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【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史
- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 08:43
- 昭和6年(1931)「酒は涙かため息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・いずれも藤山一郎、
今から88年前、まもなく90年を迎える「古賀メロディ」。
《日本のクラッシック》「古賀メロディ」の歴史を振り返る。
- 187 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:29
- 懐メロには小節(しょうせつ・。こぶしともいうことがある)が多く使われています。特に古賀政男は、5連符6連符といった小節を多く用いました。デッィク・ミネが古賀政男に流行歌を勧められた時、「私はジャズ歌手なので小節(こぶし)が苦手でして」と躊躇したという。
小節が廻るとは4部音符2部音符のように長い音符の小節(しょうせつ)に比べて16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげること。
ジャズなど洋楽には日本の流行歌のような小節(こぶし)の小節(しょうせつ)はない。歌うにも、演奏するにも「古賀メロディ」は難しい。
5連符、6連符といった小節を多く用い、16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげ、
前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、あの独特の哀調を帯びたメロディ、
人はそれを「古賀メロディ」と呼んだんだね。
- 188 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:33
- 古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
商業レコードの黎明期、その最初は新民謡『波浮の港』(昭和3年)であったように、歌謡曲(流行歌=レコード歌謡)は、「新民謡」から発展した。
そこに若き古賀政男が現れ、晋平の時代に新風を吹き込むこととなった。
これからは、何々「節」の時代ではなく「メロディー」の時代だと言っていた。
80年以上前から、古賀政男は歌謡において、これまで以上に「メロディー」の重要さを強調していた。
実際に,「酒は涙かため息か」以降、晋平(節)の時代から「古賀メロディ」の時代へ、ビクター時代からコロムビア時代へと流れが大きく変わってゆく。
そして、古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
- 189 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:47
- 作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。
序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。
詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。
「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
そして、古賀を、<西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた>と評した。
文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。
なお、萩原朔太郎の長女、葉子によるエッセイ集 『父・萩原朔太郎』 には、「流行歌では、「丘を越えて」「影を慕いて」「酒は涙か」など古賀政男のものが特に好きだった。
「影を築いて」の前奏曲は、文の得意中の得意で、まるで指をギターに打ちつけるほどの感情をこめて弾いた。」という。また、マンドリンとギターによる〈朔太郎と葉子父娘で〉、古賀メロディの家庭合奏をよくしていたそうだ。
参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男邸によく遊びに来たそうです。
- 190 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:51
- >>189
序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。
詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。
「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
そして、古賀を、<西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた>と評した。
- 191 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 09:41
- 小田急線の代々木上原駅から3つ目「世田谷代田駅」を出て、 南へすこし歩いたところにある、一本の鉄塔。
この鉄塔の下には、詩人の萩原朔太郎が、1933年(昭和8 年)から、 1942年(昭和17年)に亡くなるまで住んでいた。
大正14年8月詩集『純情小曲』刊行集 (新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を佐藤惣之助と担当。
ここ代田1丁目42に、「代田の丘61号鉄塔由来碑」(萩原朔太郎文学顕彰碑)が立っている。
代々木上原駅前の3000坪の古賀政男邸、古賀政男自伝「我が心の歌」には、この古賀邸に萩原朔太郎、惣之助さんが集まって三人でよく詩の談義をしたとあり、朔太郎の娘・萩原葉子の「父・萩原朔太郎」にも同じ記述がある。
馬込の文士村・雪が谷に住んでいた詩人・佐藤惣之助、佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎、二人は惣之助の主宰する「詩の家」の同人でもある。
大正14年(1925)8月詩集『純情小曲集』刊行(新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を朔太郎と佐藤惣之助で担当。佐藤惣之助はしょっちゅう代田の朔太郎宅を訪問していた。
この三人は詩を通して日常的に親密な関係を持っていた。
平成23年(2011)は、萩原朔太郎生誕125 年の節目の年で、10 月、晩年、下北沢に居を構えたゆかりの東京の「世田谷文学館」にて「生誕125年萩原朔太郎展」が開かれた。
常設展では、作家であり、舞踏家であり、手芸作家でもあった萩原朔太郎の長女「萩原葉子」の証言(朔太郎と葉子父娘の家庭合奏)の再現演奏があった。
「朔太郎と葉子父娘の家庭合奏」の再現では、マンドリンとギターによる古賀政男の『影を慕いて』『酒は泪か溜息か』、それに朔太郎の『 機織る乙女』など、朔太郎にちなむ世田谷区ゆかりの作曲家と作品を演奏した。...
・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25
・宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)
・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫
・流行歌曲について 萩原朔太郎
(「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)
- 192 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 09:59
- 教科書にも出てくる『月に吠える』、『青猫』、『純情小曲集』などで知られ、昭和17年5月11日に亡くなった詩人・萩原朔太郎と古賀政男は、ギター、マンドリン愛好で非常に近い関係にあり、朔太郎は古賀政男宅をしばしば訪れる関係だった。
そして朔太郎は大衆に根ざした「古賀メロディ」を高く評価し愛していた。
自らも、音楽家を夢見ていたというほどで、マンドリンやギターの演奏もし、マンドリンクラブを持っていました。
ギターで「影を慕いて」や、マンドリンで「丘を越えて」を弾いたそうです。出身地の「前橋文学館」にはこのギターが展示されてるそうです。
朔太郎の故郷、前橋では「萩原朔太郎記念演奏会」が定期的に開催され、朔太郎作曲のマンドリン曲「「機織る乙女」、「野火」、そして「朔太郎と古賀メロディ」と題して、「丘を越えて」や「影を慕いて」など古賀メロディが必ず演奏されるようです。
「群馬マンドリン楽団」のHPによると、『丘を越えて』『影を慕いて』『人生の並木路』『東京ラプソディ』などが演奏されるそうです。
大正2年4月このころ自筆の歌集『ソライロノハナ』製作。北原白秋主宰の雑誌「朱欒」掲載の室生星の詩に感動、手紙を書く。5月号「朱欒」に「みちゆき」ほか詩6篇が掲載された。
太平洋戦争が始まって5ヶ月ほどした昭和17年5月15日(1942年。78年前の5月15日)、 佐藤惣之助(51歳)が、自宅がある馬込文学圏(雪谷)で、脳溢血を起こして急逝しました。
佐藤の義兄にあたる萩原朔太郎が(佐藤の妻は朔太郎の妹愛子)、4日前の11日に亡くなり、その告別式では、胃潰瘍で体調を崩していた室生犀星(52歳)の代わりに佐藤が葬儀委員長を務めました。その佐藤までが逝ってしまった。二人と関係が深かった人たちは、一挙に二人失い、大きな喪失感に直面します。
「ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広を着て
きままなる旅にいでてみん。」
(萩原朔太郎 「旅上」(詩集『純情小曲集』(1925年)より)
萩原朔太郎の、この若き時代の有名な詩「旅上」、若き石川啄木の有名な「あたらしき背広など着て/旅をせむ/しかく今年も思い過ぎたる」(『一握の砂』)から衝撃を受け、その熱き思いを共有したものと考えられます、
こうした詩人たちの熱き想いが凝縮した名曲、81年前のですが「青い背広で」?。
詩人・萩原朔太郎も愛してやまなかった「古賀メロディ」・・この名曲の宝庫、「日本の文化」を、これからも歌い継いでいってほしいものです。
- 193 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/09(Thu) 11:04
- ■「酒は涙か溜息か」で作曲家として名を成した古賀政男(1904-1978)は流行歌以前、クラシックのマンドリン、ギターの演奏家(プレクトラム音楽家)で、マンドリンギターのオーケストラを率いていました。ですから佐藤千夜子が最初に歌った古賀作曲の「文のかおり」(昭和4年12月ビクター吹込み)は、マンドリンのオーケストラ伴奏で吹込んだものです。
同じく佐藤が歌った「影を慕いて」(昭和5年10月ビクター吹込み)も、ギター歌曲です。「影を慕いて」は昭和4年6月にギター合奏で初演されています。その後、同じ昭昭和4年(’1929)10月26日帝国劇場、ギターの巨匠・アンドレス・セゴビア(1893-1987)の演奏にインスピレーションを受け、「影を慕いて」の完成に向かいました。
「影を慕いて」は未完だったが、昭和4年(1929年)10月26日、アンドレス・セゴビア(1893−1997)のギター演奏会(帝国劇場)を聴き、大きな啓示を受けて完成させたという。
佐藤千夜子歌唱「影を慕いて」の発売は昭和6年(1931年)1月のことだった。
- 194 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/09(Thu) 22:33
- ■「影を慕いて」(古賀政男作詞、古賀政男作曲)■
人生の苦悩から出発した「古賀メロディ」、その原点「影を慕いて」は、92年前の昭和3年(1928)秋に作曲された。
「日本の名曲」であり、昭和歌謡の傑作とされる。
作曲者古賀政男の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められている。
この名曲が世に出るには、日本におけるレコード歌手第一号であり、中山晋平の作品(晋平節)を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えがあった。古賀政男は自伝で佐藤について『終生の恩人』と書いている。
・古賀政男 明治大学卒業 昭和4年(1929)3月10日 25歳
・明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会(昭和4年6月)で初演、ギター合奏。
・昭和4年(1929)10月26日帝国劇場、ギターの巨匠・アンドレス・セゴビア(1893-1987)の演奏にインスピレーションを受け、「影を慕いて」の完成に向かう。
・「文のかおり」(昭和4年12月)佐藤千夜子ビクター吹込み。
・佐藤千夜子「影を慕いて」(昭和5年10月20日)ビクター吹込み。
・佐藤千夜子「影を慕いて」の発売は昭和6年(1931年)1月。
・古賀政男 コロムビアレコード専属 昭和6年3月20日 26歳
・「影を慕いて」藤山一郎 発売(コロムビア) 昭和7年3月
- 195 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/10(Fri) 09:28
- 「作曲家・古賀政男」は、今から89年前、昭和6年(1931)、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。古賀政男のコロムビア専属第一作は昭和6年(1931年)5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。
このころ、現在歌われている歌のほとんどは、まだ存在していない。
『乙女心』『窓に凭れて』『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・
古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。
支える歌手は、佐藤千夜子に代わって、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校.現在の東京藝術大学音楽学部)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は東京音楽学校主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。
『日本橋から』・・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜邊』・・・・ジプシー音楽(ジプシー短音階)、セレナーデ風の佳曲。
- 196 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/10(Fri) 15:21
- 名曲『影を慕いて(古賀正男=古賀政男作詩作曲編曲)』
『日本橋から(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』を
古賀正男指揮・明治大学マンドリン倶楽部伴奏で佐藤さんが初録音されて一週間後の
昭和5年(1930年)10月28日、佐藤さんは海外音楽留学のため日本を離れる。
当時の佐藤さんは大ヒット連発で専属での印税が莫大だったと言われている。
佐藤さんはビクターの反対を吹き飛ばして古賀政男作品を録音、
無名な一青年作曲作品レコーディングを中山晋平作品代表歌手の佐藤さんが歌うことは
ビクター側にすれば考えられないことだったのです。
それをきっかけに古賀政男氏はコロムビアから専属の話が出て、
古賀氏御自身「佐藤さんのおかげで作曲家になることができた」と述べています。
佐藤さんは音楽に対する意識の向けかたがものすごかったようです。
- 197 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/10(Fri) 23:33
- 『影を慕いて』が藤山一郎のアルバイト録音でヒット、佐藤オリジナルと同じ組み合わせ『日本橋から(関種子歌唱)』はモダンな井田一郎編曲。
だが「素朴で豊かな味わい」なら佐藤千夜子。『影を慕いて』の佐藤は、古賀が綴った「想い」を高音域で燃え上がるように表現している。
菊池清麿氏記述では、演奏曲だった『影を慕いて』を佐藤が気に入り「良いメロディだから、歌詩をつけて歌曲にしなさい」と言ったらしい。
佐藤の助言で歌詩があとで作られたなら、『影を慕いて』初演後の作詩と思われる。更に『日本橋から』は、古賀が次のように述べている。
「佐藤さんが、レコードは両面ですからね、とおっしゃられた。組み合わせ曲『日本橋から』を急いで作った」。ビクター発売番号「51519」の下表記番号=原盤番号で録音順がわかる。A面『日本橋から』は「2266」、B面曲『影を慕いて』が「2267」になっている。古賀のエピソードで、佐藤が元々『影を慕いて』をメイン曲と考えていたことも伝わる。レコーディング直前にビクター側から「浜田広介作詩をA面発売」と言われたようだ。
- 198 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 22:23
- 昭和SPレコード歌謡番組を待望する。
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=578828634&ls=50
- 199 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 22:30
- 昭和4年(1929)12月から、昭和5年(1930 )12月にかけ、ビクターで当時無名の古賀正男の「影を慕いて」など7曲をビクターでレコーディング。
古賀正男を世に送り出した。佐藤千夜子は、この1週間後にイタリアに向かった。
古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。
ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年愛宕山の放送所で、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がそのはしりだそうです。
「佐藤千夜子」の歌はヒットの連続で、「西条八十」の作詞料が30円の時に、「佐藤千夜子」の印税は、2000円だったという。
だが、佐藤千夜子は人気絶頂の昭和5年(1930にオペラの勉強に出かけたのだ、古賀政男は同自伝に「飽くなき芸術への憧憬によるもの」だが、当時のまだ学生だった自分には思いとどまっていただくことなどできなかったが、今なら思いとどまってもらうだろうと書いている。
当時は流行歌手と言って一段低く見られていた、これがオペラを学んだ佐藤には耐えられなかっただろう。そして、帰ってきたときには、四家文子など東京音楽学校の優れた後輩にとって代わられ、居場所はなくなっていた。レコード時代の創世記・黎明期のあくなき憧憬による悲劇と古賀政男は書いている。昔はレコード歌手になるということは大変なことだったのだ。
90年前、 まだ、現在ある歌のほとんどすべてがまだ生まれていなかった時代である。
そういう意味では、あまり知られていないが、単なる「レコード歌手第一号」としてだけではなく、野口雨情、中山晋平らと大衆歌謡という音楽の新しい分野を日本に根ずかせることに歌手として大きな功績を果たしたといえるだろう。
そして最大の功績として、古賀政男の才能を見出し素早くメジャーデビュさせ、今日の大衆音楽の隆盛に繋げた陰の功労者といえる。
現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。昭和9年(1934)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与され, 帰国を前に「イタリア・オペラの殿堂」、イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。
イタリア・グラモホン社のミラノ・スカラ座伴奏録音は「世界一流のアーチスト」。『カチューシャの唄』『船頭小唄』『酒場の唄』『春の雨』『ゴンドラの唄』『さすらいの唄』合計3枚6曲のミラノ録音が日本と米国で発売。
帰国直前だった佐藤さんは古賀政男へのポストカードに「ミラノ・スカラ座でのレコーディングもできました。」と喜びを伝えた。当時スカラ座でレコーディングできる歌手は世界中でも少なかった。上記作品に加え、佐藤千夜子の絶品の名唱です。
なお、佐藤千夜子が残した貴重なレコード曲は100曲を超えています。CDや、You Tubeの他、代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」の他、「国立国会図書館デジタル化資料」(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源)等に残っている。
- 200 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 22:41
- 藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。
古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。
加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。
なお、古賀政男の作品について、全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でしたと書いている。
藤山一郎『デッサンの確かな作品群』(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))
- 201 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 22:53
- 前橋出身の詩人・萩原朔太郎は、大正15年〜昭和4年まで、馬込の「文士村」に住んだ。
文士村には佐藤惣之助もいて、萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。昭和5年には、妹アイとともに上京、牛込区市ヶ谷台町(現・新宿区内)に居住。
昭和6年には、妹アイとともに世田谷区下北沢に。
一方、昭和6年、代々木上原に住んでいて、一時期世田谷松原に住んだ後、昭和13年、緑豊かな小田急線代々木上原駅前3000坪に、邸宅を構え移り住んだた古賀政男。
昭和8年1月には、朔太郎は世田谷区代田一丁目に自宅を新築。
8月には妹アイは、佐藤惣之助と結婚。
マンドリン演奏家としても知られる朔太郎は、マンドリン、ギターの名手でもある古賀政男邸に足しげく通い、
マンドリンやギターを習い、詩の談義に話をはずませたという。
なお、下北沢、世田谷代田は小田急線で、代々木上原から二つ目、三つ目。
朔太郎56歳は、太平洋戦争に突入して半年後の、昭和17年5月11日、風邪をこじらせ世田谷代田の自宅で急性肺炎で病没。
義兄・萩原朔太郎の葬儀を済ませた佐藤惣之助51歳も、4日後、疲れから外出先で脳溢血で倒れ帰らぬ人となり、二人の詩人は相次いであっけなくこの世を去った。
朔太郎終焉の地近くの北沢川緑道に「萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔」という由来碑がある。
この高圧鉄塔は、萩原朔太郎の居住痕跡を示す唯一のものとして「世田谷区地域風景資産」となっている。
前橋、広瀬川のほとりに立つ前橋文学館(萩原朔太郎記念館)には、朔太郎直筆の原稿やノートなどのほか、愛娘葉子と「古賀メロディー」を奏でた朔太郎愛用のギターなどが展示されている。
(参 考)
萩原葉子 『父・萩原朔太郎』(中央公論社 中公文庫 A 109-2、1979) 1959筑摩書房
萩原朔太郎 流行歌曲について
(「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房1975)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977
参考
☆戦前の流行歌
h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt
- 202 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 09:59
- 宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和十三年十一月/復刻昭和五十三年十月)
第一篇 半生物語『丘を越えて』
第二篇(上)古賀政男作品研究
第二篇(下)古賀政男を巡る人々
第三篇 古賀政男作品集
B5判ハードカバーという豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、
佐藤惣之助、小松耕輔、サトウ・ハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿しています。
古賀政男が没した直後に、多くの人の希望で復刻されました。
- 203 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 10:39
- 今年、令和2年(2020)は、作曲家本居長世、没後75年でもあります。
作曲家本居長世(1885−1945)は、終戦直後の昭和20年10月14日、成城の自宅で亡くなりました。61歳でした。
本居長世は、「童謡の祖」ともいわれるが、「童謡」だけでなく生涯に800曲近い歌曲も作っています。
本居長世は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)を首席で卒業し、日本の音楽と西洋音楽の融合を図り、「新日本音楽」など多数の歌曲を生んでいます。
また、中山晋平、弘田竜太郎などの師でもあります。
本居長世は、文学者から始まった童話・童謡運動を、自ら作曲し、かつ広めることによって、「童謡」という分野を確立し根付かせた人だと言えますが、また同時に中山晋平の師でもあるという点では、単なる「童謡の祖」というだけでなく、「日本の大衆音楽」に大きな影響を与えた人ではないかと思います。
古賀政男〈正男)は、昭和3年、学生時代作曲した「影を慕いて」を歌ってもらった人・・中山晋平の歌(晋平節)を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えで作曲家になった人で、長世が出なかったら、多分日本の大衆音楽は違ったものになっていたかもしれません。
古賀政男自伝「我が心の唄」(展望社1965)に、「昭和12年ごろの第一線の作曲家が一堂に会した珍しい写真」として、古賀政男、中山晋平、弘田竜太郎、本居長世、小松耕輔の写真が載っています。当時から、分野は違うが、日本のこれらの音楽家と肩を並べる作曲家であり、それなりの交流があったものと思われます。
昭和13年に発売された、古賀の半生の作品集に、萩原朔太郎、佐藤惣之助、三浦環と並んで、中山晋平、小松耕輔らが序文を寄せています。
- 204 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 22:03
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古賀は無性に楽しかった。将来の不安などを忘れ最後の青春を謳歌した。こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。限りない青春賛美の曲である。四十六小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。《丘を越えて》は、従来の流行歌にはなかった学生という「社会層の特権的な享受において、かろうじて成立」する「青春」をテーマにしていた。青春と流行歌をむすびつたけたことは昭和のレコード産業の創成期において革命的なことであったのだ。 「青春」は、近代日本が生み出した学歴社会、学校歴社会が舞台装置となって成立する。「青春」というテーマを流行歌の世界に持ち込まれることによってそれまで無縁であった一般大衆との「心理装置としての共有財産」が可能になったのである。そして、青春の躍動感を溌剌と歌う藤山一郎の登場によって古賀メロディーの「陽」の世界が完成するのだ。「陰」と「陽」の世界を併せもつ古賀メロディーは、いろいろな歌手に唄われることによって歌謡界の共有財産になっている。朝倉孝司は、古賀メロディーの凄さについてつぎのようにのべている。
「『影を慕いて』における森進一、『目ン無い千鳥』における大川栄策、『サーカスの唄』においては小林旭、どの歌と特定するまでもない古賀メロディー全般における美空ひばり、といったぐあいに、発表後何年も経ってから、それぞれの歌が最適の歌い手をみつけ出し、しっかり結びついてしまうことだ」
《丘を越えて》だけは、歌謡曲の歌手で藤山一郎以後、持ち歌にした者はいない。天才といわれた美空ひばりでさえも《丘を越えて》だけは、この唄のもつ明るさは完全には表現できなかった。朝倉にかぎらず、古賀メロディーを論ずるほとんどの人が感傷性と大衆性(平易)だけに目をやり、古賀の咲き誇る花の香りともいうべき青春の躍動を見逃しているのである。戦後になると青春をテーマにした流行歌はつぎつぎと生まれてくる。特に石坂洋次郎原作『青い山脈』が映画化されその主題歌《青い山脈》(西條八十・作詞/服部良一・作曲)はその代表的なものである。そして、進学率の上昇とともに戦後の学園ソングの系譜を生み出すわけであるが、その先駆が古賀メロディーだったのである。《丘を越えて》は『酒は涙か溜息か』同様にまたたくまにミリオンセラーとなった。当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約二十万台といわれた時代に五十万から六十万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」(堀内敬三『音楽明治百年史』)「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなでだす」(園部三郎『演歌からジャズへの日本史』)と、クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。藤山一郎は、この《丘を越えて》を吹き込むときは、前回の《酒は涙か溜息か》とはうって変わって、マイクから相当離れた位置で、しかもメリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーな声で、声量たっぷりと、しかし、声は溢れさせないように唄っている。藤山は、よく「声を蒐める 」と自分の声の共鳴のコントロールについて言っていたが、まるで、ステレオのボリュームを自由自在に調節するように共鳴を変化させることができるのである。さらに、ファルセットと実声の中間で音色をつくって発声するので透明感があるのである。
そして、声を張るところではスピントをかける。軟口蓋の後ろから抜く場合と硬口蓋から直接鼻腔に抜くという二つの武器がある。 藤山一郎によって古賀政男の音楽芸術は開花した。その後の古賀政男の日本音楽界にあたえた功績は、彼の才能と努力の結果であり、二十世紀日本が生んだ偉大な作曲家である。昭和七年、古賀メロディーは流行する。《酒は涙か溜息か》同様に《影を慕いて》が一世を風靡した。
- 205 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 22:11
- >>204
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- 206 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 22:25
- 古賀メロディーの時代
《誰か故郷を想わざる》
古賀政男という作曲家は、その生み出されて作品によって人生を描けることができる。その古賀メロディーが日本人の心に大きな感銘をあたえてきたことは周知の事実である。自ら作曲した作品がそのまま人生の章立てになるのはおそらく古賀政男くらいのものであろう。そう考えるならば荒れ狂う昭和の悲しみを旋律にのせた古賀政男の半生を辿ることはその音楽の特質を理解するうえで重要であるといえる。古賀政男は、明治三十七年、十一月十八日、九州は、福岡県三瀦郡田口村(現在は大川市)に生まれた。父は古賀喜太郎、母はセツといい、古賀は男六人、女一人の七人兄弟の六番目の子供だった。九州は古賀という姓は多い。それは地名にもあるくらいである。古賀の故郷は北原白秋の生地、水郷豊かな柳川の近くである。よく人に出身地を聞かれると白秋の柳川の近くと思わず答えた。古賀は北原白秋を敬愛していた。それを知ってか、森繁久弥が“柳川や、白秋ありて、古賀ありて”と詠んで古賀政男に送ったのは有名な話である。
「詩人との交遊の多かった私にとって、かえすがえすもなく残念なことは、とうとう白秋さん と一度もまみえることがなかったことである。白秋の故郷と私の故郷は、距離にしてほんのわ ずかなのである。それだけに白秋の切々とつづるノスタルジアは、じつに私の望郷の詩でもあっ た。」(古賀政男『自傳わが心の歌』)
柳川と大川とは、わずか、一里たらずの距離にすぎない。しかし、詩情豊かな柳川の水郷と、大川は随分風景が違っていた。田口村から見える風景らしきものといえば雲仙岳の雄姿が遠望できるだけで、果てしなく広がる水田と縦横に掘割、その周辺に点在する草深い農家、つまり純粋な農村地帯風景そのものだった。<花摘む野辺に日は落ちて>と霧島昇が歌う《誰か故郷を想わざる》は、そんな古賀の故郷を回想する心情が託されている。
<花摘む野辺に 日は落ちて みんなで肩を 組ながら 唄をうたった 帰りみち
幼馴染みの あの友 この友ああ 誰か故郷を想わざる >
《誰か故郷を想わざる》には、母親への思慕に劣らないない姉への古賀の強烈な追憶を感じさせる。嫁ぐ姉を見送る時駅のプラットホームで泣いた体験をもつ西條八十の詩は古賀に強烈なインスピレーションをあたえた。それは、古賀が自伝に「この姉にたいする私の敬慕の情が、八十さんの歌詞に、あまりにも的確に唱いこまれていたので、一瞬、私の日記を盗み見されたのではないかと疑ったほどであった。」と記したことからも十分に窺える。姉の古賀少年への眼差しはやさしかった。土間で畳表を織りながら、優しい瞳の姉は手伝う古賀少年に自分の創作童話を聞かせてくれた。女兄弟がいなかったせいか、姉は古賀を妹のように可愛がった。古賀に女性的なところがみられたのもそのせいかもしれない。その姉は、大正二年、草刈商店の番頭、永島米蔵と結婚した。 縁談が決まって、いよいよ嫁入りの日が来た。古賀の郷里には花嫁が綿帽子をかぶるしきたりがあった。嫁入りのときと死んだときの二度しかかぶらないのだそうだ。嫁ぐという強い決意をしめしているのであろう。古賀は姉の嫁入りが無性に寂しかった。そして、その寂しい感情を殺すかのように「もう帰って来ないなら、嫁なんかにいくな」という言葉がつい出てしまった。後年、西條八十が古賀に見せた〈ひとりの姉が 嫁ぐ夜に 小川の岸でさみしさに 泣いた涙の なつかしさ〉は、偽らざる少年時代の古賀の姉への思慕なのである。
- 207 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 22:46
- >>204
古賀は無性に楽しかった。将来の不安などを忘れ最後の青春を謳歌した。こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。限りない青春賛美の曲である。四十六小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。《丘を越えて》は、従来の流行歌にはなかった学生という「社会層の特権的な享受において、かろうじて成立」する「青春」をテーマにしていた。青春と流行歌をむすびつたけたことは昭和のレコード産業の創成期において革命的なことであったのだ。
《丘を越えて》だけは、歌謡曲の歌手で藤山一郎以後、持ち歌にした者はいない。天才といわれた美空ひばりでさえも《丘を越えて》だけは、この唄のもつ明るさは完全には表現できなかった。朝倉にかぎらず、古賀メロディーを論ずるほとんどの人が感傷性と大衆性(平易)だけに目をやり、古賀の咲き誇る花の香りともいうべき青春の躍動を見逃しているのである。戦後になると青春をテーマにした流行歌はつぎつぎと生まれてくる。特に石坂洋次郎原作『青い山脈』が映画化されその主題歌《青い山脈》(西條八十・作詞/服部良一・作曲)はその代表的なものである。そして、進学率の上昇とともに戦後の学園ソングの系譜を生み出すわけであるが、その先駆が古賀メロディーだったのである。《丘を越えて》は『酒は涙か溜息か』同様にまたたくまにミリオンセラーとなった。当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約二十万台といわれた時代に五十万から六十万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」(堀内敬三『音楽明治百年史』)「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなでだす」(園部三郎『演歌からジャズへの日本史』)と、クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。藤山一郎は、この《丘を越えて》を吹き込むときは、前回の《酒は涙か溜息か》とはうって変わって、マイクから相当離れた位置で、しかもメリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーな声で、声量たっぷりと、しかし、声は溢れさせないように唄っている。
《丘を越えて》は『酒は涙か溜息か』同様にまたたくまにミリオンセラーとなった。当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約二十万台といわれた時代に五十万から六十万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」(堀内敬三『音楽明治百年史』)「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなでだす」(園部三郎『演歌からジャズへの日本史』)と、クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。藤山一郎は、この《丘を越えて》を吹き込むときは、前回の《酒は涙か溜息か》とはうって変わって、マイクから相当離れた位置で、しかもメリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーな声で、声量たっぷりと、しかし、声は溢れさせないように唄っている。藤山は、よく「声を蒐める 」と自分の声の共鳴のコントロールについて言っていたが、まるで、ステレオのボリュームを自由自在に調節するように共鳴を変化させることができるのである。さらに、ファルセットと実声の中間で音色をつくって発声するので透明感があるのである。
- 208 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 22:56
- 堀内敬三『音楽明治百年史』音楽之友社 (1968)
園部三郎『演歌からジャズへの日本史』和光社(1954)
- 209 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 23:02
- 戦後になると青春をテーマにした流行歌はつぎつぎと生まれてくる。特に石坂洋次郎原作『青い山脈』が映画化されその主題歌《青い山脈》(西條八十・作詞/服部良一・作曲)はその代表的なものである。そして、進学率の上昇とともに戦後の学園ソングの系譜を生み出すわけであるが、その先駆が古賀メロディーだったのである。
・・「古賀メロディ」とは、青春をテーマとしたもので、元祖・青春歌謡といえる!。
- 210 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 23:07
- クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。
- 211 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 23:30
- >>206
古賀政男という作曲家は、その生み出されて作品によって人生を描けることができる。その古賀メロディーが日本人の心に大きな感銘をあたえてきたことは周知の事実である。自ら作曲した作品がそのまま人生の章立てになるのはおそらく古賀政男くらいのものであろう。そう考えるならば荒れ狂う昭和の悲しみを旋律にのせた古賀政男の半生を辿ることはその音楽の特質を理解するうえで重要であるといえる。
- 212 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 23:59
- >>204-205
流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽( 菊池清麿 )
中山晋平・鳥取春陽・古賀政男・藤山一郎 古関裕而
《近代日本流行歌の成立-昭和歌謡の源流》
h ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html
- 213 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 10:10
- ここに、おいこまヒットが出ず、解雇においこまれる古関裕而と、それを古賀に救われる史重要な史実が書いてある。
- 214 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 10:12
- ヒットが出ず、解雇においこまれる古関裕而、それを古賀に救われるコロムビアにおける重要な史実が書いてある。
- 215 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 20:56
- ヒットが出ず、解雇においこまれる古関裕而、これが史実・・なのに5000曲だとか、古賀政男の後塵をはいした・・とか、一般には三越のホームソングくらいしか知られてのに、助けられた古賀政男のようなことを賜っている古関先生って!!。
- 216 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 21:01
- 名曲とは・・
名曲とは、何といっても、詩が一番大切でしょう。
詩の内容が、誰でも、簡単にできない詩、短くも、簡潔なな中に、詩が重厚で凄みがあり、内容が薄っぺらで、ありきたりで一般的で、ただ受けの良いだけの、幸せだけの、美辞麗句を並べただけのものでなくて、青春の苦悩を秘めた、軽いものでないもの。
やはり、「叱られて」とか「影を慕いて」のような歴史の重みを、歴史を凝縮したような曲、「青い山脈」みたいなものでないもの、すばらしい!!。
日本が貧しかった時代は戦争が無ければ素晴らしい時代。
戦後、昭和23年以降はほとんど名曲はない!。
- 217 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 21:52
- 戦前は、貧しい時代ではあったが、軍国主義を除けば情緒があったようです。日本の天才的な数学者の岡潔さんもそう言っています。「戦前は軍国主義を除けば、良い時代であった」と。
- 218 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 22:25
- <CD紹介> テイチク
『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・下)』
テイチクTECE 24459,25460
<上>
国境を越えて (佐藤惣之助) 楠木繁夫・・古賀政男テイチク第一作(昭和9年7月)
影を慕いて (古賀政男) 楠木繁夫・・・(編集したような作曲)
スキーの唄 (島田芳文) 楠木繁夫
白い椿の唄 (佐藤惣之助) 楠木繁夫・・前奏・間奏・後奏が独立した一曲に値する。
菊池寛原作「貞操問答」映画化主題歌
ハイキングの唄 (島田芳文) 楠木繁夫
望郷の唄 (島田欣也) デイックミネ
のぞかれた花嫁 (玉川映二/サトウハチロー) 杉狂児
二人は若い (玉川映二/サトウハチロー) デイックミネ・星玲子
波止場がらす (佐藤惣之助) デイックミネ
男のまごころ (佐藤惣之助) 楠木繁夫
夕べ仄かに (島田芳文) デイックミネ
緑の地平線 (佐藤惣之助) 楠木繁夫
ゆかりの唄 (佐藤惣之助) デイックミネ
白衣の佳人 (佐藤惣之助) デイックミネ
啄木の歌 (島田欣也) 楠木繁夫
春まだ浅く (石川啄木) 有島通男
東京ラプソデイー(門田ゆたか) 藤山一郎
東京娘 (佐藤惣之助) 藤山一郎
慈悲心鳥 (佐藤惣之助) 楠木繁夫
さらば青春 (佐藤惣之助) 藤山一郎
<下>
男の純情 (佐藤惣之助) 藤山一郎
愛の小窓 (佐藤惣之助) デイックミネ
女の階級 (村瀬まゆみ) 楠木繁夫
回想譜 (今城靖児) 藤山一郎
青春の謝肉祭(カーニバル )(島田欣也) 藤山一郎
南国の乙女 (水島洋) 奥田英子
あゝそれなのに (星野貞志/サトウハチロー) 美ち奴
うちの女房にゃ髭がある (星野貞志/サトウハチロー) 杉狂児、美ち奴
聖処女の唄 (佐藤惣之助) 藤山一郎
人生の並木路 (佐藤惣之助) デイックミネ・・・・(オリジナルレコード)
青い背広で (佐藤惣之助) 藤山一郎
青春日記 (佐藤惣之助) 藤山一郎
緑の月 (佐藤惣之助) 奥田英子
のばせばのびる (江川真夫) 楠木繁夫
真実一路の唄 (佐藤惣之助) 楠木繁夫
軍国の母 (島田欣也) 美ち奴
黒いパイプ (倉仲住人)・・ 由利あけみ・・三浦環と「蝶々夫人」にも出演。
白虎隊 (島田欣也) 藤山一郎
人生劇場 (佐藤惣之助) 楠木繁夫
弥次喜多道中記 (古賀政男) 楠木繁夫
- 219 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 22:35
- 古賀メロデーの隠れた名曲・「勝利の日まで」
昭和19年8月より、20年にかけ、国民学校3年以上の学童は、戦火を避けるため縁故があれば縁故で、無い者は集団疎開をおこないました。
映画『少年時代』は、この学童疎開を、体験した藤子不ニ夫原作によって映画化したものです。なお、これとは関係無いが、あの對馬丸の悲劇はこの時、昭和19年8月に起こったものです。
「学童疎開」、それは家族がバラバラになり、空腹といじめ、のみ・しらみなどそれは厳しいものだったようです。当時学童疎開を励まし歌ったものに、NHKから流れた国民合唱・『父母の声』(草川信作曲)、
♪太郎は父のふるさとへ 花子は母のふるさとへ・・、同じく国民合唱『勝ち抜く僕等小国民』(橋本国彦作曲)♪勝ちぬく僕等小国民 天皇陛下の御ために・・などがあります。同じ頃、「お山の杉の子」が歌われました。
こんななかで、疎開学童に歌われたもうひとつの歌に、古賀政男の隠れた名曲「勝利の日まで」(サトーハチロー作詞)があります。昭和19年末にNHKから。そして20年に入って同名の映画『勝利の日まで』(東宝 昭和20年1月25日公開)の主題歌として。
これは行進曲風で、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、緊張感を持つ哀調を帯びた名曲。
「勝利の日まで」がまんした疎開学童 (狭山市 42才 印刷業)
昭和19年8月、太平洋戦争はサイパン・テニアン島の玉砕で、日本の敗色が濃くなってきた。
当時5年生の私も親元を離れ、信州の山寺に学童疎開をした。はるかに見降ろす千曲の清流。
りんごと桑畑に囲まれた山寺。都会育ちの少年にとって、見るもの全てが新しい世界だった。
遠足気分で遊びまわった私たちも.三日もたつと東京の両親のことを思い出した。
毎晩消灯後並べられた布団の中から、すすり泣きの声が聞こえた、泣くのは女の子、しかも一人っ子がおおかった。
楽しみは母からの手紙と食事時間。初めの頃は残すほどの食事も、しだいに質・量ともに落ちていき野草入りの雑炊、
すいとん、サツマイモ、主食になった。空腹と望郷・・寂しさを忘れるために、私たちはいつも歌を歌った.40分もかかる村の学校への道、
散歩の途中で、遊んだ千曲川の河原で、知ってる限りの歌が出た。
『先生、ぼくたちいつ帰れるの』勇気を出して、先生に聞く生徒もいた。『そのうち、日本軍が逆転して、一気に米軍をやっつける。
そうしたら、また東京に帰るぞ』・・私たちは、先生の言葉を疑いも無く信じた。日本が勝つ日まで、勝利の日まで我慢しよう。そんな私たちの気持ちにぴったり合った歌、それが『勝利の日まで』だった。
『さあ、みんな、そろそろ帰ろうか、最期にあれを歌おう。』声をそろえて歌ってるうちに、なぜかこの歌だけは涙がでてきた。途中で歌えなくなる生徒もいた。戦局は次第に悪化、沖縄も陥落、新聞を読むこと
も許されない私たちは、まだ日本の勝利を信じていた。
出て来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし・・こんな歌を勇ましく歌ったのもこのころだった.出てくるまでもなく、日本のすぐ近くまで来ているのを知らずに。
そして終戦、虚脱状態で声も出ない先生、私たちは勝ったのか負けたのか分からないまま、とにかく戦争は終わった。私たちは一年ぶりに親元に帰れる。ただそのことだけを喜び合った。
・・一億人の証言(『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』毎日新聞社1979)より。・・
- 220 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 22:39
-
「勝利の日まで」♪丘にはためく あの日の丸を 仰ぎながめる吾等がいのり いつかあふるる感謝の涙・・は、勝利の日まででというよりは、敗色濃くなって日本が敗戦への坂道をころげ落ちてゆくなかで、
この歌は映画とは関係無いが、そして、学童疎開とは関係ない歌だが
あちこち散らばった何百万の疎開学童によって歌われていたといいます。このことについて、歌人の楠本憲吉氏は、古賀メロデーの名曲10の中に入れ、忘れられない古賀メロデーの名曲と書いています。
「勝利の日まで」
h ttp://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/Shouri_no_Himade.htm
- 221 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 23:42
- 勝利の日まで
作詞 サトウ・ハチロー
作曲 古賀政男
一、
丘にはためく あの日の丸を
仰ぎ眺める 我等の瞳
いつかあふるる 感謝の涙
燃えて来る来る 心の炎
我等はみんな 力の限り
勝利の日まで 勝利の日まで
二、
山で斧ふる 翁の腕も
海の若者 櫓を漕ぐ腕も
町の工場の 乙女の指も
今日も来る来る お國の為に
我等はみんな 力の限り
勝利の日まで 勝利の日まで
三、
雨の朝も 吹雪の夜半も
思ふは一つ ただただ一つ
遠い戦地と 雄々しき姿
浮かび来る来る ほほえむ顔が
我等はみんな 力の限り
勝利の日まで 勝利の日まで
四、
空に飛び行く 翼に祈り
沖をすぎ行く 煙に誓ふ
國を挙げての この戦に
湧いて来る来る 撃ちてし止まん
我等はみんな 力の限り
勝利の日まで 勝利の日まで
- 222 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 11:18
- 『酒は涙か溜め息か』
作詞:高橋掬太郎 作曲:古賀政男
1.酒は涙か 溜め息か
心の憂さの 捨て所
遠い縁の 彼の人に
夜毎の夢の 切なさよ
2.酒は涙か 溜め息か
悲しい恋の 捨て所
忘れた筈の 彼の人に
残る心を 何としょう
作曲家・古賀政男、作詞家・高橋掬太郎、歌手・藤山一郎の出世作となった大ヒット曲。
89年前、東北大凶作、満州事変の勃発のさ中、折からの世界恐慌による不況にも拘らず、発売直後から大ヒットし、当時の蓄音機の国内普及台数の4倍のセールスを記録したという。売上は80万枚[1]。歌のヒットにより、のちに松竹映画『想い出多き女』、新興キネマ『酒は涙か溜息か』として映画も製作された
また、日本で最初にクルーナー唱法(英語版)を取り入れた作品としても知られる。当時、古賀は新進作曲家として注目されはじめたばかりで27歳、高橋は北海道で地方新聞の記者、藤山一郎は。東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に在籍し将来を嘱望されたクラシック音楽生、25歳だった。
戦後の藤山の歌う「酒は涙かため息か」などは大分崩れた歌い方になっていて、やはり溌溂としたオリジナルがいい。
藤山一郎の歌唱は戦後より、古賀政男とのものが良い。
なお、『酒は涙か溜息か』のB面は、同じく作曲:古賀政男、作詞:高橋掬太郎による『私此頃憂鬱よ』であり、歌ったのは当時本格的に流行歌手として活動をはじめたばかりの淡谷のり子だった。淡谷は昭和4年東洋音楽学校主席卒業。藤山は昭和8年、東京音楽学校主席卒業。
大正14年にはラジオ放送が始まり、昭和2,3年にかけ相次いでレコード会社ができた。
昭和3年には、古賀政男の「影を慕いて」が作られ、そして3年後、今から89年前、東北大凶作、昭和大恐慌の中、昭和6年(1931)には古賀政男がコロムビアに入社。藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など『古賀メロディ』が大衆の中に圧倒的に浸透してゆくのです。
「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・こうした優しい、今までにない「メロディ」を重んじた、新鮮で哀調を帯びた「古賀メロディ」の登場・・それは人々をとらえ、主流だった【晋平“節”】が【古賀“メロディ”】にとって変わられることになった。
最近、なんでも作曲家の後ろにメロディをつけてしまうが、「古賀メロディ」とは、主流だった【晋平“節”】に対する戦後に至る唯一のトップブランド・敬称。それ以外で「古賀メロディ」のごとく、実際に「メロディ」をつけて使われ通用されたものではない。
戦後10年、昭和31年(1961)3月に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場を、こう伝えている ・・
「9月18日未明、満州事変勃発。」・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)
なお、昭和8年に亡くなった宮沢賢治の「雨にも負けず」は、この昭和6年の冷害を叙述したもので、死後、手帳の中から見つかったもの。よくCMに使われたが、先のほうの夏の暑さなど一般論の部分しか出ないが、後ろのほうまで読むと、寒さの夏はおろおろ歩きという部分がでてくる。
この昭和東北大凶作とそれによる娘の身売りなど社会不安は、その後の太平洋戦争に至る遠因ともいわれる。
- 223 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/24(Sun) 17:58
- 《大日本音楽著作権協会設立》 昭和14年11月
昭和14年11月18日午後1時、現在の一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC))の前進、社団法人大日本音楽著作権協会 の創立総会が内務省で開催された。
対象は邦楽と洋楽の作詞家、作曲家である。
洋楽と邦楽で、作詞家、作曲家併せて出席者は、発起人68人中48人だった。
協会設立時における主な会員出席者は洋楽では
作曲家(25人):
本居長世、弘田龍太郎、中山晋平、梁田貞、橋本国彦、堀内敬三、山根銀二、松平頼則、 藤井清水、古賀政男、小松耕輔、佐々木すぐる、諸井三郎、杉山長谷夫、井上武士、飯田信夫、服部正、他
なお、作詞家(15人)は、
林柳波、大木惇夫、與田準一、 高野辰之、長田幹彦、久保田宵二、葛原しげる、西条八十、佐藤惣之助、時雨音羽、清水桂ほか。
- 224 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/24(Sun) 21:12
- あの夢この歌
作詞 西條八十 : 作曲 古賀政男
1 おさない日かなしい日 聞いた歌
優し メロディー
君うたう今うたう 花の唇燃えて
ときは春あかしやの みどり白雲
楽しげに渡鳥 翼はかがやく
2 涙ぐみ別れたる うるわしの
君の姿 浮かび来て
流れ来てわれを 泣かすよ呼ぶよ
若き日の恋の花 すみれひなげし
におう夜の歌声に 月さえかがやく
3 あの夢もこの夢も ながれ去り
残る メロディー
あの人がこの人が 哀れ歌いしメロディー
歌は蝶むらさきの 紅の蝶々
華やかに朗らかに こころを結ぶよ
- 225 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/24(Sun) 21:21
- >>224
あの夢この歌 詩人・芸術院会員西條八十
戦後の西條八十、詩人・芸術院会員西條八十は、中山晋平に続き、昭和28年から昭和40年まで JASRAC日本音楽著作権協会会長や、日本詩人連盟初代会長・・などを務めてもいる他、昭和37年(1962)には、芸術院会員となっている。
以前NHKラジオで、西條八十生誕100年記念ドラマ「西條八十の愛と歌」があった。
なお戦後、新東宝映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948.3)は、西條八十の「歌の自叙傳」を映画化した、西條八十の歌の集大成ともいうべき音楽映画で、岸井明、霧島昇、松原操らの歌手が特別出演する。
その主題歌「あの夢この歌」は戦前戦後を通じて西條八十と最も多くの名曲を世に送り出した西條八十・古賀政男、両巨匠によるもの(霧島昇、二葉あき子歌)。
♪おさない日 かなしい日
聞いた歌 懐かしメロディー
君うたう 今うたう 花の唇燃えて・・
映画・あの夢この歌・・
大衆に広く愛された西條作品が劇中で数多く歌われる。地方公演を終えた楽団を乗せた列車に、詩人で作詞家の西條八十が偶然乗り合わせる。車内では楽団員たちが賑やかに八十の歌を合唱し始める。「ユーモア列車」と名づけた車両では、みんなが仲良く歌い、乱暴者は他の車両に追い出されてしまう。
次々と歌を披露するうちに、西條八十(斎藤達雄)が、流行歌を作るわけを語り始める・・
なお、この年、昭和23年9月、松原操(ミス・コロムビア)は、「三百六十五夜」(西條八十作詞、古賀政男作曲)を最後に歌手を引退し、以後歌う事は無かった。
(参考)
人間の記録 第29巻 「西條八十 唄の自叙伝」(日本図書センタ− 1997)
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
西條嫩子『父・西條八十』(中央公論社,昭50)
上村直己「西条八十・佐藤惣之助における詩から歌謡への移行について」( 日本歌謡学会. 日本歌謡研究(通号 18) 1979.04))(ISSN―0387-3218)
吉川潮「流行歌 西條八十物語」(新潮社、ちくま文庫)
なかにし礼「私感 西條八十」(中央公論新社1999)
筒井 清忠「西條八十と昭和の時代」 (ウェッジ選書) 2005
和田 北斗「歌謡曲と戦争--戦時下の西條八十」2008
筒井 清忠「西條八十 」(中公文庫) )(中央公論新社2008)
菊池 清麿「日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ」(論創社2008)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」(彌生書房1976)
西條嫩子編「西條八十童謡集」(彌生書房)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)(国書刊行会1991)
- 226 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 22:38
- (参考)
ステレオで聴く不滅の古賀メロディー大全集
12,100円(税込)訂正、 5,580円(税込)
作曲家活動90周年の90曲!
「影を慕いて」(昭和3年)を作曲してから90年
そして昭和53年にこの世を去るまで、半世紀にわたって第一線の作曲家として活躍した古賀政男。
「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「東京ラプソディ 」「人生劇場」「湯の町エレジー」など戦前SP時代の大ヒット曲も名歌手によるステレオ録音で、また「柔」「悲しい酒」など後期の代表曲も収録。
日本人の心のメロディーとなった名曲の数々をぜひご堪能ください。
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- 227 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 22:43
- 昭和歌謡が好きな人集まれ
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50
- 228 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/27(Wed) 08:31
- ☆『東京ラプソディ』・・モダン東京のテーマソング (メロディコンサート)
藤山一郎主演、PCL映画『東京ラプソディ』1936.12.1の主題歌(門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)他に「東京娘」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)、「青春の謝肉祭(カーニバル)」がある。「50銭の入場料で藤山一郎の歌を聴きながら東京見物ができます」という宣伝。門田ゆたか作詞は西條八十の弟子。
映画『東京ラプソディ』の制作には技師として、後にソニーの創業者の一人となる井深大が参加していた。井深と交流を持つようになった藤山は後にソニーに嘱託として勤務し、さらに社友となった。
古賀には音楽監督料として900円が支払われ、古賀は全額を(昭和9年1934)に死去した母親を祀るための仏壇の購入に充てたという。
昭和9年にテイチクに移った古賀政男は、他にも次々とヒット曲を生み出し「テイチク黄金時代」といわれる第二期黄金時代を築く。昭和11年、東京音楽学校を卒業した藤山一郎をテイチクに迎え入れた最初の曲で、《モダン東京のテーマ曲》ともいえるエポック曲とといえる。
作曲を担当した古賀政男は『東京ラプソディ』について、自身が「銀座、浅草、新宿という盛り場が見事に歌い込まれて心憎いばかり」と評価する『東京行進曲』(1929年(昭和4年)発売。
作詞・西条八十、作曲・中山晋平)を目標に、「もう少しモダンになった東京を書いてみたい」という考えのもとに制作したと述べている。古賀によるとフォードのクーペの新車に乗って初夏の明治神宮外苑付近を走行中に、自然とメロディーが浮かんできた。
こうして曲が先に完成し、後から古賀と門田ゆたかが共作のような形で詞を作ったという。門田が起用された時点ですでにレコード吹き込みの日程は決まっており、B面の『東京娘』は完成していた。西條八十の弟子でもある門田は重圧と闘いながら、3日間ほとんど寝ずに作業をして詞を完成させた。
歌唱を担当した藤山一郎はこの曲を、「銀座、神田、浅草、新宿と、東京の盛り場を楽しく歌いあげた清潔にして軽快なフォックストロット調の歌」と解説している。吹き込みにあたって門田や古賀から注文をつけられることはなく、自由に歌うことができたという。
東京音楽学校で「声楽の基礎を完全にマスターした」という自負からフォックストロット調の流行歌は容易に歌えるという自信のあった藤山は、声音を明瞭に保ちつつ、曲調に合わせて「ある時は歯切れよく、あるときはシットリと」歌うことに神経を使ったと回顧している。
藤山にとってこの曲は、ビクターからテイチクへの移籍後第1作であった。藤山に移籍の話を持ちかけたのはテイチクの重役を務めていた古賀で、藤山はテイチクをレコード会社としては二流だと感じながら、かつて『酒は涙か溜息か』や『丘を越えて』、『影を慕いて』でヒットを飛ばした古賀とのコンビに魅力を感じて移籍を決断した。
歴史家の今西英造は、『東京ラプソディ』の歌詞には戦時色が濃くなり、権力によって昭和モダンが抑圧され分解しつつあった世相にあっても消えることのなかった、モダニズムを追求する人々の心が表れていると分析し、『東京ラプソディ』を「モダニズムの残響」と評している。
- 229 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/27(Wed) 08:48
- 昭和の大作曲家・古賀政男を取りあげる。彼は敗戦の虚脱状態から、どう立ち直ったのかを、『自伝 我が心の歌』で、こう綴っている。
「無条件降伏を告げる玉音放送をつたえ聞いたのは、疎開先の山梨県のいなかであった。……終戦とともに、私はこれで自分たちの世代はすべてが終ったのだと思った。私が再び作曲を発表するような時代や、また、すでに発表した歌が、再び唄われる日も決してめぐって来ないのだと覚悟した。故郷に帰って僅かな土地を耕し、暇があればギターを手にする“晴耕雨唱”の生活を送ろうと、心にひそかに決めていたのである。」
「私たちが疎開していた素朴な田舎にも、飢えと貧困、悪徳と混乱の戦後がやってきた。犬畜生にも劣る激しい人間社会の変りようにただ驚きあきれた。心のささえのすべてを失い、絶望の日日が続いた。今後何をたよりになにを求めて生きていけばいいのだろうか。
終戦のあのとき、これからの身の処し方を決め、心の整理ができたはずであったが、あまりに激しい世相に再び虚脱状態に陥ってしまった。そんなある日のこと、村役場の女子事務員が私の許に血相を変え、息せききって駆けこんできた。「先生、大変です。アメリカ兵が来ました。先生をさがしているんです。いまのうちに早く裏山にでも逃げて下さい。」というのだ。その頃は、米軍がしきりに戦犯を逮捕して巣鴨に収容している頃であった。
お嬢さんの説明によると、ジープ二台に乗った米兵が村役場にやって来て、「ミスター・コガはどこにいるか」と村長を掴まえてしきりに尋ねているのだという。気をきかした村長が、時間を稼ぎながら、女子事務員をそっと裏口からは知らせて私に連絡してくれたのだった。私には逃げる理由はなかった。軍歌を多少つくったことがあっても、戦時中は被圧迫者の一人だったのだ。説明すればわかるはずである。「いや、ぼくは逃げないよ」と、心配する家人たちに私は答えたが、夜道にジープのヘッドライトがだんだん近づいて来るのを見たときは、さすがに不安であった。
米軍の将兵たちは、私が探している当人だと知ると「オオ、ミスター・コガ」と、愛想よく、まるで百年の知己であるかのように握手を求めた。逮捕などという気配は全くない。いぶかる私に、一人が流暢な日本語で訪問の目的を説明してくれた。
彼等は戦争中、日本進駐後の司令部要員として、米陸軍で日本語の教育を受け、テキストとして日本映画を見せられた。ところがそのとき、私がかつて作曲した東京ラプソディなどの歌をきき非常に感動したのだという。そして、日本に行くようなことがあれば、作曲した古賀政男という男に、是非とも会ってみようと相談していたのだったという。彼等は親切にも、食糧難で私も困っているだろうと、ジープに食糧を沢山積んで、私にプレゼントするためはるばる訪ねて来てくれたのだった。
すでに夜となった。それに河口村は当時は電灯もない僻地の山村である。とにかく皆さん今夜は泊っていったらどうだと私が奨めると、彼等もそうしたいというので、私はなけなしのウイスキーを出して彼等の厚意に報いた。それから私の歌や外国の歌を唄いながら彼等と夜の明けるまで飲み明かし、朝になって私の歌を声一ぱい合唱して別れた。彼等の一人は別れ際に「ミスター・コガ、私たちの日本語が上達したのは、貴男のおかげです。心からお礼を申しあげたい」と、丁寧に頭を下げるのであった。……」
- 230 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/27(Wed) 09:12
- 「それからしばらく後のこと、私は在日韓国人の代表らしい人たちの訪問を受けた。彼等は「古賀さん、絶対に他言はしませんから、ほんとうの名前を教えてください。そしてこんごわれわれの力になってください」というのだった。・・(略)・・
この二つのできごとは、私にとって天啓であった。私はこれによって虚脱状態から立ち直る精神的糧を得たのだ。たとえ国はやぶれても、また私の築いた過去の基盤がうたかたのように消え去っても、私の歌は国境を越えて、人の心のなかに生き続けていることを私は改めて確認させられたのであった。私の歌だからということではない。それが歌というものなのだ。私はそのとき改めていのちのあるかぎり作曲を続けようと決意した。」
(古賀政男著『自伝 我が心の歌』(展望社、2001))
古賀政男は、昭和19年3月から20年8月まで河口湖畔に疎開。そして、戦後初の作品が「麗人の歌」(西條八十作詞 古賀政男作曲 霧島昇1946) 。
川口湖畔には、昭和20年に疎開のためにこの地を訪れた中で、地元中学校の校歌をはじめ、「河口湖おどり」「河口湖ワルツ」などの楽曲は、地域の音楽文化の礎となった。生誕100年を記念して平成16年に古賀政男記念公園として、「影を慕いて」音楽碑があって、懐かしいメロディーを奏でる。記念碑にはこの辺のことについて書かれている。
藤山一郎歌唱で、銀座を歌った戦後の歌に「夢淡き東京」(サトウハチロー作詞、古関裕而作曲)がある。「東京ラプソディ」(1936)に匹敵する、戦後の東京(銀座)の歌をということで、昭和22年(1947)につくられたもので、他にも戦後、銀座を歌った歌は山ほどある。
これらを含めて、あの青春の息吹溢れる、《モダン東京のテーマ曲》ともいえる「東京ラプソディ」(1936テイチク 門田ゆたか作詞)、や「なつかしの歌声」(1940コロムビア 西條八十作詞)。
これを超えるものはまだ出ていない、今後もでないだろう。
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
- 231 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/27(Wed) 09:23
- >>228-230
「東京ラプソディ」
門田ゆたか作詞 古賀政男作曲
歌 藤山一郎
昭和11年(1936)
1.
花咲き花散る宵も
銀座の柳の下で
待つは君ひとり 君ひとり
逢えば行く ティールーム
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
2.
現(うつ)つに夢見る君の
神田は想い出の街
いまもこの胸に この胸に
ニコライの かねも鳴る
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
3.
明けても暮れても歌う
ジャズの浅草行けば
恋の踊り子の 踊り子の
ほくろさえ 忘られぬ
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
4.
夜更けにひととき寄せて
なまめく新宿駅の
あのこはダンサーか ダンサーか
気にかかる あの指輪
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
5.
花咲く都に住んで
変わらぬ誓いを交わす
変わる東京の 屋根の下
咲く花も 赤い薔薇
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
昭和11年テイチク、昭和9年、コロムビアからテイチクに移った古賀政男。
古賀がビクターからテイチクに呼び寄せた藤山一郎。いわゆるテイチク黄金時代、古賀政男第二次黄金時代の幕開けとなる曲。
西条八十・古賀政男の黄金コンビ、だがコロムビアを退社していたので、八十の弟子・門田ゆたかの作詞になる。
- 232 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/27(Wed) 14:24
- 「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。
作曲家はこれまでたくさん出たが、「古賀政男」ほど多くの
ヒット曲を持つ作曲家はいない。
日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。
古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
昭和一桁代、その哀調を帯びた新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平 “節” 』に対し、『古賀 “メロディー” 』と呼んだのでした。
- 233 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/02(Tue) 10:28
- ◇戦後の主な古賀メロディ・・
圧倒的に西條八十が多い!。
麗人の歌 1946(西條八十作詞 霧島 昇歌〉
悲しき竹笛 1946(西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉
こころ月の如く 1947〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
旅の舞姫 1947(西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌
嘆きの小鳩 1947 (西條八十作詞、藤山一郎歌)
あの夢この歌 1948〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
三百六十五夜 1948〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
恋の曼珠沙華 1948〈西條八十作詞 二葉あき子歌)
湯の町エレジー 1948(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)
雨の夜汽車 1948(西條八十作詞、奈良光枝歌)
待ちましょう 1948(西條八十作詞、松田トシ歌)
トンコ節 1948(西條八十作詞、久保幸江歌)
誰に恋せん 1948(藤浦洸作詞、 高峰三枝子歌)(大映映画「誰に恋せん」主題歌)
友情の歌 1948(藤浦洸作詞、藤山一郎歌) (大映映画 『誰に恋せん』挿入歌)
なつかしのヴエノスアイレス1948(藤浦洸作詞、二葉あき子歌)
シベリヤエレジー 1948(野村俊夫作詞、伊藤久男歌)
愛の灯かげ 1949(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)
夢よもう一度 1949(西條八十作詩 二葉あき子歌)
希望に燃えて 1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング/新東宝映画「影を慕いて」より)(*)
(サトウハチロー作詞、伊藤久男、霧島昇、近江俊郎、二葉あき子、奈良光枝、高倉敏歌)
湯の町夜曲 1949(野村俊夫作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』主題歌)
たそがれの湖 1949(西條八十作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』挿入歌)
赤い靴のタンゴ 1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)
嘆きの孔雀 1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)(新東宝映画「処女宝」主題歌)
愛のカレンダー 1951(西條八十作詞、藤山一郎歌)
青いガス燈 1951(野村俊夫作詞、岡本敦郎歌)
夜の湖 1952(藤浦洸 作詞、藤山一郎歌)
ギター月夜 1952(西條八十作詞、霧島昇歌)
富士エレジー 1952(西條八十作詞、青木光一歌)
ゲイシャワルツ 1952(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
ザビエルの鐘 1953(西條八十作詞、青木光一歌)
見ないで頂戴お月様1953(野村俊夫作詞、神楽坂はん子歌)
長崎ブルース 1954(藤浦洸 作詞、山一郎歌)
湖畔のギター 1954(野村俊夫作詞、霧島昇歌)
おらんだ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよこ歌) (映画「春色お伝の方」挿入歌)
湯の町椿 1954(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
渚の子守歌 1954(西條八十作詞、織井茂子歌)
浪花ばやし 1954(西条八十作詞、青木光一神楽坂歌)
オランダ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよ子歌)
ピレネエの山の男 1955(西條八十作詞、岡本敦郎歌)
娘船頭さん 1955(西條八十作詞、美空ひばり歌)(松竹キネマ「娘船頭」主題歌)
シクラメン咲けど 1955(西條八十作詞、奈良光枝歌) (映画「暁の合唱」主題歌)
りんどう峠 1955(西條八十作詞、島倉千代子歌)
花のゆくえ 1955(門田ゆたか作詩、及川由子歌)(ラジオ東京『花のゆくえ』主題歌)
怒涛の男 1955(野村俊夫作詞、美空ひばり歌) (映画「力道山物語」主題歌)(原曲「櫛巻きくずし」)
都に花の散る夜は 1955(丘灯至夫作詞、青木光一歌) (原曲は「さらば青春」)
逢わないで (西條八十作詞、山本富士子歌)
恋の曽根崎 1955(西條八十作詞、美空ひばり歌) (『曽根崎心中』より)
お染久松 1955(西条八十作詞、空ひばり歌)
乙女心の十三夜 1956(西條八十作詩、島倉千代子歌) (映画「乙女心の十三夜」主題歌)
- 234 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/02(Tue) 10:32
- 169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 12:13
青春サイクリング 1956(田中喜久子作詞、小坂一也歌)
馬喰一代 1957(野村俊夫作詞、村田英雄歌)
思い出さん今日は 1958(星野哲郎作詞、島倉千代子歌)
無法松の一生 1958(吉野夫二郎作詞、村田英雄歌)
夜の酒場 1958(西條八十作詞、宝田明歌)
白い小ゆびの歌 1960(関沢新一作詞、島倉千代子歌)
雪之丞変化 1963(西條八十作詞、美空ひばり歌)
遊侠街道 1964(西條八十作詞、美空ひばり歌)
東京五輪音頭 1964(宮田隆作詞、 三波春夫歌)
柔 1964(関沢新一作詞、美空ひばり歌)
悲しい酒 1966(石本美由起作詞、美空ひばり歌)
我が心の歌 1968 (古賀政男作詞、アントニオ古賀歌)
銀座音頭 1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
若い銀座 1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
(明治百年大銀座祭記念作品、「銀座音頭」とともに西條八十最晩年の作品でもある。)
浜昼顔 1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母 1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)
*「古賀政男作品集 希望音楽会による古賀政男作曲集( ハーモニカ譜付)」新興音楽出版社/全音楽譜出版社, 1949頃
- 235 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/02(Tue) 10:39
- (参考)
■朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?
2020/05/14
h ttps://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/05/04/147322/3
半世紀かけて4000曲を手掛けた昭和歌謡の巨人・古賀政男。
第2回国民栄誉賞を受賞した偉人であり、2020年の朝ドラ『エール』にも登場する「木枯正人」のモデルです。
ドラマでは人気ロックバンドRADWIMPSの野田洋次郎さんが演じていますが、この偉大なる作曲家とはどんな人物だったのか?
その足跡を追ってみましょう。
目次
・8人きょうだいの古賀政男 生活は苦しく
・仁川に渡るも兄と母の折り合い悪く
・善隣商業学校へ入学
・民謡「アリラン」に影響を受け
・自殺衝動の中に生まれたメロディ『影を慕いて』
・こんな暗くて重苦しい曲がウケるのか……
・スランプの古関を救ったのは古賀だった
・結婚するもすぐに離婚 そしてテイチクへ
・「映画は日活、レコードはテイチク」
・軍歌に走るテイチクを辞める
・菅原都々子との間に何があった?
・“泣きべそ声”の背景にある
・突然の方針変換 古賀に何があったのか?
・皇道世界政治研究所
・『そうだ その意気』を発表
・軍歌の帝王に君臨したのはエールの古関
・淡谷のり子「私を殺して戦争に勝てるなら、どうぞ」
・作曲家たちの戦争責任は?
・古賀メロディーを歌っている限り……
- 236 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/03(Wed) 09:07
- >>178
【参考)
昭和24年は、戦後自由を謳歌する中で、歌の世界も大きく変わってゆく端境期。
服部良一作曲「青い山脈」(昭和24年)は、同、服部良一の作曲、笠置シズ子で爆発的にはやった「ブギウギ」と一体。
「セコハン娘」 (1946) 結城雄次郎作詞 服部良一作曲
「アイレ可愛や」(1946) 藤浦 洸 作詞 服部良一作曲
「東京ブギウギ」(1947) 鈴木 勝 作詞 服部良一作曲
「大阪ブギウギ」(1947) 藤浦 洸 作詞 服部良一作曲
「ラッパと娘」 (1946) 服部良一作詞/作曲
「買い物ブギー」(1950) 村雨まさを作詞 服部良一作曲
(「村雨まさを」は服部良一の筆名)
「ジャングル・ブギー」(1948) 黒沢 明 作詞 服部良一作曲
「ヘイヘイブギー」(1948)藤浦 洸 作詞 服部良一作曲
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