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ラジオ放送について

50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 17:13
>>44-47,>>49


h ttp://electronic-journal.seesaa.net/article/23976803.html
情感あふれる古関裕而の軍歌(EJ830号)2002年03月29日 コメント2011年08月20日 15:03
>古関が、クラシックの作曲から離れた理由に、実家が経済的に破綻して、一族を養わなくてはならず、次第にクラッシックから離れざるをえなくなった・・ともいわれている。

クラシック志望で山田耕作の推薦で待望のコロムビア専属作曲家になったのだが、入社後燃え尽きてしまったのでしょうか。

ものごとは最初が肝心といわれるが、どうしたのか、彼は最初から長い空白を作ってしまったのです。・・

このあたりが本当の古関裕而を知る上、重要かもしれません!。



・・実は、明大マンドリンクラブ出身で、当時のコロムビアの内情について詳しい、多くの著述もある先生の最初のHPに、重要な記述があって、これによると、重大な史実が隠れていて、多くはこれがパスされているようなのだ。

古関は、参考書で勉強した山田耕筰に英国留学をしたい旨相談したのだが、山田はそれほど評価しているわけではなく、現状ではあなたの力では、このクラッシック交響楽の世界で生きていくのは難しい、と
今流にいえば、ダメだしされてしまったということです。

なお、古関が留学したかったのはドイツでなく、この英国です。ドイツ留学したのは山田耕筰です。

本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。

しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。

 また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。

[燃え尽き症候群]になってしまったのか、「イギリス留学」断念となった若き古関祐而はレコード歌謡作曲家として山田の推薦という形で昭和5年にコロムビア専属になる、・・はずだったが、放っておかれ夫婦で悶悶とした日々を送る。

こうして、昭和6年(1931)10月正式にコロムビア専属の辞令を受けるのだが、ヒット曲が出ず悶悶とした日々を送ることになるのです。



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