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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




642 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/07(Sun) 12:36
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


ラジオ番組について

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=351156284&ls=50



643 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/19(Mon) 22:04
☆タンゴ100年、日本におけるアルゼンチンタンゴの歴史と古賀政男

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=542627758&ls=50

644 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/08(Sat) 20:51
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。

645 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/10(Mon) 10:12
藤山一郎(1911.4.8-1993.8.21)が初吹込したのは、当時唯一の官立の音楽学校だった東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)在学中だったが、非常に完成された唱い方だった。昭和6年(1931)、まだ20歳になったかならないかの若さである。古賀政男27歳。まだ東京音楽学校本科2年生のアルバイト吹き込みで30曲あまりを吹き込んだのだった。

「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・これら藤山一郎の歌で世に出た曲は金融恐慌、満州事変の勃発、東北大凶作、日本が貧しく、苦難の時代の中で世に出た。同時に、「古賀政男」「藤山一郎」二人の原点でもある。

戦前の藤山一郎の、「丘を越えて」「青い背広で」「東京ラプソディ」「春よいづこ」など「古賀メロディー」の青春を高らかに歌いあげている。青春を謳歌する若く溌剌とした張りのある美声は古賀政男の数々の青春歌謡に相応しい。藤山一郎なくして古賀メロディの青春はなかった。しかし、藤山一郎は昭和18年以降、南方慰問に駆り出され、外地での抑留生活の空白の後日本に帰った浦島太郎、藤山の復員を待ち構えていたNHK。復員を初めて伝えたNHKの番組がきっかけで、以後、藤山はラジオ放送との係わりを深めてゆく。

「青い山脈」(1949)など藤山一郎の戦後の歌は、こうしてかっての若々しい頃から30代後半を過ぎ40代近くなって、あの若く溌剌さは消え去り、その5年後、昭和29年(1954)には、レコード歌手を引退、NHK嘱託となった。

最近の歌番組では、「昭和」というのはたくさん出てくるのだが、昭和にまだ足のつま先が残っただけの昭和末期、昭和50,60年代。


昭和は大正15年・昭和元年(1926)12月25日から、昭和64年(1989)1月7日まで62年14日、明治大正を合わせた60年より長い、世界的にも一番長い。

昭和元年は1週間しかなく、昭和は実質昭和2年から。レコード歌謡は昭和2年から3年にかけて始まった。「昭和」の由来は、書経堯典の「百姓昭明、協和萬邦」・・国民の安寧のもとに国際平和の実現を目指す・・ものだったが、実際は戦乱に明け暮れ貧しい民だった。そんな昭和の幕開け、まだ「青空」とか「アラビアの唄」などまだあちらの歌くらいしかなかった時代だ。

「歌う昭和史!」と言われる「藤山一郎」でさえ、「青い山脈」とか、戦後の歌しか知らない人、この「歌う昭和史」藤山一郎も戦後の歌手だと思っている人が多いのは残念な事。

「昭和」とは60年を超える明治大正を合わせたより長いのだ。




646 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/10(Mon) 10:18
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

キャンプ小唄   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて     (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄    (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932年2月 井上静雄名
影を慕いて    (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘      (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜 (今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲)   1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1.8 (日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘    (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊     (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ    (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)       1941.3
歌えば天国   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)     1941,7
リンゴが紅い  (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場    (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝) 1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖      (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952


647 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/12(Wed) 00:44
ビクター時代の藤山は『燃える御神火』、『僕の青春』などがヒットした。
だが、音楽学校在校中に吹込んだ「古賀メロディー」ほどの圧倒的大ヒット曲には恵まれなかった。
主に佐伯孝夫、佐々木俊一コンビで、10分の1以下だった。

ビクタ―には、藤山一郎の才能を引き出す足るに足る才能がいなかった。



藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。

648 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/12(Wed) 00:58
歌手・藤山一郎は、『青い牧場』『決戦の大空へ』を最後に、昭和18年〈1943〉2月、ボルネオ・ジャワ方面の海軍将兵慰問のため船で横浜港を出発、
日本を離れた。その後抑留され、寄港したのは、昭和21年(1946)7月15日のことだった。

つまり、藤山一郎には、戦争を隔ててこの約3年余りの空白がある。
このあたりのことは、戦後の藤山一郎のことを読み解くうえで重要なことだが、あまり明らかにされていない。

1946年7月15日、藤山一郎は復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についた。いち早くこのニュースをかぎつけたのはNHKだった。
藤山は早速8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演をした。

これを皮切りに、日本での歌手活動を再開させることとなったのだが、彼の戦後の歌手活動の出発点が「ラジオ」であったことは戦後の活動を大きく制約されてしまうという点でたいへん残念なことではある。
活動範囲が、詩人などで、主にかっての西條八十など第一級の優れたレコード人脈から、少数のラジオ(番組)人脈に移ってしまったのはたいへん残念なことである。曲は詩を越えることはできないのだ。

もちろん年齢的にも、すでに30代後半になっていた。
あの20歳、東京音楽学校生徒で歌手デビューし、「古賀メロディ」の青春を高らかに歌い上げていたあの頃の若き20代のあの溌剌さも年とともに失われてゆくのはやむを得ないこと。

レコード界も大きく様変わりして行く、昭和28年には春日八郎に始まる演歌歌手が登場していく。

1954年(昭和29年)、藤山はコロムビアの専属歌手をやめ、NHKの嘱託となった。その理由について藤山自身は「自らのクラシックとポピュラーの中間を行く音楽生活を充実させつつ、将来活躍できる新人に道を譲るのも悪くない」と考えたからだと述べている。

もちろんそれ以外にも当然レコード歌手としての年齢的なこともあるだろう。

いずれにしても、昭和18年、突然に始まる3年間にわたる慰問抑留生活が、戦前から戦後へ、「歌う昭和史」ともいわれるこうした歌手・藤山一郎の抜きんでた才能や活動を大きく変えてしまった!。

649 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/07(Mon) 13:32
昨年2018年12月30日、TPPがアメリカを除外で発行、著作権は死後50年だったものが、70年になった。
これに合わせ、著作権法が改正され著作権保護期間が50年から70年になった。

古賀 政男(1904年11月18日 - 1978年7月25日)は、昭和53年7月25日亡くなり、昨年(昭和93年)7月で残り40年であと10年だったが、
この改正で2048年12月まであと30年ということになる。


650 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/28(Thu) 16:56
流行歌懐古館 別館・愛聴譜   TATMDfx03_64.pdf

昭和3年(1928)2月―昭和64年(1979) 180p.

651 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/03(Sun) 23:16
昭和6年、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」、昭和7年「影を慕いて」 の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲の曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&to=50


652 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/16(Sat) 22:14

大正から昭和の初めにかけて、大衆が誰でも歌える歌といえるものが
民謡など除いて存在しなかった。

誰でもが歌える歌ずくり、それを一貫して目指した作曲家、それが中山晋平。

晋平の歌は【晋平節】と言われた。

劇中歌から、童謡、新民謡、歌謡歌曲。

中山晋平は詩人の野口雨情、歌手の佐藤千夜子と組んで、大正から昭和の初めにかけて「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)を行っていた。

まだ新幹線も飛行機もない時代に全国行脚を行い民謡採譜や新民謡など普及運動を行っていた。

この中から生まれたのが新民謡「波浮の港」、が昭和3年、ビクタ―発足に伴いレコード第一号となり、レコード歌謡(流行歌といった)第一号となった。

これを歌った佐藤千夜子は『レコード歌手第一号』と言われ、昭和53年、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」で取り上げられた。

「晋平節」の中山晋平の時代と「古賀メロディ」の時代をつなぐ歌手それがレコード歌手第一号佐藤千夜子である。

古賀政男は、このレコード歌手第一号佐藤千夜子の力添えで誕生するのである。 古賀政男は自伝「我が心の歌」で『終生の恩人』と書いている。

昭和の初め、まだ日本が貧しかったころ、満州事変の勃発と東北大凶作、宮沢賢治が「雨にも負けず風にも負けず‥」と歌った、日本の歴史に残る最後の飢饉とされた。

昭和東北大凶作の中、昭和6年(1931)1月、佐藤千夜子の歌で、7年3月藤山一郎の歌で「影を慕いて」などが世に出た。

そして、【古賀メロディ】は、晋平の【晋平節】の次に世の流れになっていく。

「古賀メロディ」の「メロディ」とは、「晋平・節」の「節」のに対するもので、古賀政男が「メロディ」を大切にその重要性を主張していたそのことによる。

今年、昭和を継ぐ平成最後の平成31年(2019)は『古賀メロディ誕生88年』。

もうすぐ90年!


影を慕いて、丘を越えて、酒は涙か溜息か、窓に凭れて、月の浜辺・・ これら「古賀メロディ」は今もなお延々と歌い継がれているが、誕生したころ、今ある歌のほとんどすべてはまだ存在しなかった。

殆どの「古賀メロディ」の名曲がもうすぐ、一つの区切りとなる「80年」を超える。

「古賀メロディ」は、聴いていてすぐ場面が想い浮かぶ。

それは古き良き日本人の、心優しき、節度ある、清爽な気持ちを表す名曲です。

露骨な自己主張が氾濫する現今のとはちがう、素晴らしい歌曲です。


いつ聞いても懐かしさで涙があふれてくる、80年前の歌が、昨日のことのように。そして、生きる喜びを与えてくれる、それが名曲の名曲たるところ。


80年の歴史をもつ多くの「古賀メロディ」、それは今や「古賀メロディ」を越えて、【日本の名曲・日本のクラッシック・日本のスタンダード】になっているのではないでしょうか。





653 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/06(Sat) 22:50
>>155-156
>>652

☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲)   大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇   (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす     (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲)  同
ひばり  1929.4 (西條八十作詞、 宮城道雄作曲)   同
鶯の夢 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5  (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪 1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節1928.7 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様   1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲  1929.6  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し    1929.10 (時雨音羽作詞 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒    1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄 1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲)   ビクター50776
港おどり  1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴  1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花  1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50881
紅屋の娘   1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50936
文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も     1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、   古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞  古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
母の歌    1930.1(鶴見祐輔作詞 中山晋平作曲) ビクター51027@
唐人お吉の唄(黒船篇)1930.2(西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター51093
この太陽   1930.6   (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター51240
琵琶湖シャンソン1930 (西条八十作詩・中山晋平作曲)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)

*『青い小鳥』は、『星の飛ぶ夜』(堀正明作詩、小松平五郎作曲編曲・佐藤千夜子歌唱)とカップリング





654 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/06(Sat) 22:53

※1932録音
カチューシャの唄 1932.6(島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター52393
船頭小唄 1932.6(野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクター52393


※古賀政男(正男)初期のレコード(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)上記

文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
以上は,作曲家になる前の作品

※古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
・『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編
曲・淡谷のり子歌)

・『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和
  歌子歌)

・『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・
  関種子歌)。

1934年(昭和9年)、イタリア留学中だった佐藤千夜子が、帰国を前にイタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。上記に加えて佐藤千夜子の名唱が聴けます。ゴンドラの唄、さすらいの唄など、
レコード歌手第一号・佐藤千夜子の本格的な歌唱(1934,2)が絶品です。
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏)。佐藤さんのイタリア録音曲ビクター VDR-5171


☆イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座録音6曲  昭和9年2月☆
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏・ミラノグラモフォレ管絃楽団)

カチューシャの唄 (島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)
船頭小唄    (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
さすらいの唄 (北原白秋作詞、中山晋平作曲)ビクター52972
ゴンドラの唄 (吉井勇 作詞、中山晋平作曲〉ビクター52972
酒場の唄    (北原白秋作詞、中山晋平作曲) ビクター53100
春の雨     (相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター53100

※信田の藪(しのだのやぶ) 1936吹込 (1922野口雨情作詞、藤井清水作曲)
この歌は大阪府泉大津市と和泉市のあいだの「信太山(信田)」に古くから伝わる有名な白狐の話を元に野口雨情が「十五夜お月さん」中のこの詩に、日本的で美しいメロディの歌曲を多数作られた宮崎県出身の作曲家藤井清水(ふじいきよみ)が曲をつけたもの。

1922年(大正11年)に作られたこの名曲の初録音は1928年の藤原義江、それに1936年の佐藤千夜子が有ります。他に童謡で羽崎共子盤がある以外ない。

佐藤千夜子の叙情豊かで、一語一語大切に心をこめて歌う歌唱は、豊かな日本の叙情を歌ったこの歌曲の良さを最大限に引き出す、すばらしい歌唱でまさに絶品中の絶品といえます。これを超える歌は聞いたことが無い、ぜひ聴いてみましょう。
ttp://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-shinodanoyabu.html

※青い芒(すすき)(1924 野口雨情作詩・中山晋平作曲)
1924年(大正13年)、歌手・佐藤千夜子の初レコーディング曲と言われています。佐藤は大正時代、野口&中山コンビ主宰「新民謡童謡普及運動」である「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に歌手兼講師で参加。当時「新民謡童謡普及運動」のメンバーは台湾まで出掛けています。巡演先のレコード会社「内外蓄音機」で1924年レコーディング。1929年(昭和4年)にもビクターで再録音されてます。
♪青い芒(すすき)に蛍の虫は・・・。


CD紹介 ・・これを聴くと佐藤千夜子の偉大さがわかってくる。

・CD「昭和を飾った名歌手たち 1/佐藤千夜子」VICL 60326
  ttp://www.tsutaya.co.jp/works/20058945.html
・ CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536
 ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536


655 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/15(Mon) 00:43
DSi

656 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 23:49
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


657 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 23:51
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


658 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/16(Tue) 22:31
メロディパタンのクラスタ分析 : 古賀メロディパタンの特徴
Cluster analysis of melody pattern : A characteristics of KOGA melody style
秋山、松田、日本音響学会誌 53(12), 915-921, 1997


659 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/22(Mon) 09:10
>>658

抄録
古賀政男音楽作品は"古賀メロディ"として多くの人々に親しまれてきた。本論文では, 古賀メロディに共通する旋律の特徴を述べている。特徴抽出にはメロディパタンのスペクトル表現に階層的ファジィクラスタ分析を適用した。クラスタ分析において古賀メロディが集群する階層が存在した。この集群したクラスタから得られる類似関係は, 旋律輪郭の滑らかさにあることが分かった。実験結果から, 古賀メロディの特徴の一つとして, 旋律全体の滑らかさと部分旋律における滑らかさに相似関係が存在することが明らかになった。このことは, 16小節程度の旋律進行は4小節程度の部分旋律における旋律進行から予測できることを意味している。



660 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/10(Sat) 13:15
>>658-659

メロディパタンのクラスタ分析 : 古賀メロディパタンの特徴
Cluster analysis of melody pattern : A characteristics of KOGA melody style
秋山、松田、日本音響学会誌 53(12), 915-921, 1997

各種コード
NII論文ID(NAID) 110003106845
NII書誌ID(NCID) AN00186234
本文言語コード JPN
資料種別 ART
ISSN 0369-4232
NDL 記事登録ID 4352162
NDL 雑誌分類 ZM35(科学技術--物理学)
NDL 請求記号 Z15-15
DOI 10.20697/jasj.53.12_915

661 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/18(Sun) 16:18


662 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/10(Tue) 22:51
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110&ls=50

663 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/11(Wed) 14:48
☆昭和歌謡が好きな人集まれ!

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50

664 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/12(Sun) 23:35
昭和SPレコード歌謡番組を待望する。 (ラジオBBS)

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=578828634&ls=50

665 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/19(Sun) 19:59
>>597-598

■■NHKTV「日本の名曲10曲」■■ 
1990 NHK TV (1年間毎週放送)

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本がまだ貧しかった80年以上前から、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級大歌手・声楽家が好んで
歌った歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ日本の名曲でした。





666 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/26(Sun) 13:16
h ttps://columbia.jp/shinyabin/
NHK CD「ラジオ深夜便 にっぽんの歌 こころの歌」

好評 発売中!

オリジナル原盤を使っているので良い!.。


667 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/29(Wed) 11:13
>>574

(参考)流行歌懐古館 (昭和3年ー平成5年)

昭和の流行歌(レコード歌謡)

 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27



昭和歌謡大全目次
戦前戦中編 (目録)

h ttp://music.geocities.jp/hanatori1119/kayoudaizenn/kayoudaizenn.html



668 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/30(Thu) 08:25
流行歌懐古館 別館・愛聴譜   TATMDfx03_64.pdf

昭和3年(1928)2月―昭和64年(1979) 180p.


669 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/31(Fri) 16:32
レコード草創期
h ttps://idol.ne.jp/record-creation-period

670 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/02(Sun) 00:29
☆ミス・コロムビア(松原操)の歌う「古賀メロディ」

「お蝶夫人」の唄 (西条八十作詞、古賀政男作曲)1933.3
気まぐれ涙  (西条八十作詞、古賀政男作曲)  1933.10
誰も知らない (サトウハチロ−作詞、古賀政男作曲)1939.3
新妻模様   (久保田宵二作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 1940.3
そうだその意気(西条八十作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 李香蘭 1941・5
桜花に誓う  (西条八十作詞、古賀政男作曲) 奈良光江 三原純子 1945
目ン無い千鳥 (サトウハチロ−作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 1940.4
三百六十五夜 (西条八十作詞、古賀政男作曲)    霧島昇 1948.9


671 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/09(Sun) 17:30
昭和の流行歌掲示板
h ttp://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=haidakatsuhiko&dd=37&re=231&qu=1

672 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/24(Mon) 09:59
古賀メロディ聴き比べ16:あの夢この歌
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/f16e19d47310de22abfd845fa93b1c03


673 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/26(Wed) 00:26
>>670

☆ミス・コロムビア(松原操)の歌う「古賀メロディ」

「お蝶夫人」の唄 (西条八十作詞、古賀政男作曲)1933.3
気まぐれ涙  (西条八十作詞、古賀政男作曲)  1933.10
誰も知らない (サトウハチロ−作詞、古賀政男作曲)1939.3
新妻模様   (久保田宵二作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 1940.3
そうだその意気(西条八十作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 李香蘭 1941・5
桜花に誓う  (西条八十作詞、古賀政男作曲) 奈良光江 三原純子 1945
目ン無い千鳥 (サトウハチロ−作詞、古賀政男作曲)霧島昇 1940.4
故郷の白百合 (サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)霧島昇 1943
いさおを胸に (サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)楠木繁夫1944 広田竜太郎編曲
三百六十五夜 (西条八十作詞、古賀政男作曲)   霧島昇 1948.9


674 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/26(Wed) 12:11
古賀政男は、昭和9年から昭和13年までテイチクの。昭和14年に外務省音楽文化親善使節として、アメリカ、南米に渡米。
主に、松葉操の初期の昭和8年と、渡米コロムビア復帰後の昭和15年(1940)以降となる。

675 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 09:54

■■[日本のクラッシック」古賀メロディ-は第一級のクラッシック歌手によって支えられた第一級の文化遺産!!。


 ☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)


■東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)  通称;上野の音楽学校

佐藤千夜子  東京音楽学校 文のかおり(古賀正夫作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺   (島田芳文作詞)  1931.7
渡辺光子   東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
由利あけみ  東京音楽学校 黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
波平暁男   東京音楽学校 月夜船    (藤浦洸作詞) 1944.11


■東洋音楽学校(現・東京音楽大学)

淡谷のり子  東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
有島通男   東洋音楽学校 春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
霧島 昇   東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
奈良光枝   東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12

■武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)

中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11


■帝国音楽学校

伊藤久男 帝国音楽学校   熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11


■その他

轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ)  別れの唄    (山川あさを作詞)  1936
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
李 香蘭(山口淑子)*     紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
*三浦環,他に師事


676 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 11:10
訂正

■■[日本のクラッシック」古賀メロディは,第一級の詩人、第一級の作曲家、および第一級のクラッシック歌手に支えられた第一級の音楽文化遺産です!!。

 ☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

■東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)  通称;上野の音楽学校
(東京美術学校と東京音楽学校が、戦後の学制改革により東京藝術大学となった。)


佐藤千夜子  東京音楽学校 文のかおり (古賀正夫作詞)1929.12
関 種子   東京音楽学校 乙女心     (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞)1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺   (島田芳文作詞) 1931.7
渡辺光子   東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
杉狂児、   東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
由利あけみ  東京音楽学校 黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
波平暁男   東京音楽学校 月夜船    (藤浦洸作詞) 1944.11

■東洋音楽学校(現・東京音楽大学)

淡谷のり子  東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
有島通男   東洋音楽学校 春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
霧島 昇   東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
奈良光枝   東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12

■武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)

中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11

■帝国音楽学校

伊藤久男 帝国音楽学校   熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11

■その他

轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1
千早淑子(松島詩子)     純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ)  別れの唄    (山川あさを作詞)  1936
ディック・ミネ   立教大学   戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
李 香蘭(山口淑子)*   紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
*三浦環他に師事

玉川英二、倉中佳人、瀬川与志は、サトウハチロ―の変名。



677 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 14:01
■大衆音楽と作曲家(昭和・戦前)■

中山晋平(1887〜1952)(※)青い芒、波浮の港、当世銀座節、東京行進曲
弘田龍太郎(1892〜1952)   野薔薇の歌、無憂華の唄、いさおを胸に(編曲)、今年の燕、お国のために
佐々木すぐる(1892〜1966)  兵隊さんよありがとう、昭和の子供
佐々紅華(1907〜1961)   君恋し、祇園小唄、浪花小唄、神田小唄
堀内敬三(1897〜1983)(※) 黒い瞳よ今いずこ、麗人の唄、
塩尻精八          道頓堀行進曲、女給の唄
奥山貞吉(1887〜1956) ザッツ・オーケー、沓掛小唄,乳姉妹の唄、お島千太郎旅唄

古賀政男(1904〜1978)(※)影を慕いて、丘を越えて、あけみの唄、いさおを胸に、
松平信博(1893-1949) サムライ・ニッポン、ルンペン節、天国に結ぶ恋
江口夜詩〈1903〜1978〉    十九の春、忘られぬ花、急げ幌馬車
仁木他喜雄〈1901〜1958〉  高原の月、めんこい仔馬
万城目正〈1905〜1968〉   旅の夜風、愛染夜曲、純情二重奏
服部良一〈1907〜1993〉(※)蘇州夜曲、別れのブルース、別れのブルース
佐々木俊一〈1907〜1957〉  涙の渡り鳥
竹岡信幸(1907〜1985)   赤城の子守歌,人妻椿
長津義司〈1904〜1986〉   十三夜、
古関裕而〈1909〜1989〉   船頭可愛や、愛国の花、露営の歌、暁に祈る
早乙女光〈1904〜1944〉   湖畔の乙女、荒野の夜風、愛国の花、古き花園
明本京静〈1905〜1972〉 父よあなたは強かった、伊豆の子守唄
大村能章〈1893〜1962〉   旅笠道中、野崎小唄、
阿部武雄〈1902〜1968〉   流転、むらさき小唄、国境の町
山田栄一〈1906〜1995〉   すみだ川

※日本音楽著作権協会会長歴任 (他に詩人、西条八十、サトウハチロー、勝承夫)


678 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 14:09
■昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前) ■

昭和前半の昔の歌には、その3分間の中に「ドラマ」があって、歌詞と曲は一体のものでした。
当代随一と言われた詩人、作詞家、作曲家たちが心をこめて作った歌、そのさりげない短い言葉、そのメロデーの中に行間のドラマ、・喜びと哀しみを共有したのです。
昭和戦前の大衆歌曲(歌謡曲)分野に貢献した主な詩人・作詞家。


*野口雨情(1882〜1945)  波浮の港、鶯の夢、青い芒、紅谷の娘、
*西條八十(1892〜1970)(※)東京行進曲、誰か故郷を想わざる、旅の夜風
 時雨音羽(1899〜1980 ) 出船の港、鉾をおさめて、君恋し、浪花小唄
 堀内敬三(1897〜1983) 私の青空、アラビアの唄、黒い瞳よ今いずこ
 長田幹彦(1887〜1964) 祇園小唄、天竜下れば、島の娘
*島田芳文(1898〜1973)  丘を越えて、キャンプ小唄、月の浜辺、窓に凭れて
 高橋掬太郎(1901〜1970) 酒は涙か溜息か、雨に咲く花、人妻椿
*佐藤惣之助(1890〜1942)人生の並木路、新妻鏡、男の純情、青い背広で、
*サトウ・ハチロ−(1903〜1973)(※)麗人の唄、目ン無い千鳥、勝利の日まで、
*西岡水朗(1909〜1955)  嘆きの夜曲、忘られぬ花、
*大木惇夫(1895〜1977)  崑崙越えて、思い出の記、雲のふるさと、国境の町
*藤浦 洸(1893〜1979) ビア樽ポルカ、別れのブルース、月夜船
*久保田宵二(1899〜1947)浮草の唄、ほんとにそうなら、山寺の和尚さん、
 佐伯孝夫(1902〜1981) 無情の夢、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、
 門田ゆたか(1907〜1975) 東京ラプソディー
 藤田まさと(1908〜1982) 旅笠道中、明治一代女、妻恋道中、鴛鴦道中、
 倉仲房雄(サトウハチロー)合歓の木蔭で、東京の夢、友情夜曲、
 玉川英二(同上)     二人は若い
 星野貞志(同上)     うちの女房にゃ髭がある、あゝそれなのに
 山野三郎(同上)      若しも月給が上がったら
 島田磬也(1909〜1978)   白虎隊、望郷の唄、啄木の唄
 宮本旅人        旅姿三人男、懐しのヴィオロン
 石松秋二        十三夜、九段の母、満州娘
 矢島寵児1908〜1946)  名月赤城山
 清水みのる(1903〜1979)出船の唄、別れ船
 野村俊夫(1904〜1966)  暁に祈る、ヒュッテは招く、あの日あの時

(*は詩人。※は戦後において日本音楽著作権協会会長歴任(他に勝承夫))

 佐伯孝夫、サトウハチロー、門田ゆたか は西條八十の弟子。
 島田芳文は野口雨情門下。
 佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎


679 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/27(Fri) 21:30
宵夏  佐藤惣之助

しづかさよ、空しさよ
この首里の都の宵のいろを
誰に見せよう、眺めさせよう
まつ毛に明星のともし灯をつけて
青い檳榔樹の扇をもたし
唐の若い詩人にでも歩いてもらはう
ひろい王城の中門の通りを
水々しい蛍を裾にひいて
その夏服を百合の花のやうに
この空気に点じいだし
さて、空しい空しい
読めばすぐ消えてしまふやうな
五言絶句を書いて貰はう。



 大正期の詩人として、西条八十(1892 ? 1968)と佐藤惣之助(1890 ? 1942)のふたりが、なぜか気になる。八十は芸術派、惣之助は人道派とタイプは違うが、似ているところもある。ひとつは、詩のうまさ。もとより、その質は異なるし、そのうまさに余剰(余情にあらず)がないところがものたりないと云えるが。もうひとつは、後に歌謡曲の作詞家として名をなしたところ。例えば、村田英雄は、惣之助作詞の「人生劇場」(1938年。創唱者は楠木繁夫)、八十作詞の「王将」(1961年)を歌っている。「私は文学といひ、芸術といふものの価値をさまでに大きいものに考へてゐない詩人である。(略)私の所願は、身をもつて人生を深く、ひろく、経験し、識り味はふことにある」という八十のことばと、「わたしはきれい事に小さく完成したくない。放大な、未成品的な、異端でゐたい」という惣之助のことばを並べて、いろいろと考える。
 詩集でいえば、八十では『砂金』(1919/大正8年)に収められたいくつかの詩、惣之助では『琉球諸嶋風物詩集』(1922年/大正11年)に収められたいくつかの詩を時折読み返したくなる。惣之助の「宵夏」を取り上げたのは沖縄が好きだからでもある。読んでいると、かつて訪ねた「首里の都の宵のいろ」が思い出され、そして、「読めばすぐ消えてしまふやうな」詩が目の前を過ぎていくのである。『琉球諸嶋風物詩集』について、日夏耿之介は、「中山古謡の心酔の果が」「新境地を打開した」と評した後、「今後の精神段階如何により」「純詩の領域まで辿りつかないとは必ずしも云へぬ」と云っているのだが……。(文責・岡田)



680 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/29(Sun) 15:09
>>675
レコード草創期

関種子 (1907-1990)
東京音楽学校声楽科を卒業。ネトケ・レーヴェに師事する。1929(昭和4)年、山田耕筰作曲のオペラ「堕ちたる天女」の主役でデビュー。ソプラノ歌手として、「カルメン」のミカエラ役、「ファウスト」のマルガレータ役などを歌う。
流行歌手としても、1931(昭和6)年に吹き込んだ「日本橋から」「窓に凭れて」をはじめ、「嘆きの夜曲」「乙女の春」「雨に咲く花」などヒットも数多い。高音域も無理がない柔らかく美しい歌唱は一流オペラ歌手ならでは。
戦後は藤原歌劇団で「ラ・ボエーム」のミミ役などを歌い、オペラの舞台で活躍。流行歌とオペラの二つの世界で活躍した希有の存在。

681 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 21:27
■戦中戦後における「童謡」について、ーについてはここの以下を参照
 サトウハチローと童謡・ろばの会による童謡排斥運動と童謡の終焉

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

>>161-163
>>235-242
>>450-476


682 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/03(Fri) 17:00
童謡の歴史の中の、戦後、「ロバの会」と童謡排斥運動
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=561794206&ls=50


683 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/06(Mon) 18:10
佐藤千夜子が、「文のかおり」「影を慕いて」など、古賀の曲を全7曲をビクターでレコードィングした。

しかし、無名な一青年演奏家にすぎなかった若き「古賀正男」の作曲作品を、天下のビクターの、それも中山晋平作品を広める歌手、佐藤千夜子がレコードィングするなどということは、ビクターにすれば考えられないことだったはずです。

佐藤千夜子のすごいところ、その功績、それは古賀政男の才能を発掘し、ビクターの反対を押し切ってでも、その作品をレコードィングでき、世に送りだしたということです。

もし、これがなかったら、今の『古賀メロディ』の隆盛も、大衆歌謡たる『歌謡曲』の歴史も違ったものとなっていたことでしょう。

ただ、佐藤千夜子は、レコードィングの7日後には、日本を発っています。
ですから、宣伝も何もされていないのです。

宣伝もないのだから、佐藤の『影を慕いて』がはやらなかったというのは、しかたないことだったはずです。

しかしそれをコロムビアがほっておくはずがありません。

今から89年前、佐藤千夜子の「影を慕いて」が発売された昭和6年(1931)が明けてまもなく、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から古賀政男(正男)に面会の申し入れがあった。

コロムビアの専属作曲家となって、『影を慕いて』のような作曲をしてほしいとのことであった。このとき古賀に破格な『印税』が支払われると言う条件でである。しかもまだ印税制度が一般的でなかった時代である。
 
昭和4年から昭和5年末にかけて、佐藤千代子によって『文のかをり』(1930年3月発売)をはじめとして、『影を慕いて』(1931年1月発売)など7曲が吹き込まれた。

栄えあるレコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手、佐藤千代子(ビクター)の力添えで、古賀は作曲家になったといえる。この辺りのことは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」(1977年(昭和52年)4月4日から10月1日)に描かれている。
h ttp://www.youtube.com/watch?v=Vz_pa0HGiwU

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。

昭和4年、明治大学を卒業した古賀政男がコロムビアの専属作曲家となったのは、89年前の昭和6年(1931)3月20日9だった。

「影を慕いて」「日本橋から」などは、藤山一郎、関種子など東京音楽学校主席卒業のクラッシック歌手によって、再び脚光を浴びることとなった。


684 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/09(Thu) 00:31
「古賀メロディ」の原点たる「影を慕いて」は初唱の佐藤千夜子盤と、藤山一郎盤があり、
なんか、佐藤盤の評価が高くないようだが、古賀政男の切々とした思いがよりよく表現されているという点で、
佐藤盤は評価されている。いずれも東京音楽学校出身。

なお、佐藤の「篠田の藪」(しのだのやぶ)や「さすらいの唄」しのだのやぶ「旅人の唄」は絶品。ぜひおすすめ!!。


685 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/06(Wed) 23:34
流行歌の世紀―近代日本の大衆音楽(菊池清麿)
中山晋平・鳥取春陽・古賀政男・藤山一郎 古関裕而
h ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html

流行歌にとっての二〇世紀とは一体何であろうか。それは「流行り唄」から「流行歌・歌謡曲」という近代化の時代である。洋楽の手法にもとづいて中山晋平、鳥取春陽らがオリジナルな民衆歌曲を創作したことがまず第一の革命といえる。

686 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/06(Wed) 23:39
コロムビア初期における、コロムビアに入社するまで、してからの古関の苦難の実際の生々しい姿のなど貴重。

687 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/12(Tue) 09:20
このあたりのことがスルーされてはならない!。

688 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/12(Tue) 09:28
■「昭和の流行歌掲示板」・・

h ttp://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=haidakatsuhiko&dd=37&re=231

→→ ここの「日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史」の主な項目(索引)がまとめられています。

689 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/15(Fri) 15:42
童話・童謡運動の真っ盛り、同時に新民謡運動が目覚め、童謡・新民謡運動へと変質して行く、大正から昭和にかけての時代。

1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学した佐藤千夜子、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、
演奏家の古賀正男(古賀政男)、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、大衆音楽の黎明期、激動の時代を駆け抜けてゆきます。

そして、「レコード歌謡」が形作られ、さらに童謡・新民謡風の時代から、古賀政男の登場によって、より「メロディー」が強調されたものになる。
より繊細で温かみのある、人を引き込む「古賀メロディ」の、まさに「3分間の芸術」の極致たる世界に入ってゆく。

古賀のいわゆる「古賀メロディ」は、中山晋平の「晋平節」と並んで、昭和初期レコード歌謡の代表的旋律でした。

「晋平“節”」の時代から、これからの主流としての「古賀“メロディ”」の時代へ、昭和一桁時代に、人はそう呼ぶようになってゆく。

690 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/16(Sat) 22:56
明治41年、東京音楽学校を主席で卒業した長世は卒業後すぐに母校に招かれ(文部省)邦楽調査掛として、箏曲や長唄など日本の伝統音楽の研究活動に従事する。洋楽にしても、日本の音楽との調和は大きな課題だったようだ。大切なことは長世はこうして、日本的なるものを外国にではなく、日本の伝統音楽の中に求めていくということ、それがフレームワークになっていく。そして、「春の海」で知られる邦楽家・宮城道雄と「新日本音楽」という活動を展開する。これは、日本の伝統を洋楽の中に生かすことを目指したもので、その後日本の声楽曲における作曲のパイオニアとして活動することになる小松耕輔、弘田龍太郎、梁田貞らの作曲研究会に大きな影響を及ぼしたといわれます。
1920(大正9)年には,宮城と作曲家本居長世の作品発表会が,「新日本音楽大演奏会」と名付けられ,ここで発表された「十五夜お月さん」 が大きな反響を呼び、人気童謡作家として知られるようになる。

 ついでに、こうした童謡運動と並ぶ新しい文化運動に、昭和の初めの新民謡運動(童謡・新民謡運動)があげられる。新民謡には、[須坂小唄]「中野小唄」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)などのいわゆる民謡の他、「旅人の唄」「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)・・などの歌曲もある。本居長世も「豊作唄」「江戸祭りの唄」など新民謡に類別される曲を作曲している。

 新民謡運動に集まった野口雨情、中山晋平、本居長世、藤井清水(きよみ)、佐藤惣之助、北原白秋、西条八十、・・歌手の佐藤千夜子、藤本二三吉、・・・はその後の昭和の歌謡・歌曲を担う中心人物となっていく。新作地方民謡が沢山作られるとともに、「船頭小唄」「紅屋の娘」( 野口雨情/中山晋平)・・のように、新民謡は歌謡・歌曲として盛んになり、その後の歌の原型がみられる。

 (昭和3年[波浮の港]を歌った佐藤千夜子・・中山晋平の弟子で、晋平の歌を世に広めた歌手・・は、レコード歌手第一号と言われ、また、同年、まだ明治大学学生だった古賀政男の[影を慕いて]を始めて歌い、今までとはまったく系列の異なる作曲家古賀政男を世に出すきっかけとなった。



作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。

序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。;

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
 
そして、古賀を、「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた」と評した。 「文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。 」



691 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/16(Sat) 22:59
詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。;

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
 
そして、古賀を、「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた」と評した。 「文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。 」

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