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1: いじめの後遺症 (29)  2: 全国のいじめられてる子を助けるスレ!! (228)  3: うんことうんことうんこ (3)  4: いじめられっ子を助けた武勇伝を自分から晒すスレ (105)  5: いじめ・大人からの意見 (41)  6: 小学校でのいじめで元同級生2人に15万円の賠償命令 (4)  7: 人生を諦めるな (41)  8: 相談のります (40)  9: 今いじめられている人のためのスレ (595)  10: いじめ反対!! (193)  11: 学校行くのが憂鬱 (139)  12: 文部科学省による「子どもの人権侵害」について (4)  13: いじめ返す方法教えてください。 (54)  14: ★怖いじめ弱者の反撃!★【一寸の虫にも五分の魂】 (143)  15: 【虐めるほう】どっちが悪い?【虐められるほう】 (173)  16: 文科省が犯罪と明示した「いじめ」の例 (5)  17: いじめとその対抗策について・いじめに負けない (99)  18: この世から苛めなんてなくなればいいのに! (65)  19: いじめは犯罪なんだから警察に通報すればいい (51)  20: いじめってそんなに楽しい? (46)  21: いぢめっコ集合v(o'∪^o)v♪♪ (241)  22: 私達腐女子はいじめが大好きです。 (4)  23: さかおりにいじめを受けています! (6)  24: 暴力的なイジメ受けた人いる? (100)  25: Aではない君と  (5) 
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【1:29】  いじめの後遺症
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/01/09(Sun) 16:51
いじめに遭って、後遺症が残ってしまった人のスレッドです
身体的な後遺症ではなく、精神的な後遺症です

・自分に自信が持てなくなった
・人が怖い(対人恐怖症等)
・周りの視線が気になって外に出れない
・当時と同じようなシチュエーションになると動機が激しくなって恐怖を感じる

等、精神的な後遺症は残ります
カウンセリングで症状が軽くなる場合はありますが完治は難しいです
そして私にも後遺症はあります
自分に自信が持てません
周りと比較すると、やはり異常です

此処は傷をなめ合う場ではなく、少しずつ治していく手助けをする場です


20 名前:松堀不動産 投稿日:2024/12/02(Mon) 14:41
新型コロナ関連倒産-株式会社松堀不動産(埼玉県東松山市)が破産決定(創業50年以上の不動産会社)

株式会社松堀不動産(埼玉県東松山市、1973年2月、資本金10,000万円、堀越 宏一社長)は11月18日、地方裁判所熊谷支部より破産開始決定を受けた。
破産管財人には伊島 博 弁護士(伊島法律事務所、埼玉県東松山市)が選任された。負債総額は約19,500万円。
株式会社松堀不動産は1973年2月創業の不動産業者で、不動産仲介、売買等を手掛け、2018年10月期は8,126万円の売上高を計上していた。
しかし、その後は新型コロナウイルス感染拡大に伴う外出自粛の影響等で業績は伸び悩み、宅地分譲にも着手したものの、販売面は苦戦を強いられていた模様。
また、昨今の物価高も加わり採算的にも厳しい経営が続いていたもので、資金繰りも限界に達し、今回の事態に至った。
     (2024年11月18日 毎日新聞)

21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/05/15(Thu) 08:12
株式会社オキムスの星川薫はクソ人間
いじめ大好き
パワハラ大好き
不倫大好き
チビで歯が 汚いメガネ

22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/05/18(Sun) 00:07
オキムス確定
星川ハゲヲ
つるっぱげ

23 名前:まさゆき 投稿日:2025/06/01(Sun) 09:21
1986年、神戸市立垂水中学校。当時私は3年10組でした。
私は「北斗の拳ごっこ」と称して、同級生から日常的に暴力を受け続けました。
理由などなく、ただ面白半分で殴られ、蹴られ、心の奥深くにまで傷を刻まれるような日々でした。
来る日も来る日も、私は恐怖の中で生きていました。そして次第に、「悪いのは自分なのだ」と思い込むようになっていきました。
誰かに助けを求める勇気など、持てませんでした。

担任のロイヤーは、いじめの現場を目にしながらも見て見ぬふりを決め込み、私は完全に孤立していきました。
やがて、クラスの他の生徒たちからも冷たい視線を向けられ、ツバを吐きかけられ、黒板消しで制服を汚されました。
学生帽を溝に捨てられる。パンツを脱がされ、蹴られる。日々繰り返される嫌がらせと暴力。
子どもだった私は、それをただ耐えるしかなかった。心を麻痺させ、理不尽を受け入れることで、なんとか毎日をやり過ごしていたのです。
本当は泣きたかった。助けてほしかった。
けれど、誰ひとり、手を差し伸べてはくれませんでした。

あれから、40年近くが経ちました。
けれど、あのときの痛みと屈辱は今も私の心に棲みついたままです。
社会人として生きながらも、心のどこかは、今もあの寒々とした教室に閉じ込められたままでした。
怖くて、誰も信じられなくて、ふとした瞬間に記憶がよみがえり、心をえぐるのです。

その果てに、私は10年間、引きこもりの生活を送りました。
誰とも会わず、誰とも話さず、社会から姿を消した時間。
窓の外の世界を見ながら、「自分の居場所は、もうこの世界にはない」と、心を閉ざして生きていました。

社会に戻ることは、絶望にも似た恐怖でした。
外に出ること、人と目を合わせること、その一歩一歩が崖を登るような挑戦でした。
それでも私はあきらめたくなかった。壊れた心を抱えながらも、世界の中にもう一度立つために、必死で闘いました。

そして、最近ようやく気づいたのです。
あの頃、自分を責め続けていたけれど、悪かったのは私ではなかった。
私を殴り、笑い、傷つけたのは、あの加害者たちだったのだと。
長い年月をかけて、ようやくその呪いから、少しだけ自由になれたのです。

私はその思いをすべて言葉にして、掲示板に投稿しました。
同じように苦しんでいる誰かに、私の声が届けばと願って。
しかし、加害者の実名を記したことで、名誉毀損の容疑をかけられ、須磨署の警察が二度にわたり自宅を訪れました。
その後、神戸地検に2度出頭し、計70万円の罰金を科されました。

いじめに苦しみ続けた末、ようやく声を上げた私に、社会は「罰」という形で応えたのです。

なぜ、傷つけられた者が、さらに傷つけられなければならないのでしょうか。
なぜ、加害者たちは何の責任も問われず、何の償いもなく、平然と生きているのでしょうか。
この国にとっての「正義」とは、一体何なのでしょう。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

24 名前:まさゆき 投稿日:2025/06/04(Wed) 07:38
あの日の朝のことは、一生忘れません。

2022年6月13日(月)。
何気ない日常の一コマ、いつものように職場に出勤したはずでした。
けれど――その朝、私の人生は突如として「容疑者」として扱われる側に変わったのです。

ベージュの日産エクストレイル。
私服姿の警察官が数名、静かに、しかし確実な目的を持って私の職場に現れました。
彼らは、迷いなく私のもとへ歩いてきて、こう告げました。

「後藤さん?ちょっと来て。警察や。」

その瞬間、私の心臓は強く脈打ち、全身の血が逆流するような感覚に襲われました。
彼らは無言で水色の警察手帳を広げ、私を囲むように立ちました。
「何も変な物持ってへんな」――軽く身体検査。
そして、キャノンの一眼レフカメラが無言で私を捉え、シャッター音だけが響きました。

「荷物ここに持って来て。逮捕せえへんから。何で警察来たか心当たりたるか?
インターネットの掲示板に書き込みせんかったか?あれ、名誉毀損にあたるねん。
今から署に来れる?それか、仕事が終わった後、須磨署に来れる?」

私は震えていました。
手も足も心も凍りついて、ただ「はい」と頷くしかなかった。

でも、それはまだ序章に過ぎませんでした。
彼らは、仕事が終わった私の自宅にもやってくると告げたのです。

そして夜。
私は、何事もなかったかのように玄関を開けました。
するとそこにいたのは、アルファードに乗ってやってきた6名の警察官たち。

まるでドラマのワンシーンのようでした。
彼らは無言で家に上がり込み、淡々とインターネット環境を調べ、私の中学の卒業証書を手に取り、それを写真に収めました。
2時間。
自宅は尋問室のように変わり果て、私は何も言えずにただ見つめるだけ。
彼らは、すべてを“証拠”に変えながら、やがて静かに去っていきました。

だが、これで終わりではなかった。

後日、須磨警察署に出頭を命じられました。
朝9時から夕方17時半まで――丸一日かけての取り調べ。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/15(Sun) 13:41

【告発文】







声をあげた者が罰せられる国で、誰が真実を語れるのか





1986年、神戸市立垂水中学校。私は同級生から「北斗の拳ごっこ」と称した暴力を、日常的に受けていました。殴られ、笑われ、他の同級生からは唾を吐かれ、パンツを脱がされ、帽子を溝に捨てられる――担任教師も見て見ぬふり。子どもだった私は、耐えるしかありませんでした。



その痛みは、40年近く経った今も消えません。心の中の教室に、私はまだ閉じ込められています。



苦しみ続けた末、ようやく私は気づきました。「悪いのは自分ではなかった」。そしてその想いを言葉にし、加害者の名前とともにネット掲示板に投稿しました。誰かに届けばと願って。



しかし、返ってきたのは社会からの「罰」でした。

警察が家に来て、「掲示板に名前を書いたから名誉毀損だ」と告げられました。神戸地検に呼び出され、罰金70万円。いじめの事実を語っただけなのに、私は犯罪者にされたのです。



どうして、こんなことが許されるのでしょうか?



いじめを訴える声が処罰され、加害者は何の責任も問われず、のうのうと暮らしている。

それが、この国の「正義」なのでしょうか?

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:53
『未来世紀ブラジル』の素晴らしさ――夢と抑圧、ユートピアとディストピアの狭間で

『未来世紀ブラジル(Brazil)』は、元モンティ・パイソンのテリー・ギリアム監督によって1985年に発表されたSF映画である。公開当時から高い評価と激しい議論を呼び、現在ではカルト的名作として映画史に深く刻まれている。この作品が放つ独特の魅力は、単なる未来社会の風刺にとどまらず、夢と現実、個と集団、自由と管理という根源的な人間のテーマを、異常なまでに緻密で奇怪な映像世界を通して表現している点にある。

物語の主人公はサム・ローリーという一介の役人。彼は高度に官僚化され、全体主義的に管理された社会の中で、淡々と働きながらも心の奥では夢想に耽る日々を送っている。現実は、行政によるミスが原因で無実の市民が逮捕・死亡しても誰も責任を取らず、それを訂正しようとする者はむしろ不審者とされるような社会だ。サムは偶然にも、夢に現れる“翼のある理想の女”ジルに似た女性と出会ったことから、現実に抗おうとし、やがては体制そのものから逸脱していく。

この映画の最大の特徴は、圧倒的な“ビジュアルの異様さ”である。レトロなタイプライターや真空管、無数のパイプとダクト、意味不明な標語が書かれたポスターがひしめくオフィスや街並み――これは明らかに現代の延長ではなく、「20世紀中盤の未来予想図がそのまま時間を止めてしまった」ような、奇妙なレトロフューチャーである。この造形は決して単なる様式美ではなく、「技術の進歩=人間の自由の拡張」ではなく、「技術の進歩=抑圧の強化」という皮肉を、観客の視覚に直接叩きつけるための手段として機能している。

物語のトーンは、ブラックユーモアとファンタジーと絶望が混在する奇妙なものだ。官僚社会を描く中で、ギリアムは笑いを誘う滑稽さをあえて挿入するが、それは笑っていいのかすら不安にさせる不気味さを孕んでいる。たとえば、顔面整形を受け続けて皮膚が溶けていく老婦人や、壊れたパイプを修理する“非合法配管工”ハリー・タトル(ロバート・デ・ニーロ)など、登場人物たちは一様に狂気と無関心の狭間で生きている。そして、それが決して他人事でないことを観客に突きつけてくる。

本作のタイトル『ブラジル』は、あの有名なサンバの名曲に由来しており、映画の中でも繰り返しメロディが流れる。しかし、その明るくのどかな旋律は、どんなに悲惨で無意味な場面にも差し込まれ、希望と絶望が音楽を通じて反転し続ける。まるで「人間の心の中の自由」はどれほど閉塞した世界でも生きているのだと訴えているかのようであり、同時に「その自由は夢に過ぎない」という虚無のメッセージにも感じられる。この二重性こそが、ギリアムの最大の才能である。

サムの見る“夢”は、翼を持って空を飛び、美しい女性を救い、悪を打ち砕くヒーロー的幻想だが、それはあくまで現実の過酷さから逃避するためのものであり、決して実現することはない。物語の最後、サムは体制によって完全に捕らえられ、拷問の末に“現実”からも心を切り離し、夢の中で幸福に飛翔していく。観客はその姿に一瞬救いを感じるが、それが「精神崩壊による永遠の逃避」であることに気づいた瞬間、言いようのない喪失感に襲われる。

『未来世紀ブラジル』が真に恐ろしいのは、描かれている社会が荒唐無稽な未来像ではなく、むしろ現代社会の縮図である点にある。役所の形式主義、責任のたらい回し、マスメディアによる誘導、監視社会、個人の自由よりも“システムの正当性”が優先される世界。テリー・ギリアムが提示したディストピアは、単に恐怖を煽る未来像ではなく、「いま、ここで起こっている事実を拡大し、風刺的に可視化した世界」にほかならない。

また本作は、1984年のオーウェル的監視社会や、カフカ的な官僚迷路、さらにはフェリーニ的な夢と現実の交錯を想起させるなど、さまざまな芸術的影響を巧みに融合している。だが、それを単なる模倣ではなく、ギリアム独自の“ビジュアル詩”として昇華している点に、彼の作家性の強さがある。

結末は観る者によって解釈が分かれる。「夢の中で自由に生きる彼は救われた」のか、それとも「現実から逃げただけで、完全な敗北なのか」。答えは与えられない。ただ確かなのは、サムが“夢を見ること”をやめなかったという事実であり、それこそがこの映画の最後の希望でもある。


27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 23:55
朱に交わればハゲになる


28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/23(Mon) 05:15
宮崎駿監督による2001年のアニメーション映画『千と千尋の神隠し』は、日本のみならず世界中で高い評価を受け、アカデミー賞長編アニメ賞を受賞するなど、日本アニメの枠を超えて世界的な文化遺産としての地位を確立した作品である。本作の素晴らしさは、その豊かな物語性、象徴性に富んだ世界観、そして細部にまでこだわり抜いた作画と音楽、さらには成長物語としての普遍的な力強さにある。

まず、この作品は単なる「不思議な世界で少女が冒険する」物語にとどまらない。10歳の少女・千尋が、両親とともに引っ越し先へ向かう途中、不思議な世界に迷い込み、両親が豚にされてしまう。彼女はそこで湯屋で働くことを強いられ、「千」と名前を奪われる。ここから始まる彼女の物語は、「アイデンティティの喪失と回復」、「労働と自己肯定」、「善悪の相対化」など、多くの現代的かつ深遠なテーマを内包している。

特に「名前を奪われる」描写は、日本古来の信仰に通じる部分がある。名前は魂の一部とされ、それを奪うことはその人自身の本質を支配することに等しい。湯婆婆によって「千尋」から「千」へと名前を変えられる千尋は、まさに現代社会における自己喪失の象徴だ。しかし彼女は物語を通じて他者との関係性の中で自分を取り戻していく。このプロセスは、自己確立を目指す成長譚であり、子供だけでなく大人にとっても深い共感を呼ぶ。

もう一つの特筆すべき点は、作品全体に流れる「曖昧さ」と「グレーゾーン」の存在である。典型的な善人や悪人は登場せず、どのキャラクターも一面的ではない。たとえば湯婆婆は権力的で厳格な存在だが、赤ん坊のボウを溺愛するという母性を見せる。一方で、姉の銭婆は見た目こそ同じだが、穏やかで優しく、千尋を導く存在として描かれる。また、「カオナシ」という存在も、当初は無垢で純粋な存在として登場するが、千尋への執着や湯屋での混乱を引き起こすなど、非常に複雑なキャラクターである。人の心の裏表、欲望と孤独の表現としてカオナシは象徴的な存在となっており、観る者に「本当の自分とは何か?」を問いかける。

こうしたキャラクターたちの多面性は、現代社会に生きる私たちが直面する多様な価値観や、人間関係の複雑さを映し出している。勧善懲悪ではなく、「何が正しいか」を自分で見極め、判断していく必要があることを物語は示している。

さらに本作の美術的な完成度の高さも語らずにはいられない。湯屋の設計や、食べ物の描写、異界の風景に至るまで、すべてが緻密で説得力がある。特に、八百万の神々が湯屋に集う場面では、日本の神道文化を背景に持ちながらも、どこか異国的な不思議さも漂わせており、見る者の想像力をかき立てる。そこには「失われつつある日本」のノスタルジーがあり、それを体感的に感じることができる。

音楽面でも、久石譲による楽曲は物語の感情の流れを完璧に補完している。特にピアノで奏でられる「あの夏へ」や、千尋とハクの別れのシーンで流れる「ふたたび」などは、映像と一体化し、観る者の心を震わせる。音楽は決して出しゃばらず、それでいて深く心に残る。まさにアニメーション作品における音楽の理想的なあり方がここにある。

また、『千と千尋の神隠し』は「環境問題」や「消費社会への警鐘」というメッセージも内包している。冒頭で両親が見知らぬ店の料理を食べて豚になる場面は、まさに「無自覚な貪欲さ」が引き起こす代償を象徴している。過剰な欲望は人間を動物にしてしまうという警句は、現代の私たちにも強く響く。

物語の終盤、千尋はハクの本当の名前を思い出し、彼を縛る契約を解き放つ。この瞬間、名前と記憶の力、そして他者への深い共感がいかに世界を変えるかが示される。人と人との関係性の中でこそ、自分という存在は明確になっていくという思想が、この映画の根底にある。

そして最後に、千尋がトンネルを抜けて元の世界に戻るシーン。そこでの彼女の表情には、もはや最初の不満げな少女の面影はなく、凛とした静かな強さが漂っている。これは千尋が「旅」を通じて確かに成長した証であり、観客もまた彼女とともに一つの通過儀礼を経験したような気持ちになる。

総じて、『千と千尋の神隠し』は、子どもの成長物語としても、大人への寓話としても読むことができる多層的な作品である。視覚・聴覚・感情のすべてに訴えかける芸術性を持ちながら、それでいて物語は普遍的で、どの時代にも通じる。だからこそ、この映画は何度観ても新しい発見があり、観る者の人生のフェーズによって響くポイントが変わる。「本当の自分」を探し、「大切なもの」を守るために成長していく千尋の姿に、私たちは勇気と希望をもらえるのだ。

29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/28(Sat) 17:41
株式会社オキムスの公社住宅事業部
星川薫はいじめ、パワハラ、不倫、人権侵害大好きな
チビで歯が汚いメガネ
いじめ、パワハラ、不倫をするために生を受けた明らかな欠陥品、害虫

名前:

【2:228】  全国のいじめられてる子を助けるスレ!!
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2004/08/22(Sun) 12:18
題名どおりです。


219 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2024/10/18(Fri) 20:38





220 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/03/22(Sat) 23:00
株式会社オキムスの星川薫はクソ人間
いじめ大好きパワハラ大好き不倫大好き
ちびで歯が汚いメガネ
いじめ、パワハラ、不倫がやめられない
害悪の栗ぼうず


221 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/03/25(Tue) 00:15
ほしかわはげを
つるっぱげ
栗はげぼうず
つるっぱげ

222 名前:まさゆき 投稿日:2025/06/04(Wed) 07:37
あの日の朝のことは、一生忘れません。

2022年6月13日(月)。
何気ない日常の一コマ、いつものように職場に出勤したはずでした。
けれど――その朝、私の人生は突如として「容疑者」として扱われる側に変わったのです。

ベージュの日産エクストレイル。
私服姿の警察官が数名、静かに、しかし確実な目的を持って私の職場に現れました。
彼らは、迷いなく私のもとへ歩いてきて、こう告げました。

「後藤さん?ちょっと来て。警察や。」

その瞬間、私の心臓は強く脈打ち、全身の血が逆流するような感覚に襲われました。
彼らは無言で水色の警察手帳を広げ、私を囲むように立ちました。
「何も変な物持ってへんな」――軽く身体検査。
そして、キャノンの一眼レフカメラが無言で私を捉え、シャッター音だけが響きました。

「荷物ここに持って来て。逮捕せえへんから。何で警察来たか心当たりたるか?
インターネットの掲示板に書き込みせんかったか?あれ、名誉毀損にあたるねん。
今から署に来れる?それか、仕事が終わった後、須磨署に来れる?」

私は震えていました。
手も足も心も凍りついて、ただ「はい」と頷くしかなかった。

でも、それはまだ序章に過ぎませんでした。
彼らは、仕事が終わった私の自宅にもやってくると告げたのです。

そして夜。
私は、何事もなかったかのように玄関を開けました。
するとそこにいたのは、アルファードに乗ってやってきた6名の警察官たち。

まるでドラマのワンシーンのようでした。
彼らは無言で家に上がり込み、淡々とインターネット環境を調べ、私の中学の卒業証書を手に取り、それを写真に収めました。
2時間。
自宅は尋問室のように変わり果て、私は何も言えずにただ見つめるだけ。
彼らは、すべてを“証拠”に変えながら、やがて静かに去っていきました。

だが、これで終わりではなかった。

後日、須磨警察署に出頭を命じられました。
朝9時から夕方17時半まで――丸一日かけての取り調べ。
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223 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/05(Thu) 23:43
okimusukakutei
おきむす

224 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/08(Sun) 11:06
私は2022年、5ちゃんねるの掲示板にて、過去に自分をいじめていた加害者の実名を書き込んだことがきっかけで、警察と検察の取り調べを受け、最終的に罰金刑を受けました。

2022年6月13日(月)の朝、出勤先の職場に、私服の警察官が複数名、ベージュの「日産エクストレイル」で訪れました。対応に出た私に対し、彼らは「後藤さん?ちょっと来て。警察や」と声をかけ、水色の表紙の警察手帳を提示。軽く身体検査をされた後、キャノンの一眼レフで写真を撮影され、「荷物ここに持ってきて」「逮捕せえへんから」と告げられました。

警察官は、「なんで警察が来たか心当たりあるか?」「インターネットの掲示板の書き込みが名誉毀損にあたるねん」と伝えてきました。そして「仕事が終わった後、須磨署に来れるか?」と要請されました。

その日の18時、仕事が終わって帰宅した私の自宅には、今度は警察官7名が訪れ、家の中に上がり込みました。インターネット環境の確認や、中学の卒業証書と一緒に写真撮影などが行われ、約2時間にわたり捜査が行われました。

そして6月21日(火)、仕事を休んで兵庫県警須磨警察署に出頭。朝9時から夕方17時半まで、1日がかりで取り調べが行われました。

さらに数週間後、今度は神戸地方検察庁から呼び出しがあり、7月20日(水)18時から約3時間、聞き取りが行われました。「2週間後に連絡する」と言われましたが、その後約4ヶ月間、音沙汰がありませんでした。

ようやく連絡が来たのは11月14日(月)。「ハンコを持って来てください」と再び呼び出され、罰金刑が言い渡されました。書類が自宅に届いたのは12月13日で、12月16日までに罰金を振り込むよう記載されており、非常にタイトな期限でした。

最終的に罰金は支払いましたが、とても悔しく、やりきれない気持ちになりました。


225 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/15(Sun) 13:52
■ 真実を語った者を罰するこの国は、果たして正義の国か

私は、殴られました。笑われながら、唾を吐きかけられました。
学校の中で、教師に見えるところで、私は同級生から毎日のように暴力を受けていました。
パンツを脱がされ、帽子を溝に捨てられ、「北斗の拳ごっこ」と呼ばれていたその暴力は、誰にとっても“遊び”で、私にだけ“地獄”でした。

それを見ていた教師は沈黙しました。
それを知っていたクラスメイトたちも、誰も手を差し伸べなかった。
私の心は壊れ、言葉を失い、10年以上、社会から姿を消しました。

あれから40年。ようやく私は語る力を手に入れました。
私に暴力を振るった者の名前を明かし、掲示板に真実を綴りました。
それは復讐ではありません。救いでした。
“あの時の私は、悪くなかった”と、ようやく自分に言ってやれるようになるための一歩でした。

なのに、国家は私にこう告げたのです。
「あなたの行為は名誉毀損だ。犯罪だ」と。

警察が家に押しかけ、私を“容疑者”として扱い、神戸地検が私を二度呼び出し、裁判所は70万円の罰金を科しました。

問います。
誰がこの国で、本当のことを語れるのでしょうか?

加害者の「名誉」を守るために、被害者の「命」が踏みにじられる。
その制度を操るのは、国家権力です。
正義を守るはずの法律が、加害者の盾になり、被害者の刃となって降りかかってきたのです。

この国の教育は、暴力を見逃す教師を守り、沈黙を強いる空気を育て、
この国の司法は、事実を語った被害者を裁き、加害者の「名誉」を聖域に据える。

これが「法治国家」だと言うのなら、私たちはどれほど歪んだ正義の上に立って生きているのか。
この国は、“静かな地獄”を作るのがとても上手です。
すべてが整って見えるからこそ、その裏にある絶望は誰にも見えません。
でも私は、あの教室の、あの匂いと音と痛みを今でも鮮明に覚えています。

国家とは、誰のために存在するのか。
正義とは、誰の声を守るためにあるのか。

その答えが、今の日本にはありません。
私のように「真実を語った者」が罰せられる国に、もはや正義は存在しないのです。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

226 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/20(Fri) 07:07
私は、1986年ごろ神戸市立垂水中学校に在学していました。

その頃、ある同級生から毎日のように「暴行」とも言える激しいいじめを受けていました。



当時流行していた「北斗の拳ごっこ」と称して、私は強い力で繰り返し殴られる日々を送っていました。

ただの遊びやふざけ合いなどではなく、一方的な暴力でした。

服で隠れる背中や脇腹ばかりを狙われ、アザが外から見えないよう計算されたような暴力でした。



さらに別の同級生たちからも、「唾を吐きかけられる」「帽子を奪って溝に捨てられる」「ズボンやパンツを脱がされる」といった屈辱的な行為を受けました。

教室で、校庭で、私は何度も「自分には価値がないのだ」と思わされました。

担任の教師も、これらの行為を見ていながら、注意も介入もせず、私はただ孤独に痛みを耐えていました。



あれから35年が経ちましたが、あの頃の記憶は決して薄れることなく、今も私の中に影を落としています。

私は長年にわたり、うつ病、対人恐怖、引きこもり、自己否定感に苦しみ続けています。

「なぜ誰も助けてくれなかったのか」

「なぜこれほどの苦しみが、“なかったこと”にされるのか」

その問いに、今も答えはありません。



当時の学校や社会には、いじめをいじめとして記録する制度も意識もありませんでした。

だからといって、“記録に残っていないから存在しなかった”とするのは、あまりにも冷酷です。



私は、今も苦しんでいる多くの被害者のひとりとして、声を上げます。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

227 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 23:57
朱に交わればハゲになる


228 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/28(Sat) 17:40
株式会社オキムスの公社住宅事業部
星川薫はいじめ、パワハラ、不倫、人権侵害大好きな
チビで歯が汚いメガネ
いじめ、パワハラ、不倫をするために生を受けた明らかな欠陥品、害虫

名前:

【3:3】  うんことうんことうんこ
1 名前:うんこの味 投稿日:2025/06/05(Thu) 00:36
すかとろれがしー


2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 23:57
朱に交わればハゲになる


3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/28(Sat) 17:40
株式会社オキムスの公社住宅事業部
星川薫はいじめ、パワハラ、不倫、人権侵害大好きな
チビで歯が汚いメガネ
いじめ、パワハラ、不倫をするために生を受けた明らかな欠陥品、害虫

名前:

【4:105】  いじめられっ子を助けた武勇伝を自分から晒すスレ
1 名前:F ◆6qYDvwII 投稿日:2013/08/17(Sat) 09:20
タイトル通り


96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/05/20(Tue) 09:03
株式会社オキムスの星川薫はクソ人間
いじめ大好き
パワハラ大好き
不倫大好き
チビで歯が 汚いメガネ

97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/05/21(Wed) 05:17
オキムス

98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/05/22(Thu) 07:21
朱に交わればハゲになる

99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/03(Tue) 01:23
株式会社オキムスの公社住宅事業部
星川薫はいじめ、パワハラ、不倫、人権侵害大好きな
チビで歯が汚いメガネ
いじめ、パワハラ、不倫をするために生を受けた明らかな欠陥品、害虫

100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/04(Wed) 18:38
【ご相談・ご意見伺い】

名誉毀損によって処罰されたいじめ被害者としての訴え

後藤(仮名)

拝啓
貴職のご尽力に日々深く敬意を表します。
本日は、私自身が体験した名誉毀損による処罰と、それに至る一連の経緯についてご報告し、法律の専門家としてのご意見とご助言を賜りたく、筆を執らせていただきました。

私は、過去に中学校にて長期間いじめを受けておりました。暴力的な行為や精神的な苦痛を繰り返し受けながらも、当時は訴える手段もなく、深い心の傷を抱えたまま大人になりました。

そして2022年、30年以上心の内にしまい込んできたその経験を、匿名掲示板「5ちゃんねる」にて書き込みました。
投稿には、当時自分をいじめていた人物の実名を含めました。

結果として、私は名誉毀損の容疑で警察に捜査され、以下のような対応を受けました。



■ 2022年6月13日(月)

職場にベージュの日産エクストレイルに乗った私服警察官が数名で来訪。
「後藤さん?ちょっと来て。警察や」と声をかけられ、水色の警察手帳を提示され、軽度の身体検査後、顔写真を一眼レフで撮影されました。
その場で「掲示板への書き込みが名誉毀損にあたる」「今から署に来られるか、それとも仕事後に須磨署に来られるか」と問われました。

■ 同日夜(自宅)

帰宅すると、今度はアルファードに乗った警察官6名が自宅に上がり込み、インターネット環境を調査、中学の卒業証書を押収し、写真撮影されました。捜索は約2時間に及びました。

■ 須磨警察署に出頭

後日、正式に須磨署へ出頭し、午前9時から午後5時半までの丸一日、パソコンでの取り調べと調書作成が行われました。

■ 神戸地方検察庁からの呼び出し

数週間後、3時間ほどの聴取を受け、「2週間以内に連絡する」と言われましたが、実際には4ヶ月間、何の連絡もありませんでした。

■ その後の通知と罰金刑

4ヶ月後、再度呼び出され、「20万円の罰金刑」が科せられる旨が告げられました。
通知書の到着は12月13日で、記載された支払期限は12月16日まで。実質3日間の猶予しか与えられず、大変困惑しました。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/21(Sat) 10:20
株式会社オキムスの公社住宅事業部
星川薫はいじめ、パワハラ、不倫、人権侵害大好きな
チビで歯が汚いメガネ
いじめ、パワハラ、不倫をするために生を受けた明らかな欠陥品、害虫

102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:45
『スター・ウォーズ』は1977年の『エピソード4/新たなる希望』から始まり、ジョージ・ルーカスが描いた全6部作(エピソード1?)は、明確な構想と神話的な物語構造のもとに展開された壮大な叙事詩だった。旧三部作(4?)は「銀河帝国に抗う英雄たちの勝利」、新三部作(1?)は「その英雄がいかにして闇に堕ちたか」を描いた、見事な前日譚として機能している。

この2つの三部作が優れている最大の理由は、物語全体が「アナキン・スカイウォーカー」という一人の人物の誕生・堕落・救済という、太い主軸のもとに構成されていたことである。これは旧約聖書やギリシャ悲劇、仏教の輪廻思想にさえ通じる“神話構造”を下敷きにしており、観る者の心に普遍的な問いと余韻を残した。

一方、ディズニーにより制作された続三部作(エピソード7?)は、公開前こそ大きな期待と注目を集めたものの、シリーズが進むにつれて物語としての一貫性と主題が失われ、結果として評価が大きく割れる作品群となってしまった。なぜこのような落差が生まれたのか。

第一に、明確な全体構想が存在しなかったことが最大の問題である。ルーカスがエピソード1?を作る際には、多少の変更こそあれ、アナキンの物語という一貫したビジョンが常にあった。しかし、エピソード7『フォースの覚醒』から9『スカイウォーカーの夜明け』までの3作は、監督や脚本家が作品ごとに交代し、ストーリーラインも変更・否定・修正が繰り返された。J.J.エイブラムスが築いた設定を、ライアン・ジョンソンがエピソード8で根本から覆し、最終作でまたエイブラムスがそれを“なかったこと”にする――このような作り手の足並みの揃わなさが、観客に“物語としての信頼感”を失わせた。

たとえば、主人公レイの出自がエピソード7では謎めいた“誰でもない者”として描かれ、8で「お前は何者でもない」と強調されたかと思えば、9では突如「パルパティーンの孫」とされ、物語の根幹にねじ込まれる。この変化は“伏線の回収”ではなく、“整合性のない後付け”にしか見えず、多くのファンが落胆したのも無理はない。

また、カイロ・レンというキャラクターも、アナキンやルークのように明確なドラマを積み重ねることができず、シリーズを通して一貫性のない不安定な描写が続いた。善にも悪にもなりきれず、彼の行動は“物語の駒”として動かされている印象を拭えない。最終的に改心し、命を落とすという結末は、本来であれば感動的であるはずだが、それまでの積み重ねが乏しいため、観客の感情が追いつかない。

世界観の扱いにも問題がある。旧作やプリクエル三部作で築かれた銀河の政治体制や歴史的文脈は、7?ではほとんど無視され、銀河帝国が崩壊した後、なぜまたファースト・オーダーが台頭し、どのように“レジスタンス”が形成されたのかすら曖昧なまま進んでいく。舞台装置がただ再利用されているだけで、その背景にある“物語の理由”が欠落しているのだ。

一方で、旧作に登場したレイア、ルーク、ハン・ソロといった伝説のキャラクターたちも、見せ場こそ用意されていたが、その人生や死が物語的に丁寧に扱われたとは言い難い。特にルークの描かれ方には賛否が分かれた。かつて“父を闇から救った英雄”が、甥の夢に怯えて殺しかけるという展開は、意図的に“神話を壊す”アプローチであったにせよ、旧作への敬意や物語としての説得力を欠いていた。

もちろん、7?にも優れた部分はある。映像表現、ライトセーバーの演出、ドロイドたちの魅力、新しい惑星や種族のデザインなどは見応えがあり、単体の作品として観ればエンターテインメント性は十分にある。しかし、スター・ウォーズという“壮大な一つの物語”の完結編としては、テーマの継承も思想の深化も果たせなかった。

ルーカスが描いた1?は、単に「戦いの物語」ではなく、“父と子”“恐れと赦し”“自由と専制”といった深い人間のテーマが通底していた。だが7?は、「何を描くべきか」がはっきりしないまま、視覚的な刺激と過去作の模倣に頼ってしまった。その結果、“未来への希望”ではなく、“過去の焼き直し”に見えてしまったのだ。

スター・ウォーズとは、特撮や宇宙戦争ではなく、「物語の力」で人々を熱狂させたシリーズである。だからこそ、エピソード7?の“語るべき物語がない”という空虚さは、多くのファンにとって残念であり、心に引っかかるものとなった。

103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:50
『未来世紀ブラジル』の素晴らしさ――夢と抑圧、ユートピアとディストピアの狭間で

『未来世紀ブラジル(Brazil)』は、元モンティ・パイソンのテリー・ギリアム監督によって1985年に発表されたSF映画である。公開当時から高い評価と激しい議論を呼び、現在ではカルト的名作として映画史に深く刻まれている。この作品が放つ独特の魅力は、単なる未来社会の風刺にとどまらず、夢と現実、個と集団、自由と管理という根源的な人間のテーマを、異常なまでに緻密で奇怪な映像世界を通して表現している点にある。

物語の主人公はサム・ローリーという一介の役人。彼は高度に官僚化され、全体主義的に管理された社会の中で、淡々と働きながらも心の奥では夢想に耽る日々を送っている。現実は、行政によるミスが原因で無実の市民が逮捕・死亡しても誰も責任を取らず、それを訂正しようとする者はむしろ不審者とされるような社会だ。サムは偶然にも、夢に現れる“翼のある理想の女”ジルに似た女性と出会ったことから、現実に抗おうとし、やがては体制そのものから逸脱していく。

この映画の最大の特徴は、圧倒的な“ビジュアルの異様さ”である。レトロなタイプライターや真空管、無数のパイプとダクト、意味不明な標語が書かれたポスターがひしめくオフィスや街並み――これは明らかに現代の延長ではなく、「20世紀中盤の未来予想図がそのまま時間を止めてしまった」ような、奇妙なレトロフューチャーである。この造形は決して単なる様式美ではなく、「技術の進歩=人間の自由の拡張」ではなく、「技術の進歩=抑圧の強化」という皮肉を、観客の視覚に直接叩きつけるための手段として機能している。

物語のトーンは、ブラックユーモアとファンタジーと絶望が混在する奇妙なものだ。官僚社会を描く中で、ギリアムは笑いを誘う滑稽さをあえて挿入するが、それは笑っていいのかすら不安にさせる不気味さを孕んでいる。たとえば、顔面整形を受け続けて皮膚が溶けていく老婦人や、壊れたパイプを修理する“非合法配管工”ハリー・タトル(ロバート・デ・ニーロ)など、登場人物たちは一様に狂気と無関心の狭間で生きている。そして、それが決して他人事でないことを観客に突きつけてくる。

本作のタイトル『ブラジル』は、あの有名なサンバの名曲に由来しており、映画の中でも繰り返しメロディが流れる。しかし、その明るくのどかな旋律は、どんなに悲惨で無意味な場面にも差し込まれ、希望と絶望が音楽を通じて反転し続ける。まるで「人間の心の中の自由」はどれほど閉塞した世界でも生きているのだと訴えているかのようであり、同時に「その自由は夢に過ぎない」という虚無のメッセージにも感じられる。この二重性こそが、ギリアムの最大の才能である。

サムの見る“夢”は、翼を持って空を飛び、美しい女性を救い、悪を打ち砕くヒーロー的幻想だが、それはあくまで現実の過酷さから逃避するためのものであり、決して実現することはない。物語の最後、サムは体制によって完全に捕らえられ、拷問の末に“現実”からも心を切り離し、夢の中で幸福に飛翔していく。観客はその姿に一瞬救いを感じるが、それが「精神崩壊による永遠の逃避」であることに気づいた瞬間、言いようのない喪失感に襲われる。

『未来世紀ブラジル』が真に恐ろしいのは、描かれている社会が荒唐無稽な未来像ではなく、むしろ現代社会の縮図である点にある。役所の形式主義、責任のたらい回し、マスメディアによる誘導、監視社会、個人の自由よりも“システムの正当性”が優先される世界。テリー・ギリアムが提示したディストピアは、単に恐怖を煽る未来像ではなく、「いま、ここで起こっている事実を拡大し、風刺的に可視化した世界」にほかならない。

また本作は、1984年のオーウェル的監視社会や、カフカ的な官僚迷路、さらにはフェリーニ的な夢と現実の交錯を想起させるなど、さまざまな芸術的影響を巧みに融合している。だが、それを単なる模倣ではなく、ギリアム独自の“ビジュアル詩”として昇華している点に、彼の作家性の強さがある。

結末は観る者によって解釈が分かれる。「夢の中で自由に生きる彼は救われた」のか、それとも「現実から逃げただけで、完全な敗北なのか」。答えは与えられない。ただ確かなのは、サムが“夢を見ること”をやめなかったという事実であり、それこそがこの映画の最後の希望でもある。


104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 23:57
朱に交わればハゲになる


105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/28(Sat) 17:40
株式会社オキムスの公社住宅事業部
星川薫はいじめ、パワハラ、不倫、人権侵害大好きな
チビで歯が汚いメガネ
いじめ、パワハラ、不倫をするために生を受けた明らかな欠陥品、害虫

名前:

【5:41】  いじめ・大人からの意見
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/21(Sun) 13:24
いじめについて大人や親、先輩からの建設的な力強い意見や提言、アドバイスなど
なんでもどうぞ!。


32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/15(Mon) 07:17
いじめられたら、メモにまとめておくといいでしょう。
相談にも役立ちます。

・いつ    月   日  時頃

・誰に(どういう関係)


・どこで


・どんなことを




・自分はどう思ったか



・その他
 何が困るのか、何回くらいされているのか、訴えたい事など







33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/20(Wed) 11:45
☆◆主なスレ(参考)◆☆

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=bullying&key=389273452&ls=50
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=bullying&key=537244566&ls=50



いじめ主なスレです。

☆いじめは犯罪なんだから警察に通報すればいい
  http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=bullying&key=393487369&ls=50
★怖いじめ弱者の反撃!★【一寸の虫にも五分の魂】
  http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=bullying&key=442831297&ls=50
★☆《全国いじめ相談機関、いじめ相談ダイアルリスト》☆★
   http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=bullying&key=367723156&ls=50
☆今いじめられている人のためのスレ
  http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=bullying&key=265120241&ls=50
☆いじめ・大人からの意見
  http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=bullying&key=456028663&ls=50
☆いじめとその対抗策について、いじめに負けない
  http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=bullying&key=346071167&ls=50

☆いじめって後が怖いんだよね…知ってた??
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=bullying&key=122604851&ls=50
☆暴力的なイジメ受けた人いる?
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=bullying&key=134719156&ls=50


34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/07/05(Sun) 23:39
>>29
盗聴が罪になるのは電話回線に盗聴器を仕掛ける(電気通信法)ときだけです。

35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/29(Tue) 11:59
わ〜い♪

36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2021/12/03(Fri) 07:33
神戸市市立垂水中学校で35年前に河津雅也かわずまさやに、ボコボコに毎日殴られていました。当時流行っていた北斗の拳ごっこに見せかけて、かなりの強い力で身体を殴られていました。来る日も来る日も。辛い学校生活でした。担任のロイヤー先生(あだ名)は、見て見ぬふり。親にも誰にも相談できず。他にもいじめっ子がふえきました。中平くん、江本淳くん、などなどいじめに参戦し、だんだんエスカレートしてきました。本当に毎日つらい中学校生活でした。未だに引きずっている自分はちっとも精神的な成長はなくてあの頃のままなんです。情け無い。今でも辛いです。

37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2021/12/17(Fri) 06:07
何をしても何の解決にもならないのが今更ながら分かった。理解してくれる人もいない。弱い人間には不親切な社会。強い人間のためだけにある社会。同じ人間だから周りと同じく普通に接してもらう権利があるはずだ。誰でも「嫌だ」と思うことをされている。今まで相談して損した。自分が悪いんだと思っていて損した。悩んで損した。どれだけ振り回されたか、迷惑をかけられたことか。騙された無知な自分だけ毎日地獄で戦い、無知で気弱で都合の良い条件の揃った人を利用して、色々な権利を得た強き人間たちは、今まで通りの生活が保証され、いつでも嫌いな人を攻撃でき、いくらでも言い訳でき、ズル賢い強い人だけ幸福になれる可能性がいくらでもある。心無い世界の中で正当なる処遇を受けるべき。それが周囲一人ひとりの多くが心から望んでいた社会。

38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2021/12/19(Sun) 14:43
全て力のある人が望んだ通りの社会になる。力のある人が望んだ通りの人物に仕立て上げられることもある。だから社会に出て学ぶ以前に、社会の怖さを知って上手な人付き合いだったり、人への理解ができる大人にならなければいけないんだと思った。自分を守れる程の力が無い人を非常識な人として、後からいくらでも責めることもできるんだと思うに至る。今どき漫画みたいなイジメとか大逆転とかまだあるのかと思ったら考えがダサくて呆れる。人から舐められないために軽率な一手を打つ人が怖い。結局性格の問題だと気づかされる。

39 名前:まさゆき 投稿日:2025/06/01(Sun) 10:08
告発文】

いじめ被害者である私が、名誉毀損の加害者として処罰された経緯について

私は1986年、神戸市立垂水中学校に在学中、同級生から「北斗の拳ごっこ」と称した日常的な暴力・侮辱行為を受け続けました。
担任教諭も現場を把握していながら介入はなく、孤立した私は、心に深い傷を抱えたまま成長しました。

あれから40年近くが経った今でも、当時の記憶は消えず、私はうつ病と対人恐怖に苦しみながら生きています。

このような過去を経て、2022年、私は匿名掲示板「5ちゃんねる」において、加害者の実名を挙げる形で投稿を行いました。
自身の苦しみを言語化し、同様に傷を抱える誰かに届けばとの思いからでした。

しかしこの投稿が名誉毀損にあたるとして、2022年6月13日(月)早朝、職場に複数の私服警察官が訪問。
「後藤さん?警察です」と警察手帳を提示され、軽い身体検査を受けたうえで、写真撮影と事情聴取を受けました。

同日夜には、警察車両であるベルファイアに乗った6名ほどの警察官が私の自宅に上がり込み、インターネット環境の調査や、私の中学卒業証書と一緒に写真を撮るなど、約2時間の家宅調査が実施されました。

その後、須磨警察署にて午前9時から午後5時半までの長時間取り調べを受け、さらに神戸地方検察庁にも呼び出されて約3時間の聴取。
「2週間以内に連絡する」と言われながらも、4か月もの間、音沙汰はありませんでした。

そして4か月後、再度呼び出された際、20万円の罰金刑が言い渡されました。
罰金の納付書が届いたのは12月13日、振込期限はわずか3日後の16日で、非常に短く、怒りと困惑を覚えました。



この一連の対応に、私は深い憤りと絶望を感じています。

いじめという重大な人権侵害を受けながら、その加害者は一切責任を問われず、
被害を受けた私だけが「名誉毀損」という形で処罰される。

これは、日本社会の構造的な問題であり、「声を上げた被害者を罰する」空気が、今なお根強く存在している証です。

私の目的は、特定の人物を貶めることではなく、**「被害者が泣き寝入りしない社会」**を作ることです。
誰かにとって、この経験が支えとなることを願って、私はこの告発文を記します。


40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/04(Wed) 18:17
【告発文】

「いじめ被害者である私が処罰され、加害者が守られる社会」

被害者:後藤(仮名)

私はかつて、中学時代に暴力や言葉によるいじめを長期間にわたって受けていました。
しかし、そのとき誰一人として助けてはくれず、私は傷を抱えたまま、長年沈黙を強いられて生きてきました。

2022年、私はその苦しみと怒りを、匿名掲示板「5ちゃんねる」で文章にし、当時自分をいじめていた人物の実名を書き込みました。
それが、すべての始まりでした。



■ 2022年6月13日(月)

出勤先に、ベージュの日産エクストレイルに乗った私服警察官数名が突然現れました。
「後藤さん?ちょっと来て。警察や」と声をかけられ、水色の警察手帳を見せられ、軽い身体検査のうえ、キャノンの一眼レフで写真を撮影されました。

その場でこう言われました:
「荷物ここに持ってきて。逮捕はせえへんけど、掲示板に書き込みしたやろ。あれ、名誉毀損にあたるねん。今から警察署これるか?それか仕事終わってから須磨署に来れるか?」



■ 同日 夜(自宅)

仕事を終えて帰宅すると、今度は黒いアルファードに乗った警察官6名が自宅に上がり込みました。
家中のインターネット環境の調査、中学の卒業証書の押収と撮影が行われ、約2時間に及ぶ家宅捜索を受けました。



■ 須磨警察署への出頭

後日、私は正式に須磨署へ出頭。
朝9時から17時半まで、1日がかりで取り調べを受け、パソコン上で詳細な調書を取られました。



■ 神戸地方検察庁での取り調べ

数週間後、検察庁から呼び出され、3時間ほどの事情聴取。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 23:58
朱に交わればハゲになる


名前:

【6:4】  小学校でのいじめで元同級生2人に15万円の賠償命令
1 名前:匿名 投稿日:2024/07/01(Mon) 22:26

判決理由で、
元同級生らが男子生徒の机からドリルなどを
無断で持ち出し、コンパスを壊した行為を
「所有権を侵害し悪質」と指摘し、
精神的苦痛に対する
慰謝料の支払いを命じたそうです。



2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/08(Sun) 11:11
私は2022年、5ちゃんねるの掲示板にて、過去に自分をいじめていた加害者の実名を書き込んだことがきっかけで、警察と検察の取り調べを受け、最終的に罰金刑を受けました。

2022年6月13日(月)の朝、出勤先の職場に、私服の警察官が複数名、ベージュの「日産エクストレイル」で訪れました。対応に出た私に対し、彼らは「後藤さん?ちょっと来て。警察や」と声をかけ、水色の表紙の警察手帳を提示。軽く身体検査をされた後、キャノンの一眼レフで写真を撮影され、「荷物ここに持ってきて」「逮捕せえへんから」と告げられました。

警察官は、「なんで警察が来たか心当たりあるか?」「インターネットの掲示板の書き込みが名誉毀損にあたるねん」と伝えてきました。そして「仕事が終わった後、須磨署に来れるか?」と要請されました。

その日の18時、仕事が終わって帰宅した私の自宅には、今度は警察官7名が訪れ、家の中に上がり込みました。インターネット環境の確認や、中学の卒業証書と一緒に写真撮影などが行われ、約2時間にわたり捜査が行われました。

そして6月21日(火)、仕事を休んで兵庫県警須磨警察署に出頭。朝9時から夕方17時半まで、1日がかりで取り調べが行われました。

さらに数週間後、今度は神戸地方検察庁から呼び出しがあり、7月20日(水)18時から約3時間、聞き取りが行われました。「2週間後に連絡する」と言われましたが、その後約4ヶ月間、音沙汰がありませんでした。

ようやく連絡が来たのは11月14日(月)。「ハンコを持って来てください」と再び呼び出され、罰金刑が言い渡されました。書類が自宅に届いたのは12月13日で、12月16日までに罰金を振り込むよう記載されており、非常にタイトな期限でした。

最終的に罰金は支払いましたが、とても悔しく、やりきれない気持ちになりました。


3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/15(Sun) 13:12
【告発文】いじめ被害の告発に対する国家機関の対応の違法性について

1986年、神戸市立垂水中学校において私は日常的ないじめ被害を受けていた。主犯は仮名「蚊」であり、暴力・侮辱・人格否定の言動が繰り返された。私はその事実を2020年代になってようやく言葉にし、加害者の実名をインターネット上に記したが、その行為が「名誉毀損」に当たるとして、兵庫県警須磨署が2度にわたり私の自宅に来訪し、神戸地検は2回の出頭要請と合計70万円の罰金を科した。

しかしこの一連の国家機関による対応は、以下の点で違法または著しく不当である。



1. 名誉毀損の違法性判断の逸脱

名誉毀損は、公共性・公益性・真実性の3要件が揃えば違法性が阻却される(最高裁昭和41年6月23日判決)。私は公共性(いじめという社会問題)、公益性(同様の苦しみを抱える他者への警鐘)、真実性(実体験に基づく)をもって投稿した。したがって、本件投稿はそもそも違法性が阻却されるものであり、国家機関はこれを十分に審査せず、一方的に起訴相当と断定して処罰に走った。



2. 被害者の二次加害

いじめの長期的後遺症に苦しむ被害者が勇気を振り絞って告発した行為に対し、警察・検察・裁判所が「犯罪者」として扱ったこと自体が、精神的虐待であり、明確な二次被害である。被害者救済の立場を放棄し、法技術を使って抑圧したこの対応は、国家による構造的暴力である。



3. 加害者の権利と被害者の沈黙の強制

名誉毀損罪の運用において「社会的評価を守る権利」が加害者に一方的に認められ、いじめ被害者が声を上げることは「刑罰によって封じられる」という構図が成立している。この構図自体が、いじめという非対称な暴力に加担する制度的矛盾であり、民主主義の基本理念に反している。



【結語】

私はいじめ加害者の名誉より、被害者の生命と尊厳のほうが遥かに重いと考える。国家機関が本来守るべきは、いじめの加害者の虚飾ではなく、命がけで真実を告白する者の「声」であるはずだ。
本件対応において、警察・検察・裁判所がその使命を放棄し、いじめ被害者を再び追い詰めた事実を、私は決して看過できない。
この国の法と正義に対し、強く、明確に、異議を申し立てる。

4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 23:57
朱に交わればハゲになる


名前:

【7:41】  人生を諦めるな
1 名前:おっさん 投稿日:2010/11/12(Fri) 02:52
長い目で見ろよ。
いじめられたのがつらい

俺だってそれ以上の辛さが無いって事くらい解る

でも人生は長いんだ

諦めんなよ


32 名前:みか 投稿日:2015/05/02(Sat) 00:52
ぶぅー
ぷぅぅぅぅーーー
ブリリッ!!

33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/16(Mon) 06:39

名誉毀損で罰金を科された私の体験 ―加害者は忘れ、被害者だけが罰せられる理不尽さ―





私は過去に、5ちゃんねるというインターネット掲示板に、実名を交えて中学時代に受けたいじめについて書き込みました。あれは、今も心に深い傷として残る体験であり、忘れようにも忘れられない出来事です。



ところが、2022年6月13日(月)の朝、勤務先に私服警察官が数名現れ、「後藤さん?ちょっと来て。警察や。」と声をかけられました。水色の表紙の警察手帳を見せられた後、「何も変な物持ってへんな」と軽く身体検査され、カメラで写真を撮られました。「荷物持って来て、逮捕せえへんから。なんで警察来たか心当たりあるか?掲示板の書き込みや。それが名誉毀損にあたるねん」と言われました。



その日の夕方には、自宅に警察官7名が訪れ、パソコンなどインターネット環境の確認や、中学の卒業証書を含む私物を撮影。6月21日には兵庫県警須磨署で一日がかりの取り調べが行われました。さらに7月20日には神戸地検で3時間ほどの事情聴取がありましたが、「2週間後に連絡する」と言われたまま、音沙汰は4か月もありませんでした。



ようやく来たのは11月14日。再び神戸地検に呼ばれ、「印鑑を持ってきて」と言われ罰金刑に。通知書類は12月13日に届き、12月16日までに振り込めという内容でした。時間もなく、慌ただしく振り込みました。とても嫌な気分でした。



そして、それから約1年後の2023年9月4日早朝、私は再び警察の訪問を受けました。出勤しようと車に乗り込んだその時、後ろから腹の出た中年の男性が、腹を揺らしながら走ってきました。「遅刻でもして焦っているのかな?」と思い、私は車を発進させようとしました。すると、彼は私の車のボディをパンパンと叩きながら接近してきました。右手にペラペラと警察手帳を広げて見せつけながら、汗でシャツはびっしょり、においもきつく、とても不快でした。私はそのまま、黒いスズキ・スイフトに乗せられ、警察へ連行されました。どうやら、イニシャルで再び書き込んだ件も問題視されていたようです。



それなのに、当のいじめ加害者は「覚えていない」と証言したそうです。…いじめた側は忘れ、いじめられた側だけが、いつまでも苦しみ、声を上げれば法によって罰せられる。これが、この国の“正義”なのでしょうか。



警察も検察も、それぞれ職務を遂行していただけだとは思います。しかし、私はこの出来事を通して、社会の「構造的な不公平」を痛感しました。

正直、とてもやり切れない気持ちでした。



いま、いじめで苦しんでいるあなたへ。どうか、ひとりで抱え込まずに、信頼できる大人や先生、支援団体に話してください。いじめる側が100%悪いのです。あなたが自分を責める必要は、決してありません。



(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 09:35
1980年代という「いじめ」が学校内で黙殺されていた時代において、当事者による証言が残されていないことは珍しいことではない。しかし、それでもなお記憶の奥底に刻まれた体験を、数十年の時を経て告白するという行為は、極めて強い動機と深い苦悩に裏打ちされたものである。

今回の告発者は、匿名掲示板という誰もが利用できる不特定多数の空間において、かつて自らが受けた「いじめ」の具体的内容を丁寧かつ克明に記している。さらに、当時の加害者とされる人物の実名を記載した結果、名誉毀損によって罰金刑を受けたという経緯が示されている。これは、単なる中傷目的や虚偽の暴露とは異なり、法的なリスクを背負ってまでも社会に訴えたかったという、極めて切実な意思の現れである。

確かに匿名掲示板は、不確かな情報や誹謗中傷が飛び交う場である。しかし同時に、それは「記録されなかった痛み」を唯一語れる場所でもある。学校も家庭も、警察も社会も守ってくれなかった人々にとって、匿名掲示板は声を発する最後の砦である。そのような場において、具体的な状況描写と加害者の行動を冷静かつ一貫して語る証言は、虚偽とは考えにくく、内在する信憑性はむしろ高いといえる。

公式記録が存在しない時代の被害であるからこそ、こうした証言には、私たち社会が真摯に耳を傾ける必要がある。証拠がないという理由だけで過去の暴力がなかったことにされるのであれば、今もなお苦しみ続ける被害者の存在は、永遠に「なかったこと」にされてしまうのだ。

35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 20:49
1980年代――
私が中学生だったその時代、学校という空間は、生徒にとって守られるべき場であるはずでした。けれど、私にとっては、毎日が暴力と屈辱の連続でした。 

私はある生徒から、日常的に暴力を受けていました。拳で殴られ、唾を吐きかけられ、帽子を捨てられ、人格を否定するような言葉を浴びせられる。笑いながらそれを見ていた他の同級生たち。見て見ぬふりをした教師。誰も私を助けてはくれませんでした。

当時の日本には、いじめを「いじめ」として記録する文化も制度もありませんでした。教師たちは事実に目を背け、「ケンカで済ませろ」「男子同士のじゃれ合いだ」と言い放ち、学校はその実態を記録にも残さず、外部にも知らせませんでした。

だから私は、どれだけ傷ついても、どれだけ声をあげても、「何もなかった」ことにされてきました。

私はその後、長い間、自責の念とうつ病に苦しみました。人を信じられず、外にも出られず、社会の中で生きていくことさえ困難になりました。けれど、今ようやく、声を上げる覚悟を持てました。

いじめの記録が残っていないのは、いじめがなかった証拠ではありません。
記録されなかったのは、「その時代が、被害者の声を封じ込める社会だった」からです。
それでも私は、記録よりも重い記憶を抱えて生きてきました。

私は社会に問いかけたいのです。
かつて無視された被害者の声を、今度こそ誰かが受け止めてくれる社会に、私たちはなれるのだろうか。
声を上げるという行為が、再び沈黙に変えられないようにするには、何が必要なのか。

どうか、過去のいじめの告発を「今さら」と切り捨てないでください。
私が語るのは、過去の事実であり、いまも続く痛みであり、これからの社会に必要な問いかけです。


36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:20
『未来少年コナン』は、1978年にNHKで放送されたテレビアニメであり、宮崎駿が初めて全話の演出と構成を手がけた記念碑的作品である。世界が第三次大戦によって崩壊し、地軸のズレにより大地の大半が海に沈んだ未来の地球。そこに残されたわずかな人々の生と再生の物語が、この作品の核となっている。

主人公のコナンは、地球を脱出しようとした宇宙船がのこされ島に不時着した後、その乗員の男女から生まれた少年である。彼は「おじい」と呼ぶ年配の男性に育てられ、荒れた自然の中でたくましく、自由に、まっすぐな心を持って育った。だが、ある日流れ着いた少女・ラナとの出会いが、彼の運命を大きく変えていく。

ラナは、失われた太陽エネルギーの再起動に関わる重要人物であり、科学都市インダストリアによって連れ去られてしまう。だが物語が進むにつれて、インダストリアの行政局長レプカの本当の狙いが明らかになってくる。彼は、太陽エネルギーを平和利用するのではなく、かつての破壊兵器「ギガント」の復活をもくろみ、そのためにラナの祖父であり技術者であるラオ博士の居所を突き止めようとしていたのだ。

コナンは、ラナを助けるために旅立つ――だがその行動の根底にはもう一つの大きな動機がある。それは、死の間際のおじいが彼に残した言葉だ。「仲間を見つけて、その仲間のために生きろ」。この言葉は、コナンの行動の原点であり、ただの救出劇ではなく、人と人とがつながりなおす物語としての重みを作品に与えている。

旅の中で出会うのは、時に敵として、時に味方として現れるさまざまな人物たちだ。陽気でたくましいジムシー、揺れる心を持つ女性軍人モンスリー、かつては敵だったが変化していくダイス船長。そして、インダストリアの管理された世界と対比されるように描かれるハイハーバーの人々。彼らとの出会いと関係は、コナンを通じて「人は変わることができる」「分かりあうことができる」という希望を体現していく。

特にモンスリーの変化は象徴的である。序盤、彼女は冷徹な命令遂行者として描かれるが、自然と共に生きる人々との接触を経て、良心を取り戻していく。その変化は、過ちを犯した者でも新たな道を選ぶことができるという、宮崎駿の一貫した人間観の表れであり、この作品の根底に流れる「赦し」と「再生」の主題に深く結びついている。

ラナの存在もまた特別だ。彼女は感情を荒げることなく、静かな芯の強さで人と自然を信じている。その信念が、モンスリーをはじめ多くの人々の心を動かしていく。彼女は単なる「助けられる存在」ではなく、「つながりを生み出す力」を持つ存在であり、物語の精神的支柱でもある。

そして物語の終盤、「のこされ島」が地殻変動によって隆起し、新しい大地として姿を現す。この場所は、物語の始まりであり終着点であり、新たな文明の出発点でもある。かつて「取り残された島」が、再び人々の未来を担う場所となるというこの演出は、破壊された文明の果てにこそ希望が芽生えるという強いメッセージを含んでいる。

アニメーション表現としても、『未来少年コナン』は極めて完成度が高い。手描きによる動きのリアルさ、風や重力の表現、そしてキャラクターの“行動で語る”演出は、後のジブリ作品にも通じる宮崎演出の原点が詰まっている。加えて音楽も印象的で、オープニングテーマ「いま、地球が目覚める」は、まさにこの作品の持つ“再生”の象徴となっている。

『未来少年コナン』は、子供向けの冒険物語に見えながら、人間の尊厳、過ちからの回復、そして他者と生きることの意味を深く問う作品である。すべてが失われた後でも、そこに人がいて、希望があれば、世界は始め直せる。
それを信じる力が、コナンの真っ直ぐな行動と、ラナの静かな祈りの中に宿っている。

この物語は、時代を超えて私たちに語りかける。――「未来は、つくりなおせるのだ」と。


37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:26
『スター・ウォーズ エピソード4?』、通称「旧三部作」は、映画史上に燦然と輝くSFスペースオペラの金字塔である。ジョージ・ルーカスが創り出したこの壮大な物語は、単なる宇宙戦争を描いた娯楽作品にとどまらず、神話、哲学、宗教、そして人間ドラマを融合させた“現代の神話”として、世界中の人々の心に深く刻まれた。

1977年に公開された『エピソード4/新たなる希望』は、無名の青年ルーク・スカイウォーカーが、反乱軍と共に銀河帝国に立ち向かう姿を描く。この物語は、いわゆる“ヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)”の構造に基づいており、若者が日常から非日常へと踏み出し、成長しながら運命を受け入れていく王道のドラマとなっている。師であるオビ=ワン・ケノービとの出会い、ハン・ソロやレイア姫との仲間関係の構築、そしてダース・ベイダーという象徴的な敵との対峙は、まさに英雄譚の核心をついている。

続く『エピソード5/帝国の逆襲』は、旧三部作の中でも特に評価が高い作品である。物語はより重厚さを増し、登場人物たちはそれぞれの過去や宿命に直面していく。ヨーダとの修行を通して「フォース」の真理に触れるルーク、恋愛と仲間の絆を深めていくハンとレイア、そしてラストの衝撃的な告白――「私がお前の父だ(I am your father)」というダース・ベイダーの台詞は、映画史に残る名場面であり、観る者すべての価値観を覆す。善と悪、親と子、運命と自由意志というテーマが一気に噴き出し、物語は一層深みを帯びる。

そして『エピソード6/ジェダイの帰還』では、物語はついに決着を迎える。ダース・ベイダー=アナキン・スカイウォーカーが、息子ルークの信念に心を動かされ、自らの命をかけて皇帝パルパティーンを倒す場面は、アクションでも演出でもなく、「愛」と「赦し」の力が銀河を救うという、スター・ウォーズ全体の主題を象徴する瞬間である。善と悪の境界を越えた“人間の回帰”がここに描かれ、単なる勝利の物語ではなく、精神的救済の物語として旧三部作は幕を閉じる。

キャラクターの魅力も旧三部作の大きな強みだ。ルークは成長と葛藤を体現する“誰にでもなり得る”主人公であり、ハン・ソロは皮肉屋で現実主義者ながら、深い友情と愛を持った“もう一人の英雄”である。レイア姫は1970年代当時としては異例の“戦う女性”として描かれ、知性・勇気・優しさを兼ね備えた強いキャラクター像を確立した。ダース・ベイダーは、その圧倒的なビジュアルと音響、そして悲劇的な過去によって、史上最も印象深い“人間味あるヴィラン”として確固たる地位を築いた。

さらに旧三部作の魅力は、当時の最新技術を駆使して創り上げられた世界観にもある。CGのない時代に、ミニチュア模型、マットペイント、光学合成などを駆使して描かれた銀河の風景は、まさに革新の連続だった。タトゥイーンの砂漠、ホスの氷原、エンドアの森といった多様な惑星と、それぞれに息づく文化、種族、建築、技術。世界が“作られた”のではなく“存在している”と錯覚するようなリアリティがそこにはある。

また、フォースという概念は、東洋思想や宗教、禅、そして道徳哲学をベースにした精神的要素を物語に導入し、単なるSFではなく、内面の成長や魂の修行といった要素を描くことに成功した。ライトセーバーでの戦いは、武力の象徴というよりも精神性の対決であり、ルークとベイダーの最終決戦は、その象徴である。

『スター・ウォーズ エピソード4?』は、映像技術の進化だけでなく、神話構造に基づいた普遍的な物語、人間の善と悪、親子の絆、そして赦しと希望という普遍的テーマを内包し、今なお色褪せることのない力を持っている。それはまさに、「遠い昔、はるかかなたの銀河系で」の物語でありながら、いつの時代でも、どんな人にも響く“現代の神話”そのものである。

38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:32
『スター・ウォーズ エピソード1?』(通称:プリクエル三部作)は、ジョージ・ルーカスが生み出した銀河神話の原点を描いた壮大な叙事詩である。1977年から始まった旧三部作(エピソード4?)では語られなかった“かつての英雄”がなぜ“銀河の脅威”になってしまったのか――それを描いたのが、この三部作である。

エピソード1『ファントム・メナス』(1999年)は、旧共和国時代の政治的不安、腐敗、そして影から蠢くシスの暗躍を描く物語である。物語は、惑星ナブーの危機を契機に、ジェダイ・マスター クワイ=ガン・ジンとその弟子オビ=ワン・ケノービが、銀河の平和を守るために動き出すところから始まる。ここで彼らは、“選ばれし者”とされる少年アナキン・スカイウォーカーと出会う。彼の卓越したフォース感応力は、ジェダイ評議会をも驚かせた。だが、その運命にはすでに影が差し込んでいた。

エピソード2『クローンの攻撃』(2002年)では、共和国の分裂とクローン戦争の発端が描かれると同時に、成長したアナキンの心の葛藤が物語の中心に移る。愛する母の死、そしてジェダイとして禁じられた恋――アナキンとパドメ・アミダラの密やかな愛は、やがて彼をジェダイの教義から引き離す引火点となる。彼の内に生まれた「恐れ」は、ヨーダが警告する通り、「怒り」へ、そして「憎しみ」へとつながっていく。この作品では、戦争の裏でパルパティーン議員(のちの皇帝)が権力を拡大していく様子が描かれ、自由の死は拍手の中で訪れるという名言が象徴するように、民主主義が独裁へと静かに変貌していく過程が描かれる。

そしてエピソード3『シスの復讐』(2005年)は、プリクエル三部作の核心であり、『スター・ウォーズ』全体の中でも最も悲劇的かつ緊張感に満ちた作品である。アナキンは、愛する者を守りたいという純粋な想いから、次第にダークサイドへと引きずり込まれていく。パドメの死を予知したアナキンは、死を恐れるあまりパルパティーン=ダース・シディアスの誘惑に屈し、ジェダイを裏切る。その後、彼は「ダース・ベイダー」として生まれ変わり、共和国は「銀河帝国」へと姿を変える。最終盤、オビ=ワンとの決闘と、その果てに身体を焼かれ機械にされてしまうアナキンの姿は、観る者に深い衝撃と哀しみを与える。

プリクエル三部作の魅力のひとつは、旧三部作で神秘的に語られていた歴史を、あくまで人間のドラマとして描き直した点にある。アナキン・スカイウォーカーは最初から悪ではない。彼は愛に不器用で、怒りを抑えられず、しかし誰よりも強くて優しい青年だった。その彼が徐々にフォースの暗黒面に染まっていく過程は、「善と悪は紙一重」であることを鋭く突きつけてくる。アナキンの転落は運命ではなく、選択の連続によって起こる。だからこそ観る者にとって他人事ではなく、彼の苦しみは見る者自身の苦悩にも重なる。

また、政治的テーマも本三部作の大きな魅力である。共和制の崩壊、権力の集中、情報操作による大衆の誘導、制度疲弊による腐敗といった要素は、単なるファンタジーの枠を超えたリアリズムを持ち、現実社会の縮図としても読み解くことができる。かつて自由と正義を守るはずだったジェダイが、硬直化し、時代の流れについていけなくなったことも、結果的に帝国誕生を許すことにつながった。これは単なる善悪の物語ではなく、理想が組織を腐敗させる過程を丹念に描いた重厚な政治劇でもある。

技術面でも、プリクエル三部作はCGの可能性を飛躍的に押し広げた。CGキャラクターとして初めてドラマ性を与えられたジャー・ジャー・ビンクス、壮大なクローン戦争の戦闘シーン、コルサントの都市描写などは、当時の映像技術の最先端であり、シリーズ全体に新たな表現力とビジュアルスケールをもたらした。

総じて、『スター・ウォーズ エピソード1?』は、「ヒーローの誕生と勝利」を描いた旧三部作とは対照的に、「英雄の堕落と世界の終焉」を描いた悲劇的叙事詩である。その内容は暗く、重く、しかし決して救いがないわけではない。アナキンの墜落の先には、ルークとレイアという希望が生まれ、やがてそれが銀河に新たな光をもたらすことになる。この“希望へと至る悲劇”という構造こそが、プリクエル三部作を深く、重く、そして美しくしている所以である。

39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:45
『スター・ウォーズ』は1977年の『エピソード4/新たなる希望』から始まり、ジョージ・ルーカスが描いた全6部作(エピソード1?)は、明確な構想と神話的な物語構造のもとに展開された壮大な叙事詩だった。旧三部作(4?)は「銀河帝国に抗う英雄たちの勝利」、新三部作(1?)は「その英雄がいかにして闇に堕ちたか」を描いた、見事な前日譚として機能している。

この2つの三部作が優れている最大の理由は、物語全体が「アナキン・スカイウォーカー」という一人の人物の誕生・堕落・救済という、太い主軸のもとに構成されていたことである。これは旧約聖書やギリシャ悲劇、仏教の輪廻思想にさえ通じる“神話構造”を下敷きにしており、観る者の心に普遍的な問いと余韻を残した。

一方、ディズニーにより制作された続三部作(エピソード7?)は、公開前こそ大きな期待と注目を集めたものの、シリーズが進むにつれて物語としての一貫性と主題が失われ、結果として評価が大きく割れる作品群となってしまった。なぜこのような落差が生まれたのか。

第一に、明確な全体構想が存在しなかったことが最大の問題である。ルーカスがエピソード1?を作る際には、多少の変更こそあれ、アナキンの物語という一貫したビジョンが常にあった。しかし、エピソード7『フォースの覚醒』から9『スカイウォーカーの夜明け』までの3作は、監督や脚本家が作品ごとに交代し、ストーリーラインも変更・否定・修正が繰り返された。J.J.エイブラムスが築いた設定を、ライアン・ジョンソンがエピソード8で根本から覆し、最終作でまたエイブラムスがそれを“なかったこと”にする――このような作り手の足並みの揃わなさが、観客に“物語としての信頼感”を失わせた。

たとえば、主人公レイの出自がエピソード7では謎めいた“誰でもない者”として描かれ、8で「お前は何者でもない」と強調されたかと思えば、9では突如「パルパティーンの孫」とされ、物語の根幹にねじ込まれる。この変化は“伏線の回収”ではなく、“整合性のない後付け”にしか見えず、多くのファンが落胆したのも無理はない。

また、カイロ・レンというキャラクターも、アナキンやルークのように明確なドラマを積み重ねることができず、シリーズを通して一貫性のない不安定な描写が続いた。善にも悪にもなりきれず、彼の行動は“物語の駒”として動かされている印象を拭えない。最終的に改心し、命を落とすという結末は、本来であれば感動的であるはずだが、それまでの積み重ねが乏しいため、観客の感情が追いつかない。

世界観の扱いにも問題がある。旧作やプリクエル三部作で築かれた銀河の政治体制や歴史的文脈は、7?ではほとんど無視され、銀河帝国が崩壊した後、なぜまたファースト・オーダーが台頭し、どのように“レジスタンス”が形成されたのかすら曖昧なまま進んでいく。舞台装置がただ再利用されているだけで、その背景にある“物語の理由”が欠落しているのだ。

一方で、旧作に登場したレイア、ルーク、ハン・ソロといった伝説のキャラクターたちも、見せ場こそ用意されていたが、その人生や死が物語的に丁寧に扱われたとは言い難い。特にルークの描かれ方には賛否が分かれた。かつて“父を闇から救った英雄”が、甥の夢に怯えて殺しかけるという展開は、意図的に“神話を壊す”アプローチであったにせよ、旧作への敬意や物語としての説得力を欠いていた。

もちろん、7?にも優れた部分はある。映像表現、ライトセーバーの演出、ドロイドたちの魅力、新しい惑星や種族のデザインなどは見応えがあり、単体の作品として観ればエンターテインメント性は十分にある。しかし、スター・ウォーズという“壮大な一つの物語”の完結編としては、テーマの継承も思想の深化も果たせなかった。

ルーカスが描いた1?は、単に「戦いの物語」ではなく、“父と子”“恐れと赦し”“自由と専制”といった深い人間のテーマが通底していた。だが7?は、「何を描くべきか」がはっきりしないまま、視覚的な刺激と過去作の模倣に頼ってしまった。その結果、“未来への希望”ではなく、“過去の焼き直し”に見えてしまったのだ。

スター・ウォーズとは、特撮や宇宙戦争ではなく、「物語の力」で人々を熱狂させたシリーズである。だからこそ、エピソード7?の“語るべき物語がない”という空虚さは、多くのファンにとって残念であり、心に引っかかるものとなった。

40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:51
『未来世紀ブラジル』の素晴らしさ――夢と抑圧、ユートピアとディストピアの狭間で

『未来世紀ブラジル(Brazil)』は、元モンティ・パイソンのテリー・ギリアム監督によって1985年に発表されたSF映画である。公開当時から高い評価と激しい議論を呼び、現在ではカルト的名作として映画史に深く刻まれている。この作品が放つ独特の魅力は、単なる未来社会の風刺にとどまらず、夢と現実、個と集団、自由と管理という根源的な人間のテーマを、異常なまでに緻密で奇怪な映像世界を通して表現している点にある。

物語の主人公はサム・ローリーという一介の役人。彼は高度に官僚化され、全体主義的に管理された社会の中で、淡々と働きながらも心の奥では夢想に耽る日々を送っている。現実は、行政によるミスが原因で無実の市民が逮捕・死亡しても誰も責任を取らず、それを訂正しようとする者はむしろ不審者とされるような社会だ。サムは偶然にも、夢に現れる“翼のある理想の女”ジルに似た女性と出会ったことから、現実に抗おうとし、やがては体制そのものから逸脱していく。

この映画の最大の特徴は、圧倒的な“ビジュアルの異様さ”である。レトロなタイプライターや真空管、無数のパイプとダクト、意味不明な標語が書かれたポスターがひしめくオフィスや街並み――これは明らかに現代の延長ではなく、「20世紀中盤の未来予想図がそのまま時間を止めてしまった」ような、奇妙なレトロフューチャーである。この造形は決して単なる様式美ではなく、「技術の進歩=人間の自由の拡張」ではなく、「技術の進歩=抑圧の強化」という皮肉を、観客の視覚に直接叩きつけるための手段として機能している。

物語のトーンは、ブラックユーモアとファンタジーと絶望が混在する奇妙なものだ。官僚社会を描く中で、ギリアムは笑いを誘う滑稽さをあえて挿入するが、それは笑っていいのかすら不安にさせる不気味さを孕んでいる。たとえば、顔面整形を受け続けて皮膚が溶けていく老婦人や、壊れたパイプを修理する“非合法配管工”ハリー・タトル(ロバート・デ・ニーロ)など、登場人物たちは一様に狂気と無関心の狭間で生きている。そして、それが決して他人事でないことを観客に突きつけてくる。

本作のタイトル『ブラジル』は、あの有名なサンバの名曲に由来しており、映画の中でも繰り返しメロディが流れる。しかし、その明るくのどかな旋律は、どんなに悲惨で無意味な場面にも差し込まれ、希望と絶望が音楽を通じて反転し続ける。まるで「人間の心の中の自由」はどれほど閉塞した世界でも生きているのだと訴えているかのようであり、同時に「その自由は夢に過ぎない」という虚無のメッセージにも感じられる。この二重性こそが、ギリアムの最大の才能である。

サムの見る“夢”は、翼を持って空を飛び、美しい女性を救い、悪を打ち砕くヒーロー的幻想だが、それはあくまで現実の過酷さから逃避するためのものであり、決して実現することはない。物語の最後、サムは体制によって完全に捕らえられ、拷問の末に“現実”からも心を切り離し、夢の中で幸福に飛翔していく。観客はその姿に一瞬救いを感じるが、それが「精神崩壊による永遠の逃避」であることに気づいた瞬間、言いようのない喪失感に襲われる。

『未来世紀ブラジル』が真に恐ろしいのは、描かれている社会が荒唐無稽な未来像ではなく、むしろ現代社会の縮図である点にある。役所の形式主義、責任のたらい回し、マスメディアによる誘導、監視社会、個人の自由よりも“システムの正当性”が優先される世界。テリー・ギリアムが提示したディストピアは、単に恐怖を煽る未来像ではなく、「いま、ここで起こっている事実を拡大し、風刺的に可視化した世界」にほかならない。

また本作は、1984年のオーウェル的監視社会や、カフカ的な官僚迷路、さらにはフェリーニ的な夢と現実の交錯を想起させるなど、さまざまな芸術的影響を巧みに融合している。だが、それを単なる模倣ではなく、ギリアム独自の“ビジュアル詩”として昇華している点に、彼の作家性の強さがある。

結末は観る者によって解釈が分かれる。「夢の中で自由に生きる彼は救われた」のか、それとも「現実から逃げただけで、完全な敗北なのか」。答えは与えられない。ただ確かなのは、サムが“夢を見ること”をやめなかったという事実であり、それこそがこの映画の最後の希望でもある。


41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 23:56
朱に交わればハゲになる


名前:

【8:40】  相談のります
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/10/20(Wed) 19:50


  よかったら話聞かせてください。


31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/10/10(Thu) 08:49
株式会社オキムスにいた椎橋幸平は犯罪者のクズ
パワハラ チビ キモ面 貧乏 鶴見の部落出身者
顔はカエルに似て不細工 ハゲた頭
趣味は酒 タバコ ギャンブル
自分のミスを他人に押し付けるクズ
人を平気で殴るクズ 傷害罪 暴行罪



32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/11(Wed) 09:21
あの頃の僕は、どうしても「自分が悪い」と思わずにはいられませんでした。
休み時間が怖かった。チャイムの音が憂鬱の合図だった。
同級生は、毎日のように僕を殴りました。
「北斗の拳ごっこ」と称しながら、本気で。
彼の拳は、遊びではなく暴力でした。

顔は決して殴られなかった。
アザができれば大人にバレるから。
だからいつも狙われるのは、服で隠れる場所――胸、背中、脇腹。
痛みも、悔しさも、誰にも見えなかった。
だから助けも、なかった。

教室には教師がいました。見て見ぬふりでした。
むしろ、クラスの空気に合わせて流していたようにも思います。
だから僕は、黙るしかなかった。

「やり返せないお前が悪い」
「友達と上手くやれないお前が悪い」
そう思い込んでいくうちに、僕は自分の存在価値すら信じられなくなっていきました。

卒業してからも、その記憶はいつも僕の中にありました。
新しい学校、社会に出てからも、誰かの目が怖かった。
人を信じることが難しかった。
僕はうつ病になり、働くことも、人と話すことも、笑うことすら苦しくなりました。

誰にも言えず、誰にもわかってもらえず、
30年以上、心の奥に封印していたこの記憶。
けれど今、ようやく僕は声をあげることにしました。
たとえ、名誉毀損で処罰されても。
たとえ、また傷つくことになっても。
それでも「僕の身に起きたことは、事実なんだ」と、証明したかった。

いじめは、記録に残らなければ「なかったこと」にされてしまう。
だからこそ、僕が語らなければならなかったのです。

33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/14(Sat) 09:19
1986年、神戸市立垂水中学校3年の時、私は「北斗の拳ごっこ」と称して、同級生の川鵜仮名から日常的に暴力を受けていました。理由もなく殴られ、そのうち他の同級生からも、唾を吐かれ、帽子を溝に捨てられるパンツを脱がされるなどの暴力を受けました。日々私は次第に「自分が悪いのだ」と思い込むようになり、助けを求めることもできず、担任も見て見ぬふりでした。



子どもだった私は、理不尽な暴力を当たり前として受け入れ、心を麻痺させて生き延びました。本当は泣きたかった。助けてほしかった。でも誰も手を差し伸べてくれなかったのです。



あれから40年近くが経ちましたが、あの痛みと屈辱は今も消えず、心の奥に棲みついています。社会人として生活しながらも、心の一部はあの教室に閉じ込められたままでした。恐怖や不信感が心を支配し、私は10年もの間、引きこもりの生活を送りました。



社会復帰は恐怖との闘いでした。外に出ること、人と会うこと、それだけで崖を登るような苦しさがありました。それでも私は、もう一度立ち上がりたいと必死に自分と向き合いました。



そしてようやく気づいたのです。悪かったのは私ではない。暴力をふるった彼らだったのだと。ようやく、自分を責め続ける呪いから少し解放されました。



私は思いのすべてを言葉にし、掲示板に投稿しました。誰かの心に届いてほしいと願って。しかし加害者の実名を記したことで、名誉毀損に問われ、警察が2度訪れ、神戸地検で計70万円の罰金を科されました。



いじめの事実を告げた私に、社会は「罰」で応えたのです。



なぜ、傷つけられた側がさらに傷つけられなければならないのか。なぜ、加害者は何の責任も問われず、今ものうのうと生きているのか。この国の正義とは一体何なのでしょう。



日本社会は、いじめを「なかったこと」にするのが上手すぎます。問題を隠し、被害者にだけ沈黙を強いる空気が今も続いているのです。



私は今も、うつ病と対人恐怖と共に生きています。自分を責める夜も、孤独に沈む朝もあります。それでも私は、こうして言葉を紡ぐことで自分を支えています。



たとえ小さな声でも、この言葉が誰かの心に届くことを信じて。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/16(Mon) 06:36

名誉毀損で罰金を科された私の体験 ―加害者は忘れ、被害者だけが罰せられる理不尽さ―





私は過去に、5ちゃんねるというインターネット掲示板に、実名を交えて中学時代に受けたいじめについて書き込みました。あれは、今も心に深い傷として残る体験であり、忘れようにも忘れられない出来事です。



ところが、2022年6月13日(月)の朝、勤務先に私服警察官が数名現れ、「後藤さん?ちょっと来て。警察や。」と声をかけられました。水色の表紙の警察手帳を見せられた後、「何も変な物持ってへんな」と軽く身体検査され、カメラで写真を撮られました。「荷物持って来て、逮捕せえへんから。なんで警察来たか心当たりあるか?掲示板の書き込みや。それが名誉毀損にあたるねん」と言われました。



その日の夕方には、自宅に警察官7名が訪れ、パソコンなどインターネット環境の確認や、中学の卒業証書を含む私物を撮影。6月21日には兵庫県警須磨署で一日がかりの取り調べが行われました。さらに7月20日には神戸地検で3時間ほどの事情聴取がありましたが、「2週間後に連絡する」と言われたまま、音沙汰は4か月もありませんでした。



ようやく来たのは11月14日。再び神戸地検に呼ばれ、「印鑑を持ってきて」と言われ罰金刑に。通知書類は12月13日に届き、12月16日までに振り込めという内容でした。時間もなく、慌ただしく振り込みました。とても嫌な気分でした。



そして、それから約1年後の2023年9月4日早朝、私は再び警察の訪問を受けました。出勤しようと車に乗り込んだその時、後ろから腹の出た中年の男性が、腹を揺らしながら走ってきました。「遅刻でもして焦っているのかな?」と思い、私は車を発進させようとしました。すると、彼は私の車のボディをパンパンと叩きながら接近してきました。右手にペラペラと警察手帳を広げて見せつけながら、汗でシャツはびっしょり、においもきつく、とても不快でした。私はそのまま、黒いスズキ・スイフトに乗せられ、警察へ連行されました。どうやら、イニシャルで再び書き込んだ件も問題視されていたようです。



それなのに、当のいじめ加害者は「覚えていない」と証言したそうです。…いじめた側は忘れ、いじめられた側だけが、いつまでも苦しみ、声を上げれば法によって罰せられる。これが、この国の“正義”なのでしょうか。



警察も検察も、それぞれ職務を遂行していただけだとは思います。しかし、私はこの出来事を通して、社会の「構造的な不公平」を痛感しました。

正直、とてもやり切れない気持ちでした。



いま、いじめで苦しんでいるあなたへ。どうか、ひとりで抱え込まずに、信頼できる大人や先生、支援団体に話してください。いじめる側が100%悪いのです。あなたが自分を責める必要は、決してありません。



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35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:21
『未来少年コナン』は、1978年にNHKで放送されたテレビアニメであり、宮崎駿が初めて全話の演出と構成を手がけた記念碑的作品である。世界が第三次大戦によって崩壊し、地軸のズレにより大地の大半が海に沈んだ未来の地球。そこに残されたわずかな人々の生と再生の物語が、この作品の核となっている。

主人公のコナンは、地球を脱出しようとした宇宙船がのこされ島に不時着した後、その乗員の男女から生まれた少年である。彼は「おじい」と呼ぶ年配の男性に育てられ、荒れた自然の中でたくましく、自由に、まっすぐな心を持って育った。だが、ある日流れ着いた少女・ラナとの出会いが、彼の運命を大きく変えていく。

ラナは、失われた太陽エネルギーの再起動に関わる重要人物であり、科学都市インダストリアによって連れ去られてしまう。だが物語が進むにつれて、インダストリアの行政局長レプカの本当の狙いが明らかになってくる。彼は、太陽エネルギーを平和利用するのではなく、かつての破壊兵器「ギガント」の復活をもくろみ、そのためにラナの祖父であり技術者であるラオ博士の居所を突き止めようとしていたのだ。

コナンは、ラナを助けるために旅立つ――だがその行動の根底にはもう一つの大きな動機がある。それは、死の間際のおじいが彼に残した言葉だ。「仲間を見つけて、その仲間のために生きろ」。この言葉は、コナンの行動の原点であり、ただの救出劇ではなく、人と人とがつながりなおす物語としての重みを作品に与えている。

旅の中で出会うのは、時に敵として、時に味方として現れるさまざまな人物たちだ。陽気でたくましいジムシー、揺れる心を持つ女性軍人モンスリー、かつては敵だったが変化していくダイス船長。そして、インダストリアの管理された世界と対比されるように描かれるハイハーバーの人々。彼らとの出会いと関係は、コナンを通じて「人は変わることができる」「分かりあうことができる」という希望を体現していく。

特にモンスリーの変化は象徴的である。序盤、彼女は冷徹な命令遂行者として描かれるが、自然と共に生きる人々との接触を経て、良心を取り戻していく。その変化は、過ちを犯した者でも新たな道を選ぶことができるという、宮崎駿の一貫した人間観の表れであり、この作品の根底に流れる「赦し」と「再生」の主題に深く結びついている。

ラナの存在もまた特別だ。彼女は感情を荒げることなく、静かな芯の強さで人と自然を信じている。その信念が、モンスリーをはじめ多くの人々の心を動かしていく。彼女は単なる「助けられる存在」ではなく、「つながりを生み出す力」を持つ存在であり、物語の精神的支柱でもある。

そして物語の終盤、「のこされ島」が地殻変動によって隆起し、新しい大地として姿を現す。この場所は、物語の始まりであり終着点であり、新たな文明の出発点でもある。かつて「取り残された島」が、再び人々の未来を担う場所となるというこの演出は、破壊された文明の果てにこそ希望が芽生えるという強いメッセージを含んでいる。

アニメーション表現としても、『未来少年コナン』は極めて完成度が高い。手描きによる動きのリアルさ、風や重力の表現、そしてキャラクターの“行動で語る”演出は、後のジブリ作品にも通じる宮崎演出の原点が詰まっている。加えて音楽も印象的で、オープニングテーマ「いま、地球が目覚める」は、まさにこの作品の持つ“再生”の象徴となっている。

『未来少年コナン』は、子供向けの冒険物語に見えながら、人間の尊厳、過ちからの回復、そして他者と生きることの意味を深く問う作品である。すべてが失われた後でも、そこに人がいて、希望があれば、世界は始め直せる。
それを信じる力が、コナンの真っ直ぐな行動と、ラナの静かな祈りの中に宿っている。

この物語は、時代を超えて私たちに語りかける。――「未来は、つくりなおせるのだ」と。


36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:25
『スター・ウォーズ エピソード4?』、通称「旧三部作」は、映画史上に燦然と輝くSFスペースオペラの金字塔である。ジョージ・ルーカスが創り出したこの壮大な物語は、単なる宇宙戦争を描いた娯楽作品にとどまらず、神話、哲学、宗教、そして人間ドラマを融合させた“現代の神話”として、世界中の人々の心に深く刻まれた。

1977年に公開された『エピソード4/新たなる希望』は、無名の青年ルーク・スカイウォーカーが、反乱軍と共に銀河帝国に立ち向かう姿を描く。この物語は、いわゆる“ヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)”の構造に基づいており、若者が日常から非日常へと踏み出し、成長しながら運命を受け入れていく王道のドラマとなっている。師であるオビ=ワン・ケノービとの出会い、ハン・ソロやレイア姫との仲間関係の構築、そしてダース・ベイダーという象徴的な敵との対峙は、まさに英雄譚の核心をついている。

続く『エピソード5/帝国の逆襲』は、旧三部作の中でも特に評価が高い作品である。物語はより重厚さを増し、登場人物たちはそれぞれの過去や宿命に直面していく。ヨーダとの修行を通して「フォース」の真理に触れるルーク、恋愛と仲間の絆を深めていくハンとレイア、そしてラストの衝撃的な告白――「私がお前の父だ(I am your father)」というダース・ベイダーの台詞は、映画史に残る名場面であり、観る者すべての価値観を覆す。善と悪、親と子、運命と自由意志というテーマが一気に噴き出し、物語は一層深みを帯びる。

そして『エピソード6/ジェダイの帰還』では、物語はついに決着を迎える。ダース・ベイダー=アナキン・スカイウォーカーが、息子ルークの信念に心を動かされ、自らの命をかけて皇帝パルパティーンを倒す場面は、アクションでも演出でもなく、「愛」と「赦し」の力が銀河を救うという、スター・ウォーズ全体の主題を象徴する瞬間である。善と悪の境界を越えた“人間の回帰”がここに描かれ、単なる勝利の物語ではなく、精神的救済の物語として旧三部作は幕を閉じる。

キャラクターの魅力も旧三部作の大きな強みだ。ルークは成長と葛藤を体現する“誰にでもなり得る”主人公であり、ハン・ソロは皮肉屋で現実主義者ながら、深い友情と愛を持った“もう一人の英雄”である。レイア姫は1970年代当時としては異例の“戦う女性”として描かれ、知性・勇気・優しさを兼ね備えた強いキャラクター像を確立した。ダース・ベイダーは、その圧倒的なビジュアルと音響、そして悲劇的な過去によって、史上最も印象深い“人間味あるヴィラン”として確固たる地位を築いた。

さらに旧三部作の魅力は、当時の最新技術を駆使して創り上げられた世界観にもある。CGのない時代に、ミニチュア模型、マットペイント、光学合成などを駆使して描かれた銀河の風景は、まさに革新の連続だった。タトゥイーンの砂漠、ホスの氷原、エンドアの森といった多様な惑星と、それぞれに息づく文化、種族、建築、技術。世界が“作られた”のではなく“存在している”と錯覚するようなリアリティがそこにはある。

また、フォースという概念は、東洋思想や宗教、禅、そして道徳哲学をベースにした精神的要素を物語に導入し、単なるSFではなく、内面の成長や魂の修行といった要素を描くことに成功した。ライトセーバーでの戦いは、武力の象徴というよりも精神性の対決であり、ルークとベイダーの最終決戦は、その象徴である。

『スター・ウォーズ エピソード4?』は、映像技術の進化だけでなく、神話構造に基づいた普遍的な物語、人間の善と悪、親子の絆、そして赦しと希望という普遍的テーマを内包し、今なお色褪せることのない力を持っている。それはまさに、「遠い昔、はるかかなたの銀河系で」の物語でありながら、いつの時代でも、どんな人にも響く“現代の神話”そのものである。

37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:33
『スター・ウォーズ エピソード1?』(通称:プリクエル三部作)は、ジョージ・ルーカスが生み出した銀河神話の原点を描いた壮大な叙事詩である。1977年から始まった旧三部作(エピソード4?)では語られなかった“かつての英雄”がなぜ“銀河の脅威”になってしまったのか――それを描いたのが、この三部作である。

エピソード1『ファントム・メナス』(1999年)は、旧共和国時代の政治的不安、腐敗、そして影から蠢くシスの暗躍を描く物語である。物語は、惑星ナブーの危機を契機に、ジェダイ・マスター クワイ=ガン・ジンとその弟子オビ=ワン・ケノービが、銀河の平和を守るために動き出すところから始まる。ここで彼らは、“選ばれし者”とされる少年アナキン・スカイウォーカーと出会う。彼の卓越したフォース感応力は、ジェダイ評議会をも驚かせた。だが、その運命にはすでに影が差し込んでいた。

エピソード2『クローンの攻撃』(2002年)では、共和国の分裂とクローン戦争の発端が描かれると同時に、成長したアナキンの心の葛藤が物語の中心に移る。愛する母の死、そしてジェダイとして禁じられた恋――アナキンとパドメ・アミダラの密やかな愛は、やがて彼をジェダイの教義から引き離す引火点となる。彼の内に生まれた「恐れ」は、ヨーダが警告する通り、「怒り」へ、そして「憎しみ」へとつながっていく。この作品では、戦争の裏でパルパティーン議員(のちの皇帝)が権力を拡大していく様子が描かれ、自由の死は拍手の中で訪れるという名言が象徴するように、民主主義が独裁へと静かに変貌していく過程が描かれる。

そしてエピソード3『シスの復讐』(2005年)は、プリクエル三部作の核心であり、『スター・ウォーズ』全体の中でも最も悲劇的かつ緊張感に満ちた作品である。アナキンは、愛する者を守りたいという純粋な想いから、次第にダークサイドへと引きずり込まれていく。パドメの死を予知したアナキンは、死を恐れるあまりパルパティーン=ダース・シディアスの誘惑に屈し、ジェダイを裏切る。その後、彼は「ダース・ベイダー」として生まれ変わり、共和国は「銀河帝国」へと姿を変える。最終盤、オビ=ワンとの決闘と、その果てに身体を焼かれ機械にされてしまうアナキンの姿は、観る者に深い衝撃と哀しみを与える。

プリクエル三部作の魅力のひとつは、旧三部作で神秘的に語られていた歴史を、あくまで人間のドラマとして描き直した点にある。アナキン・スカイウォーカーは最初から悪ではない。彼は愛に不器用で、怒りを抑えられず、しかし誰よりも強くて優しい青年だった。その彼が徐々にフォースの暗黒面に染まっていく過程は、「善と悪は紙一重」であることを鋭く突きつけてくる。アナキンの転落は運命ではなく、選択の連続によって起こる。だからこそ観る者にとって他人事ではなく、彼の苦しみは見る者自身の苦悩にも重なる。

また、政治的テーマも本三部作の大きな魅力である。共和制の崩壊、権力の集中、情報操作による大衆の誘導、制度疲弊による腐敗といった要素は、単なるファンタジーの枠を超えたリアリズムを持ち、現実社会の縮図としても読み解くことができる。かつて自由と正義を守るはずだったジェダイが、硬直化し、時代の流れについていけなくなったことも、結果的に帝国誕生を許すことにつながった。これは単なる善悪の物語ではなく、理想が組織を腐敗させる過程を丹念に描いた重厚な政治劇でもある。

技術面でも、プリクエル三部作はCGの可能性を飛躍的に押し広げた。CGキャラクターとして初めてドラマ性を与えられたジャー・ジャー・ビンクス、壮大なクローン戦争の戦闘シーン、コルサントの都市描写などは、当時の映像技術の最先端であり、シリーズ全体に新たな表現力とビジュアルスケールをもたらした。

総じて、『スター・ウォーズ エピソード1?』は、「ヒーローの誕生と勝利」を描いた旧三部作とは対照的に、「英雄の堕落と世界の終焉」を描いた悲劇的叙事詩である。その内容は暗く、重く、しかし決して救いがないわけではない。アナキンの墜落の先には、ルークとレイアという希望が生まれ、やがてそれが銀河に新たな光をもたらすことになる。この“希望へと至る悲劇”という構造こそが、プリクエル三部作を深く、重く、そして美しくしている所以である。

38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:43
『スター・ウォーズ』は1977年の『エピソード4/新たなる希望』から始まり、ジョージ・ルーカスが描いた全6部作(エピソード1?)は、明確な構想と神話的な物語構造のもとに展開された壮大な叙事詩だった。旧三部作(4?)は「銀河帝国に抗う英雄たちの勝利」、新三部作(1?)は「その英雄がいかにして闇に堕ちたか」を描いた、見事な前日譚として機能している。

この2つの三部作が優れている最大の理由は、物語全体が「アナキン・スカイウォーカー」という一人の人物の誕生・堕落・救済という、太い主軸のもとに構成されていたことである。これは旧約聖書やギリシャ悲劇、仏教の輪廻思想にさえ通じる“神話構造”を下敷きにしており、観る者の心に普遍的な問いと余韻を残した。

一方、ディズニーにより制作された続三部作(エピソード7?)は、公開前こそ大きな期待と注目を集めたものの、シリーズが進むにつれて物語としての一貫性と主題が失われ、結果として評価が大きく割れる作品群となってしまった。なぜこのような落差が生まれたのか。

第一に、明確な全体構想が存在しなかったことが最大の問題である。ルーカスがエピソード1?を作る際には、多少の変更こそあれ、アナキンの物語という一貫したビジョンが常にあった。しかし、エピソード7『フォースの覚醒』から9『スカイウォーカーの夜明け』までの3作は、監督や脚本家が作品ごとに交代し、ストーリーラインも変更・否定・修正が繰り返された。J.J.エイブラムスが築いた設定を、ライアン・ジョンソンがエピソード8で根本から覆し、最終作でまたエイブラムスがそれを“なかったこと”にする――このような作り手の足並みの揃わなさが、観客に“物語としての信頼感”を失わせた。

たとえば、主人公レイの出自がエピソード7では謎めいた“誰でもない者”として描かれ、8で「お前は何者でもない」と強調されたかと思えば、9では突如「パルパティーンの孫」とされ、物語の根幹にねじ込まれる。この変化は“伏線の回収”ではなく、“整合性のない後付け”にしか見えず、多くのファンが落胆したのも無理はない。

また、カイロ・レンというキャラクターも、アナキンやルークのように明確なドラマを積み重ねることができず、シリーズを通して一貫性のない不安定な描写が続いた。善にも悪にもなりきれず、彼の行動は“物語の駒”として動かされている印象を拭えない。最終的に改心し、命を落とすという結末は、本来であれば感動的であるはずだが、それまでの積み重ねが乏しいため、観客の感情が追いつかない。

世界観の扱いにも問題がある。旧作やプリクエル三部作で築かれた銀河の政治体制や歴史的文脈は、7?ではほとんど無視され、銀河帝国が崩壊した後、なぜまたファースト・オーダーが台頭し、どのように“レジスタンス”が形成されたのかすら曖昧なまま進んでいく。舞台装置がただ再利用されているだけで、その背景にある“物語の理由”が欠落しているのだ。

一方で、旧作に登場したレイア、ルーク、ハン・ソロといった伝説のキャラクターたちも、見せ場こそ用意されていたが、その人生や死が物語的に丁寧に扱われたとは言い難い。特にルークの描かれ方には賛否が分かれた。かつて“父を闇から救った英雄”が、甥の夢に怯えて殺しかけるという展開は、意図的に“神話を壊す”アプローチであったにせよ、旧作への敬意や物語としての説得力を欠いていた。

もちろん、7?にも優れた部分はある。映像表現、ライトセーバーの演出、ドロイドたちの魅力、新しい惑星や種族のデザインなどは見応えがあり、単体の作品として観ればエンターテインメント性は十分にある。しかし、スター・ウォーズという“壮大な一つの物語”の完結編としては、テーマの継承も思想の深化も果たせなかった。

ルーカスが描いた1?は、単に「戦いの物語」ではなく、“父と子”“恐れと赦し”“自由と専制”といった深い人間のテーマが通底していた。だが7?は、「何を描くべきか」がはっきりしないまま、視覚的な刺激と過去作の模倣に頼ってしまった。その結果、“未来への希望”ではなく、“過去の焼き直し”に見えてしまったのだ。

スター・ウォーズとは、特撮や宇宙戦争ではなく、「物語の力」で人々を熱狂させたシリーズである。だからこそ、エピソード7?の“語るべき物語がない”という空虚さは、多くのファンにとって残念であり、心に引っかかるものとなった。

39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:52
『未来世紀ブラジル』の素晴らしさ――夢と抑圧、ユートピアとディストピアの狭間で

『未来世紀ブラジル(Brazil)』は、元モンティ・パイソンのテリー・ギリアム監督によって1985年に発表されたSF映画である。公開当時から高い評価と激しい議論を呼び、現在ではカルト的名作として映画史に深く刻まれている。この作品が放つ独特の魅力は、単なる未来社会の風刺にとどまらず、夢と現実、個と集団、自由と管理という根源的な人間のテーマを、異常なまでに緻密で奇怪な映像世界を通して表現している点にある。

物語の主人公はサム・ローリーという一介の役人。彼は高度に官僚化され、全体主義的に管理された社会の中で、淡々と働きながらも心の奥では夢想に耽る日々を送っている。現実は、行政によるミスが原因で無実の市民が逮捕・死亡しても誰も責任を取らず、それを訂正しようとする者はむしろ不審者とされるような社会だ。サムは偶然にも、夢に現れる“翼のある理想の女”ジルに似た女性と出会ったことから、現実に抗おうとし、やがては体制そのものから逸脱していく。

この映画の最大の特徴は、圧倒的な“ビジュアルの異様さ”である。レトロなタイプライターや真空管、無数のパイプとダクト、意味不明な標語が書かれたポスターがひしめくオフィスや街並み――これは明らかに現代の延長ではなく、「20世紀中盤の未来予想図がそのまま時間を止めてしまった」ような、奇妙なレトロフューチャーである。この造形は決して単なる様式美ではなく、「技術の進歩=人間の自由の拡張」ではなく、「技術の進歩=抑圧の強化」という皮肉を、観客の視覚に直接叩きつけるための手段として機能している。

物語のトーンは、ブラックユーモアとファンタジーと絶望が混在する奇妙なものだ。官僚社会を描く中で、ギリアムは笑いを誘う滑稽さをあえて挿入するが、それは笑っていいのかすら不安にさせる不気味さを孕んでいる。たとえば、顔面整形を受け続けて皮膚が溶けていく老婦人や、壊れたパイプを修理する“非合法配管工”ハリー・タトル(ロバート・デ・ニーロ)など、登場人物たちは一様に狂気と無関心の狭間で生きている。そして、それが決して他人事でないことを観客に突きつけてくる。

本作のタイトル『ブラジル』は、あの有名なサンバの名曲に由来しており、映画の中でも繰り返しメロディが流れる。しかし、その明るくのどかな旋律は、どんなに悲惨で無意味な場面にも差し込まれ、希望と絶望が音楽を通じて反転し続ける。まるで「人間の心の中の自由」はどれほど閉塞した世界でも生きているのだと訴えているかのようであり、同時に「その自由は夢に過ぎない」という虚無のメッセージにも感じられる。この二重性こそが、ギリアムの最大の才能である。

サムの見る“夢”は、翼を持って空を飛び、美しい女性を救い、悪を打ち砕くヒーロー的幻想だが、それはあくまで現実の過酷さから逃避するためのものであり、決して実現することはない。物語の最後、サムは体制によって完全に捕らえられ、拷問の末に“現実”からも心を切り離し、夢の中で幸福に飛翔していく。観客はその姿に一瞬救いを感じるが、それが「精神崩壊による永遠の逃避」であることに気づいた瞬間、言いようのない喪失感に襲われる。

『未来世紀ブラジル』が真に恐ろしいのは、描かれている社会が荒唐無稽な未来像ではなく、むしろ現代社会の縮図である点にある。役所の形式主義、責任のたらい回し、マスメディアによる誘導、監視社会、個人の自由よりも“システムの正当性”が優先される世界。テリー・ギリアムが提示したディストピアは、単に恐怖を煽る未来像ではなく、「いま、ここで起こっている事実を拡大し、風刺的に可視化した世界」にほかならない。

また本作は、1984年のオーウェル的監視社会や、カフカ的な官僚迷路、さらにはフェリーニ的な夢と現実の交錯を想起させるなど、さまざまな芸術的影響を巧みに融合している。だが、それを単なる模倣ではなく、ギリアム独自の“ビジュアル詩”として昇華している点に、彼の作家性の強さがある。

結末は観る者によって解釈が分かれる。「夢の中で自由に生きる彼は救われた」のか、それとも「現実から逃げただけで、完全な敗北なのか」。答えは与えられない。ただ確かなのは、サムが“夢を見ること”をやめなかったという事実であり、それこそがこの映画の最後の希望でもある。


40 名前:おきむす 投稿日:2025/06/22(Sun) 23:56
朱に交わればハゲになる


名前:

【9:595】  今いじめられている人のためのスレ
1 名前:たま 投稿日:2010/02/02(Tue) 23:17
今いじめれている人たちではなしをしましょう。


586 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2024/12/22(Sun) 10:32
自殺者出したクズDQN
中村香紀

1996年12月11日生まれ。
小中時代にいじめで自殺者を出して呑気に生活し、高校時代頭が悪く大学に行かずに半グレになり詐欺とカツアゲで生計を立てるカス。


587 名前:& ◆14F2N4nU 投稿日:2025/01/02(Thu) 23:21
皆は知っているだろうかコンクリート事件その後真実
犯人の一味であるは横山裕史
2007年に仮出所、そして2009年に刑期満了で完全に出所した横山裕史は、保護司と養子縁組をして「海老川 奨」という名に変更。悠々自適に家庭を持ち暮らす糞野郎に罰を

現住所
7815235
高 知 県 香 南 市 野 市 下井
1 1 0 1- 1 1
09036757078

588 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/01/20(Mon) 11:48
朱に交わればハゲになる

589 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/02/03(Mon) 00:13
株式会社オキムスの星川薫はクソ人間
いじめ大好き
パワハラ大好き
不倫大好き
チビで歯が 汚いメガネ

590 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/02/03(Mon) 23:56
しいなはげを
おきむす確定

591 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/02/27(Thu) 08:35
佐土瀬亮の存在は下痢以下
パワハラ 無断欠勤・仮病のプロ 人望無し 人格障害 暗いボロアパート暮らし
豆腐メンタルのDQN
飲みの席では女性に近づくが話はクソつまらない
ハゲ 貧乏 つまらないゲーム作って発売日前に逃亡
能力のある人間に対して媚びるが自分に能力は無いので
誰にも相手にされないゴミ

592 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/03/18(Tue) 10:51
おきむす

593 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/15(Sun) 13:52
■ 真実を語った者を罰するこの国は、果たして正義の国か

私は、殴られました。笑われながら、唾を吐きかけられました。
学校の中で、教師に見えるところで、私は同級生から毎日のように暴力を受けていました。
パンツを脱がされ、帽子を溝に捨てられ、「北斗の拳ごっこ」と呼ばれていたその暴力は、誰にとっても“遊び”で、私にだけ“地獄”でした。

それを見ていた教師は沈黙しました。
それを知っていたクラスメイトたちも、誰も手を差し伸べなかった。
私の心は壊れ、言葉を失い、10年以上、社会から姿を消しました。

あれから40年。ようやく私は語る力を手に入れました。
私に暴力を振るった者の名前を明かし、掲示板に真実を綴りました。
それは復讐ではありません。救いでした。
“あの時の私は、悪くなかった”と、ようやく自分に言ってやれるようになるための一歩でした。

なのに、国家は私にこう告げたのです。
「あなたの行為は名誉毀損だ。犯罪だ」と。

警察が家に押しかけ、私を“容疑者”として扱い、神戸地検が私を二度呼び出し、裁判所は70万円の罰金を科しました。

問います。
誰がこの国で、本当のことを語れるのでしょうか?

加害者の「名誉」を守るために、被害者の「命」が踏みにじられる。
その制度を操るのは、国家権力です。
正義を守るはずの法律が、加害者の盾になり、被害者の刃となって降りかかってきたのです。

この国の教育は、暴力を見逃す教師を守り、沈黙を強いる空気を育て、
この国の司法は、事実を語った被害者を裁き、加害者の「名誉」を聖域に据える。

これが「法治国家」だと言うのなら、私たちはどれほど歪んだ正義の上に立って生きているのか。
この国は、“静かな地獄”を作るのがとても上手です。
すべてが整って見えるからこそ、その裏にある絶望は誰にも見えません。
でも私は、あの教室の、あの匂いと音と痛みを今でも鮮明に覚えています。

国家とは、誰のために存在するのか。
正義とは、誰の声を守るためにあるのか。

その答えが、今の日本にはありません。
私のように「真実を語った者」が罰せられる国に、もはや正義は存在しないのです。

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594 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:52
『未来世紀ブラジル』の素晴らしさ――夢と抑圧、ユートピアとディストピアの狭間で

『未来世紀ブラジル(Brazil)』は、元モンティ・パイソンのテリー・ギリアム監督によって1985年に発表されたSF映画である。公開当時から高い評価と激しい議論を呼び、現在ではカルト的名作として映画史に深く刻まれている。この作品が放つ独特の魅力は、単なる未来社会の風刺にとどまらず、夢と現実、個と集団、自由と管理という根源的な人間のテーマを、異常なまでに緻密で奇怪な映像世界を通して表現している点にある。

物語の主人公はサム・ローリーという一介の役人。彼は高度に官僚化され、全体主義的に管理された社会の中で、淡々と働きながらも心の奥では夢想に耽る日々を送っている。現実は、行政によるミスが原因で無実の市民が逮捕・死亡しても誰も責任を取らず、それを訂正しようとする者はむしろ不審者とされるような社会だ。サムは偶然にも、夢に現れる“翼のある理想の女”ジルに似た女性と出会ったことから、現実に抗おうとし、やがては体制そのものから逸脱していく。

この映画の最大の特徴は、圧倒的な“ビジュアルの異様さ”である。レトロなタイプライターや真空管、無数のパイプとダクト、意味不明な標語が書かれたポスターがひしめくオフィスや街並み――これは明らかに現代の延長ではなく、「20世紀中盤の未来予想図がそのまま時間を止めてしまった」ような、奇妙なレトロフューチャーである。この造形は決して単なる様式美ではなく、「技術の進歩=人間の自由の拡張」ではなく、「技術の進歩=抑圧の強化」という皮肉を、観客の視覚に直接叩きつけるための手段として機能している。

物語のトーンは、ブラックユーモアとファンタジーと絶望が混在する奇妙なものだ。官僚社会を描く中で、ギリアムは笑いを誘う滑稽さをあえて挿入するが、それは笑っていいのかすら不安にさせる不気味さを孕んでいる。たとえば、顔面整形を受け続けて皮膚が溶けていく老婦人や、壊れたパイプを修理する“非合法配管工”ハリー・タトル(ロバート・デ・ニーロ)など、登場人物たちは一様に狂気と無関心の狭間で生きている。そして、それが決して他人事でないことを観客に突きつけてくる。

本作のタイトル『ブラジル』は、あの有名なサンバの名曲に由来しており、映画の中でも繰り返しメロディが流れる。しかし、その明るくのどかな旋律は、どんなに悲惨で無意味な場面にも差し込まれ、希望と絶望が音楽を通じて反転し続ける。まるで「人間の心の中の自由」はどれほど閉塞した世界でも生きているのだと訴えているかのようであり、同時に「その自由は夢に過ぎない」という虚無のメッセージにも感じられる。この二重性こそが、ギリアムの最大の才能である。

サムの見る“夢”は、翼を持って空を飛び、美しい女性を救い、悪を打ち砕くヒーロー的幻想だが、それはあくまで現実の過酷さから逃避するためのものであり、決して実現することはない。物語の最後、サムは体制によって完全に捕らえられ、拷問の末に“現実”からも心を切り離し、夢の中で幸福に飛翔していく。観客はその姿に一瞬救いを感じるが、それが「精神崩壊による永遠の逃避」であることに気づいた瞬間、言いようのない喪失感に襲われる。

『未来世紀ブラジル』が真に恐ろしいのは、描かれている社会が荒唐無稽な未来像ではなく、むしろ現代社会の縮図である点にある。役所の形式主義、責任のたらい回し、マスメディアによる誘導、監視社会、個人の自由よりも“システムの正当性”が優先される世界。テリー・ギリアムが提示したディストピアは、単に恐怖を煽る未来像ではなく、「いま、ここで起こっている事実を拡大し、風刺的に可視化した世界」にほかならない。

また本作は、1984年のオーウェル的監視社会や、カフカ的な官僚迷路、さらにはフェリーニ的な夢と現実の交錯を想起させるなど、さまざまな芸術的影響を巧みに融合している。だが、それを単なる模倣ではなく、ギリアム独自の“ビジュアル詩”として昇華している点に、彼の作家性の強さがある。

結末は観る者によって解釈が分かれる。「夢の中で自由に生きる彼は救われた」のか、それとも「現実から逃げただけで、完全な敗北なのか」。答えは与えられない。ただ確かなのは、サムが“夢を見ること”をやめなかったという事実であり、それこそがこの映画の最後の希望でもある。


595 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 23:55
朱に交わればハゲになる


名前:

【10:193】  いじめ反対!!
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/25(Fri) 18:43
いじめ反対!!という人は入って入って!逆にいじめをしている方の入場は禁止です。場違いですので。荒しはお断りです。いじめをしている人のこと、いじめをされている方のこと、語りましょう


184 名前:まさゆき 投稿日:2025/06/04(Wed) 07:36
あの日の朝のことは、一生忘れません。

2022年6月13日(月)。
何気ない日常の一コマ、いつものように職場に出勤したはずでした。
けれど――その朝、私の人生は突如として「容疑者」として扱われる側に変わったのです。

ベージュの日産エクストレイル。
私服姿の警察官が数名、静かに、しかし確実な目的を持って私の職場に現れました。
彼らは、迷いなく私のもとへ歩いてきて、こう告げました。

「後藤さん?ちょっと来て。警察や。」

その瞬間、私の心臓は強く脈打ち、全身の血が逆流するような感覚に襲われました。
彼らは無言で水色の警察手帳を広げ、私を囲むように立ちました。
「何も変な物持ってへんな」――軽く身体検査。
そして、キャノンの一眼レフカメラが無言で私を捉え、シャッター音だけが響きました。

「荷物ここに持って来て。逮捕せえへんから。何で警察来たか心当たりたるか?
インターネットの掲示板に書き込みせんかったか?あれ、名誉毀損にあたるねん。
今から署に来れる?それか、仕事が終わった後、須磨署に来れる?」

私は震えていました。
手も足も心も凍りついて、ただ「はい」と頷くしかなかった。

でも、それはまだ序章に過ぎませんでした。
彼らは、仕事が終わった私の自宅にもやってくると告げたのです。

そして夜。
私は、何事もなかったかのように玄関を開けました。
するとそこにいたのは、アルファードに乗ってやってきた6名の警察官たち。

まるでドラマのワンシーンのようでした。
彼らは無言で家に上がり込み、淡々とインターネット環境を調べ、私の中学の卒業証書を手に取り、それを写真に収めました。
2時間。
自宅は尋問室のように変わり果て、私は何も言えずにただ見つめるだけ。
彼らは、すべてを“証拠”に変えながら、やがて静かに去っていきました。

だが、これで終わりではなかった。

後日、須磨警察署に出頭を命じられました。
朝9時から夕方17時半まで――丸一日かけての取り調べ。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

185 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/15(Sun) 13:51
■ 真実を語った者を罰するこの国は、果たして正義の国か

私は、殴られました。笑われながら、唾を吐きかけられました。
学校の中で、教師に見えるところで、私は同級生から毎日のように暴力を受けていました。
パンツを脱がされ、帽子を溝に捨てられ、「北斗の拳ごっこ」と呼ばれていたその暴力は、誰にとっても“遊び”で、私にだけ“地獄”でした。

それを見ていた教師は沈黙しました。
それを知っていたクラスメイトたちも、誰も手を差し伸べなかった。
私の心は壊れ、言葉を失い、10年以上、社会から姿を消しました。

あれから40年。ようやく私は語る力を手に入れました。
私に暴力を振るった者の名前を明かし、掲示板に真実を綴りました。
それは復讐ではありません。救いでした。
“あの時の私は、悪くなかった”と、ようやく自分に言ってやれるようになるための一歩でした。

なのに、国家は私にこう告げたのです。
「あなたの行為は名誉毀損だ。犯罪だ」と。

警察が家に押しかけ、私を“容疑者”として扱い、神戸地検が私を二度呼び出し、裁判所は70万円の罰金を科しました。

問います。
誰がこの国で、本当のことを語れるのでしょうか?

加害者の「名誉」を守るために、被害者の「命」が踏みにじられる。
その制度を操るのは、国家権力です。
正義を守るはずの法律が、加害者の盾になり、被害者の刃となって降りかかってきたのです。

この国の教育は、暴力を見逃す教師を守り、沈黙を強いる空気を育て、
この国の司法は、事実を語った被害者を裁き、加害者の「名誉」を聖域に据える。

これが「法治国家」だと言うのなら、私たちはどれほど歪んだ正義の上に立って生きているのか。
この国は、“静かな地獄”を作るのがとても上手です。
すべてが整って見えるからこそ、その裏にある絶望は誰にも見えません。
でも私は、あの教室の、あの匂いと音と痛みを今でも鮮明に覚えています。

国家とは、誰のために存在するのか。
正義とは、誰の声を守るためにあるのか。

その答えが、今の日本にはありません。
私のように「真実を語った者」が罰せられる国に、もはや正義は存在しないのです。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

186 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/20(Fri) 21:22
株式会社オキムスの公社住宅事業部
星川薫はいじめ、パワハラ、不倫、人権侵害大好きな
チビで歯が汚いメガネ
いじめ、パワハラ、不倫をするために生を受けた明らかな欠陥品、害虫

187 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/21(Sat) 01:05
椎名ハゲを
オキムス確定
朱に交わればハゲになる
つるむす

188 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 09:35
1980年代という「いじめ」が学校内で黙殺されていた時代において、当事者による証言が残されていないことは珍しいことではない。しかし、それでもなお記憶の奥底に刻まれた体験を、数十年の時を経て告白するという行為は、極めて強い動機と深い苦悩に裏打ちされたものである。

今回の告発者は、匿名掲示板という誰もが利用できる不特定多数の空間において、かつて自らが受けた「いじめ」の具体的内容を丁寧かつ克明に記している。さらに、当時の加害者とされる人物の実名を記載した結果、名誉毀損によって罰金刑を受けたという経緯が示されている。これは、単なる中傷目的や虚偽の暴露とは異なり、法的なリスクを背負ってまでも社会に訴えたかったという、極めて切実な意思の現れである。

確かに匿名掲示板は、不確かな情報や誹謗中傷が飛び交う場である。しかし同時に、それは「記録されなかった痛み」を唯一語れる場所でもある。学校も家庭も、警察も社会も守ってくれなかった人々にとって、匿名掲示板は声を発する最後の砦である。そのような場において、具体的な状況描写と加害者の行動を冷静かつ一貫して語る証言は、虚偽とは考えにくく、内在する信憑性はむしろ高いといえる。

公式記録が存在しない時代の被害であるからこそ、こうした証言には、私たち社会が真摯に耳を傾ける必要がある。証拠がないという理由だけで過去の暴力がなかったことにされるのであれば、今もなお苦しみ続ける被害者の存在は、永遠に「なかったこと」にされてしまうのだ。

189 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:21
『未来少年コナン』は、1978年にNHKで放送されたテレビアニメであり、宮崎駿が初めて全話の演出と構成を手がけた記念碑的作品である。世界が第三次大戦によって崩壊し、地軸のズレにより大地の大半が海に沈んだ未来の地球。そこに残されたわずかな人々の生と再生の物語が、この作品の核となっている。

主人公のコナンは、地球を脱出しようとした宇宙船がのこされ島に不時着した後、その乗員の男女から生まれた少年である。彼は「おじい」と呼ぶ年配の男性に育てられ、荒れた自然の中でたくましく、自由に、まっすぐな心を持って育った。だが、ある日流れ着いた少女・ラナとの出会いが、彼の運命を大きく変えていく。

ラナは、失われた太陽エネルギーの再起動に関わる重要人物であり、科学都市インダストリアによって連れ去られてしまう。だが物語が進むにつれて、インダストリアの行政局長レプカの本当の狙いが明らかになってくる。彼は、太陽エネルギーを平和利用するのではなく、かつての破壊兵器「ギガント」の復活をもくろみ、そのためにラナの祖父であり技術者であるラオ博士の居所を突き止めようとしていたのだ。

コナンは、ラナを助けるために旅立つ――だがその行動の根底にはもう一つの大きな動機がある。それは、死の間際のおじいが彼に残した言葉だ。「仲間を見つけて、その仲間のために生きろ」。この言葉は、コナンの行動の原点であり、ただの救出劇ではなく、人と人とがつながりなおす物語としての重みを作品に与えている。

旅の中で出会うのは、時に敵として、時に味方として現れるさまざまな人物たちだ。陽気でたくましいジムシー、揺れる心を持つ女性軍人モンスリー、かつては敵だったが変化していくダイス船長。そして、インダストリアの管理された世界と対比されるように描かれるハイハーバーの人々。彼らとの出会いと関係は、コナンを通じて「人は変わることができる」「分かりあうことができる」という希望を体現していく。

特にモンスリーの変化は象徴的である。序盤、彼女は冷徹な命令遂行者として描かれるが、自然と共に生きる人々との接触を経て、良心を取り戻していく。その変化は、過ちを犯した者でも新たな道を選ぶことができるという、宮崎駿の一貫した人間観の表れであり、この作品の根底に流れる「赦し」と「再生」の主題に深く結びついている。

ラナの存在もまた特別だ。彼女は感情を荒げることなく、静かな芯の強さで人と自然を信じている。その信念が、モンスリーをはじめ多くの人々の心を動かしていく。彼女は単なる「助けられる存在」ではなく、「つながりを生み出す力」を持つ存在であり、物語の精神的支柱でもある。

そして物語の終盤、「のこされ島」が地殻変動によって隆起し、新しい大地として姿を現す。この場所は、物語の始まりであり終着点であり、新たな文明の出発点でもある。かつて「取り残された島」が、再び人々の未来を担う場所となるというこの演出は、破壊された文明の果てにこそ希望が芽生えるという強いメッセージを含んでいる。

アニメーション表現としても、『未来少年コナン』は極めて完成度が高い。手描きによる動きのリアルさ、風や重力の表現、そしてキャラクターの“行動で語る”演出は、後のジブリ作品にも通じる宮崎演出の原点が詰まっている。加えて音楽も印象的で、オープニングテーマ「いま、地球が目覚める」は、まさにこの作品の持つ“再生”の象徴となっている。

『未来少年コナン』は、子供向けの冒険物語に見えながら、人間の尊厳、過ちからの回復、そして他者と生きることの意味を深く問う作品である。すべてが失われた後でも、そこに人がいて、希望があれば、世界は始め直せる。
それを信じる力が、コナンの真っ直ぐな行動と、ラナの静かな祈りの中に宿っている。

この物語は、時代を超えて私たちに語りかける。――「未来は、つくりなおせるのだ」と。


190 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:25
『スター・ウォーズ エピソード4?』、通称「旧三部作」は、映画史上に燦然と輝くSFスペースオペラの金字塔である。ジョージ・ルーカスが創り出したこの壮大な物語は、単なる宇宙戦争を描いた娯楽作品にとどまらず、神話、哲学、宗教、そして人間ドラマを融合させた“現代の神話”として、世界中の人々の心に深く刻まれた。

1977年に公開された『エピソード4/新たなる希望』は、無名の青年ルーク・スカイウォーカーが、反乱軍と共に銀河帝国に立ち向かう姿を描く。この物語は、いわゆる“ヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)”の構造に基づいており、若者が日常から非日常へと踏み出し、成長しながら運命を受け入れていく王道のドラマとなっている。師であるオビ=ワン・ケノービとの出会い、ハン・ソロやレイア姫との仲間関係の構築、そしてダース・ベイダーという象徴的な敵との対峙は、まさに英雄譚の核心をついている。

続く『エピソード5/帝国の逆襲』は、旧三部作の中でも特に評価が高い作品である。物語はより重厚さを増し、登場人物たちはそれぞれの過去や宿命に直面していく。ヨーダとの修行を通して「フォース」の真理に触れるルーク、恋愛と仲間の絆を深めていくハンとレイア、そしてラストの衝撃的な告白――「私がお前の父だ(I am your father)」というダース・ベイダーの台詞は、映画史に残る名場面であり、観る者すべての価値観を覆す。善と悪、親と子、運命と自由意志というテーマが一気に噴き出し、物語は一層深みを帯びる。

そして『エピソード6/ジェダイの帰還』では、物語はついに決着を迎える。ダース・ベイダー=アナキン・スカイウォーカーが、息子ルークの信念に心を動かされ、自らの命をかけて皇帝パルパティーンを倒す場面は、アクションでも演出でもなく、「愛」と「赦し」の力が銀河を救うという、スター・ウォーズ全体の主題を象徴する瞬間である。善と悪の境界を越えた“人間の回帰”がここに描かれ、単なる勝利の物語ではなく、精神的救済の物語として旧三部作は幕を閉じる。

キャラクターの魅力も旧三部作の大きな強みだ。ルークは成長と葛藤を体現する“誰にでもなり得る”主人公であり、ハン・ソロは皮肉屋で現実主義者ながら、深い友情と愛を持った“もう一人の英雄”である。レイア姫は1970年代当時としては異例の“戦う女性”として描かれ、知性・勇気・優しさを兼ね備えた強いキャラクター像を確立した。ダース・ベイダーは、その圧倒的なビジュアルと音響、そして悲劇的な過去によって、史上最も印象深い“人間味あるヴィラン”として確固たる地位を築いた。

さらに旧三部作の魅力は、当時の最新技術を駆使して創り上げられた世界観にもある。CGのない時代に、ミニチュア模型、マットペイント、光学合成などを駆使して描かれた銀河の風景は、まさに革新の連続だった。タトゥイーンの砂漠、ホスの氷原、エンドアの森といった多様な惑星と、それぞれに息づく文化、種族、建築、技術。世界が“作られた”のではなく“存在している”と錯覚するようなリアリティがそこにはある。

また、フォースという概念は、東洋思想や宗教、禅、そして道徳哲学をベースにした精神的要素を物語に導入し、単なるSFではなく、内面の成長や魂の修行といった要素を描くことに成功した。ライトセーバーでの戦いは、武力の象徴というよりも精神性の対決であり、ルークとベイダーの最終決戦は、その象徴である。

『スター・ウォーズ エピソード4?』は、映像技術の進化だけでなく、神話構造に基づいた普遍的な物語、人間の善と悪、親子の絆、そして赦しと希望という普遍的テーマを内包し、今なお色褪せることのない力を持っている。それはまさに、「遠い昔、はるかかなたの銀河系で」の物語でありながら、いつの時代でも、どんな人にも響く“現代の神話”そのものである。

191 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:32
『スター・ウォーズ エピソード1?』(通称:プリクエル三部作)は、ジョージ・ルーカスが生み出した銀河神話の原点を描いた壮大な叙事詩である。1977年から始まった旧三部作(エピソード4?)では語られなかった“かつての英雄”がなぜ“銀河の脅威”になってしまったのか――それを描いたのが、この三部作である。

エピソード1『ファントム・メナス』(1999年)は、旧共和国時代の政治的不安、腐敗、そして影から蠢くシスの暗躍を描く物語である。物語は、惑星ナブーの危機を契機に、ジェダイ・マスター クワイ=ガン・ジンとその弟子オビ=ワン・ケノービが、銀河の平和を守るために動き出すところから始まる。ここで彼らは、“選ばれし者”とされる少年アナキン・スカイウォーカーと出会う。彼の卓越したフォース感応力は、ジェダイ評議会をも驚かせた。だが、その運命にはすでに影が差し込んでいた。

エピソード2『クローンの攻撃』(2002年)では、共和国の分裂とクローン戦争の発端が描かれると同時に、成長したアナキンの心の葛藤が物語の中心に移る。愛する母の死、そしてジェダイとして禁じられた恋――アナキンとパドメ・アミダラの密やかな愛は、やがて彼をジェダイの教義から引き離す引火点となる。彼の内に生まれた「恐れ」は、ヨーダが警告する通り、「怒り」へ、そして「憎しみ」へとつながっていく。この作品では、戦争の裏でパルパティーン議員(のちの皇帝)が権力を拡大していく様子が描かれ、自由の死は拍手の中で訪れるという名言が象徴するように、民主主義が独裁へと静かに変貌していく過程が描かれる。

そしてエピソード3『シスの復讐』(2005年)は、プリクエル三部作の核心であり、『スター・ウォーズ』全体の中でも最も悲劇的かつ緊張感に満ちた作品である。アナキンは、愛する者を守りたいという純粋な想いから、次第にダークサイドへと引きずり込まれていく。パドメの死を予知したアナキンは、死を恐れるあまりパルパティーン=ダース・シディアスの誘惑に屈し、ジェダイを裏切る。その後、彼は「ダース・ベイダー」として生まれ変わり、共和国は「銀河帝国」へと姿を変える。最終盤、オビ=ワンとの決闘と、その果てに身体を焼かれ機械にされてしまうアナキンの姿は、観る者に深い衝撃と哀しみを与える。

プリクエル三部作の魅力のひとつは、旧三部作で神秘的に語られていた歴史を、あくまで人間のドラマとして描き直した点にある。アナキン・スカイウォーカーは最初から悪ではない。彼は愛に不器用で、怒りを抑えられず、しかし誰よりも強くて優しい青年だった。その彼が徐々にフォースの暗黒面に染まっていく過程は、「善と悪は紙一重」であることを鋭く突きつけてくる。アナキンの転落は運命ではなく、選択の連続によって起こる。だからこそ観る者にとって他人事ではなく、彼の苦しみは見る者自身の苦悩にも重なる。

また、政治的テーマも本三部作の大きな魅力である。共和制の崩壊、権力の集中、情報操作による大衆の誘導、制度疲弊による腐敗といった要素は、単なるファンタジーの枠を超えたリアリズムを持ち、現実社会の縮図としても読み解くことができる。かつて自由と正義を守るはずだったジェダイが、硬直化し、時代の流れについていけなくなったことも、結果的に帝国誕生を許すことにつながった。これは単なる善悪の物語ではなく、理想が組織を腐敗させる過程を丹念に描いた重厚な政治劇でもある。

技術面でも、プリクエル三部作はCGの可能性を飛躍的に押し広げた。CGキャラクターとして初めてドラマ性を与えられたジャー・ジャー・ビンクス、壮大なクローン戦争の戦闘シーン、コルサントの都市描写などは、当時の映像技術の最先端であり、シリーズ全体に新たな表現力とビジュアルスケールをもたらした。

総じて、『スター・ウォーズ エピソード1?』は、「ヒーローの誕生と勝利」を描いた旧三部作とは対照的に、「英雄の堕落と世界の終焉」を描いた悲劇的叙事詩である。その内容は暗く、重く、しかし決して救いがないわけではない。アナキンの墜落の先には、ルークとレイアという希望が生まれ、やがてそれが銀河に新たな光をもたらすことになる。この“希望へと至る悲劇”という構造こそが、プリクエル三部作を深く、重く、そして美しくしている所以である。

192 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:43
『スター・ウォーズ』は1977年の『エピソード4/新たなる希望』から始まり、ジョージ・ルーカスが描いた全6部作(エピソード1?)は、明確な構想と神話的な物語構造のもとに展開された壮大な叙事詩だった。旧三部作(4?)は「銀河帝国に抗う英雄たちの勝利」、新三部作(1?)は「その英雄がいかにして闇に堕ちたか」を描いた、見事な前日譚として機能している。

この2つの三部作が優れている最大の理由は、物語全体が「アナキン・スカイウォーカー」という一人の人物の誕生・堕落・救済という、太い主軸のもとに構成されていたことである。これは旧約聖書やギリシャ悲劇、仏教の輪廻思想にさえ通じる“神話構造”を下敷きにしており、観る者の心に普遍的な問いと余韻を残した。

一方、ディズニーにより制作された続三部作(エピソード7?)は、公開前こそ大きな期待と注目を集めたものの、シリーズが進むにつれて物語としての一貫性と主題が失われ、結果として評価が大きく割れる作品群となってしまった。なぜこのような落差が生まれたのか。

第一に、明確な全体構想が存在しなかったことが最大の問題である。ルーカスがエピソード1?を作る際には、多少の変更こそあれ、アナキンの物語という一貫したビジョンが常にあった。しかし、エピソード7『フォースの覚醒』から9『スカイウォーカーの夜明け』までの3作は、監督や脚本家が作品ごとに交代し、ストーリーラインも変更・否定・修正が繰り返された。J.J.エイブラムスが築いた設定を、ライアン・ジョンソンがエピソード8で根本から覆し、最終作でまたエイブラムスがそれを“なかったこと”にする――このような作り手の足並みの揃わなさが、観客に“物語としての信頼感”を失わせた。

たとえば、主人公レイの出自がエピソード7では謎めいた“誰でもない者”として描かれ、8で「お前は何者でもない」と強調されたかと思えば、9では突如「パルパティーンの孫」とされ、物語の根幹にねじ込まれる。この変化は“伏線の回収”ではなく、“整合性のない後付け”にしか見えず、多くのファンが落胆したのも無理はない。

また、カイロ・レンというキャラクターも、アナキンやルークのように明確なドラマを積み重ねることができず、シリーズを通して一貫性のない不安定な描写が続いた。善にも悪にもなりきれず、彼の行動は“物語の駒”として動かされている印象を拭えない。最終的に改心し、命を落とすという結末は、本来であれば感動的であるはずだが、それまでの積み重ねが乏しいため、観客の感情が追いつかない。

世界観の扱いにも問題がある。旧作やプリクエル三部作で築かれた銀河の政治体制や歴史的文脈は、7?ではほとんど無視され、銀河帝国が崩壊した後、なぜまたファースト・オーダーが台頭し、どのように“レジスタンス”が形成されたのかすら曖昧なまま進んでいく。舞台装置がただ再利用されているだけで、その背景にある“物語の理由”が欠落しているのだ。

一方で、旧作に登場したレイア、ルーク、ハン・ソロといった伝説のキャラクターたちも、見せ場こそ用意されていたが、その人生や死が物語的に丁寧に扱われたとは言い難い。特にルークの描かれ方には賛否が分かれた。かつて“父を闇から救った英雄”が、甥の夢に怯えて殺しかけるという展開は、意図的に“神話を壊す”アプローチであったにせよ、旧作への敬意や物語としての説得力を欠いていた。

もちろん、7?にも優れた部分はある。映像表現、ライトセーバーの演出、ドロイドたちの魅力、新しい惑星や種族のデザインなどは見応えがあり、単体の作品として観ればエンターテインメント性は十分にある。しかし、スター・ウォーズという“壮大な一つの物語”の完結編としては、テーマの継承も思想の深化も果たせなかった。

ルーカスが描いた1?は、単に「戦いの物語」ではなく、“父と子”“恐れと赦し”“自由と専制”といった深い人間のテーマが通底していた。だが7?は、「何を描くべきか」がはっきりしないまま、視覚的な刺激と過去作の模倣に頼ってしまった。その結果、“未来への希望”ではなく、“過去の焼き直し”に見えてしまったのだ。

スター・ウォーズとは、特撮や宇宙戦争ではなく、「物語の力」で人々を熱狂させたシリーズである。だからこそ、エピソード7?の“語るべき物語がない”という空虚さは、多くのファンにとって残念であり、心に引っかかるものとなった。

193 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:52
『未来世紀ブラジル』の素晴らしさ――夢と抑圧、ユートピアとディストピアの狭間で

『未来世紀ブラジル(Brazil)』は、元モンティ・パイソンのテリー・ギリアム監督によって1985年に発表されたSF映画である。公開当時から高い評価と激しい議論を呼び、現在ではカルト的名作として映画史に深く刻まれている。この作品が放つ独特の魅力は、単なる未来社会の風刺にとどまらず、夢と現実、個と集団、自由と管理という根源的な人間のテーマを、異常なまでに緻密で奇怪な映像世界を通して表現している点にある。

物語の主人公はサム・ローリーという一介の役人。彼は高度に官僚化され、全体主義的に管理された社会の中で、淡々と働きながらも心の奥では夢想に耽る日々を送っている。現実は、行政によるミスが原因で無実の市民が逮捕・死亡しても誰も責任を取らず、それを訂正しようとする者はむしろ不審者とされるような社会だ。サムは偶然にも、夢に現れる“翼のある理想の女”ジルに似た女性と出会ったことから、現実に抗おうとし、やがては体制そのものから逸脱していく。

この映画の最大の特徴は、圧倒的な“ビジュアルの異様さ”である。レトロなタイプライターや真空管、無数のパイプとダクト、意味不明な標語が書かれたポスターがひしめくオフィスや街並み――これは明らかに現代の延長ではなく、「20世紀中盤の未来予想図がそのまま時間を止めてしまった」ような、奇妙なレトロフューチャーである。この造形は決して単なる様式美ではなく、「技術の進歩=人間の自由の拡張」ではなく、「技術の進歩=抑圧の強化」という皮肉を、観客の視覚に直接叩きつけるための手段として機能している。

物語のトーンは、ブラックユーモアとファンタジーと絶望が混在する奇妙なものだ。官僚社会を描く中で、ギリアムは笑いを誘う滑稽さをあえて挿入するが、それは笑っていいのかすら不安にさせる不気味さを孕んでいる。たとえば、顔面整形を受け続けて皮膚が溶けていく老婦人や、壊れたパイプを修理する“非合法配管工”ハリー・タトル(ロバート・デ・ニーロ)など、登場人物たちは一様に狂気と無関心の狭間で生きている。そして、それが決して他人事でないことを観客に突きつけてくる。

本作のタイトル『ブラジル』は、あの有名なサンバの名曲に由来しており、映画の中でも繰り返しメロディが流れる。しかし、その明るくのどかな旋律は、どんなに悲惨で無意味な場面にも差し込まれ、希望と絶望が音楽を通じて反転し続ける。まるで「人間の心の中の自由」はどれほど閉塞した世界でも生きているのだと訴えているかのようであり、同時に「その自由は夢に過ぎない」という虚無のメッセージにも感じられる。この二重性こそが、ギリアムの最大の才能である。

サムの見る“夢”は、翼を持って空を飛び、美しい女性を救い、悪を打ち砕くヒーロー的幻想だが、それはあくまで現実の過酷さから逃避するためのものであり、決して実現することはない。物語の最後、サムは体制によって完全に捕らえられ、拷問の末に“現実”からも心を切り離し、夢の中で幸福に飛翔していく。観客はその姿に一瞬救いを感じるが、それが「精神崩壊による永遠の逃避」であることに気づいた瞬間、言いようのない喪失感に襲われる。

『未来世紀ブラジル』が真に恐ろしいのは、描かれている社会が荒唐無稽な未来像ではなく、むしろ現代社会の縮図である点にある。役所の形式主義、責任のたらい回し、マスメディアによる誘導、監視社会、個人の自由よりも“システムの正当性”が優先される世界。テリー・ギリアムが提示したディストピアは、単に恐怖を煽る未来像ではなく、「いま、ここで起こっている事実を拡大し、風刺的に可視化した世界」にほかならない。

また本作は、1984年のオーウェル的監視社会や、カフカ的な官僚迷路、さらにはフェリーニ的な夢と現実の交錯を想起させるなど、さまざまな芸術的影響を巧みに融合している。だが、それを単なる模倣ではなく、ギリアム独自の“ビジュアル詩”として昇華している点に、彼の作家性の強さがある。

結末は観る者によって解釈が分かれる。「夢の中で自由に生きる彼は救われた」のか、それとも「現実から逃げただけで、完全な敗北なのか」。答えは与えられない。ただ確かなのは、サムが“夢を見ること”をやめなかったという事実であり、それこそがこの映画の最後の希望でもある。


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