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童謡の歴史の中の、戦後、「ロバの会」と童謡排斥運動

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 16:43
大正8年の起こった童話童謡運動、多くの文学者、詩人、作曲家によって
多くの名作童謡を生んだ童話童謡運動。

しかし、それは戦後新しい若手勢力「ロバの会」による自らの利益を図る「童謡排斥運動」によって
終焉を迎えた。

その歴史に残る汚点は決して忘られるべきでない。

2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 16:48
サトウハチローが、東京・上野の百貨店で豪華なひな飾りを買ったのは昭和10年のことだった。

サトウハチローが、ちょうど「うら街の交響樂」を書いていたころだった。価格は200円。大卒の初任給が50円くらいの時代だった。
その頃、妻と別居して子供を引き取っていて、小学生の女の子が2人いた。贈り物に喜ぶ娘を見ているうちに歌詞が浮かんだ。

あかりをつけましょ ぼんぼりに はなをあげましょ 桃の花・・

   ttp://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/ureshiihinamatsuri.html
   ttp://www.youtube.com/watch?v=_zv8bCakElM&feature=related

2番の歌詞に〈お嫁にいらした姉様に よく似た官女の白い顔〉とある。ハチローには、大好きな姉がいた。結婚式の前に病気で亡くなっている、19歳だった。面影を歌詞にしのばせ、童謡の世界で嫁がせた。
寺山修司編著の「日本童謡集」〈光文社カッパブックス1972〉と言う本の最初に、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」、「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」・・と。

「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか「ぞうさん」とか、[あたらしいこどもの歌」というのは 、NHKラジオ放送で昭和24年「歌のおばさん」が主体となっている。 当時はレコード主体の童謡黄金時代であったが、これはレコードではなくラジオである。 このラジオ番組で歌うのは童謡歌手でなく、歌の“おばさん”であった。

新しい“ラジオ”番組(「歌のおばさん」)で「あらしいこどものうた」をつくろうとした、大中恩、中田喜直、磯部俶、宇賀神光利、中田一次ら若手音楽家からなる、五人の作曲家グループは、昭和三十年「ろばの会」を作った。

サトウハチローは「ロバの会」には加わらなかったものの、詩は中田喜直に指定して渡した。

大中恩、中田喜直ら、ロバの会は、これまでの童謡歌手の歌う(レコード)「童謡」の排斥運動を展開した。
サトウハチローは「ロバの会」には加わらなかったものの、詩は中田喜直に指定して渡した。

(「排斥運動」は、主に戦後の童謡黄金時代において中心的な役割を果たし、川田三姉妹(正子、孝子、美智子)ら戦前から多くの「童謡歌手」を育成・輩出した「音羽ゆりかご会」主宰の、最後の童謡作曲家「海沼 實」などに向けられた。)
  ttp://www.0108.tv/nagano_kyouikukai.htm
  ttp://www.0108.tv/history2.htm

中田喜直ら若手は、後にその批判した「童謡」の名をそっくりそのまま戴いて、「童謡協会」を作って、会長(初代、サトウハチロー、二代目中田喜直))に収まり童謡を推進する!というのだがいかにも動機不純なのは否めずすっきりしない。

ここに大正時代に始まった『童謡運動』はここに終焉を迎えることとなった。

昭和30年代後半から40年代にかけて、「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」、「ぞうさん」などが盛んに歌われることもあった。

しかし、いま殆ど聞かれない。


そんななか、ようやく暖かい春を迎えるころ、どこからか聞こえてくる歌、それはこのうた。


童謡「うれしいひなまつり」




「うれしいひな祭り」

サトウハチロー作詞  
河村光陽作曲




あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓(ふえたいこ)
今日はたのしい ひな祭り

お内裏様(だいりさま)と おひな様
二人ならんで すまし顔(がお)
お嫁(よめ)にいらした 姉(ねえ)様に
よく似(に)た官女(かんじょ)の 白い顔

金のびょうぶに うつる灯(ひ)を
かすかにゆする 春の風
すこし白酒(しろざけ) めされたか
あかいお顔の 右大臣(うだいじん)

着物をきかえて 帯(おび)しめて
今日はわたしも はれ姿(すがた)
春のやよいの このよき日
なによりうれしい ひな祭り



寒い冬がようやく終わり春の訪れが感じられるきょうこの頃、
どこからか聞こえるのはこの歌 うれしいひな祭り

昭和11年(1936)山野三郎名義

やはり日本の歌はいい、やさしくほっとする温かさがある名作
やはりまだ日本が貧しく、草深かった戦前の唄はいい!。


童謡歌手桑名貞子盤がいい。





3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 16:54
■ たいせつなことは、歌は心(詩)であり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の

心をつかむことはできない。

押しつけはダメ。

一時的に歌われたさっちゃんとかの「あたらしいこどこの歌」が再び子供の心をつかむことはない。

4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 17:33
日本童謡協会や、中田喜直らの言うところの「童謡」とは戦後、NHKラジオで放送された「新しいこどもの歌」というもので、
いわゆる『童謡』とは似て非なるものだった。

5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 17:38
「子どもに媚びない、新しい芸術的な“こどものうた”を作って行こう」ということで、“童謡”を“こどものうた”と言いあらためたと言うのだが、結局こどものうたにすぎなかった。そして排斥に依って自分たちの世はこなかった。

名もなきたった4人の若手二世で、大正時代からの『童謡』を変えるなどとても無理な事だった。 宇賀神光利、中田喜直らが相次いで亡くなり、2000年には解散となった。


6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 17:41
童謡をさんざん排斥した中田喜直は、その後、その「童謡」をそのままかすめ取って
『童謡協会』を作り、会長に収まった。

動機不純そのもので、さすがに最初から会長では露骨すぎとかんがえたのだろうか、初代はサトウハチロー、仲田は二代目として入った。
これいったいどういうこと。

日本童謡史における最大の汚点として、中田喜直ら、ロバの会の悪行は記録されるでしょう。


7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 17:48
昭和44年(1969年)に童謡の再興を期して「日本童謡協会」が設立され海沼は常任理事に、加藤は事務局長に就任した。
しかし、役員の人選をめぐってもめた。初代会長サトウハチロー、二代目中田喜直)

2年後の総会の翌日、海沼は過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。「憤死」に近い。
加藤は代表作「みかんの花咲く丘」が酷評されたことに、生涯を通じて心を痛めた。
死の1ヵ月前、美知子さんの運転で故郷の富士市に行く途中、助手席でふと「あのとき、あの歌を作って良かったんだよな」とつぶやいた。
「自分に問いかけ、自分を納得させるような口ぶりでした」と美知子さんは思い起こす。「父も海沼さんも川田さんも、みんな純粋で一途でした」と続けた。

彼らは、「あたらしいこどもの歌」を排斥した「童謡」といいかえた。

「童謡」が「童謡」を排斥した「ロバの会」の延長メンバーによる「童謡協会」に乗っ取られたのだ!・

ここに童謡運動は終焉を迎えた。

しかし、その「あたらしいこどもの歌」も今歌われていない。知る人もいない。

真に心がこもったものでない限り、時代を超え、世代を越えて受け容れられることは無い。

このことを、これはものがたっている。


8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 17:57
雨情は一見暗そうだけど、人の痛みを理解し生きる人。
雨情は有情にもつながる。
生きとし生けるものへの人一倍の優しさを感じる。

9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 18:02
昭和30年代後半から40年代にかけて、大中恩らの「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか、
[あたらしいこどもの歌」がテレビの子供歌番組などでよく歌われた。

しかし、今から考えればそれは、あくまでちいさなこどものたわいもない歌でしかなかった。
現在保育園とか幼稚園位で歌われる位。

子供は大きくなる。童謡と言うのは大きくなって再び蘇る、しかし、この
さっちゃんなどは所詮幼児の歌、大きくなれば顧みられることは無い。
ここが違う。


10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 18:47
戦中戦後における童謡について

ここで歌謡曲だけでなく昭和、戦中戦後の
ラジオで放送された児童のための童謡について触れる。

戦中から戦後にかけて、レコード童謡だけでなくラジオ放送に於いて、もっとも活躍した童謡作曲家は、「音羽ゆりかご会」主宰の海沼實だった。

<音羽ゆりかご会>は戦中戦後の一時期、昭和18年から昭和25年くらいまで、「東京放送児童合唱団」の名称でNHKラジオ放送で活躍した。現在も<音羽ゆりかご会>として存続する日本屈指の合唱団(大人の合唱団も含め)である。ゆりかご会という名称は、故郷の先達である草川信の名曲「ゆりかごの唄」に対する思い入れが感じられる。こうして海沼実の作曲家人生は、自身が創設した、<音羽ゆりかご会>とともに彩られることとなるが、海沼の名前があまり人口に膾炙していないのは川田三姉妹や<音羽ゆりかご会>があまりにも有名だったため、座付作者のような扱いを受けていたためかもしれない。


11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 18:59
海沼実は<音羽ゆりかご会>のために多くのオリジナル曲を作曲したが、またそのため多くの童謡詩人を発掘した。まず最初は同郷の童謡詩人山上武夫【1917年(大正6年)〜1987年(昭和62年)】である。山上は、海沼実が草川信に憧れたように、故郷の先達を頼って信州から上京してきた。そのころ海沼はすでに童謡を試作作曲しており<音羽ゆりかご会>に供給していたものの、詩を提供してくれる高名作詞家もなく、詞も曲も自分で作って色々と試作していて、あまり見るべきものは無かった。しかしその中で後に「からすの赤ちゃん」としてヒットした歌が生まれる。この作品を見ると、作曲は言うまでもなく、作詞に対する感性、いや童謡に対する感性が並々ならぬものであることが伺われる。
昭和13年の真夏、山上は暑さに辟易しながら新しい童謡制作に呻吟していた。海沼から二人で童謡を作ろうともちかけられていたのだ。詩は山上が作るので、海沼はアドバイスしながらも、待っているより仕方がない。二人で作るのはなかなか大変だ。詩と曲を息をあわせて作らないとうまくいかない。まるで駕籠屋みたいだ。海沼との話し合いにあれこれ想いに耽っていた山上は、嫁ぎ先の姉の家の裏庭を出て故郷の方の空を見ながら、あの山の猿は今頃どうしているかな、と考えていた。途端、「そうだ!お猿が駕籠を担ぐようにしてみよう!」書き上げたのをすぐに海沼に渡し、海沼が曲を付けて出来上がったのが「お猿のかごや」。これは日中戦争の始った年であったが、全国的にヒットした。海沼実としても童謡作家としてやっていける自信を感じた最初の一作だった。その後も山上武夫とのコンビで多数の童謡を作ったが、ヒットは昭和20年の「見てござる」まで待たねばならなかった。
次に発掘したのが滋賀県日野町出身の細川雄太郎【1914年(大正3年)〜1999年(平成11年)】である。細川が「泣く子はだあれ」「ちんから峠」を作詞して童謡雑誌『童謡と唱歌』に発表したのが昭和14年。「お猿のかごや」から一年たって、海沼は、曲をつけられる童謡作家の詩を探していた。そこで見つけたのが細川の、<泣く子はだあれ>という詩だった。時節柄ということもあるし、曲も明るいものの方が良いだろうというディレクターの提言や、海沼の、<だあれ>は音が汚いし、音楽に乗りにくい部分を修正したほうがいいとしたアドバイスでできたのが「あの子はたあれ」という歌だった。同年、「ちんから峠」とともにヒットし世に歌い継がれる童謡となっている。海沼実は終戦前後の童謡・流行歌不毛の時期に、日本人に癒しと希望の歌を送った作曲家であった。


12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:04
海沼實は、 昭和戦後期の童謡作曲家としては最も多く愛唱された作品を持つことから「最後の童謡作曲家」と呼ばれ、川田三姉妹の発掘や、結成した音羽ゆりかご会を通して、戦後童謡黄金期を形成した作曲家としての功績は日本童謡界において屈指のものと評価されている。
現在でもYou Tubey等で聞くことができる。

『またあしたね』作詞:横堀恒子
『あの子はたあれ』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『めだかの幼稚園』作詞:斎藤信夫
『花屋さん』作詞:高田三九三
『つばめの旅』作詞:三苫やすし
『お猿のかごや』昭和13年、作詞:山上武夫
『ちんから峠』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『やさしいお母さま』昭和15年、作詞:稲穂雅己
『からすの赤ちゃん』昭和16年、作詞:海沼實
『またあしたね』作詞:横堀恒子
『あの子はたあれ』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『めだかの幼稚園』作詞:斎藤信夫
『花屋さん』作詞:高田三九三
『つばめの旅』作詞:三苫やすし
『お猿のかごや』昭和13年、作詞:山上武夫
『ちんから峠』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『やさしいお母さま』昭和15年、作詞:稲穂雅己
『からすの赤ちゃん』昭和16年、作詞:海沼實


13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:09
1943年(昭和18年)、当時の日本放送協会(NHK)が放送合唱団を公募し、スタジオでの厳正なる審査の結果、「音羽ゆりかご会」を「東京放送児童合唱団」として任命。
同合唱団は戦中戦後のラジオ放送に大きく貢献した。

1951年(昭和26年)には、NHK独自の児童合唱団として再編成された、昭和27年3月に「NHK東京放送児童合唱団](現在の東京児童合唱団)を編成した。

NHK東京放送児童合唱団は、『みんなのうた』『歌のメリーゴーラウンド』など、同局の音楽番組、教育番組に出演、現在に至る。


14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:13
「東京放送児童合唱団」が戦中・戦後にかけて多くのNHKラジオ番組に貢献した。「前線へ送夕べ」「農村へ送る夕べ」・・
. まだテレビもない時代、戦中戦後はひたすらラジオ放送がすべてでした。

「農村へ送る夕べ」の主題歌・農家のみなさんこんばんは・・♪農家の 皆さん今晩は一日お仕事ご苦労さんお疲れ直しのこの時間ラジオのおそばにさあどうぞ ♪ ...

農村へ送る夕べ

♪農家の皆さん今晩は
一日お仕事ご苦労さん
お疲れ直しのこの時間
ラジオのおそばにさあどうぞ♪
 

15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:17
まだまだ雑音が多く聴きづらいものだったが、夕食後の大きな楽しみが増えた。「戦地へ送る夕べ」、「農家へ送る夕べ」には、多数の有名歌手がでていた。
なかでも「童謡歌手川田正子」が歌うテーマソング「戦地(農家)の皆さん今晩は、今日も一日ごくろうさん、お疲れ直しのこの時間、ラジオのおそばにサァーどうぞ」のメロデーが鮮明に残っている。

敗戦直後のNHKのラジオ番組「農家に送る夕べ」のテーマソング(作詞:山上武夫 作曲:海沼実)でした。
当時は食糧難で、NHKも農家に気をつかって特別番組を用意していたようです。


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:22
戦後の食糧難の時代、ラジオで流れてくる ♪農家の皆さん今晩は 一日お仕事ご苦労さん・・の唄声に農家のみなさんは仕事に励めたそうだ。

17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:26
■■敗戦後の童謡の盛衰■■

敗戦直後には、海沼實を中心としたレコードとラジオ放送とが連携したいわゆる「レコード童謡」が復興し、第二の童謡黄金時代、戦後童謡黄金時代と言われた。
「レコード童謡」という言葉には、すでに軽蔑の響きがあるが、1955(昭和30)年、それまで童謡界をリードしてきた海沼實、中山晋平、河村光陽、山口保治らの作品に対し、童謡等の実績を持たなくNHKラジオ子供の歌番組に拠る若手音楽家グループたちが、「童謡」に対し「幼稚な歌詞」を持つ「子どもの歌謡曲」「営利目的の「レコード童謡」」として厳しく批判し排斥運動(童謡排斥運動)を起こしたのだ、その中心になったのが中田喜直ら「ロバの会」だった。彼らは、「童謡」という用語そのものも過去の遺物として、これを否定して幼児を対象とした「新しい子どもの歌」をつくろうとした。まあ、実績の無い自分たちのためのめだったのだ。


18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:35
「ろばの会」に結集した若手の二世作曲家たちであった。ろばの会では、「童謡」という言葉を嫌って、もっぱら「(新しい)こどものうた」としたが、それは従来の「(レコード)童謡」に対決する姿勢を強く打ち出そうとしたからである。また、「ろばの会」の会員ではなかったが、「うたのおばさん」を通して童謡の作曲に深く関わった團伊玖麿、次のように述べている。「戦後、私たちがNHK「うたのおばさん」を舞台に新しい子どもの歌を作り始めたとき、あえて童謡という言葉を使わなかったのは、戦前のレコード童謡への反発があったからでした」。しかし、このレコード童謡への反発と否定は、正当な部分はあったがにいても、このあとその排斥した「童謡」の名をかたって「童謡協会」を作って会長に収まったという、辿った歴史を見ると、行き過ぎのところ、自分たちのためという動機不純なところがあったと言わざるを得ない。


19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:40
昭和44年(1969年)に童謡の再興を期して「日本童謡協会」が設立され海沼は常任理事に、加藤は事務局長に就任した。
しかし、役員の人選をめぐってもめた。初代会長サトウハチロー、二代目中田喜直)

2年後の総会の翌日、海沼は過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。「憤死」に近い。
加藤は代表作「みかんの花咲く丘」が酷評されたことに、生涯を通じて心を痛めた。死の1ヵ月前、美知子さんの運転で故郷の富士市に行く途中、助手席でふと「あのとき、あの歌を作って良かったんだよな」とつぶやいた。「自分に問いかけ、自分を納得させるような口ぶりでした」と美知子さんは思い起こす。「父も海沼さんも川田さんも、みんな純粋で一途でした」と続けた。


20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:44

彼らは、「あたらしいこどもの歌」を排斥した「童謡」といいかえた。

「童謡」が「童謡」を排斥した「ロバの会」の延長メンバーによる「童謡協会」に乗っ取られたのだ!・

ここに童謡運動は終焉を迎えた。

しかし、その「あたらしいこどもの歌」も今歌われていない。知る人もいない。

真に心がこもったものでない限り、時代を超え、世代を越えて受け容れられることは無い。
このことを、これはものがたっている。


21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:57
「童謡」は人の心を豊かにします。しかし、『童謡』と彼らが自分たちの領分を勝ち取ろうとした「あたらしいこどもの歌」とは似て非なる別物だった。

寺山修司は、その編著「日本童謡集」〈光文社カッパブックス1972〉と言う本の最初で、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」と。


22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 20:07
昔は「りんごのひとりごと」〈河村光陽〉「やさしいお母さま」(海沼實)「ないしょ話」)結城よしを作詞・山口保治作曲)「あの子はだあれ」「母さんたずねて」・・「船頭さん」「仲良し小道」「夕日」、『かわいい魚屋さん』(加藤省吾・作詞)などが盛んに歌われたものです。

童謡・・そこには「人」(人と人との情愛)が醸し出されてくるのです。「りんごのひとりごと」昭和20年代、30年代にかけてよく歌われたものでした。


今でこそリンゴなど誰も見向きもしないが、昔日本がまだ貧かった時代,流通も今ほどでなく貧しい家庭が多かったでしょうから高価で貴重品だったろう。リンゴは、子供が風邪をひいた時に、お母さんが枕元に出してくれたものだったようで、特別な思いもあったとう。


23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 20:13
さっちゃんだとか、ぞうさんとか、他愛もない小さなこどもの歌とは歌の思いが違うのです。

「あたらしいこどもの歌」は、学齢前の幼児を対象としたものです。

「童謡」は子供であっても、ある程度年齢がいったものでないといけないもの。

24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 20:27
日本童謡協会は、昭和44年(1969年)4月に設立された。会長任期は二年で、初代会長はサトウハチロー、そして第2代会長は中田喜直、第3代会長は湯山昭。「童謡」を排斥した中田喜直、湯山昭ら『童謡』を排斥の中心にいた者が会長となり、日本の文化である「童謡」を乗っ取ったのだ。日本の童謡史に残る、許されざる恥ずべきこと、童謡の歴史を汚す童謡史に記録されるべき汚点である。
会の目的としては、童謡の振興発展を図ること、童謡著作者の生活権および著作権を擁護すること、音楽文化の向上に寄与することなどが謳われ、平成元年(1989年)から社団法人日本童謡協会となり今日に至る。
しかし、[童謡]はかっての[童謡] ではなく、幼児対象の「あたらしいこどもの歌」を,そのまま「童謡」と言いかえただけのものだった。

会員数は詩人、作曲家合わせて400名を超えているが、「日本童謡協会」は、批評家や研究者を入会させず、作品の鋭い批評にも踏み込まず、「職能擁護的な会」と言われているようだ。
この第二代会長・中田喜直を選んだ総会の翌日、「最後の童謡作曲家」と言われ、戦後の童謡黄金時代を築いた作曲家・海沼實は、過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。そして次も同じ童謡を排斥した湯山昭が選ばれた・・・・。
いまどんな活動をしてるのかどうかしらない。
しかし新しい子供の歌というのが歌われているのはきたことがない。

大正時代に始まった幾多の先人が取り組んだ、日本の文化でもある童謡運動は、ここに終焉を迎えることになったのだ。
こうした状況に新たに日本童謡学会が作られた。
いまどんな活動をしてるのかどうかしらない。
しかし新しい子供の歌というのが歌われているのはきたことがない。

大正時代に始まった幾多の先人が取り組んだ、日本の文化でもある童謡運動は、ここに終焉を迎えることになったのだ。
こうした状況にこれらとは違う新たに日本童謡学会が作られた。





25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 20:35
会員数は詩人、作曲家合わせて400名を超えているが、「日本童謡協会」は、批評家や研究者を入会させず、作品の鋭い批評にも踏み込まず、「職能擁護的な会」と言われているようだ。
この第二代会長・中田喜直を選んだ総会の翌日、「最後の童謡作曲家」と言われ、戦後の童謡黄金時代を築いた作曲家・海沼實は、過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。そして次も同じ童謡を排斥した湯山昭が選ばれた・・・・。

大正時代に始まった幾多の先人が取り組んだ、日本の文化でもある童謡運動は、ここに終焉を迎えることになったのだ。




241 名前:

26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 20:49
サトウハチローは「童謡協会」に利用されたのでしょう。

初代会長にはサトウハチローを、二代目は中田喜直。以後、湯山昭、「童謡協会」は「童謡」を完全にのっとった。
その代わり、童謡協会もいまや完全に過去のものとなり顧みる人もいない。

何であっても、真に心からのものでなければ、聞く人の心を捉え続けることはできない。

この「ロバの会→童謡協会」の「童謡のっとり」は、自らのためであり、こどものためでなかった。

そのことを教えている。

「童謡」に限らない、「歌謡」の世界でも同じ。
真に心からのものでなければ、聞く人の心を捉え続けることはできない。

それはいまや顧みる人もいない職能擁護的団体と化した、今の「童謡協会」の現状を目のあたりにすれば、よくわかる。


You Tubeには過去の名童謡歌手の歌う本物の童謡があふれている。 

あらたに、これとは一線を画し、「日本童謡学会」ができた。


27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/08(Mon) 06:24
仲よし小道

作詞 三苫(みます)やすし
作曲 河村光陽

仲よし小道は どこの道
いつも学校へ みよちゃんと
ランドセル背負(しょ)って 元気よく
お歌をうたって 通う道

仲よし小道は うれしいな
いつもとなりの みよちゃんが
にこにこあそびに かけてくる
なんなんなの花 匂う道

仲よし小道の 小川には
とんとん板橋 かけてある
仲よくならんで 腰かけて
お話するのよ たのしいな

仲よし小道の 日ぐれには
母さまお家で お呼びです
さよならさよなら また明日
お手手をふりふり さようなら

80年前昭和14年、河村光陽 有名な童謡・代表曲
『かもめの水兵さん』、『うれしいひなまつり』、『グッドバイ』など、日本の童謡作曲者・河村光陽の有名な童謡まとめ。



28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/08(Mon) 06:57
昭和15年(1940年) 
 やさしいお母さま
    
作詞:稲穂雅巳
作曲:海沼實
歌唱:音羽ゆりかご会(川田正子)


わたしが おねむになったとき
やさしくねんねん こもりうた
歌って ねかせてくださった
ほんとにやさしい おかあさま


夏は ねびえをせぬように
冬はおかぜを ひかぬよう
おふとん なおしてくださった
ほんとにやさしい おかあさま

わたしが 大きくなったなら
ご恩をお返し いたします
それまでたっしゃで まっててね
ほんとにやさしい おかあさま
      

この「やさしいおかあさま」を作詞した稲穂雅巳
は静岡県出身であること以外にあまり資料が見つ
かりません。

海沼實は「音羽ゆりかご会」の創始者、「あの子はたあれ」「ちんから峠」「お猿のかごや」「見てござる」
「里の秋」「蛙の笛」「夢のお馬車」「ばあやたずねて」「みかんの花咲く丘」「かわいい魚やさん」などがある。

しかし、「ロバの会」の童謡排斥運動は主にこれら海沼實をターゲットにしたもので、最後の童謡作曲家といわれる。



 

29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/08(Mon) 07:21
りんごのひとりごと

作詞 武内俊子
作曲 河村光陽

一.
わたしはまっかな リンゴです
お国は寒い 北の国
リンゴ畑の 晴れた日に
箱につめられ 汽車ポッポ
町の市場へ つきました
リンゴ リンゴ リンゴ
リンゴかわいい ひとりごと

二.
果物店の おじさんに
お顔をきれいに みがかれて
みんな並んだ お店さき
青いお空を 見るたびに
リンゴ畑を 思いだす
リンゴ リンゴ リンゴ
リンゴかわいい ひとりごと

三.
今頃どうして いるかしら
リンゴ畑の おじいさん
箱にリンゴを つめながら
歌を歌って いるかしら
たばこふかして いるかしら
リンゴ リンゴ リンゴ
リンゴかわいい ひとりごと

作詞者が入院してるとき、お見舞いに贈られたリンゴをみて作ったという。
昭和30年代、日本がまだ貧しかった時代、戦後童謡黄金時代でたくさんの童謡歌手によって広く歌われた。
河村光陽の娘、童謡歌手河村順子が歌った。

当時、リンゴは高価なもので、リンゴとは、病気の時お母さんが枕元に出してくれるものだった。昭和15年、太平洋戦争直前、河村光陽作曲の有名な童謡。
『かもめの水兵さん』、『うれしいひなまつり』、『グッドバイ』など、日本の童謡作曲者・河村光陽の有名な童謡。
むかしの【童謡】は後ろにおかあさんや家族がでてくる。でてくる。そして人生に二度よみがえるすばらしい文化遺産。


30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/08(Mon) 22:40
十五夜お月さん

作詞:野口雨情
作曲:本居長世

1 十五夜お月さん 御機嫌(ごきげん)さん
  婆(ばあ)やは お暇(いとま)とりました

2 十五夜お月さん 妹は
  田舎へ 貰(も)られてゆきました

3 十五夜お月さん 母(かか)さんに
  も一度 わたしは逢いたいな

大正9年(1920)9月号仏教系児童文学誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に発表されました。

一家離散の憂き目にあった女の子の月に寄せる悲しみ。 


31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/17(Wed) 11:05
童謡の歴史の中の、戦後、「ロバの会」と童謡排斥運動

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=561794206&ls=50

32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/17(Wed) 11:23
真の童謡その背景には人がいる、人の想いが隠れている。
そして人の深い情愛が込められている。

33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/18(Thu) 13:43
100年を超える童謡の歴史、童謡の歴史は近代日本の歴史、童謡を聴いていると、日本でも貧しさゆえに自分の子どもを「奉公」に出すと言う辛い時代があったのかなあと思う。そして、私たちはいつのまにか豊かになりそんな時代の人たちより幸せになった、はずであるが果たしてそうだろうか。そのような時代にそのように育っていった人たちが子どもを育て、その子どもたちが作り上げたのが今の日本である。技術を大きく発展させはしたが、それに酔いしれて先人たちから引き継いだ何らかの精神を失っていった事に想いをいたさねばならないだろう。
大正9年に作られた童謡「叱られて」あそこに出てくるもの、たいていの今の飽食の時代を謳歌しているものには理解できないことだが、口にはださねど目に涙・・あれは幼くして親元を離され奉公に出されたこどもの哀しみ、心の痛みと、叱られてもいいから親に会いたい、帰りたいということを、 ひと事も出さずに、短い詩で歌ったもの。
昔は貧しさゆえに、可愛いこどもを奉公に出す、そういうことがあたりまえだったのだ。
壺井 栄原作『二十四の瞳』が有る。昭和3年から戦後早々までの瀬戸内の僻地の分校の物語。
ここで小学校卒業を待たず子守奉公に出される子などがでてくる・・・。
昭和戦前はまだ日本全体が貧しい時代で、それは昭和20年代あたりまで同じだった。、
「二十四の瞳」 1954 
ttp://www.youtube.com/watch?v=LU_Y52wNNK8&feature=endscreen&NR=1

昭和20年代、30年代に田舎で子供時代を送った者、親が大正から昭和のはじめに子供だった人は、相当高い確立で、親から(親が)子供の頃に奉公に出された話を聞いてるはずだ。

映画「二十四の瞳」は昭和3年から始まるが、小学校中途で奉公に出される話がでてくる。昔は義務教育は小学校までで、小学校を出ると男は丁稚奉公、女は子守奉公や女中奉公に出るのがあたりまえだったという。


34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/19(Fri) 20:28
>>30

十五夜お月さん

 作詞:野口雨情
 作曲:本居長世

雨情は一見暗そうだけど、人の痛みを理解し生きる人。
雨情は有情にもつながる。
生きとし生けるものへの人一倍の優しさを感じる。

真の童謡その背景には人がいる、人の想いが隠れている。
童謡には人の深い情愛が込められている。

35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/19(Fri) 20:50
>>30.>>34

このたった二行の詩に、こんなにも悲しさと切なさを表現できた野口雨情には、自分との境遇がきっと重なっていたのではないのでしょうか!
「十五夜お月さん」この唄はいろんな方が歌唱されてますが、今更ながらですが、本居長世のこのメロディは本当に琴線に触れてくるものがあります!

36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/19(Fri) 20:57
本居長世:生後1年で母と死別。養子であった父が家を出たため、やはり国学者であった祖父、本居豊穎に育てられる。祖父の期待に反して音楽家を志すようになり、1908年(明治41年)東京音楽学校本科を首席で卒業、日本の伝統音楽の調査員補助として母校に残る。なお、同期にやはり作曲家となる山田耕筰がいる。1909年(明治42年)器楽部のピアノ授業補助、翌1910年(明治43年)にはピアノ科助教授となり、ピアニストを志すが、指の怪我で断念。このときの教え子に中山晋平や弘田龍太郎がいる。1918年(大正7年)「如月社」を結成。この如月社で本居長世の作品を独唱したのが美しいテノールの音色を持つバリトン歌手、藤山一郎(東京音楽学校声楽科出身で、慶應義塾普通部のころから本居長世のところに出入りしていた)である。また、本居長世は宮城道雄や吉田晴風らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索した。

37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/19(Fri) 21:36
>>32-33

叱られて

作詞 清水かつら
作曲 弘田 龍太郎

叱られて 叱られて
あの子は町まで お使いに
この子は坊やを ねんねしな
夕べさみしい 村はずれ
こんと きつねが なきゃせぬか


叱られて 叱られて
口には出さねど 眼になみだ
二人のお里は あの山を
越えてあなた(彼方)の 花の村
ほんに花見は いつのこと

『叱られて』(しかられて)は、大正9年(1920)4月に少女雑誌「少女号」に発表された。
童謡歌手だけでなくなど、三浦環、藤原義江など、多くの歌手によって歌われた日本の代表的名曲。




38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/19(Fri) 21:49
叱られて 名盤

叱られて 藤原義江 清水かつら 弘田竜太郎 0311 COL 25176 黒盤 17
叱られて 佐藤美子 清水かつら 弘田竜太郎 0311 COL 25205 黒盤 31
叱られて 鈴孫竜男 清水かつら 弘田竜太郎 0408 VIC 50848 黒盤 484
叱られて 宮川美子 清水かつら 弘田竜太郎 0611 COL 35216 @ 青盤 1638 328
叱られて 川路美子 清水かつら 弘田竜太郎 0709 NIT 5743 黒盤 3482
叱られて 奥田良三 清水かつら 弘田竜太郎 0806 POL 5076 赤盤 5005
叱られて 内本 実 清水かつら 弘田竜太郎 0906 COL 35433 青盤 5944
叱られて 阿部幸次 清水かつら 弘田竜太郎 1009 TAI 56315 赤貝星 8021
叱られて 三浦 環 清水かつら 弘田竜太郎 1104 COL 35483 青盤 9105
叱られて 川路美子 清水かつら 弘田竜太郎 1100 NIT S1413 大衆S盤 9445
叱られて 井崎加代子 清水かつら 弘田龍太郎 1112 TAI 21077 赤WS 9820
叱られて 斎田愛子 清水かつら 弘田竜太郎 1209 VIC 13523 赤盤 12791
叱られて 永田絃次郎 清水かつら 弘田竜太郎 1304 KIN 20077 群青盤 13433
叱られて 奥田良三

0311 昭和3年11月発売






39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/19(Fri) 23:26

音羽少国民合唱団/東京放送児童合唱団/日蓄児童合唱団(コロムビア・日蓄)・・海沼實・音羽ゆりかご会

「お山の杉の子」作詞 吉田テフ子、作曲 佐々木すぐる。歌は安西愛子、加賀美一郎、 寿永恵美子、日蓄児童合唱団。録音は11月6日に国民合唱。日蓄児童合唱団(音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団)
19年12月 ラジオ放送(国民合唱)東京放送合唱団、東京放送児童合唱団(音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団)

「勝ち抜く僕等小国民」昭和20年1月21日 放送 作詞 上村数馬 作曲 橋本国彦 歌 東京放送合唱団 東京放送 児童合唱団(音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団)

いずれも空襲が激化、国民学校5年生以上は田舎に知人があれば疎開。あければ都内で。何百万人の学童が疎開、このころ歌われた歌。東京放送児童合唱団・・音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団のNHKラジオ放送における別称・・は疎開しないで空襲下の東京に残りライオ放送したという川田正子など。


40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/20(Sat) 12:15
東京放送児童合唱団・・音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団のNHKラジオ放送における別称・・は疎開しないで空襲下の東京に残りラジオ放送したという川田正子など。

41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/20(Sat) 12:18
>>37-38

童謡歌手川田孝子の「叱られて」や「雨」絶品!

今のクラッシック歌手でもこれほどまでに歌えない。

42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/20(Sat) 13:24
>>1-7
>>8-21

童謡協会の会員(正会員)の要件は、童謡の作詞または作曲をするもの、童謡著作者(詩人・作曲家)とされるが、聞いたこともないような名前ばかり。
「先人のすぐれた童謡を受け継ぎ」となっているのだが、どうもそうとも思えない。
会員の相互連携や職能を擁護する目的で設立された典型的団体(職能団体という)の域をでていないようだ。


43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/20(Sat) 13:45
国会図書館も職能団体にいれてるね。

44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/22(Mon) 11:25
「農村へ送る夕べ」の主題歌・農家のみなさんこんばんは・・♪農家の 皆さん今晩は一日お仕事ご苦労さんお疲れ直しのこの時間ラジオのおそばにさあどうぞ ♪ ...

農村へ送る夕べ

♪農家の皆さん今晩は
一日お仕事ご苦労さん
お疲れ直しのこの時間
ラジオのおそばにさあどうぞ♪
 
まだまだ雑音が多く聴きづらいものだったが、夕食後の大きな楽しみが増えた。「戦地へ送る夕べ」、「農家へ送る夕べ」には、多数の有名歌手がでていた。
なかでも「童謡歌手川田正子」が歌うテーマソング「戦地(農家)の皆さん今晩は、今日も一日ごくろうさん、お疲れ直しのこの時間、ラジオのおそばにサァーどうぞ」のメロデーが鮮明に残っている。

敗戦直後のNHKのラジオ番組「農家に送る夕べ」のテーマソング(作詞:山上武夫 作曲:海沼実)でした。
当時は食糧難で、NHKも農家に気をつかって特別番組を用意していたようです。

戦後の食糧難の時代、ラジオで流れてくる ♪農家の皆さん今晩は 一日お仕事ご苦労さん・・の唄声に農家のみなさんは仕事に励めたそうだ。







「農家の皆さん今晩は」

(NHK「農家に送る夕」テーマソング 
     (作詞 山上武夫  作曲 海沼 實)

 1 農家の皆さん 今晩は
  一日お仕事 ごくろうさん
  お疲れ直しの この時間
  ラジオのおそばへ さあどうぞ

 2 ぷかりと一服 お父さま
  赤ちゃんにおっぱい お母さま
  まあまあたんぼの お話は
  ゆっくりお後で なさいませ

 3 おやおや時間に なりました
  おしゃべりお歌は 止めにして
  それではこれから 番組を
  次々お送り いたしましょう

  


「農家に送る夕」は終戦直後のNHKラジオ毎週月曜夜8時からの放送でした。


「東京放送児童合唱団」でした、「東京放送児童合唱団」は昭和18年NHK嘱託として、戦中、戦後早々まで活躍しました。

他に、戦後早々のNHK子供向けラジオドラマの主題歌を歌っていました。

昭和27年まで行われた『桜んぼ大将』や『鐘の鳴る丘』などで、当時録音ではなく、毎日NHKに出向いて生放送していたそうです。

昭和27年からあらたにNHK内に、『NHK東京放送児童合唱団』が作られ、おおくの合唱曲が歌われた。

このあと、『NHK東京放送児童合唱団』が、『NHK東京児童合唱団』になったが、これは、『東京放送児童合唱団』が、

『音羽ゆりかご会』のNHKラジオ放送における別称だったという歴史によるからと言われる。







終戦後の日本は極度の食糧不足と石炭不足に見舞われた。そこでNHKでは,食料とエネルギー源確保のため,「農家へ送る夕」(昭和20年10月より),「炭坑へ送る夕」(昭和21年8月より)といったラジオ番組を定期的に組むようになった。


45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/23(Tue) 23:09
>>39-44

平成16年、「学童疎開60年」の年、夏には各地で記念展や行事がありました。学童疎開は、今から75年前、ちょうど敗戦の一年前より行われたものです。

昭和19年8月より、20年にかけ、国民学校3年以上の学童は、戦火を避けるため縁故があれば縁故で、無い者は集団疎開をおこないました。映画『少年時代』は、この学童疎開を、体験した藤子不ニ夫原作によって映画化したものです。なお、これとは関係無いが、あの對馬丸の悲劇はこの時、昭和19年8月に起こったものです。
 
 「学童疎開」、それは家族がバラバラになり、空腹といじめ、のみ・しらみなどそれは厳しいものだったようです。当時学童疎開を励まし歌ったものに、NHKから流れた国民合唱・『父母の声』(草川信作曲)、♪太郎は父のふるさとへ 花子は母のふるさとへ・・、同じく国民合唱『勝ち抜く僕等小国民』(橋本国彦作曲)♪勝ちぬく僕等小国民 天皇陛下の御ために・・などがあります。同じ頃、「お山の杉の子」が歌われました。
 
昭和 20 年 2 月に放送された「父母のこえ」という歌があります。 学童疎開をテーマにした曲で、悲哀に満ちあふれる隠れた名曲です。 作詞は童話作家の与田準一、作曲は「夕焼小焼」「揺藍のうた」の草川信です。これも、NHKラジオで放送され、東京放送合唱団、東京放送児童合唱団によって歌われました。

父母の声

太郎は父の故郷へ 花子は母の故郷へ
里で聞いたは何の声 山の頂雲に鳥
希望大きく育てよと 遠く離れた父の声

太郎は父の故郷へ 花子は母の故郷へ
里で聞いたは何の声 浦の松風波の音
生命清しく生い立てと 遠く離れた母の声



46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/24(Wed) 07:35
からすの赤ちゃん 
海沼實 作詞 作曲
昭和14年(1939年)

1)
からすの赤ちゃん なぜなくの
こけこっこの おばさんに
あかいお帽子 ほしいよ
あかいお靴も ほしいよと
かあかあ なくのね

2)
めえめえ山羊さん なぜなくの
お里の 母さんに
おねむに なったよ
あまいおっぱい 頂戴ねと
めえめえ なくのね

3)
迷子の鳩さん なぜなくの
みみずく おじさんに
夜路は こわいよ
ほおずき提灯 かしとくれと
ほろほろ なくのね

4)
きつねの赤ちゃん なぜなくの
三日月 おばさんに
木の葉でかんざし 買っとくれ
小石で花ぐし 買っとくれと
こんこん なくのね


戦後昭和30年代、童謡黄金時代によく歌われました。
川田正子ほか多くの童謡歌手が歌っています。
音羽ゆりかご会の本拠地、文京区護国寺の境内の隅に記念碑があります。


47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/29(Mon) 21:55
「お山の杉の子」作詞 吉田テフ子、作曲 佐々木すぐる。歌は安西愛子、加賀美一郎、 寿永恵美子、日蓄児童合唱団。
録音は11月6日に国民合唱。日蓄児童合唱団(音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団)
19年12月 ラジオ放送(国民合唱)東京放送合唱団、東京放送児童合唱団(音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団)

「勝ち抜く僕等小国民」昭和20年1月21日 放送 作詞 上村数馬 作曲 橋本国彦 歌 東京放送合唱団 東京放送 児童合唱団(音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団)

いずれも空襲が激化、国民学校5年生以上は田舎に知人があれば疎開。あければ都内で。何百万人の学童が疎開、このころ歌われた歌。東京放送児童合唱団・・音羽ゆりかご会/音羽小国民合唱団のNHKラジオ放送における別称・・は疎開しないで空襲下の東京に残りライオ放送したという川田正子など。

昭和 20 年 2 月に放送された「父母のこえ」という歌があります。 学童疎開をテーマにした曲で、悲哀に満ちあふれる隠れた名曲です。 作詞は童話作家の与田準一、作曲は「夕焼小焼」「揺藍のうた」の草川信です。

昭和20年2月、日本の歴史で最も厳しい時、敗戦の坂道を転げ落ちるように、2月には硫黄島上陸、陥落、3月10日には一夜にして10万人が亡くなった東京大空襲。

硫黄島陥落、飛行場を作って、戦闘機が護衛したもの。

「父母の声」(作詞 与田準一、作曲 草川信〉

「東京放送合唱団」は空襲の惨蛾の中、疎開もせず放送し続けたという。

48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/29(Mon) 22:07
訂正
「東京放送児童合唱団」は空襲の惨蛾の中、疎開もせず放送し続けたという。

49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/31(Wed) 09:16
■日本の主な童謡歌手■

大正時代以来の、「童謡」は日本の優れた文化遺産です。

詩人、作曲家とともに、そして作曲家に薫陶された多くの優れた童謡歌手が生まれました。
その歌声は今聞いても新鮮で優しく心温まり癒されます。
いまのクラッシックを標榜する歌手もここまでとてもこれほどまでには歌えない・・そんな素晴らしい歌声は時代を超え、世代を超えて歌われ続けることでしょう。

童謡の中には、藤原義江、三浦環など日本の優れた国際的歌手が好んで歌い広めたものも多い。いい加減なものではない。

昭和30年代は、童謡黄金時代、たくさんの童謡と、たくさんの優れた童謡歌手が生まれました。童謡歌手はあたまに大きなリボンをつけて歌っていました。

この、昭和30年代童謡黄金時代に突然、実績のない一部若手の心ない策動によってか、この童謡と真の童謡運動が突然終焉を迎えることになったのは残念なことではないでしょうか。


(戦前)

本居みどり,貴美子、若葉(本居三姉妹)
平井英子
村山(ダン)道子
平山美代子
中山梶子
本多信子
金子一雄
石井亀次郎
小笠原英夫
佐々川浩子
杉山みち子
宮下礼子
尾村まさ子
大川澄子
加賀美一郎




(戦後)

川田正子
川田孝子
川田美智子
大道真弓
中根庸子
秋田喜美子
持田ヨシ子
安田祥子
安田章子
古賀さと子
田端典子
近藤圭子
岩田佐智子
伴久美子
羽崎共子
久保木幸子
関根敏子
井上裕子
桑名貞子
本間千代子
岡田孝







50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/31(Wed) 11:36
戦前も童謡黄金時代、当時も音羽ゆりかご会(海沼實 昭和8年)、小鳩会(河村光陽)など、多くの児童合唱団があった。

弘田竜太郎は、作曲活動のかたわら、NHKラジオの子供番組の指導や児童合唱団の指導、指揮にあたったことで知られる。
(当時、ラジオ放送はNHKのみ)


「東京放送児童合唱団」の歴史

・1943年(昭和18年) - 当時の社団法人日本放送協会 (NHK)が放送合唱団を公募し、たくさんの児童合唱団の中から、スタジオでの作曲家による審査委員会による厳重審査の結果、「音羽ゆりかご会」を「東京放送児童合唱団」として委嘱。

・同合唱団は戦後早々の、NHK連続放送劇「さくらんぼ大将」「鐘の鳴る丘」など、戦中戦後のNHKラジオ放送に大きく貢献した。

・1951年(昭和26年)6月1日 - 放送法施行に伴い社団法人日本放送協会が解散。当合唱団に関する事務は、特殊法人である日本放送協会が承継。

・1952年(昭和27年)3月 - NHK独自の児童合唱団として「NHK東京放送児童合唱団」(通称N児)を編成。
 NHK独自の児童合唱団として再編成され、『みんなのうた』『歌のメリーゴーラウンド』など、同局の音楽番組、教育番組に出演、現在に至る。

・2003年(平成15年)10月 - NHK東京児童合唱団に改称。
 名称変更理由は、同合唱団の前身にあたる「音羽ゆりかご会」や、東京放送(現・東京放送ホールディングス)の関連合唱団と間違われないためとされる。



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