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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




388 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/06/18(Wed) 09:06
トニムノメ

389 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/06/19(Thu) 19:37
「日本橋から」ってハバネラじゃないの?


390 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/02(Wed) 16:06

☆ 戦前の流行歌 ☆
 
ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt


今に残る多くの珠玉の名曲、それは主にレコード歌謡(歌謡曲)が誕生してからの10数年間に生まれたものでした。


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392 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/04(Fri) 08:13
2014年02月05日00:29
佐藤千夜子の『影を慕いて』―にいちゃんの「ナツメロダイアリー」
ttp://blog.livedoor.jp/melody1964/archives/51571665.html


393 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/05(Sat) 23:26
>>387
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

《索  引》 (参考・主なもの)>>353
>>327-329 >>275>>325



394 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/27(Sun) 11:45
☆《丘を越えて》と山田耕筰

古賀は無性に楽しかった。将来の不安などを忘れ最後の青春を謳歌した。こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。限りない青春賛美の曲である。四十六小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。
楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。
(引用)流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽(菊池清麿)    
h ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html



395 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/27(Sun) 11:50
>>394
「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなで当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約二十万台といわれた時代に五十万から六十万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」(堀内敬三『音楽だす」(園部三郎『演歌からジャズへの日本史』)と、
クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。
だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。
歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。

396 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/28(Mon) 21:26
(参 考)萩原朔太郎「流行歌曲について」

教科書で誰でも知っている詩人、萩原朔太郎も「流行歌曲について」で、次のように述べている。

「この十年来、日本の社会が日々に益々憂鬱になり、人心が絶望的に呻吟して、文化がその目的性と希望とを失ひ、年々歳々益々低落の度を深めて来て居るといふ事実である。
例へば少し昔には、古賀政男の名曲「酒は涙か溜息か」や「幻の影をしたひて」等が流行した。
これらの歌曲は、そのもつと前、欧洲大戦前後の好況時代に流行した、外国オペラの明朗な翻訳曲に比すれば、遥かに憂鬱で哀傷的のものであつたが、音楽として尚甚だ上品のものであり、
その精神には健全で浪漫的な青春のリリシズムが情操して居た。」と述べている。

一方、その後の「酒は涙か」から、勝太郎の「ハア小唄」」や,所謂「股旅小唄」等への流行的推移について、
「流行歌曲の種属は二つに別れる。
即ちセンチメンタルのものと、ナンセンス的のものとである。然るに此等の唄には、ナンセンスとしての“明朗性”もなく、センチメンタルとしての“抒情性”もない。」
「これもまた前時代の歌曲に比すれば、その品位のないことに於て、野趣的に卑俗化したことに於て、時代の文化的低落を語る一実証と見るべきだつた。」と。

萩原朔太郎「流行歌曲について」(「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社1997)




397 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/28(Mon) 22:26
>>393
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

《索  引》 (参考・主なもの)>>353

>>390 戦前の流行歌 
>>392 佐藤千夜子の『影を慕いて』―にいちゃんの「ナツメロダイアリー」
>>394-395 《丘を越えて》と山田耕筰
>>396 (参考)萩原朔太郎「流行歌曲について」



398 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/30(Wed) 22:17
☆インテリ層と古賀メロディー(昭和30年史)

戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして9月18日未明、満州事変勃発。そして次のように記されている・・


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・


この若き「藤山一郎」の歌う「古賀メロディ」の青春の息吹。
怒涛の如くに登場しただろう、それがインテリ層にであったことは、若き山田耕筰や、萩原朔太郎などからも窺い知ることができるのだが、特質に値するだろう。

昔の時代の人は貧しくも幸せだったろうと思うと同時に、80年を経た今日に至るも、ジャンルを越えていろいろな場面で、繰り返し、繰り返し根強く歌われ続け
演奏され続けていることはすごいことではないでしょうか。

(参考)
毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)
「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
  人物クローズアップ 古賀政男、「酒は泪か溜息か」大ヒット
  銀座で東北の惨状を訴える学生たちの写真も。




399 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/30(Wed) 23:16
>>398

(参考)
日本の歴史は飢饉の歴史とも言われる。「古賀メロディ」の登場した83年前、日本はだ草深く、そしてまだ貧しかった時代であったろう。

昭和6年(1931)、日本は、今のモノのありあまる飽食の時代には考えることも出来ない、日本における最後の飢饉、昭和恐慌の下、太平洋戦争に至る遠因ともいわれる、昭和東北大凶作に苦しんでいた。
宮沢賢治の『雨にも負けず』は、このときのメモで手帳からみつかったもの。

(なお、日本で『米が余る』などといわれるのは、戦後も20年以上たった昭和40年代後半、昭和46年のことだった。
昭和6年の冷害飢饉で、大きな飢饉に見舞われた、青森十和田の三本木にできた農業試験場で何千種もの品種を交配し作った「藤坂五号」という
冷害に強い品種が出来たからだと言われる。)

そして、多くの貧しい東北の貧農出身の兵隊が満州事変に、日本の農村は疲弊してゆく。

「古賀メロディ」は、いいかげんなものではなく、「昭和」前半、そこにある多くの『哀しみ』とともに、まじめ受け止め生きた重いものを感じないわけには
いかないだろう。

こうした重苦しい世相の中で人々に圧倒的に迎えられた「古賀メロディ」。


参考に「昭和東北大凶作」とは・・

・山下文男著「昭和東北大凶作」
 ttp://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/febe175a3b63de2e0f8365fbfc9bc6bb
 ttp://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html

・娘ことごとく売られし村
 ttp://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ab0d.html


400 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/31(Thu) 07:18
〜マンドリンのまち前橋〜朔太郎音楽祭HP  h ttp://www.sakutaro-m.jp/

401 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/31(Thu) 07:39
中山晋平は、古賀政男の芸術を「感傷性と平易(大衆性)」と特徴づけた。

クラッシックを含めて、音楽表現するとき、いくつかの具体的で簡潔な表現が用いられる。
それが、“平易性(大衆性)”、“明朗性”、“抒情性”などである。
中山晋平、山田耕筰、萩原朔太郎など素養のある、実績のある音楽家・芸術家の使用する音楽表現のための基本用語である。

もちろん、クラッシックの香りがするなどとは言わない、そうした素人表現を使うことは無い。
具体的な音楽表現用語ではないから。

402 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/31(Thu) 08:37
サロンコンサート 歌曲の調べ ttp://www.cf.city.hiroshima.jp/higashi-cs/kakyoku/46/
 ・朗読/日本歌曲を支えた詩人たち?萩原朔太郎(松本憲治/音楽)
  詩集「月に吠える」より、詩集「純情小曲集」より、他

 ・萩原朔太郎の詩による日本芸術歌曲
  「萩原朔太郎による四つの詩」から「笛」、「游泳」/團伊玖磨・作曲
  「こころ」/別宮貞雄・作曲  「ほおずき」/三善晃・作曲



403 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/31(Thu) 08:57
男声合唱組曲「朔太郎の四つの詩」
作詩:萩原 朔太郎 作曲:清水脩  1.五月の貴公子 2.孤独 3.陽春 4.緑色の笛              
ttp://nicoviewer.net/sm8104162



404 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/01(Fri) 07:42
明治大学 大学史の散歩道
 明大人の昭和歌謡史群像 ―古賀政男から阿久悠、宇崎竜童に到る系譜―
 ttp://www.meiji.ac.jp/koho/desukara/sanpomichi/2009/31-shouwa.html




405 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/01(Fri) 07:55
(参考)代々木上原駅南口通り h ttp://www.uehara-minamiguchi.com/
小田急線代々木上原駅の南口、ホーム沿いの路を『音楽村通り』といいます。
古賀政男音楽博物館は、代々木上原駅(南口1)、『音楽村通り』を右に進み駅前交番前、交差する「井の頭通り」沿いです!。

なお、「井の頭通り」は拡幅され、当時の古賀政男邸のあったころの面影はそこに見当たりません。


406 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/01(Fri) 19:48
(参考)
『青春よ永遠に 明治大学マンドリン倶楽部80年の歩み』(同倶楽部OB会、2002)
『大学史の散歩道』M-style No.027(2009年6月20日発行)



407 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/05(Tue) 12:31
>>401
クラッシックの香りというと・・アロマチャージ ピースフル クラッシック ジャスミンの香りなどの、アロマといわれるものと混同される。


408 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/05(Tue) 18:29

藤山一郎『デッサンの確かな作品群』(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))



409 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/07(Thu) 16:34
藤山一郎は、昭和4年(1929)4月、東京音楽学校予科声楽部に入学 。昭和6年(1931)、3年生、20歳の時、アルバイトで「キャンプ小唄」「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」など歌った。
昭和8年(1933)3月に東京音楽学校を主席で卒業、ビクター専属になった。

コロムビアでアルバイト中、アルバイト禁止で困ってる時に、ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていたのだ。
ビクター時代の藤山は『燃える御神火』、『僕の青春』などがヒットした。
だが、音楽学校在校中に吹込んだ「古賀メロディー」ほどの圧倒的大ヒット曲には恵まれなかった。
主に佐伯孝夫、佐々木俊一コンビで、10分の1以下だった。



藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。

なお、20代を、若き古賀政男とともにし、溢れるように、「古賀メロディ」を、青春を、高らかに謳いあげていた、全盛期の若き藤山一郎。

一方、抑留復員後に復活した戦後の、すでに30代も後半になっていた藤山はさすがに全盛期の溌剌とした若き藤山一郎ではなかったろう。

そして昭和29年、この「歌う昭和史」藤山一郎はレコード歌手を引退し、NHKの嘱託となった。




410 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/07(Thu) 16:39
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でしたと書いている。




411 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/07(Thu) 17:05
古賀政男音楽博物館

「古賀政男音楽博物館」には、平成25年度までに、大衆音楽に貢献した歌手、作曲家、詩人・作詞家、演奏家、編曲家など、山田耕筰、弘田竜太郎など含め、殆どすべて221人が顕彰されています。
地下一階の「音楽情報室」では、顕彰者の作品をパソコンで計7000曲選んで聞くことが出来ます。(入館料500円だけ。)

古賀政男については、別にパソコンで1000曲以上選んで聴くことができます。
新宿駅より小田急線・東京メトロ代々木上原駅前です。行ってみましょう。

大衆音楽の殿堂 顕彰者一覧
h ttp://www.koga.or.jp/information/sanctuary/sanctuary_h25.html
h ttp://www.koga.or.jp/


☆大衆音楽の殿堂 主な顕彰者(参考) (平成25年現在)

△歌手
藤原義江、佐藤千夜子、徳山 l(たまき)、関種子、藤山一郎、松原操、楠木繁夫、淡谷のり子、二葉あき子、東海林(しょうじ)太郎、上原敏、霧島昇、ディックミネ、松平晃、伊藤久男、
渡辺はま子、中野忠晴、榎本健一、菊池章子、灰田勝彦、
安西愛子、松田トシ、近江俊郎、小畑実、岡本敦郎、坂本九、森繁久弥、美空ひばり、ペギ‐葉山、初代コロムビアローズ、三橋美智也、島倉千代子、三波春夫、春日八郎、村田英男、北島三郎、・・・

△詩人・作詞家
野口雨情、西條八十、佐藤惣之助、サトウハチロー、島田芳文、藤浦洸、長田幹彦、高橋掬太郎、島田欣也、佐伯孝夫、野村俊夫、藤田まさと、菊田一男、星野哲郎、なかにし礼・・

△作曲家
滝廉太郎、岡野貞一、本居長世、山田耕筰、中山晋平、弘田竜太郎、梁田貞、杉山長谷夫、堀内敬三、佐々紅華、古賀政男、江口夜詩、佐々木俊一、仁木他喜雄、万城目正、竹岡信行、服部良一、古関祐而、
仲田喜直、米山正夫、長津義司、大村能章、八洲秀章、吉田正、中村八大、宮川泰、船村徹、遠藤実・・・
その他(計221名)



412 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/08(Fri) 16:04
夏目漱石の小説「三四郎」にも登場する、本郷中央教会は日本基督教団に所属する、元日本メソジスト教会の教会で120年以上の歴史を持つ。
日本最初のパイプオルガンが設置され、日曜日にパイプオルガンと尺八や琴の和洋折衷の音楽界が開催されて、一流音楽家が演奏するようになる。
ウェールズ出身の教会音楽家エドワード・ガントレットが聖歌隊を指導した。作曲家岡野貞一は本郷中央教会のオルガニストとして長年仕えた。
ガントレットは、1898年、日本女性山田ツネと結婚、彼女の実弟は山田耕筰であり、長男のJ.O.ガントレットも青山学院大学で英語を教えるかたわら聖歌隊を指導した。.
佐藤千夜子、山田耕作(ガントレットの義弟)、外山国彦、中山晋平なども出入りしていた。東京音楽学校に物足りない佐藤は殆どこちらに通った。

昭和の始めの、佐藤千夜子、山田耕作、中山晋平など大衆音楽を作った音楽家たちのつながりがここに見える。


413 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/08(Fri) 17:04
>>412
オルガンの文化史
h ttp://kawayama2.blog135.fc2.com/blog-entry-30.html

414 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/10(Sun) 21:08
(参考)
流行歌年表・・君が代(明治13年)から、昭和30年まで

h ttp://suwiun.web.fc2.com/newpage77.html


415 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/15(Fri) 10:36
>>407
アロマじゃないから「香り」じゃだめなんだね!。

416 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/15(Fri) 23:34
明確な特長がないとな!

417 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/15(Fri) 23:38
>>353

日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

《索  引》 (参考・主なもの)>>327-329 >>275>>325



418 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/16(Sat) 09:38
波浮の港 h ttp://homepage2.nifty.com/harlekin/habunominato.htm

419 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/16(Sat) 10:55
>>416

洋楽の殆どはクラッシック音楽を基本としてるのは常識。したがって、クラッシック音楽そのものが、なんらの特長、利点になるためには、何らかの明確な特長を兼ね備えなければならないだろう。

世の中には、「クラッシック音楽」そのものでもなく、かといって格段何らかの単純で明快な特長を持つわけでもないものも少なくない(クラシック紛い)。

音楽家たちの求めるものは、そうした一般的・表面的なものではなく、心に染み入る一歩突き進んだものではないだろうか。

一般的に「クラッシックの香り漂う」とか、「格調高い」とかだけのものもある。

しかし、表面的で心に残るものがなければ、決して長く世代を超えて受け容れられるものとはならないだろう!。

音楽には何より心に染み入る一歩突き進んだもの・・「詩」の心が何にも増して大切なことを改めて気ずかざるを得ない。


420 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/28(Thu) 10:18
(参考) 横浜情報文化センター放送ライブラリー
横浜情報文化センター放送ライブラリーは、NHK以外の民法の記録されているラジオやTV放送を無料でみることができる施設。
NHKについてはNHKアーカイブスや各放送局、放送博物館。

『知ってるつもり?!』は、1989年10月8日から2002年3月24日まで、日本テレビ」系列にて、毎週日曜日21:00〜21:54に放送された。
1990年の一部/
·7月29日 カーネギー
·8月5日 棟方志功
·8月12日 古賀政男
·8月19日 バロン西(西竹一)
·8月26日 湯川秀樹
横浜情報文化センター放送ライブラリーで視聴可


421 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/28(Thu) 13:44
〔渋谷区コミュニティバス〕(ハチ公バス)

【丘を越えてルート】(上原・富ヶ谷ルート)(京王バス 電話:03-5300-6011)
渋谷駅と代々木上原駅を結び、美術館などの区施設を経由します。

渋谷駅から古賀政男音楽博物館と代々木上原駅〜渋谷駅を結ぶ便利なコミュニティバスです!。
h ttp://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/com_bus/


@渋谷駅西口 発
A東急百貨店本店前
B松濤美術館入口
C東大前
D東大裏
E富ヶ谷二丁目
F富ヶ谷交差点
G上原一丁目(富ヶ谷図書館入口)
H上原二丁目(上原出張所入口)
I古賀音楽博物館
J代々木上原駅

S東急百貨店本店前終点

ハチ公バス(丘を越えてルート)は、古賀政男作曲、藤山一郎歌唱の名曲にちなみ、ルート名となった。
h ttp://s-ohtsuki.sakura.ne.jp/privaterailway/odakyu/OdawaraH2403/DaiKukan01_Shinjuku-Shimo_Kitazawa-Shin_Yurigaoka/Kukan01_Shinjuku-Shimo_Kitazawa-Umegaoka/Sub1_Shinjuku-Sanguu_Bashi-Yoyogi_Uehara/newpage06-S.html



422 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/28(Thu) 22:11
(参考)
(児童書)有吉忠行他著「せかい伝記図書館35」(いずみ書房2012.6.)
 与謝野晶子、石川啄木--寺田寅彦・吉田茂・河上肇・滝廉太郎・小山内薫・斎藤茂吉・
高村光太郎・志賀直哉と武者小路実篤・山本五十六と東条英機・北原白秋・谷崎潤一郎・山田耕筰・山本有三・梅原龍三郎

(児童書)有吉忠行他著「せかい伝記図書館36」(いずみ書房2012.6.)
 宮沢賢治、湯川秀樹- 菊池 寛 芥川龍之介 吉川英治 松下幸之助 宮城道雄 川端康成    
小林多喜二 棟方志功 古賀政男 林芙美子 朝永振一郎 太宰治 黒沢明 三島由紀夫
   


423 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/28(Thu) 22:21
>>422

(児童書)有吉忠行他著「せかい伝記図書館」(いずみ書房2012.6.)

h ttp://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki.html

424 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/28(Thu) 22:25
>>423

いずれも世界の第一級の人物ですね!。

425 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/29(Fri) 22:58
世界の、歴史の残る偉人!。

426 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/29(Fri) 23:00
歴史に残る偉人!。


427 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/10(Wed) 08:59
>>423-426
古賀政男(1904−1978)
巻末小伝?せかい伝記図書館?オンラインブック(36)
h ttp://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden36-09.html



428 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/10(Wed) 09:00
>>423-426
古賀政男(1904−1978)
巻末小伝 せかい伝記図書館 オンラインブック(36)
h ttp://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden36-09.html


429 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/12(Fri) 23:00
(参考)
財団法人古賀政男音楽文化振興財団(監修)/森一也(解説)『オリジナル版古賀政男大全集CD13枚』
古茂田信男・島田芳文・矢沢保・横沢千秋『日本流行歌史』社会思想社(昭和45年9月)




430 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/13(Sat) 09:21
(参考)
全音 出版部 編「全音歌謡曲大全集1」(明治17年−昭和22年)
  前・間・後奏、オブリガート付 全歌詞・唄い込み・完全収録
  出版社:全音楽譜出版社


全音歌謡曲大全集1(明治17年−昭和22年)
全音歌謡曲大全集2(昭和22年−昭和34年
以後もあり。

431 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/13(Sat) 20:22
>>378-381
中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原生活秋 作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。
以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。

晋平が、昭和27年の暮、東京の映画館で黒沢監督の名作「生きる」を観ます。主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

雨情会会長だった中山晋平は、昭和27年12月2日、東京・井の頭公園に野口雨情の記念碑完成、除幕式を挙行する。
除幕式に出席した帰り、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

その後東京で膵臓炎発病。母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした28日後、今から62年前の昭和27年(1952)12月30日、中山晋平はは国立熱海病院で65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは《誰でも歌える歌》でした。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

告別式は翌年、昭和28年1月16日、築地本願寺にて、日本ビクターの社葬として行われた。
作曲家佐々木俊一の指揮するオーケストラによる「哀悼歌」、四家文子の独唱に続いて、ビクター児童合唱団、音羽ゆりかご会による「てるてる坊主」、最後には「カチューシャの唄」が歌われた。



432 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/14(Sun) 10:02
明大マンドリン倶楽部の古賀の愛弟子でテイチクで仕事をしていた宮崎良治氏が、宮本旅人のヒット歌謡『旅姿三人男』の企画を担当していた。
宮本旅人には「ほたる」(作詞 宮本旅人、作曲 本居長世)などの作品がある。

この宮崎氏の葬儀に病をおして出席した古賀政男を、宮本旅人が撮影した写真が、上記の貴重な写真のようです。
この時古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。
それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。


宮本 旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)



433 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/14(Sun) 10:04
宮本旅人 著「レコード芸術入門 : 作詞家・作曲家・流行歌手 」シンフオニー楽譜出版社
1939


434 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/14(Sun) 13:01
☆古賀政男に関する文献☆
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>362-369 古賀政男に関する文献
>>423,>>429-430,>>432-433


435 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/14(Sun) 13:25
>>417
>>353

日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

《索  引》 (参考・主なもの)>>327-329 >>275>>325




436 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/15(Mon) 21:37
佐藤千夜子
「いのち短し 恋せよ“おとみいー”(乙女)」 少しなまった甲高い歌声が部屋じゅうに響く。ここは佐藤千夜子の生家である。
千夜子は本名を千代といい、1897年(明治30)、山形県天童市に生まれた。将棋の駒と温泉で知られる町である。14歳で上京し、普連土女学校から青山女学院へと進んだ。4年間の浪人後、23歳であこがれの東京音楽学校(芸大)に入学したものの授業に満足できず、中央会堂の聖歌隊員となった。賛美歌を独唱して中山晋平に見いだされ、27歳のとき、帝国ホテルでの中山晋平作品発表会で本格的な歌手としてデビューした。「影を慕いて」は彼女の歌で、古賀政男が世に出るきっかけをつくった。
1928年31歳のとき、日本ビクターで「波浮の港」を吹き込み、日本のレコード歌手第1号として脚光を浴びた。翌年に歌った「東京行進曲」は、映画主題歌第1号となった。本格的なオペラを勉強するため33歳でイタリアへ渡り、冒頭の歌詞で始まる「ゴンドラの唄」など4曲を、ミラノ座管弦楽団の伴奏でレコード化したという。
今日、「波浮の港」は藤原義江、「影を慕いて」は藤山一郎を連想しがちだが、ともに佐藤千夜子が“元祖”なのである。

437 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/21(Sun) 11:58
12月30日は作曲家中山晋平の命日です。

今から62年前の昭和27年(1952)12月30日、中山晋平はは国立熱海病院で65歳の生涯を閉じます。
晋平が目指したのは《誰でも歌える歌》でした。

宮本旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)
には、古賀政男の序文があります。






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