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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




628 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/20(Mon) 19:36
一般に歌謡曲・流行歌というとクラッシックと比べて一段低い音楽という捉え方をしがちです。
「歌謡曲」とは歌詞をもつ歌(歌曲)の意味です。「国民歌謡」の歌謡などと繋がります。
萩原朔太郎は所謂流行歌について「流行歌曲」という言葉を使っています。
昭和の作曲家は古賀政男、江口夜詩など、クラッシックから出発しています。

■流行歌・歌謡曲の意味について
大正から昭和にかけて、「新作小唄」「流行小唄」「新作歌謡」「新民謡」などいろいろな名称が出てきて、言葉としては演歌は使われなくなります。そのかわりに、「歌謡曲」という言葉が普及します。
「歌謡曲」という言葉は、もともとは、クラシックのリート(歌曲)を指していました。
たとえば、藤山一郎(1911-1993)が昭和初期に本名増永丈夫(たけお)でドイツリートを歌ったときに歌曲を指す意味で「歌謡曲」という言葉が使われています。
歌謡曲という言葉を使っていても、流行歌の意味では使っていなかったのです。
NHKラジオ放送では、昭和10年代に入ると「国民歌謡」が始まり、「歌謡曲」という名称は一般的になっていきました。

流行歌曲について 萩原朔太郎
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47046_30961.html



なお、以下参考になります。

・流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽《近代日本流行歌の成立-昭和歌謡の源流》
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub9.html




629 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/21(Tue) 07:51
人生の苦悩から始まった古賀メロディ。一方、コンクールに入賞?して、英国留学を目指したものの、なぜ英国なのか知らないが、山田耕筰にダメ出しされ挫折。

挫折に始まった古関・・最初から燃え尽きてしまった古関。

何と言っても、古関作品の残念なのは、断片的中途半端で一貫した「テーマ」というのがみあたらないということだろう。

古関の場合、戦後間もないころのラジオドラマ作品やテーマ音楽などに注目すると、いい作品がたくさんある。

しかし、ネットなどに、戦前を含めて、元の間違った評伝などがそのままコピーされたかのように、史実のに基本的間違いも同じでいるのは大変残念なことではないだろうか。
間違いから出たものが正しいものにはなりえないのだ。

たとえば「高原列車は行く」その他、戦後を含めマイナ−なごくありきたりの普通の歌謡曲などに「クラッシック」(クラッシックの香り)とかいう一語をつけて格上げされるべきでない。

「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものではないはずなのだが。

「クラッシックの香り」だとか、「クラッシック紛い」はいらない!。


(参考までにトイレの芳香剤に「クラッシックの香り」(クラッシックフローラ)というのがある。)



やはり歌謡曲(レコード歌謡)というのは「詩」があって、詩で決まってしまうものだろう。「曲」は「詩」を超えることができないのだ。





630 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/21(Tue) 08:14
洋楽の殆どはクラッシック音楽を基本としてるのは常識。したがって、クラッシック音楽そのものが、なんらの特長、利点になるためには、何らかの明確な特長を兼ね備えなければならないだろう。

世の中には、「クラッシック音楽」そのものでもなく、かといって格段何らかの単純で明快な特長を持つわけでもないものも少なくない(クラシック紛い)。

音楽家たちの求めるものは、そうした一般的・表面的なものではなく、心に染み入る一歩突き進んだものではないだろうか。

一般的に「クラッシックの香り漂う」とか、「格調高い」とかだけのものもある。


しかし、表面的で心に残るものがなければ、決して長く世代を超えて普遍性をもって受け容れられるものとはならないだろう!。

音楽には何より心に染み入る一歩突き進んだもの・・「詩」の心が何にも増して大切なことを改めて気ずかざるを得ない。

631 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/21(Tue) 08:31


『六甲颪』(佐藤惣之助作詞、古関祐而作曲)は、昭和11年(1936)に、『大阪タイガースの歌』としてつくられ,中野忠晴の歌でレコード化されるも、殆ど知られなかった。

一般に歌われるようになったのは戦後、昭和40年代後半で、昭和47年(1972年)に、朝日放送ラジオ番組『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で、中村が歌ったことによる。

1970年代の多くのファンに広めら、昭和60年(1985年)にタイガースが日本シリーズで優勝してからは、全国的に知られるようになった。
『六甲颪』改題は中村の案と言われる。

·中野忠晴 - 1936年(昭和11年)『大阪タイガースの歌』殆ど歌われなかった。
·若山彰  - 1961年(昭和36年)『阪神タイガースの歌』改題後初録音
·中村鋭一 - 1972年(昭和47年)『六甲颪』 朝日放送アナウンサー




632 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/25(Sat) 22:35
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」

と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平(晋平節)の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。

その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。
それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。


宮本 旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)

宮本旅人 著「レコード芸術入門 : 作詞家・作曲家・流行歌手 」シンフオニー楽譜出版社1939

この序文に、この若き日の古賀政男と「中山晋平先生」、両巨匠の最初の歴史的出会いのことが触れられていればと思うのです。



633 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/30(Thu) 10:26
☆古賀政男とタンゴ

古賀政男は、クラッシック音楽を土台に世界の音楽を広く取り入れた作曲家で知られる。

特にタンゴで古賀政男の世界における存在は大きなものが有る。
佐藤千夜子が歌った「日本橋から」(昭和6年1月 ビクタ―)は日本最初の和声タンゴとして知られる。

昭和14年秋、古賀政男は,外務省の音楽文化親善使節として渡米。ハワイ、アメリカ、アルゼンチンを訪問。
1939年(昭和14年)秋、アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、15分間放送された。
古賀政男アルゼンチンを訪問。Mariano Moresと親交を結び、Moresの楽団演奏で古賀の
「青い背広で」「東京ラプソディ」「望郷の歌」を録音。

古賀の提供した「荒城の月」の楽譜を元に、Tangueraを作曲。 古賀は、アルゼンチンのタンゴのテンポの速さに驚く。

タンゲーラ(Tanguera)とは、マリアーノ・モーレスが作曲したタンゴである。
タンゲーラは、「タンゴ的なもの」という意味である。タンゲーラ(Tanguera)とは、マリアーノ・モーレスが作曲したタンゴである。
「荒城の月」と似たようなメロディーが出てくることでも知られているが、このとき古賀政男の提供したもの。
古賀政男には「荒城の月」の編曲もある。

タンゴダンスにもよく用いられ、よく聴かれる曲である。
マリアーノ・モーレス楽団の演奏が最もよく聞かれるが、他の楽団の演奏もある。

(参考)私のタンゴ年表(保坂)
ttp://members.optusnet.com.au/~yhosaka/mytangohistory.html







634 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/02(Sun) 11:37
>>633

(参考)古賀政男と日本タンゴの歴史

(保坂「私のタンゴ年表」 から参考抜粋)


明治20年 1888
Tangoをタイトルにした楽譜・span class=SpellE>Baltoro・/span>が出版され、これをタンゴ発祥の起源とする。
明治22年  1890
日本最初の音楽学校として1890年5月12日に開校された。


ヤマハオルガン製作所が学校向けオルガンの大量生産を行う。

1904
古賀 政男(こが まさお、1904年11月18日 - 1978年7月25日)
大正14年 1925
日本初のラジオ放送は1925年3月22日午前9時30分、社団法人東京放送局(JOAK)より発信。
昭和2年 1926
目賀田綱美男爵、6年に及ぶパリ遊学より帰国。アルゼンチン・タンゴを日本に伝える。


Bianco/Bachicha, Manuel Pizaro、O.T.Victorなどのレコード。


Caminito・・・Fuan De Dios Filiberto 作曲
昭和4年  1929
影を慕いて・・・古賀政男作曲


和製タンゴ「君恋し」大ヒット。作曲・佐々紅華 /作詞・時雨音羽 ,


戦後フランク永井がリバイバル。
昭和5 1930
「アルゼンチンタンゴの踊り方」森潤三郎著発行。上流階級にダンス流行。

タンゴも踊られる。
昭和6年 1931
チェロ奏者の松原興輔、日本初のタンゴ楽団を結成、京橋の日米ダンスホールで出演。

昭和7年 1932
東京音楽学校に作曲科が開設。
昭和8年
1933.5.19 保坂佳秀誕生
伴薫(ピアニスト)正統派のタンゴ楽団として結成。NHKラジオ、国華ダンスホールで活躍。


早川真平、池田光夫、見砂直照を輩出。


桜井潔(バイオリン)タンゴ楽団結成。赤坂フロリダで活躍。
昭和11年 1936
東京ラプソディ・・・古賀政男作曲
昭和12年 1937
高橋忠雄、アルゼンチン訪問。
昭和13年 1938
淡谷のり子Poemaを録音。藤原義江Alma de Bandoneon を録音。藤山一郎、ディックミネ

昭和14年  1939
秋、古賀政男,外務省の音楽文化親善使節として渡米。ハワイ、アメリカ、アルゼンチンを訪問。

昭和14年秋、アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、15分間放送された。


古賀政男アルゼンチンを訪問。Mariano Moresと親交を結び、Moresの楽団演奏で古賀の


「青い背広で」「東京ラプソディ」「望郷の歌」を録音。古賀の提供した「荒城の月」の楽譜


を元に、Tangueraを作曲。 古賀は、アルゼンチンのタンゴのテンポの速さに驚く。


1935年から、アルゼンチンではテンポの早いD'Arienzo楽団が人気を博していた。
14
1939
江戸川らん子La Cumparsitaを録音。


日本ビクターよりタンゴアルバム発売。高橋忠雄の選曲と解説。「Argentine Album」141ページ
昭和15年 1940
皇紀2600年
保坂佳秀青柳尋常小学校い入学。担任三原先生
昭和16年 1941
Malena ・・・Lucio Demare(9 August 1906 - 6 March 1974)作曲。
昭和16−20年
1941-1945
12月8日太平洋戦争

635 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/02(Sun) 22:51
参考

>>623-629



>>629
>古関の場合、戦後間もないころのラジオドラマ作品やテーマ音楽などに注目すると、いい作品がたくさんある。

しかし、ネットなどに、戦前を含めて、元の間違った評伝などがそのままコピーされたかのように、史実のに基本的間違いも同じでいるのは大変残念なことではないだろうか。
間違いから出たものが正しいものにはなりえないのだ。

たとえば「高原列車は行く」その他、戦後を含めマイナ−なごくありきたりの普通の歌謡曲などに「クラッシック」(クラッシックの香り)とかいう一語をつけて格上げされるべきでない。

「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものではないはずなのだが。

「クラッシックの香り」だとか、「クラッシック紛い」はいらない!。


(参考までにトイレの芳香剤に「クラッシックの香り」(クラッシックフローラ)というのがある。)



>>401
クラッシックを含めて、音楽表現するとき、いくつかの具体的で簡潔な音楽美学表現が用いられる。
それが、“平易性(大衆性)”、“明朗性”、“抒情性”などである。
中山晋平、山田耕筰、萩原朔太郎など素養のある、実績のある音楽家・芸術家の使用する音楽表現のための基本用語である。

もちろん、クラッシックの香りがするなどとは言わない、そうした素人表現を使うことは無い。
具体的な音楽表現用語ではないから。


636 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/10(Mon) 09:41
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

☆日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50

☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50

☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50

☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50

☆【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50




637 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/10(Mon) 09:43

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

☆日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50

☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50

☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50

☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50

☆【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50




638 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/10(Mon) 10:51
☆懐かしの銀座を歌った歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=510311914&ls=50

☆名前を名にした歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=513078845&ls=50



639 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/11(Tue) 10:42
☆昭和歌謡が好きな人集まれ!

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50


☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110


640 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/18(Tue) 20:29
「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」・・・『古賀メロディ』の由来


昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」

と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平(晋平節)の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。

その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

古賀メロディの原点であり、不朽の名曲『影を慕いて』は、美しき日本の歌で、『波浮の港』とともにクラッシックの演奏会のプログラムにもよく見受けられるスタンダード。

今や「古賀メロディ」を超えて『日本の名曲』になっている。

優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽(映画主題歌)でもある。

人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。

多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品。

歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。

詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴く人の心を捉えて離さない。


人々は、それを中山晋平の【晋平・節】に対し、【古賀・メロディ】と呼んだ。

   “メロディーこそは音楽の本質”(モーツァルト)

その誰にも真似のできないメロディ・・その哀調を帯びた、青春の息吹を感じさせる日本人の琴線に触れるメロディ。

【古賀メロディ】とは、当時の主流だった中山晋平の【晋平節】に対するもの(称号)であり、「メロディ」をつけるのはただ一つ【古賀メロディ】だけ。


(作曲家の後ろに何でも、JPOP、リズム系までなんでもメロディをつけて呼ぶのは、違和感を覚える。これは戦後昭和40年代以降のナツメロ番組ブームの中でのことで、実際にそう呼ばれていたわけではないことに注意。



古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」といって、詩を大切にした人。

曲作りに人並み外れて熱い想いをかけていた。古賀政男が作曲の醍醐味を知るのは、詩人・佐藤惣之助との出会いであったと自伝にある。

古賀政男ほど多くの詩人との結びつきの深い者も知らない。

『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・、古賀メロディーは、佐藤惣之助〈1932〜〉、西條八十(1933〜)、サトウハチロー〈1935〜〉など、詩人との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。

佐藤千夜子の歌で世にでた二つの名曲、《波浮の港》と《影を慕いて》・・、

いずれも、今でも根強く愛され歌われ、演奏されている《日本の名曲》。

そして両方とも、NHKテレビで「日本の名曲10曲」として放送された押しも押されもしない「日本の名曲」である。

古賀メロディーというのは、その殆どが青春を謳った青春歌謡です。

古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。

それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。

宮本旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)





641 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/21(Fri) 19:57
樹木希林さんを悼む

樹木希林さんが亡くなった、かってテレビの番組で「人生の並木路」について語った・・


もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、『人生の苦悩』を歌った歌の特集があった、内容は『神田川』などだった。

いかに昭和元禄、物の有り余る飽食の時代、親の作った弁当を食べずコンビニ弁当を食べる飽食の時代といえど、もはや“四畳半フォーク” が゛ “人生の苦悩”じゃ、世も末だなと思いました。

『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月8日、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」(1935))の主題歌。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、昭和30年代初めまで長く貧しい時代が続きました。戦前となれば信じられない貧しい時代もはやだったでしょう。

昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。

まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。

昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。

今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。

昔は昭和戦前まで、「二十四の瞳」に描かれてるように、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだされる、そんな時代であったことでしょう。

このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。
日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、大切なものがだんだん失われてゆくのは大変残念なことです。

家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。
支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。

どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。
この歌は、日本人が忘れかけていたこと大切なことを思い出させてくれます。

「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。

まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない詩です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり、作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。
心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。


古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。




642 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/07(Sun) 12:36
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


ラジオ番組について

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=351156284&ls=50



643 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/19(Mon) 22:04
☆タンゴ100年、日本におけるアルゼンチンタンゴの歴史と古賀政男

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=542627758&ls=50

644 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/08(Sat) 20:51
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。

645 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/10(Mon) 10:12
藤山一郎(1911.4.8-1993.8.21)が初吹込したのは、当時唯一の官立の音楽学校だった東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)在学中だったが、非常に完成された唱い方だった。昭和6年(1931)、まだ20歳になったかならないかの若さである。古賀政男27歳。まだ東京音楽学校本科2年生のアルバイト吹き込みで30曲あまりを吹き込んだのだった。

「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・これら藤山一郎の歌で世に出た曲は金融恐慌、満州事変の勃発、東北大凶作、日本が貧しく、苦難の時代の中で世に出た。同時に、「古賀政男」「藤山一郎」二人の原点でもある。

戦前の藤山一郎の、「丘を越えて」「青い背広で」「東京ラプソディ」「春よいづこ」など「古賀メロディー」の青春を高らかに歌いあげている。青春を謳歌する若く溌剌とした張りのある美声は古賀政男の数々の青春歌謡に相応しい。藤山一郎なくして古賀メロディの青春はなかった。しかし、藤山一郎は昭和18年以降、南方慰問に駆り出され、外地での抑留生活の空白の後日本に帰った浦島太郎、藤山の復員を待ち構えていたNHK。復員を初めて伝えたNHKの番組がきっかけで、以後、藤山はラジオ放送との係わりを深めてゆく。

「青い山脈」(1949)など藤山一郎の戦後の歌は、こうしてかっての若々しい頃から30代後半を過ぎ40代近くなって、あの若く溌剌さは消え去り、その5年後、昭和29年(1954)には、レコード歌手を引退、NHK嘱託となった。

最近の歌番組では、「昭和」というのはたくさん出てくるのだが、昭和にまだ足のつま先が残っただけの昭和末期、昭和50,60年代。


昭和は大正15年・昭和元年(1926)12月25日から、昭和64年(1989)1月7日まで62年14日、明治大正を合わせた60年より長い、世界的にも一番長い。

昭和元年は1週間しかなく、昭和は実質昭和2年から。レコード歌謡は昭和2年から3年にかけて始まった。「昭和」の由来は、書経堯典の「百姓昭明、協和萬邦」・・国民の安寧のもとに国際平和の実現を目指す・・ものだったが、実際は戦乱に明け暮れ貧しい民だった。そんな昭和の幕開け、まだ「青空」とか「アラビアの唄」などまだあちらの歌くらいしかなかった時代だ。

「歌う昭和史!」と言われる「藤山一郎」でさえ、「青い山脈」とか、戦後の歌しか知らない人、この「歌う昭和史」藤山一郎も戦後の歌手だと思っている人が多いのは残念な事。

「昭和」とは60年を超える明治大正を合わせたより長いのだ。




646 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/10(Mon) 10:18
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

キャンプ小唄   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて     (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄    (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932年2月 井上静雄名
影を慕いて    (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘      (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜 (今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲)   1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1.8 (日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘    (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊     (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ    (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)       1941.3
歌えば天国   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)     1941,7
リンゴが紅い  (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場    (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝) 1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖      (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952


647 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/12(Wed) 00:44
ビクター時代の藤山は『燃える御神火』、『僕の青春』などがヒットした。
だが、音楽学校在校中に吹込んだ「古賀メロディー」ほどの圧倒的大ヒット曲には恵まれなかった。
主に佐伯孝夫、佐々木俊一コンビで、10分の1以下だった。

ビクタ―には、藤山一郎の才能を引き出す足るに足る才能がいなかった。



藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。

648 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/12(Wed) 00:58
歌手・藤山一郎は、『青い牧場』『決戦の大空へ』を最後に、昭和18年〈1943〉2月、ボルネオ・ジャワ方面の海軍将兵慰問のため船で横浜港を出発、
日本を離れた。その後抑留され、寄港したのは、昭和21年(1946)7月15日のことだった。

つまり、藤山一郎には、戦争を隔ててこの約3年余りの空白がある。
このあたりのことは、戦後の藤山一郎のことを読み解くうえで重要なことだが、あまり明らかにされていない。

1946年7月15日、藤山一郎は復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についた。いち早くこのニュースをかぎつけたのはNHKだった。
藤山は早速8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演をした。

これを皮切りに、日本での歌手活動を再開させることとなったのだが、彼の戦後の歌手活動の出発点が「ラジオ」であったことは戦後の活動を大きく制約されてしまうという点でたいへん残念なことではある。
活動範囲が、詩人などで、主にかっての西條八十など第一級の優れたレコード人脈から、少数のラジオ(番組)人脈に移ってしまったのはたいへん残念なことである。曲は詩を越えることはできないのだ。

もちろん年齢的にも、すでに30代後半になっていた。
あの20歳、東京音楽学校生徒で歌手デビューし、「古賀メロディ」の青春を高らかに歌い上げていたあの頃の若き20代のあの溌剌さも年とともに失われてゆくのはやむを得ないこと。

レコード界も大きく様変わりして行く、昭和28年には春日八郎に始まる演歌歌手が登場していく。

1954年(昭和29年)、藤山はコロムビアの専属歌手をやめ、NHKの嘱託となった。その理由について藤山自身は「自らのクラシックとポピュラーの中間を行く音楽生活を充実させつつ、将来活躍できる新人に道を譲るのも悪くない」と考えたからだと述べている。

もちろんそれ以外にも当然レコード歌手としての年齢的なこともあるだろう。

いずれにしても、昭和18年、突然に始まる3年間にわたる慰問抑留生活が、戦前から戦後へ、「歌う昭和史」ともいわれるこうした歌手・藤山一郎の抜きんでた才能や活動を大きく変えてしまった!。

649 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/07(Mon) 13:32
昨年2018年12月30日、TPPがアメリカを除外で発行、著作権は死後50年だったものが、70年になった。
これに合わせ、著作権法が改正され著作権保護期間が50年から70年になった。

古賀 政男(1904年11月18日 - 1978年7月25日)は、昭和53年7月25日亡くなり、昨年(昭和93年)7月で残り40年であと10年だったが、
この改正で2048年12月まであと30年ということになる。


650 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/28(Thu) 16:56
流行歌懐古館 別館・愛聴譜   TATMDfx03_64.pdf

昭和3年(1928)2月―昭和64年(1979) 180p.

651 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/03(Sun) 23:16
昭和6年、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」、昭和7年「影を慕いて」 の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲の曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&to=50


652 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/16(Sat) 22:14

大正から昭和の初めにかけて、大衆が誰でも歌える歌といえるものが
民謡など除いて存在しなかった。

誰でもが歌える歌ずくり、それを一貫して目指した作曲家、それが中山晋平。

晋平の歌は【晋平節】と言われた。

劇中歌から、童謡、新民謡、歌謡歌曲。

中山晋平は詩人の野口雨情、歌手の佐藤千夜子と組んで、大正から昭和の初めにかけて「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)を行っていた。

まだ新幹線も飛行機もない時代に全国行脚を行い民謡採譜や新民謡など普及運動を行っていた。

この中から生まれたのが新民謡「波浮の港」、が昭和3年、ビクタ―発足に伴いレコード第一号となり、レコード歌謡(流行歌といった)第一号となった。

これを歌った佐藤千夜子は『レコード歌手第一号』と言われ、昭和53年、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」で取り上げられた。

「晋平節」の中山晋平の時代と「古賀メロディ」の時代をつなぐ歌手それがレコード歌手第一号佐藤千夜子である。

古賀政男は、このレコード歌手第一号佐藤千夜子の力添えで誕生するのである。 古賀政男は自伝「我が心の歌」で『終生の恩人』と書いている。

昭和の初め、まだ日本が貧しかったころ、満州事変の勃発と東北大凶作、宮沢賢治が「雨にも負けず風にも負けず‥」と歌った、日本の歴史に残る最後の飢饉とされた。

昭和東北大凶作の中、昭和6年(1931)1月、佐藤千夜子の歌で、7年3月藤山一郎の歌で「影を慕いて」などが世に出た。

そして、【古賀メロディ】は、晋平の【晋平節】の次に世の流れになっていく。

「古賀メロディ」の「メロディ」とは、「晋平・節」の「節」のに対するもので、古賀政男が「メロディ」を大切にその重要性を主張していたそのことによる。

今年、昭和を継ぐ平成最後の平成31年(2019)は『古賀メロディ誕生88年』。

もうすぐ90年!


影を慕いて、丘を越えて、酒は涙か溜息か、窓に凭れて、月の浜辺・・ これら「古賀メロディ」は今もなお延々と歌い継がれているが、誕生したころ、今ある歌のほとんどすべてはまだ存在しなかった。

殆どの「古賀メロディ」の名曲がもうすぐ、一つの区切りとなる「80年」を超える。

「古賀メロディ」は、聴いていてすぐ場面が想い浮かぶ。

それは古き良き日本人の、心優しき、節度ある、清爽な気持ちを表す名曲です。

露骨な自己主張が氾濫する現今のとはちがう、素晴らしい歌曲です。


いつ聞いても懐かしさで涙があふれてくる、80年前の歌が、昨日のことのように。そして、生きる喜びを与えてくれる、それが名曲の名曲たるところ。


80年の歴史をもつ多くの「古賀メロディ」、それは今や「古賀メロディ」を越えて、【日本の名曲・日本のクラッシック・日本のスタンダード】になっているのではないでしょうか。





653 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/06(Sat) 22:50
>>155-156
>>652

☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲)   大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇   (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす     (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲)  同
ひばり  1929.4 (西條八十作詞、 宮城道雄作曲)   同
鶯の夢 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5  (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪 1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節1928.7 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様   1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲  1929.6  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し    1929.10 (時雨音羽作詞 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒    1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄 1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲)   ビクター50776
港おどり  1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴  1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花  1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50881
紅屋の娘   1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50936
文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も     1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、   古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞  古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
母の歌    1930.1(鶴見祐輔作詞 中山晋平作曲) ビクター51027@
唐人お吉の唄(黒船篇)1930.2(西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター51093
この太陽   1930.6   (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター51240
琵琶湖シャンソン1930 (西条八十作詩・中山晋平作曲)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)

*『青い小鳥』は、『星の飛ぶ夜』(堀正明作詩、小松平五郎作曲編曲・佐藤千夜子歌唱)とカップリング





654 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/06(Sat) 22:53

※1932録音
カチューシャの唄 1932.6(島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター52393
船頭小唄 1932.6(野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクター52393


※古賀政男(正男)初期のレコード(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)上記

文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
以上は,作曲家になる前の作品

※古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
・『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編
曲・淡谷のり子歌)

・『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和
  歌子歌)

・『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・
  関種子歌)。

1934年(昭和9年)、イタリア留学中だった佐藤千夜子が、帰国を前にイタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。上記に加えて佐藤千夜子の名唱が聴けます。ゴンドラの唄、さすらいの唄など、
レコード歌手第一号・佐藤千夜子の本格的な歌唱(1934,2)が絶品です。
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏)。佐藤さんのイタリア録音曲ビクター VDR-5171


☆イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座録音6曲  昭和9年2月☆
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏・ミラノグラモフォレ管絃楽団)

カチューシャの唄 (島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)
船頭小唄    (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
さすらいの唄 (北原白秋作詞、中山晋平作曲)ビクター52972
ゴンドラの唄 (吉井勇 作詞、中山晋平作曲〉ビクター52972
酒場の唄    (北原白秋作詞、中山晋平作曲) ビクター53100
春の雨     (相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター53100

※信田の藪(しのだのやぶ) 1936吹込 (1922野口雨情作詞、藤井清水作曲)
この歌は大阪府泉大津市と和泉市のあいだの「信太山(信田)」に古くから伝わる有名な白狐の話を元に野口雨情が「十五夜お月さん」中のこの詩に、日本的で美しいメロディの歌曲を多数作られた宮崎県出身の作曲家藤井清水(ふじいきよみ)が曲をつけたもの。

1922年(大正11年)に作られたこの名曲の初録音は1928年の藤原義江、それに1936年の佐藤千夜子が有ります。他に童謡で羽崎共子盤がある以外ない。

佐藤千夜子の叙情豊かで、一語一語大切に心をこめて歌う歌唱は、豊かな日本の叙情を歌ったこの歌曲の良さを最大限に引き出す、すばらしい歌唱でまさに絶品中の絶品といえます。これを超える歌は聞いたことが無い、ぜひ聴いてみましょう。
ttp://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-shinodanoyabu.html

※青い芒(すすき)(1924 野口雨情作詩・中山晋平作曲)
1924年(大正13年)、歌手・佐藤千夜子の初レコーディング曲と言われています。佐藤は大正時代、野口&中山コンビ主宰「新民謡童謡普及運動」である「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に歌手兼講師で参加。当時「新民謡童謡普及運動」のメンバーは台湾まで出掛けています。巡演先のレコード会社「内外蓄音機」で1924年レコーディング。1929年(昭和4年)にもビクターで再録音されてます。
♪青い芒(すすき)に蛍の虫は・・・。


CD紹介 ・・これを聴くと佐藤千夜子の偉大さがわかってくる。

・CD「昭和を飾った名歌手たち 1/佐藤千夜子」VICL 60326
  ttp://www.tsutaya.co.jp/works/20058945.html
・ CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536
 ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536


655 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/15(Mon) 00:43
DSi

656 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 23:49
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


657 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 23:51
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


658 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/16(Tue) 22:31
メロディパタンのクラスタ分析 : 古賀メロディパタンの特徴
Cluster analysis of melody pattern : A characteristics of KOGA melody style
秋山、松田、日本音響学会誌 53(12), 915-921, 1997


659 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/22(Mon) 09:10
>>658

抄録
古賀政男音楽作品は"古賀メロディ"として多くの人々に親しまれてきた。本論文では, 古賀メロディに共通する旋律の特徴を述べている。特徴抽出にはメロディパタンのスペクトル表現に階層的ファジィクラスタ分析を適用した。クラスタ分析において古賀メロディが集群する階層が存在した。この集群したクラスタから得られる類似関係は, 旋律輪郭の滑らかさにあることが分かった。実験結果から, 古賀メロディの特徴の一つとして, 旋律全体の滑らかさと部分旋律における滑らかさに相似関係が存在することが明らかになった。このことは, 16小節程度の旋律進行は4小節程度の部分旋律における旋律進行から予測できることを意味している。



660 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/10(Sat) 13:15
>>658-659

メロディパタンのクラスタ分析 : 古賀メロディパタンの特徴
Cluster analysis of melody pattern : A characteristics of KOGA melody style
秋山、松田、日本音響学会誌 53(12), 915-921, 1997

各種コード
NII論文ID(NAID) 110003106845
NII書誌ID(NCID) AN00186234
本文言語コード JPN
資料種別 ART
ISSN 0369-4232
NDL 記事登録ID 4352162
NDL 雑誌分類 ZM35(科学技術--物理学)
NDL 請求記号 Z15-15
DOI 10.20697/jasj.53.12_915

661 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/18(Sun) 16:18


662 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/10(Tue) 22:51
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110&ls=50

663 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/11(Wed) 14:48
☆昭和歌謡が好きな人集まれ!

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50

664 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/12(Sun) 23:35
昭和SPレコード歌謡番組を待望する。 (ラジオBBS)

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=578828634&ls=50

665 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/19(Sun) 19:59
>>597-598

■■NHKTV「日本の名曲10曲」■■ 
1990 NHK TV (1年間毎週放送)

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本がまだ貧しかった80年以上前から、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級大歌手・声楽家が好んで
歌った歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ日本の名曲でした。





666 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/26(Sun) 13:16
h ttps://columbia.jp/shinyabin/
NHK CD「ラジオ深夜便 にっぽんの歌 こころの歌」

好評 発売中!

オリジナル原盤を使っているので良い!.。


667 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/29(Wed) 11:13
>>574

(参考)流行歌懐古館 (昭和3年ー平成5年)

昭和の流行歌(レコード歌謡)

 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27



昭和歌謡大全目次
戦前戦中編 (目録)

h ttp://music.geocities.jp/hanatori1119/kayoudaizenn/kayoudaizenn.html



668 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/30(Thu) 08:25
流行歌懐古館 別館・愛聴譜   TATMDfx03_64.pdf

昭和3年(1928)2月―昭和64年(1979) 180p.


669 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/31(Fri) 16:32
レコード草創期
h ttps://idol.ne.jp/record-creation-period

670 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/02(Sun) 00:29
☆ミス・コロムビア(松原操)の歌う「古賀メロディ」

「お蝶夫人」の唄 (西条八十作詞、古賀政男作曲)1933.3
気まぐれ涙  (西条八十作詞、古賀政男作曲)  1933.10
誰も知らない (サトウハチロ−作詞、古賀政男作曲)1939.3
新妻模様   (久保田宵二作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 1940.3
そうだその意気(西条八十作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 李香蘭 1941・5
桜花に誓う  (西条八十作詞、古賀政男作曲) 奈良光江 三原純子 1945
目ン無い千鳥 (サトウハチロ−作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 1940.4
三百六十五夜 (西条八十作詞、古賀政男作曲)    霧島昇 1948.9


671 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/09(Sun) 17:30
昭和の流行歌掲示板
h ttp://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=haidakatsuhiko&dd=37&re=231&qu=1

672 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/24(Mon) 09:59
古賀メロディ聴き比べ16:あの夢この歌
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/f16e19d47310de22abfd845fa93b1c03


673 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/26(Wed) 00:26
>>670

☆ミス・コロムビア(松原操)の歌う「古賀メロディ」

「お蝶夫人」の唄 (西条八十作詞、古賀政男作曲)1933.3
気まぐれ涙  (西条八十作詞、古賀政男作曲)  1933.10
誰も知らない (サトウハチロ−作詞、古賀政男作曲)1939.3
新妻模様   (久保田宵二作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 1940.3
そうだその意気(西条八十作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 李香蘭 1941・5
桜花に誓う  (西条八十作詞、古賀政男作曲) 奈良光江 三原純子 1945
目ン無い千鳥 (サトウハチロ−作詞、古賀政男作曲)霧島昇 1940.4
故郷の白百合 (サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)霧島昇 1943
いさおを胸に (サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)楠木繁夫1944 広田竜太郎編曲
三百六十五夜 (西条八十作詞、古賀政男作曲)   霧島昇 1948.9


674 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/26(Wed) 12:11
古賀政男は、昭和9年から昭和13年までテイチクの。昭和14年に外務省音楽文化親善使節として、アメリカ、南米に渡米。
主に、松葉操の初期の昭和8年と、渡米コロムビア復帰後の昭和15年(1940)以降となる。

675 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 09:54

■■[日本のクラッシック」古賀メロディ-は第一級のクラッシック歌手によって支えられた第一級の文化遺産!!。


 ☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)


■東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)  通称;上野の音楽学校

佐藤千夜子  東京音楽学校 文のかおり(古賀正夫作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺   (島田芳文作詞)  1931.7
渡辺光子   東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
由利あけみ  東京音楽学校 黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
波平暁男   東京音楽学校 月夜船    (藤浦洸作詞) 1944.11


■東洋音楽学校(現・東京音楽大学)

淡谷のり子  東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
有島通男   東洋音楽学校 春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
霧島 昇   東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
奈良光枝   東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12

■武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)

中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11


■帝国音楽学校

伊藤久男 帝国音楽学校   熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11


■その他

轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ)  別れの唄    (山川あさを作詞)  1936
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
李 香蘭(山口淑子)*     紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
*三浦環,他に師事


676 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 11:10
訂正

■■[日本のクラッシック」古賀メロディは,第一級の詩人、第一級の作曲家、および第一級のクラッシック歌手に支えられた第一級の音楽文化遺産です!!。

 ☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

■東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)  通称;上野の音楽学校
(東京美術学校と東京音楽学校が、戦後の学制改革により東京藝術大学となった。)


佐藤千夜子  東京音楽学校 文のかおり (古賀正夫作詞)1929.12
関 種子   東京音楽学校 乙女心     (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞)1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺   (島田芳文作詞) 1931.7
渡辺光子   東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
杉狂児、   東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
由利あけみ  東京音楽学校 黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
波平暁男   東京音楽学校 月夜船    (藤浦洸作詞) 1944.11

■東洋音楽学校(現・東京音楽大学)

淡谷のり子  東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
有島通男   東洋音楽学校 春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
霧島 昇   東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
奈良光枝   東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12

■武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)

中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11

■帝国音楽学校

伊藤久男 帝国音楽学校   熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11

■その他

轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1
千早淑子(松島詩子)     純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ)  別れの唄    (山川あさを作詞)  1936
ディック・ミネ   立教大学   戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
李 香蘭(山口淑子)*   紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
*三浦環他に師事

玉川英二、倉中佳人、瀬川与志は、サトウハチロ―の変名。



677 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 14:01
■大衆音楽と作曲家(昭和・戦前)■

中山晋平(1887〜1952)(※)青い芒、波浮の港、当世銀座節、東京行進曲
弘田龍太郎(1892〜1952)   野薔薇の歌、無憂華の唄、いさおを胸に(編曲)、今年の燕、お国のために
佐々木すぐる(1892〜1966)  兵隊さんよありがとう、昭和の子供
佐々紅華(1907〜1961)   君恋し、祇園小唄、浪花小唄、神田小唄
堀内敬三(1897〜1983)(※) 黒い瞳よ今いずこ、麗人の唄、
塩尻精八          道頓堀行進曲、女給の唄
奥山貞吉(1887〜1956) ザッツ・オーケー、沓掛小唄,乳姉妹の唄、お島千太郎旅唄

古賀政男(1904〜1978)(※)影を慕いて、丘を越えて、あけみの唄、いさおを胸に、
松平信博(1893-1949) サムライ・ニッポン、ルンペン節、天国に結ぶ恋
江口夜詩〈1903〜1978〉    十九の春、忘られぬ花、急げ幌馬車
仁木他喜雄〈1901〜1958〉  高原の月、めんこい仔馬
万城目正〈1905〜1968〉   旅の夜風、愛染夜曲、純情二重奏
服部良一〈1907〜1993〉(※)蘇州夜曲、別れのブルース、別れのブルース
佐々木俊一〈1907〜1957〉  涙の渡り鳥
竹岡信幸(1907〜1985)   赤城の子守歌,人妻椿
長津義司〈1904〜1986〉   十三夜、
古関裕而〈1909〜1989〉   船頭可愛や、愛国の花、露営の歌、暁に祈る
早乙女光〈1904〜1944〉   湖畔の乙女、荒野の夜風、愛国の花、古き花園
明本京静〈1905〜1972〉 父よあなたは強かった、伊豆の子守唄
大村能章〈1893〜1962〉   旅笠道中、野崎小唄、
阿部武雄〈1902〜1968〉   流転、むらさき小唄、国境の町
山田栄一〈1906〜1995〉   すみだ川

※日本音楽著作権協会会長歴任 (他に詩人、西条八十、サトウハチロー、勝承夫)


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