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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




591 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/05(Fri) 10:24
戦後10年、昭和31年(1961)3月に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。

ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。 ・・



「9月18日未明、満州事変勃発。」

「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
 毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)



昭和になっても、日本では東北地方は冷害凶作に見舞われ飢饉が続いた。そして、娘の身売りが行われた。
・山下文男著「昭和東北大凶作」
 h ttp://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/febe175a3b63de2e0f8365fbfc9bc6bb
 h ttp://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html

・娘ことごとく売られし村
 h ttp://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ab0d.html


直接の原因は当時東北地方を襲った凶作です。しかしそれと共に、1929年(昭和4年)ニューヨークのウォール街に端を発した、世界恐慌のあおりを受けた「昭和恐慌」の影響も見過ごすことはできません。当時もアメリカ輸出依存だった我が国は、それによって米国への輸出品だった東北産の生糸(きいと)の値段が三分の一にまで落ち込み、また米価も半値以下にまで暴落したからです。
 その結果、当時は(自己所有の田畑を持たない)小作農が多かったわけですが、それによって地主への重い小作料が払えなくなった貧農が東北各村で急増したのです。

 それに、冷害による「昭和大凶作」が追い討ちをかけました。しかも冷害は一度ならず、昭和6年、7年、9年、10年と続けて発生しました。宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」の中の、「サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はオロオロ歩き)」は昭和6年冷害を叙述したものです。昭和6年と同9年の冷害が特に深刻で、両年の米の収穫高は、例年の半分以下だったといわれています。
 昭和6年の大凶作で、例えば青森県では借金を抱える農家が続出し、やむを得ない口減らしの手段として「芸娼妓(げいしょうぎ)」として売られた少女は、県累計7,083人にも上ったといいます(そのうち一部は町場の娘も)。当時山形県内のある女子児童は、「お母さんとお父さんは毎晩どうして暮らそうかと言っております。私がとこ(寝床)に入るとそのことばかり心配で眠れないのです」と作文で述べたそうです。

 上に見られるとおり、東北の娘たちは東京の遊郭に売られていくケースが圧倒的でした。そもそも「娘売り」は、江戸時代から女衒(ぜげん)の手によって行われていましたが、明治以降戦前まで継続されました。

 

592 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/06(Sat) 09:39
坪井栄の小説「二十四の瞳」は、昭和27年〈1952)に発表、29年に映画化された。
1928年(昭和3年)から1946年(昭和21年)まで、すなわち、昭和の戦前期、終戦、その翌年まで、18年間が描かれている。
日本がまだ貧しかった時代である。またそれはレコード歌謡の黄金時代、日本の映画黄金時代ともかさなる。
当時の時代背景を知るうえで非常に貴重で参考となる。

昭和3年〈1928)には。日本におけるレコード歌謡の初めたる「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が生まれた。
また「影を慕いて」はこの昭和3年に作られたものである。

593 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/06(Sat) 09:42
昔は人の人生はわずか12歳で決まってしまった。

「教育の機会均等」が保障が曲がりなりにも保証されるのは新憲法下の、昭和24年の「学制改革」を待たねばならなかった。

昔はどんなに優秀でも、勉強したくても貧しさゆえに「奉公」に出されたりした。

大学につながる中学校に行かせてもらえるものはごくごく一部の恵まれた家庭の子弟に過ぎなかったのだ。

昔、日本は農業国だった。

そして「小作制度」というのがあって、「農地改革」まで農地をかりる小作は地主の農地を耕すのだが、
多くは貧しく、農家なのに学校に弁当も持っていけない貧農の子はたくさんいたことだろう。

坪井栄の【二十四の瞳】には、小学校卒業を待たずに「奉公」に出される子供たちが描かれている。

高等小学校(二年制)に進むのがせいぜいだったことだろう。


594 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/08(Mon) 21:22
>>590-593

「古賀メロディ」の時代はどんな時代だったか,
90年近く前の昭和の初め、日本がまだ貧しかった時代、昭和6年の世相を表す小さな記事が
あるので参考にしめす。
農家なのに学校に弁当を持っていけなくていじめられる子供たち・・・



昭和6年(1931).1.13〔高等小学校2年生がイジメ復讐殺人〕

熊本県上益城郡の路上で、高等小学校2年生(15)が同級生(16)の顔や頭を肥後守でめった刺しにして殺害、もう1人の同級生(15)の脇腹を刺して重傷を負わせた。貧しい農家のため弁当を持ってこれないことをからかわれ、呼び出して謝るように迫ったがまたからかわれたためカッとしたもの。幼い兄弟5人の世話や畑仕事もやって両親を助けていた。

注)年齢は数え、15歳とは満13歳何か月。昔は人の人生は12歳で決まってしまった、くいっぷちを稼ぐため貧しさ故に、小学校を出ると奉公に出されたりした。高等小学校に行かせてもらえるものさえわずかだった。
  坪井栄の小説「二十四の瞳」は昭和3年から戦後早々までが描かれているが、小学校卒業を待たずに奉公に出される子供たちが出が描かれている。
  昔はどんなに優秀でも勉強したくても中学に進めるのはごく一部に過ぎなかった。
  教育の機会均等が図られるのは戦後の学制改革を待たねばならなかった。


595 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/14(Wed) 10:19
『名曲』って!?・・消えてほしい最近の歌 (音楽BBS)
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=347425366&ls=50


懐かしの銀座を歌った歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=510311914&ls=50

名前を名にした歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=513078845&ls=50

596 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/09(Fri) 18:20
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


597 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/10(Sat) 09:57

  ■■NHKTV 「日本の名曲10曲」■■ 


「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925



598 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/10(Sat) 10:22
>>597

NHK「日本の名曲10曲」


かって平成の初め頃、NHKTVで、「日本の名曲10曲」(歌謡曲の名曲で無く)の一つとして、「影を慕いて」(古賀政男作詞・作曲)が1年間ずっと流されていました。

「荒城の月」「波浮の港」「影を慕いて」・・など日本の名曲10曲が「日本の名曲10」として、毎夜8時の番組の後の時間を使って1週間ずつ、交代で1年間ずっと流され続けました。

毎週、夜8時の大河ドラマのあとの空き時間を使って、1年間順番に流し続けたものですが、平成何年だったか記録が分かりません。

ご存知の方いらしたら教えてください。


599 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/12(Mon) 08:43
今何でもかんでも「名曲」になっている。まあほとんど最近の歌だが、糞曲も含めてなんでもかんでもだ、なんでも名曲とは、なんでも名曲でないということでもあるのだが、違和感を覚える。

また、「日本の名曲」と言ったら明治以降、戦後ではない。
「日本の名曲100」とか、色々出ているが、投票によるものだから、
名曲というより参加した人の自分の知ってる歌の投票にならざるを得ない。

名作童謡なども入ってはいるが、「上を向いて歩こう」だとか「いつでも夢を」とか戦後の歌、最近の歌が中心、
石も大部分の玉石混交は否めない。 このあたりからおかしくなってきている。

600 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/24(Sat) 08:27
> 日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
> @10cH 歴史BBS
> http://www.10ch.tv/
>
> 主なスレ
>
> ☆影を慕いて
> ☆古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)
> ☆日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
> ☆西條八十は
> ☆詩人・佐藤惣之助は
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> ☆古賀政男アメリカへ
> ☆古関祐而と古賀政男
> ☆初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
> ☆西岡水朗と初期古賀メロディ
> 《SP歌謡・回顧と展望》古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
> 李香蘭と古賀メロディ
> ☆古賀メロディと霧島昇
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> ☆「荒城の月」について
> ☆三浦環と古賀政男
> ☆西條八十と古賀政男
> ☆古賀政男 二つの「思い出の記」
> ☆昭和戦前の作曲家
> ☆昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)
> ☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
> ☆「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・
> ☆関 種子と「古賀メロディ」
> ☆古賀メロディと藤山一郎
> ☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
> ☆テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ
> ☆テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫
> ☆楠木繁夫の代表曲
> ☆古賀メロディと霧島昇
> ☆関 種子と「古賀メロディ」 2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手
> ☆「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」
> ☆佐藤千夜子と古賀政男
> ☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
> ☆詩人・サトウハチローと古賀メロディ
> ☆サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
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> ☆佐藤惣之助没後70年
> ☆佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
> ☆「古賀政男音楽博物館」
> ☆古賀メロディの戦後
> ◇戦後の主な古賀メロディ・・
> ☆萩原朔太郎と古賀メロディ
> ☆西岡水朗と初期古賀メロディ
> ☆ 名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
> ☆詩人・佐藤惣之助
> ☆古賀メロディ、その隠れた名曲!・・沖縄民謡となった《二見情話》など
> ☆古賀政男編曲作品
> ☆二見情話(HUTAMI JOOWA) 沖縄民謡
> ☆古賀メロディを支えた主な名歌手たち
> ☆ <「古賀政男」のドラマ>
> ☆「古賀メロディ」と、その秘密
> ☆古賀メロデー」とは
> ☆ 藤山一郎と増永丈夫
> ☆「古賀政男と「荒城の月」 2  ・・・李香蘭と[荒城の月]
> ☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
> ☆古賀政男生誕100年記念CD
> ☆ 嘆きの夜曲 関種子.wmv
> ☆SPレコード歌謡とSPレコード
> ☆[古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
> ☆古賀メロディとその時代
> ☆新妻鏡
> ☆ 松平晃 サーカスの唄
> ☆ ビクター専属藤山一郎への対抗

601 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/27(Tue) 07:43
山田耕作と古賀政男 −  農村婦人の唄 昭和7年コロムビア

農村婦人の唄 ポスター 
☆山田耕筰・古賀政男作曲■コロムビアレコード  山田耕筰と古賀政男が作曲。富民協会当選歌とある。


山田耕筰は、外国に行くときは、古賀メロディ『丘を越えて』のレコードを持参し「日本の代表的な歌」として紹介していた。


専属1年、ヒットに続くヒットで、コロムビアの顔となった古賀政男は、 昭和7年12月6日,コロムビア文芸部長和田龍雄の仲立ち、おなじくコロムビアの山田耕筰夫妻の陪酌で丸の内の東京會舘で挙式、28歳の時である。
昭和7年6月には、山田耕筰と古賀政男が作曲の富民協会当選歌「農村婦人の唄」がある。

農村婦人の唄 オリオンコール女声合唱団 桑田登志子 山田耕筰 0709 COL27067 黒盤2833
農村婦人の唄 淡谷のり子 北部善良 古賀政男 0710 COL27067 黒盤2834


? 農村婦人の唄(淡谷のり子)
昭和07年(1932年) COLUMBIA 富民協会当選歌
作詞:北郷善良
作曲:古賀政男
編曲:奥山貞吉
歌唱:淡谷のり子
伴奏:コロムビア オーケストラ
27067-B(36656)

農村婦人の唄(オリオンコール女聲合唱団)
昭和07年(1932年) COLUMBIA 富民協会当選歌
作詞:桑田登志子
作曲:山田耕筰
編曲:二木他喜雄
合唱:オリオンコール女聲合唱団
伴奏:コロムビア オーケストラ
27067-A(36655)



■農村婦人の唄 ポスター■

《コロムビアレコード 農村婦人の歌ポスター》には次のように紹介している。

農村婦人の唄 (富民協会当選歌)
山田耕作 曲 (歌唱オリオンコール) ー 古賀政男 曲 (歌唱淡谷のり子)

歌詞の一節・・

光は農村婦人より
信念高くかざすとき
昇る朝日のあかあかと
意気に燃え立つわれらかな
(レコード番号 二七〇六七)



602 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/01(Sun) 21:26
古賀政男音楽博物館 企画展示情報 

古賀政男没後40年 日本大衆音楽史【特別編】古賀政男の昭和史

平成30年4月1日(日)〜7月31日(火)


古賀政男没後40年 日本大衆音楽史【特別編】古賀政男の昭和史

「歌は世につれ、世は歌につれ」とはよくいわれる言葉です。歌は世相を映す鏡といえるのではないでしょうか。遠く明治・大正・昭和の時代から現在に至るまで、多くの流行歌や歌謡曲などが時代とともに生まれ、そして時代の移り変わりとともに消えて行きました。心に残るあの歌やこの歌が流行した当時、日本はどのような時代だったのでしょうか。
今回は、平成30年に没後40年を迎える作曲家 古賀政男の作品と生涯を、日本の昭和史とともに追って行きたいと思います。



「影を慕いて」

「湯の町エレジー」

古賀政男没後40年 日本大衆音楽史【特別編】古賀政男の昭和史

603 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/09(Mon) 22:20
昭和の流行歌掲示板
h ttp://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=haidakatsuhiko&dd=37&re=231&qu=1

604 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/18(Wed) 22:28
昭和の世相史

昭和5 1930 金本位制復帰するも、昭和恐慌。輸出激減、金の海外流出。大豊作で米価暴落。電気洗濯機登場。         九鬼周造「“いき”の構造」。ダイハツ三輪自動車発売。歌「祇園小唄」「すみれの花咲く頃」。         DHローレンス・金子みすゞ・内村鑑三・田山花袋・豊田佐吉・浅野総一郎・秋山好古没。         ロンドン海軍軍縮会議。 満州事変と政党政治への軍部テロ

昭和6 1931 金輸出再禁止。失業者300万人。羽田飛行場設置。東北・北海道大凶作、娘身売り。         満州事変−柳条湖事件、満鉄爆破。錦州爆撃。溥儀擁立。         ブリジストン創業。三菱石油株式会社設立。「のらくろ」「黄金バット」 。歌「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」。         JHミード・浜口雄幸・Tエジソン没。

昭和7 1932 上海事変。長春にて満州国建国。五・一五事件、犬養首相射殺。桜田門事件。白木屋火事。         東京宝塚劇場設立。チャップリン来日。玉錦横綱に。         雑誌「唯物論研究」創刊。歌「影を慕いて」「銀座の柳」「天国に結ぶ恋」「涙の渡り鳥」 。         梶井基次郎没。  ドイツ、ナチス第一党に。

昭和8 1933 対日満州撤退勧告で国際連盟脱退。思想統制強化−滝川事件。三陸大地震。         阪神マート(阪神百貨店)開業。自動車製造(日産自動車)創業。         歌「サーカスの歌」「東京音頭」「影を慕いて」 。         堺利彦・宮沢賢治・新渡戸稲造・片山潜没。         ヒトラー首相就任。Fルーズベルト大統領に。ニューディール政策。         政府保護下に急発展する産業界−日鉄誕生と伸びる繊維輸出

605 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/22(Sun) 15:54

酒は涙か溜息か(高橋掬太郎作詞 古賀政男作曲)

昭和6年9月、満州事変の勃発と東北大凶作、不安な歴史の背景の中で生まれた昭和の歴史に残る出来事である。
これが洋楽の形式をもった、「晋平節」中山晋平の時代から「古賀政男」の時代へ、これをもって本格的昭和SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。
この型破りの二行詩の「酒は涙か溜息か」の発表で、
「古賀メロディー」の時代を決定ずけた、同時に歌手「藤山一郎」を誕生させた記念碑となる曲である。
人々は、主流だった【晋平“節”】に対し、【古賀“メロディ”】と呼んだ、ここにメロディを大切にした「古賀メロディ」が確立した。

「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・こうした優しい、あの前奏・間奏?後奏がそれぞえ独立した一曲にも値するような、音のキャンバスいっぱいにつかったような、これまでにない新鮮でしかも哀調を帯びた「古賀メロディ」の登場、「酒は涙か溜息か」と「古賀メロディ」の登場・・それは昭和の歴史上で、社会的、歴史的にも大きな出来事だった。

(最近、なんでも作曲家の後ろにメロディ−をつけてしまうが、「古賀メロディ」とは、主流だった【晋平“節”】に対する、戦後に至る唯一のトップブランドとしての「称号」。後ろにそれ、「メロディ−」をつけるのは、「古賀メロディー」一つのみ。)

戦後10年、昭和31年(1961)3月に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と東北大凶作での娘身売り相談所の写真、世相、それに「古賀メロデー」登場を、こう伝えている ・・
「9月18日未明、満州事変勃発。」・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
 毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)
なお、宮沢賢治の「雨にも負けず・・」、あれは昭和6年の冷害を歌ったもの。亡くなってから手帳の中に発見されたもの、星野さんのCMでは最初の部分だけで、詩には先がある。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

(参考)
・毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)
・「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
  人物クローズアップ 古賀政男、「酒は涙か溜息か」大ヒット


606 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/22(Sun) 15:56
(参考)

・毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)
・「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
  人物クローズアップ 古賀政男、「酒は涙か溜息か」大ヒット
  銀座で東北の惨状を訴える学生たち


607 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/22(Sun) 16:07
日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。
古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
また、佐藤惣之助、西條八十など詩人と詩を大切にし、多くの名歌手を傍に育て、映画ともタイアップしたことで知られます。

昭和一桁代、その新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽でもある。
人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。

古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」といって、詩を大切にした人。曲作りに人並み外れて熱い想いをかけていた。古賀政男が作曲の醍醐味を知るのは、詩人・佐藤惣之助との出会いであったと自伝にある。

古賀政男ほど多くの詩人との結びつきの深い者も知らない。
『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・、古賀メロディーは、佐藤惣之助〈1932〜〉、西條八十(1933〜)、サトウハチロー〈1935〜〉など、詩人との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。


『古賀メロディー』、『男の純情』『東京ラプソディ』『人生の並木路』『春よいずこ』『サヨンの鐘』・・など、その数え切れないほど沢山あるヒット曲の殆どを占める多くの映画音楽。

そのそれぞれに、当代随一の詩人の、心を込めた短い詞(詩)の一つ一つを大切に、曲が出来るまでの、半端じゃない思い入れ・格闘の跡が伺える楽譜である。





608 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/22(Sun) 16:18
信州、中野出身の中山晋平は、東京中野に居を構えていた。(現在、熱海梅園にある中山晋平記念館はこれをそのまま移築したもの。
昭和10年に建てられた中山晋平の熱海、西山町の別荘を移転した中山晋平記念館〔熱海〕、その2階に上る階段や手すりに使用されている木材には多くの節(ふし)があります。
中山晋平は自分の音楽の「節」(「晋平節」)にちなんで、このような木材で建築するよう依頼したのだ。

大正から昭和の初めにかけて活躍した晋平の目指したもの、晋平のすごいところ、偉大なところ、それは自らがクラッシックの作曲家として栄誉を勝ち取ることではなく、【誰でも歌える歌ずくり】だった。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

当時、まだラジオもレコード歌謡もなく、誰でも歌える歌がなかったのだ。

大正10年(1921)に作曲した「船頭小唄」(野口雨情作詞)。これが大ヒットして日本の歌謡曲の基本的な型となり,
その後の「東京音頭」「東京行進曲」など一連の歌謡曲も含めて,「晋平節」といわれ自らそう評していた。

この時、別荘を建てた時、作曲に使うピアノも一緒に送ってしまったのだ。

「古賀メロディ」が怒涛の如く大衆の中に受け入れられていく中で、昭和8年の「東京音頭」、9年の童謡「皇太子様お生まれなった」(北原白秋作詞)を最後に、晋平は戦後までほぼ虚ろな毎日を送る。

中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千代子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

その後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、ビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。

以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。


昭和27年12月2日、野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした、その28日後、今から61年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは一貫して《誰でも歌える歌ずくり》でした。

信州中野に一度帰った時、母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。



609 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/22(Sun) 16:34
中山晋平は、「宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)」に、
萩原朔太郎などとともに序文を寄せて、古賀政男の芸術を「感傷性と平易(大衆性)」と特徴づけ高く評価。



610 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/22(Sun) 16:47
訂正
(現在、熱海梅園にある中山晋平記念館は、昭和10年、西山町に建築した別荘をそのまま移築したもの。)

611 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/23(Mon) 15:48
☆「酒は涙か溜息か」・・「古賀メロディ」の確立

この「酒は涙か溜息か」で、「古賀メロディー」の時代を決定ずけ、SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

なお、晋平は後年「宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』(昭和13年11月)」に萩原朔太郎などとともに序文を寄せていて、古賀政男の芸術を「感傷性と平易(大衆)」と特徴づけ高く評価。

中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千代子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

しかしその後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、古賀政男の登場でビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

大正期には、唱歌調、新民謡調を脱しきれなかった日本の大衆歌謡が、[古賀メロディ]の時代を迎えて初めて歌謡曲(歌謡歌曲)として確立されたと言える。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。

上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 東京 早川書房  昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭 7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は音楽評論家、ビクター文芸部長、ディレクタ-を歴任。

昭和10年には熱海、西山町に別荘を建て、ピアノ も送ってしまいます。晋平の後のビクタ―の顔は佐々木俊一に、以後はほとんど作曲はしていない。

西條八十はビクタ―に談判、昭和8年の1年間、社を越えてコロムビアの古賀政男との提携を勝ち取った、「サーカスの歌」など、その後もたくさんの名曲を送り出すことになる「西條八十・古賀政男」黄金コンビがこの時確立。

昭和14年にはその西條八十もビクターからコロムビアへ。西條八十の代わりは、弟子の佐伯孝夫。
[西條八十・古賀政男] 、コロムビアにおけるこの昭和歌謡史に燦然と輝く偉大なトップブランド、黄金コンビは戦後に至るまで、昭和45年、八十が亡くなるまで続いた。

晋平は大御所としての役割に移り、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会長」等の要職を歴任します。

(参考)
・毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)

・「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
人物クローズアップ 古賀政男、「酒は涙か溜息か」大ヒット
銀座で東北の惨状を訴える学生たち

・畑守人編著『晋平節考 うるわしき調べ』(北信ローカル社 1987)

・上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 早川書房 ハヤカワライブラリー 昭40 (1965)  




612 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/29(Sun) 19:57
□詩人・佐藤惣之助 没後76年□


太平洋戦争開戦から5ヶ月ほどたった76年前の昭和17年(1942)の5月15日、西條八十と並ぶ、古賀メロディを支えたもうひとりの詩人佐藤惣之助(51歳)が外出先の馬込(東京大田区 馬込文士村)で脳溢血を起こして倒れ亡くなりました。

佐藤惣之助は昭和12年に現在の大田区馬込にある「文士村」から雪谷に引っ越していたのだが、2日前、義兄の萩原朔太郎の告別式の葬儀委員長をやったばかりでした。

義兄・萩原朔太郎(1886〜1942)は昭和17年5月11日肺炎で死去55歳、13日に自宅で告別式。その4日後、惣之助は過労から脳溢血で倒れ、51歳の若さであっけなくこの世を去った。 相次いでこの二人の詩人はこの世を去った。

惣之助最後の作品は、昭和17年4月のNHK国民合唱「働く力」(国民皆労の歌)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、酒井弘歌)です。

没後76年、もうすぐ命日ですが、惜しまれてならない詩人です。




613 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/29(Sun) 20:01
小田急線の代々木上原駅から3つ目「世田谷代田駅」を出て、 南へすこし歩いたところにある、一本の鉄塔。 この鉄塔の下には、詩人の萩原朔太郎が、1933年(昭和8 年)から、 1942年(昭和17年)に亡くなるまで住んでいた。ここ代田1丁目42に、
「代田の丘61号鉄塔由来碑」(萩原朔太郎文学顕彰碑) が立っている。

現在、井之頭通りに面したその一帯はJASRACの建物を含め、「古賀政男音楽文化振興財団」の所有管理にある「古賀政男音楽博物館」になっている、井之頭通りも拡幅され当時のうっそうとした面影はない。代々木上原駅前の3000坪の古賀政男邸、古賀政男自伝「我が心の歌」には、この古賀邸に萩原朔太郎、惣之助さんが集まって三人でよく詩の談義をしたとあり、朔太郎の娘・萩原葉子の「父・萩原朔太郎」にも同じ記述がある。馬込の文士村に住んでいた詩人・佐藤惣之助、佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎、二人は惣之助の主宰する「詩の家」の同人でもある。この三人は詩を通して日常的に親密な関係を持っていた。
もともと「純粋詩」というジャンルにいた詩人・佐藤惣之助がいわゆる歌謡曲を手がけたのは、なお、昭和5年、コロムビアから「吉見紫香」の名前で、「ふるさと」(松村まこと作曲)がある。
昭和7年の、映画「金色夜叉」で関種子が歌った「金色夜叉(お宮の唄) 」(古賀政男作曲)、「鳩笛を吹く女の唄」1932.2 井上静雄(藤山一郎)、「アリランの唄」(朝鮮民謡) 1932. (淡谷のり子、長谷川一郎)、「朝顔の唄」1932.6(関種子)、「笛は冴ゆれど」1932.7(関種子)、「秘めたる恋」        1932.3 (関種子)、「愛は紅い」1932.9(関種子) などが初期の本格古賀政男との本格的作品。・・

その後も古賀政男とコンビで、「人生の並木路」「青い背広で」「青春日記」「男の純情」「緑の地平線」「白い椿の唄」「青い背広で」「白衣の佳人」「東京娘」「慈悲心鳥」「愛の小窓」「人生劇場」その他沢山の名曲を送り出した事で知られる、佐藤惣之助の名詞は古賀政男の曲と出あうことによって、いつの時代にも、それぞれの聴く人の人生に重ねあわせることができる、時代を超えるすばらしい名曲となったということでしょう。     

これまでの流行歌が、どちらかというと抑揚の少ない平板に感じられるようなこれまでの歌が、「古賀メロディ」の出現によって、表情豊かで心の襞に滲みわたるあたらしい歌の形ができていくのだが、それを決定的にしたのが古賀政男とのコンビで数多くの名曲を世に送り出した事で知られる詩人・佐藤惣之助だろう。

古賀政男の自伝には、私が本格的に作曲に全身全霊を傾けるようになったのは惣之助さんと出会ってからだったということが書かれている。 惜しまれてならない詩人である。

川崎出身の詩人・佐藤惣之助は、大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。
惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出した。また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導養成にあたった事で知られる。

詩人・佐藤惣之助は1916年、最初の詩集である『正義の兜』を出版。翌年には、第2詩集である『狂へる歌』を出版している。
「詩魔に憑かれた魔性の人」(朔太郎)と評された。

惣之助は、1911年川田花枝と結婚。 その後、昭和8年(1933)1月に夫人花枝と死別、同年8月萩原朔太郎の妹周子と再婚。

さらに俳句や歌謡、小説、随筆にもすぐれた業績を残したほか、釣や義太夫、演劇、民謡研究、郷土研究、沖縄風物の紹介など多方面で活躍した。釣りに関する書物も多数残している。
大正の末から昭和の初めにかけての佐藤惣之助の主な活動は、八木重吉など70余名の同人・門下生を抱える、「詩の家」を主宰することだった。そして天真闊達な、くったくのない人柄で世話役をつとめていた。

・上村直己「西条八十・佐藤惣之助における詩から歌謡への移行について」( 日本歌謡学会. 日本歌謡研究(通号 18) 1979.04))(ISSN―0387-3218)
・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫
・流行歌曲について  萩原朔太郎
 (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)
・「大手拓次/佐藤惣之助」新学社2006
・「佐藤惣之助全集. 第1巻(詩集 上)〜第3巻」日本図書センター2006
・「日本の詩歌13」中央公論社1975(中公文庫)
・藤田三郎著「佐藤惣之助 詩とその展開」木菟書館1983
(佐藤惣之助研究・主要参考文献,年譜:p408〜438)




614 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/29(Sun) 20:07
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110


615 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/05/01(Tue) 12:41
参考

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
☆日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50
☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50
☆【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50




616 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/05/23(Wed) 22:46
昭和53年、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」、そこには佐藤千夜子が、作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀政男(正夫)、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に激動の時代を駆け抜けてゆく姿が描かれている。


子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、伝道師のミス・キルバン (Miss Kirwan) と出会う。天童小学校高等科卒業後、英語の勉強をするため、キルバンに連れられて上京。 ミッション系である普連土女学校(現:普連土学園、フレンド学園)に入学。在学中にオペラを鑑賞し、強い感銘を受けたことで音楽を志す。

大正9年(1920)、東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に入学。ここで、作曲家の山田耕筰、中山晋平らと運命の出会いを果たす。

日本最初のパイプオルガンを備え東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)の社交場になっていた「本郷中央会堂」(本郷中央教会)。

ここに、オルガニスト、聖歌隊長としてエドワード・ガントレット(Edward. Gauntlett)が迎えられます。後に、山田耕筰の義兄となる人です。

クリスチャン同士である佐藤千夜子と山田耕作。中山晋平を伴って山田耕筰は「本郷中央会堂」で、讃美歌を歌う佐藤に中山晋平を紹介します。

大正から昭和の初めにかけて、中山晋平の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子と中山晋平の出会いです。
「全国歌の旅」と言って全国行脚しています、まだラジオも新幹線も無かった時代です。


作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀政男(正夫)、藤原義江、・・
こうした芸術家たちは、その音楽にかけた熱き想いでつながっているのです。

レコード歌手の先駆け、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の最大の功績は「古賀政男」という新しい才能を発見し,「古賀メロディ」という新しい「大衆歌謡」に繋げたことでしょう。









617 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/02(Sat) 07:51
☆「幻の古賀作品」・[二世行進曲] (有松由子・板野雪人 メルカ管弦楽団)  (参考)
「二世行進曲」は、戦前に「外務省音楽文化親善使節」として渡米した古賀政男が日系市民協会からの依頼で作曲したもの。

歌詞は一般公募されたが、適当なものがなく、古賀自身が書いた。

曲の一部には「大洋の寵児」(1936佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲 藤山一郎歌)が使われている。

[古賀メロディ誕生70周年記念 古賀政男大全集〜20世紀の遺産〜] 16CD (1998/7/18コロムビア)にのっている。

メルカ・レコードは当時にLAに存在した日系のレコード会社、古賀が渡米したのは1938年。レコード発売は翌年の1939年である。
真珠湾攻撃の二年前に録音販売されたにもかかわらず、現地では広く歌われた。
「二世行進曲」は米国でのみ販売された「幻の古賀作品」。


『二世行進曲』(古賀政男作詞/作編曲 1939) 伴奏:メルカ管弦楽団、独唱:有松由子、板野雪人

歌詞:祖国を沓か(はるか) 海濤(うみ)越えて
こゝアメリカの 大陸に
正義と愛国に奮い起つ



618 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/13(Wed) 22:59
人生劇場・・ 馬込文士村
『人生劇場』は、早稲田大学出身の尾崎士郎の自伝的大河小説。愛知県吉良町(現・西尾市)から上京し、早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春とその後を描いた長編シリーズ。

佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲の「人生劇場」は、楠木繁夫の歌として昭和13年(1938)年に発表された。もともとは尾崎士郎の大河小説「人生劇場」(残侠編)が原作で、戦前戦後合わせて十数本も映画化されていて、この歌も1938年の「人生劇場 残侠篇」の主題歌でもった。

この歌は戦後、村田英雄がリバイバルでヒット。楠木繁夫がこの歌をスマートに歌っていますが、後に
作曲者古賀政男は、自叙伝に、

『「人生劇場」は、戦前、楠木繁夫君が歌ってヒットしたが、やはり”背広を着た吉良常”だった。村田君の「人生劇場」は妙に大衆におもねたりせずに、村田君の個性とオリジナリティを前面に出したことが成功したと思う。・・・”古賀メロディ”の硬派の部分を支えてくれたわけだ。』
と書いています。

「人生劇場」は早稲田大学が舞台になっていて、早稲田第二校歌となっている。また、角さんこと田中角栄総理大臣がこよなく愛した歌。。。
 
愛知県の三州吉良港の落ちぶれた旧家に生まれた主人公、青成瓢吉は政治家になる夢を抱いて早稲田大学に入学し、学生運動に参加したり恋愛をしたりするが、それらに挫折する。父・瓢太郎の自殺による苦しみを乗り越えた瓢吉は作家を目指し、文壇デビューを果たす。やがて日本が戦争時代に突入すると従軍作家となる…。

 小説「人生劇場」は尾崎士郎の中学生時代から始まる自伝的小説で、年代でいえば大正から昭和の戦争直後まで、延々と書き続けられた作品です。その中で「青春篇」と「残侠編」が映画化され、そのなかでも圧倒的な人気となったのが「残侠編」で、この部分は尾崎士郎の創作だということです。

「馬込文士村」の中心人物とされる尾ア士郎、尾崎士郎は明治三十一年(一八九八年)生まれ。荒畑寒村や大杉栄らの影響を受け、早稲田大学政治経済科に学ぶが、学長問題と学制改革に端を発した学内騒動のリーダー格と目されて中退する。

「馬込文士村の住人」・・尾先士郎と佐藤惣之助
 JR「大森駅」前の高台に位置する山王・馬込の地に、大正末から昭和初期を中心とした時期、多くの文士や芸術家たちが住み、いつしか『馬込文士村』と呼ばれるようになった。

現在ここに『馬込文士村』が残っている、いる人だけでも43人。 ・石坂洋次郎 宇野千代 尾崎士郎 川端康成、川端龍子 北原白秋 小島政二郎 佐藤惣之助、萩原朔太郎 室生犀星 ---まだまだおります 

太平洋戦争開戦5ケ月後の昭和17年5月、ここの住人、二人の詩人萩原朔太郎、佐藤惣之助は相次いで病死、あっけくこの世を去った。

ここに尾崎士郎が住んでいて、その住居後が「尾崎士郎記念館」でその庭に「人生劇場」文学碑がある。。

 昭和8年新聞に連載始め、
尾崎士郎の自伝的大河小説といわれている歌、映画にもなり広く知れわたる。
 ☆歌(昭和13年)
    作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
        (佐藤惣之助は文士村の住人)
     この歌は戦後、村田英雄がリバイバルでヒット。 



619 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/13(Wed) 23:01
古賀政男は、自伝「古賀政男「歌はわが友、わが心」(人間の記録93 日本図書センター)で、「私が作曲の醍醐味を知ったのは、やはり惣之助さんと出会ってからだ」と回顧している。
佐藤惣之助の名詞は古賀政男の曲と出あうことによって、いつの時代にも、それぞれの聴く人の人生に重ねあわせることができる、時代を超えるすばらしい名曲となったということでしょう。

佐藤惣之助は当時盛んであった民謡詩も多く書いていて、昭和4,5年頃の作品に新民謡がみられる。その中には、「新作おわら」、「下婢」(昭和4年)、「大分おどり「川崎小唄」(町田嘉章曲、川崎 豊、コロムビア 」ななどがある。(昭和五年発行『世界音楽全集13日本民謡曲集』)。

また、昭和5年には、「吉見紫香」の名前で「ふるさと」(松村まこと作曲、コロムビア)がある。


新民謡集
◇大正15年|佐藤惣之助『浮れ鴛鴦 民謠集』東京:紅玉堂書店。
◇昭和4年|佐藤惣之助『波止場のむすめ 新民謡集』東京:泰文館書店。


参考までに、詩人・佐藤惣之助の著作等の資料が以下の図書館で見れます。

・大田区立馬込図書館 馬込文士村コレクション資料
 ttp://www.lib.city.ota.tokyo.jp/o_magome_sa.html
・川崎市立中原図書館 佐藤惣之助資料




☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50



620 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/26(Tue) 18:53
万城目正

万城目正は北海道出身。武蔵野音校でバイオリンを専攻。浅草松竹座を経て、松竹蒲田撮影所に入り映画音楽を担当。昭和11年コロムビアから「片羽鳥」でデビュー。

昭和13年日本コロムビアに入社、同年の松竹映画「愛染かつら」の音楽監督として主題歌「旅の夜風」を作曲し、空前のブームを巻き起こす。

 続編の主題歌「愛染夜曲」「愛染草紙」を始め、「純情二重奏」「愛の紅椿」「大空に祈る」など戦前から戦後にかけてヒット曲も多い。

戦後は21年の映画「そよかぜ」の挿入歌「リンゴの唄」が大ヒット、混乱期に明るい歌声を送り込んだ功績は大きかった。昭和43年4月25日死去。63歳。 

「純情二重奏」など 一貫して流れる旋律は, 叙情的なムードと, しっとりとしたロマンの曲が多い、古賀メロディのように西條八十など詩人の作詞が多いからでしょう。
日本の歌謡史の中で忘れてはならない作曲家と言えるでしょう。


 
万城目正の主な代表曲
「旅の夜風」(西條八十作詞; 1938年):映画『愛染かつら』の主題歌
「愛染夜曲」(西條八十作詞; 1939年)
「愛染草紙」(西條八十作詞; 1940年)
「純情二重奏」(西條八十作詞; 1939年)
「純情の丘」(西條八十作詞; 1939年)(松竹大船映畫「新女性問答」主題歌)
「別れ路の歌」(高橋菊太郎作詞、1939年)(松竹大船映画「母の歌」主題歌)
「愛の紅椿」 (西條八十作詞; 1940年) 松竹「愛染椿」主題歌
[愛馬花嫁] (西條八十 作詞 1940年)征戦愛馬譜 暁に祈る(佐々木康監督)
「リンゴの唄」(サトウハチロー作詞) 1946年 映画「そよかぜ」主題歌
「浅草の唄」 (サトウハチロー作詞) 1947年
「涙の駒鳥」 (西條八十作詞、1948年)「松竹映画 駒鳥婦人」主題歌
「悲しき口笛」(藤浦洸作詞; 1949年)
「別れのタンゴ」(藤浦洸作詞、高峰三枝子歌、1949年) 
「東京キッド」(藤浦洸作詞; 1950年)
「越後獅子の唄」(西條八十作詞; 1951年)
「情熱のルンバ」(藤浦洸作詞; 1951年)
「あの丘越えて」(菊田一夫作詞; 1951年)
「哀愁日記」 (西條八十作詞; 1954年)
「この世の花」 (西條八十作詞; 1955年):
「しあわせはどこに」(西條八十作詞; 1956年)






621 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/07/05(Thu) 21:38
「青い背広で」と朔太郎『純情小曲集』

「青い背広で」作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男。テイチク1280-A「青い背広で」 -B「青春日記」藤山一郎

昭和12年3月、青春の哀歓を歌って若い人たちに愛唱され後、日活によって同名の映画が作られた。
『青い背広で』 : 清瀬英次郎監督、日活多摩川、1937年4月8日公開

ビクターからテイチク専属となった昭和11年、5月新譜「東京ラプソディー」が大ヒットする。翌年には「青い背広で」「青春日記」などがヒットし古賀政男と共にテイチクを大手に押し上げた。しかし昭和14年後期には先にテイチクを退社した古賀政男の後を追ってコロムビアへ移籍してしまう。 

藤山一郎の「青い背広で」という歌。♪青い背広で心も軽く、街へあの娘と行こうじゃないか・・
その歌で歌われているのは、それはまさしく当時からの銀座の一流企業、数寄屋橋にビルを建てているT社に勤務するサラリーマンそのものだというのが社内の一応の定説になっているそうだ。

藤山一郎が歌ってヒットした「青い背広で」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)。「青い背広で 心も軽く まちへあの娘と 行こうじゃないか」という歌詞、青い背広に心も軽くと流行歌のモデルになったような企業。当時から憧れの一流企業の青春を謳歌する若きサラリーマンが、憧れの銀座の街を心も軽く、まだ自由を謳歌し、
さっそうと歩く姿が簡潔な言葉の中に見事にイメージされるような素晴らしさ。

藤山一郎が歌唱する「東京ラプソディー」「青い背広で」、昭和モダンを高らかに歌いあげます。戦前の都市文化の象徴する流行歌としてヒット。「東京ラプソディー」は原曲が「スペインの花」。ビクターから藤山一郎を迎えるために古賀政男が作曲し門田ゆたかが作詞。「青い背広」は佐藤惣之助がダーググリーンの背広を見て「青い背広」を思いつく。

失業者が巷に溢れた昭和初期の時代から、ようやく景気も回復しサラリーマンの時代になった「ああそれなのに」(星野貞志=サトウハチロー 作詞、 古賀政男作曲 1937年1月発売)うちの女房にゃひげがある・・空にゃ今日も アドバルーンさぞかし会社で 今頃はおいそがしいと 思うたに)

大正期は、モダニズム・リベラリズムの勃興期であり、都市労働者の増大とともに、
この「青い背広で」が出来た。その直後,盧溝橋事件(昭和12年7月7日)で中国との全面戦争(支那事変)、太平洋戦争へと日本は暗い時代へ坂道を転げおちていく。

これは、なぜ背広なのか、それには朔太郎の詩を読むと浮かんでくる。
 朔太郎の「旅上」(『純情小曲集』)が出来た大正14年から、惣之助の「青い背広で」が歌われた昭和12年頃は

丁度、大正期勃興したモダニズム、リベラリズムが線香花火のごとく最後の輝きを放つよう

な時期でもある。


ようやくサラリーマンの時代が始まったばかりの昭和12年、背広を着るサラリーマン姿は、まだ珍しく憧れがあったでしょう。
地方では、勤め人自体がまだ多くなかったと思います。背広を着る職業、新しい背広を着て外に出たい憧れ(旅情)があったとしてもおかしくない。

そんなあこがれで見られる新しき「背広」を着て・・・は文人ならずとも,あこがれの背広がまだ一般的でなかった時代、特別な思いもあったとしてもおかしくないようなのだ。



622 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/07/05(Thu) 21:41
石川啄木 → 萩原朔太郎 → 佐藤惣之助

詩人であり、作詞家である佐藤惣之助は長年住み慣れた川崎から雪ヶ谷〈馬込文士村〉
に越してきた。これは昭和十二年五月のことだ。場所は呑川左岸崖線の背尾根筋であった。この年、彼が作詞してヒットした曲が「青い背広で」作曲は古賀政男。「青い背広で 心も軽く 街へあの娘と 行こうじゃないか」で始まる。
 
佐藤惣之助は、「馬込文士村の住人」の一人としてレリーフに刻まれている。大正15年頃、南馬込の広津和カ邸に居候をしていた。雪ヶ谷には昭和12年から亡くなる17年まで居住した。解説などでは「自宅がある馬込文学圏(雪谷)で、脳溢血を起こして急逝」したと説明している。雪谷は馬込文学圏に入るらしい。

参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男の家によく遊びに来たそうです。

小田急線の代々木上原駅から3つ目「世田谷代田駅」を出て、 南へすこし歩いたところにある、一本の鉄塔。 この鉄塔の下には、詩人の萩原朔太郎が、1933年(昭和8 年)から、 1942年(昭和17年)
に亡くなるまで住んでいた。
大正14年8月詩集『純情小曲』刊行集 (新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を佐藤惣之助と担当。
ここ代田1丁目42に、「代田の丘61号鉄塔由来碑」(萩原朔太郎文学顕彰碑)が立っている。

代々木上原駅前の3000坪の古賀政男邸、古賀政男自伝「我が心の歌」には、この古賀邸に萩原朔太郎、惣之助さんが集まって三人でよく詩の談義をしたとあり、朔太郎の娘・萩原葉子の「父・萩原朔太郎」にも同じ記述がある。

馬込の文士村・雪が谷に住んでいた詩人・佐藤惣之助、佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎、二人は惣之助
の主宰する「詩の家」の同人でもある。

大正14年(1925)8月詩集『純情小曲集』刊行(新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を朔太郎と佐藤惣之助で担当。佐藤惣之助はしょっちゅう代田の朔太郎宅を訪問していた。
この三人は詩を通して日常的に親密な関係を持っていた。


詩のモチーフの基底に朔太郎の『純情小曲集』にある「旅上ーの背広」が沈殿していたかなり奥深いものがあるのではないか?と考えてもおかしくない。



623 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/18(Sat) 20:12
昭和3年、人生の苦悩から始まった「古賀メロディ」、「古賀メロディ」には人生・青春を歌ったものが多い。特に、「影を慕いて」「人生の並木路」など人生の、青春の苦悩をテーマとしたものが多い。

人生を真面目に生き、作曲にも真面目に取り組んだ、それが「人生の並木路」などにもみられる。

それが同時代の、聞く人の日本人の「心の琴線」に触れ共感を与えた。

何と言っても昭和の歌謡史に今も残る三人の詩人をはじめとした多くの詩人・作詞家との交流。

東京音楽学校首席卒業の藤山一郎、関種子(昭和6年〜)をはじめとして、淡谷のり子、霧島昇、楠木繁夫、松平晃、ミス・コロムビア、ディックミネなど沢山の歌手とその育成・・

人生の苦悩から始まった古賀メロディ、一方、コンクールに入賞?して、英国留学を目指した古関・・。

そして何と言っても、残念なのは断片的で、一貫したテーマというのがまたらないことだ



古関の場合、いい作品もたくさんあるはずだが、どれをみてもパターンが決まってしまっていて、マイナ−な作品が「クラッシック」という一点でのみ語られているのはたいへん残念なことです。

主なものとしては殆どが戦後の作品が中心となるようで、戦中・戦前は、申し訳程度にいくつかの軍歌(軍国歌謡)と、実質デビューとなる「船頭可愛や」など、決まった2,3の作品プラスアルファ、あわせても10程度というのが定番。

そのアポロガイズのためなのか、そのかわり「クラッシック」というフレーズがことさらでてくるのだ。

昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞したというのも、実は楽譜も何も、証するものが何一つ残っているわけではないのだ。自伝にも載っていない事なのです。考えられないことのはずなのだが。

後年NHKがその楽譜の所在を確認するため、イギリスの出版会社を尋ねたが、その会社は既になくなっており、楽譜の存在も不明となっている。このあたり、確認された話ではなく、本当の処、本当かどうかさえよくわからないと言うのが実態のようなのです。

楽譜は音楽を目指すものの命であり、なくすというのがどういうことかわからないのだ。本当だとしたら棄てたのかもしれないのだ。

なお、古関が留学したかったのはドイツでなく、この英国です。ドイツ留学したのは山田耕筰です。


本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。

しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。

今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。

 また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。

[燃え尽き症候群]になってしまったのか、「イギリス留学」断念となった若き古関祐而はレコード歌謡作曲家として山田の推薦という形で昭和5年にコロムビア専属になる、はずだったが、放っておかれ夫婦で悶悶とした日々を送る。

こうして、昭和6年(1931)10月にコロムビア専属になるも、ヒット曲が出ず悶悶とした日々を送ることになるのです。





624 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/18(Sat) 20:16
古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。いずれも標榜する作曲数(5000曲)や、作曲家となった年(昭和6年)も同じ。だが実際は対極にあるのだ。確かに古賀政男との対比でみるとそれはよくわかるのだ。

古関がヒット曲が出ないで悶々とした日々を送って頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、「古賀メロディー」が大衆の間に圧倒的に浸透していった。 (毎日新聞社『写真 昭和30年史』参照)

「古賀メロディー」が一世を風靡する中で、昭和8年作曲家江口夜詩の専属をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。

コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。 古関は他社に移ることもできず、招聘する社もない。

苦しい立場に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。

古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。

古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。
それは、クラシック音楽を基調にした古賀自身のことでもあったのだが、コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。

もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったであろう。

古賀政男によって助けられた古関祐而は、専属契約打ち切り(解雇)という作曲家として最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになる。それでも最初のヒット曲は昭和10年、音丸が歌った「船頭可愛や」位だった。

作曲数は決して少なくないのだが、軍歌(軍国歌謡)以外で、残念ながら多くの大衆に絶大な支持を受けたメジャ−な曲(ヒット曲)というのは見当たらないのが実態だろう。戦後はおいとくとして、10曲あげるのはたいへんなことだろう。

コロムビアの中でずっとヒット曲がでず、他社にも移れず悶もんとしてきた彼が居場所を得て活躍するには、戦後の新しい空気をまたなければなかった。


昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞した古関裕而は、コロムビア社の顧問だった山田耕筰に、ドイツ留学を相談する。ところが、日本音楽界の情況からして、あなたがオーケストラ作曲家として歩むことは困難であると山田耕筰に諭される。

ここまでは、いろいろな古関関係の資料にはみなパスされている。

留学を断念させられた代わりに、山田耕筰に推挙される形で、昭和5年に日本コロムビアと専属契約を結ぶ。だが契約を結んだと思っていたが、実際は契約はずっと放置される。いろいろあって、実際に古関がようやく、正式に辞令をもらうのは昭和6年10月のことだった。昭和6年3月には古賀政男がコロムビア専属になっていた。

この時、古関がコロムビア社に求められていたのは、クラッシックのオーケストラ作曲家としてではなく、流行歌(レコード歌謡をこう呼んだ。)の作曲家だった。

つまり、ヒットを生んで社に貢献する。つまり多くの人に共感を与えなければならないのだ。

単にクラッシックどうこうとかではないのだ。

どんなに優れていたとしても、多くの人に共感・共鳴を与えられるものでなければならないのだ。

でも、そのことがわからなかったところに彼の悲劇がある。

彼はその要求を理解できず、専属契約破棄の瀬戸際をむかえる。ヒットと呼ぶメジャ−な曲がでていないのだ。


歌は心で歌うものであり、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないのだ。



ttp://electronic-journal.seesaa.net/pages/user/m/comments/regist/input?article_id=23976803



625 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/18(Sat) 20:29
古関は流行歌には関心がなかったのか。彼にとっての音楽はクラシックだったようだ。しかしそれは専属作曲家として許されないことだったろう。

かれは、ヒット作が出ないことに専属作曲家として悩み、そして専属契約解除の危機を迎えることになる。

昭和五年の秋9月、古関裕而は山田耕筰の推薦により日本コロムビア専属作曲家となり、妻金子と共に上京する。でも出社通知と辞令はまだ手にしていなく、コロムビアからは一行に音沙汰がない。

山田は中山晋平のように面倒みはよくない。古関は優鬱な日々を送る。

古関裕而が正式に日本コロムビア専属作曲家になったのは、1年後の昭和6年10月という。

だから、コロムビア専属作曲家になったのは、古賀政男(昭和6年3月)と殆ど同じなのだ。

古関は長い空白のため、専属契約を解除されそうになるのだが、それを救って作曲活動を続けさせたのが古賀政男。

古賀の自伝でも触れているが、このあたりの事について以下のサイトに詳しい。

・近代日本洋楽史/近代日本音楽史の一断面
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub9.html

古賀政男は。昭和5年吹きこみで、中山晋平の弟子で中山の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子の歌で「影を慕ひて」「日本橋から」「文のかをり」など7曲をビクターレコードから出している。

昭和6年にコロムビア専属作曲家となった古関裕而と古賀政男は対照的なデビューを果たすことになる。

古関が悶々とした日々を送って頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、古賀メロディーが大衆の間に浸透していった。(毎日新聞社『写真昭和30年史』参照)

古賀メロディーが一世を風靡する中で、作曲家江口夜詩の入社をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。
「それは突然、コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。コロムビアは江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。古関にとってこれは寝耳に水であった。専属契約打ち切り理由が分からなかった。このとき、古関はようやく自分の立場が理解できたのである。専属になって、二年目、ヒットが出ないようではもはや存在する意味がないのである。古関は自分に求められているのは、クラシックの作曲家ではなく、あくまでの流行歌の作曲家であることがようやく理解できたのである。古関は愕然とした。」

「苦しい立場に立たされた古関を救ったのは古賀政男だった。古賀は文芸部長の和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。それは古賀自身のことでもあった。もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに入れなかったであろう。コロムビアは、同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。」

古関は、専属契約打ち切りという最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになるのだが、結果的にはよかったといえるでしょう。



626 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/20(Mon) 10:04
訂正

昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞したという古関裕而は、コロムビア社の顧問だった山田耕筰に、英国留学を相談する。ところが、日本音楽界の情況からして、あなたがオーケストラ作曲家として歩むことは困難であると山田耕筰に諭される。

ここまでは、いろいろな古関関係の資料にはみなパスされている。



留学を断念させられた代わりに、山田耕筰に推挙される形で、昭和5年に日本コロムビアと専属契約を結ぶ。だが契約を結んだと思っていたが、実際は契約はずっと放置される。いろいろあって、実際に古関がようやく、正式に辞令をもらうのは昭和6年10月のことだった。昭和6年3月には古賀政男がコロムビア専属になっていた。

この時、古関がコロムビア社に求められていたのは、クラッシックのオーケストラ作曲家としてではなく、流行歌(レコード歌謡をこう呼んだ。)の作曲家だった。

つまり、ヒットを生んで社に貢献する。

つまり多くの人に共感を与えなければならないのだ。

単にクラッシックどうこうとかではないのだ。

どんなに優れていたとしても、多くの人に共感・共鳴を与えられるものでなければならないのだ。

でも、そのことがわからなかったところに彼の悲劇がある。

彼はその要求を理解できず、専属契約破棄の瀬戸際をむかえる。ヒットと呼ぶメジャ−な曲がでていないのだ。


歌は心で歌うものであり、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないのだ。



ttp://electronic-journal.seesaa.net/pages/user/m/comments/regist/input?article_id=23976803


627 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/20(Mon) 10:09
古関の場合、いい作品もたくさんあるはずだが、どれをみてもパターンが決まってしまっていて、マイナ−な作品が「クラッシック」という一点でのみ語られているのはたいへん残念なことです。

主なものとしては殆どが戦後の作品が中心となるようで、戦中・戦前は、申し訳程度にいくつかの軍歌(軍国歌謡)と、実質デビューとなる「船頭可愛や」など、決まった2,3の作品プラスアルファ、あわせても10程度というのが定番。

そのアポロガイズのためなのか、そのかわり「クラッシック」というフレーズがことさらでてくるのだ。

昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞したというのも、実は楽譜も何も、証するものが何一つ残っているわけではないのだ。自伝にも載っていない事なのです。考えられないことのはずなのだが。

後年NHKがその楽譜の所在を確認するため、イギリスの出版会社を尋ねたが、その会社は既になくなっており、楽譜の存在も不明となっている。このあたり、確認された話ではなく、本当の処、本当かどうかさえよくわからないと言うのが実態のようなのです。

楽譜は音楽を目指すものの命であり、なくすというのがどういうことかわからないのだ。本当だとしたら棄てたのかもしれないのだ。

なお、古関が留学したかったのはドイツでなく、この英国です。ドイツ留学したのは山田耕筰です。


本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。

しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。

今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。

 また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。

[燃え尽き症候群]になってしまったのか、「イギリス留学」断念となった若き古関祐而はレコード歌謡作曲家として山田の推薦という形で昭和5年にコロムビア専属になる、はずだったが、放っておかれ夫婦で悶悶とした日々を送る。

こうして、昭和6年(1931)10月にコロムビア専属になるも、ヒット曲が出ず悶悶とした日々を送ることになるのです。





628 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/20(Mon) 19:36
一般に歌謡曲・流行歌というとクラッシックと比べて一段低い音楽という捉え方をしがちです。
「歌謡曲」とは歌詞をもつ歌(歌曲)の意味です。「国民歌謡」の歌謡などと繋がります。
萩原朔太郎は所謂流行歌について「流行歌曲」という言葉を使っています。
昭和の作曲家は古賀政男、江口夜詩など、クラッシックから出発しています。

■流行歌・歌謡曲の意味について
大正から昭和にかけて、「新作小唄」「流行小唄」「新作歌謡」「新民謡」などいろいろな名称が出てきて、言葉としては演歌は使われなくなります。そのかわりに、「歌謡曲」という言葉が普及します。
「歌謡曲」という言葉は、もともとは、クラシックのリート(歌曲)を指していました。
たとえば、藤山一郎(1911-1993)が昭和初期に本名増永丈夫(たけお)でドイツリートを歌ったときに歌曲を指す意味で「歌謡曲」という言葉が使われています。
歌謡曲という言葉を使っていても、流行歌の意味では使っていなかったのです。
NHKラジオ放送では、昭和10年代に入ると「国民歌謡」が始まり、「歌謡曲」という名称は一般的になっていきました。

流行歌曲について 萩原朔太郎
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47046_30961.html



なお、以下参考になります。

・流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽《近代日本流行歌の成立-昭和歌謡の源流》
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub9.html




629 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/21(Tue) 07:51
人生の苦悩から始まった古賀メロディ。一方、コンクールに入賞?して、英国留学を目指したものの、なぜ英国なのか知らないが、山田耕筰にダメ出しされ挫折。

挫折に始まった古関・・最初から燃え尽きてしまった古関。

何と言っても、古関作品の残念なのは、断片的中途半端で一貫した「テーマ」というのがみあたらないということだろう。

古関の場合、戦後間もないころのラジオドラマ作品やテーマ音楽などに注目すると、いい作品がたくさんある。

しかし、ネットなどに、戦前を含めて、元の間違った評伝などがそのままコピーされたかのように、史実のに基本的間違いも同じでいるのは大変残念なことではないだろうか。
間違いから出たものが正しいものにはなりえないのだ。

たとえば「高原列車は行く」その他、戦後を含めマイナ−なごくありきたりの普通の歌謡曲などに「クラッシック」(クラッシックの香り)とかいう一語をつけて格上げされるべきでない。

「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものではないはずなのだが。

「クラッシックの香り」だとか、「クラッシック紛い」はいらない!。


(参考までにトイレの芳香剤に「クラッシックの香り」(クラッシックフローラ)というのがある。)



やはり歌謡曲(レコード歌謡)というのは「詩」があって、詩で決まってしまうものだろう。「曲」は「詩」を超えることができないのだ。





630 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/21(Tue) 08:14
洋楽の殆どはクラッシック音楽を基本としてるのは常識。したがって、クラッシック音楽そのものが、なんらの特長、利点になるためには、何らかの明確な特長を兼ね備えなければならないだろう。

世の中には、「クラッシック音楽」そのものでもなく、かといって格段何らかの単純で明快な特長を持つわけでもないものも少なくない(クラシック紛い)。

音楽家たちの求めるものは、そうした一般的・表面的なものではなく、心に染み入る一歩突き進んだものではないだろうか。

一般的に「クラッシックの香り漂う」とか、「格調高い」とかだけのものもある。


しかし、表面的で心に残るものがなければ、決して長く世代を超えて普遍性をもって受け容れられるものとはならないだろう!。

音楽には何より心に染み入る一歩突き進んだもの・・「詩」の心が何にも増して大切なことを改めて気ずかざるを得ない。

631 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/21(Tue) 08:31


『六甲颪』(佐藤惣之助作詞、古関祐而作曲)は、昭和11年(1936)に、『大阪タイガースの歌』としてつくられ,中野忠晴の歌でレコード化されるも、殆ど知られなかった。

一般に歌われるようになったのは戦後、昭和40年代後半で、昭和47年(1972年)に、朝日放送ラジオ番組『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で、中村が歌ったことによる。

1970年代の多くのファンに広めら、昭和60年(1985年)にタイガースが日本シリーズで優勝してからは、全国的に知られるようになった。
『六甲颪』改題は中村の案と言われる。

·中野忠晴 - 1936年(昭和11年)『大阪タイガースの歌』殆ど歌われなかった。
·若山彰  - 1961年(昭和36年)『阪神タイガースの歌』改題後初録音
·中村鋭一 - 1972年(昭和47年)『六甲颪』 朝日放送アナウンサー




632 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/25(Sat) 22:35
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」

と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平(晋平節)の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。

その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。
それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。


宮本 旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)

宮本旅人 著「レコード芸術入門 : 作詞家・作曲家・流行歌手 」シンフオニー楽譜出版社1939

この序文に、この若き日の古賀政男と「中山晋平先生」、両巨匠の最初の歴史的出会いのことが触れられていればと思うのです。



633 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/30(Thu) 10:26
☆古賀政男とタンゴ

古賀政男は、クラッシック音楽を土台に世界の音楽を広く取り入れた作曲家で知られる。

特にタンゴで古賀政男の世界における存在は大きなものが有る。
佐藤千夜子が歌った「日本橋から」(昭和6年1月 ビクタ―)は日本最初の和声タンゴとして知られる。

昭和14年秋、古賀政男は,外務省の音楽文化親善使節として渡米。ハワイ、アメリカ、アルゼンチンを訪問。
1939年(昭和14年)秋、アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、15分間放送された。
古賀政男アルゼンチンを訪問。Mariano Moresと親交を結び、Moresの楽団演奏で古賀の
「青い背広で」「東京ラプソディ」「望郷の歌」を録音。

古賀の提供した「荒城の月」の楽譜を元に、Tangueraを作曲。 古賀は、アルゼンチンのタンゴのテンポの速さに驚く。

タンゲーラ(Tanguera)とは、マリアーノ・モーレスが作曲したタンゴである。
タンゲーラは、「タンゴ的なもの」という意味である。タンゲーラ(Tanguera)とは、マリアーノ・モーレスが作曲したタンゴである。
「荒城の月」と似たようなメロディーが出てくることでも知られているが、このとき古賀政男の提供したもの。
古賀政男には「荒城の月」の編曲もある。

タンゴダンスにもよく用いられ、よく聴かれる曲である。
マリアーノ・モーレス楽団の演奏が最もよく聞かれるが、他の楽団の演奏もある。

(参考)私のタンゴ年表(保坂)
ttp://members.optusnet.com.au/~yhosaka/mytangohistory.html







634 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/02(Sun) 11:37
>>633

(参考)古賀政男と日本タンゴの歴史

(保坂「私のタンゴ年表」 から参考抜粋)


明治20年 1888
Tangoをタイトルにした楽譜・span class=SpellE>Baltoro・/span>が出版され、これをタンゴ発祥の起源とする。
明治22年  1890
日本最初の音楽学校として1890年5月12日に開校された。


ヤマハオルガン製作所が学校向けオルガンの大量生産を行う。

1904
古賀 政男(こが まさお、1904年11月18日 - 1978年7月25日)
大正14年 1925
日本初のラジオ放送は1925年3月22日午前9時30分、社団法人東京放送局(JOAK)より発信。
昭和2年 1926
目賀田綱美男爵、6年に及ぶパリ遊学より帰国。アルゼンチン・タンゴを日本に伝える。


Bianco/Bachicha, Manuel Pizaro、O.T.Victorなどのレコード。


Caminito・・・Fuan De Dios Filiberto 作曲
昭和4年  1929
影を慕いて・・・古賀政男作曲


和製タンゴ「君恋し」大ヒット。作曲・佐々紅華 /作詞・時雨音羽 ,


戦後フランク永井がリバイバル。
昭和5 1930
「アルゼンチンタンゴの踊り方」森潤三郎著発行。上流階級にダンス流行。

タンゴも踊られる。
昭和6年 1931
チェロ奏者の松原興輔、日本初のタンゴ楽団を結成、京橋の日米ダンスホールで出演。

昭和7年 1932
東京音楽学校に作曲科が開設。
昭和8年
1933.5.19 保坂佳秀誕生
伴薫(ピアニスト)正統派のタンゴ楽団として結成。NHKラジオ、国華ダンスホールで活躍。


早川真平、池田光夫、見砂直照を輩出。


桜井潔(バイオリン)タンゴ楽団結成。赤坂フロリダで活躍。
昭和11年 1936
東京ラプソディ・・・古賀政男作曲
昭和12年 1937
高橋忠雄、アルゼンチン訪問。
昭和13年 1938
淡谷のり子Poemaを録音。藤原義江Alma de Bandoneon を録音。藤山一郎、ディックミネ

昭和14年  1939
秋、古賀政男,外務省の音楽文化親善使節として渡米。ハワイ、アメリカ、アルゼンチンを訪問。

昭和14年秋、アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、15分間放送された。


古賀政男アルゼンチンを訪問。Mariano Moresと親交を結び、Moresの楽団演奏で古賀の


「青い背広で」「東京ラプソディ」「望郷の歌」を録音。古賀の提供した「荒城の月」の楽譜


を元に、Tangueraを作曲。 古賀は、アルゼンチンのタンゴのテンポの速さに驚く。


1935年から、アルゼンチンではテンポの早いD'Arienzo楽団が人気を博していた。
14
1939
江戸川らん子La Cumparsitaを録音。


日本ビクターよりタンゴアルバム発売。高橋忠雄の選曲と解説。「Argentine Album」141ページ
昭和15年 1940
皇紀2600年
保坂佳秀青柳尋常小学校い入学。担任三原先生
昭和16年 1941
Malena ・・・Lucio Demare(9 August 1906 - 6 March 1974)作曲。
昭和16−20年
1941-1945
12月8日太平洋戦争

635 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/02(Sun) 22:51
参考

>>623-629



>>629
>古関の場合、戦後間もないころのラジオドラマ作品やテーマ音楽などに注目すると、いい作品がたくさんある。

しかし、ネットなどに、戦前を含めて、元の間違った評伝などがそのままコピーされたかのように、史実のに基本的間違いも同じでいるのは大変残念なことではないだろうか。
間違いから出たものが正しいものにはなりえないのだ。

たとえば「高原列車は行く」その他、戦後を含めマイナ−なごくありきたりの普通の歌謡曲などに「クラッシック」(クラッシックの香り)とかいう一語をつけて格上げされるべきでない。

「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものではないはずなのだが。

「クラッシックの香り」だとか、「クラッシック紛い」はいらない!。


(参考までにトイレの芳香剤に「クラッシックの香り」(クラッシックフローラ)というのがある。)



>>401
クラッシックを含めて、音楽表現するとき、いくつかの具体的で簡潔な音楽美学表現が用いられる。
それが、“平易性(大衆性)”、“明朗性”、“抒情性”などである。
中山晋平、山田耕筰、萩原朔太郎など素養のある、実績のある音楽家・芸術家の使用する音楽表現のための基本用語である。

もちろん、クラッシックの香りがするなどとは言わない、そうした素人表現を使うことは無い。
具体的な音楽表現用語ではないから。


636 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/10(Mon) 09:41
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

☆日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
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☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
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☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50

☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50

☆【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
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637 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/10(Mon) 09:43

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☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
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☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
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☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
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☆【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
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638 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/10(Mon) 10:51
☆懐かしの銀座を歌った歌
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☆名前を名にした歌
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639 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/11(Tue) 10:42
☆昭和歌謡が好きな人集まれ!

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640 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/18(Tue) 20:29
「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」・・・『古賀メロディ』の由来


昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」

と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平(晋平節)の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。

その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

古賀メロディの原点であり、不朽の名曲『影を慕いて』は、美しき日本の歌で、『波浮の港』とともにクラッシックの演奏会のプログラムにもよく見受けられるスタンダード。

今や「古賀メロディ」を超えて『日本の名曲』になっている。

優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽(映画主題歌)でもある。

人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。

多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品。

歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。

詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴く人の心を捉えて離さない。


人々は、それを中山晋平の【晋平・節】に対し、【古賀・メロディ】と呼んだ。

   “メロディーこそは音楽の本質”(モーツァルト)

その誰にも真似のできないメロディ・・その哀調を帯びた、青春の息吹を感じさせる日本人の琴線に触れるメロディ。

【古賀メロディ】とは、当時の主流だった中山晋平の【晋平節】に対するもの(称号)であり、「メロディ」をつけるのはただ一つ【古賀メロディ】だけ。


(作曲家の後ろに何でも、JPOP、リズム系までなんでもメロディをつけて呼ぶのは、違和感を覚える。これは戦後昭和40年代以降のナツメロ番組ブームの中でのことで、実際にそう呼ばれていたわけではないことに注意。



古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」といって、詩を大切にした人。

曲作りに人並み外れて熱い想いをかけていた。古賀政男が作曲の醍醐味を知るのは、詩人・佐藤惣之助との出会いであったと自伝にある。

古賀政男ほど多くの詩人との結びつきの深い者も知らない。

『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・、古賀メロディーは、佐藤惣之助〈1932〜〉、西條八十(1933〜)、サトウハチロー〈1935〜〉など、詩人との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。

佐藤千夜子の歌で世にでた二つの名曲、《波浮の港》と《影を慕いて》・・、

いずれも、今でも根強く愛され歌われ、演奏されている《日本の名曲》。

そして両方とも、NHKテレビで「日本の名曲10曲」として放送された押しも押されもしない「日本の名曲」である。

古賀メロディーというのは、その殆どが青春を謳った青春歌謡です。

古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。

それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。

宮本旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)





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