映画 『誰に恋せん』挿入歌)
なつかしのヴエノスアイレス1948(藤浦洸作詞、二葉あき子歌)
シベリヤエレジー 1948(野村俊夫作詞、伊藤久男歌)
愛の灯かげ    1949(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)
夢よもう一度   1949(西條八十作詩 二葉あき子歌)
希望に燃えて   1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング/新東宝映画「影を慕いて」より)(*)
(サトウハチロー作詞、伊藤久男、霧島昇、近江俊郎、二葉あき子、奈良光枝、高倉敏歌)
湯の町夜曲    1949(野村俊夫作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』主題歌)
たそがれの湖   1949(西條八十作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』挿入歌)
赤い靴のタンゴ  1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)
嘆きの孔雀    1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)(新東宝映画「処女宝」主題歌)
愛のカレンダー  1951(西條八十作詞、藤山一郎歌)
青いガス燈    1951(野村俊夫作詞、岡本敦郎歌)
夜の湖      1952(藤浦洸 作詞、藤山一郎歌)
ギター月夜    1952(西條八十作詞、霧島昇歌)
富士エレジー   1952(西條八十作詞、青木光一歌)
ゲイシャワルツ  1952(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
ザビエルの鐘   1953(西條八十作詞、青木光一歌)
見ないで頂戴お月様1953(野村俊夫作詞、神楽坂はん子歌)
長崎ブルース   1954(藤浦洸 作詞、山一郎歌)
湖畔のギター   1954(野村俊夫作詞、霧島昇歌)
おらんだ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよこ歌) (映画「春色お伝の方」挿入歌)
湯の町椿     1954(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
渚の子守歌    1954(西條八十作詞、織井茂子歌)
浪花ばやし    1954(西条八十作詞、青木光一神楽坂歌)
オランダ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよ子歌)
ピレネエの山の男 1955(西條八十作詞、岡本敦郎歌)
娘船頭さん    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌)(松竹キネマ「娘船頭」主題歌)
シクラメン咲けど 1955(西條八十作詞、奈良光枝歌) (映画「暁の合唱」主題歌)
りんどう峠    1955(西條八十作詞、島倉千代子歌)
花のゆくえ    1955(門田ゆたか作詩、及川由子歌)(ラジオ東京『花のゆくえ』主題歌)
怒涛の男     1955(野村俊夫作詞、美空ひばり歌)  (映画「力道山物語」主題歌)(原曲「櫛巻きくずし」)
都に花の散る夜は 1955(丘灯至夫作詞、青木光一歌) (原曲は「さらば青春」)
逢わないで      (西條八十作詞、山本富士子歌)
恋の曽根崎    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌) (『曽根崎心中』より)
お染久松     1955(西条八十作詞、空ひばり歌)
乙女心の十三夜  1956(西條八十作詩、島倉千代子歌) (映画「乙女心の十三夜」主題歌)




39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 12:12
169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 12:13
青春サイクリング 1956(田中喜久子作詞、小坂一也歌)
馬喰一代     1957(野村俊夫作詞、村田英雄歌)
思い出さん今日は 1958(星野哲郎作詞、島倉千代子歌)
無法松の一生   1958(吉野夫二郎作詞、村田英雄歌)
夜の酒場     1958(西條八十作詞、宝田明歌)
白い小ゆびの歌  1960(関沢新一作詞、島倉千代子歌)
雪之丞変化    1963(西條八十作詞、美空ひばり歌)
遊侠街道     1964(西條八十作詞、美空ひばり歌)
東京五輪音頭   1964(宮田隆作詞、 三波春夫歌)
柔        1964(関沢新一作詞、美空ひばり歌)
悲しい酒     1966(石本美由起作詞、美空ひばり歌)
我が心の歌    1968(古賀政男作詞、アントニオ古賀歌)
銀座音頭     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
若い銀座     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
(明治百年大銀座祭記念作品、「銀座音頭」とともに西條八十最晩年の作品でもある。)
浜昼顔      1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母   1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)


*「古賀政男作品集 希望音楽会による古賀政男作曲集( ハーモニカ譜付)」新興音楽出版社/全音楽譜出版社, 1949頃







40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 12:29
◇李香蘭と古賀メロディ

李香蘭〈山口淑子)は、戦前、日本人でありながら、李香蘭という名前の中国人歌手・女優として一世を風靡した人です。1920年に中国の撫順で日本人の両親に間に生まれますが、父の親友の中国人有力者の養女になり、李香蘭という名前を与えられます。

13歳のとき、同い年の白系ロシア人の娘リューバに紹介されたのが、亡命オペラ歌手、マダム・ポドレソフだった。彼女について声楽を学んだ淑子は歌の才能を見事に引き出され、やがて前座としてステージに上がり、ラジオで紹介されるまでに。


『私の半生』によると、李香蘭は元来、体が丈夫でなく、肺浸潤を患って半年休学し、自宅静養する彼女を励ましてくれた、リューバ・モノソファ・グリーネッツという、ユダヤ系の白系ロシア人少女が同級にいた。そのリューバが、病弱の李香蘭に呼吸器をきたえる健康法として、「クラシック歌曲」を習うことをすすめ、知り合いのマダム・ポドレソフを紹介してくれたおかげで、のちの彼女があるといっている。

マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては申し分なしだったと思います。

『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。

また、李香蘭は三浦環に師事した事でも知られる。

こうしたことが、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。COL100542 荒城の月/宵待草 李香蘭

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見ることができる他、国立近代美術館フィルムセンターでもみれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だったという。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏

李香蘭は、コロムビアで昭和15年10月に発売された「紅い睡蓮」によってはじめてレコード歌手として花開いた。 「紅い睡蓮」は、西条八十作詞、古賀政男作曲の古賀作品で、大陸三部作の第3作『熱砂の誓ひ』の挿入歌。

いろいろ歌っているが、李香蘭は、「紅い睡蓮」のほか、「夜霧の馬車」「迎春花」「北京の子守歌」「サヨンの歌」など古賀作品と関係が深い。

(参考資料)
山口淑子『「李香蘭」を生きて』日本経済新聞社(2004)
羽田令子『李香蘭、そして私の満州体験 日本と中国のはざまで』社会評論社(2006)
山口淑子、藤原作弥『李香蘭 私の半生』新潮文庫(1990)



41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 12:34

☆李香蘭の歌う古賀メロディ

さらば上海   (時雨音羽作詞、古賀政男作曲)李香蘭1939.9(初唱1932関種子)
紅い睡蓮     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1940.11
興亜三人娘   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)奥山彩子、李香蘭,白光1940.12
黒き宝     (西条八十作詞、古賀政男作曲) 李 香蘭 1941.6
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(霧島昇、松原操、李香蘭)1941.7
夜霧の馬車    (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
北京の子守唄  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1941.11
迎春花(インチュンホワ)(西條八十作詞 古賀政男作曲)李香蘭 1942
夕月乙女    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1942.7
花の生命    (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲) 霧島昇、李香蘭 1942.8
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫、李香蘭 1942.8

荒城の月(土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲)、明大マンドリンクラブ伴奏、李香蘭 1942.9 COL100542

宵待草  (竹久夢二作詞、多忠亮作曲、古賀政男編曲)李香蘭、明大マンドリンクラブ伴奏1942.9 COL100542

若き日の夢    (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1943.3
サヨンの歌    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1943.5






42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 12:46
5000曲とも言われる古賀政男の、昭和3年から53年に亡くなるまでの半世紀にわたる作品群には、実にたくさんの作品が有り驚かされます。

その中に、昭和17年の「荒城の月」編曲があり、李香蘭のSPレコードが、You Tube やCD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]〈CD16枚〉などで聴くことができます。

「荒城の月」といえば、藤原義江や三浦環、山田耕筰。古賀政男自伝『わが心の歌』〈展望社1965初版〉には、藤原義江は古賀政男が昭和13年11月、外務省音楽親善文化使節としてアメリカに派遣されるにあたって見送るなど、三浦環や藤原義江と古賀政男とは信頼と親交が有ったことが、写真とともにあります。

また、山田耕筰は外国人に日本の音楽を紹介するのに、よく古賀政男の「丘を越えて」を紹介していたといいます。

以下一見関係がなさそうで深い関係が有る、古賀政男と「荒城の月」について参考に。


※古賀政男と「荒城の月」

「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)という歌は、現在の東京芸術大学〈音楽学部〉の前身である「東京音楽学校」主導で中学の音楽教科書のためにつくられた。

明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされる。

明治44年、師である瀧廉太郎が日本最初にドイツに留学するにあたって、門下生である三浦環は、送別演奏会で「荒城の月」(『荒城月』)を歌った。

当時は「歌曲」と言えば外国曲(でなければばらない)とうのが一般的風潮だった中で、昭和3年、藤原義江によってビクターで吹き込まれたのが「荒城の月」レコードの最初。

哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。

世界で活躍していた我等のテナー「藤原義江」は、どこの国に行っても自分の生れた国の歌も歌えないようでは相手にされないとして、率先して日本の歌曲を歌い広めた事でしたれる。

三浦環の「歌姫は強き愛国心をもたざれは」に通ずることだ。

他に、藤原義江は山田耕筰の「この道」その他や、弘田龍太郎の「叱られて」「浜千鳥」などをレコードにしている。

『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたというものではないが、つい30年前「明治維新」 における日本の内戦である戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜- 明治2年(1868年 - 1869年))と無関係ではないのだ。

武家の「栄枯盛衰」とそれに伴う「無常感」が滲んだ詩は、お寺の「講話」にも使われている。
「荒城の月」は、1898(明治31)年、土井晩翠は会津の「鶴ヶ城」をイメージして造られたものだと土井晩翠自身が語っている。(※)

※土井晩翠が1927年6月29日滝廉太郎45年祭で語り、放送された。

幼い頃から父と祖父から戊辰戦争における会津の悲劇と仙台から見た会津の英雄伝をたくさん聞かされて育った晩翠。

そして二高の時、明治維新後、落城したまま、ほったらかされていた「鶴ヶ城」に行き、悲惨な戦争の跡地から月を見て、なんとも儚い想いを詩にした晩翠の詩、それに子供のころを過ごした・大分県竹田の「岡城」から曲を着想した滝廉太郎の作曲がおりなす「荒城の月」。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが昭和17年古賀政男編曲になる。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「荒城の月」をオペラでも歌うつもりか、頭の芯に突き刺さるような高い声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手が今、少なくないが、戦時中慰問先で「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンター、歌は以下に含まれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏


なお、滝廉太郎作曲「荒城の月」の原曲は無伴奏で、以下「山田耕筰編曲版」、「本居長世編曲版」、「橋本国彦編曲版」、それに、李香蘭が戦地で歌った「古賀政男編曲版」がある。




1

43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 12:54
☆「荒城の月」について

『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲(歌李香蘭)


☆(参考)「荒城の月」 SP時代の主な名盤

 1928.02 藤原義江 VIC1175赤盤

 1931,01 萩野綾子 VIC13109赤盤         (橋本国彦編曲版)

 1931,02 奥田良三 POL631631

 1933.05 四家文子 VIC52673

 1933.07 増永丈夫(藤山一郎)VIC52756      (橋本国彦編曲版)

 1936.01 関屋敏子 VIC13452赤盤

 1937.10 藤原義江 VIC13527赤盤

 1942.09 李香蘭  COL100542 @赤盤(スダレ)   (古賀政男編曲版)


(参考)古賀政男編曲「荒城の月」CD

・CD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]日本コロムビア
 発売日:1998年7月18日  CD16枚、
(荒城の月 ;No,16−14)
ttp://joshinweb.jp/dp/4988001187691.html
  ttp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA349020/

・CD「夜霧の馬車 山口淑子 (李香蘭) 」1990 COCA-71089
 15.宵待草   李香蘭 古賀政男編曲、 明大マンドリンクラブ演奏
 16. 荒城の月 山口淑子 (李香蘭)(歌); 作詞 土井晩翠; 作曲 滝廉太郎; 編曲 古賀政男 明大マ ンドリンクラブ演奏
ttp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA318749/





44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 13:09
☆楠木繁夫の代表曲

国境を越えて  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1934.8
男ごころ    (西岡水朗作詞、 古賀政男作曲) 1934.8
白い椿の唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.3
希望の花束 (不詳、古賀政男作曲)      1935.4
ハイキングの唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1935.5
山は微笑む (小西民治作詞、 古賀政男作曲) 1935,8
男のまごころ (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
緑の地平線   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11
啄木の歌    (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1936.4
慈悲心鳥の唄  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.7
護れ国境    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.11
女の階段    (村瀬まゆみ=島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936.12
丹下左膳の唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫歌 1937.1
スキ‐の唄    (島田芳文作詞 、 古賀政男作曲) 1937.3
やすらいの唄 (百田宗治作詞、 古賀政男作曲)1937.3(1947.12 NHKラジオ歌謡)
嬉しい仲     (テイチク文芸部作詞、古賀政男作曲)(美ち奴)    1937.5
のばせばのびる (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)        1937.7
真実一路の唄 (佐藤惣之助作詞、 古賀政男作曲)        1937.8
時代の霧   (門田ゆたか作詞、 古賀政男作曲)        1937.12
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲)(ディックミネ) 1938.1
人生劇場   (佐藤惣之助作詞、 古賀政男作曲)        1938.6
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、 古賀政男作曲)(李香蘭)    1942.8
どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)        1942.12
歌う狸御殿   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(三原純子)1942.12
月の小島 (西條八十作詞、 古賀政男作曲)         1942.12
戦いの街に春が来る(西條八十作詞、古賀政男作曲)(菊池章子) 1943.3
明けゆく蒙古  (佐藤惣之助作詞、 古賀政男作曲)        1943.3
夏子の歌    (西條八十作詞、 古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1943.10
いさおを胸に (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲)(松原操)1944.11
カボチャの歌  (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1944.11











147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:41
☆古賀メロディと霧島昇

日本歌謡史に燦然と輝く古賀メロディー。「古賀メロディ」と言えば霧島昇、霧島昇と言えば《誰か故郷を想わざる》。

霧島昇は、藤山一郎、関種子、ディックミネ、松平晃、楠木繁夫、伊藤久男、李香蘭などとともに、古賀メロディをささえた代表的な名歌手の一人である。

霧島昇がコロムビアレコード専属歌手となったのは昭和11年である。

苦学しながら東洋音楽学校(現、東京音楽大学)を卒業。藤山一郎がビクターから、古賀政男のテイチクへ変わった昭和11年、テイチク黄金時代と言われる中、コロムビアはポリドールの東海林太郎の対抗馬としてデビューさせ、翌年「赤城しぐれ」(竹岡信幸作曲)がヒット。

昭和13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を、既にスターだった、ミス・コロムビア(本名松原操)とコンビで歌い、あっという間にスターの階段を上り詰めた。


昭和13年11月8日にテイチクか

45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 13:22
☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)

恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(川畑文子)1935.6
望郷の唄 (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに   (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ   (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫)  1938




46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 13:31
☆昭和SP歌謡  主な歌手(戦前・戦中) 1,

「昭和」と言う、まだ日本がまだ草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、レコード歌謡が花開き、人々に迎えられたのです。SPレコードの時代です。
その歌手の多くは音楽学校出身者でした。以下にその主な歌手と主な歌を。

佐藤千代子(1897-1968)(東京音楽学校)波浮の港、東京行進曲、当世銀座節、
レコード歌手第一号、大正から昭和の初めにかけて、中山晋平の歌を世に広めた歌手です。古賀政男の才能を発見したことで、日本の大衆音楽史の中で忘れてはならない歌手です。
童謡、新民謡、歌曲、歌謡曲、新日本音楽など100曲を超えるレコードを残しいている。


藤原義江(1898−1976)  出船の港、 波浮の港、鉾をおさめて、出船,特幹の歌
二村定一(1900-1948)   私の青空、アラビアの唄、君恋し、神田小唄
内海一郎(宇津美清)(1898―1972)(東京音楽学校)道頓堀行進曲、銀座行進曲
天野喜久代(1897-1945)(帝劇歌劇部)私の青空、アラビアの歌、チャッカリしてるわね
曽我直子(1905−1995)  (東洋音楽学校)蒲田行進曲、沓掛小唄、明眸花の唄、
藤本二三吉(1897-1976)     祇園小唄、唐人お吉小唄(明烏篇)
河原喜久恵(1902-1997) (東京音楽学校)麗人の唄、月の浜辺、無憂華の唄
四家文子(1906−1981) (東京音楽学校)銀座の柳、踊り子の唄、不壊の白珠
徳山l(たまき)(1903−1942)(東京音楽学校)侍ニッポン、天国に結ぶ恋、隣組
関 種子(1907-1990)  (東京音楽学校)窓に凭れて、嘆きの夜曲、あけみの唄、
藤山一郎(1911-1993)  (東京音楽学校)酒は涙か溜息か、丘を越えて、影を慕いて
松平晃(1911-1961)   (東京音楽学校)サーカスの唄,望郷の唄、人妻椿
淡谷のり子(1907-1997) (東洋音楽学校)私この頃憂鬱よ、佳人よ何処へ
羽衣歌子(1902−1979) (東洋音楽学校)女給の唄、
中野忠晴(1909-1970) (武蔵野音楽学校)山の人気者、高原の唄、歓喜(よろこび)の歌
ミス・コロムビア(松原操) (1911−1984)(東京音楽学校) 十九の春、旅の夜風、目ン無い千鳥
楠木繁夫(1904-1956)  (東京音楽学校)緑の地平線、女の階級、人生劇場
新橋喜代三(1903-1963)    明治一代女、 酋長の娘
和田春子(渡辺光子)(1906−2003)幌馬車の唄、強くなってね、
二葉あき子(1915-2011) (東京音楽学校)あの花この花、新妻鏡、春よいづこ
小唄勝太郎(1904-1974) 島の娘
東海林太郎(1898-1972) 赤城の子守唄,国境の町、すみだ川,旅笠道中、野崎小唄
上原  敏(1908-1944)  妻恋道中、裏町人生、流転
児玉好雄(1909-1986)  無情の夢 
林伊佐緒(1912-1995)  出征兵士を送る歌
美ち奴 (1918〜1996)  ああそれなのに、うちの女房にゃ髭がある
杉狂児(1903−1975)  (東京音楽学校)うちの女房にゃ髭がある
由利あけみ(1913-) (東京音楽学校)黒いパイプ、愛国六人娘、茶坊の花、長崎物語、
ディック・ミネ(1908−1991)二人は若い、愛の小窓、人生の並木路、ゆかりの唄
霧島昇(1914-1984)   (東洋音楽学校)誰か故郷を想わざる,新妻鏡、旅の夜風
李香蘭(1920−)  迎春花、紅い睡蓮、夜霧の馬車、サヨンの歌、蘇州夜曲
奥田瑛子(1907- ) 緑の月、別れの歌、南国の乙女、浜辺の哀唱
奥山彩子(1916-)    (東洋音楽学校) 蛇姫絵巻,母立つ丘、興亜三人娘
菊池章子(1924--2002)  (東洋音楽学校)相呼ぶ歌、愛馬花嫁、馬、湖畔の乙女
渡辺はま子(1910-1999) (武蔵野音楽学校)サヨンの鐘,蘇州夜曲、夏子の歌
三原純子(1920−1959)  南から南から、固い約束
市  丸(1906−1997)   天竜下れば、濡れつばめ
松島詩子/千早淑子(1905-1996)  マロニエの木陰、夕べ仄かに 
伊藤久男(1933-1983) (帝国音楽学校)暁に祈る、白蘭の歌、熱砂の誓い(建設の歌), 馬




47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 13:37
志村道夫(1914-)     (東京高等音楽学院) 蛇姫絵巻
有島通男(1911-)    (東洋音楽学校)春まだ浅く
小林千代子(1910−1976) (東洋音楽学校)涙の渡り鳥、 旅のつばくろ
小夜福子(1909-1989)    (宝塚音楽歌劇学校)小雨の雨
高峰三枝子(1918-1990)  純情二重奏、南の花嫁さん、湖畔の宿
能勢妙子(1915-1999)   あなたなしでは
伏見信子(1915−)    あの夢この夢、花言葉の唄、初恋日記
北廉太郎(1920-1940)   潮来夜船,青春の丘
奈良光枝(1923-1977)   青い牧場、祖国の花、勝利の日まで
井口小夜子(1914-2003) (武蔵野音楽学校) 乙女十八,ねんねのお里、
轟由紀子(1917−1967) (宝塚音楽歌劇学校) お使いは自転車に乗って、 祖国の花
波平暁男(1915−1983) (東京音楽学校)    月夜船、勝利の日まで
近江俊郎(1918−1992) (武蔵野音楽学校)   明日もまた、勝利の日まで
灰田勝彦(1911−1982)  煌く星座、鈴懸の径
高田浩吉(1911−1998)  大江戸出世小唄、故郷の唄
田端義夫(1919−2013)  大利根月夜、シンガポールだより  
小畑 実(1923−1979)  勘太郎月夜唄,湯島の白梅
岡晴夫 (1916-1970)   上海の花売り娘、港シャンソン


(参考)
東京音楽学校  (現 東京藝術大学音楽学部)
東洋音楽学校 (現 東京音楽大学)
武蔵野音楽学校(現 武蔵野音楽大学)



追加
内田栄一(1901−1985) (東京音楽学校) 起てよ一億
中村淑子(1911− ) (東京音楽学校) 愛国行進曲、日の丸行進曲
伊藤武雄(1905-1987) ) (東京音楽学校) 愛馬進軍歌
酒井 弘(1914-1996) (東京音楽学校) ああ紅の血は燃ゆる、働く力
波岡惣一郎(1910−1951) (東洋音楽学校)かちどきの歌、興亜行進曲、日の丸行進曲
永田絃次郎(1909−1985)  出征兵士を送る歌
大谷冽子(1919−2012)   (武蔵野音楽学校)ジャワのマンゴ売り
結城道子(1908−?)    (東京高等音楽学院)裏町人生
三島一声(1889-1974)  東京音頭
小笠原美都子(1920-)  十三夜
青葉笙子(1918-2012)    鴛鴦道中
川端文子(1916−2007) 上海リル、青空
三門順子(1915−1954)   愛国千人針
服部富子(1917−1981)   満州娘
江戸川蘭子(1913-1990) (日劇音楽舞踊学校)上海リル
小野 巡(1910−2009)    祖国の護り
塩まさる(1908-2003)    九段の母、
樋口静雄(1911−1973)  チンライぶし、緑の幌馬車、田園交響楽
赤坂小梅(1906−1992)   ほんとにそうなら、
豆千代(1912−2004)   夕日は落ちて
市丸(1906−1997)     天龍下れば、ちゃっきり節
音丸(1906―1976)     船頭可愛や、下田夜曲





48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 15:57
☆昭和戦前の作曲家


日本に本格的なレコード会社が登場したのは、昭和改元(1926)とともにあり、今から80数年余り前の昭和2年から3年にかけてです。

レコード歌謡の最初は昭和3年の「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)とされる。

SPレコードの時代は、戦前から戦後にかけて、映画「二十四の瞳」の時代と重なる日本がまだ貧しく、くるしい時代です。しかし、その中にも豊かな心をはぐくんでいたでしょう。

昭和、戦前戦中、今に残る数多くの名曲がレコードに乗って世に出ています。昭和の歴史が生んだ豊かな心の表れであるSPレコードとその歌声は文化遺産と言えます。

そして今歌われているそのほとんどは、主にここに上げた作曲家によるものと言えるでしょう。


日本の西洋音楽を取り入れた大衆音楽は本居長世、その弟子中山晋平、弘田龍太郎にはじまる。


大衆音楽と作曲家(昭和・戦前)

中山晋平(1887〜1952)(*)青い芒、波浮の港、当世銀座節、東京行進曲
弘田龍太郎(1892〜1952) 野薔薇の歌、無憂華の唄、いさおを胸に(編曲)、今年の燕、お国のために
佐々木すぐる(1892〜1966) 兵隊さんよありがとう、昭和の子供
佐々紅華(1907〜1961)君恋し、祇園小唄、浪花小唄、神田小唄
堀内敬三(1897〜1983)(*)黒い瞳よ今いずこ、麗人の唄、
塩尻精八        道頓堀行進曲、女給の唄
奥山貞吉(1887〜1956)ザッツ・オーケー、沓掛小唄,乳姉妹の唄、お島千太郎旅唄

古賀政男(1904〜1978)(*)影を慕いて、丘を越えて、あけみの唄、いさおを胸に、
松平信博(1893-1949) サムライ・ニッポン、ルンペン節、天国に結ぶ恋
江口夜詩〈1903〜1978〉 十九の春、忘られぬ花、急げ幌馬車
仁木他喜雄〈1901〜1958〉 高原の月、めんこい仔馬
万城目正〈1905〜1968〉旅の夜風、愛染夜曲、純情二重奏
服部良一〈1907〜1993〉(*)蘇州夜曲、別れのブルース、別れのブルース
佐々木俊一〈1907〜1957〉涙の渡り鳥
竹岡信幸(1907〜1985)赤城の子守歌,人妻椿
長津義司〈1904〜1986〉十三夜、
古関裕而〈1909〜1989〉船頭可愛や、愛国の花、露営の歌、暁に祈る
早乙女光〈1904〜1944〉湖畔の乙女、荒野の夜風、愛国の花、古き花園
明本京静〈1905〜1972〉父よあなたは強かった、伊豆の子守唄
大村能章〈1893〜1962〉旅笠道中、野崎小唄、
阿部武雄〈1902〜1968〉 流転、むらさき小唄、国境の町
山田栄一〈1906〜1995〉すみだ川

*日本音楽著作権協会会長歴任 (他に詩人、西条八十、サトウハチロー、勝承夫)





49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 16:07
☆昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)

昭和前半の昔の歌には、その3分間の中に「ドラマ」があって、歌詞と曲は一体のものでした。

当代随一と言われた詩人、作詞家、作曲家たちが心をこめて作った歌、そのさりげない短い言葉、そのメロデーの中に行間のドラマ、・喜びと哀しみを共有したのです。

昭和戦前の大衆歌曲(歌謡曲)分野に貢献した主な詩人・作詞家を参考に。


*野口雨情(1882〜1945) 波浮の港、鶯の夢、青い芒、紅谷の娘、
*西條八十(1892〜1970) (※)東京行進曲、誰か故郷を想わざる、旅の夜風
 時雨音羽(1899〜1980 ) 出船の港、鉾をおさめて、君恋し、浪花小唄
 堀内敬三(1897〜1983) 私の青空、アラビアの唄、黒い瞳よ今いずこ
 長田幹彦(1887〜1964) 祇園小唄、天竜下れば、島の娘
*島田芳文(1898〜1973) 丘を越えて、キャンプ小唄、月の浜辺、窓に凭れて
 高橋掬太郎(1901〜1970) 酒は涙か溜息か、雨に咲く花、人妻椿
*佐藤惣之助(1890〜1942)人生の並木路、新妻鏡、男の純情、青い背広で、
*サトウ・ハチロ−(1903〜1973)(※)麗人の唄、目ン無い千鳥、勝利の日まで、
*西岡水朗(1909〜1955) 嘆きの夜曲、忘られぬ花、
*大木惇夫(1895〜1977) 崑崙越えて、思い出の記、雲のふるさと、国境の町
*藤浦 洸(1893〜1979)ビア樽ポルカ、別れのブルース、月夜船
*久保田宵二(1899〜1947)浮草の唄、ほんとにそうなら、山寺の和尚さん、
 佐伯孝夫(1902〜1981) 無情の夢、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、
 門田ゆたか(1907〜1975) 東京ラプソディー
 藤田まさと(1908〜1982) 旅笠道中、明治一代女、妻恋道中、鴛鴦道中、
 倉仲房雄(サトウハチロー)合歓の木蔭で、東京の夢、友情夜曲、
 玉川英二(同上)    二人は若い
 星野貞志(同上)     うちの女房にゃ髭がある、あゝそれなのに
 山野三郎(同上)     若しも月給が上がったら
 島田磬也(1909〜1978)  白虎隊、望郷の唄、啄木の唄
 宮本旅人        旅姿三人男、懐しのヴィオロン
 石松秋二        十三夜、九段の母、満州娘
 矢島寵児1908〜1946)  名月赤城山
 清水みのる(1903〜1979)出船の唄、別れ船
 野村俊夫(1904〜1966)  暁に祈る、ヒュッテは招く、あの日あの時

(*は詩人。※は戦後において日本音楽著作権協会会長歴任(他に勝承夫))




50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 16:22
☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・

 青春日記、青い背広で、男の純情、人生の並木路・・佐藤惣之助没後70年!

物が、食があり余る「飽食の時代」、若者文化を象徴するかのような最近のニューミュ-ジック等のテレビ歌番組には、重い言葉であるべき『名曲』と言う言葉がいとも軽く平気で飛び交っているのには違和感を覚える人も少なくないでしょう。

「名曲」と言うものは、聴くことに依って心が洗われ癒され、心穏やかになれる、心の原点を取り返すことができる。人は、心が洗われ、心穏やかになり、心の原点を取り戻した時、自然に涙がでてくる、そして人は再び生きる力を与えられる。

「人生の苦悩」から始まった「古賀メロディ」・・「影を慕いて」が作られた昭和3年、唱歌・童謡、民謡、新民謡等を除いて、今ある歌のほとんどはまだなかった。

「古賀メロディ」にもいろいろあるが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたものに、より名曲が多い。(ただしSPオリジナルを基本とした音源でないと聴けない。)

その短い中に、底辺に流れる誰もマネできない独特の哀調を帯びたメロディの中に、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するようなメロディの中に、明日に向かって生きていく躍動や青春の息吹を感じさせる・・、今までにない詩とメロディ、人々はそれを敬愛の意味を込めて「古賀メロディ」と呼んだ。

 初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」というような意味の記事が大きく載った。古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという意味のことが自伝に載っています。

これまでの流行歌が、どちらかというと抑揚の少ない平板に感じられるような、「古賀メロディ」の出現によって、より表情豊かで心の襞に滲みわたるあたらしい歌の形ができていくのだが、それを決定的にしたのが古賀政男とのコンビで数多くの名曲を世に送り出した事で知られる詩人・佐藤惣之助だろう。

古賀政男の自伝には、私が本格的に作曲に全身全霊を傾けるようになったのは惣之助さんと出会ってからだったということが書かれている。

川崎出身の詩人・佐藤 惣之助は、大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。


惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出した。また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導養成にあたった事で知られる。

さらに俳句や歌謡、小説、随筆にもすぐれた業績を残したほか、釣や義太夫、演劇、民謡研究、郷土研究、沖縄風物の紹介など多方面で活躍した。釣りに関する書物も多数残している。

大正の末から昭和の初めにかけての佐藤惣之助の主な活動は、八木重吉など70余名の同人・門下生を抱える、「詩の家」を主宰することだった。
そして天真闊達な、くったくのない人柄で世話役をつとめていた。





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