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スレ一覧
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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
- 最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?
今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。
昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。
レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。
- 367 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/01(Thu) 12:07
- (参考)
Electronic Journal
ttp://electronic-journal.seesaa.net/pages/user/m/comments/regist/input?article_id=23976803
- 368 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/01(Thu) 12:34
- (参考)
・「サヨンの鐘」によせて―「サヨンの鐘」資料一斑―(十訂稿)
―日本統治下台湾警察史の一齣―
ttp://home.hiroshima-u.ac.jp/tatyoshi/sayun001.pdf#search='%E3%82%B5%E3%83%A8%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%90%98%E8%B3%87%E6%96%99'
・歌謡曲「サヨンの鐘」の謎(2,000・12・25転記)
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no47.htm
・下村作次郎編「サヨンの鐘」関係資料集(日本統治期台湾文学集, 第2期 ; 28)緑陰書房, 2007.6
・サヨンの鐘 企画展 国立民俗学博物館
ttp://www.minpaku.ac.jp/museum/event/fs/movies0610
・「サヨンの歌」と「サヨンの鐘」
サヨンの歌
作詞:西条八十 作曲:古賀政男 歌唱:李香蘭
花を摘み摘み 山から山を 歌いくらして 夜霧に濡れる わたしゃ気まぐれな 蕃社の娘 親は雲やら 霧じゃやら ハイホー ハイホー
この「サヨンの歌」は、渡邊はま子がレコードの吹き込んだ「サヨンの鐘」とともに今でも台湾の人々に愛唱されている曲である。
李香蘭の出演した映画が凡てそうであったように、映画そのものよりも主題歌の方が生命力を持っているようだ。
サヨンの歌は、映画のことなど知らなくても十分に楽しめるし、その明るい牧歌的なリズムは記憶に残る。
映画そのものは、ビデオ化されているし、フィルムセンターなどでも見ることが出来る。
日本の台湾に於ける皇民化政策がいかなるものであったかを知るための歴史的資料として上映されることもある。
- 369 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/01(Thu) 17:31
- >>366
・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25
- 370 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/01(Thu) 22:35
- >>290-292,>>306
私の タンゴ年表
ー(古賀政男と日本におけるタンゴの歴史)・・
ttp://members.optusnet.com.au/~yhosaka/mytangohistory.html
- 371 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/03(Sat) 09:25
- ☆主な歌手と主な歌
>>117 古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
>>155-157 佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
>>139 関 種子と「古賀メロディ」
>>141 藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
>>144 ディックミネの代表曲(古賀メロディ)
>>146 楠木繁夫の代表曲
>>147 古賀メロディと霧島昇
>>119 李香蘭の歌う古賀メロディ
>>112 初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
>>127-130 西條八十と古賀政男
>>160 サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
>>165 佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
>>172 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>334-335 佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲・編曲作品
>>193-195 [古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
- 372 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/03(Sat) 22:41
- >>269-271 昭和SP歌謡 主な歌手(戦前・戦中)
- 373 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/03(Sat) 22:54
- >>362-369 ☆古賀政男に関する文献☆
- 374 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/07(Wed) 08:18
- 参考)
歌手生活60周年記念島倉千代子全集が発売
歌手生活60周年記念島倉千代子全集 CD38枚+DVD1枚 全600曲
販売元 日本コロムビア2014.4
ttp://www.u-canshop.jp/shimakura/
和製タンゴ第一号『日本橋から』など、古賀メロディを含む島倉千代子全600曲
- 375 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/08(Thu) 11:55
- タンゴと歌謡曲 ttp://voicejapan2.heteml.jp/janjan/column/0701/0701168221/1.php
- 376 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/11(Sun) 18:16
- >>141 藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
昭和の日本歌謡史上に燦然とした足跡を残す名歌手藤山一郎、藤山一郎は「歌謡曲」はもちろん、それ以外でも本名を含めて数え切れないほど沢山歌っている。しかし藤山一郎と言えば古賀メロディ。藤山一郎は、アルバイト時代のコロムビアを皮切りに、ビクター、テイチク、コロムビアと、ビクターを除いて古賀政男に合わせて転籍しています。
「藤山一郎」としての戦前のメジャーな代表曲としては、なんといっても、古賀メロディが圧倒的。それ以外で知られるのは、ビクター時代の「浅草の唄」「赤い花」「僕の青春(はる)」「チェリオ」などしょうか。
浅草の唄(西條八十作詞、中山晋平作曲)1933,4
赤い花 (佐伯孝夫作詞、松平信博作曲)1933
燃える御神火(西條八十作詞、中山晋平作曲 )1933
僕の青春(はる)(佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲)1933.
チェリオ(佐伯孝夫作詞、橋本国彦作曲)1934(小林千代子)
僕の銀座(佐伯孝夫作詞、加藤しのぶ作曲)(四家文子)
- 377 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/12(Mon) 08:36
- 日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。
古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
昭和一桁代、その新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。
- 378 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/15(Thu) 23:00
- 昭和3年、レコード歌謡が始まって以来の名門ビクター。
しかし、彗星のように現れた「古賀メロディー」のコロムビア。
昭和6年以降、「晋平節」から「古賀メロディー」の時代へと大きく変わっていく。
これまで主流だった中山晋平は、「古賀メロディー」の隆盛によって、昭和一桁をもってその作曲活動から遠ざかる。
昭和9年の「皇太子様お生まれなった」や、「さくら音頭」を最後に、以後、戦後、昭和27年に亡くなるまでほぼ空ろな余生を送ることになる。
西條八十は、昭和10年(1935)9月、ビクターに対する著作権上の不満から、ビクター専属をやめ、コロムビア専属となる。
こうして大御所・中山晋平に代わるビクターの主役は佐々木俊一に、詩人・西條八十に代わるのは、その弟子である作詞家の佐伯孝夫に。
以後、戦後に至るまで、ビクターを抑えてコロムビアは最大のレーベルとして君臨することになる。
コロンビアでのアルバイトで「古賀メロディー」の最大の功労者、藤山一郎は、
昭和8年4月、東京音楽学校を主席卒業して、ビクター専属となった。
しかし、古賀政男のいないビクターでは、これといってヒットは無かった。
しかし、専属契約の切れると、昭和11年5月、古賀政男に招かれテイチク専属となる。
そして、7月、「東京ラプソディ」を大ヒットさせる。
藤山一郎を得て、ここに世に言う「テイチク黄金時代」が始まる。
- 379 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/16(Fri) 07:41
- 昭和13年〈 1938〉、「人生劇場」(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫)(1938.6))を最後にテイチクから コロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米。
古賀政男33歳は、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰したのだ。
そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸でハワイ(ホノルル)経由でアメリカに向けて横浜湊を出港。
昭和13年11月には、これまでの音楽を集大成する「古賀政男藝術大観」と言う豪華本がでる。
. その後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山一郎も、昭和14年4月、古賀不在中のコロムビアに移籍。そして、10月10日に古賀が帰国する。
昭和10年(1935)年9月、ビクター専属から、 コロムビアへと移籍していた西條八十、ここに西條八十・古賀政男コンビが復活。
昭和13年(1938)にテイチクをはなれて、コロムビア専属となっていたサトウハチロー。
昭和15年(1940)にコロムビア専属となっていた佐藤惣之助、そして古賀政男がコロムビアに揃うこととなったのである。古賀政男第3期黄金時代を迎えた。
そして、楠木繁夫も、昭和17年(1942)に、再び古賀政男の誘いでコロムビアに移籍、大映映画「歌う狸御殿」にも出演。
- 380 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/16(Fri) 23:17
- 昭和27年も押し迫った12月2日、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、ある恩人の記念碑の除幕式に出席した帰りに、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。
主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。
母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした、この28日後、今から62年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。
晋平が目指したのは《誰でも歌える歌ずくり》でした。
告別式は翌年1月16日築地本願寺にて、日本ビクターの社葬として行われ、作曲家佐々木俊一の指揮するオーケストラによる「哀悼歌」、四家文子の独唱に続いて、ビクター児童合唱団、音羽ゆりかご会による「てるてる坊主」、最後には「カチューシャの唄」が歌われた。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。
その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千夜子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。
しかし、その後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、ビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。
中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。
以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。
- 381 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/17(Sat) 22:08
- 中山晋平の記念館は生地である長野県中野市と、熱海の梅園にある。熱海のは、「雨降りお月」「波浮の港」「東京音頭」など数々のヒット曲を作りだした中山晋平が晩年を過ごした別荘を梅園内に移築したもの。
館内には作曲に使用したピアノや、「シャボン玉」など直筆の譜面などが展示されている。
晋平は、東京中野区に住んでいたのだが、昭和10年2月に、熱海市の西山町に別荘を構える、49歳だった。
記念館には、大正8〜10年頃に購入し際に作曲に使用したピアノがある。東京・中野にて使用していたが、このとき、昭和10年に熱海の別荘に持ってきたものという。
昭和19年(1944)、戦局の悪化に伴い熱海の西山町に疎開し、それ以後、昭和27年に亡くなるまでこちらで過すことになる。ピアノが先に別荘の方に移っているのは象徴的ではあろう。。
実際、晋平は昭和23年に日本音楽著作権協会会長となるも、殆ど曲を作ることはなかった。
そして、同年12月2日に自らが作った『ゴンドラの唄』が使われた『生きる』を映画館で観た、その翌日に倒れ、30日3時30分、入院先の熱海国立病院で死去。死因は膵臓炎だった。65歳没。
(参考)
斉藤武雄他『定本中山晋平 唄とロマンに生きた全生涯』郷土出版社, 1987年
菊池清麿『近代日本流行歌の父 中山晋平伝』郷土出版社, 2007年
和田登 著「唄の旅人 中山晋平」岩波書店 2010年2月
映画「ララ、歌は流れる-中山晋平物語」(長野映研製作)
NHK連続テレビ小説「いちばん星」
- 382 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/19(Mon) 20:14
- 日 本 橋 か ら
作詩 浜田広介 作曲 古賀政男
昭和6年
1 お江戸日本橋 師走も暮れる
橋の上から あちらを見たりゃ
あちら葭(よし)町 人形町で
ヤレサ 鳴るのは 三味太鼓
2 お江戸日本橋 今年も暮れる
橋の上から こちらを見たりゃ
ならぶ建物 ほこりの雲で
ヤレサ 悲しい 入日空(いりひぞら)
3 お江戸日本橋 さいふが空で
橋の上から 遠くを見ても
どこえ行こうか ゆく手が見えぬ
ヤレサ お江戸の 思案橋
テレビで日本橋のことが取り上げられるとき、流される音楽。
それは江戸古謡「お江戸日本橋」に代わって、昭和のはじめ、80年以上前に作られた曲、
浜田広介作詞。古賀政男作曲「日本橋から」。日本におけるタンゴ第一号、タンゴの名曲でもある。
昭和6年1月 佐藤千夜子(ビクター)
昭和7年3月 関 種子 (コロムビア)
(参考)お江戸日本橋
お江戸日本橋 七ツ立ち 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ こちゃ高輪(たかなわ)・・
- 383 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/23(Fri) 08:27
- 「(ダンス音楽)日本橋から」
浜田 広介[作詞]
古賀 政男[作曲]
バクナデル[編曲]
巴里・ムーランルージュ楽員
製作者(レーベル) コロムビア(戦前)
発売年月日 1932-08
- 384 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/25(Sun) 19:22
- 昭和53年に出た古賀政男追悼本、「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))(220ページ)には、古賀政男と親交の深かった歌手や作曲家、文化人、芸能人、スポーツ選手、政治家等の追悼とか思い出、
『代々木上原三丁目 古賀政男邸』と題し、昭和13年に建てられた三千坪の古賀邸の庭や豪華な内部の写真と、古賀邸における古賀政男や愛用品,年譜など貴重な写真などがある。
また、昭和13年11月、外務省音楽文化親善使節として渡米するときの、藤原義江に見送られて東京駅を発つところ、同14年に帰朝し、松坂屋での歓迎会における三浦環との握手風景など。
また、その半分のページを割いて、『古賀政男傑作曲68選』と題して、「影を慕いて」「酒は涙か溜息か」から、「ひろしまの母」「浜昼顔」まで主な古賀メロディーの名曲68曲の楽譜と歌詞がまとめられていて圧巻。
「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))
- 385 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/27(Tue) 08:47
- >>383
「巴里ムーランルージュ楽員」とは、戦前、日本サロン音楽ファンに有名だった、東京フロリダ・ダンスホールのタンゴバンド、「巴里ムーランルージュ楽団」。
他に、「丘を越えて」などの録音がある。
- 386 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/06/03(Tue) 12:18
- 日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
《索 引》 (参考・主なもの)>>353
>>327-329 >>275 、>>325
- 387 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/06/10(Tue) 10:13
- 日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
《索 引》 (参考・主なもの)>>353
>>327-329 >>275 、>>325
- 388 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/06/18(Wed) 09:06
- トニムノメ
- 389 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/06/19(Thu) 19:37
- 「日本橋から」ってハバネラじゃないの?
- 390 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/02(Wed) 16:06
-
☆ 戦前の流行歌 ☆
ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt
今に残る多くの珠玉の名曲、それは主にレコード歌謡(歌謡曲)が誕生してからの10数年間に生まれたものでした。
- 391 名前:この投稿は削除されました 投稿日:この投稿は削除されました
- この投稿は削除されました
- 392 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/04(Fri) 08:13
- 2014年02月05日00:29
佐藤千夜子の『影を慕いて』―にいちゃんの「ナツメロダイアリー」
ttp://blog.livedoor.jp/melody1964/archives/51571665.html
- 393 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/05(Sat) 23:26
- >>387
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
《索 引》 (参考・主なもの)>>353
>>327-329 >>275 、>>325
- 394 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/27(Sun) 11:45
- ☆《丘を越えて》と山田耕筰
古賀は無性に楽しかった。将来の不安などを忘れ最後の青春を謳歌した。こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。限りない青春賛美の曲である。四十六小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。
楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。
(引用)流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽(菊池清麿)
h ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html
- 395 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/27(Sun) 11:50
- >>394
「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなで当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約二十万台といわれた時代に五十万から六十万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」(堀内敬三『音楽だす」(園部三郎『演歌からジャズへの日本史』)と、
クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。
だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。
歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。
- 396 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/28(Mon) 21:26
- (参 考)萩原朔太郎「流行歌曲について」
教科書で誰でも知っている詩人、萩原朔太郎も「流行歌曲について」で、次のように述べている。
「この十年来、日本の社会が日々に益々憂鬱になり、人心が絶望的に呻吟して、文化がその目的性と希望とを失ひ、年々歳々益々低落の度を深めて来て居るといふ事実である。
例へば少し昔には、古賀政男の名曲「酒は涙か溜息か」や「幻の影をしたひて」等が流行した。
これらの歌曲は、そのもつと前、欧洲大戦前後の好況時代に流行した、外国オペラの明朗な翻訳曲に比すれば、遥かに憂鬱で哀傷的のものであつたが、音楽として尚甚だ上品のものであり、
その精神には健全で浪漫的な青春のリリシズムが情操して居た。」と述べている。
一方、その後の「酒は涙か」から、勝太郎の「ハア小唄」」や,所謂「股旅小唄」等への流行的推移について、
「流行歌曲の種属は二つに別れる。
即ちセンチメンタルのものと、ナンセンス的のものとである。然るに此等の唄には、ナンセンスとしての“明朗性”もなく、センチメンタルとしての“抒情性”もない。」
「これもまた前時代の歌曲に比すれば、その品位のないことに於て、野趣的に卑俗化したことに於て、時代の文化的低落を語る一実証と見るべきだつた。」と。
萩原朔太郎「流行歌曲について」(「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社1997)
- 397 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/28(Mon) 22:26
- >>393
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
《索 引》 (参考・主なもの)>>353
>>390 戦前の流行歌
>>392 佐藤千夜子の『影を慕いて』―にいちゃんの「ナツメロダイアリー」
>>394-395 《丘を越えて》と山田耕筰
>>396 (参考)萩原朔太郎「流行歌曲について」
- 398 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/30(Wed) 22:17
- ☆インテリ層と古賀メロディー(昭和30年史)
戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。
そして9月18日未明、満州事変勃発。そして次のように記されている・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
この若き「藤山一郎」の歌う「古賀メロディ」の青春の息吹。
怒涛の如くに登場しただろう、それがインテリ層にであったことは、若き山田耕筰や、萩原朔太郎などからも窺い知ることができるのだが、特質に値するだろう。
昔の時代の人は貧しくも幸せだったろうと思うと同時に、80年を経た今日に至るも、ジャンルを越えていろいろな場面で、繰り返し、繰り返し根強く歌われ続け
演奏され続けていることはすごいことではないでしょうか。
(参考)
毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)
「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
人物クローズアップ 古賀政男、「酒は泪か溜息か」大ヒット
銀座で東北の惨状を訴える学生たちの写真も。
- 399 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/30(Wed) 23:16
- >>398
(参考)
日本の歴史は飢饉の歴史とも言われる。「古賀メロディ」の登場した83年前、日本はだ草深く、そしてまだ貧しかった時代であったろう。
昭和6年(1931)、日本は、今のモノのありあまる飽食の時代には考えることも出来ない、日本における最後の飢饉、昭和恐慌の下、太平洋戦争に至る遠因ともいわれる、昭和東北大凶作に苦しんでいた。
宮沢賢治の『雨にも負けず』は、このときのメモで手帳からみつかったもの。
(なお、日本で『米が余る』などといわれるのは、戦後も20年以上たった昭和40年代後半、昭和46年のことだった。
昭和6年の冷害飢饉で、大きな飢饉に見舞われた、青森十和田の三本木にできた農業試験場で何千種もの品種を交配し作った「藤坂五号」という
冷害に強い品種が出来たからだと言われる。)
そして、多くの貧しい東北の貧農出身の兵隊が満州事変に、日本の農村は疲弊してゆく。
「古賀メロディ」は、いいかげんなものではなく、「昭和」前半、そこにある多くの『哀しみ』とともに、まじめ受け止め生きた重いものを感じないわけには
いかないだろう。
こうした重苦しい世相の中で人々に圧倒的に迎えられた「古賀メロディ」。
参考に「昭和東北大凶作」とは・・
・山下文男著「昭和東北大凶作」
ttp://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/febe175a3b63de2e0f8365fbfc9bc6bb
ttp://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html
・娘ことごとく売られし村
ttp://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ab0d.html
- 400 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/31(Thu) 07:18
- 〜マンドリンのまち前橋〜朔太郎音楽祭HP h ttp://www.sakutaro-m.jp/
- 401 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/31(Thu) 07:39
- 中山晋平は、古賀政男の芸術を「感傷性と平易(大衆性)」と特徴づけた。
クラッシックを含めて、音楽表現するとき、いくつかの具体的で簡潔な表現が用いられる。
それが、“平易性(大衆性)”、“明朗性”、“抒情性”などである。
中山晋平、山田耕筰、萩原朔太郎など素養のある、実績のある音楽家・芸術家の使用する音楽表現のための基本用語である。
もちろん、クラッシックの香りがするなどとは言わない、そうした素人表現を使うことは無い。
具体的な音楽表現用語ではないから。
- 402 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/31(Thu) 08:37
- サロンコンサート 歌曲の調べ ttp://www.cf.city.hiroshima.jp/higashi-cs/kakyoku/46/
・朗読/日本歌曲を支えた詩人たち?萩原朔太郎(松本憲治/音楽)
詩集「月に吠える」より、詩集「純情小曲集」より、他
・萩原朔太郎の詩による日本芸術歌曲
「萩原朔太郎による四つの詩」から「笛」、「游泳」/團伊玖磨・作曲
「こころ」/別宮貞雄・作曲 「ほおずき」/三善晃・作曲
- 403 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/31(Thu) 08:57
- 男声合唱組曲「朔太郎の四つの詩」
作詩:萩原 朔太郎 作曲:清水脩 1.五月の貴公子 2.孤独 3.陽春 4.緑色の笛
ttp://nicoviewer.net/sm8104162
- 404 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/01(Fri) 07:42
- 明治大学 大学史の散歩道
明大人の昭和歌謡史群像 ―古賀政男から阿久悠、宇崎竜童に到る系譜―
ttp://www.meiji.ac.jp/koho/desukara/sanpomichi/2009/31-shouwa.html
- 405 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/01(Fri) 07:55
- (参考)代々木上原駅南口通り h ttp://www.uehara-minamiguchi.com/
小田急線代々木上原駅の南口、ホーム沿いの路を『音楽村通り』といいます。
古賀政男音楽博物館は、代々木上原駅(南口1)、『音楽村通り』を右に進み駅前交番前、交差する「井の頭通り」沿いです!。
なお、「井の頭通り」は拡幅され、当時の古賀政男邸のあったころの面影はそこに見当たりません。
- 406 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/01(Fri) 19:48
- (参考)
『青春よ永遠に 明治大学マンドリン倶楽部80年の歩み』(同倶楽部OB会、2002)
『大学史の散歩道』M-style No.027(2009年6月20日発行)
- 407 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/05(Tue) 12:31
- >>401
クラッシックの香りというと・・アロマチャージ ピースフル クラッシック ジャスミンの香りなどの、アロマといわれるものと混同される。
- 408 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/05(Tue) 18:29
-
藤山一郎『デッサンの確かな作品群』(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))
- 409 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/07(Thu) 16:34
- 藤山一郎は、昭和4年(1929)4月、東京音楽学校予科声楽部に入学 。昭和6年(1931)、3年生、20歳の時、アルバイトで「キャンプ小唄」「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」など歌った。
昭和8年(1933)3月に東京音楽学校を主席で卒業、ビクター専属になった。
コロムビアでアルバイト中、アルバイト禁止で困ってる時に、ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていたのだ。
ビクター時代の藤山は『燃える御神火』、『僕の青春』などがヒットした。
だが、音楽学校在校中に吹込んだ「古賀メロディー」ほどの圧倒的大ヒット曲には恵まれなかった。
主に佐伯孝夫、佐々木俊一コンビで、10分の1以下だった。
藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。
なお、20代を、若き古賀政男とともにし、溢れるように、「古賀メロディ」を、青春を、高らかに謳いあげていた、全盛期の若き藤山一郎。
一方、抑留復員後に復活した戦後の、すでに30代も後半になっていた藤山はさすがに全盛期の溌剌とした若き藤山一郎ではなかったろう。
そして昭和29年、この「歌う昭和史」藤山一郎はレコード歌手を引退し、NHKの嘱託となった。
- 410 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/07(Thu) 16:39
- 藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。
古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。
加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。
なお、古賀政男の作品について、全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でしたと書いている。
- 411 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/07(Thu) 17:05
- 古賀政男音楽博物館
「古賀政男音楽博物館」には、平成25年度までに、大衆音楽に貢献した歌手、作曲家、詩人・作詞家、演奏家、編曲家など、山田耕筰、弘田竜太郎など含め、殆どすべて221人が顕彰されています。
地下一階の「音楽情報室」では、顕彰者の作品をパソコンで計7000曲選んで聞くことが出来ます。(入館料500円だけ。)
古賀政男については、別にパソコンで1000曲以上選んで聴くことができます。
新宿駅より小田急線・東京メトロ代々木上原駅前です。行ってみましょう。
大衆音楽の殿堂 顕彰者一覧
h ttp://www.koga.or.jp/information/sanctuary/sanctuary_h25.html
h ttp://www.koga.or.jp/
☆大衆音楽の殿堂 主な顕彰者(参考) (平成25年現在)
△歌手
藤原義江、佐藤千夜子、徳山 l(たまき)、関種子、藤山一郎、松原操、楠木繁夫、淡谷のり子、二葉あき子、東海林(しょうじ)太郎、上原敏、霧島昇、ディックミネ、松平晃、伊藤久男、
渡辺はま子、中野忠晴、榎本健一、菊池章子、灰田勝彦、
安西愛子、松田トシ、近江俊郎、小畑実、岡本敦郎、坂本九、森繁久弥、美空ひばり、ペギ‐葉山、初代コロムビアローズ、三橋美智也、島倉千代子、三波春夫、春日八郎、村田英男、北島三郎、・・・
△詩人・作詞家
野口雨情、西條八十、佐藤惣之助、サトウハチロー、島田芳文、藤浦洸、長田幹彦、高橋掬太郎、島田欣也、佐伯孝夫、野村俊夫、藤田まさと、菊田一男、星野哲郎、なかにし礼・・
△作曲家
滝廉太郎、岡野貞一、本居長世、山田耕筰、中山晋平、弘田竜太郎、梁田貞、杉山長谷夫、堀内敬三、佐々紅華、古賀政男、江口夜詩、佐々木俊一、仁木他喜雄、万城目正、竹岡信行、服部良一、古関祐而、
仲田喜直、米山正夫、長津義司、大村能章、八洲秀章、吉田正、中村八大、宮川泰、船村徹、遠藤実・・・
その他(計221名)
- 412 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/08(Fri) 16:04
- 夏目漱石の小説「三四郎」にも登場する、本郷中央教会は日本基督教団に所属する、元日本メソジスト教会の教会で120年以上の歴史を持つ。
日本最初のパイプオルガンが設置され、日曜日にパイプオルガンと尺八や琴の和洋折衷の音楽界が開催されて、一流音楽家が演奏するようになる。
ウェールズ出身の教会音楽家エドワード・ガントレットが聖歌隊を指導した。作曲家岡野貞一は本郷中央教会のオルガニストとして長年仕えた。
ガントレットは、1898年、日本女性山田ツネと結婚、彼女の実弟は山田耕筰であり、長男のJ.O.ガントレットも青山学院大学で英語を教えるかたわら聖歌隊を指導した。.
佐藤千夜子、山田耕作(ガントレットの義弟)、外山国彦、中山晋平なども出入りしていた。東京音楽学校に物足りない佐藤は殆どこちらに通った。
昭和の始めの、佐藤千夜子、山田耕作、中山晋平など大衆音楽を作った音楽家たちのつながりがここに見える。
- 413 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/08(Fri) 17:04
- >>412
オルガンの文化史
h ttp://kawayama2.blog135.fc2.com/blog-entry-30.html
- 414 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/10(Sun) 21:08
- (参考)
流行歌年表・・君が代(明治13年)から、昭和30年まで
h ttp://suwiun.web.fc2.com/newpage77.html
- 415 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/15(Fri) 10:36
- >>407
アロマじゃないから「香り」じゃだめなんだね!。
- 416 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/15(Fri) 23:34
- 明確な特長がないとな!
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