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【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 08:43
昭和6年(1931)「酒は涙かため息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・いずれも藤山一郎、
今から88年前、まもなく90年を迎える「古賀メロディ」。
《日本のクラッシック》「古賀メロディ」の歴史を振り返る。


2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 08:45
小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中、「りんどう峠」の島倉千代子が、「ハイのハイノハイ」ができなくて何度も通い、あの門から玄関までの長かったこと!と言わせた、長い石畳のなだらかな坂道。

そこに、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。

古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。

古賀政男は大きな邸宅に住み、当時の金で数十億といわれる群を抜いた著作権料。車がまだ一般的でなかったころから、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった昭和最高最大の印税長者古賀政男。

「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。

昭和30年代の古賀政男は、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

大きなお屋敷に住み、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、「素人物まね読本」とかの番組で「よかったね、よかったね!」など優しい声をかけていた。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオ放送はすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

のとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。

他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。



3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 08:48
毎朝、玄関でお金の音がする。
これは、昭和の大作曲家、古賀政男の自宅に、郵便局から毎朝、現金入りの書留が送られてきたという伝説。

藤山一郎に始まり作品数は5000曲とも言われ、印税が湯水のごとく沸いてくることは想像に難くない。

古賀政男のメロディーがありとあらゆる場所で流れている様は、まさに「印税長者」というにふさわしいだろう。

明大卒業と同時に代々木上原に移った古賀政男は、代々木上原に古賀村を作り同志を呼び集めたいと思っていた古賀政男は、代々木上原駅前の松林が気に入って、地主と掛け合い、昭和12年に、駅前の松林一山三千坪を手に入れた。

これが旧古賀邸、現在の「古賀政男音楽博物館」と、一体のJASRAC本部のビル。

−私は明大を卒業すると同時に代々木上原に移った。
この土地は私がコロムビアで売り出した縁起のいい場所でもあり、
かねて永住したいと考えていたのである。

私はこの三千坪の土地に「古賀村」を作りたかったのである。
ここに同志たちの家も建て、一同手を携えて音楽創造の道に邁進するー
それが私の夢であったのだ。(「古賀政男大全集」より)


当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水建設に建てさせ昭和13年に完成した。



4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 08:53
その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。

代々木上原駅前3000坪の豪邸、旧古賀邸には、玄関を入るなり高価な美術品が飾ってあって、美術館の如く、横山大観など、廊下や部屋の中あちこちに第一級の美術品が飾ってあった。

古賀政男は絵画を好み、自身でも沢山絵を書いていた。それらの自作の絵や、横山大観の絵、棟方志功よりプレゼントされた絵など第一級の美術品である。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や、数十台が留められる広い駐車場。大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。



5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 08:58
日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。古賀財団(古賀政男音楽文化振興財団)のテナントとして、「古賀政男音楽博物館」に一体隣接して、そびえ立つ威容はまさしく大衆音楽の聖地。

「古賀政男音楽博物館」には、滝廉太郎、野口雨情、本居長世、山田耕作、中山晋平、西條八十、古賀政男、藤原義江、藤山一郎・・美空ひばり、島倉千代子、北島三郎・・など明治以降、日本の大衆音楽に尽くした音楽家、詩人・作詞家、作曲家、歌手について、「大衆音楽の殿堂」で併せて現在246名が顕彰している。

入館料だけでその中で7000曲のうちから選んで無料で十分聞くことができ非常に貴重です。


顕彰者一覧 h ttp://www.koga.or.jp/information/sanctuary/index.html

5月18日はICOM(国際博物館会議)が提唱する「国際博物館の日」。古賀政男音楽博物館ではこれを記念して平成30年5月18日(金)は無料開館日。www.koga.or.jp/




6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:05
(参 考)
・藤森 照信著、藤森 照信写真「歴史遺産 日本の洋館〈第6巻〉 昭和篇(2)」講談社 (2003/3/19) ISBN-13: 9784062614863
 岩崎小彌太別邸(静岡県)、三井家別邸(北海道)、徳川義親邸(長野県)、細川護立邸(東京都)、原邦造邸(東京都)、林芙美子邸(東京都)、古賀政男邸(東京都)など。
 古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ p.126

・「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))


☆有名人の邸宅(参考)
古賀政男邸(代々木上原)   3000坪
田中角栄『目白御殿』(目白) 2575坪
鳩山会館(文京区)       2000坪
麻生太郎邸(渋谷)     1500坪
孫正義邸 (港区)    960坪
三木谷御殿(渋谷区)  272坪
鳩山由紀夫邸(大田区  205坪
長嶋茂雄邸(田園調布) 180坪
ひばり御殿(目黒)   173坪






7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:10
古賀政男と『七人の侍』

「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。

作曲家はこれまで数多出たが、「古賀メロディ」ほど多くのヒット曲を持つ作曲家はいない。

日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男

『古賀メロディ』と呼ばれたその作品は、昭和一桁時代から数多くの人に親しまれました。

その曲は底辺に寂寥感や哀愁を漂よわせたものが多く、それが同時代の日本人の心の琴線に触れて長く愛されて、日本歌謡史に多大の足跡を残しました。

その数多くのヒット作品、その多くは「映画主題歌」でもあります。

「古賀メロディー」ほど多くのヒット曲を持つ作品群はありません。 同時に「古賀メロディー」ほど、数多くの「映画主題歌」を持つものもありません。 

昭和3年、人生の、青春の苦悩から始まった古賀メロディ・・戦後、30年代青春歌謡と言われるものがはやったが、古賀メロディは元祖青春歌謡といえます。

戦前から戦後にかけて、まだ日本が草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、まだテレビもなかった時代、 唯一の娯楽は「映画」だった。

どんな小さな街にも、ちいさな映画館があって、そして映画公開を楽しみに待った。

その映画には主題歌があって、レコード全盛時代で映画とともに人々は、それを愛唱し
口ずさんだ、それが今に残る多くの名曲だった。

昭和6年、「チャッカリしてるわね」(同、西岡水朗作詞、天野喜久代歌)に始まり、「酒は涙か溜息か」(想い出多き女。 高橋掬太郎作詞)、 「丘を越えて」(姉、島田芳文作詞)、「鳩笛を吹く女の歌」(佐藤惣之助作詞)(いずれも藤山一郎歌、1931)など無声映画の時代から始まり、戦後30年代頃までよどみなく続きます。

人は古賀政男を大作曲家、歌謡界の大御所とよんだ。

五千曲に及ぶ作曲生活の中で、数多い名曲、ヒット曲を生み、それが築いた富は数十億円とも言われている。

広大な邸宅に住み、晩年に到るまで名声と富に囲まれて暮らしていた古賀政男。死後は国民栄誉賞に輝き、彼が生んだ古賀メロディーは、今後とも日本人の心の中に生き続けるだろう。

人間として、作曲家として文句のつけようのない生涯であったと誰しもが考える。

だが、この華やかさとはうらはらに、古賀政男は心を許した親しいものに「ぼくは寂しいのよ」と、よく打ちあけたことは知られている。

少年時代から死ぬまで古賀政男にとって、確かなものは、音楽への情熱しかなかった。

その心を歌に託せば、“哀しみ”と“寂しさ”になり、人々の心をうつのであろう。

まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ わが想い

古賀政男を作曲家としてスタートさせた処女作『影を慕いて』のあの“哀しみ”と“寂しさ”。

そして晩年に到るまで古賀政男の心に宿り、いつの時代の作曲活動にも活力となった
“寂しさ”と“哀しみ”とはなんだったのだろうか。・・

貧困の中での生い立ち,父の死、母と兄の確執、自殺未遂・・、
暗い青春にある日突然訪れた栄光。
古賀作品の本質と彼の青春は深くかかわりあっているのだ。
( 流転の旅 人間古賀政男 その青春
  「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978)))
 
昭和9年(1934)2月、大阪に創立されたテイチク(帝国蓄音機)は、昭和の初め外国資本で設立された日本コロムビアやビクターなどのレコード会社に追いつこうと、<重役兼、文芸部長兼、作曲家>として新進のヒット・メイカー古賀政男を招聘し制作の全権を委ねた。

古賀政男邸はこの「テイチク黄金時代」と言われたテイチク時代の昭和12年から13年にかけて作られた。

古賀は、マンクラの「7人の侍」と呼ばれる側近を呼び寄せ、昭和9年5月15日、銀座にテイチク東京文芸部《古賀文芸部》を組織し、仕事をスタートさせる。

このとき、淡谷のり子の紹介で専属契約したのがディック・ミネである。テイチク文芸部が反対するのを古賀のツルのひと声で昭和9年11月に録音、翌年1月に発売された「ダイナ」と「黒い瞳」は空前の大ヒット。

このことに味をしめて、以後、テイチクはジャズに力を入れていく。また楠木繁夫や、昭和11年には、ビクタ―の契約期間を過ぎた藤山一郎を呼び寄せた。




8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:24
古賀政男と『七人の侍』

「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。

作曲家はこれまで数多出たが、「古賀メロディ」ほど多くのヒット曲を持つ作曲家はいない。

日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男

『古賀メロディ』と呼ばれたその作品は、昭和一桁時代から数多くの人に親しまれました。

その曲は底辺に寂寥感や哀愁を漂よわせたものが多く、それが同時代の日本人の心の琴線に触れて長く愛されて、日本歌謡史に多大の足跡を残しました。

その数多くのヒット作品、その多くは「映画主題歌」でもあります。

「古賀メロディー」ほど多くのヒット曲を持つ作品群はありません。 同時に「古賀メロディー」ほど、数多くの「映画主題歌」を持つものもありません。 

昭和3年、人生の、青春の苦悩から始まった古賀メロディ・・戦後、30年代青春歌謡と言われるものがはやったが、古賀メロディは元祖青春歌謡といえます。

戦前から戦後にかけて、まだ日本が草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、まだテレビもなかった時代、 唯一の娯楽は「映画」だった。

どんな小さな街にも、ちいさな映画館があって、そして映画公開を楽しみに待った。



9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:25
古賀邸の秘書兼運転手兼作曲編曲家だった清水保雄など古賀政男には『七人の侍』という、懐刀とも言うべき、常に古賀政男の身近にいて、一切の、内部、外部の切り盛りを、滞りなく恙なくやって行く才腕がいた。

いわば強力な秘書軍団が居て陰に陽に古賀を支え続けたのだ。

古賀の苦難時代から起居を共にし行動を共にして、常にその直接相談役補佐役たりした人。 

古賀政男邸宅の門の右手前には「古賀ギター歌謡学院」がありました。

そこを通り過ぎて大きな石の門を入り、玄関までは歩いて数分もかかります。坂を登っていくと手入れの行きとどいた庭が広がっていて、その広さには驚きびっくりです。

3000坪の広大な古賀政男邸、坂を登った左側には大きな車庫が3つあって、幅2mもあるリンカーン、ベンツ、など高級車が何台も並んでいます。

右側に和洋折衷の洋館、その大きな玄関を入ると左側にレッスン室があってピアノが置かれていました。

あまり自動車が一般的でなかった昭和10年代から積極的に外車を駆使していた古賀政男。戦前戦後にかけて、その豪華なパッカード、フォードや、リンカーン、ベンツを縦横に操縦する人、古賀政男の意見を、対外的に自由に駆使する人が常にいた。

戦後に書かれた古賀政男自伝にも、清水保雄は古賀政男の自家用車を運転しており、アメリカなど海外に行った時も古賀の乗る車を運転していたことが記されています。

古賀政男は、「古賀文芸部」と言われた「テイチク東京文芸部」(銀座)発足にあたり、小山令道、東堂守三。茂木了次、清水保雄など、明大マンドリンクラブ以来の『七人の侍』を呼びいれたのだった。(また古賀メロディの多くに明大マンドリンクラブ演奏が多い、明大マンドリンクラブ演奏以外にも、古賀政男オーケストラ、古賀政男サロンオーケストラ等の名前もそうである。)

 いずれも、古賀政男が主催していた明大マンドリンクラブのメンバーで、古賀の子分衆であり、伝記類にもちらほらと名前の出てきて、古賀がコロンビアからテイチクに移った際に一緒にテイチクに入った人たちです。

清水保雄は、古賀政男の六歳下で、明大マンドリンクラブの学生時代から古賀に憧れて部下になり、秘書兼、書生兼、自家用車の運転手兼、雑用係で、かつテイチクで企画を担当していた。

さらに後の古賀自伝から、清水保雄は秘書兼書生だっただけでなく、古賀メロディの編曲を名前は出さずに相当やっていた事も分かります。

『七人の侍』は、古賀がテイチクを辞めて、再びコロムビアに移った時も、古賀とともにコロムビアに移った。

このように、古賀政男には『七人の侍』という、陰に陽に古賀を支え続けた「懐刀」とも言うべき、いわば強力な秘書軍団が居た。これが数え切れないほど沢山のヒット曲のある「古賀メロディ−」大成の秘密ともいえるのではないでしょうか。

53年8月4日、独自の曲調「古賀メロディー」作曲による業績により、古賀政男に「国民栄誉賞」が贈られ、王選手に次いで二番目。

生存者に贈る賞で、亡くなった人に贈ることに異論があったが、福田内閣は古賀氏に贈らない理由はないとして贈ることが決まった。博物館に展示されている。

☆古賀政男とその主な人脈
歌手; 佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環、
    淡谷のり子、楠木繁夫、松平晃、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、川畑文子、
    由利あけみ、渡辺はま子、伊藤久男、松島詩子、ディックミネ・・
詩人; 萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー 、島田芳文 ・・
作曲家;中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實・・
その他;棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香 蘭)、徳川無声、森繁久弥、山本富士子、美空ひばり、村田英雄、・・



10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:32
「古賀政男音楽博物館」  <大衆音楽の殿堂顕彰者>

「古賀政男音楽博物館」には明治以降、日本の大衆音楽に尽くした音楽家、詩人・作詞家、作曲家、歌手について、「大衆音楽の殿堂」で顕彰している。

滝廉太郎、野口雨情、、本居長世、山田耕作、中山晋平、弘田竜太郎・・から西條八十、古賀政男、藤原義江、藤山一郎、・・から、美空ひばり、島倉千代子、北島三郎・・までほとんどをカバ―している。

大衆音楽の殿堂顕彰者には明治以降、明治、大正、昭和、これまでのほとんどの大衆音楽に尽くした 作曲家、詩人・作詞家、歌手・演奏家併せて246名が顕彰展示されており、入館料だけで7000曲のうちから選んで無料で十分聞くことができ非常に貴重です。

最近の歌は、なんでも「名曲」、しかも60年以上の長い「昭和」の歴史になかで、ほんの昭和の最末期飽食の時代の歌だけで、昭和歌謡と言ってますが、これを見ると,聞くともっと深いことが分かります。昭和の本当の名曲を堪能することができるでしょう。

昔は大衆音楽というのは民謡くらいしかなかった。多くの音楽家のすぐれた才能や、たゆまぬ努力によって、大衆音楽の名曲は生まれました。
古賀政男音楽博物館では、日本大衆音楽の歴史を振り返り、その発展に貢献された方々の功績を顕彰する「大衆音楽の殿堂」,この殿堂ホールには、顕彰者のレリーフが掲げられているほかに、その年の顕彰者ゆかりの品々を展示さえている。

顕彰者の代表曲などは、地下1階「音楽情報室」の検索システムで入館料だけで何曲でも聞ける。 他に、作詞者名、歌手名、もちろん題名でも検索できる。


顕彰者一覧 h ttp://www.koga.or.jp/information/sanctuary/index.html

<大衆音楽の殿堂 顕彰者>  作曲家(抜粋) 75人

滝廉太郎、岡野貞一、田村虎蔵、下總壯一、本居長世、山田耕作、中山晋平、弘田竜太郎、
成田為三、草川 信、梁田 貞、杉山長谷夫、河村光陽、海沼 實、佐々木すぐる、佐々紅華、古賀政男、江口夜詩、竹岡信行、町田佳声、佐々木俊一、万城目正、仁木田喜雄、池田不二夫、古関裕而、服部良一、大村能章、阿部武雄,長津義司、上原げんと、団 伊久磨、中田義直、飯田三郎、中村八大,大久保徳次郎、いずみたく、倉若春生、吉田矢健治、利根一郎、市川昭介、八州秀章、細川潤一、宮川 泰、田村しげる、富田 勲、米山正夫、吉田正、猪俣公章、船村徹、遠藤実、・・



<大衆音楽の殿堂 顕彰者> 歌手(抜粋)100人
松井須磨子、藤原義江、佐藤千夜子、藤山一郎、関 種子、徳山 l(たまき)、田谷力三、淡谷のり子、松平 晃、楠木繁夫、中野忠晴、上原 敏、東海林(しょうじ)太郎、ミス・コロムビア(松原操)、二葉あき子、霧島 昇、ディックミネ、山口淑子(李香蘭)、伊藤久男、高峰三枝子、松島詩子、渡辺はま子、塩まさる,市丸、小唄勝太郎、高田幸吉、川田正子・孝子、河村順子、平井英子、安西愛子、松田トシ、灰田勝彦、岡晴夫,神楽坂はん子、美空ひばり、笠置しず子、小畑実、近江俊郎、竹山逸郎、榎本健一、高 英男、森繁久彌、奈良光枝、並木路子、宮城まり子、織井茂子、菊池章子、宮城まり子、三波春夫、村田英雄、、田端義男、三橋美智也、初代コロムビアローズ、ペギー葉山、橋幸夫、坂本 九、島倉千代子、こまどり姉妹、神戸一郎、菅原洋一、三浦光一、テレサテン、岸 洋子、小坂和也、フランク永井、ザ・ピーナッツ・・・



<大衆音楽の殿堂 顕彰者> 詩人・作詞家(抜粋)71人

吉丸 一昌、井上 赳、大和田建樹、高野公男、井上 赳、近藤朔風、林 柳波、武島羽衣、中村雨紅、清水かつら、加藤省吾、久保田宵二、斎藤信夫、加藤省吾,武内俊子、東くめ、

野口雨情、西條 八十、佐藤惣之助、島田芳文、サトウハチロー、藤浦 洸、菊田一夫、高橋 掬太郎、佐伯 孝夫、長田幹彦、門田ゆたか、藤田 まさと、野村俊夫、島田欣也、清水みのる、寺山修司、横井 弘、西沢爽、宮川哲夫、石本美由樹、矢野亮、星野哲郎、やなせたかし・・・

(平成30年4月現在)


11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:39
「古賀メロデー」というのは、いろいろあるが映画と積極的に提携して映画主題歌が多い。古賀政男が活躍した昭和一桁時代から、
10年代そして20年代初めにかけて、日本はまだ貧しい時代だった。貧しくとも心豊かな時代だっのだ、そして昭和30年代はすでに歌謡界の「大御所」だった。
そして「古賀メロデー」は、たとえば「人生の並木路」や「新妻鏡」・・など人生の苦悩、青春の苦悩と言う重いテーマをテーマとしたものにより名曲が多い。
古賀政男は亡くなる直前頃、・・古賀メロデーよいつまで続くんだ、古賀メロデーよ消えされ。これまでたくさんの歌を作ってきたが、僕の古賀メロデーが受け入れられる世の中というのは、不幸な時代なのだ、
今はハッピ−な歌が受け入れられる時代なんだ。・・というようなことをいっていたことがある。と、そして、亡くなる前日かに便せんに書かれたメモが、旧古賀邸跡の古賀政男音楽博物館に展示されている。

「もうぼくのメロデーが受け入れられる時代ではない。いまは明るいハッピーな歌が受け入れられているんだ。
そういう歌がいまの歌なんだ。」って。

これについて吉田正は、僕はまったく逆説だと思う。古賀先生が言いたかったのはね、
人間というのは、ハッピーな時だけではない。苦しいときも、悲しいときもある。
そういう人間の一番暗い面がでたときは、わたしの歌を聴いてくださいよって、そういうことだとぼくは思うんだ。
人間が苦境に立ったとき、そのときには自分の歌が歌われるはずだという確信があったんですよ。
先生には。・・と本で書いている
 「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版)

古賀政男(正男)初期のレコード
文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年2月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年2月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年11月 ビクター 51464
影を慕いて  古賀正男  同    1930年12月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1930年12月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年5月  ビクター 51689
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年5月 ビクター 51689
以上は,作曲家になる前の学生時代の作品

乙女心   鹿山鶯村  関種子   1931年5月 コロムビア 26275
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 26275
月の浜辺  島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄 島田芳文 藤山一郎 1931年6月 コロムビア 26325


昭和元年は大正15年、昭和は実質昭和2年から始まった。日本に本格的なレコード会社ができたのは昭和2年から3年にかけて。レコード音楽は昭和と共に始まった。古賀メロデーのルーツと言える「影を慕いて」が佐藤千夜子によって世に出るのは今から89年前の昭和5年だが、「影を慕いて」が作られた昭和3年、日本にはまだ、「波浮の港」、「アラビアの唄」、「君恋し」などしかなく、唱歌・童謡、民謡・新民謡など以外現在あるものはまだ殆どなかった。
「古賀メロデー」といわれるようになったのは、昭和10年代人々が敬意を込めてこう呼んだ。




12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:51
「古賀メロデー」というのは、いろいろあるが映画と積極的に提携して映画主題歌が多い。古賀政男が活躍した昭和一桁時代から、
10年代そして20年代初めにかけて、日本はまだ貧しい時代だった。貧しくとも心豊かな時代だっのだ、そして昭和30年代はすでに歌謡界の「大御所」だった。
そして「古賀メロデー」は、たとえば「人生の並木路」や「新妻鏡」・・など人生の苦悩、青春の苦悩と言う重いテーマをテーマとしたものにより名曲が多い。
古賀政男は亡くなる直前頃、・・古賀メロデーよいつまで続くんだ、古賀メロデーよ消えされ。これまでたくさんの歌を作ってきたが、僕の古賀メロデーが受け入れられる世の中というのは、不幸な時代なのだ、
今はハッピ−な歌が受け入れられる時代なんだ。・・というようなことをいっていたことがある。と、そして、亡くなる前日かに便せんに書かれたメモが、旧古賀邸跡の古賀政男音楽博物館に展示されている。

「もうぼくのメロデーが受け入れられる時代ではない。いまは明るいハッピーな歌が受け入れられているんだ。
そういう歌がいまの歌なんだ。」って。

これについて吉田正は、僕はまったく逆説だと思う。古賀先生が言いたかったのはね、
人間というのは、ハッピーな時だけではない。苦しいときも、悲しいときもある。
そういう人間の一番暗い面がでたときは、わたしの歌を聴いてくださいよって、そういうことだとぼくは思うんだ。
人間が苦境に立ったとき、そのときには自分の歌が歌われるはずだという確信があったんですよ。
先生には。・・と本で書いている
 「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版)

古賀政男(正男)初期のレコード
文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年2月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年2月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年11月 ビクター 51464
影を慕いて  古賀正男  同    1930年12月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1930年12月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年5月  ビクター 51689
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年5月 ビクター 51689
以上は,作曲家になる前の学生時代の作品

乙女心   鹿山鶯村  関種子   1931年5月 コロムビア 26275
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 26275
月の浜辺  島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄 島田芳文 藤山一郎 1931年6月 コロムビア 26325





13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 09:54
☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

佐藤千夜子  東京音楽学校  文のかおり(古賀正夫作詞)1929.12
関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞)    1931.7
淡谷のり子   東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞)   1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア 東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃  東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫  東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ  立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)       純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞)  1936
有島通男  東洋音楽学校  春まだ浅く  (石川啄木作詞)  1936.4
由利あけみ 東京音楽学校  黒いパイプ (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮   (西條八十作詞)   1939.9
二葉あき子 東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇  東洋音楽学校  誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子  東洋音楽学校  蛇姫絵巻(西條八十作詞)1940
菊池章子 東洋音楽学校  相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴 武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)  1933.1
渡辺はま子 武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝  東洋音楽学校  青い牧場  (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎  武蔵野音楽学校  明日もまた  (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子 宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1



14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 10:00
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月 井上静雄名
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)   1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲)   1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊     (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)       1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)     1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場    (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝) 1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

(戦後)
嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌    (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952



15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 10:12
■■NHKTV 「日本の名曲10曲」■■ 


「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本がまだ貧しかった80年以上前,明治・大正から昭和の初め、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその日本の抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子、佐藤千夜子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級大歌手・声楽家が愛して
歌った歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ日本の名曲でした。


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 10:15
霧島昇代表曲(古賀メロディ)
誰か故郷を想わざる 西條八十作詞 古賀政男作曲(1940):
新妻鏡          佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 霧島昇,二葉あき子 (1940)
目ン無い千鳥      サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 ミス・コロムビア (1940)
相呼ぶ歌         西條八十作詞 古賀政男作曲     菊池明子    1940
そうだその意気     西條八十作詞 古賀政男作曲     松原操・李香蘭 (1941)
勝利の日まで      サトウハチロー作詞 古賀政男作曲(1944)
麗人の歌         西條八十作詞 古賀政男作曲                (1946)
旅役者の唄       西條八十作詞 古賀政男作曲  (1946)
旅の舞姫         西條八十作詞 古賀政男作曲     二葉あき子 (1948)
三百六十五夜  西條八十作詞 古賀政男作曲     松原操 (1948)
あの夢この歌  西條八十作詞 古賀政男作曲 二葉あき子 (1948)
白虎隊 台詞:鈴木吟亮島田欣也作詞  古賀政男作曲 (1952)
ギター月夜   西條八十作詞 古賀政男作曲(1952)
湖畔のギター 野村俊夫作詞 古賀政男作曲  (1954)

三百六十五夜
作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:霧島昇・松原操

 みどりの風に おくれ毛が
 やさしくゆれた 恋の夜
 初めて逢(お)うた あの夜の君が
 今は生命(いのち)を 賭ける君


 たそがれ窓に 浮かぶのは
 いとしき人の 旅すがた
 我ゆえ歩む 道頓堀の
 水の夕陽が 悲しかろ


 気づよく無理に 別れたが
 想い出の道 恋の街
 背広に残る 移り香(が)かなし
 雨の銀座を ひとりゆく



17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 10:21
楠木繁夫は、作曲家・古賀政男を重役として迎えて間もないテイチクの専属になる。この時に、自らの名前が似ていることから、楠木正成(戦前は大楠公と呼ばれた)に傾倒していた当時のテイチク社長・南口重太郎によって、楠木繁夫という芸名が付けられるのであった。1935年(昭和10年)には、古賀政男とのコンビで、「白い椿の唄」「ハイキングの唄」「男のまごころ」「緑の地平線」と大ヒットが続き、一躍大ヒット歌手となる。その後も、「女の階級」「のばせばのびる」「啄木の歌」「人生劇場」とヒットを続けるが、昭和13年、古賀政男がテイチク上層部との対立から退社すると、楠木もビクターに移籍。「馬と兵隊」「東京ラグタイム」など、曲には恵まれたが、ヒットに結びつく作品は少なかった。
1939年(昭和14年)頃からは、スクリーンにも活躍の場を広げ、特に日活作品に数多く出演。マキノ正博の監督による「弥次喜多道中記」ではディック・ミネとコンビで弥次喜多を演じ、大映映画「歌う狸御殿」では、狸の国の総理大臣を演じた。テイチク時代に、同じ会社のヒット歌手・美ち奴との浮名を流し、周囲からは二人は結婚するものと噂が高かったが、1942年(昭和17年)に、再び古賀政男の誘いでコロムビアに移籍した後に撮影した「歌う狸御殿」で共演した歌手・三原純子と、翌年の年末に結婚。戦時中ながら、おしどり夫婦の歌手として、工場慰問などに活躍した。
第二次世界大戦後、自らの作曲作品「思い出の喫茶店」などをレコーディングする一方で、夫婦揃って出演した大映映画「春爛漫狸御殿」をはじめ、「蛇姫道中」「江の島エレジー」などスクリーンにも活躍するが、折から流行していたヒロポンと呼ばれる覚せい剤の影響で、往年の光彩を失っていった。1949年(昭和24年)、古巣のテイチクに移籍し、「紅燃ゆる地平線」「ハルピン恋し」などのヒットを出し、NHK紅白歌合戦にも出演している。純子との夫婦揃ってのステージや巡業に活躍していたが、かねてからのヒロポン中毒のため、1953年(昭和28年)の「湯の香恋しや」を最後にレコーディングから遠ざかった。さらに、脳溢血のため、音程が狂うという歌手にとっての致命的なダメージと、愛妻・純子の肺結核の悪化が重なり、1956年(昭和31年)の春に夫婦揃ってのステージを名古屋で務めた後、二人は二度と生きて会うことはなかった。将来に悲観した楠木は、宝くじの当選で新築したばかりという東京・新大久保の自宅で、1956年(昭和31年)12月14日、女中を映画見物に出かけさせた後、ひとり物置小屋で、首を吊って自殺。52歳という早すぎる死に、高木東六、松平晃ら生前に親しかった友人たちは「緑の地平線」を合唱して、楠木の棺を見送った。故郷・飛騨高山で転地療養していた妻の純子も、彼の後を追うように1959年(昭和34年)に38歳の若さで世を去って

楠木繁夫代表曲(古賀メロディ)テイチク
国境を越えて   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1934
男のまごころ   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1935
白い椿の唄    佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1935
ハイキングの唄  島田芳文作詞  古賀政男作曲 1935
緑の地平線    佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1935
慈悲心鳥の唄   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1936
女の階級     村瀬まゆみ作詞 古賀政男作曲 1936
啄木の歌     島田欣也作詞  古賀政男作曲 1936
のばせばのびる  江川貞夫作詞  古賀政男作曲 1937
真実一路の唄   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1937
人生劇場     佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1938
いさおを胸に   野村俊夫作詞、 古賀政男作曲 弘田竜太郎編曲 1944 松原操


18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 10:23
☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)

恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲) (川畑文子)1935.6
望郷の唄  (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに  (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣(びゃくえ)の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ   (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫)  1938




19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/30(Thu) 20:24
藤山一郎の影で、彼ほど知られていないが、藤山一郎とともに、忘れてはならない歌手に、藤山一郎の先輩で藤山一郎と同じく、東京音楽学校本科を首席で卒業し、ドイツリートの傍ら、初期の「古賀メロディ」を支えたクラッシックのソプラノ歌手・関種子がいる。
『乙女心』『窓に凭れて』『日本橋から』『青春図絵の唄(貞子の唄)』『博多小夜曲』『かた思い』『あけみの唄』『金色夜叉(お宮の唄)』『笛は冴ゆれど』『朝顔の唄』『秘めたる恋』『美わしの宵』『嘆きの夜曲』『去りゆく影』
『初恋の唄』『愛は紅い』『さらば上海』・・など多くの「古賀メロディ」を歌っている。

古賀政男がテイチクに移った後、1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍。

☆関種子の代表曲(古賀メロディ)

乙女心    鹿山鴬村作詞、 古賀政男作曲    1931.6
博多小夜曲  西岡水朗作詞 古賀政男作曲     1931.8
窓に凭れて  島田芳文作詞 古賀政男作曲     1931.12
南海小唄   島田芳文作詞 古賀政男作曲  1932.1
日本橋から  浜田廣介作詞、古賀政男作曲 1932.3
青春図会(ずえ)の唄(貞子の唄)  菊池 寛作詞 古賀政男作曲  1931.11
金色夜叉(お宮の唄) 佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1932.1
美わしの宵 島田芳文作詞、古賀政男作曲       1932.1
嘆きの夜曲  西岡水朗作詞,古賀政男作曲       1932.2
秘めたる恋  佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲      1932.3
あけみの唄  原阿佐緒作詞、古賀政男作曲       1932.5
かた思い   浜田廣介作詞 古賀政男作曲       1932.6
笛は冴ゆれど 佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲     1932.7
朝顔の唄   佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲      1932.7
さらば上海 時雨音羽作詞、古賀政男作曲       1932.7
愛は紅い 佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲      1932.10
去りゆく影 西條八十作詞、古賀政男作曲       1932.12
初恋の唄  西條八十作詞、古賀政男作曲       1933.3



20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/30(Thu) 22:08
☆古賀政男の主な編曲曲

アリランの唄〈朝鮮民謡〉1932(佐藤惣之助作詞、古賀政男編曲)
(コロムビア27066/淡谷のり子・長谷川一郎=蔡奎Y)
  ・・ 日本で「アリラン」が歌になった最初の歌とされる。

二見情話(沖縄民謡)1932(西岡水朗作詞、補作詞 照屋朝保、古賀政男作曲、編曲 佐々永治)

ヨサホイ節 (鹿山鶯邨=鹿山鶯村作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1934年9月、永井松子=音丸、テイチク

会津磐梯山(佐藤惣之助作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1938年、音丸、 テイチクTEI907

のぞかれた花嫁(玉川映二作詞、古賀政男編曲、杉 狂児歌)(1935.8テイチク50055)(アメリカ民謡曲)

軍艦行進曲(鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、演奏 明治大学マンドリン倶楽部)1938.2

愛国行進曲(森川幸雄作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、歌 藤山一郎) テイチク1938.2発売、レコード番号 2074

荒城の月 (土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9コロムビアCOL100542)明大マンドリンクラブ演奏・・李香蘭が慰問先の戦地でいつも最初に歌った歌

宵待草 (竹久夢二作詞、多 忠亮作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9 COL100542)
明大マンドリンクラブ演奏

南の花嫁さん1943.1(藤浦洸作詞・古賀政男編曲、高峰三枝子歌)コロムビアレコード 100596。(原曲 1935任光「彩雲追月」)(藤浦洸作詞・古賀政男作編曲、高峰三枝子歌)

イッチョライ節 (福井音頭)」1962年 モノラル 作詞:西村爽 作曲:古賀政男. ... 島倉千代子・守屋浩





21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/30(Thu) 22:24

☆「荒城の月」について

「荒城の月」(『荒城月』)(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)は無伴奏で、実際聞けるのは編曲版。
 
 大正6年、三浦環の命で山田耕筰が編曲したのが最初で一般に歌われているのはこれ。
 SP時代、主な編曲版としては次のものがある。

 古賀政男編曲版は、李香蘭が、戦地慰問で歌ったもの。慰問では必ず最初にこの歌を歌ったという。


『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲





22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/30(Thu) 22:35

『荒城の月』(土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏 1942.9

昭和一六年一二月八日、日本はマレー半島に上陸し、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し太平洋戦争に突入した。昭和一七年五月には、李香蘭の歌唱によって《荒城の月》が古賀政男指揮、明大マンドリン倶楽部の演奏で吹込まれた。編曲は古賀政男が担当した。前奏はマンドリンのカデンツァで始まり、悲愴なマンドリンオーケストラの演奏で、李香蘭が哀感を込めて独唱している。 


この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンターで見れる。

h ttp://www.youtube.com/watch?v=iXxYruH3XNM

戦時中各地を慰問してまわった李香蘭、その李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。
戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。 そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、この昭和17年古賀政男編曲になるもの。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。

戦時中慰問先で、明日をも知れぬ数多くの無名の兵隊さんを前にして「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

「荒城の月」を、オペラでも歌うつもりか、何と勘違いしているのか、あらん限りの力を振り絞って、頭の芯に突き刺さるような激しい声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手の歌。
今、テレビではそんな思わず耳を覆いたくなるような場面も少なくない。ぜひこの映画を見せてあげたい。

(参考)You Tube
アップロード日: 2010/01/15

荒城の月 李香蘭 古賀政男編曲、明大マンドリンクラブ伴奏 
彼女の本格クラシック的歌唱力はロシアのオペラ歌手及び三浦環に師事した証と言えるモノで、とてもアイドルスターとしての美貌だけではなくしっかりとした素質と教育の賜物だと感心させられた一曲です。






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24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/01(Sat) 21:32
古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)

1930
 佐藤千夜子  「文のかをり」・・・「影を慕いて」など
1931
 関種子    「乙女心」・・・「窓に凭れて」など 
 天野喜久代  「チャッカリしてるわね」
 河原喜久恵  「月の濱邊(月の浜辺)」・・([キャムプ小唄]のB面)・・「町子姉妹の唄」
 藤山一郎   「キャムプ小唄」・・「影を慕いて」など
 淡谷のり子  「私此頃憂鬱よ」(「酒は泪か溜息か」のB面)・・「佳人よ何処へ」など
1932
 中野忠晴   「夜霧の港」・・・「高原の唄」など
1933
 ミス・コロムビア(松原操)・・・「「お蝶夫人」の唄」・・・「目ン無い千鳥」など
 松平晃   「サーカスの唄」・・「母立つ丘」など
1934
 楠木繁夫  「国境を越えて」・・「白い椿の唄」など
1935 
 ディックミネ 「二人は若い」・・「人生の並木路」など
1936
 奥田瑛子  「別れの歌」・・・・「緑の月」など
1937
 由利あけみ 「黒いパイプ」・・・「愛国六人娘」など
1939
 李香蘭   「さらば上海」・・ 「迎春花」など
 霧島昇   「新妻模様」・・・・「誰か故郷を想わざる」など
 伊藤久男  「波を越えて」・・・「熱砂の誓い」など
1940
 二葉あき子 「あの花この花」・・「新妻鏡」など
 奥山彩子  「蛇姫絵巻」-・・・「母立つ丘」など
 渡辺はま子 「りぼんむすめ」・・「サヨンの鐘」など
 菊池章子  「相呼ぶ歌」・・・・「なつかしの蕃社」など
1943
 近江俊郎   「明日もまた」・・・「勝利の日まで」など    


25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/01(Sat) 21:52
☆李香蘭の歌う古賀メロディ

さらば上海 (時雨音羽作詞、古賀政男作曲)李香蘭1939.9(初唱1932関種子)
紅い睡蓮     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1940.11
興亜三人娘 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)奥山彩子、李香蘭,白光1940.12
黒き宝       (西条八十作詞、古賀政男作曲) 李 香蘭 1941.6
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(霧島昇、松原操、李香蘭)1941.7
夜霧の馬車 (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
北京の子守唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
迎春花(インチュンホワ)(西條八十作詞 古賀政男作曲)李香蘭 1942
夕月乙女   (西條八十作詞、古賀政男作曲)   李香蘭 1942.7
花の生命      (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲) 霧島昇、李香蘭 1942.8
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫、李香蘭 1942.8

荒城の月(土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲)、明大マンドリンクラブ伴奏、李香蘭 1942.9 COL100542

宵待草  (竹久夢二作詞、多忠亮作曲、古賀政男編曲)李香蘭、明大マンドリンクラブ伴奏1942.9 COL100542

若き日の夢    (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1943.3
サヨンの歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1943.5


26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/01(Sat) 22:03
☆主な古賀メロディーの映画主題歌。・・


・松竹映画1931.2 「チャッカリしてるわね」(柳井隆雄原作) (無声  映画)
 主題歌 チャッカリしてるわね(西岡水朗作詞 天野喜久代歌)
  (映画と関係ないが、片面が関種子「乙女心」♪朧月夜のその頃に・・)
・松竹映画1931.10 「想い出多き女」 (無声映画)
 主題歌 酒は涙か溜息か〈高橋掬太郎作詞 藤山一郎歌〉
 挿入歌 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞 淡谷のり子歌)
・松竹 1931.11清水宏監督「青春図絵」(菊池寛 原作)
 主題歌 青春図絵の唄(貞子の唄)(菊池寛詩、関種子歌)
・入江プロ 1936「白衣(びゃくえ)の佳人」
 主題歌「白衣の佳人の唄」 (佐藤惣之助作詞 デックミネ歌)
・新興キネマ1931「姉」
 主題歌 丘を越えて(島田芳文作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 窓に凭れて(島田芳文作詞 関 種子歌)
・松竹映画1932.1野村芳亭監督「金色夜叉」(無声映画)
 主題歌 お宮の唄(佐藤惣之助作詩、関 種子歌)
・松竹映画1932.3 島津保次郎監督「勝敗」
 主題歌 町子姉妹の唄(菊地寛詩、河原喜久恵歌)
・日活映画1932.7「鳩笛を吹く女の唄」(無声映画)
 主題歌 鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、井上静雄(藤山一郎)歌)
・大衆文芸プロ映画社1932「佳人よ何処へ」
 主題歌 あけみの歌〈原阿佐緒作詞、関種子歌〉
 挿入歌 佳人よ何処へ(原阿佐緒作詞 淡谷のり子歌)
・日活映画1932「上海」
 主題歌 さらば上海(時雨音羽作詞 関種子歌)
・新興キネマ1932「スキーの唄」
 主題歌. スキーの唄(島田芳文作詞 藤山一郎歌)
・新興キネマ1935 「貞操問答」(菊池寛原作)
 主題歌 白い椿の唄(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)
・日活映画1935.10大谷俊夫監督「のぞかれた花嫁」
 主題歌 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞 杉狂児歌)
 挿入歌 二人は若い(玉川英二作詞 ディック・ミネ, 星 玲子.歌)
・日活映画1935阿部豊監督「緑の地平線」
 主題歌 緑の地平線(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)
 挿入歌 ゆかりの唄(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)
 挿入歌 夕べ仄かに (島田芳作詩、デックミネ歌)
・日活映画1936島耕二監督「情熱の詩人啄木」
 主題歌 啄木の唄(島田磬也作詞 楠木繁夫歌)
 挿入歌 春まだ浅く〈石川啄木作詩 有島通夫歌〉
・テイチク提携東宝映画(PCL映画)1936東京ラプソディ」
 主題歌 東京ラプソディ(門田ゆたか作詩 藤山一郎歌)
 挿入歌 東京娘(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 青春の謝肉祭(カーニバル)(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
・日活映画1936渡辺邦男監督「慈悲心鳥」
 主題歌 慈悲心鳥の唄(佐藤惣之助作詩 楠木繁夫歌)
 挿入歌 さらば青春(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
・日活映画1936渡辺邦男監督「魂」
 主題歌 男の純情(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 愛の小窓(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)
・日活映画1936千葉泰樹監督「女の階級」(吉屋信子原作)
 主題歌 女の階級(村瀬まゆみ作詞 楠木繁夫歌)
 挿入歌 回想譜(今城靖児作詞 藤山一郎歌)
・日活映画1936「うちの女房にゃ髭がある」
 主題歌 うちの女房にゃ髭がある(星野貞志作詞 美ち奴、杉狂児歌)
 挿入歌 ああそれなのに(星野貞志作詞 美ち奴歌)
・日活映画1937.1.14渡辺邦男監督「検事とその妹」〈竹田敏彦原作『検事の妹』〉
 主題歌 人生の並木路(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)(テイチク1200)
 挿入歌 聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
・日活1937「真実一路」(山本有三原作)
 主題歌「真実一路の唄」(佐藤惣之助作詞 楠木繁夫歌)
・東宝映画1937.7西條八十原作、「白薔薇は咲けど」
 主題歌 白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 緑の月(佐藤惣之助作詩、奥田瑛子歌)
・日活映画1938「人生劇場―残侠編」(尾崎士郎原作)
 主題歌 人生劇場(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)


27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/01(Sat) 22:13
・東宝映画1940.2.21渡辺邦男監督「春よいづこ」(川口松太郎原作)
 主題歌 春よいづこ(西條八十作詞 藤山一郎、二葉あき子歌)
 挿入歌 なつかしの歌声(西條八十作詞 藤山一郎、二葉あき子歌)
・東宝映画1940渡辺邦男監督「新妻鏡」(小島政二郎原作)
 主題歌 新妻鏡(佐藤惣之助作詞 霧島昇、二葉あき子歌)
 挿入歌 目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、霧島昇、ミス・コロムビア歌)
・松竹映画1940「愛の暴風」
 主題歌 相呼ぶ歌(西條八十作詞、霧島昇、菊池章子歌)
・東宝映画1940「蛇姫絵巻」
 主題歌 蛇姫絵巻(西條八十作詩、志村道夫、奥山彩子歌)
・新興キネマ1940「誰か故郷を想わざる」
 主題歌 誰か故郷を想わざる(西条八十作詞 霧島 昇歌)
・東宝映画1940.10渡辺邦男監督「熱砂の誓い」
 主題歌 熱砂の誓い〈建設の歌〉〈西條八十作詩 伊藤久男歌〉
 挿入歌 紅い睡蓮(西條八十作詞 李香蘭歌)
・東宝映画1941山本嘉次郎監督「馬」
 主題歌 馬(佐藤惣之助作詞 伊藤久男、菊池章子歌)
(「めんこい仔馬」は、この映画のために作られたのがだが映画には入らなかった。)
・東宝映画1941「歌えば天国」
 主題歌 歌えば天国(西條八十作詩、藤山一郎、古川ロッパ、二葉あき子歌)
   (古賀メロディーらしからぬジャズ調の曲です。)
 挿入歌 リンゴが紅い(サトウハチロー詩、藤山一郎、古川ロッパ、松原 操歌)
挿入歌 働こうぜ友よ (佐藤惣之助作詩、藤山一郎歌)
・日活映画1941「海の豪族」
 主題歌 海の豪族(佐藤惣之助作詩 伊藤久男歌)
・松竹・満映合作映画1942「迎春花」(インチュンホウ)
 主題歌 迎春花(西條八十作詞 李香蘭歌)
・映画「蘭花扇(らんかせん)」(1942 5月)
 主題歌 花白蘭の唄(李香蘭、楠木繁夫歌)
・大映映画1942「歌う狸御殿」
 主題歌 歌う狸御殿(サトウハチロー作詞、楠木繁夫、三原じゅん子歌)
 挿入歌 どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、楠木繁夫歌)
・松竹映画1943清水宏. 監督:「サヨンの鐘」
 主題歌 サヨンの鐘(西條八十作詞、渡辺はま子歌)(台湾名 月光小夜曲)
 挿入歌 サヨンの歌(西條八十作詞、李香蘭歌)
 挿入歌 なつかしの蕃社(西條八十作詞、霧島昇、菊池章子歌)


28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/01(Sat) 22:21
・大映映画1943「青空交響楽」(サトウハチロ‐原作)
 主題歌 青い牧場(サトウハチロー作詞 藤山一郎、奈良光枝歌)
 挿入歌 故郷の白百合(サトウハチロー作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
・東宝映画1944「あの旗を撃て」
 挿入歌「雲のふるさと」(大木惇夫作詩、伊藤久男歌)(1946年NHK「ラジオ歌謡」)
・東宝映画1945.1成瀬 巳喜男監督「勝利の日まで」(サトウハチロー脚本)
 主題歌 勝利の日まで(サトウハチロー作詞 波平暁男、近江敏郎他歌)他
 挿入歌 祖国の花(サトウハチロー作詞、轟由紀子、奈良光枝歌)
 挿入歌 硬い約束(サトウハチロー作詞、三原じゅん子歌 )
・東宝映画1946渡辺邦男監督「麗人」(佐藤紅緑原作『麗人』再映画化)
 主題歌 麗人の歌(〈西條八十作詞 霧島 昇歌〉
・大映映画1946「或る夜の接吻」
 主題歌 悲しき竹笛(〈西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉
・東宝映画1947「こころ月の如く」
 主題歌 こころ月の如く〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
 挿入歌 旅の舞姫(〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
・新東宝映画1948渡辺邦男監督「あの夢この歌」(西條八十「唄の自敍傳」より)
 主題歌 あの夢この歌〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
・東宝映画1948市川崑監督「三百六十五夜」(小島政二郎原作)
 主題歌 三百六十五夜〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
 挿入歌 恋の曼珠沙華〈西條八十作詞 二葉あき子歌)
・新東宝映画1948 「湯の町悲歌」
 主題歌 湯の町エレジー(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)
・新東宝映画1949野村浩将監督「影を慕いて」(古賀政男原案)
 主題歌 影を慕いて(古賀政男作詞、藤山一郎歌)
・新東宝映画1949 「夢よもう一度」
 主題歌 夢よもう一度(西條八十作詩 二葉あき子歌)
 挿入歌 愛の灯かげ(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)


玉川英二、星野貞志はサトウハチロ‐の変名。



29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/01(Sat) 22:30
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/02(Sun) 07:55
関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 - 1990年(平成2年)6月6日)は昭和期のソプラノ歌手。本名秋山種子。

岡山県出身。小学生の頃から琴に親しみ、上京後、府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。また、1935年(昭和10年)には新興映画「突破無電」の主題歌「雨に咲く花」がヒット。
1936年(昭和11年)、国民歌謡が始まると奥田良三らと共に、しばしば歌唱指導に起用された。1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍し、「じゃがたら文」「初恋の丘」「明日なき恋」「千人針」「戦陣訓の歌」などをレコーディングしている。一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。


31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/02(Sun) 07:57
関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男氏コロムビア専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディング。1932年の『朝顔の唄(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌唱)』は、古賀氏が「ヒットにならないかもしれないが、良い歌を作ってみたい」と佐藤氏に伝え発表された曲。1934年に古賀氏がコロムビアからテイチクへ移籍。1935年『雨に咲く花(高橋掬太郎作詩・池田不二男作曲編曲)』ヒット直後、歌詩内容が「感傷的すぎる」とプレス中止。関さんはコロムビアでの歌手活動に消極的となったようです。当時、東京音
楽学校出身の方々が歌謡曲を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば伊庭孝氏は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない」。伊庭氏は音楽評論家でもあり、幅広い分野のエンターテイメント・アーティストを応援なさった方。伊庭氏のコメント内容は、かつて「浅草オペラ」に音楽学校関係者の大きな批判があったことも元となってるんではないでしょうか。また、四家さんは西条八十氏の作品をビクターで多数レコーディング。伊庭氏「『東京行進曲』のような唄が流行るから、大衆の音楽が荒れる」。西条氏「はやりうたは、大衆が支持するから流行る。私の作品を批判するなら、大衆を批判するべきだ」。伊庭氏と西条氏は仲が良くなかった。関種子さんは、東洋音楽学校声楽科教授だった1937年に日本ポリドール専属。『じゃがたら文(大木惇夫作詩・阿部武雄作詩作曲・関種子歌唱)』は独特な雰囲気です。また、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディング。



32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 10:26
関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 - 1990年(平成2年)6月6日)は昭和期のソプラノ歌手。本名秋山種子。

岡山県出身。小学生の頃から琴に親しみ、上京後、府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。また、1935年(昭和10年)には新興映画「突破無電」の主題歌「雨に咲く花」がヒット。
1936年(昭和11年)、国民歌謡が始まると奥田良三らと共に、しばしば歌唱指導に起用された。1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍し、「じゃがたら文」「初恋の丘」「明日なき恋」「千人針」「戦陣訓の歌」などをレコーディングしている。一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。


33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 10:37
☆関 種子と「古賀メロディ」

初期の「古賀メロディ」を支えた歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。

乙女心    (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵の唄(貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931.12
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932.1,
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から  (浜田広介作詩、 古賀政男作曲) 1932.3
秘めたる恋   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海  (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌   (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
愛は紅い    (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影  (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
初恋の唄   (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲) 1933.3




乳姉妹の唄 (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲) 1932.6
夢に泣く    (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1934.2
流れの乙女   (佐藤惣之助作詩、竹岡信幸作曲) 1934.12
雨に咲く花   (高橋掬太郎作詩、池田不二男作曲)1935
野薔薇の歌  (佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲 1936国民歌謡
明日なき恋  (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1937
初恋の丘   (藤田まさと作詩、長津義司作曲) 1937.5
千人針 (サトウハチロー作詞、 長津義司作曲) 1938

・関種子
 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90






34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 10:46
SP歌謡は、今危機にあると思います。昭和も遠くなりにけりとなって、「SP歌謡」を知る人も少なくなっていると思います。歌もハッピーなものばかり。テレビの歌番組で「昭和」とは、昭和の末、50年代以降のようですし、歌える歌手も居なくなった。

今こそ、このSP歌謡文化遺産を正しく残して行くことが大切です。


さて今、この状況を象徴するかのように、時々[花は・・]という復興支援ソングと言うのが聞こえてきます。地震直後から放影されていたものですが、でもこの歌には何か大切なものが抜けているのではないだろうか。


花が無くという大震災・大津波の被災とは不釣り合いな、ハッピ−な軽い文句ばかり、何の歌なのかもよくわからない。

遭難、避難された多くの人々があって、やはりその事実、悲しみ、嘆きに寄り添うことなしに、軽々しく復興支援ソングなどといってもらいたくないでしょう。


そんな中、震災直後からYou Tubeに、関種子歌唱 古賀メロディ「嘆きの夜曲」で、解説にはこうあります。・・

嘆きの夜曲 関種子 公開日: 2012/03/05    (*)
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。・・


80年前の古いレコード、それが80年後に起こったこの大震災・大津波(の憂い)をも予期したかのように包含していて、その鎮魂歌としてもぴったりするのは驚きです。(検索は*で)

短いフレーズのなかに、的確に、嘆き、苦しみを凝縮しているようで、詞もメロディーも、シンプルなゆえにかえって、時代を超えて、その事象に対する普遍性を保持して歴史の重みを感にさせる、名曲の名曲たるところで、すごいことです。


憂い,哀しみを歌ったら右に出るものは無い古賀メロディ、時代を超えて生き続ける理由もここにあるといえるでしょう。


35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 10:56
嘆きの夜曲

詩: 西岡水朗

曲: 古賀政男



呼んでみたとて かえらぬ人よ 
なぜに儚い 夢じゃやら
  
想いつかれて 心に秘めて 
暮れりゃ寂しい 雪ばかり 

泣いてみたとて かえらぬ恋よ 
なぜに尽きせぬ 涙やら

灯影つめたく 愁いはながく
絃(いと)のすさびも 嘆(な)くばかり






36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 11:27
昔、昭和戦前の流行歌の歌手は、殆ど東京音楽学校〈現在の東京芸術大学(音楽学部)の前進)その他の音楽学校出身者だった。

河原喜久恵、四家文子、徳山l(たまき)、関種子、藤山一郎(増永丈夫)、楠木繁夫、松原操(ミス・コロムビア)、二葉あき子などのように官製の東京音楽学校出身。四家文子、関種子、藤山一郎(増永丈夫)などは首席卒業だった。

その歌声を聴けばすぐわかる。

昭和3年,「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」、彗星のように大衆の中に浸透していった「古賀メロディ」が、やがて晋平の時代を引き継いで、さらに大衆の中に新しい時代を作り上げていくことになる。

そして、晋平の時代と「古賀メロディ」の時代を繋ぐ歌手がレコード歌手第一号・佐藤千夜子といえるだろう。その歌はさらに若い優れた歌手によって引き継がれていくのだ。

あの誰もマネのできない底辺に一種独特の哀調を帯びたその一連のメロディ、それが「古賀メロディ」と呼ばれるようになるのは昭和の初めである。

その「古賀メロディ」を世に広めた大きな功績は、佐藤千夜子とその後、それを引き継いだ藤山一郎や関種子などをはじめとした若き名歌手たちだった。

そういう意味で、後に「古賀メロディ」と呼ばれることになる「晋平節」とは異なる新しい新鮮な「歌謡曲」の分野で核となる古賀正男という一苦学生を世に送り出す上で決定的役割を果たした佐藤千夜子。

同時に、佐藤は自分が外国に勉強に行くことで結果的に、実際そうであったように古賀を中心に「歌謡曲」という新分野で若い後進声学家たちに、広く活躍の場を与え、結集させることに大きな功績があったと考えられる。

佐藤の昭和歌謡史上に果たした役割と功績は誠に大きいと言わなければならないといえるだろう。

関種子は、黎明期の日本の歌謡の歴史の中で、藤山一郎とともに佐藤千夜子に始まる古賀メロディを支え発展させた歌手として、藤山一郎とともに忘れてはならない名歌手でしょう。




[影を慕いて][日本橋から][片想い]については、ビクターの佐藤千夜子の後、コロムビアで藤山一郎、関種子によって歌い継がれた。

「影を慕いて」(昭和7年)藤山一郎
「日本橋から」(昭和7年)関種子
「かた思い」(片想い)(昭和7年)関種子

後に『古賀メロディ』と呼ばれる一連の今に残る多くの殊玉の名曲は、藤山一郎や関種子など音楽学校出身の優れた歌手・声学家によって支えられたといえるでしょう。

藤山一郎や関種子の流行歌デビューは、古賀政男のコロムビア専属作曲家としてのデビュー(昭和6年)そのものです。

関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディングしている、藤山一郎と共に『古賀メロディ』を語る上で無くてはならないかけがえのない歌手である。

・昭和の歌手シリーズ『関種子』
ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html

音楽学校出身の方々が「歌謡曲」を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば音楽評論家・伊庭孝は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない。」と猛烈に批判した。

そういう中で、関種子は、東洋音楽学校声楽科教授だった昭和12年(1937年)に、コロムビアから日本ポリドール専属となる。以後もずっとポリドールで活躍、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディングしている。




37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 11:43
☆古賀メロディと霧島昇

日本歌謡史に燦然と輝く古賀メロディー。「古賀メロディ」と言えば霧島昇、霧島昇と言えば《誰か故郷を想わざる》。

霧島昇は、藤山一郎、関種子、ディックミネ、松平晃、楠木繁夫、伊藤久男、李香蘭などとともに、古賀メロディをささえた代表的な名歌手の一人である。

霧島昇がコロムビアレコード専属歌手となったのは昭和11年である。

苦学しながら東洋音楽学校(現、東京音楽大学)を卒業。藤山一郎がビクターから、古賀政男のテイチクへ変わった昭和11年、テイチク黄金時代と言われる中、コロムビアはポリドールの東海林太郎の対抗馬としてデビューさせ、翌年「赤城しぐれ」(竹岡信幸作曲)がヒット。

昭和13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を、既にスターだった、ミス・コロムビア(本名松原操)とコンビで歌い、あっという間にスターの階段を上り詰めた。


昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米、昭和14年10月10日に帰国。

アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。

これを皮切りに、《新妻鏡》《目ン無い千鳥》《相呼ぶ歌》などの古賀メロディのヒットに恵まれ、戦後にかけて《誰か故郷を想わざる》など主に「古賀メロディ」を多く歌い広めている事で知られる。

「古賀メロディ」の名曲である「三百六十五夜」は、「愛染かつら」の「旅の夜風」で結ばれた霧島昇と、もとミス・コロムビアの松原操夫妻で歌った最後の曲で、以後、松原操は家庭に入り育児に専念、音楽シーンに顔を出すことはなかった。



☆霧島昇の代表曲(古賀メロディ)

誰か故郷を想わざる(西條八十作詞、古賀政男作曲)        1940.2
新妻模様      (久保田省二作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1940.3
新妻鏡 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子)1940.6
目ン無い千鳥 (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(ミス・コロムビア)1940.6
相呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲) (菊池章子) 1940.9
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操、李香蘭)1941.7
山の凱歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男)   1941.6
思い出の記    (大木惇夫作詞、古賀政男作曲)   1941.12
素晴らしき首途 (西條八十作詞、古賀政男作曲)    1942.5
花の生命     (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲)(李香蘭) 1942.8
故郷の白百合   (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(松原操) 1943.2
なつかしの蕃社  (西條八十作詞、 古賀政男曲)(菊池章子) 1943.5
勝利の日まで(NHK版) (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)   1944.6

麗人の歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
旅役者の唄    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
裏町セレナーデ  (野村俊夫作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1946
旅の舞姫     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1947
高原の乙女     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
あの夢この歌   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1948
三百六十五夜    〈西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1948.9
母を呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(高峰三枝子) 1949
希望に燃えて   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男他)  1949
ギタ‐月夜     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1952
白虎隊(詩吟 荒国誠)(島田磬也作詞、 古賀政男作曲)    1952









38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 11:57
◇戦後の主な古賀メロディ・・

圧倒的に西條八十が多い!。


麗人の歌     1946(〈西條八十作詞 霧島 昇歌〉
悲しき竹笛    1946(〈西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉
こころ月の如く  1947〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
旅の舞姫     1947(〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌
嘆きの小鳩    1947 (西條八十作詞、藤山一郎歌)
あの夢この歌   1948〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
三百六十五夜   1948〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
恋の曼珠沙華   1948〈西條八十作詞 二葉あき子歌)
湯の町エレジー  1948(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)
雨の夜汽車    1948(西條八十作詞、奈良光枝歌)
待ちましょう   1948(西條八十作詞、松田トシ歌)
トンコ節     1948(西條八十作詞、久保幸江歌)
誰に恋せん    1948(藤浦洸作詞、 高峰三枝子歌)(大映映画「誰に恋せん」主題歌)
友情の歌     1948(藤浦洸作詞、藤山一郎歌)  (大映映画 『誰に恋せん』挿入歌)
なつかしのヴエノスアイレス1948(藤浦洸作詞、二葉あき子歌)
シベリヤエレジー 1948(野村俊夫作詞、伊藤久男歌)
愛の灯かげ    1949(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)
夢よもう一度   1949(西條八十作詩 二葉あき子歌)
希望に燃えて   1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング/新東宝映画「影を慕いて」より)(*)
(サトウハチロー作詞、伊藤久男、霧島昇、近江俊郎、二葉あき子、奈良光枝、高倉敏歌)
湯の町夜曲    1949(野村俊夫作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』主題歌)
たそがれの湖   1949(西條八十作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』挿入歌)
赤い靴のタンゴ  1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)
嘆きの孔雀    1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)(新東宝映画「処女宝」主題歌)
愛のカレンダー  1951(西條八十作詞、藤山一郎歌)
青いガス燈    1951(野村俊夫作詞、岡本敦郎歌)
夜の湖      1952(藤浦洸 作詞、藤山一郎歌)
ギター月夜    1952(西條八十作詞、霧島昇歌)
富士エレジー   1952(西條八十作詞、青木光一歌)
ゲイシャワルツ  1952(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
ザビエルの鐘   1953(西條八十作詞、青木光一歌)
見ないで頂戴お月様1953(野村俊夫作詞、神楽坂はん子歌)
長崎ブルース   1954(藤浦洸 作詞、山一郎歌)
湖畔のギター   1954(野村俊夫作詞、霧島昇歌)
おらんだ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよこ歌) (映画「春色お伝の方」挿入歌)
湯の町椿     1954(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
渚の子守歌    1954(西條八十作詞、織井茂子歌)
浪花ばやし    1954(西条八十作詞、青木光一神楽坂歌)
オランダ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよ子歌)
ピレネエの山の男 1955(西條八十作詞、岡本敦郎歌)
娘船頭さん    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌)(松竹キネマ「娘船頭」主題歌)
シクラメン咲けど 1955(西條八十作詞、奈良光枝歌) (映画「暁の合唱」主題歌)
りんどう峠    1955(西條八十作詞、島倉千代子歌)
花のゆくえ    1955(門田ゆたか作詩、及川由子歌)(ラジオ東京『花のゆくえ』主題歌)
怒涛の男     1955(野村俊夫作詞、美空ひばり歌)  (映画「力道山物語」主題歌)(原曲「櫛巻きくずし」)
都に花の散る夜は 1955(丘灯至夫作詞、青木光一歌) (原曲は「さらば青春」)
逢わないで      (西條八十作詞、山本富士子歌)
恋の曽根崎    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌) (『曽根崎心中』より)
お染久松     1955(西条八十作詞、空ひばり歌)
乙女心の十三夜  1956(西條八十作詩、島倉千代子歌) (映画「乙女心の十三夜」主題歌)




39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 12:12
169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 12:13
青春サイクリング 1956(田中喜久子作詞、小坂一也歌)
馬喰一代     1957(野村俊夫作詞、村田英雄歌)
思い出さん今日は 1958(星野哲郎作詞、島倉千代子歌)
無法松の一生   1958(吉野夫二郎作詞、村田英雄歌)
夜の酒場     1958(西條八十作詞、宝田明歌)
白い小ゆびの歌  1960(関沢新一作詞、島倉千代子歌)
雪之丞変化    1963(西條八十作詞、美空ひばり歌)
遊侠街道     1964(西條八十作詞、美空ひばり歌)
東京五輪音頭   1964(宮田隆作詞、 三波春夫歌)
柔        1964(関沢新一作詞、美空ひばり歌)
悲しい酒     1966(石本美由起作詞、美空ひばり歌)
我が心の歌    1968(古賀政男作詞、アントニオ古賀歌)
銀座音頭     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
若い銀座     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
(明治百年大銀座祭記念作品、「銀座音頭」とともに西條八十最晩年の作品でもある。)
浜昼顔      1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母   1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)


*「古賀政男作品集 希望音楽会による古賀政男作曲集( ハーモニカ譜付)」新興音楽出版社/全音楽譜出版社, 1949頃







40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 12:29
◇李香蘭と古賀メロディ

李香蘭〈山口淑子)は、戦前、日本人でありながら、李香蘭という名前の中国人歌手・女優として一世を風靡した人です。1920年に中国の撫順で日本人の両親に間に生まれますが、父の親友の中国人有力者の養女になり、李香蘭という名前を与えられます。

13歳のとき、同い年の白系ロシア人の娘リューバに紹介されたのが、亡命オペラ歌手、マダム・ポドレソフだった。彼女について声楽を学んだ淑子は歌の才能を見事に引き出され、やがて前座としてステージに上がり、ラジオで紹介されるまでに。


『私の半生』によると、李香蘭は元来、体が丈夫でなく、肺浸潤を患って半年休学し、自宅静養する彼女を励ましてくれた、リューバ・モノソファ・グリーネッツという、ユダヤ系の白系ロシア人少女が同級にいた。そのリューバが、病弱の李香蘭に呼吸器をきたえる健康法として、「クラシック歌曲」を習うことをすすめ、知り合いのマダム・ポドレソフを紹介してくれたおかげで、のちの彼女があるといっている。

マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては申し分なしだったと思います。

『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。

また、李香蘭は三浦環に師事した事でも知られる。

こうしたことが、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。COL100542 荒城の月/宵待草 李香蘭

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見ることができる他、国立近代美術館フィルムセンターでもみれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だったという。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏

李香蘭は、コロムビアで昭和15年10月に発売された「紅い睡蓮」によってはじめてレコード歌手として花開いた。 「紅い睡蓮」は、西条八十作詞、古賀政男作曲の古賀作品で、大陸三部作の第3作『熱砂の誓ひ』の挿入歌。

いろいろ歌っているが、李香蘭は、「紅い睡蓮」のほか、「夜霧の馬車」「迎春花」「北京の子守歌」「サヨンの歌」など古賀作品と関係が深い。

(参考資料)
山口淑子『「李香蘭」を生きて』日本経済新聞社(2004)
羽田令子『李香蘭、そして私の満州体験 日本と中国のはざまで』社会評論社(2006)
山口淑子、藤原作弥『李香蘭 私の半生』新潮文庫(1990)



41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 12:34

☆李香蘭の歌う古賀メロディ

さらば上海   (時雨音羽作詞、古賀政男作曲)李香蘭1939.9(初唱1932関種子)
紅い睡蓮     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1940.11
興亜三人娘   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)奥山彩子、李香蘭,白光1940.12
黒き宝     (西条八十作詞、古賀政男作曲) 李 香蘭 1941.6
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(霧島昇、松原操、李香蘭)1941.7
夜霧の馬車    (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
北京の子守唄  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1941.11
迎春花(インチュンホワ)(西條八十作詞 古賀政男作曲)李香蘭 1942
夕月乙女    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1942.7
花の生命    (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲) 霧島昇、李香蘭 1942.8
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫、李香蘭 1942.8

荒城の月(土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲)、明大マンドリンクラブ伴奏、李香蘭 1942.9 COL100542

宵待草  (竹久夢二作詞、多忠亮作曲、古賀政男編曲)李香蘭、明大マンドリンクラブ伴奏1942.9 COL100542

若き日の夢    (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1943.3
サヨンの歌    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1943.5






42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 12:46
5000曲とも言われる古賀政男の、昭和3年から53年に亡くなるまでの半世紀にわたる作品群には、実にたくさんの作品が有り驚かされます。

その中に、昭和17年の「荒城の月」編曲があり、李香蘭のSPレコードが、You Tube やCD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]〈CD16枚〉などで聴くことができます。

「荒城の月」といえば、藤原義江や三浦環、山田耕筰。古賀政男自伝『わが心の歌』〈展望社1965初版〉には、藤原義江は古賀政男が昭和13年11月、外務省音楽親善文化使節としてアメリカに派遣されるにあたって見送るなど、三浦環や藤原義江と古賀政男とは信頼と親交が有ったことが、写真とともにあります。

また、山田耕筰は外国人に日本の音楽を紹介するのに、よく古賀政男の「丘を越えて」を紹介していたといいます。

以下一見関係がなさそうで深い関係が有る、古賀政男と「荒城の月」について参考に。


※古賀政男と「荒城の月」

「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)という歌は、現在の東京芸術大学〈音楽学部〉の前身である「東京音楽学校」主導で中学の音楽教科書のためにつくられた。

明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされる。

明治44年、師である瀧廉太郎が日本最初にドイツに留学するにあたって、門下生である三浦環は、送別演奏会で「荒城の月」(『荒城月』)を歌った。

当時は「歌曲」と言えば外国曲(でなければばらない)とうのが一般的風潮だった中で、昭和3年、藤原義江によってビクターで吹き込まれたのが「荒城の月」レコードの最初。

哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。

世界で活躍していた我等のテナー「藤原義江」は、どこの国に行っても自分の生れた国の歌も歌えないようでは相手にされないとして、率先して日本の歌曲を歌い広めた事でしたれる。

三浦環の「歌姫は強き愛国心をもたざれは」に通ずることだ。

他に、藤原義江は山田耕筰の「この道」その他や、弘田龍太郎の「叱られて」「浜千鳥」などをレコードにしている。

『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたというものではないが、つい30年前「明治維新」 における日本の内戦である戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜- 明治2年(1868年 - 1869年))と無関係ではないのだ。

武家の「栄枯盛衰」とそれに伴う「無常感」が滲んだ詩は、お寺の「講話」にも使われている。
「荒城の月」は、1898(明治31)年、土井晩翠は会津の「鶴ヶ城」をイメージして造られたものだと土井晩翠自身が語っている。(※)

※土井晩翠が1927年6月29日滝廉太郎45年祭で語り、放送された。

幼い頃から父と祖父から戊辰戦争における会津の悲劇と仙台から見た会津の英雄伝をたくさん聞かされて育った晩翠。

そして二高の時、明治維新後、落城したまま、ほったらかされていた「鶴ヶ城」に行き、悲惨な戦争の跡地から月を見て、なんとも儚い想いを詩にした晩翠の詩、それに子供のころを過ごした・大分県竹田の「岡城」から曲を着想した滝廉太郎の作曲がおりなす「荒城の月」。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが昭和17年古賀政男編曲になる。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「荒城の月」をオペラでも歌うつもりか、頭の芯に突き刺さるような高い声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手が今、少なくないが、戦時中慰問先で「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンター、歌は以下に含まれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏


なお、滝廉太郎作曲「荒城の月」の原曲は無伴奏で、以下「山田耕筰編曲版」、「本居長世編曲版」、「橋本国彦編曲版」、それに、李香蘭が戦地で歌った「古賀政男編曲版」がある。




1

43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 12:54
☆「荒城の月」について

『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲(歌李香蘭)


☆(参考)「荒城の月」 SP時代の主な名盤

 1928.02 藤原義江 VIC1175赤盤

 1931,01 萩野綾子 VIC13109赤盤         (橋本国彦編曲版)

 1931,02 奥田良三 POL631631

 1933.05 四家文子 VIC52673

 1933.07 増永丈夫(藤山一郎)VIC52756      (橋本国彦編曲版)

 1936.01 関屋敏子 VIC13452赤盤

 1937.10 藤原義江 VIC13527赤盤

 1942.09 李香蘭  COL100542 @赤盤(スダレ)   (古賀政男編曲版)


(参考)古賀政男編曲「荒城の月」CD

・CD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]日本コロムビア
 発売日:1998年7月18日  CD16枚、
(荒城の月 ;No,16−14)
ttp://joshinweb.jp/dp/4988001187691.html
  ttp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA349020/

・CD「夜霧の馬車 山口淑子 (李香蘭) 」1990 COCA-71089
 15.宵待草   李香蘭 古賀政男編曲、 明大マンドリンクラブ演奏
 16. 荒城の月 山口淑子 (李香蘭)(歌); 作詞 土井晩翠; 作曲 滝廉太郎; 編曲 古賀政男 明大マ ンドリンクラブ演奏
ttp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA318749/





44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 13:09
☆楠木繁夫の代表曲

国境を越えて  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1934.8
男ごころ    (西岡水朗作詞、 古賀政男作曲) 1934.8
白い椿の唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.3
希望の花束 (不詳、古賀政男作曲)      1935.4
ハイキングの唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1935.5
山は微笑む (小西民治作詞、 古賀政男作曲) 1935,8
男のまごころ (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
緑の地平線   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11
啄木の歌    (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1936.4
慈悲心鳥の唄  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.7
護れ国境    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.11
女の階段    (村瀬まゆみ=島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936.12
丹下左膳の唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫歌 1937.1
スキ‐の唄    (島田芳文作詞 、 古賀政男作曲) 1937.3
やすらいの唄 (百田宗治作詞、 古賀政男作曲)1937.3(1947.12 NHKラジオ歌謡)
嬉しい仲     (テイチク文芸部作詞、古賀政男作曲)(美ち奴)    1937.5
のばせばのびる (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)        1937.7
真実一路の唄 (佐藤惣之助作詞、 古賀政男作曲)        1937.8
時代の霧   (門田ゆたか作詞、 古賀政男作曲)        1937.12
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲)(ディックミネ) 1938.1
人生劇場   (佐藤惣之助作詞、 古賀政男作曲)        1938.6
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、 古賀政男作曲)(李香蘭)    1942.8
どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)        1942.12
歌う狸御殿   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(三原純子)1942.12
月の小島 (西條八十作詞、 古賀政男作曲)         1942.12
戦いの街に春が来る(西條八十作詞、古賀政男作曲)(菊池章子) 1943.3
明けゆく蒙古  (佐藤惣之助作詞、 古賀政男作曲)        1943.3
夏子の歌    (西條八十作詞、 古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1943.10
いさおを胸に (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲)(松原操)1944.11
カボチャの歌  (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1944.11











147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:41
☆古賀メロディと霧島昇

日本歌謡史に燦然と輝く古賀メロディー。「古賀メロディ」と言えば霧島昇、霧島昇と言えば《誰か故郷を想わざる》。

霧島昇は、藤山一郎、関種子、ディックミネ、松平晃、楠木繁夫、伊藤久男、李香蘭などとともに、古賀メロディをささえた代表的な名歌手の一人である。

霧島昇がコロムビアレコード専属歌手となったのは昭和11年である。

苦学しながら東洋音楽学校(現、東京音楽大学)を卒業。藤山一郎がビクターから、古賀政男のテイチクへ変わった昭和11年、テイチク黄金時代と言われる中、コロムビアはポリドールの東海林太郎の対抗馬としてデビューさせ、翌年「赤城しぐれ」(竹岡信幸作曲)がヒット。

昭和13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を、既にスターだった、ミス・コロムビア(本名松原操)とコンビで歌い、あっという間にスターの階段を上り詰めた。


昭和13年11月8日にテイチクか

45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 13:22
☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)

恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(川畑文子)1935.6
望郷の唄 (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに   (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ   (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫)  1938




46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 13:31
☆昭和SP歌謡  主な歌手(戦前・戦中) 1,

「昭和」と言う、まだ日本がまだ草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、レコード歌謡が花開き、人々に迎えられたのです。SPレコードの時代です。
その歌手の多くは音楽学校出身者でした。以下にその主な歌手と主な歌を。

佐藤千代子(1897-1968)(東京音楽学校)波浮の港、東京行進曲、当世銀座節、
レコード歌手第一号、大正から昭和の初めにかけて、中山晋平の歌を世に広めた歌手です。古賀政男の才能を発見したことで、日本の大衆音楽史の中で忘れてはならない歌手です。
童謡、新民謡、歌曲、歌謡曲、新日本音楽など100曲を超えるレコードを残しいている。


藤原義江(1898−1976)  出船の港、 波浮の港、鉾をおさめて、出船,特幹の歌
二村定一(1900-1948)   私の青空、アラビアの唄、君恋し、神田小唄
内海一郎(宇津美清)(1898―1972)(東京音楽学校)道頓堀行進曲、銀座行進曲
天野喜久代(1897-1945)(帝劇歌劇部)私の青空、アラビアの歌、チャッカリしてるわね
曽我直子(1905−1995)  (東洋音楽学校)蒲田行進曲、沓掛小唄、明眸花の唄、
藤本二三吉(1897-1976)     祇園小唄、唐人お吉小唄(明烏篇)
河原喜久恵(1902-1997) (東京音楽学校)麗人の唄、月の浜辺、無憂華の唄
四家文子(1906−1981) (東京音楽学校)銀座の柳、踊り子の唄、不壊の白珠
徳山l(たまき)(1903−1942)(東京音楽学校)侍ニッポン、天国に結ぶ恋、隣組
関 種子(1907-1990)  (東京音楽学校)窓に凭れて、嘆きの夜曲、あけみの唄、
藤山一郎(1911-1993)  (東京音楽学校)酒は涙か溜息か、丘を越えて、影を慕いて
松平晃(1911-1961)   (東京音楽学校)サーカスの唄,望郷の唄、人妻椿
淡谷のり子(1907-1997) (東洋音楽学校)私この頃憂鬱よ、佳人よ何処へ
羽衣歌子(1902−1979) (東洋音楽学校)女給の唄、
中野忠晴(1909-1970) (武蔵野音楽学校)山の人気者、高原の唄、歓喜(よろこび)の歌
ミス・コロムビア(松原操) (1911−1984)(東京音楽学校) 十九の春、旅の夜風、目ン無い千鳥
楠木繁夫(1904-1956)  (東京音楽学校)緑の地平線、女の階級、人生劇場
新橋喜代三(1903-1963)    明治一代女、 酋長の娘
和田春子(渡辺光子)(1906−2003)幌馬車の唄、強くなってね、
二葉あき子(1915-2011) (東京音楽学校)あの花この花、新妻鏡、春よいづこ
小唄勝太郎(1904-1974) 島の娘
東海林太郎(1898-1972) 赤城の子守唄,国境の町、すみだ川,旅笠道中、野崎小唄
上原  敏(1908-1944)  妻恋道中、裏町人生、流転
児玉好雄(1909-1986)  無情の夢 
林伊佐緒(1912-1995)  出征兵士を送る歌
美ち奴 (1918〜1996)  ああそれなのに、うちの女房にゃ髭がある
杉狂児(1903−1975)  (東京音楽学校)うちの女房にゃ髭がある
由利あけみ(1913-) (東京音楽学校)黒いパイプ、愛国六人娘、茶坊の花、長崎物語、
ディック・ミネ(1908−1991)二人は若い、愛の小窓、人生の並木路、ゆかりの唄
霧島昇(1914-1984)   (東洋音楽学校)誰か故郷を想わざる,新妻鏡、旅の夜風
李香蘭(1920−)  迎春花、紅い睡蓮、夜霧の馬車、サヨンの歌、蘇州夜曲
奥田瑛子(1907- ) 緑の月、別れの歌、南国の乙女、浜辺の哀唱
奥山彩子(1916-)    (東洋音楽学校) 蛇姫絵巻,母立つ丘、興亜三人娘
菊池章子(1924--2002)  (東洋音楽学校)相呼ぶ歌、愛馬花嫁、馬、湖畔の乙女
渡辺はま子(1910-1999) (武蔵野音楽学校)サヨンの鐘,蘇州夜曲、夏子の歌
三原純子(1920−1959)  南から南から、固い約束
市  丸(1906−1997)   天竜下れば、濡れつばめ
松島詩子/千早淑子(1905-1996)  マロニエの木陰、夕べ仄かに 
伊藤久男(1933-1983) (帝国音楽学校)暁に祈る、白蘭の歌、熱砂の誓い(建設の歌), 馬




47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 13:37
志村道夫(1914-)     (東京高等音楽学院) 蛇姫絵巻
有島通男(1911-)    (東洋音楽学校)春まだ浅く
小林千代子(1910−1976) (東洋音楽学校)涙の渡り鳥、 旅のつばくろ
小夜福子(1909-1989)    (宝塚音楽歌劇学校)小雨の雨
高峰三枝子(1918-1990)  純情二重奏、南の花嫁さん、湖畔の宿
能勢妙子(1915-1999)   あなたなしでは
伏見信子(1915−)    あの夢この夢、花言葉の唄、初恋日記
北廉太郎(1920-1940)   潮来夜船,青春の丘
奈良光枝(1923-1977)   青い牧場、祖国の花、勝利の日まで
井口小夜子(1914-2003) (武蔵野音楽学校) 乙女十八,ねんねのお里、
轟由紀子(1917−1967) (宝塚音楽歌劇学校) お使いは自転車に乗って、 祖国の花
波平暁男(1915−1983) (東京音楽学校)    月夜船、勝利の日まで
近江俊郎(1918−1992) (武蔵野音楽学校)   明日もまた、勝利の日まで
灰田勝彦(1911−1982)  煌く星座、鈴懸の径
高田浩吉(1911−1998)  大江戸出世小唄、故郷の唄
田端義夫(1919−2013)  大利根月夜、シンガポールだより  
小畑 実(1923−1979)  勘太郎月夜唄,湯島の白梅
岡晴夫 (1916-1970)   上海の花売り娘、港シャンソン


(参考)
東京音楽学校  (現 東京藝術大学音楽学部)
東洋音楽学校 (現 東京音楽大学)
武蔵野音楽学校(現 武蔵野音楽大学)



追加
内田栄一(1901−1985) (東京音楽学校) 起てよ一億
中村淑子(1911− ) (東京音楽学校) 愛国行進曲、日の丸行進曲
伊藤武雄(1905-1987) ) (東京音楽学校) 愛馬進軍歌
酒井 弘(1914-1996) (東京音楽学校) ああ紅の血は燃ゆる、働く力
波岡惣一郎(1910−1951) (東洋音楽学校)かちどきの歌、興亜行進曲、日の丸行進曲
永田絃次郎(1909−1985)  出征兵士を送る歌
大谷冽子(1919−2012)   (武蔵野音楽学校)ジャワのマンゴ売り
結城道子(1908−?)    (東京高等音楽学院)裏町人生
三島一声(1889-1974)  東京音頭
小笠原美都子(1920-)  十三夜
青葉笙子(1918-2012)    鴛鴦道中
川端文子(1916−2007) 上海リル、青空
三門順子(1915−1954)   愛国千人針
服部富子(1917−1981)   満州娘
江戸川蘭子(1913-1990) (日劇音楽舞踊学校)上海リル
小野 巡(1910−2009)    祖国の護り
塩まさる(1908-2003)    九段の母、
樋口静雄(1911−1973)  チンライぶし、緑の幌馬車、田園交響楽
赤坂小梅(1906−1992)   ほんとにそうなら、
豆千代(1912−2004)   夕日は落ちて
市丸(1906−1997)     天龍下れば、ちゃっきり節
音丸(1906―1976)     船頭可愛や、下田夜曲





48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 15:57
☆昭和戦前の作曲家


日本に本格的なレコード会社が登場したのは、昭和改元(1926)とともにあり、今から80数年余り前の昭和2年から3年にかけてです。

レコード歌謡の最初は昭和3年の「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)とされる。

SPレコードの時代は、戦前から戦後にかけて、映画「二十四の瞳」の時代と重なる日本がまだ貧しく、くるしい時代です。しかし、その中にも豊かな心をはぐくんでいたでしょう。

昭和、戦前戦中、今に残る数多くの名曲がレコードに乗って世に出ています。昭和の歴史が生んだ豊かな心の表れであるSPレコードとその歌声は文化遺産と言えます。

そして今歌われているそのほとんどは、主にここに上げた作曲家によるものと言えるでしょう。


日本の西洋音楽を取り入れた大衆音楽は本居長世、その弟子中山晋平、弘田龍太郎にはじまる。


大衆音楽と作曲家(昭和・戦前)

中山晋平(1887〜1952)(*)青い芒、波浮の港、当世銀座節、東京行進曲
弘田龍太郎(1892〜1952) 野薔薇の歌、無憂華の唄、いさおを胸に(編曲)、今年の燕、お国のために
佐々木すぐる(1892〜1966) 兵隊さんよありがとう、昭和の子供
佐々紅華(1907〜1961)君恋し、祇園小唄、浪花小唄、神田小唄
堀内敬三(1897〜1983)(*)黒い瞳よ今いずこ、麗人の唄、
塩尻精八        道頓堀行進曲、女給の唄
奥山貞吉(1887〜1956)ザッツ・オーケー、沓掛小唄,乳姉妹の唄、お島千太郎旅唄

古賀政男(1904〜1978)(*)影を慕いて、丘を越えて、あけみの唄、いさおを胸に、
松平信博(1893-1949) サムライ・ニッポン、ルンペン節、天国に結ぶ恋
江口夜詩〈1903〜1978〉 十九の春、忘られぬ花、急げ幌馬車
仁木他喜雄〈1901〜1958〉 高原の月、めんこい仔馬
万城目正〈1905〜1968〉旅の夜風、愛染夜曲、純情二重奏
服部良一〈1907〜1993〉(*)蘇州夜曲、別れのブルース、別れのブルース
佐々木俊一〈1907〜1957〉涙の渡り鳥
竹岡信幸(1907〜1985)赤城の子守歌,人妻椿
長津義司〈1904〜1986〉十三夜、
古関裕而〈1909〜1989〉船頭可愛や、愛国の花、露営の歌、暁に祈る
早乙女光〈1904〜1944〉湖畔の乙女、荒野の夜風、愛国の花、古き花園
明本京静〈1905〜1972〉父よあなたは強かった、伊豆の子守唄
大村能章〈1893〜1962〉旅笠道中、野崎小唄、
阿部武雄〈1902〜1968〉 流転、むらさき小唄、国境の町
山田栄一〈1906〜1995〉すみだ川

*日本音楽著作権協会会長歴任 (他に詩人、西条八十、サトウハチロー、勝承夫)





49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 16:07
☆昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)

昭和前半の昔の歌には、その3分間の中に「ドラマ」があって、歌詞と曲は一体のものでした。

当代随一と言われた詩人、作詞家、作曲家たちが心をこめて作った歌、そのさりげない短い言葉、そのメロデーの中に行間のドラマ、・喜びと哀しみを共有したのです。

昭和戦前の大衆歌曲(歌謡曲)分野に貢献した主な詩人・作詞家を参考に。


*野口雨情(1882〜1945) 波浮の港、鶯の夢、青い芒、紅谷の娘、
*西條八十(1892〜1970) (※)東京行進曲、誰か故郷を想わざる、旅の夜風
 時雨音羽(1899〜1980 ) 出船の港、鉾をおさめて、君恋し、浪花小唄
 堀内敬三(1897〜1983) 私の青空、アラビアの唄、黒い瞳よ今いずこ
 長田幹彦(1887〜1964) 祇園小唄、天竜下れば、島の娘
*島田芳文(1898〜1973) 丘を越えて、キャンプ小唄、月の浜辺、窓に凭れて
 高橋掬太郎(1901〜1970) 酒は涙か溜息か、雨に咲く花、人妻椿
*佐藤惣之助(1890〜1942)人生の並木路、新妻鏡、男の純情、青い背広で、
*サトウ・ハチロ−(1903〜1973)(※)麗人の唄、目ン無い千鳥、勝利の日まで、
*西岡水朗(1909〜1955) 嘆きの夜曲、忘られぬ花、
*大木惇夫(1895〜1977) 崑崙越えて、思い出の記、雲のふるさと、国境の町
*藤浦 洸(1893〜1979)ビア樽ポルカ、別れのブルース、月夜船
*久保田宵二(1899〜1947)浮草の唄、ほんとにそうなら、山寺の和尚さん、
 佐伯孝夫(1902〜1981) 無情の夢、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、
 門田ゆたか(1907〜1975) 東京ラプソディー
 藤田まさと(1908〜1982) 旅笠道中、明治一代女、妻恋道中、鴛鴦道中、
 倉仲房雄(サトウハチロー)合歓の木蔭で、東京の夢、友情夜曲、
 玉川英二(同上)    二人は若い
 星野貞志(同上)     うちの女房にゃ髭がある、あゝそれなのに
 山野三郎(同上)     若しも月給が上がったら
 島田磬也(1909〜1978)  白虎隊、望郷の唄、啄木の唄
 宮本旅人        旅姿三人男、懐しのヴィオロン
 石松秋二        十三夜、九段の母、満州娘
 矢島寵児1908〜1946)  名月赤城山
 清水みのる(1903〜1979)出船の唄、別れ船
 野村俊夫(1904〜1966)  暁に祈る、ヒュッテは招く、あの日あの時

(*は詩人。※は戦後において日本音楽著作権協会会長歴任(他に勝承夫))




50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 16:22
☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・

 青春日記、青い背広で、男の純情、人生の並木路・・佐藤惣之助没後70年!

物が、食があり余る「飽食の時代」、若者文化を象徴するかのような最近のニューミュ-ジック等のテレビ歌番組には、重い言葉であるべき『名曲』と言う言葉がいとも軽く平気で飛び交っているのには違和感を覚える人も少なくないでしょう。

「名曲」と言うものは、聴くことに依って心が洗われ癒され、心穏やかになれる、心の原点を取り返すことができる。人は、心が洗われ、心穏やかになり、心の原点を取り戻した時、自然に涙がでてくる、そして人は再び生きる力を与えられる。

「人生の苦悩」から始まった「古賀メロディ」・・「影を慕いて」が作られた昭和3年、唱歌・童謡、民謡、新民謡等を除いて、今ある歌のほとんどはまだなかった。

「古賀メロディ」にもいろいろあるが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたものに、より名曲が多い。(ただしSPオリジナルを基本とした音源でないと聴けない。)

その短い中に、底辺に流れる誰もマネできない独特の哀調を帯びたメロディの中に、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するようなメロディの中に、明日に向かって生きていく躍動や青春の息吹を感じさせる・・、今までにない詩とメロディ、人々はそれを敬愛の意味を込めて「古賀メロディ」と呼んだ。

 初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」というような意味の記事が大きく載った。古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという意味のことが自伝に載っています。

これまでの流行歌が、どちらかというと抑揚の少ない平板に感じられるような、「古賀メロディ」の出現によって、より表情豊かで心の襞に滲みわたるあたらしい歌の形ができていくのだが、それを決定的にしたのが古賀政男とのコンビで数多くの名曲を世に送り出した事で知られる詩人・佐藤惣之助だろう。

古賀政男の自伝には、私が本格的に作曲に全身全霊を傾けるようになったのは惣之助さんと出会ってからだったということが書かれている。

川崎出身の詩人・佐藤 惣之助は、大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。


惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出した。また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導養成にあたった事で知られる。

さらに俳句や歌謡、小説、随筆にもすぐれた業績を残したほか、釣や義太夫、演劇、民謡研究、郷土研究、沖縄風物の紹介など多方面で活躍した。釣りに関する書物も多数残している。

大正の末から昭和の初めにかけての佐藤惣之助の主な活動は、八木重吉など70余名の同人・門下生を抱える、「詩の家」を主宰することだった。
そして天真闊達な、くったくのない人柄で世話役をつとめていた。





51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 16:32
詩人佐藤惣之助が本格的に歌謡曲の作詞を手掛けたのは、古賀政男がコロムビア専属作曲家(1931.3)になった翌年、藤山一郎の「影を慕いて」(1932.3 コロムビア)が出た昭和7年(1932)からです。

その最初は、「金色夜叉(お宮の唄) 」(1932.2 関種子)、「鳩笛を吹く女の唄」(1932.2 井上静雄(藤山一郎)、いずれも古賀政男作曲です。下に、参考までに最初期の佐藤惣之助とのコンビによる主な作品をあげる。

この後、昭和8年1月には、夫人花枝と死別、同年8月に「日本詩人」や馬込の文士村での仲間の朔太郎の妹周子(かねこ・本名愛子)と再婚するとになった。

酒を愛し、釣りを愛した人として知られる惣之助は、「私は詩を大衆の中に捨てた。そして波浪の中から自然の魚を釣った」と書いている。

なお、歌謡曲の作詞をし始めた昭和一桁時代も、それ以降も、「處女線を截る」「花心」などの詩集、随筆「釣心魚心 」「怒れる神 」(昭和14年)、「わだつみの歌」 「青年詩集」(昭和16年)、「春すぎし」(昭和17年) などの詩集を亡くなる直前まであらわし生涯に22の詩集を出している。詩人や文人で彼の門下生も多い。

そして古賀政男は、「人生の並木路」や、「新妻鏡」など、感動で打ち震え楽譜を「大粒の涙で濡らしながら」多くの名曲を世に送ることになる。

昭和7年頃からの佐藤惣之助の作詞活動は、17年に亡くなるまでの10年間余りながら、「人生の並木路」「新妻鏡」「青い背広で」「男の純情」など古賀メロディを中心とし日本人に心の琴線に触れる多くの殊玉の名曲、それに新民謡、他の国民歌謡その他を含めて660篇余りにも及ぶ。

今年、平成24年(2012)5月は、この「古賀メロディ」で忘れてはならない詩人であり作詞家である佐藤惣之助(1890 〜 1942)が亡くなって丁度70年になります。


太平洋戦争開戦から5ヶ月ほどたった昭和17年(1942)の5月15日、佐藤惣之助(51歳)が外出先の馬込(東京大田区 馬込文士村)で脳溢血を起こして倒れ亡くなりました。

佐藤惣之助は昭和12年に現在の大田区馬込にある「文士村」から雪谷に引っ越していたのだが、2日前、義兄の萩原朔太郎の告別式の葬儀委員長をやったばかりでした。

義兄・萩原朔太郎(1886〜1942)は昭和17年5月11日肺炎で死去55歳、13日に自宅で告別式。その4日後、惣之助は過労から脳溢血で倒れ、51歳の若さであっけなくこの世を去った。

惣之助最後の作品は、昭和17年4月のNHK国民合唱「働く力」(国民皆労の歌)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、酒井弘歌)です。

没後70年、もうすぐ命日ですが、惜しまれてならない詩人です。






52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 16:41
☆「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・

金色夜叉(お宮の唄)       1932.2 関種子
鳩笛を吹く女の唄        1932.2 井上静雄(藤山一郎)
秘めたる恋           1932.3 関種子
武雄の唄             1932.5 中野忠晴
春の唄              1932.6 淡谷のり子
月夜の恋             1932.6 丸山和歌子
朝顔の唄    1932.6 関種子
笛は冴ゆれど       1932.7 関種子
不如帰    1932.8 淡谷のり子
放浪の唄            1932.9 長谷川一郎
アリランの唄(朝鮮民謡)     1932.9 淡谷のり子、長谷川一郎
愛は紅い        1932.9 関種子


「緑の地平線」や「人生の並木路」など、その後の主な映画主題歌については、「古賀メロディ−と映画主題歌」参照。



・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
   ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html
・阪神タイガースファンなら誰でも知ってる☆詩人・佐藤惣之助          
  テーマ:馬込文士村
   ttp://ameblo.jp/mocchann314/entry-10769706865.html
・六甲颪(ろっこうおろし)の歌詞から
   ttp://ameblo.jp/mori-arch-econo/entry-10736372304.html
・萩原朔太郎と佐藤惣之助
   ttp://siokaze1.cocolog-nifty.com/sakanachann/2008/02/post_4273.html
・二木紘三のうた物語
   ttp://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_1ee6.html





53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 16:52
【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50



日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】


http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50

54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 17:12
※サトウハチロー映画作品 (主な古賀政男作曲作品)

・日活映画 渡辺邦男監督1935.6「うら街の交響樂」(サトウハチロー原作)
 主題歌 戀は荷物と同じよ/川畑文子、ディック・ミネ歌(瀬川与志作詞 - 古賀政男作曲 )  50033 @
 挿入歌 あなたとならば (瀬川与志作詞 - 古賀政男作曲 )バートン・クレーン・川畑文子 (瀬川与志=サトウハチロー)
・日活映画1935.10大谷俊夫監督「のぞかれた花嫁」(小国英雄原作)
 主題歌 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞 杉狂児歌)
 挿入歌 二人は若い(玉川英二作詞 ディック・ミネ, 星 玲子歌)
・日活映画1936「純情一座」
 主題歌 純情一座の唄(玉川英二作詩、千早俶子〈松島詩子〉歌)
 挿入歌 風に吹かれて(玉川英二作詩、木村肇歌)
・日活映画1936「うちの女房にゃ髭がある」(サトウハチロ‐原作)
 主題歌 うちの女房にゃ髭がある(星野貞志作詞 美ち奴、杉狂児歌)
 挿入歌 ああそれなのに(星野貞志作詞、美ち奴歌)
・日活映画、伊賀山正徳監督1037、『ジャズ忠臣蔵』(原作サトウ・ハチロー、音楽古賀政
 男)、主演杉狂児、共演美ち奴、日活多摩川
 主題歌 「道行シャンソン」(杉狂児、作詞)杉狂児、美ち奴、「嬉しい仲」(美ち奴,楠木繁 夫歌)
・東宝映画1940渡辺邦男監督「新妻鏡」(小島政二郎原作)
 (主題歌 新妻鏡(佐藤惣之助作詞 霧島昇、二葉あき子歌))
 挿入歌 目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、霧島昇、ミス・コロムビア歌)
・誰も知らない(サトウ ハチロー作詞、古賀政男作曲、奥山貞吉編曲、ミス コロムビア(松 原操))1939.9
・松竹映画1940「新妻問答」(野田高梧原作)
 挿入歌 波を越えて(サトウハチロー作詞、伊藤久男歌)
・東宝映画1941「歌えば天国」(古川緑波原作)
 挿入歌 リンゴが紅い(サトウハチロー詩、藤山一郎、古川ロッパ、松原 操歌)
・大映映画1942「歌う狸御殿」(木村恵吾原作)
 主題歌 歌う狸御殿(サトウハチロー作詞、楠木繁夫、三原純子歌)
 挿入歌 どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、楠木繁夫歌)
・大映映画1943「青空交響楽」(サトウハチロー原作)
 主題歌 青い牧場(サトウハチロー作詞 藤山一郎、奈良光枝歌)
 挿入歌 故郷の白百合(サトウハチロー作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
・いさをを胸に1944(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲,楠木繁夫、松原操)(国民合唱・陸・海軍礼式歌)
・東宝映画1945.1成瀬 巳喜男監督「勝利の日まで」(サトウハチロー脚本)
 主題歌 勝利の日まで(サトウハチロー作詞 波平暁男、近江敏郎他歌)他
 挿入歌 祖国の花(サトウハチロー作詞、轟由紀子、奈良光枝歌)
 挿入歌 硬い約束(サトウハチロー作詞、三原純子歌
・大映映画 「今宵妻となりぬ」(田中重雄監督)  1947.3
 主題歌 今宵妻となりぬ(サトウハチロー 作詞、 高峰三枝子歌) 1947
・希望に燃えて (1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング)(サトウハチロー作詞、伊藤 久男、霧島昇、近江俊郎・二葉あき子・奈良光枝)・





55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 17:36
佐藤惣之助

明治23年、神奈川県川崎町生れ。詩人。
37年頃より句作を開始。
39年佐藤紅緑の秋聲会の同人となる。
43年小山内薫、吉井勇などと劇作を試みる。
44年川田花枝と結婚。
45年12月福士幸次郎、千家元麿、高村光太郎、木村荘八と雜誌「テラコツタ」を創刊。
大正3年元麿らと雜誌「エゴ」創刊。「白樺」の衞星雜誌として武者小路實篤も寄稿。
4年處女詩集『正義の兜』出版。
8年雜誌「大洋の岸邊」創刊(光太郎、元麿、白鳥省吾、中西悟堂らが寄稿)。
11年5〜7月琉球、臺灣を旅行。
14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。
昭和3年5月滿洲、蒙古、朝鮮各地を1箇月に亙り旅行す。
8年1月夫人花枝と死別、同年8月朔太郎の妹周子と再婚。
9年年末上海、香港、廣東、マニラを旅行。
13年9月久米正雄、林房雄、川口松太郎らと武漢作戰に從軍記者として參加。
17年5月15日、外出中、腦溢血のため死去。
大の釣好きで、釣に關する著書が數册ある。日本磯釣倶樂部常務理事を歴任。

歌謠曲の作詞者としても知られる。



56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 21:54
(参考)
佐藤惣之助資料

「大手拓次/佐藤惣之助」新学社2006
「佐藤惣之助全集. 第1巻(詩集 上)〜第3巻」日本図書センター2006
渡辺明 「湖畔の宿 絢爛の詩人佐藤惣之助」上毛新聞社1990
「日本の詩歌13」中央公論社1975(中公文庫)
藤田三郎著「佐藤惣之助 詩とその展開」木菟書館1983
(佐藤惣之助研究・主要参考文献,年譜:p408〜438)
伊藤桂一「集成日本の釣り文学. 第1巻」作品社1995
詩の家編「佐藤惣之助詩華集」詩の家1991

昭和女子大学近代文学研究室著「近代文学研究叢書49」昭和女子大学近代文化研究所1979
「日本詩人全集12」新潮社1979
「近代文学研究叢書89 現代詩集」筑摩書房1967
「日本現代文学全集 54」講談社1980
「現代日本文学大系41 」筑摩書房1979
伊藤信吉等編「現代詩鑑賞講座. 第6巻」角川書店1969
潮田武雄編「佐藤惣之助覚え帖」桜井書店(昭和18年)
吉行淳之介〔ほか〕編集「現代日本のユーモア文学. 3」立風書房1980
佐藤惣之助「華やかな散歩 : 佐藤惣之助詩集 その6」新潮社(大正11)
「春すぎし : 佐藤惣之助詩文集」鶴書房(昭和17年)


57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 22:01
古賀政男は、自伝「古賀政男「歌はわが友、わが心」(人間の記録93 日本図書センター)で、「私が作曲の醍醐味を知ったのは、やはり惣之助さんと出会ってからだ」と回顧している。

佐藤惣之助の名詞は古賀政男の曲と出あうことによって、いつの時代にも、それぞれの聴く人の人生に重ねあわせることができる、時代を超えるすばらしい名曲となったということでしょう。

佐藤惣之助は当時盛んであった民謡詩も多く書いていて、昭和4,5年頃の作品に新民謡がみられる。その中には、「新作おわら」、「下婢」(昭和4年)、「大分おどり「川崎小唄」(町田嘉章曲、川崎 豊、コロムビア 」ななどがある。(昭和五年発行『世界音楽全集13日本民謡曲集』)。

また、昭和5年には、「吉見紫香」の名前で「ふるさと」(松村まこと作曲、コロムビア)がある。


58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 22:09
新民謡集
◇大正15年|佐藤惣之助『浮れ鴛鴦 民謠集』東京:紅玉堂書店。
◇昭和4年|佐藤惣之助『波止場のむすめ 新民謡集』東京:泰文館書店。


参考までに、詩人・佐藤惣之助の著作等の資料が以下の図書館で見れます。

・大田区立馬込図書館 馬込文士村コレクション資料
 ttp://www.lib.city.ota.tokyo.jp/o_magome_sa.html

・川崎市立中原図書館 佐藤惣之助資料


59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 22:19
八十と惣之助

大正期の詩人として、西条八十(1892〜1968)と佐藤惣之助(1890〜1942)のふたりが、 なぜか気になる。八十は芸術派、惣之助は人道派とタイプは違うが、似ているところもある。ひとつは、詩のうまさ。もとより、その質は異なるし、そのうまさに余剰(余情にあらず)がないところがものたりないと云えるが。もうひとつは、後に歌謡曲の作詞家として名をなしたところ。・・


なお、惣之助の義兄であり「日本詩人」同人でもある萩原朔太郎も古賀政男とは関係が深い詩人で、「古賀メロディ」を高く評価していました。


60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 22:38
参考

「別冊太陽 近代詩人百人(特別付録・萩原朔太郎 佐藤惣之助宛書面)」(別冊太陽No.24 (AUTUM‘78)(平凡社1978)

61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 23:45
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50

62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/04(Tue) 14:04
昭和3年(1928)にはレコード歌手第一号とさあれる佐藤千夜子の「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)の他、二村定一の「アラビヤの唄」、「青空」など外国曲の訳詩曲や、藤原義江の「出船」(杉山長谷夫作曲〉、「出船の港)(野口雨情作詞、中山晋平作曲)など。昭和4,5年には、映画主題歌第一号「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)、「紅屋の娘」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)など佐藤千夜子の中山晋平の曲、二村定一の「君恋し」(時雨音羽作詞、佐々江華作曲)など。
昭和6年に、ここに彗星のように現れるのがコロムビアの若き古賀政男。

丘を越えて  (藤山一郎)
キャンプ小唄 (藤山一郎)
月の浜辺   (河原喜久恵)
乙女心    (関種子)
窓に凭れて  (関種子)
酒は涙か溜息か(藤山一郎)

昭和6年(1931)に入ると、ビクタ‐1月新譜「影を慕いて」(佐藤千夜子、昭和5年10月吹込)以降、3月にコロムビア専属作曲家となった新星古賀政男は次々にヒット作品を世に送り出し、これまでの晋平節とは一味違う哀調を帯びた「古賀メロディ」と呼ばれることになる新しい歌謡曲(歌謡歌曲)のジャンルを確立してゆく。
[影を慕いて]は昭和7年藤山一郎に依って再び吹き込まれる。

「古賀メロディー」を支えたのは、河原喜久恵、関種子、藤山一郎など、東京音楽学校(東京芸大音楽学部の前進)出身の若き首席卒業歌手たちなどだった。当初ビクターの一人勝ちで出発したレコード界の主流は古賀政男のコロムビアに移ってゆく。
他に昭和6年には、「侍ニッポン」(西條八十作詞、松平信博作曲、徳山 l(たまき))などがある。

昭和7年から8年にかけて、昭和8年は、ビクター専属の西條八十とコロンビア専属の古賀政男が専属を越えたタイアップが行われた。

鳩笛を吹く女の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 井上静雄(藤山一郎)
影を慕いて    〈古賀政男作詞作曲〉 藤山一郎
「お蝶夫人」の唄 (西條八十作詞、古賀政男作曲)ミス・コロムビア
笛は冴ゆれど   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)関種子
朝顔の唄     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)関種子
あけみの唄    (原 阿佐緒作詞、古賀政男作曲) 関種子
嘆きの夜曲    (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 関種子
二見情話     (西岡水朗作詞、古賀政男作曲)
美はしの宵    (島田芳文作詞、古賀政男作曲) 関種子
去りゆく影    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 関種子
サーカスの唄   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 松平晃




63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/05(Wed) 22:33
☆三浦環と古賀政男

日本が生んだ世界的プリマドナ三浦環が、その63歳の生涯を終えたのは66年前、終戦直後の昭和21年5月26日のことで、東京渋谷の病院で死去。

環が亡くなった時、東大病院で解剖した彼女の声帯は、二十歳以下のそれだっ たという。
環は、ただ日本が生んだ世界的プリマドンナというだけでなく、当時の日本の音楽芸術家と言われる人たちがとかく西洋かぶれして日本の文化を見失っていたのと違って、日本をこよなく愛した。

祖国愛に満ちた、日本の島国的な発想の中に収まりきらない、たいへんスケールの大きな人物として知られている。かってNHKでもドラマがあった。また、三浦環と古賀政男には深い関係が有る。

なお、古賀メロディを支えた歌手に、三浦環に師事した李香蘭(山口淑子)、白光や、東京音楽学校を出て、『蝶々夫人』で三浦環と共演した由利あけみなどがいる。


「私は貴方の歌に恋してるのよ」・・古賀政男自伝『我が心の歌』(展望社刊1965) には二人のスナップ写真などが載っている。

古賀政男と三浦環(1884〜1946)この二人の大家の間には信頼と親交があったとしてもおかしくない。

三浦環は昭和13年の『古賀政男藝術大観』に萩原朔太郎などとともに序文を寄せている、古賀政男の芸術を高く評価していたようである。

三浦環は大正11年4月、懐かしい故国に錦を飾って帰朝した。6ケ月の里帰り中、全国を公演して回った。古賀政男の上記自伝によると、大正11年7月14日、学生時代、欧米で活躍していた三浦環が道内ツアーの折函館で演奏会を開いた。

そして「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」などを歌った、そして多勢の観衆を前にして「大日本帝国 万歳」と叫んだ。

古賀はそこにこの歌姫の類いまれな祖国愛と信念を感じ取り感銘を受けたこという。


64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/05(Wed) 22:41
展望社刊の自伝『わが心の歌』には、「昭和12年ごろの第一線作曲家が集まった写真」が載っていて、中山晋平、小松耕輔、弘田龍太郎、本居長世・・など錚々たる作曲家と共に古賀政男が写った写真である。

そこからは、昭和10年代に於いて、分野は異なるが、古賀政男は日本の第一線作曲家として、すでに日本音楽界の重鎮たちと比肩すべき大きな存在になっていただろうことが窺い知れる。

昭和11年(1936年)(『蝶々夫人』出演2000回達成後の帰朝で、昭和11年6月16日の「日本青年館」で行われた「第二十六回明大マンドリン倶楽部定期演奏会」で、三浦環が古賀メロディ『忘れなの花束』(野村俊夫作詩)と、『乙女心』(鹿山鶯村作詩)を歌ったという。

三浦環(柴田環)は、明治37年(1904年)に東京音楽学校を卒業してから研究科に進み、山田耕筰などを教え、明治40年には助教授になったが、夫とともにドイツに留学し、オペラの才能を認められ、以後オペラ「蝶々夫人」とともに昭和5年までの16年間世界で活躍した。

夏はテニス姿の若者があふれる山中湖村、この地にマダム・バタフライとして一世を風びした世界の歌姫、三浦環がその晩年を過したことを知る人はあまりいない。
戦争中、戦火を避けて山中湖畔に疎開した三浦環と、もうひとり河口湖畔に疎開した古賀政男、二人はサツマイモ一つも分け合う仲だったという。




環が山中湖村平野で過ごしたのは、昭和18年2月14日、旅館三国荘別館に疎開。してから病を得て入院のため上京した20年の暮れまでの2年10カ月ほど。
後に87歳の母・登枝も加わったが、燃料、食糧共に乏しく、ひとしお寒さが身にこたえるこの地で、母は病床につき、あまつさえ寝たきり。その看護は環がほとんど一人で行ったという。

夜中に母の湯タンポを換える湯を沸かしながら、楽譜により勉強する芸の鬼、環の話は今に語り伝えられている。 .・

しかし、母は昭和二十年他界、地元の好意でこの地に葬ったが、環自身も昭和20年の暮、病を患って入院のため上京、翌21年5月28日、渋谷の病院で死去。

遂に生きて再び平野の土を踏むことはなかった。同年6月7日、日比谷公会堂で音楽葬、環自身の希望で今、平野の寿徳寺の奥津城(おくつき)に母堂、登枝と共に眠っている。

祖国愛に満ちた信念と自尊の明治の女だった環は、平野疎開中も、困難な交通事情ながら軍の慰問によく出かけたという。


65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/05(Wed) 22:47
今、平野寿徳寺の墓碑面には、環自筆の

《「うたひめは強き愛国心をもたざれば真の芸術家とはなり得まじ   環」》

との文が刻まれている。

ロンドンのロイヤルアルバ−トホ−ルで「蝶々夫人」に処女出演以来、ニューヨークを拠点にヨーロッパとアメリカを中心とし、「蝶々夫人」2000回公演を果たした三浦環。

世紀のテノール、エンリコ・カルーゾーと共演した三浦環、プッチーニをして「マダムバタフライはあなたによって初めて成った」と言わせた三浦環、その言葉である。

昭和20年12月、日比谷公会堂で自らの訳詩による「冬の旅」をうたうが、発病、上京して、渋谷の友人の病院に入院。昭和21年5月26日午前5時20分、渋谷の大東学園病院で死亡しました。

昭和21年入院中に放送と録音を行うも、5月26日死去。6月7日、日比谷公会堂で音楽葬。「富士山の見える湖畔で母とともに眠りたい」という環の遺言により、母堂・登枝の眠る山梨県山中湖村平野、寿徳寺に葬る。

環が愛用したピアノは、環の住んだ部屋共々、今、平野の三国荘別館に保存されているという。(公開されていない。)

   ttp://www.nakash.jp/opera/kikou05/18fuji/4miura.htm
   ttp://yamanakako.info/sisetsu.php?id=157
なお、三浦環の「募石」はもうひとつ、上野の寛永寺第一霊廟の入口近くにもある。「Madam  Butterfly」と刻まれている蝶の形をしていて、傍らの碑には、次の詩が書いてある。

    葛は西に東にまひつれど やはり嬉しき 古郷の梅かな




66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/05(Wed) 22:52
一方、[古賀政男]は戦争中、当時の河口村(現河口湖町)に疎開しており、終戦を当地で迎えた。古賀が河口村に疎開したのは、昭和20年3月から8月まで。

今、河口湖湖畔にある記念碑の碑文によると、きっかけは陸軍省からの一本の電話だった。
古賀政男作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった山本(古屋)丈晴の故郷河口村に疎開することとなったのだ。古賀が滞在した別荘は富士山を真正面に望む素晴らしい自然の中にあり、村の人々との温かい触れ合いのなかで、心休まるときを過ごしたという。

こうした中で、河口湖畔に疎開した古賀政男と、山中湖畔に疎開した三浦環。

自伝に依ると古賀政男はニッカポッカ姿で畑を耕した。そして二人は、収穫した物は芋のひとつ まで分け合った仲だったという。

平成18年11月、「古賀政男生誕百年」を記念して、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようと川口湖畔に記念碑と音楽碑が建立された。湖畔公園/円形ホール・ オルゴールの森・河口湖美術館が立ち並ぶ湖畔エリア一帯は「古賀政男記念公園」になっている。
 ttp://www.fujisan-net.jp/GUNNAISPOT/spot-077.html
 

67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/05(Wed) 22:59
(参考)

・瀬戸内晴美 著.「お蝶夫人 : 小説三浦環」 講談社 (1969)

・瀬戸内晴美 著.「お蝶夫人」 (講談社文庫 せ 1-9) (1977)

・「人間の記録27 三浦環ーお蝶夫人」 (日本図書センター (1997)


・三浦環−古賀メロディーを歌う・・ 菊池清麿・日常随想・昭和博物誌
  ttp://25877386.at.webry.info/

・三浦環と李香蘭   ttp://d.hatena.ne.jp/Cosmopolitan/20080322/1206140835

・流行歌曲について  萩原朔太郎
  ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47046_30961.html



68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/06(Thu) 07:09
小田急線代々木上原駅前、3000坪の古賀政男邸、昭和日本の著作権王を象徴するその豪華な古賀邸は昭和13年に作られた。
テイチクを退社し、14年にコロムビアに復帰するわけだが、この間に「外務省音楽文化親善使節」として、アメリカ、南米を回り、1分間1万ドルのNBC放送から全世界に流れた。
昭和13年、代々木上原の駅前3000坪を手に入れた古賀はここに古賀村を作るべく古賀邸の建設を始める。
当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水組(現清水建設)に建てさせ昭和13年に完成した。
その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。
「日本の洋館 第6巻 昭和篇2 」講談社2002(ISBN-13: 9784062614863)
そして、テイチクを退社した古賀政男は藤原義江の見送りを受けて横浜港へ出発。

14年8月には、1分間1万ドルのNBC放送から古賀の曲が全世界に流れた。14年、「世界の古賀」となって帰国凱旋した古賀は三浦環の歓迎祝賀会を受けた。そしてコロムビア復帰。
このコロムビア時代は、初期コロンビア黄金時代、テイチク黄金時代と並んで、「古賀政男第三期黄金時代」と言われる。
同時に14年には、日本の著作権行政に大きく影響を及ぼすことになる、JASRACの前身『大日本音楽著作権協会』が設立される。
第三期黄金時代の古賀はコロムビアの古賀としてだけでなく、日本の古賀、世界の古賀として、この「大日本音楽著作権協会」の設立に大きく関わっている。



古賀政男は著作権長者として有名、自身もコロンビアからテイチクに移るのに著作権に苦労し弘田竜太郎に助けられた。毎朝玄関でカネを数える音がするという伝説もある。
著作権料も圧倒的であって、JASRACの前身「大日本音楽著作権協会」設立にも深く関与、戦後「日本音楽著作権協会会長」など、「著作権」と切っても切れない関係にある古賀政男。

現在、古賀政男音楽博物館になっている、その財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。
日本音楽著作権協会(JASRAC)は現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、昭和14年(1939年)に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
著作権に関する仲介業務に関する法律 (昭和 14年法律 67号) により主務官庁の許可を得た日本唯一の音楽著作権仲介団体となった。

西新橋にあった本部は古賀政男没によって創設された、東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有する同博物館と一体の同ビルに移転。22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。
戦前の大日本音楽著作権協会では政治家が会長をつとめたが、昭和23年から作曲家と詩人が交代となって、作曲家古賀政男は、作曲家中山晋平、詩人西條八十、作曲家堀内敬三、詩人サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長を歴任している。
財団法人古賀政男音楽文化振興財団、古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも不思議ではない。










69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/07(Fri) 12:17
>>20-22,>>25

古賀政男は李香蘭のために「荒城の月」「宵待草」の編曲を行った。山田耕筰、本居長世、橋本国彦に次ぐ編曲です。

「荒城の月/宵待草」(古賀政男編曲 明治大学マンドリン倶楽部演奏 李香蘭 1942コロムビア100542)

戦後5年を経たない1950年1月、山口淑子主演の東宝映画「暁の脱走」が公開された。

李香蘭として戦地慰問の姿を自ら再現したような映画です。

この中で、李香蘭が兵隊を前に「荒城の月」を歌うシーンが You Tubeで見られる。(検索;山口淑子・荒城の月)

澄んだソプラノ、歌唱のすばらしさ、繊細に、心を込めて、言葉をひとつひとつ大切に、兵隊さんを前に切々と歌う李香蘭・・


李香蘭には、「宵待草」盤もあります。

「宵待草」の最初のレコードは昭和3年(1928)、藤原義江によって日本ビクター蓄音機から出されました。

SP盤では、関屋敏子盤など、この昭和17年の李香蘭盤まで、戦前だけで15年間に少なくとも18枚のレコードが出されています。


現在のクラッシック歌手で、これほどまでに歌えるものを知りません。

《李香蘭・宵待草》で検索。

『私の半生』によると、李香蘭は元来、体が丈夫でなく、肺浸潤を患って半年休学し、自宅静養する彼女を励ましてくれた、リューバ・モノソファ・グリーネッツという、ユダヤ系の白系ロシア人少女が同級にいた。

そのリューバが、病弱の李香蘭に呼吸器をきたえる健康法として、「クラシック歌曲」を習うことをすすめ、知り合いのマダム・ポドレソフを紹介してくれたおかげで、のちの彼女があるといっている。

マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。

ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては申し分なしだったと思います。

『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。

また、李香蘭は三浦環に師事した事でも知られる。

こうしたことが、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。

そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。(COL100542 荒城の月/宵待草 李香蘭 )


ソプラノで哀しみを歌うことができるーそんなクラッシック歌手はそういるものではない。

そんな繊細な歌唱、それができるのはドイツリートの傍ら、多くの初期の古賀メロディを支えた本格的クラッシックソプラノ歌手・関種子とかクラス。

なぜ李香蘭なのか、その優しい歌声を聞けばわかる。

映画「暁の脱走」それは、なぜ李香蘭なのか、その問いに、一つの解答を与えるものでもある。


「暁の脱走」
李香蘭が戦後、山口淑子と名を変えて出演した『暁の脱走』。昭和20年の中国戦線、上官にひたすら従順な兵士と、慰問歌手との禁じられた恋の行方。 昭和25年に製作された反戦映画の傑作。

「国立近代美術館フィルムセンター」で保管されており,同アートライブラリ(竹橋)、フィルムセンタ―図書室(京橋)で見ることができるほか、時々鑑賞会が開かれている。

またDVDも出ている。
DVD[暁の脱走」(東宝TDV−2926D)
谷口千吉監督作品、1950李香蘭、池辺良

荒城の月荒城の月、宵待ち草、両曲とも古賀政男編曲。




70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 19:02
age

71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 21:22
*「ビクター専属・西條八十」のコロムビア作品(昭和8年1933)
戦後に至る西條八十・古賀政男黄金コンビのはじめとなる。
(ビクター専属・西條八十が、ビクター専属のまま、1年間同時にコロムビア専属とした。西條八十と古賀政男の専属を超えた提携)。 [去りゆく影]は、 西條八十・古賀政男黄金コンビ最初の作品
なおこの時、ミス・コロムビアは「浮草の歌」(1933.3)でデビュー、古賀政男の最初のミス・コロムビア作品は「「お蝶夫人」の唄」(同)。

去りゆく影     (西條八十作詩、古賀政男作曲) 関種子      1933.1 (*)
恋ごころ       (西條八十作詩、古賀政男作曲) 長谷川一郎   1933.1
初恋の唄      (西條八十作詩、古賀政男作曲) 関種子   1933.2
強くなってね     (西條八十作詩、古賀政男作曲) 渡辺光子  1933.2
来る来るサーカス (西條八十作詩、古賀政男作曲) 淡谷のり子 1933.3
「お蝶夫人」の唄 (西條八十作詩、古賀政男作曲) ミス・コロムヒア   1933.3
椿姫の唄      (西條八十作詩、江口夜詩作曲) 淡谷のり子 1933.3
浮草の唄      (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミス・コロムヒア 1933.3
サーカスの唄   (西條八十作詩、古賀政男作曲) 松平晃   1933.5
マダムバタフライの唄 (西條八十作詩、佐々江華作曲)  淡谷のり子 1933.5
須磨行進曲(新民謡) (西條八十作詩、古賀政男作曲)中野忠晴 1933..6
十九の春     (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミス・コロムヒア  1933.6
気まぐれ涙  (西條八十作詩、古賀政男作曲) ミス・コロムヒア 1933.9
はてなき旅  (西條八十作詩、古賀政男作曲) 松平晃    1933.10

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50




72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/28(Fri) 11:28
<古賀メロデーの抒情歌>

ほかにもたくさんあるが・・ 古賀メロディーとは抒情を歌った元祖青春歌謡

影を慕いて(古賀政男)
丘を越えて(島田芳文)
月の浜辺 (島田芳文)
ハイキングの唄(島田芳文)
夕べ仄かに(島田芳文)
人生の並木路(佐藤惣之助)
白い椿の唄(佐藤惣之助)
さらば青春(佐藤惣之助)
誰か故郷を想わざる(西条八十)
あの花この花(西条八十)
青い牧場(サトウハチロー)
故郷の白百合(サトウハチロー)
雲のふるさと(大木敦夫) 国民歌謡
やすらいの歌(百田宗冶)  国民歌謡、ラジオ歌謡
ピレネーの山の男(西条八十)
りんどう峠(西条八十)


73 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/28(Fri) 11:44
<古賀メロデー 青春・叙情歌>  藤山一郎歌

東京ラプソデイー (門田ゆたか)1936年6月(映画「東京ラプソデー」主題歌)
 ♪花咲き花散る宵も 銀座の柳の下で・・
東京娘 (佐藤惣之助)1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
 ♪東京娘の 東京娘の初恋は・・
さらば青春(佐藤惣之助)1936年7月 (日活「慈悲心鳥」挿入歌)
 ♪愛と希望に身はきずつきて・・
男の純情(佐藤惣之助)(映画「魂」主題歌)1936年8月
 ♪男いのちの純情は 燃えて輝く金の星・・
愛の小窓(佐藤惣之助)(映画「魂」挿入歌)1936年8月 (デイックミネ)
 ♪花の都に身をすねて 若きいのちを散らすやら・・
回想譜(今城請児)1936年10月  (日活「女の階級」挿入歌)
 ♪星みれば はろかに遠く 雲見れば つきせぬ思い
青春カーニバル(青春の謝肉祭)(島田欣也・野村俊夫)  1936年11月
 ♪若き日の憧れを胸に抱き・・
青春日記(佐藤惣之助)1937年2月
 ♪初恋の涙にひそむ花びらを 水に流して泣きくらす あわれ一九の春の夢・
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助)1937年5月(西條八十原作、東宝映画「白薔薇は咲けど」主題歌)
 ♪若き日に 溢るる胸の せつなさは 夢の空の 紅の色 野薔薇に虹は 消ゆるとも
  涙は消えぬ スーベニル
青い背広で(佐藤惣之助)1937年2月
 ♪青い背広で心も軽く・・
青春旅情 (佐藤惣之助)1938年3月
 ♪たそがれの波止場に一人泣きに行く ああ青春の・・
歓喜の丘 (島田芳文)1938年3月
 ♪あこがれの丘にきて 萌ゆる瞳に仰ぎ見る 空は青空 日はうらら・・
春よいずこ(西条八十)
 ♪おもいでは おもいでは 青い背広の・・


74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/28(Fri) 12:00
  古賀メロデーの主な詩人・作詞家と歌

*詩人

浜田広介*  娘心も、日本橋から、片想い、風の鈴蘭  
島田芳文*  月の浜辺、窓に凭れて、丘を越えて、キャンプ小唄、歓喜の丘、スキーの唄、ハイキングの唄、夕べ仄かに   
西岡水郎   チャッカリしてるわネ、嘆きの夜曲、歓喜の歌
鹿山鶯村   乙女心
高橋掬太郎  酒は涙か溜息か、私此の頃憂鬱よ、愛の子守唄

原阿佐緒   あけみの唄
佐藤惣之助* 鳩笛を吹く女の唄、アリランの唄、男の純情、愛の小窓、青春日記、青い背広で、東京娘、人生の並木路、新妻鏡、緑の地平線、人生劇場、白い椿の唄、真実一路の唄、白薔薇は咲けど、ゆかりの唄、緑の月、さらば青春、
西条八十*  去り行く影、サーカスの唄、誰か故郷を思わざる、春よいずこ、迎春花、サヨンの鐘、紅い睡蓮,相呼ぶ歌、そうだその意気、旅役者の唄、麗人の唄、
サトウハチロー* 青い牧場、故郷の白百合、二人は若い、目ン無い千鳥、いさをを胸に、
       カボチャの歌、勝利の日まで

時雨音羽   さらば上海、花に浮かれて、花の東京
島田欣也   白虎隊、望郷の唄、軍国の母、啄木の歌
山瀬まゆみ(同上)女の階級 門田ゆたか  東京ラプソディー
久保田宵二  ほんとにそうなら、旅がらす
大木敦夫*  崑崙越えて 雲のふるさと
藤浦洸*   南の花嫁さん、葵の歌、月夜船
野村俊夫   湯の町エレジー




75 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/28(Fri) 12:17
古賀政男略歴について、「人間の記録93 古賀政男」(日本図書センター)から
抜粋・・

昭和3年(1928)11月25日
 第13回明大マンドリンクランブ大演奏会に当時の人気歌手佐藤千夜子の特別出演を得て
 処女作「影を慕いて」を発表。
昭和4年(1929)3月10日 明治大学卒業
       12月 25歳、佐藤千夜子の歌唱で日本ビクターより「影を慕いて」「日本橋から」
         と、「片思い」「風の鈴蘭」の二枚を吹き込み、5年12月発売される。
昭和6年 3月    日本コロムビアと専属契約。作曲家としての第一歩を踏み出す。発吹き込みは「乙女心」(関種子)、「キャンプ小唄」(藤山一郎)
昭和7年12月     コロムビア文芸部長和田達夫氏の紹介、山田耕筰氏の媒約で中村千代子と結婚。
昭和9年 5月1日   日本コロムビア円満退職、15日テイチクに入社。
昭和13年11月〜昭和14年11月  外務省音楽文化親善使節として渡米。
昭和23年 5月    日本音楽著作権協会監事就任(会長 中山晋平)
昭和34年 1月    日本作曲家協会を設立、会長となる。
昭和38年 4月    日本音楽著作権協会理事に就任
昭和49年10月    日本音楽著作権協会会長
昭和50年 4月    勲三等瑞宝章受賞
 

76 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/28(Fri) 12:29
【明治】演歌について語ろう【古賀政男】
h ttps://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/396/1122014572/l50
【東京】不滅の古賀メロディー【ラプソディー】
h ttps://bubble6.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1122559619/
古賀政男総合スレ (577)
H TTPS://2CH.VET/RE_AI_NATSUMELOJ_1320231349_2_172



77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/28(Fri) 12:42
歌う昭和史、藤山一郎
H TTPS://BUBBLE6.5CH.NET/TEST/READ.CGI/NATSUMELOJ/1011539806/
H TTP://AI.2CH.SC/TEST/READ.CGI/NATSUMELOJ/1196428914/L50



78 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/28(Fri) 14:22
【童謡】詩人・西條八十と、その歌【歌謡曲】
H TTPS://BUBBLE4.5CH.NET/TEST/READ.CGI/NATSUMELOJ/1154785781/



79 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/28(Fri) 14:33
☆日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50


80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/28(Fri) 14:46
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50

81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/01(Mon) 08:30
「荒城の月」

「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)という歌は、現在の東京芸術大学〈音楽学部〉の前身である「東京音楽学校」主導で中学の音楽教科書のためにつくられた。

明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされる。

明治44年、師である瀧廉太郎が日本最初にドイツに留学するにあたって、門下生である三浦環は、送別演奏会で「荒城の月」(『荒城月』)を歌った。
当時は「歌曲」と言えば外国曲(でなければばらない)とうのが一般的風潮だった中で、昭和3年、藤原義江によってビクターで吹き込まれたのが「荒城の月」レコードの最初。

哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。

世界で活躍していた我等のテナー「藤原義江」は、どこの国に行っても自分の生れた国の歌も歌えないようでは相手にされないとして、率先して日本の歌曲を歌い広めた事でしたれる。
三浦環の「歌姫は強き愛国心をもたざれは」に通ずることだ。

他に、藤原義江は山田耕筰の「この道」その他や、弘田龍太郎の「叱られて」「浜千鳥」などをレコードにしている。

『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたというものではないが、つい30年前「明治維新」 における日本の内戦である戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜- 明治2年(1868年 - 1869年))と無関係ではないのだ。

武家の「栄枯盛衰」とそれに伴う「無常感」が滲んだ詩は、お寺の「講話」にも使われている。
「荒城の月」は、1898(明治31)年、土井晩翠は会津の「鶴ヶ城」をイメージして造られたものだと土井晩翠自身が語っている。(※)

※土井晩翠が1927年6月29日滝廉太郎45年祭で語り、放送された。

幼い頃から父と祖父から戊辰戦争における会津の悲劇と仙台から見た会津の英雄伝をたくさん聞かされて育った晩翠。

そして二高の時、明治維新後、落城したまま、ほったらかされていた「鶴ヶ城」に行き、悲惨な戦争の跡地から月を見て、なんとも儚い想いを詩にした晩翠の詩、それに子供のころを過ごした・大分県竹田の「岡城」から曲を着想した滝廉太郎の作曲がおりなす「荒城の月」。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが昭和17年古賀政男編曲になる。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「荒城の月」をオペラでも歌うつもりか、頭の芯に突き刺さるような高い声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手が今、少なくないが、戦時中慰問先で「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンター、歌は以下に含まれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏


なお、滝廉太郎作曲「荒城の月」の原曲は無伴奏で、以下「山田耕筰編曲版」、「本居長世編曲版」、「橋本国彦編曲版」、それに、李香蘭が戦地で歌った「古賀政男編曲版」がある。










82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/03(Wed) 23:43
昭和7年から8年にかけて

鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 藤山一郎
影を慕いて〈古賀政男作詞作曲〉  藤山一郎
銀座の柳(西條八十作詞、中山晋平作曲) 四家文子
「お蝶夫人」の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲)ミス・コロムビア
笛は冴ゆれど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)関種子
朝顔の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 関種子
あけみの唄(原 阿佐緒作詞、古賀政男作曲)  関種子
嘆きの夜曲(西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 関種子
二見情話 (西岡水朗作詞、古賀政男作曲)
美はしの宵(島田芳文作詞、古賀政男作曲)  関種子
去りゆく影(西條八十作詞、古賀政男作曲) 関種子
サーカスの唄(西條八十作詞、古賀政男作曲) 松平晃


83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/10(Wed) 23:25
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」・・古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」

と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平(晋平節)の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。

その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

古賀メロディの原点であり、不朽の名曲「影を慕いて」は、「美しき日本の歌」で、クラッシックの演奏会のプログラムにもよく見受けられる。

今や「古賀メロディ」を超えて『日本の名曲』になっている。

優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽(
映画主題歌)でもある。

「古賀メロデイ」というのは元祖青春歌謡です。

人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。

多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品。

歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。

詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴く人の心を捉えて離さない。


人々は、それを「古賀メロディ」と呼んだ。

古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」といって、詩を大切にした人。

曲作りに人並み外れて熱い想いをかけていた。古賀政男が作曲の醍醐味を知るのは、詩人・佐藤惣之助との出会いであったと自伝にある。

古賀政男ほど多くの詩人との結びつきの深い者も知らない。

『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・、古賀メロディーは、佐藤惣之助〈1932〜〉、西條八十(1933〜)、サトウハチロー〈1935〜〉など、詩人との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。


ちょうど同じ頃、昭和3年(1928)に作られた、
佐藤千夜子の歌で世にでた二つの名曲、《波浮の港》・《影を慕いて》・・、

いずれも《日本の名曲》として、今でも根強く愛され歌われ、演奏会で演奏されているのです。

両方とも、平成元年,NHKテレビで「日本の名曲10曲」として放送された。

古賀メロディーというのは、その殆どが青春を謳った青春歌謡です。


古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。
それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。


中山晋平先生と古賀政男の出会いについて触れられているのだろうか。


宮本旅人著「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)

宮本旅人著「レコード芸術入門 : 作詞家・作曲家・流行歌手 」シンフオニー楽譜出版社1939




84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/10(Wed) 23:48

“メロディーこそは音楽の本質”(モーツァルト)

その誰にも真似のできないメロディ・・その哀調を帯びた、青春の息吹を感じさせる日本人の琴線に触れるメロディ、

それを当時の主流だった【晋平節】に対し、「古賀メロディ」と呼んで称えた。

彗星のように現れ、たちまち頂点に立った古賀作品、

その前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、とりわけ日本人なら心の襞に浸透する強烈な印象を与える、聴く人を歌の世界に惹きこむ新鮮なメロディ・・それを特別に「古賀メロディ」と呼んだ。

古賀メロディというのは、古賀政男作品全体をさす場合と古賀作品の内、詩のテーマとするところが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたもの、「影を慕いて」、「人生の並木路」「丘を越えて」などを指す場合が有る。


昭和13年(1938)11月に、「古賀政男藝術大観」が出た。その新聞広告に、すでに「古賀メロディ」と言う言葉がみられる。(なお、昭和53年10月に復刻本が出版されている。)

古賀政男がコロムビア専属作曲家になったのは、今年平成30年(2018)から87年前の昭和6年(1931)3月。

僅か作曲家になった7年後に、「古賀政男藝術大観」という作品研究を含む豪華な大型本が出版された。この中には180曲余りの作品が載っている。

しかもその序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、小松 耕輔、三浦環、佐藤惣之助、サトウハチローなど、知る人ぞ知る錚々たるメンバーが分野を越えて寄稿しているのだ。

昭和13年(1938)11月に、「古賀政男藝術大観」が出た。その新聞広告に、すでに「古賀メロディ」と言う言葉がみられる。(なお、昭和53年10月に復刻本が出版されている。)

古賀政男がコロムビア専属作曲家になったのは、今年平成30年(2018)から87年前の昭和6年(1931)3月。

僅か作曲家になった7年後に、「古賀政男藝術大観」という作品研究を含む豪華な大型本が出版された。この中には180曲余りの作品が載っている。

しかもその序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、小松 耕輔、三浦環、佐藤惣之助、サトウハチローなど、知る人ぞ知る錚々たるメンバーが分野を越えて寄稿しているのだ。

したがって『古賀メロディ』とは、昭和一桁代の初期コロムビア時代、少なくとも昭和10年代初めには分野を越えてすでに確立したものとなっていたのだろう。

・・「其の二 ― 古賀政男作品研究 
 ★古賀政男の作品全般に亘り微に入り細を穿っての解剖と研究は、“古賀メロディ”の本質を知らんとする人、流行作曲家たらんとする人、大衆音楽の神髄を極めんとする人々にとりては、感激の虎の巻であり羅針盤です。」(「古賀政男藝術大観」新聞広告より)

(参考)
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)





85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/10(Wed) 23:58
「古賀メロデー」というのは、いろいろあるが、映画と積極的に提携して映画主題歌が多い。

「白い椿の唄」、それは菊池寛原作「貞操問答」の主題歌で、池寛の依頼で主題歌を作ったもの。

東京へ母を呼んで暮らすのが夢だったという古賀政男の母が亡くなった(昭和9年8月)のは、この映画の企画をしてるときだそうです。

この歌ができた時は母がなくなってた時で、佐藤惣之助作詞の三番目に「呼べど帰らぬ面影は、消えて遥かな山の上・・」
と歌われてますが、これは母を失った古賀政男の心境そのもので、彼のその後に創作意欲を大いにかきたてたそうです。

たくさんのヒット曲で知られる「古賀メロデー」、「古賀メロデー」の時代、それは日本がまだ草深く、貧しくも心豊かだった苦難の時代と重なる。

その多くは永遠のテーマである人生・青春をテーマとした「古賀メロデー」。

特に『影を慕いて』『人生の並木路』や『新妻鏡』など、詩のテーマが人生の、青春の苦悩をテーマとしたものにより名曲が多いとされる。

古賀政男は亡くなる前、・・「古賀メロデーよいつまで続くんだ、古賀メロデーよ消えされ、これまでたくさんの歌を作ってきたが、僕の古賀メロデーが受け入れられる世の中というのは、不幸な時代なのだ。
今はハピ−な歌が受け入れられる時代なんだ。」・・といっていたことがある。

そして、亡くなる前日かに便せんに書かれたメモが、旧古賀邸跡の古賀政男音楽博物館に展示されている。

「もうぼくのメロデーが受け入れられる時代ではない。いまは明るいハピーな歌が受け入れられているんだ。そういう歌がいまの歌なんだ。」って。・・

これについて吉田正は、「僕はまったく逆説だと思う。古賀先生が言いたかったのはね、人間というのは、ハッピーな時だけではない。苦しいときも、悲しいときもある。
そういう人間の一番暗い面がでたときは、わたしの歌を聴いてくださいよって、そういうことだとぼくは思うんだ。
人間が苦境に立ったとき、そのときには自分の歌が歌われるはずだという確信があったんですよ、先生には。」・・

と書いている。
(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))




86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 00:08
☆古賀政男とその主な人脈

歌手; 佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環、
    淡谷のり子、楠木繁夫、松平晃、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、川畑文子、
    由利あけみ、渡辺はま子、伊藤久男、松島詩子、ディックミネ・・
詩人; 萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー 、島田芳文 ・・
作曲家;中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實・・
その他;棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香 蘭)、徳川無声、森繁久弥、山本富士子、美空ひばり、村田英雄、・・

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110



87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 14:22
☆古賀政男に関する文献

宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)
・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。

くろがね会「くろがね叢書 1944.10.31」 ・・「勝利の日まで」について
古賀政男「私の音楽生活二十年」(全音楽譜出版社1949)
毎日新聞社編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1955)
古賀政男「我が心の歌」(展望社1965)
日経新聞社編「私の履歴書 第48集」(日経1973)
「人間の記録93 古賀政男」(日本図書センター)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977
茂木大輔「誰か故郷を・・素顔の古賀政男」(講談社1979)
毎日新聞社『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』(毎日新聞社1979)
利根川祐「人物昭和史」(ちくま文庫720) (1989)
沢憲一郎著「二人の千代子 : 古賀政男の結婚」(文園社1994)
下嶋哲朗著「謎の森に棲む古賀政男」(講談社1998)
「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版)・・昭和53年、古賀政男追悼本
高平一記「うさぎ―古賀政男十三回忌年出版作品」 (単行本) 日本ブックマネジメント (1990/08)
菊池清麿「佐藤千夜子 ・永遠の歌姫 」(東北出版企画) 
菊池清麿「評伝 古賀政男」(アテネ書房2004)
「夢人生を奏でて」 : (古賀政男生誕百年記念特別版)古賀政男音楽文化振興財団(小学館スクウェア2004)


『古賀政男110 名曲集 古賀政男生誕百年記念 ギターでつまびく 我が心の歌』(全音楽譜出版社、平成15 年11 月刊)103 頁
佐高信『悲歌 古賀政男の人生とメロディ』(毎日新聞社)
佐高信『酒は涙か溜息か 古賀政男の人生とメロディ』(角川書店 角川文庫)
読売新聞文化部編『愛唱歌ものがたり』(岩波書店2003)・・ふと口ぐさむ愛唱歌66曲
寺山修司編著『日本唱歌集』』〈光文社カッパブックス30−17, 1972〉
藍川由美著「「演歌」のススメ」(文春新書2002)・・「演歌」という言葉は必ずしも適当でないと思うのだが

福田俊二「昭和流行歌総覧(戦前・戦中編〉」(拓殖書房1994)
コロムビア50年史編纂委員会編「コロムビア50年史」(日本コロムビア〈株〉)(昭和36年)
古賀政男編著「古賀政男ピアノ伴奏名曲集. no.1」(シンフオニー楽譜出版社(昭和14年)
「古賀政男ギター新奏法」シンフオニー楽譜出版社(昭和17年)
古賀政男編著「古賀政男作曲集. 第4輯」(全音樂譜出版社1948)
堀野羽津子編「古賀政男名曲集」(成美堂出版1978)
「古賀政男傑作全集 : 昭和歌謡50年史」(東京音楽書院1979)
古賀政男音楽文化振興財団編「ギターでつまびく古賀政男110名曲集 我が心の歌」全音楽譜出版社2003
「生誕100年記念 古賀政男大正琴名曲集」全音楽譜出版社2004
信長貴富編曲「混声3部合唱とピアノのための楽譜 近代日本名歌抄」(河合楽器製作所2008)宵待草、ゴンドラの唄、影を慕いて他

長田暁二編「楽譜 日本抒情歌全集4」(ドレミ楽譜出版社2008)
 「秋の野 - 北原白秋 團伊玖磨」、「川 - 千家元麿 橋本国彦」「鶯の夢 - 野口雨情 中山晋平」「秋の夜 - 長田秀雄 山田耕筰」「働くお山 - 高橋掬太郎 弘田龍太郎」
「酒は涙か溜息か - 高橋掬太郎 古賀政男」他




88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 14:32
☆古賀政男に関する文献2

 ・古賀政男傑作全集 : 昭和歌謡50年史
  古賀 政男著 東京音楽書院 1978
 
 ・森下 節著 [孤独の宴 : 小説・古賀政男 ]仙石出版1972

 ・田辺 明雄  「古賀政男論」
  掲載誌 季刊芸術 / 季刊芸術出版株式会社 [編] 臨時増刊号(1989年秋) 1989-10 p.p180〜189

 ・高橋 功「"回想の雅兄・古賀政男"」
  掲載誌 心 31(10) 1978-10 p.p129〜140

 ・「日録20世紀 1931 昭和6年」(講談社1997)注記:12/30 第1巻       第43号 通巻43号
  
 
 ・九州の偉人たちを育んだ「おふくろ物語」(2)古賀政男の母「セツ」
  掲載誌 財界九州 46(3) (通号 966) 2005-03 p.159〜162
  
 ・大石 さち子 「趣味と私 古賀政男音楽博物館--昭和と共に生きた古賀メロディ」
  掲載誌 共済新報 / 共済組合連盟 [編] 41(8) 2000-08 p.50〜52

 ・石出 法太 「古賀政男--「古賀メロディー」と民衆 」(20世紀の歴史のなかの人物)
  掲載誌 歴史地理教育 / 歴史教育者協議会 編 (通号 576) 1998-03 p.56〜57
 
 ・古賀 政男 「人との出会いにめぐまれて 」(わが人生を天職に生きて<特集> ; わが人生を天職に生きて--この道ひとすじ五十年--味わい深い人生哲学の数々) 掲載誌 潮 / 潮出版社 [編] (通号 214) 1977-03 p.p246〜247

 ・下嶋 哲朗 「太平洋戦争秘話=「歌謡曲の天皇」渡米の裏に外務省の謀略があ  った--古賀政男に下った「日米開戦前夜の密命」」
  掲載誌 「現代」 32(9) 1998-09 p.218〜228

 ・古賀 政男 「昭和を歌う我が涙の幾千曲 」
  掲載誌 潮 / 潮出版社 [編] (通号 120) 1969-12-00 p.350〜354

 ・松山祐士 編著「わが心の日本抒情歌集 」
 ドレミ楽譜出版社 2003 (シニアのためのピアノ曲集)

 ・舘野晰 編著「韓国・朝鮮と向き合った36人の日本人 : 西郷隆盛、福沢諭吉から現代まで 」 明石書店 2002
  
 ・里村あきら 著 影を慕いて… : 「古賀メロディー」知ったかぶり
  雄文社出版企画室 1993






89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 14:36
☆古賀政男に関する研究文献

森田哲至…「昭和歌謡」成立の系譜と黎明期の展開・・―日本橋と『昭和歌謡』の関係についての一考察―
(「日本橋学研究」日本橋学館大学 第3巻1号 2010年3月)

The Birth and Early Development of Showa Kayoh (popular hit songs in the Showa era) : A Consideration of its Beginnings in Nihonbashi
([日本橋学研究] 日本橋学館大学 3(1) (20100331))

ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110008895600
ttp://www.nihonbashi.ac.jp/nihonbashiology/pdf/nihonbashigaku_3-1.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%81%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7'

「日本橋」のキーワードのもとで、中山晋平、佐藤千夜子、古賀政男、藤山一郎 の関係する「SP歌謡」たる黎明期の「昭和歌謡」成立の系譜と展開について詳しく述べ られている。



参考

・【東京】不滅の古賀メロディー【ラプソディー】
  ttp://unkar.org/r/natsumeloj/1122559619

・【人生の並木路】佐藤惣之助【新妻鏡】
  ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1162563164/

・【童謡】詩人・西條八十と、その歌【歌謡曲】
  ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1154785781/

・【究極の】日本の歌こころの歌【癒し】
ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1011539806/

・歌う昭和史、藤山一郎
 ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1011539806/

・歌う昭和史、藤山一郎2
 ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1196428914/



(古いBBSで終了移転されていて広告などが入っています。)


利根川祐「人物昭和史」(筑摩書房 ちくま文庫720) (1989)



90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 16:24
>>89

利根川祐「人物昭和史」(筑摩書房 ちくま文庫720) (1989)

天  皇
近衛文麿
東条英機
吉田茂
大原孫三郎
小林一三
松永安左エ衛門
正力松太郎
野間清冶
菊田一夫
古賀政男


91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 17:15
小田急線代々木上原駅前、3000坪の古賀政男邸、昭和日本の著作権王を象徴するその豪華な古賀邸は昭和13年に作られた。
テイチクを退社し、14年にコロムビアに復帰するわけだが、この間に「外務省音楽文化親善使節」として、アメリカ、南米を回り、1分間1万ドルのNBC放送から全世界に流れた。
昭和13年、代々木上原の駅前3000坪を手に入れた古賀はここに古賀村を作るべく古賀邸の建設を始める。
当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水組(現清水建設)に建てさせ昭和13年に完成した。
その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。
「日本の洋館 第6巻 昭和篇2 」講談社2002(ISBN-13: 9784062614863)
そして、テイチクを退社した古賀政男は藤原義江の見送りを受けて横浜港へ出発。

14年8月には、1分間1万ドルのNBC放送から古賀の曲が全世界に流れた。14年、「世界の古賀」となって帰国凱旋した古賀は三浦環の歓迎祝賀会を受けた。そしてコロムビア復帰。
このコロムビア時代は、初期コロンビア黄金時代、テイチク黄金時代と並んで、「古賀政男第三期黄金時代」と言われる。
同時に14年には、日本の著作権行政に大きく影響を及ぼすことになる、JASRACの前身『大日本音楽著作権協会』が設立される。
第三期黄金時代の古賀はコロムビアの古賀としてだけでなく、日本の古賀、世界の古賀として、この「大日本音楽著作権協会」の設立に大きく関わっている。
古賀政男は著作権長者として有名、自身もコロンビアからテイチクに移るのに著作権に苦労し弘田竜太郎に助けられた。毎朝玄関でカネを数える音がするという伝説もある。
著作権料も圧倒的であって、JASRACの前身「大日本音楽著作権協会」設立にも深く関与、戦後「日本音楽著作権協会会長」など、「著作権」と切っても切れない関係にある古賀政男。
現在、古賀政男音楽博物館になっている、その財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。
日本音楽著作権協会(JASRAC)は現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、昭和14年(1939年)に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
著作権に関する仲介業務に関する法律 (昭和 14年法律 67号) により主務官庁の許可を得た日本唯一の音楽著作権仲介団体となった。

西新橋にあった本部は古賀政男没によって創設された、東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有する同博物館と一体の同ビルに移転。22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。
戦前の大日本音楽著作権協会では政治家が会長をつとめたが、昭和23年から作曲家と詩人が交代となって、作曲家古賀政男は、作曲家中山晋平、詩人西條八十、作曲家堀内敬三、詩人サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長を歴任している。



財団法人古賀政男音楽文化振興財団、古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも不思議ではない。



92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 17:32
昭和のSPレコード歌謡、それは「三分間の芸術」ともいわれる。

基本的にはクラッシックによる洋楽を基したもので、当時殆どクラッシック畑から出たものであるが、日本的な風土に由来する詩情(詩)を短い制約で表現するという点では、ごく日本的文化の極地と言え、クラッシックそのものとは同一視にはできない。

古賀の作品には、16分音符や3連符などが多用されているものが多く見られ、歌の詩情が細かい節回しで表現されている。ここが「古賀メロディ」と呼ばれ、多くの人々の心の琴線に触れ長く愛されている理由でもある。

なお、細かい節回し,これを(「小節・しょうせつ」。「こぶし」ということがある。)という。

古賀は、自分で自由に調弦できるギターやマンドリンなどの弦楽器を使うことによって作曲において、ピアノでは出せない音を求めたようです。

一方これに対し、一般的に外国曲には、詩にはあまり重きをおくわけでもない、あっさり、さっぱりした歌が殆どだ。ひたすら、こうしたどちらかというと洋風のさっぱり曲を素敵だとするものもいるだろう。

彼らはそうしたものを、なぜか「クラッシック」と混同することがあるようだ。

時代を超えて人の心を掴むことができなければ長く生き続けることはできない。
やはり歌の生命は「詩」と「メロディ」に尽きるといえるだろう。





93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 21:41
昭和14年(1939)、内務省管轄の「大日本音楽著作権協会」ができた。その後「日本音楽著作権協会」(JASRAC)となった。最初に著作権を預ける契約を結んだのは島崎藤村である。

昭和14年、「外務省音楽文化親善使節」としてアメリカ・南米を回って帰朝、コロムビアに復帰した、コロンビアの、世界の古賀政男、一分間1万ドルのNBC放送から世界に流れた、コロムビアの顔、古賀政男は、この「大日本音楽著作権協会」の設立に深くかかわった。
会長は戦前戦中は政治家で、戦後昭和23年から作曲家中山晋平が会長となり、その後西條八十、サトウハチロー、古賀政男など錚々たる詩人や作曲家などが会長となっている。
ただ、明治時代に作られた「著作権法」は戦後現在の姿に改正されるまで一度も見直しされず、パクリはけっこうあったようだ。

参考までに、西新橋から移転した現在のJASRACの本部ビルは、小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」と隣接し、旧古賀邸の正門があったあたりに建つ。
「古賀政男音楽博物館」とともに、その建物は昭和の歌謡に絶大な寄与を果たし著作権も圧倒的とされる古賀政男の遺志を継ぐ「古賀政男音楽文化振興財団」の所有管理に属するというのは象徴的であろう。


・日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長

昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986) 旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者、早大教授
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 作詞・訳詞家、作曲家、音楽評論家
昭和46〜48   サトウ・ハチロー(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人

昭和55〜    服部良一(1907〜1993)  作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998)  作曲家
平成6年〜    黛 敏郎(1929〜1997)  作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008)  作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜2010)  作詞家
平成16年〜 船村 徹(1932〜)    作曲家
平成22年〜 都倉俊一(1948〜)    作曲家





94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 22:01
戦後、作曲家中山晋平(昭和23〜27)から、詩人勝承夫(昭和52〜55)までは、
錚々たる作曲家と詩人が交代でやっていたが、残念ながら以後、歌の世界も大きく変り果て、
くずれてしまって現在に至る。なお、作曲家中山晋平は昭和27年12月にこの世を去った。

95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/12(Fri) 08:57
昭和3年(1928)にはレコード歌手第一号とさあれる佐藤千夜子の「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)の他、二村定一の「アラビヤの唄」、「青空」など外国曲の訳詩曲や、藤原義江の「出船」(杉山長谷夫作曲〉、「出船の港)(野口雨情作詞、中山晋平作曲)など。昭和4,5年には、映画主題歌第一号「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)、「紅屋の娘」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)など佐藤千夜子の中山晋平の曲、二村定一の「君恋し」(時雨音羽作詞、佐々江華作曲)など。

昭和6年に、ここに彗星のように現れるのがコロムビアの若き古賀政男。

丘を越えて  (藤山一郎)
キャンプ小唄 (藤山一郎)
影を慕いて  (藤山一郎)
月の浜辺   (河原喜久恵)
乙女心    (関種子)
窓に凭れて  (関種子)
酒は涙か溜息か(藤山一郎)

昭和6年(1931)に入ると、ビクタ‐1月新譜「影を慕いて」(佐藤千夜子、昭和5年10月吹込)以降、3月にコロムビア専属作曲家となった新星古賀政男は次々にヒット作品を世に送り出し、これまでの晋平節とは一味違う哀調を帯びた「古賀メロディ」と呼ばれることになる新しい歌謡曲(歌謡歌曲)のジャンルを確立してゆく。
影を慕いては、昭和7年藤山一郎に依って再び吹き込まれる。
「古賀メロディー」を支えたのは、河原喜久恵、関種子、藤山一郎など、東京音楽学校(東京芸大音楽学部の前進)出身の若き首席卒業歌手たちなどだった。当初ビクターの一人勝ちで出発したレコード界の主流は古賀政男のコロムビアに移ってゆく。
他に昭和6年には、「侍ニッポン」(西條八十作詞、松平信博作曲、徳山 l(たまき))などがある。

昭和7年から8年にかけて

鳩笛を吹く女の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲) 藤山一郎
影を慕いて   〈古賀政男作詞作曲〉 藤山一郎
銀座の柳    (西條八十作詞、中山晋平作曲)  四家文子
「お蝶夫人」の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲)  ミス・コロムビア
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  関種子
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  関種子
あけみの唄   (原 阿佐緒作詞、古賀政男作曲)  関種子
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詞、古賀政男作曲)   関種子
二見情話    (西岡水朗作詞、古賀政男作曲)
美はしの宵   (島田芳文作詞、古賀政男作曲)  関種子
去りゆく影(西條八十作詞、古賀政男作曲) 関種子
サーカスの唄(西條八十作詞、古賀政男作曲) 松平晃


昔は、大方、詩人が詩を作り作曲家が曲を作り、歌手たちが歌った。
歌手達は、たいてい音楽学校出身者で、オペラとかにも出演していた。
古賀メロディを支えた藤山一郎、関種子など東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部の前進)の首席であった。





96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/12(Fri) 09:33
古賀メロディは、古賀政男の曲は、昭和3年、人生の苦悩から始まった。昭和3年「影を慕いて」にはじまり昭和53年に亡くなるまでの半世紀の歴史。

古賀メロディの歴史は、昭和3年「影を慕いて」にはじまり、ちょうど坪井栄「二十四の瞳」と重なる。「二十四の瞳」は昭和3年から戦後早々まで日本が草深かったまだ貧しかった時代の日本の縮図といえる小豆島の寒村の小学生と教師を描いたもの。

昔は昭和戦前まで、「二十四の瞳」に描かれてるように、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだされる、そんな時代であったことでしょう。

このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。
日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、大切なものがだんだん失われてゆくのは大変残念なことです。

家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。
支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。

どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。
この歌は、日本人が忘れかけていたこと大切なことを思い出させてくれます。

「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。

まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない詩です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり、作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。
心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
h ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html

昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。
「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。

「人生の並木路」はなんといっても昭和12年、若きディックミネが歌うオリジナル版、まさに悲壮感漂う名曲です。

なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。

以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。
古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。


97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/12(Fri) 09:57
>>91

☆有名人の邸宅(参考)

古賀政男邸(代々木上原)   3000坪
田中角栄『目白御殿』(目白) 2575坪
鳩山会館(文京区)       2000坪
麻生太郎邸(渋谷)  1500坪
孫正義邸(港区)    960坪
三木谷御殿(渋谷区)  272坪
鳩山由紀夫邸(大田区  205坪
長嶋茂雄邸(田園調布) 180坪
ひばり御殿(目黒)   173坪


98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/12(Fri) 10:09
李香蘭

花白蘭の歌(楠木繁夫 共唱)
紅い睡蓮(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
夕月乙女(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
荒城の月(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
夜霧の馬車
北京の子守唄
濱邊の歌
宵待草
さうだその意氣(霧島昇・松原操 共唱)
サヨンの歌(映画『サヨンの鐘』主題歌)
私の鶯(映画『私の鶯』主題歌)
新しき夜(映画『私の鶯』挿入歌)
さくら咲く國
旅人の歌
蘇州夜曲(映画『支那の夜』挿入歌)映画の中で歌唱
支那の夜(映画『支那の夜』主題歌)映画の中で歌唱
蘇州の夜(映画『蘇州の夜』主題歌)
迎春花(映画『迎春花』主題歌)
若き日の夢(映画『戦ひの街』主題歌)
花の生命(霧島昇 共唱)
母は青空(映画『誓ひの合唱』挿入歌)
台湾軍の歌(映画『サヨンの鐘』の中で歌唱)[9]
天涯歌女(映画『野戦軍楽隊』挿入歌、中国語で歌唱)[10]
懐かしのタンゴ
夜来香(映画『東京の休日』『上海の女』の中でも歌唱)
思い出の白蘭
東京夜曲(映画『東京夜曲』主題歌)
愛の花びら?ラヴィ・アン・ローズ?
珊瑚礁の彼方に
ロンドンデリーの歌
何日君再来(映画『上海の女』挿入歌)
ふるさとのない女(映画『上海の女』挿入歌)
春風春雨(映画『上海の女』挿入歌)
郊外情歌(映画『上海の女』挿入歌)


99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/11/07(Thu) 20:08
「古賀メロディ」は80年の歴史を経てジャンルになった。

100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/10(Tue) 23:34
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110&ls=50

101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/11(Wed) 14:44
丘を越えて


 作詞:島田芳文
 作曲:古賀政男
  歌唱:藤山一郎


丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

昭和4年(1929)、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌,元祖「青春歌謡」である。

昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後70年、昭和95年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。

山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。



102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/14(Sat) 22:53
大正から昭和の初めにかけて、大衆が誰でも歌える歌というものが
民謡など除いて存在しなかった。

誰でもが歌える歌ずくり、それを一貫して目指した者、それが中山晋平。

晋平の歌は【晋平節】と言われた。劇中歌から、童謡、新民謡、歌謡歌曲。

中山晋平は野口雨情、佐藤千夜子と組んで、大正から昭和の初めにかけて「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)を行っていた。

まだ新幹線も飛行機もない時代に全国行脚を行い民謡採譜や普及運動を行っていた。

この中から生まれたのが新民謡「波浮の港」で、この『波浮の港」がビクタ―発足に伴いレコード第一号となり、レコード歌謡(流行歌といった)第一号。

これを歌った佐藤千夜子は『レコード歌手第一号』と言われた。

このレコード歌手第一号佐藤千夜子の力添えで誕生するのが古賀政男。

昭和6年(1931)1月佐藤千夜子の歌で「影を慕いて」「日本橋から」が世に出た。(後に昭和7年3月藤山一郎)

そして、晋平の【晋平節】の次に世の流れになっていくのが古賀政男の【古賀メロディ】。

「古賀メロディ」の「メロディ」とは、「晋平節」の「節」のに対するもので、古賀政男が「メロディ」を大切にその重要性を主張していたそことによる。

今年、平成31年は『古賀メロディ 88年』

影を慕いて、丘を越えて、酒は涙か溜息か、窓に凭れて、月の浜辺・・

もうすぐ90年!

昨日今日できたものではない・

80年を超える多くの戦前の古賀メロディの名曲の重み!。

103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/01(Wed) 20:36
古賀政男がコロムビアに作曲家として入社したのがしたのが今から89年前の昭和6年(1931)3月、令和2年(2020)は
89年。

古賀メロディのほとんどが80年を超える。

80年を超える日本の歴史に燦然と輝く不滅の日本のクラッシック・古賀メロディ。





104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 22:56
☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品

童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲)   大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇   (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす      (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲)  同
ひばり  1929.4(西條八十作詞、 宮城道雄作曲)   同
鶯の夢 1928.5(野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪  1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節   1928.7  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8  (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様   1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲  1929.6  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し    1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒    1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄   1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲)   ビクター50776
港おどり  1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴  1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花  1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50881
紅屋の娘   1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50936
文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、  古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
母の歌    1930.1(鶴見祐輔作詞、 中山晋平作曲) ビクター51027@
唐人お吉の唄(黒船篇)1930.2(西條八十作詞、中山晋平作曲)  ビクター51093
この太陽   1930.6  (西條八十作詞、  中山晋平作曲) ビクター51240
琵琶湖シャンソン1930 (西条八十作詩・中山晋平作曲)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)


105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 23:10
古賀政男初期の7曲 佐藤千代子歌唱(ビクター)

文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、   古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)


106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 23:13
古賀政男(正男)初期の7曲 佐藤千夜子歌唱(ビクター)

107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/09(Thu) 15:12
文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
以上は,作曲家になる前の作品

108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/10(Fri) 19:22
古賀政男は著作権長者として有名、自身もコロンビアからテイチクに移るのに著作権に苦労し弘田竜太郎に助けられた。毎朝玄関でカネを数える音がするという伝説もある。
著作権料も圧倒的であって、昭和14年、JASRACの前身「大日本音楽著作権協会」設立にも、コロムビアの顔として深く関与、戦後「日本音楽著作権協会会長」など、「著作権」と切っても切れない関係にある古賀政男。

現在、古賀政男音楽博物館になっている、その財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。
日本音楽著作権協会(JASRAC)は現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、昭和14年(1939年)に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
著作権に関する仲介業務に関する法律 (昭和 14年法律 67号) により主務官庁の許可を得た日本唯一の音楽著作権仲介団体となった。

西新橋にあった本部は古賀政男没によって創設された、東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有する同博物館と一体の同ビルに移転。22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。
戦前の大日本音楽著作権協会では政治家が会長をつとめたが、昭和23年から作曲家と詩人が交代となって、作曲家古賀政男は、作曲家中山晋平、詩人西條八十、作曲家堀内敬三、詩人サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長を歴任している。



財団法人古賀政男音楽文化振興財団、古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも不思議ではない。



109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/10(Fri) 23:47
 ■■NHKTV 「日本の名曲10曲」■■ 1990 NHK TV (
1年間放送)

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本がまだ貧しかった80年以上前から、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級大歌手・声楽家が好んで
歌った歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ日本の名曲でした。

110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/19(Sun) 14:19
丘を越えて
 
 作詞:島田芳文
 作曲:古賀政男
 歌唱:藤山一郎
 
 (一)
 丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

(二)
 丘を越えて行こうよ
 小春の空は麗らかに
 澄みて嬉しいこころ
 湧くは胸の泉よ
 讃えよわが青春を
 いざ聞け遠く希望の
 鐘は鳴るよ


   

昭和4年、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌。元祖「青春歌謡」である。
昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、89年前の昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後75年、昭和95年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。
山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。




111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/02(Sun) 00:17
昭和SPレコード歌謡番組を待望する。

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=578828634&ls=50

112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/05(Wed) 21:52
良い歌は令和だろとどの時代でも歌い継がれるものですね。戦前の歌声に乾杯!

113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/05(Wed) 22:01
戦前は、貧しい時代ではあったが、軍国主義を除けば情緒があったようです。日本の天才的な数学者の岡潔さんもそう言っています。「戦前は軍国主義を除けば、良い時代であった」と。









114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 15:46
(参考)

☆戦前の流行歌
 h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt


115 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 22:11
声楽の基礎の無い中途半端な声楽の技術を持った歌手が、クラシック系の歌手が歌った曲を歌うと思わず耳を覆いたくなる、
これは私だけだろうか。

116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/09(Sun) 00:00
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

117 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/09(Sun) 18:18
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。


藤山一郎(1911.4.8-1993.8.21)が初吹込したのは、当時唯一の官立の音楽学校だった東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)在学中だったが、非常に完成された唱い方だった。昭和6年(1931)、まだ20歳になったかならないかの若さである。古賀政男27歳。まだ東京音楽学校本科2年生のアルバイト吹き込みで30曲を吹き込んだのだった。
戦前の藤山一郎の、「丘を越えて」「青い背広で」「東京ラプソディ」「春よいづこ」などの青春を謳歌する若く溌剌とした張りのある歌声で「古賀メロディー」の青春を高らかに歌いあげている。古賀政男の数々の青春歌謡に相応しい。それは在学中に校則に反してアルバイトでレコード吹込みしたからで、その若く溌剌とした歌声は「青い山脈」(1949)など、戦後抑留生活から解放され、日本に帰ったとき目にしたのは広島の惨状だった。
それは浦島太郎そのものだったに違いない。それをかぎつけたNHKのラジオ
番組に出演したことから、NHKラジオ放送との付き合いが深くなってゆくのだが、このころすでに30代も後半を過ぎ40代近くなった、この頃の戦後の歌声と比べればよくわかる。
限界を感じていた藤山一郎は、その後昭和29年(1954)に歌手を引退、NHK嘱託となった。

118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/09(Sun) 18:59
古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。以後、古賀メロディを支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作。


☆「古賀メロディ」を支えた名歌手と、その最初の歌

佐藤千夜子  東京音楽学校  文のかおり      1929
関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞)   1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校  月の浜辺 (島田芳文作詞)    1931.7
淡谷のり子   東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞)   1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校  お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児     東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄  (玉川映二作詞)    1936
奥田英子           別れの唄 (山川あさを作詞)  1936
有島通男   東洋音楽学校  春まだ浅く   (石川啄木作詞)  1936.4
由利あけみ  東京音楽学校  黒いパイプ   (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮  (西條八十作詞)   1939.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇   東洋音楽学校  誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
菊池章子   東洋音楽学校  相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌   〈西岡水朗作詞〉  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝   東洋音楽学校  青い牧場    (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校  月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎   武蔵野音楽学校  明日もまた  (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで  (サトウハチロー作詞) 1945.1

*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。

瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの別名。

東京音楽学校   東京藝術大学(音楽部)
東洋音楽学校   東京音楽大学
武蔵野音楽学校  武蔵野音楽大学

119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/09(Sun) 19:51
昭和のレコード歌謡は昭和3年(1928)、新民謡『波浮の港』(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)に始まる。

直後、昭和6年(1931)に古賀政男が台頭。これまでの主流だった中山晋平の「晋平節」が古賀政男の「古賀メロディ」にとってかわられた。

古賀政男(正男)をメジャーデビューさせるに至ったのは、まだレコード普及もない頃から中山晋平の歌(晋平節)を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えによる。

古賀正男の「影を慕いて」など計7曲をビクターに吹き込んだ。

古賀政男は自伝で佐藤について「私に作曲家の道を与えてくださった終生の恩人」と書いている。


「古賀メロディ」を支えた主な名歌手が27人いる。(1929‐1945)

このうち音楽学校卒業が22人。

藤山一郎などこうした歌手がほとんどの「古賀メロディ」の歌手である。

22人のうち、「東京音楽学校」(現在の「東京芸術大学」音楽学部)卒業のクラッシックの声楽家・歌手がなんと12人。

関種子、藤山一郎(増永丈夫)は本科主席卒業。レードデビューは古賀政男のデビューそのもの。

今のクラッシック歌手でも歌えない・・!「古賀メロディ」・・その理由だ!。


・佐藤惣之助、西條八十など第一級の詩人が心を込めて作った詩に,第一級の作曲家古賀政男が心を込めて作曲し、それに藤山一郎などの第一級の歌手が心を込めて歌った文句なしの第一級の文化遺産・それが古賀メロディ・・・

第一級の文化遺産・大切に歌おう!



120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/14(Fri) 09:45
【昭和歌謡】『東京大衆歌謡楽団』で、「日本の文化遺産」昭和SP歌謡を聞こう!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=581636883&ls=50

今テレビでも、ラジオでも、CDでも聞けなくなってしまった『日本の文化遺産・昭和SP歌謡』を広く歌っています。

「古賀メロディ」など、ここにでてくる本当の「名曲」を余すところなく、たくさん聴くことができ、今おすすめです。

小人数楽団で全国で公演しています。日程は上記HP参照。

楽器も限定されるので、完全とはならないが、勉強もしているし期待される。

この日本がまだ貧しかった時代、まだテレビもなかった時代、日本映画黄金時代の昭和SP歌謡・この優れた貴重な日本の音楽文化遺産を守り、まだ知らない若者に広く知っ知ってうため、頑張ってくれるよう応援しよう!!。


121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/24(Mon) 10:08
古賀メロディ聴き比べ16:あの夢この歌
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/f16e19d47310de22abfd845fa93b1c03


122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/26(Wed) 22:56
☆ミス・コロムビア(松原操)の歌う「古賀メロディ」

「お蝶夫人」の唄 (西条八十作詞、古賀政男作曲)1933.3
気まぐれ涙  (西条八十作詞、古賀政男作曲)  1933.10
誰も知らない (サトウハチロ−作詞、古賀政男作曲)1939.3
新妻模様   (久保田宵二作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 1940.3
そうだその意気(西条八十作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 李香蘭 1941・5
桜花に誓う  (西条八十作詞、古賀政男作曲) 奈良光江 三原純子 1945
目ン無い千鳥 (サトウハチロ−作詞、古賀政男作曲)霧島昇 1940.4
故郷の白百合 (サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)霧島昇 1943
いさおを胸に (サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)楠木繁夫1944 広田竜太郎編曲
三百六十五夜 (西条八十作詞、古賀政男作曲)   霧島昇 1948.9



「お蝶夫人」の唄
  西条八十 作詞
  古賀政男 作曲  
  歌 ミス・コロムビア 
  昭和8年(1933)3月

一.
おもうお方は 帰らぬ人か
旅のつばめは また来たに 
恋の長崎 港の雨は
お蝶夫人の 涙雨

二.
私しゃ初恋心(おぼこ)の 日本娘
港育ちの 女郎花(おみなえし)
恋は気まぐれ 降るアメリカの
露にぬれたか 恥ずかしや

三.
ねんねおころり 坊やの父(てて)は
青い目の人 ふねの人
ねんねおころり 謡(うた)うたとても
声もとどかぬ 波の上

四.
来るか来るかの 頼りは来ずに
春の丸山 花が咲く
情け知らずの 入船出船
きょうも散る花 のせてゆく


いくつかある「お蝶夫人の歌」のさきがけ。「浮草の歌」とともに、ミス・コロムビア最初期の歌声。。。
美貌と美声を兼ねた、清純で美しい歌姫ミスコロムビアの歌声。

「流浪の民」「この道」「我が家の歌」など松原操名の声楽曲も多い。
お蝶夫人、日本では世界的プリマドンナ三浦環が歌った。

東京音楽学校(現東京芸術大音楽部)を出るか出ないか頃のミス・コロムビ(松原操)のコロムビア最初期の歌。
けなげな日本娘にふさわしい清純で繊細で綺麗なすばらしい歌唱。
、今のクラッシック標ぼうの歌手でもここまでは歌えない、すばらしい歌唱。

123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/27(Thu) 11:29
古賀政男は、コロムビア―テイチク―コロムビアと,それぞれで黄金時代を築いている。
昭和9年から昭和13年までテイチク。昭和14年に外務省音楽文化親善使節として、アメリカ、南米に渡米。
松葉操とは、最初期の昭和8年と、渡米コロムビア復帰後の昭和15年(1940)以降となる。

124 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/08(Sun) 18:31
代々木上原駅前の3000坪の古賀政男邸、古賀政男自伝「我が心の歌」には、この古賀邸に萩原朔太郎、惣之助さんが集まって三人でよく詩の談義をしたとあり、朔太郎の娘・萩原葉子の「父・萩原朔太郎」にも同じ記述がある。

馬込の文士村・雪が谷に住んでいた詩人・佐藤惣之助、佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎、二人は惣之助の主宰する「詩の家」の同人でもある。

大正14年(1925)8月詩集『純情小曲集』刊行(新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を朔太郎と佐藤惣之助で担当。佐藤惣之助はしょっちゅう代田の朔太郎宅を訪問していた。

この三人は詩を通して日常的に親密な関係を持っていた。

平成23年(2011)は、萩原朔太郎生誕125 年の節目の年で、10 月、晩年、下北沢に居を構えたゆかりの東京の「世田谷文学館」にて「生誕125年萩原朔太郎展」が開かれた。

常設展では、作家であり、舞踏家であり、手芸作家でもあった萩原朔太郎の長女「萩原葉子」の証言(朔太郎と葉子父娘の家庭合奏)の再現演奏があった。

「朔太郎と葉子父娘の家庭合奏」の再現では、マンドリンとギターによる古賀政男の『影を慕いて』『酒は泪か溜息か』、それに朔太郎の『 機織る乙女』など、朔太郎にちなむ世田谷区ゆかりの作曲家と作品を演奏した。...

・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

・宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)

・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫
・流行歌曲について  萩原朔太郎
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)



大正2年4月このころ自筆の歌集『ソライロノハナ』製作。北原白秋主宰の雑誌「朱欒」掲載の室生星の詩に感動、手紙を書く。5月号「朱欒」に「みちゆき」ほか詩6篇が掲載され、詩壇
太平洋戦争が始まって5ヶ月ほどした昭和17年5月15日(1942年。

76年前の5月15日)、 佐藤惣之助(51歳)が、自宅がある馬込文学圏(雪谷)で、脳溢血を起こして急逝しました。

佐藤の義兄にあたる萩原朔太郎が(佐藤の妻は朔太郎の妹愛子)、4日前の11日に亡くなり、その告別式では、胃潰瘍で体調を崩していた室生犀星(52歳)の代わりに佐藤が葬儀委員長を務めました。その佐藤までが逝ってしまった。二人と関係が深かった人たちは、一挙に二人失い、大きな喪失感に直面します。


125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 09:40
>>118

■■[日本のクラッシック」古賀メロディを支えた歌手は第一級のクラッシック歌手だった!!。


 ☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

■東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)  通称;上野の音楽学校

佐藤千夜子  東京音楽学校 文のかおり(古賀正夫作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺   (島田芳文作詞)  1931.7
渡辺光子   東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
由利あけみ  東京音楽学校 黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
波平暁男   東京音楽学校 月夜船    (藤浦洸作詞) 1944.11


■東洋音楽学校(現・東京音楽大学)

淡谷のり子  東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
有島通男   東洋音楽学校 春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
霧島 昇   東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
奈良光枝   東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12

■武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)

中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11


■帝国音楽学校

伊藤久男 帝国音楽学校   熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11


■その他

轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ)  別れの唄    (山川あさを作詞)  1936
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
*三浦環他に師事




126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 10:35
私のメモ帳・・・作曲家・古賀政男
h ttps://blog.goo.ne.jp/utaski1930/e/7bd753198c8ed63170acf84f11b45741
古賀メロディ 聴き比べ17:三百六十五夜
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/752cc96327d550c1947400216ada267e
古賀メロディ聴き比べ16:あの夢この歌
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/f16e19d47310de22abfd845fa93b1c03



127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 10:37
私のメモ帳・・・作曲家・古賀政男
h ttps://blog.goo.ne.jp/utaski1930/e/7bd753198c8ed63170acf84f11b45741
古賀メロディ 聴き比べ17:三百六十五夜
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/752cc96327d550c1947400216ada267e
古賀メロディ聴き比べ16:あの夢この歌
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/f16e19d47310de22abfd845fa93b1c03



128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 10:50
■■[日本のクラッシック」古賀メロディは,第一級の詩人、第一級の作曲家、および第一級のクラッシック歌手に支えられた第一級の音楽文化遺産です!!。

 ☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

■東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)  通称;上野の音楽学校

佐藤千夜子  東京音楽学校 文のかおり(古賀正夫作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺   (島田芳文作詞)  1931.7
渡辺光子   東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
由利あけみ  東京音楽学校 黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
波平暁男   東京音楽学校 月夜船    (藤浦洸作詞) 1944.11

■東洋音楽学校(現・東京音楽大学)

淡谷のり子  東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
有島通男   東洋音楽学校 春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
霧島 昇   東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
奈良光枝   東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12

■武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)

中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11

■帝国音楽学校

伊藤久男 帝国音楽学校   熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11

■その他

轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ)  別れの唄    (山川あさを作詞)  1936
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
*三浦環他に師事

玉川英二、倉中佳人、瀬川与志ハサトウハチロ―の変名。




129 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 12:00
ここに古賀メロディの佳曲・『嘆きの夜曲』がある。藤山一郎・『影を慕いて』と同じ、昭和7年(1932年)。
西岡水朗作詞、古賀政男作曲、關(関)種子さん歌唱です。

嘆きの夜曲   
西岡水朗 作詞  古賀政男作曲 
関 種子 唄 
昭和7年 1932 

  呼んでみたとて かえらぬ人よ 
  なぜに儚い 夢じゃやら
  
  想いつかれて 心に秘めて 
  暮れりゃさみしい 雪ばかり 

  泣いてみたとて かえらぬ恋よ 
  なぜにつきせぬ 涙やら  


東北・東日本大震災の80年前に作られたものです。
このYou Tubeには、今ないかもしれないが、「東日本大震災から1年になり、心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。」とありますので、ここに紹介させていただきます。


80年も前に作られたこの「古賀メロディ」、その簡潔な短い詞の中に、「普遍性」をもって、この大災禍の嘆き・哀しみさえをも予見したかのように、時代を超えて、
つい昨日のように追悼の気持ちをぴったり共有できるというのは驚きとしかいえません。


嘆きの夜曲 関種子.wmv
公開日: 2012/03/05
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。
なお背景の画像は津波被害のものが多いですので、衝撃を受けやすい方々はご遠慮ください。
背景の画像と曲は直接は関係がありません。古いレコードですので雑音が多いのかもしれません。画像はおもにグーグルの検索画像から引用させていただきました。
h 
ttp://www.youtube.com/watch?v=giaWCvjmsoY&feature=endscreen&NR=1
(今消えているかも)

昭和3年、90年前、人生の苦悩から始まった古賀メロディ、悲しみ-人生の苦悩を歌ったら右に出るものがない古賀メロディ。

「花が咲く」という復興支援ソングなるものがある、小学校合唱コンクールみたいな、長くて何を言ってるのかよくわからない、意味不明な、詩がなっていない。

80年前に作られた短い簡潔な詩が。80年後の悲しみを予見していたかのような、普遍性を持った歌。
言葉というものは、長くなればなるほど、言ってることは狭く、短ければ短いほど行ってることは行間を含めてずっとひろい。

最近の歌は長ったらしく、何を言ってるのかわからない、何を叫んでいるのや、さっぱりわからない最近の歌。
それに対し、第一級の詩人の書いた「古賀メロディ」は頭の中に情景が浮かんでくるといわれる。
そういう歌を歌ったのは、クラッシックソプラノ歌手で初期の古賀メロディを支えた関種子。聞けば違いはよくわかる。



130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 12:44
☆昭和戦前の作曲家

日本に本格的なレコード会社が登場したのは、昭和改元(1926)とともにあり、今から80数年余り前の昭和2年から3年にかけてです。

レコード歌謡の最初は昭和3年の新民謡「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)とされる。

SPレコードの時代は、戦前から戦後にかけて、映画「二十四の瞳」の時代と重なる日本がまだ貧しく、くるしい時代です。しかし、その中にも豊かな心をはぐくんでいたでしょう。

昭和、戦前戦中、今に残る数多くの名曲がレコードに乗って世に出ています。昭和の歴史が生んだ豊かな心の表れであるSPレコードとその歌声は文化遺産と言えます。

そして今歌われているそのほとんどは、主にここに上げた作曲家によるものと言えるでしょう。
日本の西洋音楽を取り入れた大衆音楽は本居長世、その弟子中山晋平、弘田龍太郎にはじまる。



131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 12:45
■大衆音楽と作曲家(昭和・戦前)■

中山晋平(1887〜1952)(※)青い芒、波浮の港、当世銀座節、東京行進曲
弘田龍太郎(1892〜1952)  野薔薇の歌、無憂華の唄、いさおを胸に(編曲)、今年の燕、お国のために
佐々木すぐる(1892〜1966) 兵隊さんよありがとう、昭和の子供
佐々紅華(1907〜1961)  君恋し、祇園小唄、浪花小唄、神田小唄
堀内敬三(1897〜1983)(※)黒い瞳よ今いずこ、麗人の唄、
塩尻精八         道頓堀行進曲、女給の唄
奥山貞吉(1887〜1956)ザッツ・オーケー、沓掛小唄,乳姉妹の唄、お島千太郎旅唄

古賀政男(1904〜1978)(※)影を慕いて、丘を越えて、あけみの唄、いさおを胸に、
松平信博(1893-1949) サムライ・ニッポン、ルンペン節、天国に結ぶ恋
江口夜詩〈1903〜1978〉   十九の春、忘られぬ花、急げ幌馬車
仁木他喜雄〈1901〜1958〉  高原の月、めんこい仔馬
万城目正〈1905〜1968〉   旅の夜風、愛染夜曲、純情二重奏
服部良一〈1907〜1993〉(※)蘇州夜曲、別れのブルース、別れのブルース
佐々木俊一〈1907〜1957〉  涙の渡り鳥
竹岡信幸(1907〜1985)   赤城の子守歌,人妻椿
長津義司〈1904〜1986〉   十三夜、
古関裕而〈1909〜1989〉   船頭可愛や、愛国の花、露営の歌、暁に祈る
早乙女光〈1904〜1944〉   湖畔の乙女、荒野の夜風、愛国の花、古き花園
明本京静〈1905〜1972〉父よあなたは強かった、伊豆の子守唄
大村能章〈1893〜1962〉   旅笠道中、野崎小唄、
阿部武雄〈1902〜1968〉   流転、むらさき小唄、国境の町
山田栄一〈1906〜1995〉   すみだ川

※日本音楽著作権協会会長歴任 (他に詩人、西条八十、サトウハチロー、勝承夫)







132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 12:59
■昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前) ■

昭和前半の昔の歌には、その3分間の中に「ドラマ」があって、歌詞と曲は一体のものでした。

当代随一と言われた詩人、作詞家、作曲家たちが心をこめて作った歌、そのさりげない短い言葉、そのメロデーの中に行間のドラマ、・喜びと哀しみを共有したのです。

昭和戦前の大衆歌曲(歌謡曲)分野に貢献した主な詩人・作詞家を参考に。


*野口雨情(1882〜1945) 波浮の港、鶯の夢、青い芒、紅谷の娘、
*西條八十(1892〜1970) (※)東京行進曲、誰か故郷を想わざる、旅の夜風
 時雨音羽(1899〜1980 ) 出船の港、鉾をおさめて、君恋し、浪花小唄
 堀内敬三(1897〜1983) 私の青空、アラビアの唄、黒い瞳よ今いずこ
 長田幹彦(1887〜1964) 祇園小唄、天竜下れば、島の娘
*島田芳文(1898〜1973) 丘を越えて、キャンプ小唄、月の浜辺、窓に凭れて
 高橋掬太郎(1901〜1970)酒は涙か溜息か、雨に咲く花、人妻椿
*佐藤惣之助(1890〜1942)人生の並木路、新妻鏡、男の純情、青い背広で、
*サトウ・ハチロ−(1903〜1973)(※)麗人の唄、目ン無い千鳥、勝利の日まで、
*西岡水朗(1909〜1955) 嘆きの夜曲、忘られぬ花、
*大木惇夫(1895〜1977) 崑崙越えて、思い出の記、雲のふるさと、国境の町
*藤浦 洸(1893〜1979)ビア樽ポルカ、別れのブルース、月夜船
*久保田宵二(1899〜1947)浮草の唄、ほんとにそうなら、山寺の和尚さん、
 佐伯孝夫(1902〜1981) 無情の夢、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、
 門田ゆたか(1907〜1975) 東京ラプソディー
 藤田まさと(1908〜1982) 旅笠道中、明治一代女、妻恋道中、鴛鴦道中、
 倉仲房雄(サトウハチロー)合歓の木蔭で、東京の夢、友情夜曲、
 玉川英二(同上)     二人は若い
 星野貞志(同上)     うちの女房にゃ髭がある、あゝそれなのに
 山野三郎(同上)     若しも月給が上がったら
 島田磬也(1909〜1978)  白虎隊、望郷の唄、啄木の唄
 宮本旅人        旅姿三人男、懐しのヴィオロン
 石松秋二        十三夜、九段の母、満州娘
 矢島寵児1908〜1946)  名月赤城山
 清水みのる(1903〜1979)出船の唄、別れ船
 野村俊夫(1904〜1966)  暁に祈る、ヒュッテは招く、あの日あの時

(*は詩人。※は戦後において日本音楽著作権協会会長歴任(他に勝承夫))

 佐伯孝夫、サトウハチロー、門田ゆたか は西條八十の弟子。
 島田芳文は野口雨情門下。
 佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎


133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 18:45
■日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長 ■

社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)とは、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、すべての音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む社団法人である。
1939年 JASRACの前身である大日本音楽著作権協会が設立された。(初代会長水野錬太郎)

歴代会長
昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986)旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 音楽評論家、作詞・訳詞家、作曲家
昭和46〜48   サロウハチロ―(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人

昭和55〜    服部良一(1907〜1993) 作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜   黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜)   作詞家
平成16年〜   船村 徹(1932〜)   作曲家
平成22年〜   戸倉俊一(1948〜)   作曲家

3代目以降8代まで。詩人と作曲家が交代で会長になっていたが。9代あたりから人材がなくなり、
詩人がいなくなった。


134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/20(Fri) 12:06
大正から昭和の初めにかけて、大衆が誰でも歌える歌というものが
民謡など除いて存在しなかった。

誰でもが歌える歌ずくり、それを一貫して目指した者、それが中山晋平。

晋平の歌は【晋平節】と言われた。

劇中歌から、童謡、新民謡、歌謡歌曲。

中山晋平は野口雨情、佐藤千夜子と組んで、大正から昭和の初めにかけて「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)を行っていた。

まだ新幹線も飛行機もない時代に全国行脚を行い民謡採譜や普及運動を行っていた。


なお、このころ、本居長世も童謡運動で三人の娘さんと全国行脚をしていたのだった。

135 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/20(Fri) 12:16
この晋平の歌(晋平節)を世に広めた歌手、「レコード歌手第一号」佐藤千夜子の力添えで誕生するのが古賀政男だった。
古賀政男は自伝「我が心の歌」で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を拓いてくださった『終生の恩人』とかいている。

136 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/23(Mon) 22:44
>>104,>>135

☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品

童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲)   大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇   (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす      (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲)  同
ひばり  1929.4(西條八十作詞、 宮城道雄作曲)   同
鶯の夢 1928.5(野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪  1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節   1928.7  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8  (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様   1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲  1929.6  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し    1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒    1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄   1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲)   ビクター50776
港おどり  1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴  1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花  1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50881
紅屋の娘   1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50936
文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、  古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
母の歌    1930.1(鶴見祐輔作詞、 中山晋平作曲) ビクター51027@
唐人お吉の唄(黒船篇)1930.2(西條八十作詞、中山晋平作曲)  ビクター51093
この太陽   1930.6  (西條八十作詞、  中山晋平作曲) ビクター51240
琵琶湖シャンソン1930 (西条八十作詩・中山晋平作曲)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)


137 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/23(Mon) 22:51
>>136
>>105

古賀政男初期の7曲 佐藤千代子歌唱(ビクター)

文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3 発売)
娘心も    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930 3 発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、   古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931. 6発売)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)


138 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/24(Tue) 11:57
>>134-137



学歴 東京音楽学校(現:東京芸術大学)
佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月13日 - 1968年(昭和43年)12月13日)は、日本初のレコード歌手。本名は佐藤千代。山形県東村山郡天童村(現:天童市)出身。中山晋平の歌謡曲を世に広め、古賀政男の才能を発見したことで、それ以後の日本大衆音楽史の発展に大きな功績がある。華々しくも浮き沈み激しい人生は、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」のモデルとなった。


子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、伝道師のミス・キルバン (Miss Kirwan) と出会う。天童小学校高等科卒業後、その歌の才能を見抜いたキルバンに連れられて上京。ミッション系である普連土女学校(現:普連土学園)に入学。在学中にオペラを鑑賞し、強い感銘を受け、音楽を志す。
1920年(大正9年)、東京音楽学校(現:東京芸術大学)に入学する。ハンカ・シェルデルップ・ペツォルトとアドルフォ・サルコリに師事した[2]。在学中に作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情らと知り合う。中山、野口と共に「全国歌の旅」に出る。
1925年(大正14年) ラジオ放送が開始され、ラジオを通して歌うようになる。「青い芒(すすき)」でレコードデビュー。発売元は内外蓄音器(後の太平蓄音器)。
1928年(昭和3年)、中山、野口らと共に行っていた「新民謡・新童話コンサート」から生まれた「波浮の港」を日本ビクターより発売。「波浮の港」は10万枚の大ヒットとなる。同年に「当世銀座節」を発売しヒットする。同年秋、佐藤千夜子は明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会に出演、「波浮の港」などを独唱する。このときマンドリンオーケストラに注目する。
1929年(昭和4年)、「東京行進曲」を5月1日に発売。菊池寛原作の同名小説を映画化した作品(主演:夏川静江、入江たか子)の主題歌に用いられ、日本初のタイアップ曲。25万枚以上を売り上げ特大ヒットとなった。全国区のスターとなると共に、自身最大のヒット曲となる。この曲は「歌謡曲」というジャンルを確立した曲でもある。「東京行進曲」のB面曲だった「紅屋の娘」も一世を風靡した。同年、「愛して頂戴」「黒ゆりの花」を発売し、これらもヒットを記録。同年6月、明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会に出演。同演奏会においてギター合奏で初演された「影を慕いて」に注目する。同年12月、ビクターで古賀正男(後の古賀政男)のマンドリン・ギター歌曲をレコード歌謡として「文のかおり」「娘心も」などを吹込む。
1930年(昭和5年)、「唐人お吉の歌(黒船篇)」、「この太陽」を発売。次々とヒットを飛ばす。同年10月20日、ビクターのスタジオで「影を慕いて」と「日本橋から』を吹込む。同年にイタリアのミラノに渡る[2]。理由については、中山との不倫問題を決着させるため、当初から志望していたオペラ歌手になるためなどの説がある。現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。
1934年(昭和9年)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与される。しかし、オペラで名声を得ることはできなかった。同年11月に帰国し[2]、日本国内での復帰を目指すが、若手の台頭などもあり、果たせず終わる。
第二次大戦中は南方戦線の慰問をして回る。山本五十六に前線で兵士が愛唱していた「夜戦部隊の歌」を内地に持ち帰って欲しいと依願されたこともあった。
戦後は全く忘れられた存在となり、事実上芸能界から引退した。
1968年(昭和43年)12月13日、がんのため東京都立大久保病院で死去。享年71。生涯独身で家族はいなかった。地元天童市の共同墓地に埋葬されている。同市の佐藤千夜子顕彰館(天童民芸館)は佐藤の生家を再現したものである。
悲しき遍路
佐藤がかつて出演したラジオ放送劇。1925年7月28日に放送された。NHKアーカイブス(埼玉)で聴くことができるが、同アーカイブスの公開ライブラリー中で最も古いものの1つである。



139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/24(Tue) 12:05
代表曲
波浮の港 (1928.1) 作詞:野口雨情/作曲:中山晋平/編曲:中山晋平
当世銀座節(1928.7) 作詞:西條八十/作曲:中山晋平/編曲:佐々紅華
旅人の唄 (1928.12) 作詞:野口雨情/作曲:中山晋平/編曲:中山晋平
東京行進曲(1929.6) 作詞:西條八十/作曲:中山晋平/編曲:井田一郎
紅屋の娘 (1929.6) 作詞:野口雨情/作曲:中山晋平/編曲:中山晋平
愛して頂戴(1929.7) 作詞:西條八十/作曲:中山晋平/編曲:中山晋平
黒ゆりの花(1929.9) 作詞:時雨音羽/作曲:佐々紅華/編曲:佐々紅華
文のかおり(1930.2) 作詞:古賀政男/作曲:古賀政男/編曲:古賀政男
娘心も (1930.3) 作詞:浜田広介/作曲:古賀政男/編曲:古賀政男
唐人お吉の歌(黒船篇)1930.2)作詞:西條八十/作曲:中山晋平/編曲:中山晋平
この太陽 (1930.6) 作詞:西條八十/作曲:中山晋平/編曲:中山晋平
影を慕いて (1931.1)作詞:古賀政男/作曲:古賀政男/編曲:古賀政男
日本橋から (1931.1)作詞:浜田広介/作曲:古賀政男/編曲:古賀政男


140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/29(Sun) 10:35
古賀メロディ聴き比べ8:青い背広で
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/bb54c218f7739569544bd059c3b5afcb

141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/29(Sun) 11:14
影を慕いて
 
  
  佐藤千夜子 (昭和6年1月 ビクター)
  藤山一郎   (昭和7年3月 コロムビア)

 作詞:古賀政男
 作曲:古賀政男
 

 (一)
 まぼろしの
 影を慕いて 雨に日に
 月にやるせぬ 我が想い
 つつめば燃ゆる 胸の火に
 身は焦がれつつ 忍び泣く
 
 (二)
 わびしさよ
 せめて傷心(いたみ)の慰めに
 ギターをとりて 爪びけば
 どこまで時雨 ゆく秋ぞ
 トレモロ淋し 身は悲し

 (三)
 君故に
 永き人生(ひとよ)を 霜枯れて
 永遠に春見ぬ 我がさだめ
 永ろうべきか 空蝉(うつせみ)の
 儚き影よ 我が恋よ



142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/30(Mon) 17:21
古賀政男音楽博物館

h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/fc680eb40403d8544cc667836dceca8a


143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/01(Wed) 12:58
【東京】不滅の古賀メロディー【ラプソディー】
h ttps://bubble6.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1122559619/184-205


144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/01(Wed) 13:37
 ※古賀メロディーの主な詩人・作詞家とその歌

浜田広介   娘心も、日本橋から、片想い、風の鈴蘭  
島田芳文*  月の浜辺、窓に凭れて、丘を越えて、キャンプ小唄、歓喜の丘、スキーの唄、ハイキングの唄、夕べ仄かに   
西岡水郎*  チャッカリしてるわネ、嘆きの夜曲、歓喜の歌
鹿山鶯村*  乙女心
高橋掬太郎  酒は涙か溜息か、私此の頃憂鬱よ、愛の子守唄
時雨音羽   さらば上海、花に浮かれて、花の東京原阿佐緒   あけみの唄
佐藤惣之助* 鳩笛を吹く女の唄、アリランの唄、男の純情、愛の小窓、青春日記、青い背広で、東京娘、人生の並木路、新妻鏡、緑の地平線、人生劇場、白い椿の唄、真実一路の唄、白薔薇は咲けど、ゆかりの唄、緑の月、さらば青春、
西条八十*  去り行く影、サーカスの唄、誰か故郷を思わざる、春よいずこ、迎春花、サヨンの鐘、紅い睡蓮,相呼ぶ歌、そうだその意気、旅役者の唄、麗人の唄、
サトウハチロー* 青い牧場、故郷の白百合、二人は若い、目ン無い千鳥、いさをを胸に、
       カボチャの歌、勝利の日まで
門田ゆたか  東京ラプソディー
久保田宵二* ほんとにそうなら、旅がらす
島田欣也   白虎隊、望郷の唄、軍国の母、啄木の歌
山瀬まゆみ(島田欣也)女の階級
大木敦夫*  崑崙越えて 雲のふるさと
藤浦洸*   南の花嫁さん、葵の歌、月夜船
野村俊夫   湯の町エレジー

*詩人


145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/01(Wed) 13:54
古賀政男略歴について、「人間の記録93 古賀政男」(日本図書センター)から
抜粋・・

昭和3年(1928)11月25日
 第13回明大マンドリンクランブ大演奏会に当時の人気歌手佐藤千夜子の特別出演を得て
 処女作「影を慕いて」を発表。

昭和4年(1929)3月10日 明治大学卒業
       12月  25歳、佐藤千夜子の歌唱で日本ビクターより「影を慕いて」「日本橋から」
         と、「片思い」「風の鈴蘭」の二枚を吹き込み、5年12月発売される。

昭和6年3月    日本コロムビアと専属契約。作曲家としての第一歩を踏み出す。発吹き込みは「乙女心」(関種子)、「キャンプ小唄」(藤山一郎)
昭和7年12月   コロムビア文芸部長和田達夫氏の紹介、山田耕筰氏の媒約で中村千代子と結婚。
昭和9年5月1日  日本コロムビア円満退職、15日テイチクに入社。
昭和13年11月〜昭和14年11月  外務省音楽使節として渡米。
昭和14年11月  日本コロムビア復帰昭和23年5月
    日本音楽著作権協会監事就任(会長 中山晋平)
昭和34年1月   日本作曲家協会を設立、会長となる。
昭和38年4月   日本音楽著作権協会理事に就任
昭和49年10月   日本音楽著作権協会会長
昭和50年4月   勲三等瑞宝章受賞
 






146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/01(Wed) 14:00
   <古賀メロディーの抒情歌>

ほかにもたくさんあるが・・

影を慕いて  (古賀政男)
丘を越えて  (島田芳文)
月の浜辺   (島田芳文)
ハイキングの唄(島田芳文)
夕べ仄かに  (島田芳文)
人生の並木路 (佐藤惣之助)
白い椿の唄  (佐藤惣之助)
さらば青春  (佐藤惣之助)
誰か故郷を想わざる(西条八十)
あの花この花 (西条八十)
青い牧場   (サトウハチロー)
故郷の白百合 (サトウハチロー)
雲のふるさと (大木敦夫) 国民歌謡
やすらいの歌 (百田宗冶)  国民歌謡、ラジオ歌謡
ピレネーの山の男(西条八十)
りんどう峠 (西条八十)


<古賀メロデー 青春・叙情歌>  藤山一郎歌

東京ラプソデイー (門田ゆたか)1936年6月(映画「東京ラプソデー」主題歌)
 ♪花咲き花散る宵も 銀座の柳の下で・・
東京娘 (佐藤惣之助)1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
 ♪東京娘の 東京娘の初恋は・・
さらば青春(佐藤惣之助)1936年7月 (日活「慈悲心鳥」挿入歌)
 ♪愛と希望に身はきずつきて・・
男の純情(佐藤惣之助)(映画「魂」主題歌)1936年8月
 ♪男いのちの純情は 燃えて輝く金の星・・
愛の小窓(佐藤惣之助)(映画「魂」挿入歌)1936年8月 (デイックミネ)
 ♪花の都に身をすねて 若きいのちを散らすやら・・
回想譜(今城請児)1936年10月  (日活「女の階級」挿入歌)
 ♪星みれば はろかに遠く 雲見れば つきせぬ思い
青春カーニバル(青春の謝肉祭)(島田欣也・野村俊夫)  1936年11月
 ♪若き日の憧れを胸に抱き・・
青春日記(佐藤惣之助)1937年2月
 ♪初恋の涙にひそむ花びらを 水に流して泣きくらす あわれ一九の春の夢・
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助)1937年5月(西條八十原作、東宝映画「白薔薇は咲けど」主題歌)
 ♪若き日に 溢るる胸の せつなさは 夢の空の 紅の色 野薔薇に虹は 消ゆるとも
  涙は消えぬ スーベニル
青い背広で(佐藤惣之助)1937年2月
 ♪青い背広で心も軽く・・
青春旅情 (佐藤惣之助)1938年3月
 ♪たそがれの波止場に一人泣きに行く ああ青春の・・
歓喜の丘 (島田芳文)1938年3月
 ♪あこがれの丘にきて 萌ゆる瞳に仰ぎ見る 空は青空 日はうらら・・
春よいずこ(西条八十)
 ♪おもいでは おもいでは 青い背広の・

147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/01(Wed) 14:20
>>138
>>141

NHKの連続ドラマ「いちばん星」で紹介されたの覚えておられる方も多いかと思います。日本で最初のレコード・スター歌手・佐藤千夜子は1897年(明治30年)3月13日、山形県天童市で生まれました。
13歳の時、英語の勉強をするため上京。ミッション系の学校に在学中オペラを観たことから音楽を志し、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)に入学。東京音楽学校の社交場でもにもなっていた本郷中央教会で聖歌を歌った、ここで同じクリスチャンの山田耕筰と知り合い、山田から中山晋平を紹介されて、中山に師事することになります。
中山が野口雨情らと一緒におこなっていた「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)に、歌手として参加、この企画の中で生まれた新民謡「波浮の港」が昭和3年(1928年)(ビクターからレコードとして発売。これが日本の商業レコード第一号とされている。
このレコード歌手第一号、晋平の唄(晋平節)そ世に広めた歌手「佐藤千夜子」の力添えで誕生することになるのが、「古賀政男」(正男)でした。
「いちばん星」にはこのあたりのことが描かれています。




148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/01(Wed) 14:38
佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30 年)3月13日 - 1968年(昭和43 年)12月13日)は日本初のレコード歌手。本名は佐藤千代。山形県天童市出身。華々しくかつ浮き沈み激しい人生は、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」のモデルとなった。
子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、伝道師のミス・キルバン(Miss.Kirwan)と出会う。天童小学校高等科卒業後、その歌の才能を見抜いたキルバンに連れられて上京。ミッション系である普連土女学校(現普連土学園)に入学。在学中にオペラを鑑賞し強い感銘を受け、音楽を志す。

1920 年(大正9年)、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学。在学中に作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情らと知り合う。中山、野口と共に「全国歌の旅」に出る。

1925 年(大正14年)、ラジオ放送が開始され、ラジオを通して歌うようになる。「青い芒(すすき)」でレコードデビュー。発売元は内外蓄音器(後の太平蓄音器)。

1928 年(昭和3年)、中山、野口らと共に行っていた「新民謡・新童話コンサート」から生まれた「波浮の港」を日本ビクターよりリリース。これが日本初の商業レコードとされている。「波浮の港」は10万枚の大ヒットとなる。同年に「当世銀座節」をリリースしヒットする。また、古賀政男の「影を慕いて」を歌う。これにより、古賀はメジャーデビューのきっかけを掴む。

1929 年(昭和4年)、「東京行進曲」を5月 1日にリリース。菊池寛原作の同名小説を映画化した作品(主演夏川静江、入江たか子)の主題歌に用いられ、日本初のタイアップ曲。25万枚以上を売り上げ特大ヒットとなった。全国区のスターとなると共に、自身最大のヒット曲となる。この曲は「歌謡曲」というジャンルを確立した曲でもある。

149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/01(Wed) 14:41
昭和の初頭、日本のレコード歌手第一号として輝かしい脚光を浴びた山形県出身の歌姫・佐藤千夜子の生涯を作品にした舞台です。
その物語は、明治44年3月、山形県天童から13歳で上京した千代は、幼い頃の夢でもあった歌の道に進むべく東京音楽学校に入学します。
ある日、その歌声が中山晋平、山田耕作、野口雨情らの耳にとまり、才能を見いだされた千代は「誰もが歌える簡単な歌、人々が求める大衆の歌」を目指す中山晋平らとともに「全国歌の旅」に参加します。
そして日本ビクターから「波浮の港」を発売し、ここに歌手《佐藤千夜子》が誕生します。
昭和4年、映画「東京行進曲」の主題歌が大ヒットし、佐藤千夜子の名を不動のものとしたのです。


150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/01(Wed) 14:43
佐藤千夜子は生家が5分ばかりの天童教会の日曜学校に通って、
教会伝道師の紹介で、上京、普連士女学校へ入り、
この時期にオペラを見て、感動しのち東京音楽学校を受験する。

歌を通して、山田耕作に中山晋平を紹介され、
その後は、野口雨情が加わり親交を深めます。
佐藤さんは、当時中山晋平の曲を歌い各地を回り、
1925年ラジオが開設されると中山晋平の「青い芒」で歌う。


151 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/01(Wed) 14:46
1924年(大正13年)、歌手・佐藤千夜子の初レコーディング曲と言われています。佐藤は大正時代、野口&中山コンビ主宰「新民謡童謡普及運動」である「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に歌手兼講師で参加。当時「新民謡童謡普及運動」のメンバーは台湾まで出掛けています。巡演先のレコード会社「内外蓄音機」で1924年レコーディング。1929年(昭和4年)にもビクターで再録音されてます。
♪青い芒(すすき)に蛍の虫は・・・。


152 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/01(Wed) 23:41
>>147-151

NHK連続テレビ小説『いちばん星』は、1977年(昭和52年)4月4日から同年10月1日まで放送されたNHKの朝の連続テレビ小説第19作目。


昭和の流行歌手第1号となった佐藤千夜子の半生をフィクションを交えて描いた。NHKには全話のビデオテープが現存するが、第1話と最終話以外は家庭用VTRで録画されたものである。完全版・総集編共にDVDは未発売。
連続テレビ小説として、実在する人物の生涯、半生をモデルにするのは『おはなはん』の前例があり、その後も複数制作されているが、放送時点で故人となっていた人物が主人公のモデルとして扱われたのは当時としては異例であった(2011年度下半期の『カーネーション』以降、実在人物が主人公のモデルとなった作品はいずれも放送時点で故人となった人物がモデルとして取り上げられている)。

原作:結城亮一著『あゝ東京行進曲』
脚本:宮内婦貴子
音楽:小森昭宏
演出:田中昭男、松雄武
語り:三国一朗

キャスト
佐藤千夜子:高瀬春奈→五大路子
母・マツ:富田恵子
兄・亮吉:佐々木剛
中山晋平:津川雅彦
野口雨情:柳生博
古賀政男:若尾哲平
ミス・キルバン:バネッサ・アリア
頭師佳孝
三遊亭円之助他


153 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/01(Wed) 23:51
結城亮一著『あゝ東京行進曲』(河出文庫)河出書房新社(1985/1)
ISBN-10: 4309470726
ISBN-13: 978-4309470726

154 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 09:58
昭和6年(1931)が明けてまもなく、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から古賀政男に面会の申し入れがあった。

コロムビアの専属作曲家となって、『影を慕いて』のような作曲をしてほしいとのことであった。このとき古賀に破格な『印税』が支払われると言う条件でである。しかもまだ印税制度が一般的でなかった時代である。
 
昭和4年から昭和5年末にかけて、佐藤千代子によって『文のかをり』(1930年3月発売)をはじめとして、『影を慕いて』(1931年1月発売)など7曲が吹き込まれた。

栄えあるレコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手、佐藤千代子(ビクター)の力添えで、古賀は作曲家になったといえる。この辺りのことは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」(1977年(昭和52年)4月4日から10月1日)に描かれている。
h ttp://www.youtube.com/watch?v=Vz_pa0HGiwU

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。
171 :昔の名無しで出ています:2014/01/01(水) 12:29:18.65 ID:???.net
佐藤千夜子(ちやこ)だね
172 :昔の名無しで出ています:2014/01/01(水) 14:21:16.42 ID:6dvnv7bL.net
168 :昔の名無しで出ています:2014/01/01(水) 09:05:56.10 ID:6dvnv7bL.net[1/5]
年が明け、今年は2014年になりました。レコード歌謡は『昭和』と供に始まり、そしてそこに古賀政男(正夫)がいたのでした。

その「昭和」も、はや四分の1世紀が過ぎ、今年は「昭和89年」にあたる。 (昭和は、1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1 月7日まで62年と14日。歴代元号の中で最長。レコード歌謡は昭和3年に始まる。)

昭和4年、明治大学を卒業した古賀政男がコロムビアの専属作曲家となったのは、83年前の昭和6年(1931)3月20日。

155 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 10:01
昭和4年、明治大学を卒業した古賀政男がコロムビアの専属作曲家となったのは、89年前の昭和6年(1931)3月20日9だった。


156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 10:09
古賀政男は洋楽志向で、古賀政男ほどワルツやジャズ、タンゴ・・その他、世界のいろいろな洋楽を取り入れているものはないと言われますね。
そうした前提でなければならないと思います。

初期の『月の浜辺』などジプシー音楽と呼ばれるものですし。


西洋の音楽にはクラッシックを含め、基本的に『こぶし(小節)』はないので、古賀政男の音楽はクラッシックを基本として、その上に洋楽と、千年以上前に渡来した仏教の声明(しょうみょう)や民謡、その中には朝鮮の民謡も含めて融合が根本にあると考えてもよさそうです。

西洋音楽も教会音楽から生まれたという歴史がありますから、古賀音楽も正しい音楽の歴史のうえに存在するわけです。

古賀政男の音楽には、日本の伝統音楽にジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたあとがあるから、世界的なレベルだといえるでしょう

1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。
声明とは、仏さまの教えを讃歎する仏教の聖歌で、仏教とともにインドで生 まれ、中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わったもの。
日本に仏教が伝来したのは. 6世紀ですが、声明 については、752年に東大寺大仏開眼供養の大法要が行なわれた。1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。

仏教声明も立派な音楽で、「声明コンサート」もあります。
h ttp://www.youtube.com/watch?v=kbHbpf8NoSY

古賀政男は、小唄・端唄、長唄、義太夫、琵琶歌、謡曲などの江戸の歌謡にも造詣深く、
たくさんの洋楽を多く取り入れただけでなく、音楽としての仏教声明など幅広い音楽を取り入れたことで知られる。

157 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 10:15
☆古賀政男の主な編曲曲

アリランの唄〈朝鮮民謡〉1932(佐藤惣之助作詞、古賀政男編曲)
(コロムビア27066/淡谷のり子・長谷川一郎=蔡奎Y)
  ・・ 日本で「アリラン」が歌になった最初の歌とされる。

二見情話(沖縄民謡)1932(西岡水朗作詞、補作詞 照屋朝保、古賀政男作曲、編曲 佐々永治)

ヨサホイ節 (鹿山鶯邨=鹿山鶯村作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1934年9月、永井松子=音丸、テイチク

会津磐梯山(佐藤惣之助作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1938年、音丸、 テイチクTEI907

のぞかれた花嫁(玉川映二作詞、古賀政男編曲、杉 狂児歌)(1935.8テイチク50055)(アメリカ民謡曲)

軍艦行進曲(鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、演奏 明治大学マンドリン倶楽部)1938.2

愛国行進曲(森川幸雄作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、歌 藤山一郎) テイチク1938.2発売、レコード番号 2074

荒城の月 (土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9コロムビアCOL100542)明大マンドリンクラブ演奏・・李香蘭が慰問先の戦地でいつも最初に歌った歌

宵待草 (竹久夢二作詞、多 忠亮作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9 COL100542)
明大マンドリンクラブ演奏

南の花嫁さん1943.1(藤浦洸作詞・古賀政男編曲、高峰三枝子歌)コロムビアレコード 100596。(原曲 1935任光「彩雲追月」)(藤浦洸作詞・古賀政男作編曲、高峰三枝子歌)

イッチョライ節 (福井音頭)」1962年 モノラル 作詞:西村爽 作曲:古賀政男. ... 島倉千代子・守屋浩


158 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 10:21
☆「荒城の月」について


「荒城の月」(『荒城月』)(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)は無伴奏で、実際聞けるのは編曲版。
 
 大正6年、三浦環の命で山田耕筰が編曲したのが最初で一般に歌われているのはこれ。
 SP時代、主な編曲版としては次のものがある。

 古賀政男編曲版は、李香蘭が、戦地慰問で歌ったもの。慰問では必ず最初にこの歌を歌ったという。


『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲




159 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 10:31
「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏 1942.9


この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンターで見れる。

h ttp://www.youtube.com/watch?v=iXxYruH3XNM

戦時中各地を慰問してまわった李香蘭、その李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。

戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。 そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、この昭和17年古賀政男編曲になるもの。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。

戦時中慰問先で、明日をも知れぬ数多くの無名の兵隊さんを前にして「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

「荒城の月」を、オペラでも歌うつもりか、何と勘違いしているのか、あらん限りの力を振り絞って、脳天に突き刺さるような激しい声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手の歌。
今、テレビではそんな思わず耳を覆いたくなるような場面も少なくない。
ぜひこの映画を見せてあげたい。


160 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 10:54
アップロード日: 2010/01/15  You-Tube

荒城の月 李香蘭 古賀政男編曲、明大マンドリンクラブ伴奏 1942.9

彼女の本格クラシック的歌唱力はロシアのオペラ歌手及び三浦環に師事した証と言えるもので、とてもアイドルスターとしての美貌だけではなくしっかりとした素質と教育の賜物;だと感心させられた一曲です。


161 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 11:23
昭和30年代の古賀政男は、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

大きなお屋敷に住み、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、「素人物まね読本」とかの番組で「よかったね、よかったね!」など優しい声をかけていた。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオ放送はすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。


そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。

他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。


162 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 16:21
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオ放送はすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

これまでも訃報は数多流すが、夜だが、すべてのラジオ放送を停止して、「古賀メロディ 」を流し続けたというのはこれまでにない異例で特別な扱い。
その単なる音楽的だけにとどまらない、昭和の初め以来の長く偉大な社会的、歴史的、文化的にもいかに偉大な存在であり続けたか、物語るもの。

政府は古賀政男に、王選手のために作られた「国民栄誉賞」を贈ることになった。
生前に贈ることが前提だったものだが、福田内閣は古賀政男氏に贈らない理由はないとして贈ることを決定した。

163 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 20:36
佐藤千夜子は、日本初のレコード歌手で、NHK 朝の連続テレビ小説「いちばん星」のヒロインになった人です。

1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学し、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀正男、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、激動の時代を駆け抜けてゆきます。

菊池寛 原作の映画「東京行進曲」の主題歌(作詞 西条八十、作曲 中山晋平 ♪ 昔恋しい 銀座の柳…)や「波浮の港」の空前の大ヒットなど、かれらの活躍はめざましいものでした。

164 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 20:43
今や、ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年(1925)7月12日、現在NHK放送博物館のある東京港区・愛宕山の放送所で本放送が開始された。この時、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がラジオ本放送の始まりだそうだ。佐藤千夜子はレコードだけでなくラジオで歌うようになる。

参考までに、佐藤千夜子の最初のレコードは、大正14年(1925) 内外蓄音器、「青い芒(すすき)」(野口雨情作詩、中山晋平作曲)

なお、そのNHK本放送直後の7月28日に、長田幹彦原作のラジオドラマ「悲しき遍路」が放送された。佐藤千夜子出演で、NHKアーカイブスで聴くことが出来、現存する最古の公開ライブラリーとなってる。まさに「佐藤千夜子」は新しい時代のスターだったのだ。

「作曲家・古賀政男」は、この栄えあるレコード歌手第一号「佐藤千夜子」の力添えで誕生したといえる。

古賀政男は自伝『我が心の歌』の中で、「佐藤千夜子」について『終生の恩人』と書いている。


NHKアーカイブス スペシャル
      特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編

 は、古賀政男音楽博物館で時々上映されている。


165 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 20:57
作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。

古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。 今有る歌の殆どはまだ存在しなかった。

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』『美わしの宵』『嘆きの夜曲』『青春図絵の唄』『朝顔の唄』『笛は冴ゆれど』『愛は紅い』『秘めたる恋』(関種子)、『キャンプ小唄』『スキーの唄』、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎) 、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『私此頃憂鬱よ』『アリランの唄』『春の唄』(淡谷のり子)・・

古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せます。

古賀政男の音楽は、洋楽を基本に、仏教音楽以来の日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたもので、その後の歌にも影響を与えているといえます。

『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・ セレナーデ風の佳曲。ジプシー音楽(ジプシー短音階)。



166 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/03(Fri) 12:12
>>158-160

荒城の月 李香蘭


荒城の月 李香蘭 古賀政男編曲、明大マンドリンクラブ伴奏 
彼女の本格クラシック的歌唱力はロシアのオペラ歌手及び三浦環に師事した証と言えるモノで、とてもアイドルスターとしての美貌だけではなくしっかりとした素質と教育の賜物だと感心させられた一曲です。
h ttp://blogs.yahoo.co.jp/fnmdn239/691...

荒城の月 李香蘭(何故こんなに感情が)

女性歌手でこれほどまでにこの歌を歌える方はいない、などと当たり前のことを言ってしまうがポルタメントでも高音の細くなるところの声の出し方は誰にもできない天から与えられたものなんでしょうな。
このお方が日本人で良かったよ、オペラ歌手で日本の歌を歌う方は聴きたくないだろうな、自信無くなるからね。今の若い歌手
で出ないものかね、出るわけがありません、聴き手がいませんのと一人で勝負できないので大勢で出ますから、何人かがかりでもかないませんな、美貌も声も段違いよくそんなに味もそっけもなく歌えるもんだと感心しますよ。
だけどこの歌キーが高いな男でもやっとだよ。

荒城の月 山口淑子

映画「暁の脱走」1950年作
 慰問地で李香蘭(山口淑子)が歌った曲が「荒城の月」でした。
 李香蘭(山口淑子)2014年9月7日、死去(満94歳)
 戦後の古い映画で見たことはありませんが、山口淑子は映画俳優でありながら素晴らしい歌手だったことを知りました。歌唱力が凄い。お上手なのでびっくりです。
 この「荒城の月」を聴くと、心の底に残り悲しくなってきます。「暁の脱走」に出てくる映画のように、
 本当の慰問先でもきっとこんな光景だったんでしよう。
 若い兵士たち、彼女の「荒城の月」を聴いて家族や故郷の思いに耽ったことでしょう。
 皆な戦争で死んでしまったのかと思うと可哀そうで涙が出てきます。shunon。



167 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/06(Mon) 17:27
佐藤千夜子が、「文のかおり」「影を慕いて」など、古賀の曲を全7曲をビクターでレコードィングした。

しかし、無名な一青年演奏家にすぎなかった若き「古賀正男」の作曲作品を、天下のビクターの、それも中山晋平作品を広める歌手、佐藤千夜子がレコードィングするなどということは、ビクターにすれば考えられないことだったはずです。

佐藤千夜子のすごいところ、その功績、それは古賀政男の才能を発掘し、ビクターの反対を押し切ってでも、その作品をレコードィングでき、世に送りだしたということです。

もし、これがなかったら、今の『古賀メロディ』の隆盛も、大衆歌謡たる『歌謡曲』の歴史も違ったものとなっていたことでしょう。

ただ、佐藤千夜子は、レコードィングの7日後には、日本を発っています。
ですから、宣伝も何もされていないのです。

宣伝もないのだから、佐藤の『影を慕いて』がはやらなかったというのは、しかたないことだったはずです。

しかしそれをコロムビアがほっておくはずがありません。

今から89年前、佐藤千夜子の「影を慕いて」が発売された昭和6年(1931)が明けてまもなく、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から古賀政男(正男)に面会の申し入れがあった。

コロムビアの専属作曲家となって、『影を慕いて』のような作曲をしてほしいとのことであった。このとき古賀に破格な『印税』が支払われると言う条件でである。しかもまだ印税制度が一般的でなかった時代である。
 
昭和4年から昭和5年末にかけて、佐藤千代子によって『文のかをり』(1930年3月発売)をはじめとして、『影を慕いて』(1931年1月発売)など7曲が吹き込まれた。

栄えあるレコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手、佐藤千代子(ビクター)の力添えで、古賀は作曲家になったといえる。この辺りのことは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」(1977年(昭和52年)4月4日から10月1日)に描かれている。
h ttp://www.youtube.com/watch?v=Vz_pa0HGiwU

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。

昭和4年、明治大学を卒業した古賀政男がコロムビアの専属作曲家となったのは、89年前の昭和6年(1931)3月20日9だった。

「影を慕いて」「日本橋から」などは、藤山一郎、関種子など東京音楽学校主席卒業のクラッシック歌手によって、再び脚光を浴びることとなった。


168 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/06(Mon) 22:36
佐藤千夜子が『影を慕いて』を1930年(昭和5年)10月日本ビクターでレコーディングし、翌昭和6年1月新譜で発売されたが、このレコードは宣伝もなく、あまり売れなかった。ちなみに『影を慕いて』は『日本橋から』のB面だった。
このレコードを浅草・鳥越の斉藤楽器店で発見した人物が、日本コロムビアレコードの営業マン伊藤正憲だった。

そして、今から89年前、昭和6年(1931)が明けてまもなく、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から古賀政男(正男)に面会の申し入れがあった。

コロムビアの専属作曲家となって、『影を慕いて』のような作曲をしてほしいとのことであった。


そして、『影を慕いて』は、1932年(昭和7年)3月新譜で日本コロムビアから改めて藤山一郎の歌唱によって発売され、満州事変、五・一五事件など暗い世相を背景に人々の心をとらえ流行した。まさに昭和という時代の「翳」を象徴していた。

169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/06(Mon) 22:40
「影を慕いて」は昭和が終わった平成元年、NHKTV「日本の名曲10」として、
「荒城の月」などとともに、1年間にわたり、10曲順番に毎週夜8時台の番組終了後に連続で放送されたのだった。

170 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/06(Mon) 22:49
伊藤正憲は慶応大学卒業後コロムビアに入社、以来文芸部長、宣伝部長、レコード事業部長、常務取締役を経て、クラウンレコードを設立し、社長を勤めるまで半世紀にわたりレコード業界に貢献された方である。

171 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/06(Mon) 22:55
>>169

■■NHKTV「日本の名曲10曲」■■ 
  1990 NHK TV (1年間毎週放送)

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本がまだ貧しかった80年以上前から、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級大歌手・声楽家が好んで
歌った歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ日本の名曲でした。



172 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 21:43
コロムビアのディレクター・伊藤正憲に拠ると、古賀政男プロデビュー=コロムビア専属のきっかけになったのはコロムビア社員だった伊藤らしい。1931年(昭和6年)当時、営業部の伊藤は東京浅草「鳥越楽器店」でビクター発売『日本橋から(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲・佐藤千夜子歌唱・明治大学マンドリン倶楽部伴奏)』を見掛けた。歌手が佐藤千夜子でメロディも独特、驚いた伊藤はコロムビアの会議で伝えている。特に組み合わせ曲『影を慕いて(古賀正男作詩作曲編曲・佐藤千夜子歌唱・明治大学マンドリン倶楽部伴奏)』は、古賀を代表する作詩作品である。熱心な古賀ファンの方が次のような内容を述べられている。「1928年(昭和3年)、昭和の初め、人生の苦悩からはじまった古賀メロディの歴史、若き古賀政男の人生の苦悩から生れたレコード歌謡の最高傑作とされる『影を慕いて』。この歌には、古賀の人生の苦悩・絶望からの叫びが込められているといわれる。時代を超えた日本の名曲である。この歌が作られるのは『波浮の港(野口雨情作詩・中山晋平作曲・佐藤千夜子歌唱・中山晋平ピアノ伴奏)』と同じ昭和3年といわれる。現在ある殆どすべての日本の歌謡は、まだ存在していなかった時代。そして、菊池寛原作、日本最初の映画主題歌(※外資系企画での)である『東京行進曲(西条八十作詩・中山晋平作曲・井田一郎編曲・佐藤千夜子歌唱・日活管絃楽団伴奏)』が流行した昭和4年の6月22日、佐藤千夜子を招いて明治大学マンドリン倶楽部定期演奏会で『影を慕いて』初演(ギター合奏で独唱なし)。昭和5年10月20日、佐藤千夜子はビクタースタジオで吹込み。大衆音楽の黎明期、まだ一学生演奏家に過ぎなかった無名の作家の作品。ビクター内では反対もあっただろう、しかし佐藤千夜子のすごいところは、反対を押し切る形での録音だったことだ。古賀正男=古賀政男は明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長・米山正から面会の申し入れを受ける。そして昭和6年3月20日付けで、日本コロムビア入社」。

『影を慕いて』が藤山一郎のアルバイト録音でヒット、佐藤オリジナルと同じ組み合わせ『日本橋から(関種子歌唱)』はモダンな井田一郎編曲。だが「素朴で豊かな味わい」なら佐藤千夜子。『影を慕いて』の佐藤は、古賀が綴った「想い」を高音域で燃え上がるように表現している。菊池清麿氏記述では、演奏曲だった『影を慕いて』を佐藤が気に入り「良いメロディだから、歌詩をつけて歌曲にしなさい」と言ったらしい。佐藤の助言で歌詩があとで作られたなら、『影を慕いて』初演後の作詩と思われる。更に『日本橋から』は、古賀が次のように述べている。「佐藤さんが、レコードは両面ですからね、とおっしゃられた。組み合わせ曲『日本橋から』を急いで作った」。ビクター発売番号「51519」の下表記番号=原盤番号で録音順がわかる。A面『日本橋から』は「2266」、B面曲『影を慕いて』が「2267」になっている。古賀のエピソードで、佐藤が元々『影を慕いて』をメイン曲と考えていたことも伝わる。レコーディング直前にビクター側から「浜田広介作詩をA面発売」と言われたようだ。

173 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 22:19
>>172

当然、コロムビアは、レコード発売を待っていたはずで、偶然ではないはず。

伊藤正憲「レコードと共に四十五年―私のアルバム」日本クラウン1971



174 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 22:21
h ttp://2chb.net/r/natsumeloj/1320231349/

175 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 22:38
「日本の名曲」で、古賀メロディの傑作「影を慕いて」

昭和4年6月22日、 佐藤千夜子を招いての明治大學マンドリン倶楽部定期演奏會初演(ギター合奏)。
昭和5年10月20日、佐藤千夜子、ビクタースタジオで吹込み、「日本橋から」のB面。(ビクター、昭和6年1月新譜)。(この8日後には佐藤は日本を離れる。)
昭和7年1月、藤山一郎再吹込み(コロムビア、昭和7年3月新譜)。

h ttp://www.bussan-tendo.gr.jp/?p=log&l=6950


昭和3年、昭和の初め、人生の苦悩からはじまった「古賀メロディ」の歴史、若き古賀政男の人生の苦悩から生れた昭和流行歌(レコード歌謡)の最高傑作とされる「影を慕いて」。

この歌には古賀の人生の苦悩・絶望からの叫びが込められているといわれる、時代を超えた日本の名曲である。この歌が作られるのは『波浮の港』と同じ昭和3年の夏といわれる。現在ある殆どすべての日本の歌謡はまだ存在していなかった時代。

昭和5年10月20日、佐藤千夜子は、ビクタースタジオで吹込み。大衆音楽の黎明期、まだ一学生演奏家に過ぎなかった無名の作家の作品。ビクター内では反対もあっただろう、しかし佐藤千夜子のすごいところは、反対を押し切る形での録音だったことだ。


この録音の8日後には佐藤千夜子は日本を離れるのだ。コロムビアは、放っておかなかった。

このレコードを浅草・鳥越の斉藤楽器店で発見した人物が、コロムビアの営業マンだった伊藤正憲だった。当然コロムビアはレコードの発売を待っていたはずで、偶然ではないだろう。

影を慕いて  古賀正男作詞  佐藤千夜子 1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介作詞  同     1931年1月 ビクター 51519

昭和6年(1931)が明けてまもなく、古賀政男(正男)は、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から面会の申し入れを受ける。

そして古賀政男(正男)26歳は、昭和6年(1931)3月20日付けで、日本コロムビアの専属作曲家として迎えられる。

176 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 22:48
ちょうど同じ頃、昭和3年(1928)に作られた佐藤の歌で世にでた二つの名曲、《影を慕いて》と《波浮の港》・・・、
いずれも《日本の名曲》として、今でも根強く愛され歌われ、演奏されているのです。

177 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 23:19
「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。作曲家はこれまでたくさん出たが、「古賀メロディ」ほど多くの
ヒット曲を持つ作曲家はいない。

178 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 23:40
「古賀メロディ」の原点たる「影を慕いて」は初唱の佐藤千夜子盤と、藤山一郎盤があり、
なんか、佐藤盤の評価が高くないようだが、古賀政男の切々とした思いがよりよく表現されているという点で、
佐藤盤は評価されている。いずれも東京音楽学校出身。

なお、佐藤の「篠田の藪」(しのだのやぶ)や「さすらいの唄」しのだのやぶ「旅人の唄」は絶品。ぜひおすすめ!!。



179 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 23:56
日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男

『古賀メロディ』と呼ばれたその作品は、昭和一桁時代から数多くの人に親しまれました。

その曲は底辺に寂寥感や哀愁を漂よわせたものが多く、それが同時代の日本人の心の琴線に触れて長く愛されて、日本歌謡史に多大の足跡を残しました。

その数多くのヒット作品、その多くは「映画主題歌」でもあります。「古賀メロディー」ほど多くのヒット曲を持つ作品群はありません。
同時に「古賀メロディー」ほど、数多くの「映画主題歌」を持つものもありません。 


180 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 23:58
「古賀メロディ」というのは、単に佐曲家の名前の後に「メロディ」という言葉をつけたものでなく、長い日本の歌謡史の中で生まれ多くの大衆によって育まれ与えられた「称号」ということができるでしょう。

日本人の心の琴線に触れる一種哀調を帯びた優しいメロディ、稀有で卓越した一連のたくさんの古賀作品、それに対する敬意と賞賛の意味が込められていると思われます。

181 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 00:05
佐藤千代子の曲は次のCDで聴ける。

・CD「昭和を飾った名歌手たち 1/佐藤千夜子」VICL 60326
  h ttp://www.tsutaya.co.jp/works/20058945.html

・CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536 2CD
  h ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536


182 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 00:08
187昔の名無しで出ています2014/01/10(金) 11:48:40.35ID:Ti9NXNWX
「影を慕いて」 昭7、 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎

昭和7年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。

古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
上山敬三

国立国会図書館 第79回 常設展示  平成9年3月25日〜4月25日
流行歌に見る世相と大衆のこころ ―昭和のはじめから東京オリンピックまで―


183 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 00:23
古賀政男は昭和9年5月、コロムビアからテイチクへ、重役作曲家として活躍、第二期黄金時代を築いた。
昭和13年〈1938〉11月8日、「人生劇場」(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫)を最後にテイチクからコロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米。
約1年間、全米や南米などを周り、昭和14年10月10日に帰国。

昭和14年〈1939 〉8月31日、1分間1万ドルと言われた、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。

アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、「世界の古賀」になったことで、ますます自信を深めてゆく。

そして洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940) 2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》(西條八十作詞)がヒット。

古賀政男はアルゼンチンの音楽をたっぷり自分のひきだしにつめて帰り「誰か故郷を想わざる」、「春よいずこ」に応用した。

アルゼンチンのギターの最高権威者アントニオ・シノポリや、タンゴ黄金時代の巨匠の一人で、わが国タンゴ愛好家のアイドル的存在、フランシスコ・ロムートが率いるオルケスタなどの音楽を吸収したのである。

また、帰国後、古賀政男は明らかにジャズの影響が見られた。
昭和16年、太平洋戦争直前に発売された、古賀メロディーにしては珍しいジャズ調の《歌えば天国》(1941)、サトウハチロー作詞、同名の東宝映画主題歌や、『ジャズ忠臣蔵』(サトウハチロー作詞)などである。

古賀政男は、その直前1938年、アルゼンチン訪問した藤原義江に見送られて横浜を発ち、帰国時には三浦環の歓迎を受けた。

昭和10年(1935)年9月、ビクター専属から、コロムビアへと移籍していた西條八十、ここに西條八十・古賀政男コンビが復活。
昭和13年(1938)には、サトウハチローがコロムビアの専属に。

そして、昭和14年4月には、3年の契約が切れた藤山一郎がテイチクから、コロムビアに移籍。

昭和15年(1940)には、佐藤惣之助がコロムビア専属に。
(昭和17年5月に、この世を去る。)

こうして、ここに古賀政男第三期黄金時代が始まる。

184 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 00:30
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平・節」に対し、「古賀・メロディー」と呼ばれた。
(上山敬三)

185 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:07
「古賀メロディ」紛いで、最近なんでもかんでも、いろいろ作曲家の名前の後に、「メロディ」をつけて、作曲家の曲を「何とかメロディ」で呼ぶことがあるようで違和感を感じている人もあるでしょう。

これらは、いつからか戦後昭和40年代前後の頃のテレビのナツメロブームの影響でしょうか、使い方も間違っていると思います。

西條八十、佐藤惣之助、サトウハチローなど、詩人の日本人の琴線に触れるの詩情溢れる「古賀メロディ」・・、昭和の初め、昭和一桁代から、人は敬意を持って「古賀メロディ」と呼んだのだ。

しかし、最近のはもちろん、「古賀メロディ」以外が、実際SP黄金時代に、そのように「メロディ」をつけて呼ばれてきたわけではない。
だけなのです。

186 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:16
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

187 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:29
懐メロには小節(しょうせつ・。こぶしともいうことがある)が多く使われています。特に古賀政男は、5連符6連符といった小節を多く用いました。デッィク・ミネが古賀政男に流行歌を勧められた時、「私はジャズ歌手なので小節(こぶし)が苦手でして」と躊躇したという。
小節が廻るとは4部音符2部音符のように長い音符の小節(しょうせつ)に比べて16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげること。
ジャズなど洋楽には日本の流行歌のような小節(こぶし)の小節(しょうせつ)はない。歌うにも、演奏するにも「古賀メロディ」は難しい。


5連符、6連符といった小節を多く用い、16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげ、
前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、あの独特の哀調を帯びたメロディ、
人はそれを「古賀メロディ」と呼んだんだね。

188 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:33
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。


商業レコードの黎明期、その最初は新民謡『波浮の港』(昭和3年)であったように、歌謡曲(流行歌=レコード歌謡)は、「新民謡」から発展した。
そこに若き古賀政男が現れ、晋平の時代に新風を吹き込むこととなった。

これからは、何々「節」の時代ではなく「メロディー」の時代だと言っていた。
80年以上前から、古賀政男は歌謡において、これまで以上に「メロディー」の重要さを強調していた。

実際に,「酒は涙かため息か」以降、晋平(節)の時代から「古賀メロディ」の時代へ、ビクター時代からコロムビア時代へと流れが大きく変わってゆく。
そして、古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

189 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:47
作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。

序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
 
そして、古賀を、<西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた>と評した。


文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。

なお、萩原朔太郎の長女、葉子によるエッセイ集 『父・萩原朔太郎』 には、「流行歌では、「丘を越えて」「影を慕いて」「酒は涙か」など古賀政男のものが特に好きだった。

「影を築いて」の前奏曲は、文の得意中の得意で、まるで指をギターに打ちつけるほどの感情をこめて弾いた。」という。また、マンドリンとギターによる〈朔太郎と葉子父娘で〉、古賀メロディの家庭合奏をよくしていたそうだ。

参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男邸によく遊びに来たそうです。


190 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:51
>>189

序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
 
そして、古賀を、<西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた>と評した。


191 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 09:41
小田急線の代々木上原駅から3つ目「世田谷代田駅」を出て、 南へすこし歩いたところにある、一本の鉄塔。

この鉄塔の下には、詩人の萩原朔太郎が、1933年(昭和8 年)から、 1942年(昭和17年)に亡くなるまで住んでいた。

大正14年8月詩集『純情小曲』刊行集 (新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を佐藤惣之助と担当。

ここ代田1丁目42に、「代田の丘61号鉄塔由来碑」(萩原朔太郎文学顕彰碑)が立っている。

代々木上原駅前の3000坪の古賀政男邸、古賀政男自伝「我が心の歌」には、この古賀邸に萩原朔太郎、惣之助さんが集まって三人でよく詩の談義をしたとあり、朔太郎の娘・萩原葉子の「父・萩原朔太郎」にも同じ記述がある。

馬込の文士村・雪が谷に住んでいた詩人・佐藤惣之助、佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎、二人は惣之助の主宰する「詩の家」の同人でもある。

大正14年(1925)8月詩集『純情小曲集』刊行(新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を朔太郎と佐藤惣之助で担当。佐藤惣之助はしょっちゅう代田の朔太郎宅を訪問していた。

この三人は詩を通して日常的に親密な関係を持っていた。

平成23年(2011)は、萩原朔太郎生誕125 年の節目の年で、10 月、晩年、下北沢に居を構えたゆかりの東京の「世田谷文学館」にて「生誕125年萩原朔太郎展」が開かれた。

常設展では、作家であり、舞踏家であり、手芸作家でもあった萩原朔太郎の長女「萩原葉子」の証言(朔太郎と葉子父娘の家庭合奏)の再現演奏があった。

「朔太郎と葉子父娘の家庭合奏」の再現では、マンドリンとギターによる古賀政男の『影を慕いて』『酒は泪か溜息か』、それに朔太郎の『 機織る乙女』など、朔太郎にちなむ世田谷区ゆかりの作曲家と作品を演奏した。...

・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

・宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)

・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫
・流行歌曲について  萩原朔太郎
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)

192 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 09:59
教科書にも出てくる『月に吠える』、『青猫』、『純情小曲集』などで知られ、昭和17年5月11日に亡くなった詩人・萩原朔太郎と古賀政男は、ギター、マンドリン愛好で非常に近い関係にあり、朔太郎は古賀政男宅をしばしば訪れる関係だった。
そして朔太郎は大衆に根ざした「古賀メロディ」を高く評価し愛していた。

自らも、音楽家を夢見ていたというほどで、マンドリンやギターの演奏もし、マンドリンクラブを持っていました。

ギターで「影を慕いて」や、マンドリンで「丘を越えて」を弾いたそうです。出身地の「前橋文学館」にはこのギターが展示されてるそうです。

朔太郎の故郷、前橋では「萩原朔太郎記念演奏会」が定期的に開催され、朔太郎作曲のマンドリン曲「「機織る乙女」、「野火」、そして「朔太郎と古賀メロディ」と題して、「丘を越えて」や「影を慕いて」など古賀メロディが必ず演奏されるようです。

「群馬マンドリン楽団」のHPによると、『丘を越えて』『影を慕いて』『人生の並木路』『東京ラプソディ』などが演奏されるそうです。

大正2年4月このころ自筆の歌集『ソライロノハナ』製作。北原白秋主宰の雑誌「朱欒」掲載の室生星の詩に感動、手紙を書く。5月号「朱欒」に「みちゆき」ほか詩6篇が掲載された。
太平洋戦争が始まって5ヶ月ほどした昭和17年5月15日(1942年。78年前の5月15日)、 佐藤惣之助(51歳)が、自宅がある馬込文学圏(雪谷)で、脳溢血を起こして急逝しました。

佐藤の義兄にあたる萩原朔太郎が(佐藤の妻は朔太郎の妹愛子)、4日前の11日に亡くなり、その告別式では、胃潰瘍で体調を崩していた室生犀星(52歳)の代わりに佐藤が葬儀委員長を務めました。その佐藤までが逝ってしまった。二人と関係が深かった人たちは、一挙に二人失い、大きな喪失感に直面します。


「ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広を着て
きままなる旅にいでてみん。」
(萩原朔太郎 「旅上」(詩集『純情小曲集』(1925年)より)

萩原朔太郎の、この若き時代の有名な詩「旅上」、若き石川啄木の有名な「あたらしき背広など着て/旅をせむ/しかく今年も思い過ぎたる」(『一握の砂』)から衝撃を受け、その熱き思いを共有したものと考えられます、

こうした詩人たちの熱き想いが凝縮した名曲、81年前のですが「青い背広で」?。
詩人・萩原朔太郎も愛してやまなかった「古賀メロディ」・・この名曲の宝庫、「日本の文化」を、これからも歌い継いでいってほしいものです。




193 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/09(Thu) 11:04
■「酒は涙か溜息か」で作曲家として名を成した古賀政男(1904-1978)は流行歌以前、クラシックのマンドリン、ギターの演奏家(プレクトラム音楽家)で、マンドリンギターのオーケストラを率いていました。ですから佐藤千夜子が最初に歌った古賀作曲の「文のかおり」(昭和4年12月ビクター吹込み)は、マンドリンのオーケストラ伴奏で吹込んだものです。
同じく佐藤が歌った「影を慕いて」(昭和5年10月ビクター吹込み)も、ギター歌曲です。「影を慕いて」は昭和4年6月にギター合奏で初演されています。その後、同じ昭昭和4年(’1929)10月26日帝国劇場、ギターの巨匠・アンドレス・セゴビア(1893-1987)の演奏にインスピレーションを受け、「影を慕いて」の完成に向かいました。

「影を慕いて」は未完だったが、昭和4年(1929年)10月26日、アンドレス・セゴビア(1893−1997)のギター演奏会(帝国劇場)を聴き、大きな啓示を受けて完成させたという。
佐藤千夜子歌唱「影を慕いて」の発売は昭和6年(1931年)1月のことだった。




194 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/09(Thu) 22:33
■「影を慕いて」(古賀政男作詞、古賀政男作曲)■

人生の苦悩から出発した「古賀メロディ」、その原点「影を慕いて」は、92年前の昭和3年(1928)秋に作曲された。
「日本の名曲」であり、昭和歌謡の傑作とされる。

作曲者古賀政男の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められている。

この名曲が世に出るには、日本におけるレコード歌手第一号であり、中山晋平の作品(晋平節)を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えがあった。古賀政男は自伝で佐藤について『終生の恩人』と書いている。


・古賀政男 明治大学卒業 昭和4年(1929)3月10日 25歳

・明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会(昭和4年6月)で初演、ギター合奏。

・昭和4年(1929)10月26日帝国劇場、ギターの巨匠・アンドレス・セゴビア(1893-1987)の演奏にインスピレーションを受け、「影を慕いて」の完成に向かう。

・「文のかおり」(昭和4年12月)佐藤千夜子ビクター吹込み。

・佐藤千夜子「影を慕いて」(昭和5年10月20日)ビクター吹込み。

・佐藤千夜子「影を慕いて」の発売は昭和6年(1931年)1月。

・古賀政男 コロムビアレコード専属 昭和6年3月20日 26歳

・「影を慕いて」藤山一郎 発売(コロムビア) 昭和7年3月




195 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/10(Fri) 09:28
「作曲家・古賀政男」は、今から89年前、昭和6年(1931)、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。古賀政男のコロムビア専属第一作は昭和6年(1931年)5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。

このころ、現在歌われている歌のほとんどは、まだ存在していない。

『乙女心』『窓に凭れて』『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・

古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、佐藤千夜子に代わって、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校.現在の東京藝術大学音楽学部)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は東京音楽学校主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。

『日本橋から』・・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。

『月の浜邊』・・・・ジプシー音楽(ジプシー短音階)、セレナーデ風の佳曲。

196 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/10(Fri) 15:21
名曲『影を慕いて(古賀正男=古賀政男作詩作曲編曲)』
『日本橋から(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』を

古賀正男指揮・明治大学マンドリン倶楽部伴奏で佐藤さんが初録音されて一週間後の

昭和5年(1930年)10月28日、佐藤さんは海外音楽留学のため日本を離れる。

当時の佐藤さんは大ヒット連発で専属での印税が莫大だったと言われている。

佐藤さんはビクターの反対を吹き飛ばして古賀政男作品を録音、
無名な一青年作曲作品レコーディングを中山晋平作品代表歌手の佐藤さんが歌うことは
ビクター側にすれば考えられないことだったのです。

それをきっかけに古賀政男氏はコロムビアから専属の話が出て、
古賀氏御自身「佐藤さんのおかげで作曲家になることができた」と述べています。
佐藤さんは音楽に対する意識の向けかたがものすごかったようです。



197 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/10(Fri) 23:33
『影を慕いて』が藤山一郎のアルバイト録音でヒット、佐藤オリジナルと同じ組み合わせ『日本橋から(関種子歌唱)』はモダンな井田一郎編曲。
だが「素朴で豊かな味わい」なら佐藤千夜子。『影を慕いて』の佐藤は、古賀が綴った「想い」を高音域で燃え上がるように表現している。
菊池清麿氏記述では、演奏曲だった『影を慕いて』を佐藤が気に入り「良いメロディだから、歌詩をつけて歌曲にしなさい」と言ったらしい。
佐藤の助言で歌詩があとで作られたなら、『影を慕いて』初演後の作詩と思われる。更に『日本橋から』は、古賀が次のように述べている。
「佐藤さんが、レコードは両面ですからね、とおっしゃられた。組み合わせ曲『日本橋から』を急いで作った」。ビクター発売番号「51519」の下表記番号=原盤番号で録音順がわかる。A面『日本橋から』は「2266」、B面曲『影を慕いて』が「2267」になっている。古賀のエピソードで、佐藤が元々『影を慕いて』をメイン曲と考えていたことも伝わる。レコーディング直前にビクター側から「浜田広介作詩をA面発売」と言われたようだ。


198 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 22:23
昭和SPレコード歌謡番組を待望する。
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=578828634&ls=50


199 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 22:30
昭和4年(1929)12月から、昭和5年(1930 )12月にかけ、ビクターで当時無名の古賀正男の「影を慕いて」など7曲をビクターでレコーディング。
古賀正男を世に送り出した。佐藤千夜子は、この1週間後にイタリアに向かった。

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。
ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年愛宕山の放送所で、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がそのはしりだそうです。

「佐藤千夜子」の歌はヒットの連続で、「西条八十」の作詞料が30円の時に、「佐藤千夜子」の印税は、2000円だったという。

だが、佐藤千夜子は人気絶頂の昭和5年(1930にオペラの勉強に出かけたのだ、古賀政男は同自伝に「飽くなき芸術への憧憬によるもの」だが、当時のまだ学生だった自分には思いとどまっていただくことなどできなかったが、今なら思いとどまってもらうだろうと書いている。

当時は流行歌手と言って一段低く見られていた、これがオペラを学んだ佐藤には耐えられなかっただろう。そして、帰ってきたときには、四家文子など東京音楽学校の優れた後輩にとって代わられ、居場所はなくなっていた。レコード時代の創世記・黎明期のあくなき憧憬による悲劇と古賀政男は書いている。昔はレコード歌手になるということは大変なことだったのだ。
90年前、 まだ、現在ある歌のほとんどすべてがまだ生まれていなかった時代である。

そういう意味では、あまり知られていないが、単なる「レコード歌手第一号」としてだけではなく、野口雨情、中山晋平らと大衆歌謡という音楽の新しい分野を日本に根ずかせることに歌手として大きな功績を果たしたといえるだろう。

そして最大の功績として、古賀政男の才能を見出し素早くメジャーデビュさせ、今日の大衆音楽の隆盛に繋げた陰の功労者といえる。

現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。昭和9年(1934)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与され, 帰国を前に「イタリア・オペラの殿堂」、イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。

イタリア・グラモホン社のミラノ・スカラ座伴奏録音は「世界一流のアーチスト」。『カチューシャの唄』『船頭小唄』『酒場の唄』『春の雨』『ゴンドラの唄』『さすらいの唄』合計3枚6曲のミラノ録音が日本と米国で発売。

帰国直前だった佐藤さんは古賀政男へのポストカードに「ミラノ・スカラ座でのレコーディングもできました。」と喜びを伝えた。当時スカラ座でレコーディングできる歌手は世界中でも少なかった。上記作品に加え、佐藤千夜子の絶品の名唱です。

なお、佐藤千夜子が残した貴重なレコード曲は100曲を超えています。CDや、You Tubeの他、代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」の他、「国立国会図書館デジタル化資料」(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源)等に残っている。



200 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 22:41
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でしたと書いている。



藤山一郎『デッサンの確かな作品群』(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))


201 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 22:53
前橋出身の詩人・萩原朔太郎は、大正15年〜昭和4年まで、馬込の「文士村」に住んだ。
文士村には佐藤惣之助もいて、萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。昭和5年には、妹アイとともに上京、牛込区市ヶ谷台町(現・新宿区内)に居住。
昭和6年には、妹アイとともに世田谷区下北沢に。

一方、昭和6年、代々木上原に住んでいて、一時期世田谷松原に住んだ後、昭和13年、緑豊かな小田急線代々木上原駅前3000坪に、邸宅を構え移り住んだた古賀政男。
昭和8年1月には、朔太郎は世田谷区代田一丁目に自宅を新築。
8月には妹アイは、佐藤惣之助と結婚。

マンドリン演奏家としても知られる朔太郎は、マンドリン、ギターの名手でもある古賀政男邸に足しげく通い、
マンドリンやギターを習い、詩の談義に話をはずませたという。

なお、下北沢、世田谷代田は小田急線で、代々木上原から二つ目、三つ目。

朔太郎56歳は、太平洋戦争に突入して半年後の、昭和17年5月11日、風邪をこじらせ世田谷代田の自宅で急性肺炎で病没。
義兄・萩原朔太郎の葬儀を済ませた佐藤惣之助51歳も、4日後、疲れから外出先で脳溢血で倒れ帰らぬ人となり、二人の詩人は相次いであっけなくこの世を去った。

朔太郎終焉の地近くの北沢川緑道に「萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔」という由来碑がある。
この高圧鉄塔は、萩原朔太郎の居住痕跡を示す唯一のものとして「世田谷区地域風景資産」となっている。
前橋、広瀬川のほとりに立つ前橋文学館(萩原朔太郎記念館)には、朔太郎直筆の原稿やノートなどのほか、愛娘葉子と「古賀メロディー」を奏でた朔太郎愛用のギターなどが展示されている。

(参 考)
萩原葉子 『父・萩原朔太郎』(中央公論社 中公文庫 A 109-2、1979) 1959筑摩書房
萩原朔太郎 流行歌曲について  
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房1975)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977

参考

☆戦前の流行歌
 h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt



202 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 09:59
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和十三年十一月/復刻昭和五十三年十月)

第一篇 半生物語『丘を越えて』
第二篇(上)古賀政男作品研究
第二篇(下)古賀政男を巡る人々
第三篇 古賀政男作品集

 B5判ハードカバーという豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、
 佐藤惣之助、小松耕輔、サトウ・ハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿しています。

 古賀政男が没した直後に、多くの人の希望で復刻されました。


203 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 10:39
今年、令和2年(2020)は、作曲家本居長世、没後75年でもあります。
作曲家本居長世(1885−1945)は、終戦直後の昭和20年10月14日、成城の自宅で亡くなりました。61歳でした。

本居長世は、「童謡の祖」ともいわれるが、「童謡」だけでなく生涯に800曲近い歌曲も作っています。
本居長世は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)を首席で卒業し、日本の音楽と西洋音楽の融合を図り、「新日本音楽」など多数の歌曲を生んでいます。
また、中山晋平、弘田竜太郎などの師でもあります。
本居長世は、文学者から始まった童話・童謡運動を、自ら作曲し、かつ広めることによって、「童謡」という分野を確立し根付かせた人だと言えますが、また同時に中山晋平の師でもあるという点では、単なる「童謡の祖」というだけでなく、「日本の大衆音楽」に大きな影響を与えた人ではないかと思います。
 
古賀政男〈正男)は、昭和3年、学生時代作曲した「影を慕いて」を歌ってもらった人・・中山晋平の歌(晋平節)を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えで作曲家になった人で、長世が出なかったら、多分日本の大衆音楽は違ったものになっていたかもしれません。

古賀政男自伝「我が心の唄」(展望社1965)に、「昭和12年ごろの第一線の作曲家が一堂に会した珍しい写真」として、古賀政男、中山晋平、弘田竜太郎、本居長世、小松耕輔の写真が載っています。当時から、分野は違うが、日本のこれらの音楽家と肩を並べる作曲家であり、それなりの交流があったものと思われます。
昭和13年に発売された、古賀の半生の作品集に、萩原朔太郎、佐藤惣之助、三浦環と並んで、中山晋平、小松耕輔らが序文を寄せています。

204 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 22:03

 古賀は無性に楽しかった。将来の不安などを忘れ最後の青春を謳歌した。こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。限りない青春賛美の曲である。四十六小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。《丘を越えて》は、従来の流行歌にはなかった学生という「社会層の特権的な享受において、かろうじて成立」する「青春」をテーマにしていた。青春と流行歌をむすびつたけたことは昭和のレコード産業の創成期において革命的なことであったのだ。 「青春」は、近代日本が生み出した学歴社会、学校歴社会が舞台装置となって成立する。「青春」というテーマを流行歌の世界に持ち込まれることによってそれまで無縁であった一般大衆との「心理装置としての共有財産」が可能になったのである。そして、青春の躍動感を溌剌と歌う藤山一郎の登場によって古賀メロディーの「陽」の世界が完成するのだ。「陰」と「陽」の世界を併せもつ古賀メロディーは、いろいろな歌手に唄われることによって歌謡界の共有財産になっている。朝倉孝司は、古賀メロディーの凄さについてつぎのようにのべている。
「『影を慕いて』における森進一、『目ン無い千鳥』における大川栄策、『サーカスの唄』においては小林旭、どの歌と特定するまでもない古賀メロディー全般における美空ひばり、といったぐあいに、発表後何年も経ってから、それぞれの歌が最適の歌い手をみつけ出し、しっかり結びついてしまうことだ」
 《丘を越えて》だけは、歌謡曲の歌手で藤山一郎以後、持ち歌にした者はいない。天才といわれた美空ひばりでさえも《丘を越えて》だけは、この唄のもつ明るさは完全には表現できなかった。朝倉にかぎらず、古賀メロディーを論ずるほとんどの人が感傷性と大衆性(平易)だけに目をやり、古賀の咲き誇る花の香りともいうべき青春の躍動を見逃しているのである。戦後になると青春をテーマにした流行歌はつぎつぎと生まれてくる。特に石坂洋次郎原作『青い山脈』が映画化されその主題歌《青い山脈》(西條八十・作詞/服部良一・作曲)はその代表的なものである。そして、進学率の上昇とともに戦後の学園ソングの系譜を生み出すわけであるが、その先駆が古賀メロディーだったのである。《丘を越えて》は『酒は涙か溜息か』同様にまたたくまにミリオンセラーとなった。当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約二十万台といわれた時代に五十万から六十万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」(堀内敬三『音楽明治百年史』)「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなでだす」(園部三郎『演歌からジャズへの日本史』)と、クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。藤山一郎は、この《丘を越えて》を吹き込むときは、前回の《酒は涙か溜息か》とはうって変わって、マイクから相当離れた位置で、しかもメリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーな声で、声量たっぷりと、しかし、声は溢れさせないように唄っている。藤山は、よく「声を蒐める 」と自分の声の共鳴のコントロールについて言っていたが、まるで、ステレオのボリュームを自由自在に調節するように共鳴を変化させることができるのである。さらに、ファルセットと実声の中間で音色をつくって発声するので透明感があるのである。

そして、声を張るところではスピントをかける。軟口蓋の後ろから抜く場合と硬口蓋から直接鼻腔に抜くという二つの武器がある。 藤山一郎によって古賀政男の音楽芸術は開花した。その後の古賀政男の日本音楽界にあたえた功績は、彼の才能と努力の結果であり、二十世紀日本が生んだ偉大な作曲家である。昭和七年、古賀メロディーは流行する。《酒は涙か溜息か》同様に《影を慕いて》が一世を風靡した。

205 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 22:11
>>204

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206 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 22:25
古賀メロディーの時代
《誰か故郷を想わざる》
 古賀政男という作曲家は、その生み出されて作品によって人生を描けることができる。その古賀メロディーが日本人の心に大きな感銘をあたえてきたことは周知の事実である。自ら作曲した作品がそのまま人生の章立てになるのはおそらく古賀政男くらいのものであろう。そう考えるならば荒れ狂う昭和の悲しみを旋律にのせた古賀政男の半生を辿ることはその音楽の特質を理解するうえで重要であるといえる。古賀政男は、明治三十七年、十一月十八日、九州は、福岡県三瀦郡田口村(現在は大川市)に生まれた。父は古賀喜太郎、母はセツといい、古賀は男六人、女一人の七人兄弟の六番目の子供だった。九州は古賀という姓は多い。それは地名にもあるくらいである。古賀の故郷は北原白秋の生地、水郷豊かな柳川の近くである。よく人に出身地を聞かれると白秋の柳川の近くと思わず答えた。古賀は北原白秋を敬愛していた。それを知ってか、森繁久弥が“柳川や、白秋ありて、古賀ありて”と詠んで古賀政男に送ったのは有名な話である。
 「詩人との交遊の多かった私にとって、かえすがえすもなく残念なことは、とうとう白秋さん と一度もまみえることがなかったことである。白秋の故郷と私の故郷は、距離にしてほんのわ ずかなのである。それだけに白秋の切々とつづるノスタルジアは、じつに私の望郷の詩でもあっ た。」(古賀政男『自傳わが心の歌』)
柳川と大川とは、わずか、一里たらずの距離にすぎない。しかし、詩情豊かな柳川の水郷と、大川は随分風景が違っていた。田口村から見える風景らしきものといえば雲仙岳の雄姿が遠望できるだけで、果てしなく広がる水田と縦横に掘割、その周辺に点在する草深い農家、つまり純粋な農村地帯風景そのものだった。<花摘む野辺に日は落ちて>と霧島昇が歌う《誰か故郷を想わざる》は、そんな古賀の故郷を回想する心情が託されている。

 <花摘む野辺に 日は落ちて みんなで肩を 組ながら 唄をうたった 帰りみち
 幼馴染みの あの友 この友ああ 誰か故郷を想わざる >
 《誰か故郷を想わざる》には、母親への思慕に劣らないない姉への古賀の強烈な追憶を感じさせる。嫁ぐ姉を見送る時駅のプラットホームで泣いた体験をもつ西條八十の詩は古賀に強烈なインスピレーションをあたえた。それは、古賀が自伝に「この姉にたいする私の敬慕の情が、八十さんの歌詞に、あまりにも的確に唱いこまれていたので、一瞬、私の日記を盗み見されたのではないかと疑ったほどであった。」と記したことからも十分に窺える。姉の古賀少年への眼差しはやさしかった。土間で畳表を織りながら、優しい瞳の姉は手伝う古賀少年に自分の創作童話を聞かせてくれた。女兄弟がいなかったせいか、姉は古賀を妹のように可愛がった。古賀に女性的なところがみられたのもそのせいかもしれない。その姉は、大正二年、草刈商店の番頭、永島米蔵と結婚した。 縁談が決まって、いよいよ嫁入りの日が来た。古賀の郷里には花嫁が綿帽子をかぶるしきたりがあった。嫁入りのときと死んだときの二度しかかぶらないのだそうだ。嫁ぐという強い決意をしめしているのであろう。古賀は姉の嫁入りが無性に寂しかった。そして、その寂しい感情を殺すかのように「もう帰って来ないなら、嫁なんかにいくな」という言葉がつい出てしまった。後年、西條八十が古賀に見せた〈ひとりの姉が 嫁ぐ夜に 小川の岸でさみしさに 泣いた涙の なつかしさ〉は、偽らざる少年時代の古賀の姉への思慕なのである。


207 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 22:46
>>204
 
古賀は無性に楽しかった。将来の不安などを忘れ最後の青春を謳歌した。こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。限りない青春賛美の曲である。四十六小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。《丘を越えて》は、従来の流行歌にはなかった学生という「社会層の特権的な享受において、かろうじて成立」する「青春」をテーマにしていた。青春と流行歌をむすびつたけたことは昭和のレコード産業の創成期において革命的なことであったのだ。 





《丘を越えて》だけは、歌謡曲の歌手で藤山一郎以後、持ち歌にした者はいない。天才といわれた美空ひばりでさえも《丘を越えて》だけは、この唄のもつ明るさは完全には表現できなかった。朝倉にかぎらず、古賀メロディーを論ずるほとんどの人が感傷性と大衆性(平易)だけに目をやり、古賀の咲き誇る花の香りともいうべき青春の躍動を見逃しているのである。戦後になると青春をテーマにした流行歌はつぎつぎと生まれてくる。特に石坂洋次郎原作『青い山脈』が映画化されその主題歌《青い山脈》(西條八十・作詞/服部良一・作曲)はその代表的なものである。そして、進学率の上昇とともに戦後の学園ソングの系譜を生み出すわけであるが、その先駆が古賀メロディーだったのである。《丘を越えて》は『酒は涙か溜息か』同様にまたたくまにミリオンセラーとなった。当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約二十万台といわれた時代に五十万から六十万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」(堀内敬三『音楽明治百年史』)「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなでだす」(園部三郎『演歌からジャズへの日本史』)と、クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。藤山一郎は、この《丘を越えて》を吹き込むときは、前回の《酒は涙か溜息か》とはうって変わって、マイクから相当離れた位置で、しかもメリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーな声で、声量たっぷりと、しかし、声は溢れさせないように唄っている。


《丘を越えて》は『酒は涙か溜息か』同様にまたたくまにミリオンセラーとなった。当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約二十万台といわれた時代に五十万から六十万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」(堀内敬三『音楽明治百年史』)「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなでだす」(園部三郎『演歌からジャズへの日本史』)と、クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。藤山一郎は、この《丘を越えて》を吹き込むときは、前回の《酒は涙か溜息か》とはうって変わって、マイクから相当離れた位置で、しかもメリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーな声で、声量たっぷりと、しかし、声は溢れさせないように唄っている。藤山は、よく「声を蒐める 」と自分の声の共鳴のコントロールについて言っていたが、まるで、ステレオのボリュームを自由自在に調節するように共鳴を変化させることができるのである。さらに、ファルセットと実声の中間で音色をつくって発声するので透明感があるのである。


208 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 22:56
堀内敬三『音楽明治百年史』音楽之友社 (1968)
園部三郎『演歌からジャズへの日本史』和光社(1954)


209 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 23:02
戦後になると青春をテーマにした流行歌はつぎつぎと生まれてくる。特に石坂洋次郎原作『青い山脈』が映画化されその主題歌《青い山脈》(西條八十・作詞/服部良一・作曲)はその代表的なものである。そして、進学率の上昇とともに戦後の学園ソングの系譜を生み出すわけであるが、その先駆が古賀メロディーだったのである。

・・「古賀メロディ」とは、青春をテーマとしたもので、元祖・青春歌謡といえる!。

210 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 23:07
クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。

211 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 23:30
>>206
古賀政男という作曲家は、その生み出されて作品によって人生を描けることができる。その古賀メロディーが日本人の心に大きな感銘をあたえてきたことは周知の事実である。自ら作曲した作品がそのまま人生の章立てになるのはおそらく古賀政男くらいのものであろう。そう考えるならば荒れ狂う昭和の悲しみを旋律にのせた古賀政男の半生を辿ることはその音楽の特質を理解するうえで重要であるといえる。

212 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 23:59
>>204-205

流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽( 菊池清麿 )    
中山晋平・鳥取春陽・古賀政男・藤山一郎 古関裕而
《近代日本流行歌の成立-昭和歌謡の源流》
h ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html

213 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 10:10
ここに、おいこまヒットが出ず、解雇においこまれる古関裕而と、それを古賀に救われる史重要な史実が書いてある。

214 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 10:12
ヒットが出ず、解雇においこまれる古関裕而、それを古賀に救われるコロムビアにおける重要な史実が書いてある。

215 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 20:56
ヒットが出ず、解雇においこまれる古関裕而、これが史実・・なのに5000曲だとか、古賀政男の後塵をはいした・・とか、一般には三越のホームソングくらいしか知られてのに、助けられた古賀政男のようなことを賜っている古関先生って!!。

216 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 21:01
名曲とは・・

名曲とは、何といっても、詩が一番大切でしょう。

詩の内容が、誰でも、簡単にできない詩、短くも、簡潔なな中に、詩が重厚で凄みがあり、内容が薄っぺらで、ありきたりで一般的で、ただ受けの良いだけの、幸せだけの、美辞麗句を並べただけのものでなくて、青春の苦悩を秘めた、軽いものでないもの。
やはり、「叱られて」とか「影を慕いて」のような歴史の重みを、歴史を凝縮したような曲、「青い山脈」みたいなものでないもの、すばらしい!!。

日本が貧しかった時代は戦争が無ければ素晴らしい時代。
戦後、昭和23年以降はほとんど名曲はない!。

217 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 21:52
戦前は、貧しい時代ではあったが、軍国主義を除けば情緒があったようです。日本の天才的な数学者の岡潔さんもそう言っています。「戦前は軍国主義を除けば、良い時代であった」と。

218 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 22:25
<CD紹介> テイチク

『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・下)』 
テイチクTECE 24459,25460

<上>
 国境を越えて  (佐藤惣之助)  楠木繁夫・・古賀政男テイチク第一作(昭和9年7月) 
 影を慕いて   (古賀政男)   楠木繁夫・・・(編集したような作曲)
 スキーの唄   (島田芳文)   楠木繁夫
 白い椿の唄   (佐藤惣之助)  楠木繁夫・・前奏・間奏・後奏が独立した一曲に値する。
                    菊池寛原作「貞操問答」映画化主題歌
 ハイキングの唄 (島田芳文)    楠木繁夫
 望郷の唄    (島田欣也)   デイックミネ
 のぞかれた花嫁 (玉川映二/サトウハチロー)   杉狂児
 二人は若い   (玉川映二/サトウハチロー)  デイックミネ・星玲子
 波止場がらす  (佐藤惣之助)  デイックミネ
 男のまごころ  (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 夕べ仄かに   (島田芳文)   デイックミネ
 緑の地平線   (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 ゆかりの唄   (佐藤惣之助)  デイックミネ
 白衣の佳人   (佐藤惣之助)  デイックミネ
 啄木の歌    (島田欣也)   楠木繁夫
 春まだ浅く   (石川啄木)   有島通男
 東京ラプソデイー(門田ゆたか)   藤山一郎
 東京娘     (佐藤惣之助)  藤山一郎
 慈悲心鳥    (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 さらば青春   (佐藤惣之助)  藤山一郎




<下>
男の純情    (佐藤惣之助)  藤山一郎
愛の小窓    (佐藤惣之助)  デイックミネ
女の階級    (村瀬まゆみ)  楠木繁夫
回想譜     (今城靖児)   藤山一郎
青春の謝肉祭(カーニバル )(島田欣也) 藤山一郎
南国の乙女   (水島洋)    奥田英子
あゝそれなのに (星野貞志/サトウハチロー)    美ち奴
うちの女房にゃ髭がある (星野貞志/サトウハチロー) 杉狂児、美ち奴
聖処女の唄      (佐藤惣之助)   藤山一郎
人生の並木路     (佐藤惣之助)  デイックミネ・・・・(オリジナルレコード)
青い背広で      (佐藤惣之助)  藤山一郎
青春日記       (佐藤惣之助)  藤山一郎
緑の月        (佐藤惣之助)  奥田英子 
のばせばのびる    (江川真夫)   楠木繁夫
真実一路の唄     (佐藤惣之助)   楠木繁夫
軍国の母       (島田欣也)   美ち奴
黒いパイプ      (倉仲住人)・・  由利あけみ・・三浦環と「蝶々夫人」にも出演。
白虎隊        (島田欣也)   藤山一郎
人生劇場       (佐藤惣之助)  楠木繁夫
弥次喜多道中記    (古賀政男)    楠木繁夫




219 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 22:35
古賀メロデーの隠れた名曲・「勝利の日まで」

昭和19年8月より、20年にかけ、国民学校3年以上の学童は、戦火を避けるため縁故があれば縁故で、無い者は集団疎開をおこないました。
映画『少年時代』は、この学童疎開を、体験した藤子不ニ夫原作によって映画化したものです。なお、これとは関係無いが、あの對馬丸の悲劇はこの時、昭和19年8月に起こったものです。
 
 「学童疎開」、それは家族がバラバラになり、空腹といじめ、のみ・しらみなどそれは厳しいものだったようです。当時学童疎開を励まし歌ったものに、NHKから流れた国民合唱・『父母の声』(草川信作曲)、
♪太郎は父のふるさとへ 花子は母のふるさとへ・・、同じく国民合唱『勝ち抜く僕等小国民』(橋本国彦作曲)♪勝ちぬく僕等小国民 天皇陛下の御ために・・などがあります。同じ頃、「お山の杉の子」が歌われました。
 
 こんななかで、疎開学童に歌われたもうひとつの歌に、古賀政男の隠れた名曲「勝利の日まで」(サトーハチロー作詞)があります。昭和19年末にNHKから。そして20年に入って同名の映画『勝利の日まで』(東宝 昭和20年1月25日公開)の主題歌として。
これは行進曲風で、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、緊張感を持つ哀調を帯びた名曲。



「勝利の日まで」がまんした疎開学童 (狭山市 42才 印刷業)

昭和19年8月、太平洋戦争はサイパン・テニアン島の玉砕で、日本の敗色が濃くなってきた。
当時5年生の私も親元を離れ、信州の山寺に学童疎開をした。はるかに見降ろす千曲の清流。
りんごと桑畑に囲まれた山寺。都会育ちの少年にとって、見るもの全てが新しい世界だった。

遠足気分で遊びまわった私たちも.三日もたつと東京の両親のことを思い出した。
毎晩消灯後並べられた布団の中から、すすり泣きの声が聞こえた、泣くのは女の子、しかも一人っ子がおおかった。
 
 楽しみは母からの手紙と食事時間。初めの頃は残すほどの食事も、しだいに質・量ともに落ちていき野草入りの雑炊、
すいとん、サツマイモ、主食になった。空腹と望郷・・寂しさを忘れるために、私たちはいつも歌を歌った.40分もかかる村の学校への道、
散歩の途中で、遊んだ千曲川の河原で、知ってる限りの歌が出た。

『先生、ぼくたちいつ帰れるの』勇気を出して、先生に聞く生徒もいた。『そのうち、日本軍が逆転して、一気に米軍をやっつける。
そうしたら、また東京に帰るぞ』・・私たちは、先生の言葉を疑いも無く信じた。日本が勝つ日まで、勝利の日まで我慢しよう。そんな私たちの気持ちにぴったり合った歌、それが『勝利の日まで』だった。
 


『さあ、みんな、そろそろ帰ろうか、最期にあれを歌おう。』声をそろえて歌ってるうちに、なぜかこの歌だけは涙がでてきた。途中で歌えなくなる生徒もいた。戦局は次第に悪化、沖縄も陥落、新聞を読むこと
も許されない私たちは、まだ日本の勝利を信じていた。
 出て来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし・・こんな歌を勇ましく歌ったのもこのころだった.出てくるまでもなく、日本のすぐ近くまで来ているのを知らずに。

そして終戦、虚脱状態で声も出ない先生、私たちは勝ったのか負けたのか分からないまま、とにかく戦争は終わった。私たちは一年ぶりに親元に帰れる。ただそのことだけを喜び合った。

・・一億人の証言(『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』毎日新聞社1979)より。・・













220 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 22:39

「勝利の日まで」♪丘にはためく あの日の丸を 仰ぎながめる吾等がいのり いつかあふるる感謝の涙・・は、勝利の日まででというよりは、敗色濃くなって日本が敗戦への坂道をころげ落ちてゆくなかで、
 この歌は映画とは関係無いが、そして、学童疎開とは関係ない歌だが
 あちこち散らばった何百万の疎開学童によって歌われていたといいます。このことについて、歌人の楠本憲吉氏は、古賀メロデーの名曲10の中に入れ、忘れられない古賀メロデーの名曲と書いています。


「勝利の日まで」
 h ttp://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/Shouri_no_Himade.htm




221 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 23:42
   勝利の日まで

作詞   サトウ・ハチロー    
作曲   古賀政男


一、
 
丘にはためく あの日の丸を   
仰ぎ眺める 我等の瞳   
いつかあふるる 感謝の涙
燃えて来る来る 心の炎   
我等はみんな 力の限り   
勝利の日まで 勝利の日まで
 
二、
 
山で斧ふる 翁の腕も   
海の若者 櫓を漕ぐ腕も   
町の工場の 乙女の指も
今日も来る来る お國の為に  
我等はみんな 力の限り 
勝利の日まで 勝利の日まで
 
三、

雨の朝も 吹雪の夜半も   
思ふは一つ ただただ一つ   
遠い戦地と 雄々しき姿
浮かび来る来る ほほえむ顔が 
我等はみんな 力の限り   
勝利の日まで 勝利の日まで
 
四、
 
空に飛び行く 翼に祈り   
沖をすぎ行く 煙に誓ふ  
國を挙げての この戦に
湧いて来る来る 撃ちてし止まん   
我等はみんな 力の限り   
勝利の日まで 勝利の日まで


222 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 11:18
『酒は涙か溜め息か』
作詞:高橋掬太郎 作曲:古賀政男

1.酒は涙か 溜め息か
心の憂さの 捨て所
遠い縁の 彼の人に
夜毎の夢の 切なさよ

2.酒は涙か 溜め息か
悲しい恋の 捨て所
忘れた筈の 彼の人に
残る心を 何としょう

作曲家・古賀政男、作詞家・高橋掬太郎、歌手・藤山一郎の出世作となった大ヒット曲。
89年前、東北大凶作、満州事変の勃発のさ中、折からの世界恐慌による不況にも拘らず、発売直後から大ヒットし、当時の蓄音機の国内普及台数の4倍のセールスを記録したという。売上は80万枚[1]。歌のヒットにより、のちに松竹映画『想い出多き女』、新興キネマ『酒は涙か溜息か』として映画も製作された

また、日本で最初にクルーナー唱法(英語版)を取り入れた作品としても知られる。当時、古賀は新進作曲家として注目されはじめたばかりで27歳、高橋は北海道で地方新聞の記者、藤山一郎は。東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に在籍し将来を嘱望されたクラシック音楽生、25歳だった。

戦後の藤山の歌う「酒は涙かため息か」などは大分崩れた歌い方になっていて、やはり溌溂としたオリジナルがいい。
藤山一郎の歌唱は戦後より、古賀政男とのものが良い。

なお、『酒は涙か溜息か』のB面は、同じく作曲:古賀政男、作詞:高橋掬太郎による『私此頃憂鬱よ』であり、歌ったのは当時本格的に流行歌手として活動をはじめたばかりの淡谷のり子だった。淡谷は昭和4年東洋音楽学校主席卒業。藤山は昭和8年、東京音楽学校主席卒業。

大正14年にはラジオ放送が始まり、昭和2,3年にかけ相次いでレコード会社ができた。
昭和3年には、古賀政男の「影を慕いて」が作られ、そして3年後、今から89年前、東北大凶作、昭和大恐慌の中、昭和6年(1931)には古賀政男がコロムビアに入社。藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など『古賀メロディ』が大衆の中に圧倒的に浸透してゆくのです。

「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・こうした優しい、今までにない「メロディ」を重んじた、新鮮で哀調を帯びた「古賀メロディ」の登場・・それは人々をとらえ、主流だった【晋平“節”】が【古賀“メロディ”】にとって変わられることになった。

最近、なんでも作曲家の後ろにメロディをつけてしまうが、「古賀メロディ」とは、主流だった【晋平“節”】に対する戦後に至る唯一のトップブランド・敬称。それ以外で「古賀メロディ」のごとく、実際に「メロディ」をつけて使われ通用されたものではない。

戦後10年、昭和31年(1961)3月に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場を、こう伝えている ・・
「9月18日未明、満州事変勃発。」・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
 毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)

なお、昭和8年に亡くなった宮沢賢治の「雨にも負けず」は、この昭和6年の冷害を叙述したもので、死後、手帳の中から見つかったもの。よくCMに使われたが、先のほうの夏の暑さなど一般論の部分しか出ないが、後ろのほうまで読むと、寒さの夏はおろおろ歩きという部分がでてくる。
この昭和東北大凶作とそれによる娘の身売りなど社会不安は、その後の太平洋戦争に至る遠因ともいわれる。

223 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/24(Sun) 17:58
《大日本音楽著作権協会設立》 昭和14年11月

昭和14年11月18日午後1時、現在の一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC))の前進、社団法人大日本音楽著作権協会 の創立総会が内務省で開催された。
対象は邦楽と洋楽の作詞家、作曲家である。
洋楽と邦楽で、作詞家、作曲家併せて出席者は、発起人68人中48人だった。

協会設立時における主な会員出席者は洋楽では

作曲家(25人):

本居長世、弘田龍太郎、中山晋平、梁田貞、橋本国彦、堀内敬三、山根銀二、松平頼則、 藤井清水、古賀政男、小松耕輔、佐々木すぐる、諸井三郎、杉山長谷夫、井上武士、飯田信夫、服部正、他


なお、作詞家(15人)は、
林柳波、大木惇夫、與田準一、 高野辰之、長田幹彦、久保田宵二、葛原しげる、西条八十、佐藤惣之助、時雨音羽、清水桂ほか。






224 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/24(Sun) 21:12
   あの夢この歌


  作詞 西條八十 : 作曲 古賀政男

1 おさない日かなしい日 聞いた歌
  優し メロディー
  君うたう今うたう 花の唇燃えて
  ときは春あかしやの みどり白雲
  楽しげに渡鳥 翼はかがやく

2 涙ぐみ別れたる うるわしの
  君の姿 浮かび来て
  流れ来てわれを 泣かすよ呼ぶよ
  若き日の恋の花 すみれひなげし
  におう夜の歌声に 月さえかがやく

3 あの夢もこの夢も ながれ去り 
  残る メロディー
  あの人がこの人が 哀れ歌いしメロディー
  歌は蝶むらさきの 紅の蝶々
  華やかに朗らかに こころを結ぶよ


225 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/24(Sun) 21:21
>>224

あの夢この歌 詩人・芸術院会員西條八十

戦後の西條八十、詩人・芸術院会員西條八十は、中山晋平に続き、昭和28年から昭和40年まで JASRAC日本音楽著作権協会会長や、日本詩人連盟初代会長・・などを務めてもいる他、昭和37年(1962)には、芸術院会員となっている。

以前NHKラジオで、西條八十生誕100年記念ドラマ「西條八十の愛と歌」があった。

なお戦後、新東宝映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948.3)は、西條八十の「歌の自叙傳」を映画化した、西條八十の歌の集大成ともいうべき音楽映画で、岸井明、霧島昇、松原操らの歌手が特別出演する。

その主題歌「あの夢この歌」は戦前戦後を通じて西條八十と最も多くの名曲を世に送り出した西條八十・古賀政男、両巨匠によるもの(霧島昇、二葉あき子歌)。

 ♪おさない日 かなしい日
  聞いた歌 懐かしメロディー
  君うたう 今うたう 花の唇燃えて・・

映画・あの夢この歌・・
大衆に広く愛された西條作品が劇中で数多く歌われる。地方公演を終えた楽団を乗せた列車に、詩人で作詞家の西條八十が偶然乗り合わせる。車内では楽団員たちが賑やかに八十の歌を合唱し始める。「ユーモア列車」と名づけた車両では、みんなが仲良く歌い、乱暴者は他の車両に追い出されてしまう。

次々と歌を披露するうちに、西條八十(斎藤達雄)が、流行歌を作るわけを語り始める・・

なお、この年、昭和23年9月、松原操(ミス・コロムビア)は、「三百六十五夜」(西條八十作詞、古賀政男作曲)を最後に歌手を引退し、以後歌う事は無かった。


(参考)
人間の記録 第29巻 「西條八十  唄の自叙伝」(日本図書センタ− 1997)
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
西條嫩子『父・西條八十』(中央公論社,昭50)
上村直己「西条八十・佐藤惣之助における詩から歌謡への移行について」( 日本歌謡学会. 日本歌謡研究(通号 18) 1979.04))(ISSN―0387-3218)

吉川潮「流行歌 西條八十物語」(新潮社、ちくま文庫)
なかにし礼「私感 西條八十」(中央公論新社1999)
筒井 清忠「西條八十と昭和の時代」 (ウェッジ選書) 2005
和田 北斗「歌謡曲と戦争--戦時下の西條八十」2008
筒井 清忠「西條八十 」(中公文庫) )(中央公論新社2008)
菊池 清麿「日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ」(論創社2008)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」(彌生書房1976)
西條嫩子編「西條八十童謡集」(彌生書房)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)(国書刊行会1991)



226 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 22:38
(参考)
ステレオで聴く不滅の古賀メロディー大全集
12,100円(税込)訂正、 5,580円(税込)
作曲家活動90周年の90曲!

「影を慕いて」(昭和3年)を作曲してから90年
そして昭和53年にこの世を去るまで、半世紀にわたって第一線の作曲家として活躍した古賀政男。
「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「東京ラプソディ 」「人生劇場」「湯の町エレジー」など戦前SP時代の大ヒット曲も名歌手によるステレオ録音で、また「柔」「悲しい酒」など後期の代表曲も収録。
日本人の心のメロディーとなった名曲の数々をぜひご堪能ください。


●発売日 2018年05月18日
●CD5枚組(全90曲)
●別冊歌詞・解説書つき
●ボックスケース入り
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227 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 22:43
昭和歌謡が好きな人集まれ

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50


228 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/27(Wed) 08:31
☆『東京ラプソディ』・・モダン東京のテーマソング (メロディコンサート)

藤山一郎主演、PCL映画『東京ラプソディ』1936.12.1の主題歌(門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)他に「東京娘」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)、「青春の謝肉祭(カーニバル)」がある。「50銭の入場料で藤山一郎の歌を聴きながら東京見物ができます」という宣伝。門田ゆたか作詞は西條八十の弟子。

映画『東京ラプソディ』の制作には技師として、後にソニーの創業者の一人となる井深大が参加していた。井深と交流を持つようになった藤山は後にソニーに嘱託として勤務し、さらに社友となった。

古賀には音楽監督料として900円が支払われ、古賀は全額を(昭和9年1934)に死去した母親を祀るための仏壇の購入に充てたという。

昭和9年にテイチクに移った古賀政男は、他にも次々とヒット曲を生み出し「テイチク黄金時代」といわれる第二期黄金時代を築く。昭和11年、東京音楽学校を卒業した藤山一郎をテイチクに迎え入れた最初の曲で、《モダン東京のテーマ曲》ともいえるエポック曲とといえる。

作曲を担当した古賀政男は『東京ラプソディ』について、自身が「銀座、浅草、新宿という盛り場が見事に歌い込まれて心憎いばかり」と評価する『東京行進曲』(1929年(昭和4年)発売。
作詞・西条八十、作曲・中山晋平)を目標に、「もう少しモダンになった東京を書いてみたい」という考えのもとに制作したと述べている。古賀によるとフォードのクーペの新車に乗って初夏の明治神宮外苑付近を走行中に、自然とメロディーが浮かんできた。

こうして曲が先に完成し、後から古賀と門田ゆたかが共作のような形で詞を作ったという。門田が起用された時点ですでにレコード吹き込みの日程は決まっており、B面の『東京娘』は完成していた。西條八十の弟子でもある門田は重圧と闘いながら、3日間ほとんど寝ずに作業をして詞を完成させた。

歌唱を担当した藤山一郎はこの曲を、「銀座、神田、浅草、新宿と、東京の盛り場を楽しく歌いあげた清潔にして軽快なフォックストロット調の歌」と解説している。吹き込みにあたって門田や古賀から注文をつけられることはなく、自由に歌うことができたという。

東京音楽学校で「声楽の基礎を完全にマスターした」という自負からフォックストロット調の流行歌は容易に歌えるという自信のあった藤山は、声音を明瞭に保ちつつ、曲調に合わせて「ある時は歯切れよく、あるときはシットリと」歌うことに神経を使ったと回顧している。

藤山にとってこの曲は、ビクターからテイチクへの移籍後第1作であった。藤山に移籍の話を持ちかけたのはテイチクの重役を務めていた古賀で、藤山はテイチクをレコード会社としては二流だと感じながら、かつて『酒は涙か溜息か』や『丘を越えて』、『影を慕いて』でヒットを飛ばした古賀とのコンビに魅力を感じて移籍を決断した。
歴史家の今西英造は、『東京ラプソディ』の歌詞には戦時色が濃くなり、権力によって昭和モダンが抑圧され分解しつつあった世相にあっても消えることのなかった、モダニズムを追求する人々の心が表れていると分析し、『東京ラプソディ』を「モダニズムの残響」と評している。





229 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/27(Wed) 08:48
昭和の大作曲家・古賀政男を取りあげる。彼は敗戦の虚脱状態から、どう立ち直ったのかを、『自伝 我が心の歌』で、こう綴っている。

「無条件降伏を告げる玉音放送をつたえ聞いたのは、疎開先の山梨県のいなかであった。……終戦とともに、私はこれで自分たちの世代はすべてが終ったのだと思った。私が再び作曲を発表するような時代や、また、すでに発表した歌が、再び唄われる日も決してめぐって来ないのだと覚悟した。故郷に帰って僅かな土地を耕し、暇があればギターを手にする“晴耕雨唱”の生活を送ろうと、心にひそかに決めていたのである。」
「私たちが疎開していた素朴な田舎にも、飢えと貧困、悪徳と混乱の戦後がやってきた。犬畜生にも劣る激しい人間社会の変りようにただ驚きあきれた。心のささえのすべてを失い、絶望の日日が続いた。今後何をたよりになにを求めて生きていけばいいのだろうか。
 
終戦のあのとき、これからの身の処し方を決め、心の整理ができたはずであったが、あまりに激しい世相に再び虚脱状態に陥ってしまった。そんなある日のこと、村役場の女子事務員が私の許に血相を変え、息せききって駆けこんできた。「先生、大変です。アメリカ兵が来ました。先生をさがしているんです。いまのうちに早く裏山にでも逃げて下さい。」というのだ。その頃は、米軍がしきりに戦犯を逮捕して巣鴨に収容している頃であった。

お嬢さんの説明によると、ジープ二台に乗った米兵が村役場にやって来て、「ミスター・コガはどこにいるか」と村長を掴まえてしきりに尋ねているのだという。気をきかした村長が、時間を稼ぎながら、女子事務員をそっと裏口からは知らせて私に連絡してくれたのだった。私には逃げる理由はなかった。軍歌を多少つくったことがあっても、戦時中は被圧迫者の一人だったのだ。説明すればわかるはずである。「いや、ぼくは逃げないよ」と、心配する家人たちに私は答えたが、夜道にジープのヘッドライトがだんだん近づいて来るのを見たときは、さすがに不安であった。

 米軍の将兵たちは、私が探している当人だと知ると「オオ、ミスター・コガ」と、愛想よく、まるで百年の知己であるかのように握手を求めた。逮捕などという気配は全くない。いぶかる私に、一人が流暢な日本語で訪問の目的を説明してくれた。
 彼等は戦争中、日本進駐後の司令部要員として、米陸軍で日本語の教育を受け、テキストとして日本映画を見せられた。ところがそのとき、私がかつて作曲した東京ラプソディなどの歌をきき非常に感動したのだという。そして、日本に行くようなことがあれば、作曲した古賀政男という男に、是非とも会ってみようと相談していたのだったという。彼等は親切にも、食糧難で私も困っているだろうと、ジープに食糧を沢山積んで、私にプレゼントするためはるばる訪ねて来てくれたのだった。
 すでに夜となった。それに河口村は当時は電灯もない僻地の山村である。とにかく皆さん今夜は泊っていったらどうだと私が奨めると、彼等もそうしたいというので、私はなけなしのウイスキーを出して彼等の厚意に報いた。それから私の歌や外国の歌を唄いながら彼等と夜の明けるまで飲み明かし、朝になって私の歌を声一ぱい合唱して別れた。彼等の一人は別れ際に「ミスター・コガ、私たちの日本語が上達したのは、貴男のおかげです。心からお礼を申しあげたい」と、丁寧に頭を下げるのであった。……」
 




230 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/27(Wed) 09:12
「それからしばらく後のこと、私は在日韓国人の代表らしい人たちの訪問を受けた。彼等は「古賀さん、絶対に他言はしませんから、ほんとうの名前を教えてください。そしてこんごわれわれの力になってください」というのだった。・・(略)・・
 この二つのできごとは、私にとって天啓であった。私はこれによって虚脱状態から立ち直る精神的糧を得たのだ。たとえ国はやぶれても、また私の築いた過去の基盤がうたかたのように消え去っても、私の歌は国境を越えて、人の心のなかに生き続けていることを私は改めて確認させられたのであった。私の歌だからということではない。それが歌というものなのだ。私はそのとき改めていのちのあるかぎり作曲を続けようと決意した。」
(古賀政男著『自伝 我が心の歌』(展望社、2001))
古賀政男は、昭和19年3月から20年8月まで河口湖畔に疎開。そして、戦後初の作品が「麗人の歌」(西條八十作詞 古賀政男作曲 霧島昇1946) 。
川口湖畔には、昭和20年に疎開のためにこの地を訪れた中で、地元中学校の校歌をはじめ、「河口湖おどり」「河口湖ワルツ」などの楽曲は、地域の音楽文化の礎となった。生誕100年を記念して平成16年に古賀政男記念公園として、「影を慕いて」音楽碑があって、懐かしいメロディーを奏でる。記念碑にはこの辺のことについて書かれている。

藤山一郎歌唱で、銀座を歌った戦後の歌に「夢淡き東京」(サトウハチロー作詞、古関裕而作曲)がある。「東京ラプソディ」(1936)に匹敵する、戦後の東京(銀座)の歌をということで、昭和22年(1947)につくられたもので、他にも戦後、銀座を歌った歌は山ほどある。

これらを含めて、あの青春の息吹溢れる、《モダン東京のテーマ曲》ともいえる「東京ラプソディ」(1936テイチク 門田ゆたか作詞)、や「なつかしの歌声」(1940コロムビア 西條八十作詞)。

これを超えるものはまだ出ていない、今後もでないだろう。


☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110


231 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/27(Wed) 09:23
>>228-230

「東京ラプソディ」
門田ゆたか作詞 古賀政男作曲
歌 藤山一郎
昭和11年(1936)


1.
花咲き花散る宵も
銀座の柳の下で
待つは君ひとり 君ひとり
逢えば行く ティールーム
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

2.
現(うつ)つに夢見る君の
神田は想い出の街
いまもこの胸に この胸に
ニコライの かねも鳴る
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

3.
明けても暮れても歌う
ジャズの浅草行けば
恋の踊り子の 踊り子の
ほくろさえ 忘られぬ
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

4.
夜更けにひととき寄せて
なまめく新宿駅の
あのこはダンサーか ダンサーか
気にかかる あの指輪
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

5.
花咲く都に住んで
変わらぬ誓いを交わす
変わる東京の 屋根の下
咲く花も 赤い薔薇
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

昭和11年テイチク、昭和9年、コロムビアからテイチクに移った古賀政男。
古賀がビクターからテイチクに呼び寄せた藤山一郎。いわゆるテイチク黄金時代、古賀政男第二次黄金時代の幕開けとなる曲。
西条八十・古賀政男の黄金コンビ、だがコロムビアを退社していたので、八十の弟子・門田ゆたかの作詞になる。


232 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/27(Wed) 14:24
「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。

作曲家はこれまでたくさん出たが、「古賀政男」ほど多くの
ヒット曲を持つ作曲家はいない。

日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。

古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。

昭和一桁代、その哀調を帯びた新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平 “節” 』に対し、『古賀 “メロディー” 』と呼んだのでした。

233 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/02(Tue) 10:28
◇戦後の主な古賀メロディ・・

圧倒的に西條八十が多い!。


麗人の歌     1946(西條八十作詞 霧島 昇歌〉
悲しき竹笛    1946(西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉
こころ月の如く  1947〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
旅の舞姫     1947(西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌
嘆きの小鳩    1947 (西條八十作詞、藤山一郎歌)
あの夢この歌   1948〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
三百六十五夜   1948〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
恋の曼珠沙華   1948〈西條八十作詞 二葉あき子歌)
湯の町エレジー  1948(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)
雨の夜汽車    1948(西條八十作詞、奈良光枝歌)
待ちましょう   1948(西條八十作詞、松田トシ歌)
トンコ節     1948(西條八十作詞、久保幸江歌)
誰に恋せん    1948(藤浦洸作詞、 高峰三枝子歌)(大映映画「誰に恋せん」主題歌)
友情の歌     1948(藤浦洸作詞、藤山一郎歌)  (大映映画 『誰に恋せん』挿入歌)
なつかしのヴエノスアイレス1948(藤浦洸作詞、二葉あき子歌)
シベリヤエレジー 1948(野村俊夫作詞、伊藤久男歌)
愛の灯かげ    1949(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)
夢よもう一度   1949(西條八十作詩 二葉あき子歌)
希望に燃えて   1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング/新東宝映画「影を慕いて」より)(*)
(サトウハチロー作詞、伊藤久男、霧島昇、近江俊郎、二葉あき子、奈良光枝、高倉敏歌)
湯の町夜曲    1949(野村俊夫作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』主題歌)
たそがれの湖   1949(西條八十作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』挿入歌)
赤い靴のタンゴ  1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)
嘆きの孔雀    1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)(新東宝映画「処女宝」主題歌)
愛のカレンダー  1951(西條八十作詞、藤山一郎歌)
青いガス燈    1951(野村俊夫作詞、岡本敦郎歌)
夜の湖      1952(藤浦洸 作詞、藤山一郎歌)
ギター月夜    1952(西條八十作詞、霧島昇歌)
富士エレジー   1952(西條八十作詞、青木光一歌)
ゲイシャワルツ  1952(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
ザビエルの鐘   1953(西條八十作詞、青木光一歌)
見ないで頂戴お月様1953(野村俊夫作詞、神楽坂はん子歌)
長崎ブルース   1954(藤浦洸 作詞、山一郎歌)
湖畔のギター   1954(野村俊夫作詞、霧島昇歌)
おらんだ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよこ歌) (映画「春色お伝の方」挿入歌)
湯の町椿     1954(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
渚の子守歌    1954(西條八十作詞、織井茂子歌)
浪花ばやし    1954(西条八十作詞、青木光一神楽坂歌)
オランダ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよ子歌)
ピレネエの山の男 1955(西條八十作詞、岡本敦郎歌)
娘船頭さん    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌)(松竹キネマ「娘船頭」主題歌)
シクラメン咲けど 1955(西條八十作詞、奈良光枝歌) (映画「暁の合唱」主題歌)
りんどう峠    1955(西條八十作詞、島倉千代子歌)
花のゆくえ    1955(門田ゆたか作詩、及川由子歌)(ラジオ東京『花のゆくえ』主題歌)
怒涛の男     1955(野村俊夫作詞、美空ひばり歌)  (映画「力道山物語」主題歌)(原曲「櫛巻きくずし」)
都に花の散る夜は 1955(丘灯至夫作詞、青木光一歌) (原曲は「さらば青春」)
逢わないで      (西條八十作詞、山本富士子歌)
恋の曽根崎    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌) (『曽根崎心中』より)
お染久松     1955(西条八十作詞、空ひばり歌)
乙女心の十三夜  1956(西條八十作詩、島倉千代子歌) (映画「乙女心の十三夜」主題歌)



234 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/02(Tue) 10:32
169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 12:13
青春サイクリング 1956(田中喜久子作詞、小坂一也歌)
馬喰一代     1957(野村俊夫作詞、村田英雄歌)
思い出さん今日は 1958(星野哲郎作詞、島倉千代子歌)
無法松の一生   1958(吉野夫二郎作詞、村田英雄歌)
夜の酒場     1958(西條八十作詞、宝田明歌)
白い小ゆびの歌  1960(関沢新一作詞、島倉千代子歌)
雪之丞変化    1963(西條八十作詞、美空ひばり歌)
遊侠街道     1964(西條八十作詞、美空ひばり歌)
東京五輪音頭   1964(宮田隆作詞、 三波春夫歌)
柔        1964(関沢新一作詞、美空ひばり歌)
悲しい酒     1966(石本美由起作詞、美空ひばり歌)
我が心の歌    1968 (古賀政男作詞、アントニオ古賀歌)
銀座音頭     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
若い銀座     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
(明治百年大銀座祭記念作品、「銀座音頭」とともに西條八十最晩年の作品でもある。)
浜昼顔      1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母   1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)


*「古賀政男作品集 希望音楽会による古賀政男作曲集( ハーモニカ譜付)」新興音楽出版社/全音楽譜出版社, 1949頃


 


235 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/02(Tue) 10:39
(参考)


■朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?
2020/05/14

h ttps://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/05/04/147322/3

半世紀かけて4000曲を手掛けた昭和歌謡の巨人・古賀政男。

第2回国民栄誉賞を受賞した偉人であり、2020年の朝ドラ『エール』にも登場する「木枯正人」のモデルです。

ドラマでは人気ロックバンドRADWIMPSの野田洋次郎さんが演じていますが、この偉大なる作曲家とはどんな人物だったのか?
その足跡を追ってみましょう。


目次

・8人きょうだいの古賀政男 生活は苦しく
・仁川に渡るも兄と母の折り合い悪く
・善隣商業学校へ入学
・民謡「アリラン」に影響を受け
・自殺衝動の中に生まれたメロディ『影を慕いて』
・こんな暗くて重苦しい曲がウケるのか……
・スランプの古関を救ったのは古賀だった
・結婚するもすぐに離婚 そしてテイチクへ
・「映画は日活、レコードはテイチク」
・軍歌に走るテイチクを辞める
・菅原都々子との間に何があった?
・“泣きべそ声”の背景にある
・突然の方針変換 古賀に何があったのか?
・皇道世界政治研究所
・『そうだ その意気』を発表
・軍歌の帝王に君臨したのはエールの古関
・淡谷のり子「私を殺して戦争に勝てるなら、どうぞ」
・作曲家たちの戦争責任は?
・古賀メロディーを歌っている限り……



236 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/03(Wed) 09:07
>>178
【参考)
昭和24年は、戦後自由を謳歌する中で、歌の世界も大きく変わってゆく端境期。
服部良一作曲「青い山脈」(昭和24年)は、同、服部良一の作曲、笠置シズ子で爆発的にはやった「ブギウギ」と一体。

「セコハン娘」 (1946) 結城雄次郎作詞 服部良一作曲
「アイレ可愛や」(1946) 藤浦 洸 作詞 服部良一作曲
「東京ブギウギ」(1947) 鈴木 勝 作詞 服部良一作曲
「大阪ブギウギ」(1947) 藤浦 洸 作詞 服部良一作曲
「ラッパと娘」 (1946) 服部良一作詞/作曲  
「買い物ブギー」(1950) 村雨まさを作詞 服部良一作曲
 (「村雨まさを」は服部良一の筆名)  
「ジャングル・ブギー」(1948) 黒沢 明 作詞 服部良一作曲
「ヘイヘイブギー」(1948)藤浦 洸 作詞 服部良一作曲


237 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/03(Wed) 17:06
16日 1月 2015
古賀政男
h ttps://reireivn.jimdofree.com/2015/01/16/古賀政男/


《影を慕いて》を鑑賞&歌唱したところ、あまりに評判がよく、高齢者の皆さんがとてもお好きだということが分かりました。そこで今回は「古賀政男」を特集するプログラムです。明治37年11月18日生まれ、ということで、生きていれば109歳です。生まれたのは福岡県。子どもの頃から大正琴やマンドリンに親しみます。彼が主催した明治大学のマンドリン倶楽部はあまりにも有名ですね。このようなデータを白板に書くと「へ〜」と感嘆の声があがります。ぜひ、言うだけじゃなくて書いてください。
今回は古賀政男の初期の曲を集めました。



238 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/05(Fri) 17:26
古賀政男総合スレ
h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/


239 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/05(Fri) 17:44
「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏 1942.9


この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンターで見れる。

h ttp://www.youtube.com/watch?v=iXxYruH3XNM

戦時中各地を慰問してまわった李香蘭、その李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。

戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。 そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、この昭和17年古賀政男編曲になるもの。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。

戦時中慰問先で、明日をも知れぬ数多くの無名の兵隊さんを前にして「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

「荒城の月」を、オペラでも歌うつもりか、何と勘違いしているのか、あらん限りの力を振り絞って、頭の芯に突き刺さるような激しい声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手の歌。
今、テレビではそんな思わず耳を覆いたくなるような場面も少なくない。ぜひこの映画を見せてあげたい。



荒城の月 李香蘭 古賀政男編曲、明大マンドリンクラブ伴奏 
彼女の本格クラシック的歌唱力はロシアのオペラ歌手及び三浦環に師事した証と言えるモ­ノで、とてもアイドルスターとしての美貌だけではなくしっかりとした素質と教育の賜物­だと感心させられた一曲です。


「荒城の月」は、「紅い睡蓮」、「夕月乙女」とともに、映画『熱砂の誓ひ』挿入歌でもあったのですね。
h ttp://plaza.rakuten.co.jp/roberobe1963/3022/

·紅い睡蓮(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
·夕月乙女(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
·荒城の月(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)

テレビで今年亡くなった有名人を報じている。なかでも李香蘭は忘れてはならない人でしょう。

李香蘭は単なる美貌のスター歌手というだけでなく、あまり知られていないが、本格的に幼時から声楽を学んだ本格的歌手でもある。

特に、ぜひ聞いてほしいのは李香蘭の歌う「荒城の月」だろう。

『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、
中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。
マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。
ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては申し分なしだったと思います。


また、李香蘭は三浦環に師事した事でも知られる。

こうしたことが、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。(COL100542 荒城の月/宵待草 李香蘭 )

240 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/06(Sat) 10:22
☆ 古賀政男 二つの「思い出の記」


昭和53年7月25日に古賀政男が亡くなって今年、令和2年(2020)で42年になる。

42年前の7月25日,午後1時15分、代々木上原の自宅で急性心不全により死去、享年・73歳。

訃報を伝えるNHKラジオ放送は、その夜すべての番組を中止し、一斉に古賀メロディ―を流し続けた。異例のことだった。

10日後の同年8月4日、前1977年(昭和52年)の王貞治(プロ野球選手)に次ぎ、史上二人目となる国民栄誉賞を贈られた。

生前に贈ることを目的としたもので異論もあったようだが、福田内閣は古賀氏に贈らない理由はないとして贈ることが決まった…

昭和歌謡の黎明期、一苦学生で、プレクトラム音楽家だった昭和4,5年から、昭和6年コロムビア専属そして、テイチク、コロムビアとレコード会社を移りながら、日本がまだ貧しかった時代から高度成長の真っ盛り戦後の昭和40年代末ごろまで,古賀政男ほど長きに亘って広範に思う中心でありえたものもいない。

「人生の並木路」そのままに、貧しい故郷を捨てて兄を頼りに「韓国」に亘った古賀メロディに大きな影響を及ぼしたとされる韓国で過ごした少年時代。

また、明治大学学生として日本に帰って来て、一苦学生に過ぎなかった「古賀正男」が「古賀政男」として歌謡界の頂点に昇りつめる半生、それは日本の昭和の歴史を象徴するかのよう。

それはまさに半世紀に亘る昭和歌謡の歴史そのものだった。


古賀政男には「思い出の記」という自身の人生そのものを歌った自伝的作品ともいえる作品がある。

自らの愛唱歌であり誰にも歌わせなかったもので、葬儀の際もくりかえり流れた。



「思い出の記」は二つあって、いずれも古賀政男作曲の秀作、昭和16年の作品(大木惇夫作詩)と、晩年自らの「思い出」を辿る自伝的作品として作った昭和43年(1978)の古賀政男作詩があります。

古賀政男にしか書けない曲です。

古賀政男ならではの「思出の記」の実績の上に作られた自信に溢れた曲といえる。

大木惇夫作詩は、国民新聞に連載された徳富蘆花の立志的自伝的文学作品『思出の記』(「思い出の記」だったが「思出の記」と変更)の歌謡化作品であるのに対し、歌謡界の大御所で、「日本の名士」になっていた古賀政男晩年の自らを顧み語る自伝的作品と言えます。

思出の記 (大木惇夫作詞、古賀政男作曲)霧島昇1941.12 (陸海軍礼式歌)

思い出の記(古賀政男作詞、古賀政男作曲)    1968


大木惇夫作詞は徳富蘆花の自伝的小説 『思出の記』の歌謡化作品。昭和16年12月新譜、重厚な曲で陸海軍の礼式歌ともなった。

・大木惇夫作詩「思出の記」は、徳富蘆花 『思出の記』の歌謡化で、霧島昇歌(コロムビア100374@)

作詞 大木惇夫
作曲 古賀政男

ああ馬の背に涙して
故郷出でて幾年ぞ
高倉山の白雲に
誓いし言葉仇ならず
飾る錦は誰ゆえに

ああ山河は変わらねど
人の心は今いかに
思い出の谷夢の丘
幼馴染の面影も
今は空しき菜の花よ



・古賀政男作詞「思い出の記」
作詞 古賀政男
作曲 古賀政男

ああ思い出は 懐かしく
ふるさと恋て 訪ぬれば
親同朋(はらから)は すでに逝き
誓いし友の 面影も
今は虚しき 菜の花よ

ああ人生は 夢の夢
幾年変わらぬ 山川も
流れる雲か 風に散る
人の心は 山吹の
花はほろほろ 散るばかり


なお、他に大木惇夫作詞に、
崑崙越えて     1941(大木惇夫作詞、藤山一郎歌)
苺の雲の燃える時 1941(大木惇夫作詞、霧島昇、松原操歌)  
雲のふるさと   1944(大木惇夫作詞、伊藤久男歌)陸海軍礼式歌、戦後NHKラジオ歌謡
月のしづく    1944 ( 大木敦夫作詞、李香蘭歌)

*雲のふるさと、月のしづくの李香蘭(山口淑子)盤が古賀財団で最近発見された。

なお古賀政男最晩年の作品は…
浜昼顔      1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母   1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)




241 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/06(Sat) 10:48
古賀メロディとは

日本の歌謡曲の歴史をつくった作曲家・古賀政男、歌謡曲の歴史そのものであるだけに、古賀政男に関する文献は圧倒的に多い。

まずその最初は、テイチク黄金時代、昭和13年(1938)11月、作品104編と半生物語、作品研究を収録し、B5判393頁と浩瀚な宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』である。

・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。(なお、この新聞広告には「古賀メロディ」という言葉が使われている。)


宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。

 そして、古賀を「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた。」と評した。

大正から昭和の初めにかけて、「『誰でも歌える歌』ずくり」を目指した中山晋平(晋平節)。

これに対し古賀政男は、昭和の初め、大衆性をもった「古賀メロディー」という新しい潮流を創出し、歌謡曲・流行歌を、「昭和」という時代を象徴する「文化」に発展させた。



242 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/06(Sat) 11:47
前橋マンドリンフェスタ 2006

2006年が生誕120周年にあたる郷土の詩人・萩原朔太郎はマンドリンの演奏家としても知られることから、
「前橋マンドリンフェスタ2006」が開催されました。福岡マンドリンオーケストラは、県外からの招聘団体として参加いたしました。
h ttp://www.geocities.jp/fkmo1966/2006/2006maebasi/2006maebasi.htm
開催期間:平成18年10月28日(土)、29日(日)
開催場所:前橋市民文化会館、前橋市内中心街

●2006年10月
29日(日) 萩原朔太郎生誕120年記念 で住職が 朗 読 しました前橋マンドリンフェスタ2006 (リンク)

28日 マンドリン四重奏の全国コンクール
29日 午前 県内56団体の演奏     午後 県外6団体          
ゴンドラマンドリーノの「朔太郎コーナー」

・朔太郎遺愛曲
・朔太郎と古賀メロディー
・朔太郎愛唱歌「野火」「ふるさと」

秋山直之・オーケストラと朗読:「広瀬川」村上泰賢、「大渡橋」神野文子  など

会場:前橋市民文化会館 大ホール (前橋駅南口)

関連ページ
◇前橋マンドリンフェスタ2006の開催(リンク)

□第一回マンドリンフェスタは盛会のうちに終わりました。萩原朔太郎生誕120年で初めておこなわれたマンドリンフェスタ。
「これから前橋をマンドリンの街にしてゆきたい」という高木市長の言葉が、力強く胸に響きました。
群馬交響楽団を育てた高崎市、についでこれから朔太郎の縁で生まれたマンドリンフェスタの街前橋、を大事に育てていってほしいものです。
文化を育て上げるには時間と手間がかかります。ゆっくり息長く。
h ttp://tozenzi.cside.com/news2006.html

h ttp://tozenzi.cside.com/news2006.html



前橋出身の詩人・萩原朔太郎は、大正15年〜昭和4年まで、馬込の「文士村」に住んだ。
文士村には佐藤惣之助もいて、萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。昭和5年には、妹アイとともに上京、牛込区市ヶ谷台町(現・新宿区内)に居住。
昭和6年には、妹アイとともに世田谷区下北沢に。

一方、昭和6年、代々木上原に住んでいて、一時期世田谷松原に住んだ後、
昭和13年、緑豊かな小田急線代々木上原駅前3000坪に、邸宅を構え移り住んだた古賀政男。>>157,>>162,>>167

昭和8年1月には、朔太郎は世田谷区代田一丁目に自宅を新築。
8月には妹アイは、佐藤惣之助と結婚。

マンドリン演奏家としても知られる朔太郎は、マンドリン、ギターの名手でもある古賀政男邸に足しげく通い、
マンドリンやギターを習い、詩の談義に話をはずませたという。

なお、下北沢、世田谷代田は小田急線で、代々木上原から二つ目、三つ目。

朔太郎56歳は、太平洋戦争に突入して半月後の、昭和17年5月11日、風邪をこじらせ世田谷代田の自宅で急性肺炎で病没。
義兄・萩原朔太郎の葬儀を済ませた佐藤惣之助51歳も、

4日後、疲れから外出先で脳溢血で倒れ帰らぬ人となり、二人の詩人は相次いであっけなくこの世を去った。

朔太郎終焉の地近くの北沢川緑道に「萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔」という由来碑がある。
この高圧鉄塔は、萩原朔太郎の居住痕跡を示す唯一のものとして「世田谷区地域風景資産」となっている。
前橋、広瀬川のほとりに立つ前橋文学館(萩原朔太郎記念館)には、朔太郎直筆の原稿やノートなどのほか、愛娘葉子と「古賀メロディー」を奏でた朔太郎愛用のギターなどが展示されている。

(参 考)
萩原葉子 『父・萩原朔太郎』(中央公論社 中公文庫 A 109-2、1979) 1959筑摩書房
萩原朔太郎 流行歌曲について  
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房1975)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977

243 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/09(Tue) 20:03
戦後の西條八十、詩人・芸術院会員西條八十は、中山晋平に続き、昭和28年から昭和40年まで JASRAC日本音楽著作権協会会長や、日本詩人連盟初代会長・・などを務めてもいる他、昭和37年(1962)には、芸術院会員となっている。

以前NHKラジオで、西條八十生誕100年記念ドラマ「西條八十の愛と歌」があった。

なお戦後、新東宝映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948.3)は、西條八十の「歌の自叙傳」を映画化したもので、西條八十の歌の集大成ともいうべき音楽映画で、岸井明、霧島昇、松原操らの歌手が特別出演する。

その主題歌「あの夢この歌」は戦前戦後を通じて西條八十と最も長く、最も多くの名曲を世に送り出した西條八十・古賀政男、両巨匠によるもの(霧島昇、二葉あき子歌)。
昭和23年には、新東宝映画「あの夢この歌」の主題歌として、霧島昇、二葉あき子の歌で発表された。





     あの夢この歌


  作詞 西條八十 : 作曲 古賀政男

1 おさない日かなしい日 聞いた歌
  優し メロディー
  君うたう今うたう 花の唇燃えて
  ときは春あかしやの みどり白雲
  楽しげに渡鳥 翼はかがやく

2 涙ぐみ別れたる うるわしの
  君の姿 浮かび来て
  流れ来てわれを 泣かすよ呼ぶよ
  若き日の恋の花 すみれひなげし
  におう夜の歌声に 月さえかがやく

3 あの夢もこの夢も ながれ去り 
  残る メロディー
  あの人がこの人が 哀れ歌いしメロディー
  歌は蝶むらさきの 紅の蝶々
  華やかに朗らかに こころを結ぶよ


               葬儀委員長 安藤 更生
               喪主    西條 八束
                  


244 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/09(Tue) 20:12
昭和53年、NHK朝の連続テレビ小説で『東京行進曲』(西條八十作詞、中山晋平作曲)を歌ったレコード歌手第一号、佐藤千夜子の生涯を描いた『いちばん星』が放送された。

『いちばん星』では、「エール」と違って、野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子、西条八十、古賀正夫( 政男)など、まさに昭和レコード歌謡を築き上げた人物が登場する。

昭和歌謡、大衆歌謡の源流とそこに関わった先人の熱い情熱と思いが描かれています。


大衆歌曲「歌謡曲」(クラッシックのことをこう呼んだ)はクラシック(洋楽)を基礎にして、さらに世界の音楽と邦楽の伝統を取り込みつつ融合発展したもので、大衆の間に浸透していくにつれ様々な抵抗や批判があった。それらにひるまず「歌謡曲」を確立してゆく、歌作りにかけた先人の弛まぬ熱い思いの歴史であった。

昭和4年、音楽評論家伊庭孝が流行歌(レコード歌謡)を批判したことから、西條との間で論争が起こった。「流行歌」が通俗かつ劣悪であるとされていたのだ。しかし、西條はものともせず流行曲作家として次々に映多くの映画主題歌などを手掛けてゆく。

『大衆をこよなく愛した詩人・作詞家 西條八十』、戦前から戦中・戦後・高度成長期まで約50年に渡り、童謡から流行歌まで幅広く作詞を手がけた西條八十。

詩人、仏文学者、作詞家、大学教授・・・ 多彩な仕事を残し「堕落」と言われようが、歌が持つ力を信じ、そっと寄り添う優しい簡潔な言葉で、大衆を励まし続けた昭和歌謡の源流。

西條八十の歌、そこに流れるものは、弱きものにそっと寄り添う「やさしさ」だと想います。

処女詩集『砂金』から、初期の童謡と純粋詩、あるいは訳詩、「東京行進曲」あたりから書きはじめた流行歌、後の歌謡曲、あるいは軍歌など書いてゆく。早稲田大学の仏文科で教鞭をとりながらの二束のわらじだった。

さらに各地の民謡、校歌、社歌の類、多くの少女小説まで書きまくった。

弟子にサトウハチロー、門田ゆたか、佐伯孝夫、丘灯至夫などがいる。

童謡から新民謡,歌曲、歌謡曲までを手がけた詩人・西條八十。

西條八十の詩には、成田為三、弘田龍太郎、本居長世、山田耕筰、中山晋平、草川 信、近衛秀麿、小松耕輔、橋本国彦、佐々木すぐる、平井康三郎、中田喜直・・から、古賀政男、松平信博、江口夜詩、万城目正、佐々木俊一、・・服部良一、古関裕而・・など多くの著名な作曲家が曲をつけている。

西條八十の歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇が いわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。

西條八十は「芸術とは人生に対する真剣な感動が盛り込まれていなければならぬ」と言っていて、この歌謡の中でも例えば「旅のつばくら淋しかないか」ですが、これはフラ ンスの女流詩人の「旅の燕は私の心の夢で、あなたについていく」がヒントになっていて 私だったら「旅のつばくろ淋しくないか」となってしまうところ、「 ― つばくら淋しか ― 」となるのは、さすがです。らとかの明るいはずのあ音が、歌うと(古賀政男作曲) 深く澄んだ寂蓼となって響きます。

彼が歌謡曲を作るきっかけとなったのは関東大震災の夜だった。被災した兄を見舞うため都内を歩いていました。瓦礫の山の中、人々は嘆き、悲しみ、叫ぶ人までいました。余震がひんぴんと繰り返された。都心や下町方面の空が炎のように赤く染まっていた。

朝鮮人の襲撃があると言って近所の男の人たちが竹槍をかまえて出ていった。病院へかけつけた父は母が池袋駅の構内に寝たまま避難して無事であることをたしかめると月島に住む兄英治夫婦を案じて築地の方角へ歩き出した。

 ところが、倒れた家屋や避難民の激しい動きにまきこまれ、いつのまにか上野の山(現上野公園)の方へおしよせられてしまった。自警団に阻まれたりして、けっきょく上野の山で一夜を明かす羽目となった。

その夜半、地獄のように遠く近く燃えさかる火災を眼下にみながら、恐怖にふるえる避難民の中からとつぜん一少年の吹くハ−モニカの音が響いた。

それは思いがけぬ美しく優しい音であった。



245 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/09(Tue) 20:26
激しい地震と火災におびえ、疲れた人々の心に、それは慰撫の天使の喇叭のように鳴りひびき、しみ渡った。それで聞き覚えのあるメロディー〈船頭小唄 ♪おれは河原の 枯れすすき・・〉を吹き出しました。

すると、それを聞いた人々はなぜか静まりかえり、誰もが心をなごませたといいます。八十は「この非常時に」と遮ろうとしたが、すでにハ−モニカの奏でる哀調を帯びた旋律が流れていて、あたりの人たちが静まり返ってその音色に聞き入ったそうだ。(「父西条八十は私の白鳥だった」(集英社文庫))


「カナリヤ」「肩たたき」「鞠と殿様」「お山の大将」「村の英雄」「おみやげ三つ」「宵待草」(二番補作)・・「東京行進曲」「東京音頭」「銀座の柳」「唐人お吉の歌」「この太陽」「不懐の白珠」(ふえのしらたま)「お菓子と娘」「女給の唄」「愛して頂戴」「侍ニッポン」「天国に結ぶ恋」「夜の酒場に」「踊り子の歌」「楽しい我が家」「旅の夜風」「サーカスの歌」「誰か故郷を想はざる」「花言葉の唄」「なつかしの歌声」「春よいずこ」「蘇州夜曲」「燃える御神火」「同期の桜」「若鷲の歌(予科練の歌)」「麗人の歌」「旅役者の歌」「三百六十五夜」「赤い靴のタンゴ」「悲しき竹笛」「青い山脈」「赤いかんなの花咲けば」「越後獅子の歌」「この世の花」「りんどう峠」「娘船頭さん」「王将」・・「二つの言葉」「花咲く乙女たち」「絶唱」「夕笛」・・かぞえあげたらきりがない。


当初、[赤い鳥]で童謡を手がけるが、この頃は歌われることを意識して書いたわけでは無いという。自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。(「唄の自叙伝」西條八十)

大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』

このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマで再現していた。

なお、こんな安っぽいメロディ−は「船頭小唄」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)。

八十はこの体験から何を言われようと思うまま書きまくることになる。

古賀政男音楽博物館地下1階「音楽情報室」のコンピュータで「西條八十」で検索すると、600曲くらい出てきて、一部の音源の準備の無いものを除き選んで試聴できる。

 昭和45年(1970)8月12日、詩人・芸術院会員西條八十はこの世を去ります。彼の残した曲の多くは、今でも多くの人々の記憶に刻まれています。

そして、その数の多さには誰もが驚かされるでしょう。彼が作ったのは、童謡が854曲(うち訳詞が63曲)、流行歌の作詞が3200曲、校歌、社歌700曲以上、これらのうちでレコード化されたものは7000枚になるといいます。それに加えて、詩、訳詩、小説、随筆、少女小説、紀行文なども多数あります。
 
 八十は昭和45年8月12日、78歳で永眠いたしました。喉頭ガンをわずらっていま した。8月15日の朝日、毎日、読売の各新聞に次のような死亡広告が出されました。


「私は今朝、永眠いたしました。長い間の皆様のご好誼に対し厚く御礼 申し上げます。 西條八十」

詩人・芸術院会員西條八十はこのようなご挨拶を遺して8月12日午前 4時30分自宅にて急性心不全のため逝去いたしました。謹んで辱知 の皆様に御通知申し上げます。

246 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/09(Tue) 20:31
   葬儀委員長 安藤 更生
               喪主    西條 八束

247 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/09(Tue) 20:37

西条 嫩子著「父西条八十は私の白鳥だった」 (集英社文庫) ? 1990/5/1





248 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/09(Tue) 20:51
(参考)
人間の記録 第29巻 「西條八十  唄の自叙伝」(日本図書センタ− 1997)
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
西條嫩子『父・西條八十』(中央公論社,昭50)
上村直己「西条八十・佐藤惣之助における詩から歌謡への移行について」( 日本歌謡学会. 日本歌謡研究(通号 18) 1979.04))(ISSN―0387-3218)
西条 嫩子著「父西条八十は私の白鳥だった」 (集英社文庫) 1990/5/1
西條嫩子編「西條八十童謡集」(彌生書房)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)(国書刊行会1991)

吉川潮「流行歌 西條八十物語」(新潮社、ちくま文庫)
なかにし礼「私感 西條八十」(中央公論新社1999)
筒井 清忠「西條八十と昭和の時代」 (ウェッジ選書) 2005
和田 北斗「歌謡曲と戦争--戦時下の西條八十」2008
筒井 清忠「西條八十 」(中公文庫) )(中央公論新社2008)
菊池 清麿「日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ」(論創社2008)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」(彌生書房1976)


249 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/09(Tue) 21:03
【童謡】詩人・西條八十と、その歌【歌謡曲】
h ttps://bubble4.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1154785781/



250 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 18:49
いちうた ― 君の住む街・市原は
h ttp://music1930.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-469a.html
2012年7月20日 (金)

影を慕いて

251 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/24(Sat) 22:43
当時のヒット曲「君恋し」道頓堀行進曲「浪速小唄」「女給の唄」などそうしたカフェーや女給、あるいはそれらに象徴される都会風俗を主題とした作品でした。また「唐人お吉」や「侍ニッポン」も映画化されてそれぞれヒットし、かなりのエピソードもありますがここでは省略します。

●古賀メロディの登場


昭和6年9月19日の勃発した満州事件。現在ではこの柳条溝(湖)爆破は関東軍によって計画され、特務機関付の今田準太郎大尉により実行されたことは明らかになっていますが、当時の人々はもちろんなにひとつ知らされていません。

武力を持って満蒙の生命線を守り、直接行動をもって国家改造を行わなければならないとする思想が、急速に台頭し、複雑な絡み合いが、外に対して満州事変を引き起こし、内にあっては二・二六事件への道となります。

この時期、この時代を見事にうつして急降下の世界に古賀政男が登場します。先に、古賀メロディーの特徴は書きましたからここでは省きます。
大ヒット曲「酒は泪か溜息か」がいかに当時もてはやされたかについては、この歌をテーマに松竹蒲田が「想ひ出多き女」という映画をつくったこと、この人気に便乗して「夢は泪か想ひ出か」と言う歌がつくられ、これに対して昭和9年4月14日に東京地裁が著作権侵害を認める判決をくだしていることなどからも察知されます。
この歌の大ヒットの余波は、まだ音楽学校在学中であった藤山一郎(本名増永丈夫)が、禁を破ってアルバイトをしたことが学校側に知れ、退学処分になるところを乗杉嘉寿校長の温情で、卒業までレコード吹き込みをしない旨の誓約書を入れて
一ヶ月の停学処分で済んだというエピソードもあります。

藤山一郎が池田憲一の語ったこととして「すでに吹き込んだレコードの曲目リストも一緒に提出させられたが、そのリストに入れておいた「影を慕ひて」は実はまだ吹き込んでおらず、翌7年早々に市政会館二階のスタジオであわてて吹き込んだそうです。なんでも「みぞれの降りしきるひどく寒い日でした」と述懐しています。

こうして古賀政男の属するコロムビアと、西条・中山晋平を擁する日本ビクターとはライバルとして激烈なヒット合戦を展開することになります。
この時期、単に歌手のみでなく、作詞、作曲家もレコード会社の専属となり、ヒット曲をつくる、と言う体制が強化され、同時に一つの歌に対する歌唱はひとりの歌手のみを原則とする形が、以来一般化してゆくのです。

古賀メロディの原点ともいわれる「影を慕ひて」は周知の通り、昭和3年、自ら創立した明大マンドリン・クラブの秋の演奏会(古賀政男にとっては在学最後の演奏会だった)に、佐藤千夜子が歌い、彼女の推輓により昭和6年ビクターから発売されたが、話題を呼ばず、7年に藤山一郎のものがコロムビアから発売されヒットした歌でありました。







252 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/24(Sat) 23:00
昭和歌謡曲の軌跡−やがて古賀メロディの擡頭
いわゆる忠治三部作=|「忠治旅日記−甲州殺陣編」「忠治旅日記−信州血笑編」「忠治旅日記−御用編」で伊藤太輔監督の下、国定忠治の落莫の人生を見事に演じた大河内伝次郎は一時新穀劇に戻っていたが、再び映画界に復帰し、そのカムバック第一作となった辻吉郎監督「沓掛時次郎」が封切られたのも、また昭和4年でした。


この映画の主題歌として、原作者長谷川伸が作詞、浅草オペラ全盛期の金竜館で楽長をつとめた奥山貞吉が作曲、川崎豊・曽我直子がデェユットして男女の掛け合い形式をつくったのが、後の股旅歌謡の先駆ともなったとされている「沓掛小唄」です。

当時の浜口内閣は金解禁を行って日本経済の立て直しを図る井上準之助蔵相の積極的経済政策を施策の二本柱とし、翌五年一月十一日金解禁を断行します。
ところがすでに、昭和4年24日には、後に魔の木曜日≠ニよばれるこの日、ニューヨークのウォール街を株式大暴落が襲い、アメリカのブームに終止符がうたれ、世界恐慌の荒波がわが国にも押し寄せてきていました。
二本は大打撃を受けますが、ここでその昭和恐慌については詳しく述べている余裕はありません。

このような政治不信、不景気等時代の風潮は退廃をもたらし、都会ではジャーナリズムがエロ・グロ・ナンセンス時代≠喧伝しました。

「エロチシズムとナンセンストと時事漫画風なユーモアとジャズ・ソングと女の足と−−」と川端康成が『浅草紅団』で模写した第二次カジノ・フォーリーでは、警視庁が「股下三寸未満、あるいは肉色のズロースを使用すべからず」他8条の通達を出すほどに派手な脚線美をみせてくれたし、「道徳は罪悪の認識から始まる」のキャッチフレーズで平凡社から『世界猟奇全集』12巻が刊行された。

マッチの図柄にもエロ・グロの衣装があふれ、また「一回五十銭、口に消毒ガーゼ」のキッス・ガールが横浜の公園で開業(?)、などという新聞報道もみられます。後に「円宿ホテル」とか「エロ風呂」とよばれた連れ込み旅館も郊外に出現したといいます。

演歌では、佐藤千夜子の「愛して頂戴」、二村貞一の「洒落男」、藤野豊子(四家文子)の「アラその瞬間よ」河原喜久恵の「ザッツ・オーケー」、曽我直子、川崎豊の「麗人の唄」、四谷文子の「わたしこの頃変なのよ」、淡谷のり子の「私此頃憂鬱よ」等々のナンセンス歌謡、あるいは「ネェ小唄」が流行しました。

またカフェーの全盛もこの時代相と無縁ではないのです。そうしたカフェや女級の、あるいはそれらに象徴される都会風俗を主題とした流行歌がぞくぞく誕生しました。「君恋し」「道頓堀行進曲」「浪花小唄」「女級の唄」などです。

満州事変が勃発したころ、(ここではでは詳しい歴史は省きますが)この時代を見事にうつして流行歌の世界に古賀政男が登場します。 

古賀メロディの特徴は、中山晋平が築いたヨナ抜き短音階を基調に独自のユリをくわえた点にあるといわれています。
本人の著書で『我が心の唄』を引用すれば「ジャズと都々逸。それは音楽的に図式的に表現すれば、一オクターブ七音と、五階の東洋的短音階との差であった。此の落差を埋めなければ、この世相を反映し、すべての人々に共感を得る曲は出来ないと私は思った。」ということです。

こうした古賀政男の『酒は泪か溜息か』(昭和6)藤山一郎の透き通った歌唱法で歌謡史に残るビッグヒットが生まれるわけです。



253 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/15(Sun) 22:11
古賀政男、「古賀メロディ」の功績は多方面に多大な影響を及ぼしているが、その最大のものの一つに
「藤山一郎」と言えば「古賀メロディ」・・大衆歌曲:歌謡曲の黎明にあたり、「藤山一郎」を、その重要な歌手として発掘し引き入れたこと。

その後、藤山一郎は昭和18年、スラバヤで抑留となり、戦後日本に帰ってくるのだが、その後、最初に報じた
NHKラジオとの関係を強めたが、藤山一郎(増永丈夫)を育成した古賀メロディの歴史の上に成り立っている。

何といっても、<藤山一郎と言えば「古賀メロディ」>、藤山一郎が「古賀メロディ」の最大の功労者としての存在であり、多くの歴史に残る名曲・古賀メロディを歌い、残していることを忘れてはならない。

藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男と藤山一郎との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。


254 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/16(Mon) 18:46

☆古賀メロディと藤山一郎

最近のテレビやラジオの歌番組には、どういう意味か知らないが、「名曲」と言う言葉が鴻毛の如く軽く飛び交っていて違和感を覚える。

NHKはじめ歌番組では、「昭和歌謡」というのは、今や昭和50年代あたりから始まる。
 
たまに特集があるが、残念ながら最近の歌い手には歌いこなせる人が皆無のようだ。


昭和の日本の歌謡作曲家として、まずトップにあげなければならないのは大御所たる「古賀政男」です。

昭和の初めから、これまで作曲家は数多い中で、古賀政男ほど長きに亘って、数多くのヒット曲を世に送り出した人はいないのです。

昭和の初めから、 [古賀メロディー]という愛称で、数多くの不朽の名曲を作曲した歌謡界の大御所であり、日本歌謡界の巨人です。

そして、それは佐藤惣之助、西條八十などの稀有な優れた詩人とともに、古賀政男の作曲家としてのデビューとしての藤山一郎、関種子などの優れたクラッシックの声楽家によって支えられたのでした。

古賀政男の数々の名曲は、藤山一郎の名唱によって私達の貴重な財産となっています。


藤山一郎(1911〜1993)は、慶應義塾普通部を経て昭和4年に東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽部)入学、昭和8年(1933)3月に卒業(主席)。


「キャンプ小唄」「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など今に残る名曲名唱は、昭和6年から7年にかけて、まだ上野の東京音楽学校在学中の、20歳の学生だった時の吹込み、この時古賀政男27歳、いずれも大ヒットとなる。

なお、藤山一郎は、昭和六年、《キャンプ小唄》で歌謡界にデビュー。藤山一郎としてはこれを含めて、アルバイト時代の1931年から1932年にかけておよそ40曲(うちコロンビアで30曲)を吹込んだという。いずれも藤山一郎の初期のコロムビアでの吹き込み(アルバイト)は80年以上前です。

80年前、昭和8年(1933)3月に卒業後、3年契約でビクター専属となった。

その後、昭和9年5月に古賀政男がテイチクに移り、藤山もビクターとの3年間の契約の切れた昭和11年(1936)にテイチクに移リ、「東京ラプソディ」(昭和11年7月)はじめテイチク黄金時代を築いた。

さらに昭和13年に古賀政男がテイチクからコロンビア移った後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山は昭和14年にコロムビアに移った。

なお、藤山一郎のコロムビア復帰第1回吹込は昭和14年9月で、「上海夜曲 」(野村俊夫作詞 仁木他喜雄作編曲)です。

何でも「名曲?」の今、「古賀メロディ」・・その優れた詩人や作曲家の心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが秘められた本当の名曲は、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。

デビュ−以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ-」の不朽の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・藤山一郎の代表的な曲を次にあげる。




255 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/16(Mon) 19:00
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ-)

藤山一郎と言えば「古賀メロディー」、「古賀メロディー」最大の功労者である。

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月 井上静雄名
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)   1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊     (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)       1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝)  1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

(戦後)
嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌  (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952




256 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/16(Mon) 22:11
戦前は、貧しい時代ではあったが、軍国主義を除けば情緒があったようです。日本の天才的な数学者の岡潔さんもそう言っています。「戦前は軍国主義を除けば、良い時代であった」と。


昔の歌い手は歌うことに専念されていました。それが職業歌手の姿でした。尊敬し、歌を拝聴させて頂いております。

257 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/17(Tue) 20:30
>>255-256

こう見て行くと、「古賀メロディ」とは、青春歌謡。戦後「青春歌謡」というのがはやったが、「古賀メロディ」は、今存在する歌のほとんどがまだ存在しなかった時代、元祖浅春歌謡といえる。

まだまずしさの真っただ中の時代、戦争に明け暮れた時代、それでも軍歌・軍国歌謡にながれるのではなく、青春の息吹(いぶき)、青春の苦悩を底辺に、佐藤惣之助など第一級の詩人の簡潔にして、奥深い言葉、
第一級の作曲家の、第一級の歌手による高らかな青春の息吹。昔の人は幸せ!!、

258 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2022/12/31(Sat) 23:08
自分が最近こっそり観ているカラオケ職人さんの動画
「キャンプ小唄」「スキーの唄」「東京ラプソディ」「夜の湖」「鳩笛を吹く女の唄」などある。
リンクを書けないのでユーチューブでSongCat Hiroで検索すると出てくる。

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