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【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 08:43
昭和6年(1931)「酒は涙かため息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・いずれも藤山一郎、
今から88年前、まもなく90年を迎える「古賀メロディ」。
《日本のクラッシック》「古賀メロディ」の歴史を振り返る。


86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 00:08
☆古賀政男とその主な人脈

歌手; 佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環、
    淡谷のり子、楠木繁夫、松平晃、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、川畑文子、
    由利あけみ、渡辺はま子、伊藤久男、松島詩子、ディックミネ・・
詩人; 萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー 、島田芳文 ・・
作曲家;中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實・・
その他;棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香 蘭)、徳川無声、森繁久弥、山本富士子、美空ひばり、村田英雄、・・

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110



87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 14:22
☆古賀政男に関する文献

宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)
・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。

くろがね会「くろがね叢書 1944.10.31」 ・・「勝利の日まで」について
古賀政男「私の音楽生活二十年」(全音楽譜出版社1949)
毎日新聞社編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1955)
古賀政男「我が心の歌」(展望社1965)
日経新聞社編「私の履歴書 第48集」(日経1973)
「人間の記録93 古賀政男」(日本図書センター)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977
茂木大輔「誰か故郷を・・素顔の古賀政男」(講談社1979)
毎日新聞社『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』(毎日新聞社1979)
利根川祐「人物昭和史」(ちくま文庫720) (1989)
沢憲一郎著「二人の千代子 : 古賀政男の結婚」(文園社1994)
下嶋哲朗著「謎の森に棲む古賀政男」(講談社1998)
「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版)・・昭和53年、古賀政男追悼本
高平一記「うさぎ―古賀政男十三回忌年出版作品」 (単行本) 日本ブックマネジメント (1990/08)
菊池清麿「佐藤千夜子 ・永遠の歌姫 」(東北出版企画) 
菊池清麿「評伝 古賀政男」(アテネ書房2004)
「夢人生を奏でて」 : (古賀政男生誕百年記念特別版)古賀政男音楽文化振興財団(小学館スクウェア2004)


『古賀政男110 名曲集 古賀政男生誕百年記念 ギターでつまびく 我が心の歌』(全音楽譜出版社、平成15 年11 月刊)103 頁
佐高信『悲歌 古賀政男の人生とメロディ』(毎日新聞社)
佐高信『酒は涙か溜息か 古賀政男の人生とメロディ』(角川書店 角川文庫)
読売新聞文化部編『愛唱歌ものがたり』(岩波書店2003)・・ふと口ぐさむ愛唱歌66曲
寺山修司編著『日本唱歌集』』〈光文社カッパブックス30−17, 1972〉
藍川由美著「「演歌」のススメ」(文春新書2002)・・「演歌」という言葉は必ずしも適当でないと思うのだが

福田俊二「昭和流行歌総覧(戦前・戦中編〉」(拓殖書房1994)
コロムビア50年史編纂委員会編「コロムビア50年史」(日本コロムビア〈株〉)(昭和36年)
古賀政男編著「古賀政男ピアノ伴奏名曲集. no.1」(シンフオニー楽譜出版社(昭和14年)
「古賀政男ギター新奏法」シンフオニー楽譜出版社(昭和17年)
古賀政男編著「古賀政男作曲集. 第4輯」(全音樂譜出版社1948)
堀野羽津子編「古賀政男名曲集」(成美堂出版1978)
「古賀政男傑作全集 : 昭和歌謡50年史」(東京音楽書院1979)
古賀政男音楽文化振興財団編「ギターでつまびく古賀政男110名曲集 我が心の歌」全音楽譜出版社2003
「生誕100年記念 古賀政男大正琴名曲集」全音楽譜出版社2004
信長貴富編曲「混声3部合唱とピアノのための楽譜 近代日本名歌抄」(河合楽器製作所2008)宵待草、ゴンドラの唄、影を慕いて他

長田暁二編「楽譜 日本抒情歌全集4」(ドレミ楽譜出版社2008)
 「秋の野 - 北原白秋 團伊玖磨」、「川 - 千家元麿 橋本国彦」「鶯の夢 - 野口雨情 中山晋平」「秋の夜 - 長田秀雄 山田耕筰」「働くお山 - 高橋掬太郎 弘田龍太郎」
「酒は涙か溜息か - 高橋掬太郎 古賀政男」他




88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 14:32
☆古賀政男に関する文献2

 ・古賀政男傑作全集 : 昭和歌謡50年史
  古賀 政男著 東京音楽書院 1978
 
 ・森下 節著 [孤独の宴 : 小説・古賀政男 ]仙石出版1972

 ・田辺 明雄  「古賀政男論」
  掲載誌 季刊芸術 / 季刊芸術出版株式会社 [編] 臨時増刊号(1989年秋) 1989-10 p.p180〜189

 ・高橋 功「"回想の雅兄・古賀政男"」
  掲載誌 心 31(10) 1978-10 p.p129〜140

 ・「日録20世紀 1931 昭和6年」(講談社1997)注記:12/30 第1巻       第43号 通巻43号
  
 
 ・九州の偉人たちを育んだ「おふくろ物語」(2)古賀政男の母「セツ」
  掲載誌 財界九州 46(3) (通号 966) 2005-03 p.159〜162
  
 ・大石 さち子 「趣味と私 古賀政男音楽博物館--昭和と共に生きた古賀メロディ」
  掲載誌 共済新報 / 共済組合連盟 [編] 41(8) 2000-08 p.50〜52

 ・石出 法太 「古賀政男--「古賀メロディー」と民衆 」(20世紀の歴史のなかの人物)
  掲載誌 歴史地理教育 / 歴史教育者協議会 編 (通号 576) 1998-03 p.56〜57
 
 ・古賀 政男 「人との出会いにめぐまれて 」(わが人生を天職に生きて<特集> ; わが人生を天職に生きて--この道ひとすじ五十年--味わい深い人生哲学の数々) 掲載誌 潮 / 潮出版社 [編] (通号 214) 1977-03 p.p246〜247

 ・下嶋 哲朗 「太平洋戦争秘話=「歌謡曲の天皇」渡米の裏に外務省の謀略があ  った--古賀政男に下った「日米開戦前夜の密命」」
  掲載誌 「現代」 32(9) 1998-09 p.218〜228

 ・古賀 政男 「昭和を歌う我が涙の幾千曲 」
  掲載誌 潮 / 潮出版社 [編] (通号 120) 1969-12-00 p.350〜354

 ・松山祐士 編著「わが心の日本抒情歌集 」
 ドレミ楽譜出版社 2003 (シニアのためのピアノ曲集)

 ・舘野晰 編著「韓国・朝鮮と向き合った36人の日本人 : 西郷隆盛、福沢諭吉から現代まで 」 明石書店 2002
  
 ・里村あきら 著 影を慕いて… : 「古賀メロディー」知ったかぶり
  雄文社出版企画室 1993






89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 14:36
☆古賀政男に関する研究文献

森田哲至…「昭和歌謡」成立の系譜と黎明期の展開・・―日本橋と『昭和歌謡』の関係についての一考察―
(「日本橋学研究」日本橋学館大学 第3巻1号 2010年3月)

The Birth and Early Development of Showa Kayoh (popular hit songs in the Showa era) : A Consideration of its Beginnings in Nihonbashi
([日本橋学研究] 日本橋学館大学 3(1) (20100331))

ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110008895600
ttp://www.nihonbashi.ac.jp/nihonbashiology/pdf/nihonbashigaku_3-1.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%81%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7'

「日本橋」のキーワードのもとで、中山晋平、佐藤千夜子、古賀政男、藤山一郎 の関係する「SP歌謡」たる黎明期の「昭和歌謡」成立の系譜と展開について詳しく述べ られている。



参考

・【東京】不滅の古賀メロディー【ラプソディー】
  ttp://unkar.org/r/natsumeloj/1122559619

・【人生の並木路】佐藤惣之助【新妻鏡】
  ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1162563164/

・【童謡】詩人・西條八十と、その歌【歌謡曲】
  ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1154785781/

・【究極の】日本の歌こころの歌【癒し】
ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1011539806/

・歌う昭和史、藤山一郎
 ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1011539806/

・歌う昭和史、藤山一郎2
 ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1196428914/



(古いBBSで終了移転されていて広告などが入っています。)


利根川祐「人物昭和史」(筑摩書房 ちくま文庫720) (1989)



90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 16:24
>>89

利根川祐「人物昭和史」(筑摩書房 ちくま文庫720) (1989)

天  皇
近衛文麿
東条英機
吉田茂
大原孫三郎
小林一三
松永安左エ衛門
正力松太郎
野間清冶
菊田一夫
古賀政男


91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 17:15
小田急線代々木上原駅前、3000坪の古賀政男邸、昭和日本の著作権王を象徴するその豪華な古賀邸は昭和13年に作られた。
テイチクを退社し、14年にコロムビアに復帰するわけだが、この間に「外務省音楽文化親善使節」として、アメリカ、南米を回り、1分間1万ドルのNBC放送から全世界に流れた。
昭和13年、代々木上原の駅前3000坪を手に入れた古賀はここに古賀村を作るべく古賀邸の建設を始める。
当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水組(現清水建設)に建てさせ昭和13年に完成した。
その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。
「日本の洋館 第6巻 昭和篇2 」講談社2002(ISBN-13: 9784062614863)
そして、テイチクを退社した古賀政男は藤原義江の見送りを受けて横浜港へ出発。

14年8月には、1分間1万ドルのNBC放送から古賀の曲が全世界に流れた。14年、「世界の古賀」となって帰国凱旋した古賀は三浦環の歓迎祝賀会を受けた。そしてコロムビア復帰。
このコロムビア時代は、初期コロンビア黄金時代、テイチク黄金時代と並んで、「古賀政男第三期黄金時代」と言われる。
同時に14年には、日本の著作権行政に大きく影響を及ぼすことになる、JASRACの前身『大日本音楽著作権協会』が設立される。
第三期黄金時代の古賀はコロムビアの古賀としてだけでなく、日本の古賀、世界の古賀として、この「大日本音楽著作権協会」の設立に大きく関わっている。
古賀政男は著作権長者として有名、自身もコロンビアからテイチクに移るのに著作権に苦労し弘田竜太郎に助けられた。毎朝玄関でカネを数える音がするという伝説もある。
著作権料も圧倒的であって、JASRACの前身「大日本音楽著作権協会」設立にも深く関与、戦後「日本音楽著作権協会会長」など、「著作権」と切っても切れない関係にある古賀政男。
現在、古賀政男音楽博物館になっている、その財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。
日本音楽著作権協会(JASRAC)は現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、昭和14年(1939年)に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
著作権に関する仲介業務に関する法律 (昭和 14年法律 67号) により主務官庁の許可を得た日本唯一の音楽著作権仲介団体となった。

西新橋にあった本部は古賀政男没によって創設された、東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有する同博物館と一体の同ビルに移転。22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。
戦前の大日本音楽著作権協会では政治家が会長をつとめたが、昭和23年から作曲家と詩人が交代となって、作曲家古賀政男は、作曲家中山晋平、詩人西條八十、作曲家堀内敬三、詩人サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長を歴任している。



財団法人古賀政男音楽文化振興財団、古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも不思議ではない。



92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 17:32
昭和のSPレコード歌謡、それは「三分間の芸術」ともいわれる。

基本的にはクラッシックによる洋楽を基したもので、当時殆どクラッシック畑から出たものであるが、日本的な風土に由来する詩情(詩)を短い制約で表現するという点では、ごく日本的文化の極地と言え、クラッシックそのものとは同一視にはできない。

古賀の作品には、16分音符や3連符などが多用されているものが多く見られ、歌の詩情が細かい節回しで表現されている。ここが「古賀メロディ」と呼ばれ、多くの人々の心の琴線に触れ長く愛されている理由でもある。

なお、細かい節回し,これを(「小節・しょうせつ」。「こぶし」ということがある。)という。

古賀は、自分で自由に調弦できるギターやマンドリンなどの弦楽器を使うことによって作曲において、ピアノでは出せない音を求めたようです。

一方これに対し、一般的に外国曲には、詩にはあまり重きをおくわけでもない、あっさり、さっぱりした歌が殆どだ。ひたすら、こうしたどちらかというと洋風のさっぱり曲を素敵だとするものもいるだろう。

彼らはそうしたものを、なぜか「クラッシック」と混同することがあるようだ。

時代を超えて人の心を掴むことができなければ長く生き続けることはできない。
やはり歌の生命は「詩」と「メロディ」に尽きるといえるだろう。





93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 21:41
昭和14年(1939)、内務省管轄の「大日本音楽著作権協会」ができた。その後「日本音楽著作権協会」(JASRAC)となった。最初に著作権を預ける契約を結んだのは島崎藤村である。

昭和14年、「外務省音楽文化親善使節」としてアメリカ・南米を回って帰朝、コロムビアに復帰した、コロンビアの、世界の古賀政男、一分間1万ドルのNBC放送から世界に流れた、コロムビアの顔、古賀政男は、この「大日本音楽著作権協会」の設立に深くかかわった。
会長は戦前戦中は政治家で、戦後昭和23年から作曲家中山晋平が会長となり、その後西條八十、サトウハチロー、古賀政男など錚々たる詩人や作曲家などが会長となっている。
ただ、明治時代に作られた「著作権法」は戦後現在の姿に改正されるまで一度も見直しされず、パクリはけっこうあったようだ。

参考までに、西新橋から移転した現在のJASRACの本部ビルは、小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」と隣接し、旧古賀邸の正門があったあたりに建つ。
「古賀政男音楽博物館」とともに、その建物は昭和の歌謡に絶大な寄与を果たし著作権も圧倒的とされる古賀政男の遺志を継ぐ「古賀政男音楽文化振興財団」の所有管理に属するというのは象徴的であろう。


・日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長

昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986) 旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者、早大教授
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 作詞・訳詞家、作曲家、音楽評論家
昭和46〜48   サトウ・ハチロー(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人

昭和55〜    服部良一(1907〜1993)  作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998)  作曲家
平成6年〜    黛 敏郎(1929〜1997)  作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008)  作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜2010)  作詞家
平成16年〜 船村 徹(1932〜)    作曲家
平成22年〜 都倉俊一(1948〜)    作曲家





94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/11(Thu) 22:01
戦後、作曲家中山晋平(昭和23〜27)から、詩人勝承夫(昭和52〜55)までは、
錚々たる作曲家と詩人が交代でやっていたが、残念ながら以後、歌の世界も大きく変り果て、
くずれてしまって現在に至る。なお、作曲家中山晋平は昭和27年12月にこの世を去った。

95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/12(Fri) 08:57
昭和3年(1928)にはレコード歌手第一号とさあれる佐藤千夜子の「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)の他、二村定一の「アラビヤの唄」、「青空」など外国曲の訳詩曲や、藤原義江の「出船」(杉山長谷夫作曲〉、「出船の港)(野口雨情作詞、中山晋平作曲)など。昭和4,5年には、映画主題歌第一号「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)、「紅屋の娘」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)など佐藤千夜子の中山晋平の曲、二村定一の「君恋し」(時雨音羽作詞、佐々江華作曲)など。

昭和6年に、ここに彗星のように現れるのがコロムビアの若き古賀政男。

丘を越えて  (藤山一郎)
キャンプ小唄 (藤山一郎)
影を慕いて  (藤山一郎)
月の浜辺   (河原喜久恵)
乙女心    (関種子)
窓に凭れて  (関種子)
酒は涙か溜息か(藤山一郎)

昭和6年(1931)に入ると、ビクタ‐1月新譜「影を慕いて」(佐藤千夜子、昭和5年10月吹込)以降、3月にコロムビア専属作曲家となった新星古賀政男は次々にヒット作品を世に送り出し、これまでの晋平節とは一味違う哀調を帯びた「古賀メロディ」と呼ばれることになる新しい歌謡曲(歌謡歌曲)のジャンルを確立してゆく。
影を慕いては、昭和7年藤山一郎に依って再び吹き込まれる。
「古賀メロディー」を支えたのは、河原喜久恵、関種子、藤山一郎など、東京音楽学校(東京芸大音楽学部の前進)出身の若き首席卒業歌手たちなどだった。当初ビクターの一人勝ちで出発したレコード界の主流は古賀政男のコロムビアに移ってゆく。
他に昭和6年には、「侍ニッポン」(西條八十作詞、松平信博作曲、徳山 l(たまき))などがある。

昭和7年から8年にかけて

鳩笛を吹く女の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲) 藤山一郎
影を慕いて   〈古賀政男作詞作曲〉 藤山一郎
銀座の柳    (西條八十作詞、中山晋平作曲)  四家文子
「お蝶夫人」の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲)  ミス・コロムビア
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  関種子
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  関種子
あけみの唄   (原 阿佐緒作詞、古賀政男作曲)  関種子
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詞、古賀政男作曲)   関種子
二見情話    (西岡水朗作詞、古賀政男作曲)
美はしの宵   (島田芳文作詞、古賀政男作曲)  関種子
去りゆく影(西條八十作詞、古賀政男作曲) 関種子
サーカスの唄(西條八十作詞、古賀政男作曲) 松平晃


昔は、大方、詩人が詩を作り作曲家が曲を作り、歌手たちが歌った。
歌手達は、たいてい音楽学校出身者で、オペラとかにも出演していた。
古賀メロディを支えた藤山一郎、関種子など東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部の前進)の首席であった。





96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/12(Fri) 09:33
古賀メロディは、古賀政男の曲は、昭和3年、人生の苦悩から始まった。昭和3年「影を慕いて」にはじまり昭和53年に亡くなるまでの半世紀の歴史。

古賀メロディの歴史は、昭和3年「影を慕いて」にはじまり、ちょうど坪井栄「二十四の瞳」と重なる。「二十四の瞳」は昭和3年から戦後早々まで日本が草深かったまだ貧しかった時代の日本の縮図といえる小豆島の寒村の小学生と教師を描いたもの。

昔は昭和戦前まで、「二十四の瞳」に描かれてるように、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだされる、そんな時代であったことでしょう。

このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。
日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、大切なものがだんだん失われてゆくのは大変残念なことです。

家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。
支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。

どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。
この歌は、日本人が忘れかけていたこと大切なことを思い出させてくれます。

「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。

まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない詩です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり、作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。
心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
h ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html

昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。
「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。

「人生の並木路」はなんといっても昭和12年、若きディックミネが歌うオリジナル版、まさに悲壮感漂う名曲です。

なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。

以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。
古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。


97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/12(Fri) 09:57
>>91

☆有名人の邸宅(参考)

古賀政男邸(代々木上原)   3000坪
田中角栄『目白御殿』(目白) 2575坪
鳩山会館(文京区)       2000坪
麻生太郎邸(渋谷)  1500坪
孫正義邸(港区)    960坪
三木谷御殿(渋谷区)  272坪
鳩山由紀夫邸(大田区  205坪
長嶋茂雄邸(田園調布) 180坪
ひばり御殿(目黒)   173坪


98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/12(Fri) 10:09
李香蘭

花白蘭の歌(楠木繁夫 共唱)
紅い睡蓮(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
夕月乙女(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
荒城の月(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
夜霧の馬車
北京の子守唄
濱邊の歌
宵待草
さうだその意氣(霧島昇・松原操 共唱)
サヨンの歌(映画『サヨンの鐘』主題歌)
私の鶯(映画『私の鶯』主題歌)
新しき夜(映画『私の鶯』挿入歌)
さくら咲く國
旅人の歌
蘇州夜曲(映画『支那の夜』挿入歌)映画の中で歌唱
支那の夜(映画『支那の夜』主題歌)映画の中で歌唱
蘇州の夜(映画『蘇州の夜』主題歌)
迎春花(映画『迎春花』主題歌)
若き日の夢(映画『戦ひの街』主題歌)
花の生命(霧島昇 共唱)
母は青空(映画『誓ひの合唱』挿入歌)
台湾軍の歌(映画『サヨンの鐘』の中で歌唱)[9]
天涯歌女(映画『野戦軍楽隊』挿入歌、中国語で歌唱)[10]
懐かしのタンゴ
夜来香(映画『東京の休日』『上海の女』の中でも歌唱)
思い出の白蘭
東京夜曲(映画『東京夜曲』主題歌)
愛の花びら?ラヴィ・アン・ローズ?
珊瑚礁の彼方に
ロンドンデリーの歌
何日君再来(映画『上海の女』挿入歌)
ふるさとのない女(映画『上海の女』挿入歌)
春風春雨(映画『上海の女』挿入歌)
郊外情歌(映画『上海の女』挿入歌)


99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/11/07(Thu) 20:08
「古賀メロディ」は80年の歴史を経てジャンルになった。

100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/10(Tue) 23:34
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110&ls=50

101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/11(Wed) 14:44
丘を越えて


 作詞:島田芳文
 作曲:古賀政男
  歌唱:藤山一郎


丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

昭和4年(1929)、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌,元祖「青春歌謡」である。

昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後70年、昭和95年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。

山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。



102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/14(Sat) 22:53
大正から昭和の初めにかけて、大衆が誰でも歌える歌というものが
民謡など除いて存在しなかった。

誰でもが歌える歌ずくり、それを一貫して目指した者、それが中山晋平。

晋平の歌は【晋平節】と言われた。劇中歌から、童謡、新民謡、歌謡歌曲。

中山晋平は野口雨情、佐藤千夜子と組んで、大正から昭和の初めにかけて「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)を行っていた。

まだ新幹線も飛行機もない時代に全国行脚を行い民謡採譜や普及運動を行っていた。

この中から生まれたのが新民謡「波浮の港」で、この『波浮の港」がビクタ―発足に伴いレコード第一号となり、レコード歌謡(流行歌といった)第一号。

これを歌った佐藤千夜子は『レコード歌手第一号』と言われた。

このレコード歌手第一号佐藤千夜子の力添えで誕生するのが古賀政男。

昭和6年(1931)1月佐藤千夜子の歌で「影を慕いて」「日本橋から」が世に出た。(後に昭和7年3月藤山一郎)

そして、晋平の【晋平節】の次に世の流れになっていくのが古賀政男の【古賀メロディ】。

「古賀メロディ」の「メロディ」とは、「晋平節」の「節」のに対するもので、古賀政男が「メロディ」を大切にその重要性を主張していたそことによる。

今年、平成31年は『古賀メロディ 88年』

影を慕いて、丘を越えて、酒は涙か溜息か、窓に凭れて、月の浜辺・・

もうすぐ90年!

昨日今日できたものではない・

80年を超える多くの戦前の古賀メロディの名曲の重み!。

103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/01(Wed) 20:36
古賀政男がコロムビアに作曲家として入社したのがしたのが今から89年前の昭和6年(1931)3月、令和2年(2020)は
89年。

古賀メロディのほとんどが80年を超える。

80年を超える日本の歴史に燦然と輝く不滅の日本のクラッシック・古賀メロディ。





104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 22:56
☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品

童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲)   大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇   (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす      (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲)  同
ひばり  1929.4(西條八十作詞、 宮城道雄作曲)   同
鶯の夢 1928.5(野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪  1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節   1928.7  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8  (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様   1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲  1929.6  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し    1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒    1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄   1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲)   ビクター50776
港おどり  1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴  1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花  1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50881
紅屋の娘   1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50936
文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、  古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
母の歌    1930.1(鶴見祐輔作詞、 中山晋平作曲) ビクター51027@
唐人お吉の唄(黒船篇)1930.2(西條八十作詞、中山晋平作曲)  ビクター51093
この太陽   1930.6  (西條八十作詞、  中山晋平作曲) ビクター51240
琵琶湖シャンソン1930 (西条八十作詩・中山晋平作曲)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)


105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 23:10
古賀政男初期の7曲 佐藤千代子歌唱(ビクター)

文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、   古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)


106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 23:13
古賀政男(正男)初期の7曲 佐藤千夜子歌唱(ビクター)

107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/09(Thu) 15:12
文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
以上は,作曲家になる前の作品

108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/10(Fri) 19:22
古賀政男は著作権長者として有名、自身もコロンビアからテイチクに移るのに著作権に苦労し弘田竜太郎に助けられた。毎朝玄関でカネを数える音がするという伝説もある。
著作権料も圧倒的であって、昭和14年、JASRACの前身「大日本音楽著作権協会」設立にも、コロムビアの顔として深く関与、戦後「日本音楽著作権協会会長」など、「著作権」と切っても切れない関係にある古賀政男。

現在、古賀政男音楽博物館になっている、その財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。
日本音楽著作権協会(JASRAC)は現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、昭和14年(1939年)に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
著作権に関する仲介業務に関する法律 (昭和 14年法律 67号) により主務官庁の許可を得た日本唯一の音楽著作権仲介団体となった。

西新橋にあった本部は古賀政男没によって創設された、東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有する同博物館と一体の同ビルに移転。22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。
戦前の大日本音楽著作権協会では政治家が会長をつとめたが、昭和23年から作曲家と詩人が交代となって、作曲家古賀政男は、作曲家中山晋平、詩人西條八十、作曲家堀内敬三、詩人サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長を歴任している。



財団法人古賀政男音楽文化振興財団、古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも不思議ではない。



109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/10(Fri) 23:47
 ■■NHKTV 「日本の名曲10曲」■■ 1990 NHK TV (
1年間放送)

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本がまだ貧しかった80年以上前から、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級大歌手・声楽家が好んで
歌った歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ日本の名曲でした。

110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/19(Sun) 14:19
丘を越えて
 
 作詞:島田芳文
 作曲:古賀政男
 歌唱:藤山一郎
 
 (一)
 丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

(二)
 丘を越えて行こうよ
 小春の空は麗らかに
 澄みて嬉しいこころ
 湧くは胸の泉よ
 讃えよわが青春を
 いざ聞け遠く希望の
 鐘は鳴るよ


   

昭和4年、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌。元祖「青春歌謡」である。
昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、89年前の昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後75年、昭和95年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。
山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。




111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/02(Sun) 00:17
昭和SPレコード歌謡番組を待望する。

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=578828634&ls=50

112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/05(Wed) 21:52
良い歌は令和だろとどの時代でも歌い継がれるものですね。戦前の歌声に乾杯!

113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/05(Wed) 22:01
戦前は、貧しい時代ではあったが、軍国主義を除けば情緒があったようです。日本の天才的な数学者の岡潔さんもそう言っています。「戦前は軍国主義を除けば、良い時代であった」と。









114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 15:46
(参考)

☆戦前の流行歌
 h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt


115 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 22:11
声楽の基礎の無い中途半端な声楽の技術を持った歌手が、クラシック系の歌手が歌った曲を歌うと思わず耳を覆いたくなる、
これは私だけだろうか。

116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/09(Sun) 00:00
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

117 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/09(Sun) 18:18
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。


藤山一郎(1911.4.8-1993.8.21)が初吹込したのは、当時唯一の官立の音楽学校だった東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)在学中だったが、非常に完成された唱い方だった。昭和6年(1931)、まだ20歳になったかならないかの若さである。古賀政男27歳。まだ東京音楽学校本科2年生のアルバイト吹き込みで30曲を吹き込んだのだった。
戦前の藤山一郎の、「丘を越えて」「青い背広で」「東京ラプソディ」「春よいづこ」などの青春を謳歌する若く溌剌とした張りのある歌声で「古賀メロディー」の青春を高らかに歌いあげている。古賀政男の数々の青春歌謡に相応しい。それは在学中に校則に反してアルバイトでレコード吹込みしたからで、その若く溌剌とした歌声は「青い山脈」(1949)など、戦後抑留生活から解放され、日本に帰ったとき目にしたのは広島の惨状だった。
それは浦島太郎そのものだったに違いない。それをかぎつけたNHKのラジオ
番組に出演したことから、NHKラジオ放送との付き合いが深くなってゆくのだが、このころすでに30代も後半を過ぎ40代近くなった、この頃の戦後の歌声と比べればよくわかる。
限界を感じていた藤山一郎は、その後昭和29年(1954)に歌手を引退、NHK嘱託となった。

118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/09(Sun) 18:59
古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。以後、古賀メロディを支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作。


☆「古賀メロディ」を支えた名歌手と、その最初の歌

佐藤千夜子  東京音楽学校  文のかおり      1929
関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞)   1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校  月の浜辺 (島田芳文作詞)    1931.7
淡谷のり子   東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞)   1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校  お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児     東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄  (玉川映二作詞)    1936
奥田英子           別れの唄 (山川あさを作詞)  1936
有島通男   東洋音楽学校  春まだ浅く   (石川啄木作詞)  1936.4
由利あけみ  東京音楽学校  黒いパイプ   (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮  (西條八十作詞)   1939.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇   東洋音楽学校  誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
菊池章子   東洋音楽学校  相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌   〈西岡水朗作詞〉  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝   東洋音楽学校  青い牧場    (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校  月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎   武蔵野音楽学校  明日もまた  (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで  (サトウハチロー作詞) 1945.1

*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。

瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの別名。

東京音楽学校   東京藝術大学(音楽部)
東洋音楽学校   東京音楽大学
武蔵野音楽学校  武蔵野音楽大学

119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/09(Sun) 19:51
昭和のレコード歌謡は昭和3年(1928)、新民謡『波浮の港』(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)に始まる。

直後、昭和6年(1931)に古賀政男が台頭。これまでの主流だった中山晋平の「晋平節」が古賀政男の「古賀メロディ」にとってかわられた。

古賀政男(正男)をメジャーデビューさせるに至ったのは、まだレコード普及もない頃から中山晋平の歌(晋平節)を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えによる。

古賀正男の「影を慕いて」など計7曲をビクターに吹き込んだ。

古賀政男は自伝で佐藤について「私に作曲家の道を与えてくださった終生の恩人」と書いている。


「古賀メロディ」を支えた主な名歌手が27人いる。(1929‐1945)

このうち音楽学校卒業が22人。

藤山一郎などこうした歌手がほとんどの「古賀メロディ」の歌手である。

22人のうち、「東京音楽学校」(現在の「東京芸術大学」音楽学部)卒業のクラッシックの声楽家・歌手がなんと12人。

関種子、藤山一郎(増永丈夫)は本科主席卒業。レードデビューは古賀政男のデビューそのもの。

今のクラッシック歌手でも歌えない・・!「古賀メロディ」・・その理由だ!。


・佐藤惣之助、西條八十など第一級の詩人が心を込めて作った詩に,第一級の作曲家古賀政男が心を込めて作曲し、それに藤山一郎などの第一級の歌手が心を込めて歌った文句なしの第一級の文化遺産・それが古賀メロディ・・・

第一級の文化遺産・大切に歌おう!



120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/14(Fri) 09:45
【昭和歌謡】『東京大衆歌謡楽団』で、「日本の文化遺産」昭和SP歌謡を聞こう!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=581636883&ls=50

今テレビでも、ラジオでも、CDでも聞けなくなってしまった『日本の文化遺産・昭和SP歌謡』を広く歌っています。

「古賀メロディ」など、ここにでてくる本当の「名曲」を余すところなく、たくさん聴くことができ、今おすすめです。

小人数楽団で全国で公演しています。日程は上記HP参照。

楽器も限定されるので、完全とはならないが、勉強もしているし期待される。

この日本がまだ貧しかった時代、まだテレビもなかった時代、日本映画黄金時代の昭和SP歌謡・この優れた貴重な日本の音楽文化遺産を守り、まだ知らない若者に広く知っ知ってうため、頑張ってくれるよう応援しよう!!。


121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/24(Mon) 10:08
古賀メロディ聴き比べ16:あの夢この歌
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/f16e19d47310de22abfd845fa93b1c03


122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/26(Wed) 22:56
☆ミス・コロムビア(松原操)の歌う「古賀メロディ」

「お蝶夫人」の唄 (西条八十作詞、古賀政男作曲)1933.3
気まぐれ涙  (西条八十作詞、古賀政男作曲)  1933.10
誰も知らない (サトウハチロ−作詞、古賀政男作曲)1939.3
新妻模様   (久保田宵二作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 1940.3
そうだその意気(西条八十作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 李香蘭 1941・5
桜花に誓う  (西条八十作詞、古賀政男作曲) 奈良光江 三原純子 1945
目ン無い千鳥 (サトウハチロ−作詞、古賀政男作曲)霧島昇 1940.4
故郷の白百合 (サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)霧島昇 1943
いさおを胸に (サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)楠木繁夫1944 広田竜太郎編曲
三百六十五夜 (西条八十作詞、古賀政男作曲)   霧島昇 1948.9



「お蝶夫人」の唄
  西条八十 作詞
  古賀政男 作曲  
  歌 ミス・コロムビア 
  昭和8年(1933)3月

一.
おもうお方は 帰らぬ人か
旅のつばめは また来たに 
恋の長崎 港の雨は
お蝶夫人の 涙雨

二.
私しゃ初恋心(おぼこ)の 日本娘
港育ちの 女郎花(おみなえし)
恋は気まぐれ 降るアメリカの
露にぬれたか 恥ずかしや

三.
ねんねおころり 坊やの父(てて)は
青い目の人 ふねの人
ねんねおころり 謡(うた)うたとても
声もとどかぬ 波の上

四.
来るか来るかの 頼りは来ずに
春の丸山 花が咲く
情け知らずの 入船出船
きょうも散る花 のせてゆく


いくつかある「お蝶夫人の歌」のさきがけ。「浮草の歌」とともに、ミス・コロムビア最初期の歌声。。。
美貌と美声を兼ねた、清純で美しい歌姫ミスコロムビアの歌声。

「流浪の民」「この道」「我が家の歌」など松原操名の声楽曲も多い。
お蝶夫人、日本では世界的プリマドンナ三浦環が歌った。

東京音楽学校(現東京芸術大音楽部)を出るか出ないか頃のミス・コロムビ(松原操)のコロムビア最初期の歌。
けなげな日本娘にふさわしい清純で繊細で綺麗なすばらしい歌唱。
、今のクラッシック標ぼうの歌手でもここまでは歌えない、すばらしい歌唱。

123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/27(Thu) 11:29
古賀政男は、コロムビア―テイチク―コロムビアと,それぞれで黄金時代を築いている。
昭和9年から昭和13年までテイチク。昭和14年に外務省音楽文化親善使節として、アメリカ、南米に渡米。
松葉操とは、最初期の昭和8年と、渡米コロムビア復帰後の昭和15年(1940)以降となる。

124 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/08(Sun) 18:31
代々木上原駅前の3000坪の古賀政男邸、古賀政男自伝「我が心の歌」には、この古賀邸に萩原朔太郎、惣之助さんが集まって三人でよく詩の談義をしたとあり、朔太郎の娘・萩原葉子の「父・萩原朔太郎」にも同じ記述がある。

馬込の文士村・雪が谷に住んでいた詩人・佐藤惣之助、佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎、二人は惣之助の主宰する「詩の家」の同人でもある。

大正14年(1925)8月詩集『純情小曲集』刊行(新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を朔太郎と佐藤惣之助で担当。佐藤惣之助はしょっちゅう代田の朔太郎宅を訪問していた。

この三人は詩を通して日常的に親密な関係を持っていた。

平成23年(2011)は、萩原朔太郎生誕125 年の節目の年で、10 月、晩年、下北沢に居を構えたゆかりの東京の「世田谷文学館」にて「生誕125年萩原朔太郎展」が開かれた。

常設展では、作家であり、舞踏家であり、手芸作家でもあった萩原朔太郎の長女「萩原葉子」の証言(朔太郎と葉子父娘の家庭合奏)の再現演奏があった。

「朔太郎と葉子父娘の家庭合奏」の再現では、マンドリンとギターによる古賀政男の『影を慕いて』『酒は泪か溜息か』、それに朔太郎の『 機織る乙女』など、朔太郎にちなむ世田谷区ゆかりの作曲家と作品を演奏した。...

・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

・宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)

・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫
・流行歌曲について  萩原朔太郎
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)



大正2年4月このころ自筆の歌集『ソライロノハナ』製作。北原白秋主宰の雑誌「朱欒」掲載の室生星の詩に感動、手紙を書く。5月号「朱欒」に「みちゆき」ほか詩6篇が掲載され、詩壇
太平洋戦争が始まって5ヶ月ほどした昭和17年5月15日(1942年。

76年前の5月15日)、 佐藤惣之助(51歳)が、自宅がある馬込文学圏(雪谷)で、脳溢血を起こして急逝しました。

佐藤の義兄にあたる萩原朔太郎が(佐藤の妻は朔太郎の妹愛子)、4日前の11日に亡くなり、その告別式では、胃潰瘍で体調を崩していた室生犀星(52歳)の代わりに佐藤が葬儀委員長を務めました。その佐藤までが逝ってしまった。二人と関係が深かった人たちは、一挙に二人失い、大きな喪失感に直面します。


125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 09:40
>>118

■■[日本のクラッシック」古賀メロディを支えた歌手は第一級のクラッシック歌手だった!!。


 ☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

■東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)  通称;上野の音楽学校

佐藤千夜子  東京音楽学校 文のかおり(古賀正夫作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺   (島田芳文作詞)  1931.7
渡辺光子   東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
由利あけみ  東京音楽学校 黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
波平暁男   東京音楽学校 月夜船    (藤浦洸作詞) 1944.11


■東洋音楽学校(現・東京音楽大学)

淡谷のり子  東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
有島通男   東洋音楽学校 春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
霧島 昇   東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
奈良光枝   東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12

■武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)

中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11


■帝国音楽学校

伊藤久男 帝国音楽学校   熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11


■その他

轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ)  別れの唄    (山川あさを作詞)  1936
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
*三浦環他に師事




126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 10:35
私のメモ帳・・・作曲家・古賀政男
h ttps://blog.goo.ne.jp/utaski1930/e/7bd753198c8ed63170acf84f11b45741
古賀メロディ 聴き比べ17:三百六十五夜
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/752cc96327d550c1947400216ada267e
古賀メロディ聴き比べ16:あの夢この歌
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/f16e19d47310de22abfd845fa93b1c03



127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 10:37
私のメモ帳・・・作曲家・古賀政男
h ttps://blog.goo.ne.jp/utaski1930/e/7bd753198c8ed63170acf84f11b45741
古賀メロディ 聴き比べ17:三百六十五夜
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/752cc96327d550c1947400216ada267e
古賀メロディ聴き比べ16:あの夢この歌
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/f16e19d47310de22abfd845fa93b1c03



128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 10:50
■■[日本のクラッシック」古賀メロディは,第一級の詩人、第一級の作曲家、および第一級のクラッシック歌手に支えられた第一級の音楽文化遺産です!!。

 ☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

■東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)  通称;上野の音楽学校

佐藤千夜子  東京音楽学校 文のかおり(古賀正夫作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺   (島田芳文作詞)  1931.7
渡辺光子   東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
由利あけみ  東京音楽学校 黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
波平暁男   東京音楽学校 月夜船    (藤浦洸作詞) 1944.11

■東洋音楽学校(現・東京音楽大学)

淡谷のり子  東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
有島通男   東洋音楽学校 春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
霧島 昇   東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
奈良光枝   東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12

■武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)

中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11

■帝国音楽学校

伊藤久男 帝国音楽学校   熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11

■その他

轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ)  別れの唄    (山川あさを作詞)  1936
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
*三浦環他に師事

玉川英二、倉中佳人、瀬川与志ハサトウハチロ―の変名。




129 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 12:00
ここに古賀メロディの佳曲・『嘆きの夜曲』がある。藤山一郎・『影を慕いて』と同じ、昭和7年(1932年)。
西岡水朗作詞、古賀政男作曲、關(関)種子さん歌唱です。

嘆きの夜曲   
西岡水朗 作詞  古賀政男作曲 
関 種子 唄 
昭和7年 1932 

  呼んでみたとて かえらぬ人よ 
  なぜに儚い 夢じゃやら
  
  想いつかれて 心に秘めて 
  暮れりゃさみしい 雪ばかり 

  泣いてみたとて かえらぬ恋よ 
  なぜにつきせぬ 涙やら  


東北・東日本大震災の80年前に作られたものです。
このYou Tubeには、今ないかもしれないが、「東日本大震災から1年になり、心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。」とありますので、ここに紹介させていただきます。


80年も前に作られたこの「古賀メロディ」、その簡潔な短い詞の中に、「普遍性」をもって、この大災禍の嘆き・哀しみさえをも予見したかのように、時代を超えて、
つい昨日のように追悼の気持ちをぴったり共有できるというのは驚きとしかいえません。


嘆きの夜曲 関種子.wmv
公開日: 2012/03/05
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。
なお背景の画像は津波被害のものが多いですので、衝撃を受けやすい方々はご遠慮ください。
背景の画像と曲は直接は関係がありません。古いレコードですので雑音が多いのかもしれません。画像はおもにグーグルの検索画像から引用させていただきました。
h 
ttp://www.youtube.com/watch?v=giaWCvjmsoY&feature=endscreen&NR=1
(今消えているかも)

昭和3年、90年前、人生の苦悩から始まった古賀メロディ、悲しみ-人生の苦悩を歌ったら右に出るものがない古賀メロディ。

「花が咲く」という復興支援ソングなるものがある、小学校合唱コンクールみたいな、長くて何を言ってるのかよくわからない、意味不明な、詩がなっていない。

80年前に作られた短い簡潔な詩が。80年後の悲しみを予見していたかのような、普遍性を持った歌。
言葉というものは、長くなればなるほど、言ってることは狭く、短ければ短いほど行ってることは行間を含めてずっとひろい。

最近の歌は長ったらしく、何を言ってるのかわからない、何を叫んでいるのや、さっぱりわからない最近の歌。
それに対し、第一級の詩人の書いた「古賀メロディ」は頭の中に情景が浮かんでくるといわれる。
そういう歌を歌ったのは、クラッシックソプラノ歌手で初期の古賀メロディを支えた関種子。聞けば違いはよくわかる。



130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 12:44
☆昭和戦前の作曲家

日本に本格的なレコード会社が登場したのは、昭和改元(1926)とともにあり、今から80数年余り前の昭和2年から3年にかけてです。

レコード歌謡の最初は昭和3年の新民謡「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)とされる。

SPレコードの時代は、戦前から戦後にかけて、映画「二十四の瞳」の時代と重なる日本がまだ貧しく、くるしい時代です。しかし、その中にも豊かな心をはぐくんでいたでしょう。

昭和、戦前戦中、今に残る数多くの名曲がレコードに乗って世に出ています。昭和の歴史が生んだ豊かな心の表れであるSPレコードとその歌声は文化遺産と言えます。

そして今歌われているそのほとんどは、主にここに上げた作曲家によるものと言えるでしょう。
日本の西洋音楽を取り入れた大衆音楽は本居長世、その弟子中山晋平、弘田龍太郎にはじまる。



131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 12:45
■大衆音楽と作曲家(昭和・戦前)■

中山晋平(1887〜1952)(※)青い芒、波浮の港、当世銀座節、東京行進曲
弘田龍太郎(1892〜1952)  野薔薇の歌、無憂華の唄、いさおを胸に(編曲)、今年の燕、お国のために
佐々木すぐる(1892〜1966) 兵隊さんよありがとう、昭和の子供
佐々紅華(1907〜1961)  君恋し、祇園小唄、浪花小唄、神田小唄
堀内敬三(1897〜1983)(※)黒い瞳よ今いずこ、麗人の唄、
塩尻精八         道頓堀行進曲、女給の唄
奥山貞吉(1887〜1956)ザッツ・オーケー、沓掛小唄,乳姉妹の唄、お島千太郎旅唄

古賀政男(1904〜1978)(※)影を慕いて、丘を越えて、あけみの唄、いさおを胸に、
松平信博(1893-1949) サムライ・ニッポン、ルンペン節、天国に結ぶ恋
江口夜詩〈1903〜1978〉   十九の春、忘られぬ花、急げ幌馬車
仁木他喜雄〈1901〜1958〉  高原の月、めんこい仔馬
万城目正〈1905〜1968〉   旅の夜風、愛染夜曲、純情二重奏
服部良一〈1907〜1993〉(※)蘇州夜曲、別れのブルース、別れのブルース
佐々木俊一〈1907〜1957〉  涙の渡り鳥
竹岡信幸(1907〜1985)   赤城の子守歌,人妻椿
長津義司〈1904〜1986〉   十三夜、
古関裕而〈1909〜1989〉   船頭可愛や、愛国の花、露営の歌、暁に祈る
早乙女光〈1904〜1944〉   湖畔の乙女、荒野の夜風、愛国の花、古き花園
明本京静〈1905〜1972〉父よあなたは強かった、伊豆の子守唄
大村能章〈1893〜1962〉   旅笠道中、野崎小唄、
阿部武雄〈1902〜1968〉   流転、むらさき小唄、国境の町
山田栄一〈1906〜1995〉   すみだ川

※日本音楽著作権協会会長歴任 (他に詩人、西条八十、サトウハチロー、勝承夫)







132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 12:59
■昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前) ■

昭和前半の昔の歌には、その3分間の中に「ドラマ」があって、歌詞と曲は一体のものでした。

当代随一と言われた詩人、作詞家、作曲家たちが心をこめて作った歌、そのさりげない短い言葉、そのメロデーの中に行間のドラマ、・喜びと哀しみを共有したのです。

昭和戦前の大衆歌曲(歌謡曲)分野に貢献した主な詩人・作詞家を参考に。


*野口雨情(1882〜1945) 波浮の港、鶯の夢、青い芒、紅谷の娘、
*西條八十(1892〜1970) (※)東京行進曲、誰か故郷を想わざる、旅の夜風
 時雨音羽(1899〜1980 ) 出船の港、鉾をおさめて、君恋し、浪花小唄
 堀内敬三(1897〜1983) 私の青空、アラビアの唄、黒い瞳よ今いずこ
 長田幹彦(1887〜1964) 祇園小唄、天竜下れば、島の娘
*島田芳文(1898〜1973) 丘を越えて、キャンプ小唄、月の浜辺、窓に凭れて
 高橋掬太郎(1901〜1970)酒は涙か溜息か、雨に咲く花、人妻椿
*佐藤惣之助(1890〜1942)人生の並木路、新妻鏡、男の純情、青い背広で、
*サトウ・ハチロ−(1903〜1973)(※)麗人の唄、目ン無い千鳥、勝利の日まで、
*西岡水朗(1909〜1955) 嘆きの夜曲、忘られぬ花、
*大木惇夫(1895〜1977) 崑崙越えて、思い出の記、雲のふるさと、国境の町
*藤浦 洸(1893〜1979)ビア樽ポルカ、別れのブルース、月夜船
*久保田宵二(1899〜1947)浮草の唄、ほんとにそうなら、山寺の和尚さん、
 佐伯孝夫(1902〜1981) 無情の夢、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、
 門田ゆたか(1907〜1975) 東京ラプソディー
 藤田まさと(1908〜1982) 旅笠道中、明治一代女、妻恋道中、鴛鴦道中、
 倉仲房雄(サトウハチロー)合歓の木蔭で、東京の夢、友情夜曲、
 玉川英二(同上)     二人は若い
 星野貞志(同上)     うちの女房にゃ髭がある、あゝそれなのに
 山野三郎(同上)     若しも月給が上がったら
 島田磬也(1909〜1978)  白虎隊、望郷の唄、啄木の唄
 宮本旅人        旅姿三人男、懐しのヴィオロン
 石松秋二        十三夜、九段の母、満州娘
 矢島寵児1908〜1946)  名月赤城山
 清水みのる(1903〜1979)出船の唄、別れ船
 野村俊夫(1904〜1966)  暁に祈る、ヒュッテは招く、あの日あの時

(*は詩人。※は戦後において日本音楽著作権協会会長歴任(他に勝承夫))

 佐伯孝夫、サトウハチロー、門田ゆたか は西條八十の弟子。
 島田芳文は野口雨情門下。
 佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎


133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 18:45
■日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長 ■

社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)とは、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、すべての音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む社団法人である。
1939年 JASRACの前身である大日本音楽著作権協会が設立された。(初代会長水野錬太郎)

歴代会長
昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986)旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 音楽評論家、作詞・訳詞家、作曲家
昭和46〜48   サロウハチロ―(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人

昭和55〜    服部良一(1907〜1993) 作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜   黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜)   作詞家
平成16年〜   船村 徹(1932〜)   作曲家
平成22年〜   戸倉俊一(1948〜)   作曲家

3代目以降8代まで。詩人と作曲家が交代で会長になっていたが。9代あたりから人材がなくなり、
詩人がいなくなった。


134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/20(Fri) 12:06
大正から昭和の初めにかけて、大衆が誰でも歌える歌というものが
民謡など除いて存在しなかった。

誰でもが歌える歌ずくり、それを一貫して目指した者、それが中山晋平。

晋平の歌は【晋平節】と言われた。

劇中歌から、童謡、新民謡、歌謡歌曲。

中山晋平は野口雨情、佐藤千夜子と組んで、大正から昭和の初めにかけて「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)を行っていた。

まだ新幹線も飛行機もない時代に全国行脚を行い民謡採譜や普及運動を行っていた。


なお、このころ、本居長世も童謡運動で三人の娘さんと全国行脚をしていたのだった。

135 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/20(Fri) 12:16
この晋平の歌(晋平節)を世に広めた歌手、「レコード歌手第一号」佐藤千夜子の力添えで誕生するのが古賀政男だった。
古賀政男は自伝「我が心の歌」で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を拓いてくださった『終生の恩人』とかいている。

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