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【1:212】  【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/06/19(Sun) 18:45

唱歌・童謡、新民謡、歌曲・歌謡曲、多くの詩人、作曲家が生まれ、明治以来たくさんの「日本の歌」が生まれました。

その歌は多くの詩人や作曲家の人一倍の歌にかけるたゆまぬ情熱と努力の賜物であり結晶であり、かけがえのない文化遺産です。

日本の音楽文化遺産、日本の名歌・名曲・名盤を語りましょう。



203 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/05(Sat) 21:53
「旅人の唄」

大正12年(1923年)2月 発表「旅人の唄」作詞 野口雨情/作曲 中山晋平

レコード:昭和3年12月発売『旅人の唄』ビクター/佐藤千夜子 歌 野口雨情 作詞 中山晋平 作曲 伴奏

昭和3年(1928)に野口雨情、作曲家の中山晋平らが行っていた「新民謡運動」で佐藤千夜子が「旅人の唄」を歌う。ちなみに、佐藤千夜子は日本初のレコード歌手と言われる。

佐藤は大正時代、野口&中山コンビ主宰「新民謡童謡普及運動」である「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に歌手兼講師で参加。当時「新民謡童謡普及運動」のメンバーは日本全国に限らず台湾、蒙古まで出掛けています。

旅人の唄 (野口雨情作詞 中山晋平作曲 佐藤千夜子歌)

 山は高いし 野はただ広し
 一人とぼとぼ 旅路の長さ

 乾く暇なく 涙は落ちて
 恋しきものは 故郷の空よ

 今日も夕陽の 落ちゆく先は
 何処の国やら 果てさえ知れず

 水の流れよ 浮き寝の鳥よ
 遠い故郷の 恋しき空よ

 明日も夕陽の 落ちゆく先は
 何処の国かよ 果てさえ知れず
 
 ・ CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536
 h ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536

旅人の唄 歌碑
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

204 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/05(Sat) 22:01
☆野口雨情作詞、佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品

童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品のうち,野口雨情作詞の代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲) 大正13年(内外蓄音機)
鶯の夢 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪 1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922)ビクター53876
須坂小唄 1928.8  (野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクター50385
青い芒  1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄 1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
港おどり 1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
紅屋の娘 1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクタ‐50755
船頭小唄 1932.6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクター52393


205 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/05(Sat) 22:03
野口雨情(1882〜1945)は、楠正成の弟・正季(まさすえ)の直系の子孫といわれる名家の生まれで光圀の「観海亭」を譲り受けた地元の人が「磯原御殿」と呼ぶ家に住んだ。
詩人では島崎藤村より一回り下の生まれ、北原白秋、三木露風、石川啄木、西條八十より一回り上だった。 

野口雨情は、放浪の詩人、土の詩人などとも言われる。野口雨情(英吉)の青春時代・明治時代は、まだ開拓と移民の歴史でもあった。
日本でも北海道開拓のために、多くの人が北海道の原野に入殖した。あの「赤い靴」の話も、厳しい寒冷地だった北海道入殖に伴う悲話といえる。雨情は北海道での生活の中で、そのことと出会う。

雨情という人は処世術とは程遠い不器用な人だった。親からの莫大な借財を背負い込んだ雨情の詩人としてのスタートは、不運と失意のくりかえしだった。
明治35年(1902)3月、文芸雑誌「小柴舟」によって詩壇に登場するが著名の域までにはいたらなかった。 同37年父の死により帰郷、家督相続、そして高塩ひろと結婚。
同38年3月、処女詩集「枯草」を自費出版した。 
父の残した借財整理の煩わしさから逃げたかったのか、同39年(1906)当時日本領であった樺太に渡ったものの事業は失敗、
帰郷後、月刊詩集「朝花夜花」の刊行も詩壇の一部で注目されただけだったが・・「七つの子」の原型が「山がらす」♪烏なぜなく 烏は山に 可愛い七つの子があれば・・としてここに載っている。



206 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/05(Sat) 22:07
広大な山林田畑を有し、回船問屋を営んでいたが、雨情9歳のとき、没落し、父量平は少なからぬ負債を抱えることとなった。
雨情は小学校を卒業すると上京し伯父の家から中学校に通い、ついで東京専門学校(今の早稲田大学)に入学して坪内逍遥の指導薫陶を受けた。
明治36年(1903年)には父量平が村長在職中に死亡し、雨情は郷里に帰り家督を相続して家業を守ることになったが、父の残した膨大な借財整理が肩にのしかかってきた。
そのころ日本の詩壇は新体詩の新しい時代に入りつつあり、与謝野鉄幹・島崎藤村(1872−1943)などが詩集を続々と刊行している。
雨情は借財整理に負われて、放浪する青春時代を経て世に出、そしてその後も、日本各地や、台湾、蒙古にいたるまで足跡がある。
彼の詩作活動は、土の詩人という表現は別として、深く地に根ざしたものということはできる。
大なり小なり昔の人は旅をしたが、彼ほど日本中をくまなく旅したものはいない。

しかし、昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発すると、社会は次第に戦時色が強まり、歌謡の世界も軍歌、軍国歌謡の時代となった。
雨情は進んで軍歌の類を作ろうとしなかったのでその活躍の場も次第に狭まることになったが、それでも雨情の雅致雄渾の書を愛する人が多かったので、揮毫のため各地を旅行するようになり、求められてはその地の民謡新作もした。

昭和18年(1943年)、それまで全国を駆け歩いていた雨情は突然軽い脳出血に冒され、それ以後、山陰と四国への揮毫旅行を最後として、療養に専念することになった。
そのうち空襲が激しくなったので宇都宮近郊に疎開したが、昭和20年1月6日・・(丁度ラジオからは「お山の杉の子」などが流れてたであろうころ)・・家族に見守られながら静かにこの世を去った。

雨情没後7年目の昭和27年(1952年)に、中山晋平、時雨音羽などが中心となって東京に「雨情会」が創設された。初代会長は中山晋平だったが、晋平も昭和27年に亡くなっている。


207 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/12(Tue) 18:09
☆サトウハチローと「童謡」
童謡を書きたいと希望して、15歳の時、詩人・西条八十に入門したハチローだったが、童謡で生活は出来ない。父・紅緑の書いた小説の映画化で主題歌を書き、そのヒットによって、歌謡曲の世界を歩いてきたハチローは、敗戦という大きな社会の変化の中で、本来希望していた童謡の道への手がかりを得た。しかし、それはこれまでの「童謡」とはだいぶ違ったものだった。

戦後のサトウハチローの作品に「ちいさい秋みつけた」 「かわいいかくれんぼ」「わらいかわせみに話すなよ」 「とんとんともだち」などある。
しかし、詩としてはいいが、今でも広く歌われ続けているのは、こうしたもの(「あたらしいしいこどものうた」というらしい。)ではなく、この70年以上前に作られた童謡・「うれしいひなまつり」(1936年、山野三郎名義)だった。


サトウハチローが、東京・上野の百貨店で豪華なひな飾りを買ったのは昭和10年のことだった。

サトウハチローが、ちょうど「うら街の交響樂」を書いていたころだった。価格は200円。大卒の初任給が50円くらいの時代だった。
その頃、妻と別居して子供を引き取っていて、小学生の女の子が2人いた。贈り物に喜ぶ娘を見ているうちに歌詞が浮かんだ。

あかりをつけましょ ぼんぼりに はなをあげましょ 桃の花・・

   ttp://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/ureshiihinamatsuri.html
   ttp://www.youtube.com/watch?v=_zv8bCakElM&feature=related

2番の歌詞に〈お嫁にいらした姉様に よく似た官女の白い顔〉とある。ハチローには、大好きな姉がいた。結婚式の前に病気で亡くなっている、19歳だった。面影を歌詞にしのばせ、童謡の世界で嫁がせた。
寺山修司編著の「日本童謡集」〈光文社カッパブックス1972〉と言う本の最初に、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」、「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」・・と。

「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか「ぞうさん」とか、[あたらしいこどもの歌」というのは 、NHKラジオ放送で昭和24年「歌のおばさん」が主体となっている。 当時はレコード主体の童謡黄金時代であったが、これはレコードではなくラジオである。 このラジオ番組で歌うのは童謡歌手でなく、歌の“おばさん”であった。

新しい“ラジオ”番組(「歌のおばさん」)で「あらしいこどものうた」をつくろうとした、大中恩、中田喜直、磯部俶、宇賀神光利、中田一次ら若手音楽家からなる、五人の作曲家グループは、昭和三十年「ろばの会」を作った。

サトウハチローは「ロバの会」には加わらなかったものの、詩は中田喜直に指定して渡した。

大中恩、中田喜直ら、ロバの会は、これまでの童謡歌手の歌う(レコード)「童謡」の排斥運動を展開した。
サトウハチローは「ロバの会」には加わらなかったものの、詩は中田喜直に指定して渡した。

(「排斥運動」は、主に戦後の童謡黄金時代において中心的な役割を果たし、川田三姉妹(正子、孝子、美智子)ら戦前から多くの「童謡歌手」を育成・輩出した「音羽ゆりかご会」主宰の、最後の童謡作曲家「海沼 實」などに向けられた。)
  ttp://www.0108.tv/nagano_kyouikukai.htm
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

208 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/12(Tue) 18:23
>>207

「うれしいひな祭り」

サトウハチロー作詞  
河村光陽作曲




あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓(ふえたいこ)
今日はたのしい ひな祭り

お内裏様(だいりさま)と おひな様
二人ならんで すまし顔(がお)
お嫁(よめ)にいらした 姉(ねえ)様に
よく似(に)た官女(かんじょ)の 白い顔

金のびょうぶに うつる灯(ひ)を
かすかにゆする 春の風
すこし白酒(しろざけ) めされたか
あかいお顔の 右大臣(うだいじん)

着物をきかえて 帯(おび)しめて
今日はわたしも はれ姿(すがた)
春のやよいの このよき日
なによりうれしい ひな祭り


(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

209 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/12(Tue) 18:54
■殆どの洋楽はクラッシックを基本としてる。日本では元々「歌謡曲」とは、いわゆるクラシック音楽の歌曲(リート)を指していた 。
したがって、[クラシック]そのものが、なんらの特長になるものではないことを心に留めなければならない。


いい音楽・曲は短かくも適切かつ十分な賞賛の言葉がでてくるはず。
ただ漠然と「クラッシックの香りがする」とかは、テクニック的で、あまり特徴のもないものでしょう。


■ たいせつなことは、歌は心(詩)であり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないということ。
曲は詩を越えることはできない。・・詩を大切にした古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」と繰り返しのべている。


「クラシック」は音楽の「必要条件」ではるが、「十分条件」にはなりえない。



■ 歌は「詩」を心で歌うものであり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たもの(詩情)でなければ、けっして聴く人の心を感動させるこはできない 。(必要十分条件)

因みに「クラッシックの香り」とは、消臭剤の香り(クラシックジャスミンなど)のことであることを付け加えておきたい。






210 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/20(Wed) 18:48
   
   「さすらいの唄」

北原白秋作詞・中山晋平作曲


行(ゆ)こか戻ろか 北極光(オーロラ)の下を
露西亜(ロシア)は北国 果てしらず
西は夕焼 東は夜明
鐘が鳴ります 中空(なかぞら)に

泣くにゃ明るし 急げば暗し
遠い灯(あかり)も チラチラと
とまれ幌馬車 やすめよ黒馬(アオ)よ
明日(あす)の旅路が ないじゃなし

燃ゆる思いを 荒野にさらし
馬は氷の 上を踏む
人はつめたし 我が身はいとし
町の酒場は まだ遠し

わたしゃ水草(みずぐさ) 風吹くままに
流れ流れて 果てしらず
昼は旅して 夜(よ)は夜で踊り
末はいずくで 果てるやら

大正6年(1917)松井須磨子
昭和9年(1934)佐藤千夜子

佐藤千夜子盤絶品!

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

211 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/20(Wed) 18:55
『ゴンドラの唄』

吉井勇作詩 中山晋平作曲 

1.いのち短し恋せよ乙女
紅き唇褪せぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを

2.いのち短し恋せよ乙女
いざ手をとりてかの舟に
いざ燃ゆる頬を君が頬に
こヽには誰も来ぬものを

3いのち短し恋せよ乙女
黒髪の色褪せぬ間に
心のほのほ消えぬ間に
今日はふたたび来ぬものを


『ゴンドラの唄』は、1915年(大正4年)芸術座公演『その前夜』における劇中歌として作曲され松井須磨子が歌った。昭和9年(1934)、佐藤千夜子が吹き込んでいる。


212 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/20(Wed) 22:46
>>211

生涯3000曲にも及ぶ中山晋平の原点となった「ゴンドラの唄」は苦労した母の人生をしのぶ歌でもあった。 晋平が8歳のとき父が死亡。その後、女手一つで4人の子供を育てた母が亡くなるのは、藝術座公演『その前夜』の幕開けが迫っていたときである。歌詞は吉井勇がすでに書きあげていた。
大ヒットした「カチューシャの唄」に次いで2度目の劇中歌であることから、関係者の期待や不安が晋平を襲っていた。どうしても曲ができず悩んでいた晋平のもとへ、故郷から「ハハキトク」の知らせが届いた。急ぎ帰京するも間に合わなかった。東京に戻る列車の中で母のことを思い悲しみに暮れていると、「ゴンドラの唄」の歌詞が語りかけてきて、列車の揺れとともに自然と旋律がわいてきたという。『その前夜』開幕8日前のことであった。
抱月・須磨子の死のあと晋平は藝術座を離れ、西条八十、野口雨情、北原白秋らと組んで精力的に童謡を作曲してゆく。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

大正から昭和の初めにかけて活躍した作曲家中山晋平、信州中野出身の晋平の目指したもの、晋平のすごいところ、偉大なところ、それは自らがクラッシックの作曲家として賞を獲得したり栄誉を勝ち取ることではなく、【誰でも歌える歌ずくり】だった。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
昭和27年12月2日、野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。
その28日後、今から67年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。 晋平が目指したのは一貫して《誰でも歌える歌ずくり》でした。

信州中野に一度帰った時、母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。



名前:

【2:176】  【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 17:53
【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
古賀政男(1904−78)作曲家、福岡県生まれ。明治大学卒業。ギターの伴奏で七五調二句からなる『酒は涙か溜息か』(歌:藤山一郎、詞:高橋掬太郎、1931年コロムビア)ほか、哀調を帯びたその旋律は"古賀メロディー"と呼ばれ、日本人の心をとらえた。『誰か故郷を想はざる』(歌:霧島昇、詞:西条八十、40年コロムビア)や『悲しい酒』(歌:美空ひばり、詞:石本美由起、66年コロムビア)は大ヒット。国民栄誉賞。

代々木上原一、二丁目,小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、当時の金で数十億といわれる群を抜いた著作権料。車がまだ一般的でなかったころから、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった昭和最高最大の印税長者古賀政男。





167 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/08(Wed) 16:35
(参考)

「音の歴史とビクター」日本ビクタ―(株)(研修資料)

抜粋
日本ビクタ―蓄音機株式会社創立前後
ラッパ吹き込みと電気吹き込み
赤盤と邦人歌手
レコード流行歌とビクタ―の独走
古賀メロディの出現
ラジオ放送とレコードの競争
昭和10年代 第一次・第二次大戦時代
昭和20年代 戦争は終わった
昭和30年代 SPの終焉とステレオレコード その他




168 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/09(Thu) 12:45
>>167

音の名門ビクター その貴重な資料から、古賀メロディーの出現について・・

古賀メロディーの出現  

古賀政男の最初のヒット曲「酒は涙か溜息か」が、昭和6年 8月に藤山一郎の唄 でコロンビアから発売されると、空前の 大ヒットとなった。「影を慕いて」が作曲としては早く、明大の学生当時(3年)に明大マンドリン倶楽部の演奏会で佐藤千夜子が唄っている。レコードも4年にビクターから発売されているが話題にならなかった。7年に藤山一郎が唄ってヒットさせている。
 古賀政男は子供の頃朝鮮に育ち、「ヨナ抜き」晋平節の流行の中で、日本的な 哀調味をただよわせながらも、朝鮮の俗謡に流れる哀愁味をつきまぜ、独特の頽廃感をもった曲である。藤山一郎は東京音楽学校 在学中で,レコード吹き込みが学校側に知れて、退学処分にされかけた。1ケ月の停学で ある。「酒は涙か溜息か」に続いてヒットした「丘を越えて」 (島田芳文作詞、古賀政男作曲)は、伴奏にアコーディオンを 初めて使ったものであったが、50〜60万枚売れたという。


169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/12(Sun) 20:24
作曲家古賀政男のレコードデビューは実は作曲家になる前、ギター演奏家(プレクトラム音楽家)としての古賀政男(正雄)のレコード吹込みが先だった。昭和四年七月新譜でコロムビアから発売された《恋慕流し》。

ギター・尺八連奏:恋慕流し 野村景久[尺八], 鈴木光久, 古賀正男[ギター] (コロムビア(戦前), : コロムビア COL 25565, 1929-06



尺八とギタ―の共演で、尺八の野村景久と共演した。本居長世、弘田竜太郎,宮城道夫、吉田晴風などの「新日本音楽」である。
さらに同年十一月新譜で同じコロムビアから、《花曇り》が発売された。これにもギター奏者として古賀政男は名前を連らねている。まだ、「古賀政男」ではなく「古賀正男」である。
 昭和四年十二月二十三日、佐藤千夜子歌唱、ビクターレコードで《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲)《娘心も》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)《青い小鳥》(作詞者・不祥/古賀正男・作曲)らが吹込まれた。自分の作品が当代随一の人気歌手、レコード歌手第一号佐藤千夜子の歌でレコードになる。最大大手のビクターからマンドリン作曲家としてデビューするのである。

170 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/18(Tue) 20:13
「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」・・・『古賀メロディ』の由来


昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」

と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平(晋平節)の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。

その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

古賀メロディの原点であり、不朽の名曲『影を慕いて』は、美しき日本の歌で、『波浮の港』とともにクラッシックの演奏会のプログラムにもよく見受けられるスタンダード。

今や「古賀メロディ」を超えて『日本の名曲』になっている。

優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽(映画主題歌)でもある。

人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。

多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品。

歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。

詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴く人の心を捉えて離さない。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

171 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/07(Sun) 12:43
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


ラジオ番組について

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=351156284&ls=50



172 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/19(Fri) 00:25
[古賀政男]は戦争中、当時の河口村(現河口湖町)に疎開しており、終戦を当地で迎えた。古賀が河口村に疎開したのは、東京大空襲の昭和20年3月から8月まで。
古賀メロディの隠れた名曲、NHK国民合唱「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)♪丘にはためくあの日の丸を仰ぎ眺める我らが祈り・・がある。
合唱版は昭和20年1月である。2月には硫黄島の戦い、3月10日一夜にして10万人が亡くなった東京大空襲・・。
昭和19年から日本各地に散らばった多くの疎開学童によって歌われたという。この歌を歌ってるとなぜか涙が出てきて歌えなくなる‥この歌を最後に古賀政男は川口湖畔に疎開となった。


今、河口湖湖畔にある記念碑の碑文によると、きっかけは陸軍省からの一本の電話だった。
古賀政男作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった山本(古屋)丈晴の故郷河口村に疎開することとなったのだ。

作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、昭和15年(1940年)1月20日、日本コロムビアから発売された。歌のヒットにより、新興キネマより同名映画が公開された。

西條八十作詞、古賀政男作曲の数えきれないほどたくさんある名曲のうちでも日本のスタンダードと言える名曲日常のごくありふれた日本の現光景、やさしい言葉、短い言葉で随所に散りばめられた詩人の殊玉の詩、それは今の世でも変わらず生き続けられる普遍性を持つ。

そこに嘘偽りがない、だからひとの心をとらえてはなさない。

ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。

西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。

慰問用レコードとしてすべて戦地に送られたという「誰か故郷を思わざる」。ところが戦地で望郷の想いやみがたい兵士の間で歌われ、内地に逆輸入された。

慰問に訪れた渡辺はま子がこの歌を歌うと、居合わせた畑俊六大将(支那派遣軍総司令官、後に元帥陸軍大将 第二総軍司令官)から末端の兵士まで等しく泣き渡辺も思わずもらい泣き、満場涙に暮れたというエピソードもある。

古賀は軍からは軟弱だといわれていたはずだが、こうしたこともあって、陸軍の中枢から非常事態、国難のさ中、戦争の最終段になって、戦禍から国民作曲家古賀政男を守らねばと気ずいたのだろうか。
なお、古賀政男は20年8月に復帰、戦後最初は昭和21年5月、霧島昇「麗人の歌」(西條八十作詞、古賀政男作曲)♪夢はやぶれて花嫁人形・・

平成18年11月、「古賀政男生誕百年」を記念して、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようと川口湖畔に記念碑と音楽碑が建立された。
湖畔公園/円形ホール・ オルゴールの森・河口湖美術館が立ち並ぶ湖畔エリア一帯は「古賀政男記念公園」になっている。


173 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/19(Mon) 22:07
☆タンゴ100年、日本におけるアルゼンチンタンゴの歴史と古賀政男
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=542627758&ls=50

174 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/08(Sat) 20:45
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男と藤山一郎との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。

175 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/18(Tue) 22:54
月の浜辺

   作詞 島田 芳文
   作曲 古賀 政男
   唄  河原喜久恵

 1.月影白き 波の上
   ただひとり 聞く調べ
   告げよ千鳥
   姿いずこ かの人
   ああ 悩ましの夏の夜
   こころなの 別れ

 2.月早やかげり 風立ちぬ
   われ啜り泣く 浜辺
   語れ風よ
   姿いずこ かの人
   ああ狂おしの夏の夜
   とこしえの 別れ



 1931年(昭和6年)5月、コロンビアから河原喜久恵の歌で
 発売されたもので、A面が藤山一郎の『キャンプ小唄』でした。
 青白い月の光に、わけもなく瞼がうるむ、淡く、なつかしい
 センチメントに溢れている曲です。作詞の島田芳文は、古賀政男
 がコロンビア専属初期のコンビですが、『丘を越えて』『キャンプ小唄』
 と主に、古賀の明朗な曲でヒットが多かった人です。オリジナル
 のレコードは古賀のギターだけの伴奏で河原が歌ったセレナーデ
 風の佳曲で、古賀が好んだジプシーの短音階で作曲されています。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

176 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/07(Mon) 13:29
昨年2018年12月30日、TPPがアメリカを除外で発行、著作権は死後50年だったものが、70年になった。
これに合わせ、著作権法が改正され著作権保護期間が50年から70年になった。

古賀 政男(1904年11月18日 - 1978年7月25日)は、昭和53年7月25日亡くなり、昨年昭和93年7月で40年であと10年だったが、
この改正で2048年12月まであと30年ということになる。

名前:

【3:649】  日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。





640 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/18(Tue) 20:29
「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」・・・『古賀メロディ』の由来


昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」

と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平(晋平節)の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。

その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

古賀メロディの原点であり、不朽の名曲『影を慕いて』は、美しき日本の歌で、『波浮の港』とともにクラッシックの演奏会のプログラムにもよく見受けられるスタンダード。

今や「古賀メロディ」を超えて『日本の名曲』になっている。

優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽(映画主題歌)でもある。

人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。

多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品。

歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。

詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴く人の心を捉えて離さない。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

641 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/21(Fri) 19:57
樹木希林さんを悼む

樹木希林さんが亡くなった、かってテレビの番組で「人生の並木路」について語った・・


もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、『人生の苦悩』を歌った歌の特集があった、内容は『神田川』などだった。

いかに昭和元禄、物の有り余る飽食の時代、親の作った弁当を食べずコンビニ弁当を食べる飽食の時代といえど、もはや“四畳半フォーク” が゛ “人生の苦悩”じゃ、世も末だなと思いました。

『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月8日、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」(1935))の主題歌。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、昭和30年代初めまで長く貧しい時代が続きました。戦前となれば信じられない貧しい時代もはやだったでしょう。

昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。

まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。

昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。

今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。

昔は昭和戦前まで、「二十四の瞳」に描かれてるように、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだされる、そんな時代であったことでしょう。

このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。
日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、大切なものがだんだん失われてゆくのは大変残念なことです。

家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。
支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。

どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。
この歌は、日本人が忘れかけていたこと大切なことを思い出させてくれます。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

642 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/07(Sun) 12:36
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


ラジオ番組について

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=351156284&ls=50



643 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/19(Mon) 22:04
☆タンゴ100年、日本におけるアルゼンチンタンゴの歴史と古賀政男

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=542627758&ls=50

644 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/08(Sat) 20:51
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。

645 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/10(Mon) 10:12
藤山一郎(1911.4.8-1993.8.21)が初吹込したのは、当時唯一の官立の音楽学校だった東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)在学中だったが、非常に完成された唱い方だった。昭和6年(1931)、まだ20歳になったかならないかの若さである。古賀政男27歳。まだ東京音楽学校本科2年生のアルバイト吹き込みで30曲あまりを吹き込んだのだった。

「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・これら藤山一郎の歌で世に出た曲は金融恐慌、満州事変の勃発、東北大凶作、日本が貧しく、苦難の時代の中で世に出た。同時に、「古賀政男」「藤山一郎」二人の原点でもある。

戦前の藤山一郎の、「丘を越えて」「青い背広で」「東京ラプソディ」「春よいづこ」など「古賀メロディー」の青春を高らかに歌いあげている。青春を謳歌する若く溌剌とした張りのある美声は古賀政男の数々の青春歌謡に相応しい。藤山一郎なくして古賀メロディの青春はなかった。しかし、藤山一郎は昭和18年以降、南方慰問に駆り出され、外地での抑留生活の空白の後日本に帰った浦島太郎、藤山の復員を待ち構えていたNHK。復員を初めて伝えたNHKの番組がきっかけで、以後、藤山はラジオ放送との係わりを深めてゆく。

「青い山脈」(1949)など藤山一郎の戦後の歌は、こうしてかっての若々しい頃から30代後半を過ぎ40代近くなって、あの若く溌剌さは消え去り、その5年後、昭和29年(1954)には、レコード歌手を引退、NHK嘱託となった。

最近の歌番組では、「昭和」というのはたくさん出てくるのだが、昭和にまだ足のつま先が残っただけの昭和末期、昭和50,60年代。


昭和は大正15年・昭和元年(1926)12月25日から、昭和64年(1989)1月7日まで62年14日、明治大正を合わせた60年より長い、世界的にも一番長い。

昭和元年は1週間しかなく、昭和は実質昭和2年から。レコード歌謡は昭和2年から3年にかけて始まった。「昭和」の由来は、書経堯典の「百姓昭明、協和萬邦」・・国民の安寧のもとに国際平和の実現を目指す・・ものだったが、実際は戦乱に明け暮れ貧しい民だった。そんな昭和の幕開け、まだ「青空」とか「アラビアの唄」などまだあちらの歌くらいしかなかった時代だ。

「歌う昭和史!」と言われる「藤山一郎」でさえ、「青い山脈」とか、戦後の歌しか知らない人、この「歌う昭和史」藤山一郎も戦後の歌手だと思っている人が多いのは残念な事。

「昭和」とは60年を超える明治大正を合わせたより長いのだ。




646 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/10(Mon) 10:18
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

キャンプ小唄   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて     (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄    (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932年2月 井上静雄名
影を慕いて    (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘      (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜 (今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲)   1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1.8 (日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘    (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊     (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ    (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)       1941.3
歌えば天国   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)     1941,7
リンゴが紅い  (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場    (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝) 1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

647 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/12(Wed) 00:44
ビクター時代の藤山は『燃える御神火』、『僕の青春』などがヒットした。
だが、音楽学校在校中に吹込んだ「古賀メロディー」ほどの圧倒的大ヒット曲には恵まれなかった。
主に佐伯孝夫、佐々木俊一コンビで、10分の1以下だった。

ビクタ―には、藤山一郎の才能を引き出す足るに足る才能がいなかった。



藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。

648 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/12(Wed) 00:58
歌手・藤山一郎は、『青い牧場』『決戦の大空へ』を最後に、昭和18年〈1943〉2月、ボルネオ・ジャワ方面の海軍将兵慰問のため船で横浜港を出発、
日本を離れた。その後抑留され、寄港したのは、昭和21年(1946)7月15日のことだった。

つまり、藤山一郎には、戦争を隔ててこの約3年余りの空白がある。
このあたりのことは、戦後の藤山一郎のことを読み解くうえで重要なことだが、あまり明らかにされていない。

1946年7月15日、藤山一郎は復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についた。いち早くこのニュースをかぎつけたのはNHKだった。
藤山は早速8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演をした。

これを皮切りに、日本での歌手活動を再開させることとなったのだが、彼の戦後の歌手活動の出発点が「ラジオ」であったことは戦後の活動を大きく制約されてしまうという点でたいへん残念なことではある。
活動範囲が、詩人などで、主にかっての西條八十など第一級の優れたレコード人脈から、少数のラジオ(番組)人脈に移ってしまったのはたいへん残念なことである。曲は詩を越えることはできないのだ。

もちろん年齢的にも、すでに30代後半になっていた。
あの20歳、東京音楽学校生徒で歌手デビューし、「古賀メロディ」の青春を高らかに歌い上げていたあの頃の若き20代のあの溌剌さも年とともに失われてゆくのはやむを得ないこと。

レコード界も大きく様変わりして行く、昭和28年には春日八郎に始まる演歌歌手が登場していく。

1954年(昭和29年)、藤山はコロムビアの専属歌手をやめ、NHKの嘱託となった。その理由について藤山自身は「自らのクラシックとポピュラーの中間を行く音楽生活を充実させつつ、将来活躍できる新人に道を譲るのも悪くない」と考えたからだと述べている。

もちろんそれ以外にも当然レコード歌手としての年齢的なこともあるだろう。

いずれにしても、昭和18年、突然に始まる3年間にわたる慰問抑留生活が、戦前から戦後へ、「歌う昭和史」ともいわれるこうした歌手・藤山一郎の抜きんでた才能や活動を大きく変えてしまった!。

649 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/07(Mon) 13:32
昨年2018年12月30日、TPPがアメリカを除外で発行、著作権は死後50年だったものが、70年になった。
これに合わせ、著作権法が改正され著作権保護期間が50年から70年になった。

古賀 政男(1904年11月18日 - 1978年7月25日)は、昭和53年7月25日亡くなり、昨年(昭和93年)7月で残り40年であと10年だったが、
この改正で2048年12月まであと30年ということになる。


名前:

【4:47】  苗字とは・・ 明治8年 平民苗字許可令
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/25(Thu) 19:59

昔、明治になるまでは平民が「苗字」を名乗ることはできませんでした。

よくテレビ番組で「苗字」についてやってるが、祖先が藤原氏だとか武田(信玄)だとか思ってしまうが、
間違いです。

日本国中の誰もが名字を名乗るようになったのは、
明治維新後の明治8年2月13日の「平民苗字必称義務令」からです。

姓名はどうやって名乗ったか〜それは明治8年2月13日に遡ることが重要です。



38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/06(Mon) 14:10
平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、平民苗字必唱義務令)は、日本の法令である(明治8年太政官布告第22号)。1875年(明治8年)2月13日公布。すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けた。
江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として、公家及び武士などの支配階層に限られ、一種の特権とされていた[1]。明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)[2]が定められた。この布告では初めて「平民」の語を用いて、華族及び士族(この両者は公家・武士の家柄がほとんどである)に属さない平民に「苗字」の使用を許した。しかし、当時の国民(平民)には、あえて苗字を使用しない者も多かった。そのため、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」を出した[3]。
本令では、苗字を称える(唱える)ことを義務づけ、「祖先以來苗字不分明ノ向」は新たに苗字を設けることとした。
1875年(明治8年)2月13日に平民苗字必称義務令が出されたことから、2月13日を「苗字制定記念日」という。また、明治3年9月19日(1870年10月13日)に平民苗字許可令が出されたことから、9月19日は「苗字の日」とされている。

39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/06(Mon) 14:13
本令では、苗字を称える(唱える)ことを義務づけ、「祖先以來苗字不分明ノ向」は新たに苗字を設けることとした。

40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/06(Mon) 14:19
平民苗字必唱義務令
明治8年2月13日太政官布告第22号

平民苗字被差許候旨明治三年九月布?候處自今必苗字相唱可尤?先以來苗字不分明ノ向ハ新タニ苗字ヲ設ケ候樣可致此旨布?候事






41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/06(Mon) 17:05
村の庄屋が苗字を付けたところには、全くのお百姓なのに「井伊」「本多」「酒井」「榊原」と四天王が小さな村に勢ぞろいしたところがあったとか。もっとすごいのは、自分で「近衛」「鷹司」などと届けようとした人が、さすがに役場から拒否されたという話を聞いたことがあります。

42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/06(Mon) 17:12
藤原にあやかりたいけど使っちゃ駄目だから一文字だけ貰って
佐藤、伊藤、斉藤、加藤とか籐の字が流行ったんだっけ

藤原が伊勢とくっつく→伊藤みたいな感じやぞ

43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/07(Tue) 16:50
明治時代以降、日本国民の全てが名字(苗字)を名乗るようになった。誰もが知っている通り、それ以前の時代では公家や武士、医師や学者、そして一部の豪農(庄屋・名主など)や有力な町人(町名主・年寄など)などに限って名字(苗字)を持つことが許されていた。
それが明治3年(1870年)9月19日の『平民苗字許可令』を経て、明治8年(1875年)2月13日の『平民苗字必称義務令』により、我国の国民は皆、公的に名字(苗字)を持つことになった。これは、明治維新を迎えて武士の世が終わりを告げ、文明開化と共に四民平等の世界が来たことの象徴の様に思えるが、「徴兵制」と「徴税」の効率化のためだった・・・。
 

44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/07(Tue) 16:55
明治8年前までの日本の苗字
苗字は「名前の豆知識」ページにも紹介しているように、平安時代の終わり頃に新興の武士が名乗り、その後は時代の流れに沿い御家人や公家などにも付けられるようになり、地主となる豪農などにも付けられるようになります。
領地の管理に関わることで付けられた苗字ですが、江戸時代には「苗字帯刀禁止令」が出され、苗字を名乗り帯刀することは武士の特権とされたため、平民は公の場で苗字を名乗ることを禁じられました。
明治に入り、明治3年に平民にも苗字の使用が許可され登録を促しましたが、税金を多く取られるようになるのではないかという憶測や登録後改名をしてはいけないという法令、徴兵令が出されたことなどにより、順調には進みませんでした。
平民苗字必称義務令の発令
苗字制度は、明治8年2月13日に公布された「平民苗字必称義務令」により、大きく動きます。この法令により強制的に全ての国民に苗字が付けられました。ほとんどの人はご先祖から受け継いだ家名を登録したようですが、中には家名も分からない人やこれを機に苗字を変えた人もいました。
苗字がわからないという人が新しい苗字を持ち、苗字を変えた人などがいたこの時期は苗字の転換期となり、この頃生まれた新しい苗字のことを「明治の新姓」と呼びます。


45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/01(Fri) 13:52
テレビでいろいろな苗字についてやってるが、
それぞれその苗字の個人が、それとつながってるわけではないのだ。

46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/03(Wed) 22:58
苗字とは・・ 明治8年 平民苗字許可令

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=495709999&ls=50

47 名前:疑問解決したい爺 投稿日:2019/01/14(Mon) 08:30
「斎部」は使ってはいけない名字なのでしょうか?
また「忌部」「斎部」はなぜ皆、改称したのでしょうか?
何か、調べる手立てがあるならばおしえてください。

名前:

【5:148】  日本の歴史における「男色」について
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/12(Wed) 14:18
日本の歴史には古く寺院に始まり、武家社会で謳歌され明治に引継がれた
男色=少年愛と言うのが有ります。

これを無視して武家社会=日本史を正しく語ることはできません。

「男色」って知ってましたか?。

男色って?・・


139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/03(Mon) 14:48
(参 考)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」(河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002

140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/05(Wed) 20:58
賤のおだまき    国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 ttp://kindai.ndl.go.jp/index.html
 こちらから見れます。
1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂, 明20.8

三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収(平凡社1974))
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002
平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
鹿児島県立図書館編纂・北川鉄三著「郷中教育」、薩摩の郷中教育頒府委員会、
松本彦三郎著「郷中教育の研究」原版(1944年)復刻版(2007年)、尚古集成館
若者制度の研究・復刻版(原発行昭和11年)、財団法人青年館出版昭和43年、
安藤保「幕末維新期、薩摩藩の郷中教育」
鹿児島市史編さん委員会「鹿児島市史U」昭和45年発行、
出水郷土誌、
都城史・中世・近世編 宮崎県史蹟調査八号  
宮崎県史蹟調査八号、都城市史通史中世・近世編


柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993に詳しい。
 花咲一夫「江戸の蔭間茶屋]     三樹書房1982
 樋口清之「史実 江戸」      芳賀書店 1967
 稲垣足穂 「少年愛の美学」河出文庫 河出書房新社1991
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/05(Wed) 21:13
白洲 正子[両性具有の美] (新潮文庫)



142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/07(Fri) 18:26
(参考)
上野 篤「健児之社」(中文館書店 昭12) ソメ2-60(国会図書館。浜松町、三庚図書館蔵)


143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/11(Fri) 21:54

賤のおだまき    国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 ttp://kindai.ndl.go.jp/index.html
 こちらから見れます。
1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂,    明20.8

三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収(平凡社1974))
礫川全次「男色の民俗学」歴史民俗学資料叢書・第二期 (批評社 2003年)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002
平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
鹿児島県立図書館編纂・北川鉄三著「郷中教育」、薩摩の郷中教育頒府委員会、
松本彦三郎著「郷中教育の研究」原版(1944年)復刻版(2007年)、尚古集成館
若者制度の研究・復刻版(原発行昭和11年)、財団法人青年館出版昭和43年、
安藤保「幕末維新期、薩摩藩の郷中教育」
鹿児島市史編さん委員会「鹿児島市史U」昭和45年発行、
出水郷土誌、
都城史・中世・近世編 宮崎県史蹟調査八号  
宮崎県史蹟調査八号、都城市史通史中世・近世編


柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993
花咲一夫「江戸の蔭間茶屋]     三樹書房1982
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/11(Fri) 22:05
森鴎外 ヰタ・セクスアリス

十三になった。
 去年お母様がお国からお出になった。
 今年の初に、今まで学んでいた独逸語を廃(や)めて、東京英語学校にはいった。これは文部省の学制が代ったのと、僕が哲学を遣りたいというので、お父様にねだったとの為めである。東京へ出てから少しの間独逸語を遣ったのを無駄骨を折ったように思ったが、後になってから大分益(やく)に立った。
 僕は寄宿舎ずまいになった。生徒は十六七位なのが極若いので、多くは二十代である。

中には貸本屋に借る外に、蔵書としてそういう絵の本を持っている人もあった。硬派は可笑しな画なんぞは見ない。平田三五郎という少年の事を書いた写本があって、それを引張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これが毎年元旦に第一に読む本になっているということである。三五郎という前髪と、その兄分の鉢鬢奴(ばちびんやっこ)との間の恋の歴史であって、嫉妬(しっと)がある。鞘当(さやあて)がある。末段には二人が相踵(あいつ)いで戦死することになっていたかと思う。
 軟派は数に於いては優勢であった。何故というに、硬派は九州人を中心としている。その頃の予備門には鹿児島の人は少いので、九州人というのは佐賀と熊本との人であった。 僕は硬派の犠牲であった。何故というのに、その頃の寄宿舎の中では、僕と埴生(はにゅう)庄之助という生徒とが一番年が若かった。埴生は江戸の目医者の子である。色が白い。目がぱっちりしていて、唇は朱を点じたようである。体はしなやかである。僕は色が黒くて、体が武骨で、その上田舎育である。それであるのに、意外にも硬派は埴生を附け廻さずに、僕を附け廻す。僕の想像では、埴生は生れながらの軟派であるので免れるのだと思っていたのである。
 学校に這入(はい)ったのは一月である。寄宿舎では二階の部屋を割り当てられた。同室は鰐口弦(わにぐちゆずる)という男である。この男は晩学の方であって、級中で最年長者の一人であった。白菊石(あばた)の顔が長くて、前にしゃくれた腮(あご)が尖(とが)っている。痩(や)せていて背が高い。若(も)しこの男が硬派であったら、僕は到底免れないのであったかと思う。
 幸に鰐口は硬派ではなかった。どちらかと云えば軟派で、女色の事は何でも心得ている 教師が憚るくらいであるから、級中鰐口を憚らないものはない。鰐口は僕に保護を加えはしないが、鰐口のいる処へ来て、僕に不都合な事をするものは無い。鰐口は外出するとき、僕にこう云って出て行く。
「おれがおらんと、又穴(けつ)を覗う馬鹿もの共が来るから、用心しておれ」
 僕は用心している。寄宿舎は長屋造であるから出口は両方にある。敵が右から来れば左へ逃げる。左から来れば右へ逃げる。それでも心配なので、あるとき向島の内から、短刀を一本そっと持って来て、懐(ふところ)に隠していた。
 
 盲汁仲間はがやがやわめきながら席を起(た)った。鰐口も一しょに出てしまった。
 僕は最中にも食い厭(あ)きて、本を見ていると、梯子(はしご)を忍足(しのびあし)で上って来るものがある。猟銃の音を聞き慣れた鳥は、猟人(かりゅうど)を近くは寄せない。僕はランプを吹き消して、窓を明けて屋根の上に出て、窓をそっと締めた。露か霜か知らぬが、瓦は薄じめりにしめっている。戸袋の蔭にしゃがんで、懐にしている短刀のをしっかり握った。
 寄宿舎の窓は皆雨戸が締まっていて、小使部屋だけ障子に明(あかり)がさしている。足音は僕の部屋に這入った。あちこち歩く様子である。
「今までランプが付いておったが、どこへ往ったきゃんの」
 逸見の声である。僕は息を屏(つ)めていた。暫(しばら)くして足音は部屋を出て、梯子を降りて行った。
 短刀は幸に用足たずに済んだ。



145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/14(Mon) 16:31
>>139-143

上野 篤「健児之社」(中文館書店 昭12) ソメ2-60(国会図書館。浜松町、三庚図書館蔵)

146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/07/27(Fri) 16:27
年齢的にそういう菊の強制を社会システムとして受け入れた人らって、今何歳くらいの長老達だろうか?自分の見当では現在90歳半ばで、高学歴で社会的身分の結構高い人たちに見える。敗戦後、アメリカ合衆国のいいなりになって、おとなしく、正常愛の仮面をつけて暮らしてきたわけだ。なんか、からくりがさらけ出されると、笑っちゃうな。

147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/03(Fri) 21:15
笑った

148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/03(Wed) 23:01
日本の歴史における「男色」について

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=347427116&ls=50

名前:

【6:28】  日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/19(Mon) 23:51
何でも有り余る飽食の時代と言われて久しい今、歌もありあまり、そしてなんでも「名曲」となって本当の名曲を知らない人が多くなった今、
明治以降の長い歴史の中で、優れた日本の文化遺産としての真の名曲を振り返り、
つつ、真の【日本の名曲】について語ろう!。


19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/26(Wed) 00:29
叱られて 名盤

叱られて 藤原義江 清水かつら 弘田竜太郎 0311 COL 25176 黒盤 17
叱られて 佐藤美子 清水かつら 弘田竜太郎 0311 COL 25205 黒盤 31
叱られて 鈴孫竜男 清水かつら 弘田竜太郎 0408 VIC 50848 黒盤 484
叱られて 宮川美子 清水かつら 弘田竜太郎 0611 COL 35216 @ 青盤 1638 328
叱られて 川路美子 清水かつら 弘田竜太郎 0709 NIT 5743 黒盤 3482
叱られて 奥田良三 清水かつら 弘田竜太郎 0806 POL 5076 赤盤 5005
叱られて 内本 実 清水かつら 弘田竜太郎 0906 COL 35433 青盤 5944
叱られて 阿部幸次 清水かつら 弘田竜太郎 1009 TAI 56315 赤貝星 8021
叱られて 三浦 環 清水かつら 弘田竜太郎 1104 COL 35483 青盤 9105
叱られて 川路美子 清水かつら 弘田竜太郎 1100 NIT S1413 大衆S盤 9445
叱られて 井崎加代子 清水かつら 弘田龍太郎 1112 TAI 21077 赤WS 9820
叱られて 斎田愛子 清水かつら 弘田竜太郎 1209 VIC 13523 赤盤 12791
叱られて 永田絃次郎 清水かつら 弘田竜太郎 1304 KIN 20077 群青盤 13433
叱られて 奥田良三



20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/26(Wed) 18:41
浜千鳥

作詩 鹿島 鳴秋
作曲 弘田龍太郎



青い月夜の浜辺には
親を探して鳴く鳥が
波の国から生まれ出る
濡れた翼の銀の色

夜鳴く鳥の悲しさは
親をたずねて海こえて
月夜の国へ消えてゆく
銀のつばさの浜千鳥

『浜千鳥』は、作詞:鹿島 鳴秋、作曲:弘田 龍太郎による日本の童謡。雑誌『少女号』で1920年(大正9年)1月号に発表された。鹿島 鳴秋は6歳の時に父が家出をし、母は再婚して他家に嫁いだため、幼くして両親と生き別れになってしまった。
『浜千鳥』を作詞した当時は仕事も充実しており精神的にも余裕のあった頃だが、やはり幼い頃に親から見捨てられてしまった深い悲しみは、大人になっても癒えることはなかったようだ。
鹿島 鳴秋(1891-1954)は、童話作家・雑誌編集者・詩人。子ども向け雑誌の草分け「少女号」編集・発行人。


浜千鳥  名盤
浜千鳥 煤孫竜男 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 0408 VIC 50846 黒盤 482
浜千鳥 ベルトラメリ能子 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 0610 COL 35206 青盤 1632
浜千鳥 三浦 環 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 0710 COL 35316 青盤 2945
浜千鳥 立石喬子 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 0707 KIN K158 キンポリ 3401
浜千鳥 川路美子 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 0709 NIT 5743 黒盤 3483
浜千鳥 萩野綾子 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 0803 VIC 13260 赤盤 5481
浜千鳥 川路美子 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 1100 NIT S1001@ 大衆S盤 9358 113
浜千鳥 斎田愛子 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 1207 VIC 13523 赤盤 12790
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/27(Thu) 08:33
「荒城の月」

「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)という歌は、現在の東京芸術大学〈音楽学部〉の前身である「東京音楽学校」主導で中学の音楽教科書のためにつくられた。

明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされる。

明治44年、師である瀧廉太郎が日本最初にドイツに留学するにあたって、門下生である三浦環は、送別演奏会で「荒城の月」(『荒城月』)を歌った。

当時は「歌曲」と言えば外国曲(でなければばらない)とうのが一般的風潮だった中で、昭和3年、藤原義江によってビクターで吹き込まれたのが「荒城の月」レコードの最初。

哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。

世界で活躍していた我等のテナー「藤原義江」は、どこの国に行っても自分の生れた国の歌も歌えないようでは相手にされないとして、率先して日本の歌曲を歌い広めた事でしたれる。

三浦環の「歌姫は強き愛国心をもたざれは」に通ずることだ。

他に、藤原義江は山田耕筰の「この道」その他や、弘田龍太郎の「叱られて」「浜千鳥」などをレコードにしている。

『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたというものではないが、つい30年前「明治維新」 における日本の内戦である戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜- 明治2年(1868年 - 1869年))と無関係ではないのだ。

武家の「栄枯盛衰」とそれに伴う「無常感」が滲んだ詩は、お寺の「講話」にも使われている。
「荒城の月」は、1898(明治31)年、土井晩翠は会津の「鶴ヶ城」をイメージして造られたものだと土井晩翠自身が語っている。(※)

※土井晩翠が1927年6月29日滝廉太郎45年祭で語り、放送された。

幼い頃から父と祖父から戊辰戦争における会津の悲劇と仙台から見た会津の英雄伝をたくさん聞かされて育った晩翠。

そして二高の時、明治維新後、落城したまま、ほったらかされていた「鶴ヶ城」に行き、悲惨な戦争の跡地から月を見て、なんとも儚い想いを詩にした晩翠の詩、それに子供のころを過ごした・大分県竹田の「岡城」から曲を着想した滝廉太郎の作曲がおりなす「荒城の月」。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが昭和17年古賀政男編曲になる。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/27(Thu) 08:38
☆「荒城の月」について

『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲(歌李香蘭)


23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/27(Thu) 08:44
☆(参考)「荒城の月」 SP時代の主な名盤

 1928.02 藤原義江 VIC1175赤盤

 1931,01 萩野綾子 VIC13109赤盤         (橋本国彦編曲版)

 1931,02 奥田良三 POL631631

 1933.05 四家文子 VIC52673

 1933.07 増永丈夫(藤山一郎)VIC52756      (橋本国彦編曲版)

 1936.01 関屋敏子 VIC13452赤盤

 1937.10 藤原義江 VIC13527赤盤

 1942.09 李香蘭  COL100542 @赤盤(スダレ)   (古賀政男編曲版)


24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/27(Thu) 11:16
「宵待草」
大正浪漫を代表する画家・詩人である竹久夢二によって創られた詩歌『宵待草』。
”待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな”
宵待ち草は、日暮れを待ちかねたように月を映して咲きはじめ、一夜限りにはかなく散ってゆきます。
一般には月見草と呼ばれていますが、正しくは”オオマチヨイグサ”。
夢二によって創られた『宵待草』は、「待ち」「宵」にかけているのでしょう。
大正浪漫を代表する詩人の付けたタイトルには、どこか粋とロマンを感じます。。
恋多き夢二だったようですが、これは実ることのなかったひと夏の恋を詞に謳い上げたものです。

「宵待草」
竹久夢二作詩
多忠亮(おおのただすけ)作曲

待てど 暮らせど
こぬひとを
宵待草の
やるせなさ
こよいは月も
出ぬそうな




25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/27(Thu) 11:19
宵待草 名盤

宵待草  藤原義江 竹久夢二 多 忠亮  0307 VIC4045 赤盤
宵待草  柴田秀子 竹久夢二 多 忠亮  0606 COL26271 黒盤
宵待草  井上脇子 竹久夢二 多 忠亮  0704 VIC52216 黒盤
宵待草  和田春子 竹久夢二 多 忠亮  0711 PAR E1941
宵待草  内木 実 竹久夢二 多 忠亮  0807 COL35365 青盤
宵待草  奥田良三 竹久夢二 多 忠亮  0905 POL2051 黒盤
宵待草  関屋敏子 竹久夢二 多 忠亮  1006 VIC13430 赤盤
宵待草  三浦 環 竹久夢二 多 忠亮  1106 COL35435 青盤
宵待草  内木 実 竹久夢二 多 忠亮  1110 NIT61002 青盤
宵待草  川路美子 竹久夢二 多 忠亮  1100 NIT S1413 大衆S盤
宵待草  長門美保 竹久夢二 多 忠亮  1306 KIN20096 群青盤
宵待草  柴田秀子 竹久夢二 多 忠亮  1310 VIC J54395 黒盤
宵待草  長門美保 竹久夢二 多 忠亮  1411 KIN30123 群青盤
宵待草  東海林太郎 竹久夢二 多 忠亮  1410 POL2883 黒盤
宵待草  長門美保 竹久夢二 多 忠亮  1704 KIN67025 群青盤
宵待草  李香 蘭 竹久夢二 多 忠亮  1709 COL100542 赤盤

0307 :発売年月 昭和3年7月









26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/30(Sun) 23:04
>>24-25

ほかに


宵待草 ベラトラメリ能子 竹久夢二 多 忠亮 1008 COL35471 青盤

四家文子(1928)、関種子(1934)などの盤がある。

27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/03(Thu) 22:51
日本の名曲・・それは日本の歴史を凝縮し、その上にそれなりの知る人ぞ知る名詩人が、知る人ぞ知る大作曲家が心を込めて
作った、そして昨日今日できたものではなく、戦前から80年以上の長きにわたって、藤原義江、三浦環、
関谷敏子、ベラトラメリ能子,川路美子、奥田良三、四家文子、関種子など知る人ぞ知る日本の名歌手たちが
競って歌い広めた歴史を持つもの。

28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/04(Fri) 12:36
>>22-23

荒城の月
作詩 土井晩翠  作曲 滝廉太郎

藤原義江 0302 VIC1175 赤盤
藤原義江  0310 ORI30012
ブカナン  0511 COL26015
荻野綾子  0601 VIC13109 赤盤
奥田良三  0602 POL631
黒田 進  0606 TAI3034
牧 嗣人  0701 COL35221
内本 実   0801 COL35336
四家文子 0805 VIC52673
藤山一郎 0800 VIC52756
藤山一郎 0907 VIC53108
関屋敏子 1101 VIC13452 赤盤
奥田良三 1104 POL2268@
永田絃次郎 1110 KIN10002
藤原義江 1210 VIC J54098
藤原義江 1211 VIC13527 赤盤
藤山一郎、女声合唱団1501 COL30467@
井口小夜子 1704 KIN67025
李 香蘭 1709 COL100542@
帝国合唱団 1803 TEI T3418




名前:

【7:21】  日本における児童労働・児童虐待の歴史
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/04(Sun) 12:21
明治以降急速に欧米化を目指して突き進んだ日本の歴史、その中で
貧富の差は激しかった。その中で人の人生は12歳、小学校卒業で決まってしまった。
教育の機会均等も戦後御昭和24年位までなかった。
多くは幼くして奉公とかに出されたのだった。



12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 19:30
昔も学校ではいじめがあった。

以下は、貧しい時代背景がよくでていて涙を禁じ得ない・・


 昭和6年(1931).1.13〔高等小学校2年生(満13〜14歳)がイジメ復讐殺人〕

熊本県上益城郡の路上で、高等小学校2年生(15)が同級生(16)の顔や頭を肥後守でめった刺しにして殺害、もう1人の同級生(15)の脇腹を刺して重傷を負わせた。

貧しい農家のため弁当を持ってこれないことをからかわれ、呼び出して謝るように迫ったがまたからかわれたためカッとしたもの。幼い兄弟5人の世話や畑仕事もやって両親を助けていた。




13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 20:33
坪井栄の小説「二十四の瞳」は、昭和27年〈1952)に発表、29年に映画化された。
1928年(昭和3年)から1946年(昭和21年)まで、すなわち、昭和の戦前期、終戦、その翌年まで、18年間が描かれている。
日本がまだ貧しかった時代である。またそれはレコード歌謡の黄金時代、日本の映画黄金時代ともかさなる。
当時の時代背景を知るうえで非常に貴重で参考となる。

昭和3年〈1928)には。日本におけるレコード歌謡の初めたる「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が生まれた。
また「影を慕いて」はこの昭和3年に作られたものである。

14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 20:40
この時代と重なる代表的な歌に「人生の並木路」がある。昭和12年日活映画「検事とその妹」の主題歌である。

昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。



古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。




人生の並木路

(佐藤惣之助 作詞、古賀政男 作曲 )

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 20:46
>>14
日活映画1937.1渡辺邦男監督「検事とその妹」は昭和10年竹田敏彦原作「検事の妹」の映画化作品。
幼くして親を亡くした幼き兄弟が支え合って生きていく姿をえがいたもの。

人生の並木路


雪も降れ降れ 夜路のはても
 やがてかがやく あけぼのに
 わが世の春は きっと来る

3番目の詞と4番目の

 生きて行こうよ 希望に燃えて
 愛の口笛 高らかに
 この人生の 並木路

〜この詞に救われる思いがします。

 だれもがそう励まされて人生のたどって来た道すがら、人という物は道の末にあると思う我が世の春を、今も夢見て歩くようです。
 厳しい世は世の中や出逢う人々が辛くあたり意地悪をするわけではないのですね。
 『世の総ての厳しさこそ、幸福の手がかり』
 と、く二人の背にやがては登る太陽の暖かさに励まされて我が人生の並木道を行く姿の中に「常楽我浄」があると聖者は説いた。すなわち・・・
 諸行無常 是生滅法 消滅滅己 寂滅為楽

 『常楽我浄偈』(じょうらくがじょうげ)として世の人々の火灯りとして智慧の灯りを点されていますね。
 この歌を聞くとき何時も、このように思うのですよ。


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/17(Sun) 00:04
江戸時代から見習い奉公というのがありました。
5〜6歳の頃から、食事とスズメの涙ほどの僅かな給金のみでお店奉公に上がり、一心に働いて、その中で行儀・世渡り・世間常識を獲得して、一人前となって世間に通用するようにする、という制度です。
それが職人の徒弟制度のように、戦前の社会には残っていました。貧困な家から口減らしのために裕福な家に奉公に上がるのです。<食べられればよい>身分制度から貧富の差が拡大した時代でした。

17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/17(Sun) 00:14

大正時代に作られた多くの童謡、その一つ「叱られて」はそうした、<山を越えた彼方の花の村>の貧しい家から町の裕福な家に子守り・使い走りとして奉公に来ている、10歳前後の少年少女のことを歌った歌です。

「叱られて」

作詞 清水かつら
作曲 弘田龍太郎


(一)
 叱られて 叱られて
 あの子は町まで お使いに
 この子は坊やを 寝んねしな
 夕べさみしい 村はずれ
 コンと狐が 鳴きゃあせぬか

(二)
 叱られて 叱られて
 口にはださねど 目に涙
 二人のお里は あの山を
 超えて彼方の 花の村
 ほんに花見は 何時のこと


18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/17(Sun) 21:30
昔、子供たちは10歳前後、尋常小学校や高等小学校の卒業を契機に奉公に出るのが通常で、奉公にあがれば、まず丁稚の修行からで、はじめは主人のお供や子守、掃除などの雑用を受け持ち、少し長じると商用の使い走りなどをしました。
商家では、こうした丁稚奉公を4〜5年勤めた後、17〜8歳頃になれば手代に昇格します。
こうした「奉公」が無くなるのは戦後のことで、田舎では昭和も30年代くらいまでありました。

19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/22(Thu) 17:44
日本における児童労働・児童虐待の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=351999297&ls=50

20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/22(Thu) 17:51
日本における貧困と人身売買の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=364610266&ls=50


21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/21(Fri) 22:04
>>17-18

コガミュージアムコンサート 

三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第23回 弘田龍太郎


第23回は作曲家弘田龍太郎を取り上げます。
懐かしのレコードとゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で
「叱られて」や「雨」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。


2019月年2月17日(日)

開演 14:00  (13:30開場)

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (指定席制 要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

東京メトロ・小田急線代々木上原駅
南口1 右側、駅舎に沿った「音楽村通り」を歩いて 井之頭通り 駅前交番前



名前:

【8:90】  昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/10/04(Sun) 23:04
昭和前半、昭和の初頭から昭和30年代にかけ、日本映画は黄金時代にあった。

まだ日本が草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、まだテレビもなかった時代、
娯楽は「映画」だった。

どんな小さな街にも、ちいさな映画館があった。そして映画公開を楽しみに待った。
その映画には主題歌があって、レコード全盛時代で映画とともに人々は、それを愛唱し
口ずさんだのが今に残る多くの名曲だった。

日本におけるトーキ―映画の最初は田中絹代主演の昭和6年「マダムと女房」。日本における「映画主題歌」は、
昭和4年、佐藤千夜子「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)。

特に、映画と提携したのが昭和6年に彗星のごとく登場した古賀政男で、「古賀メロディー」の名で愛されたその多くの名曲の、その多くは映画主題歌でもある。




81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/13(Fri) 18:26
>>80

訂正

昭和歌謡が好きな人集まれ

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50

82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/01(Thu) 06:19
>>79

勝利の日まで(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、昭和20年)

「勝利の日まで」これ古賀メロデーの隠れた名曲だと思います。
これは、勝利の日までというより、敗戦の坂を転がり落ちていく中で、その心情を歌ったもので、実は、昭和19年から始まった学童疎開の学童によって歌われたそうです。以下にある雑誌からの投稿を紹介します。
・・
昭和19年8月より、20年にかけ、国民学校3年以上の学童は、戦火を避けるため縁故があれば縁故で、無い者は集団疎開をおこないました。
映画『少年時代』は、この学童疎開を、体験した藤子不ニ夫原作によって映画化したものです。なお、これとは関係無いが、あの對馬丸の悲劇はこの時、昭和19年8月に起こったものです。
 
 「学童疎開」、それは家族がバラバラになり、空腹といじめ、のみ・しらみなどそれは厳しいものだったようです。当時学童疎開を励まし歌ったものに、NHKから流れた国民合唱・『父母の声』(草川信作曲)、
♪太郎は父のふるさとへ 花子は母のふるさとへ・・、同じく国民合唱『勝ち抜く僕等小国民』(橋本国彦作曲)♪勝ちぬく僕等小国民 天皇陛下の御ために・・などがあります。同じ頃、「お山の杉の子」が歌われました。
 
 こんななかで、疎開学童に歌われたもうひとつの歌に、古賀政男の隠れた名曲「勝利の日まで」(サトーハチロー作詞)があります。昭和19年末にNHKから。そして20年に入って同名の映画『勝利の日まで』(東宝 昭和20年1月25日公開)の主題歌として。
これは行進曲風で、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、緊張感を持つ哀調を帯びた名曲。



「勝利の日まで」がまんした疎開学童 (狭山市 42才 印刷業)
昭和19年8月、太平洋戦争はサイパン・テニアン島の玉砕で、日本の敗色が濃くなってきた。
当時5年生の私も親元を離れ、信州の山寺に学童疎開をした。はるかに見降ろす千曲の清流。
りんごと桑畑に囲まれた山寺。都会育ちの少年にとって、見るもの全てが新しい世界だった。
遠足気分で遊びまわった私たちも.三日もたつと東京の両親のことを思い出した。
毎晩消灯後並べられた布団の中から、すすり泣きの声が聞こえた、泣くのは女の子、しかも一人っ子がおおかった。
 
 楽しみは母からの手紙と食事時間。初めの頃は残すほどの食事も、しだいに質・量ともに落ちていき野草入りの雑炊、すいとん、サツマイモ、主食になった。空腹と望郷・・寂しさを忘れるために、私たちはいつも歌を歌った.40分もかかる村の学校への道、散歩の途中で、遊んだ千曲川の河原で、知ってる限りの歌が出た。
『先生、ぼくたちいつ帰れるの』勇気を出して、先生に聞く生徒もいた。『そのうち、日本軍が逆転して、一気に米軍をやっつける。

そうしたら、また東京に帰るぞ』・・私たちは、先生の言葉を疑いも無く信じた。日本が勝つ日まで、勝利の日まで我慢しよう。そんな私たちの気持ちにぴったり合った歌、それが『勝利の日まで』だった。
 
『さあ、みんな、そろそろ帰ろうか、最期にあれを歌おう。』声をそろえて歌ってるうちに、なぜかこの歌だけは涙がでてきた。途中で歌えなくなる生徒もいた。戦局は次第に悪化、沖縄も陥落、新聞を読むことも許されない私たちは、まだ日本の勝利を信じていた。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/01(Thu) 07:04
勝利の日まで
作詞 サトウ・ハチロー 作曲 古賀政男

一、 
丘にはためく あの日の丸を   
仰ぎ眺める 我等の瞳   
何時かあふるる 感謝の涙
燃えて来る来る 心の炎   
我等はみんな 力の限り   
勝利の日まで 勝利の日まで
 
二、 
山で斧ふる 翁の腕も   
海の若者 櫓を漕ぐ腕も   
町の工場の 乙女の指も
今日も来る来る お國の為に  
我等はみんな 力の限り 
勝利の日まで 勝利の日まで
 
三、 
雨の朝も 吹雪の夜半も   
思ふは一つ ただただ一つ   
遠い戦地と 雄々しき姿
浮かび来る来る ほほえむ顔が 
我等はみんな 力の限り   
勝利の日まで 勝利の日まで
 
四、 
空に飛び行く 翼に祈り   
沖をすぎ行く 煙に誓ふ  
國を挙げての この戦に           
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/01(Thu) 07:08
「勝利の日まで」

サトー・ハチロー作詞 古賀政男作曲 歌手 霧島 昇

太平洋戦争の終盤 いよいよ先行きが危うくなってきた昭和19年の発表、国民総動員命令が下令され、女学生・中学生も学業を捨て、教師とともに勤労動員に駆り出された時です。
あたかも その応援歌となった歌ですが、もうサイパンは陥落し、対米勝利などありえないのが、然るべき人々には明白でした

内容の深刻さと対照的な奇妙に明るい歌詞とメロデイは、このコンビが戦後の歌謡界にも通用した理由でしょう。

アナクロニズムそのもので 戦後長く封印されてきた理由もそれですが、
「二度と こんな時代が来てはならない」と反語の意味で取り上げます。

音楽も娯楽も あらゆる文化が戦争賛美につながるよう仕向けられ、個人の楽しみが完全にはく奪された時代です。「時局がらふさわしくない」という理由で退けられた 音曲・映画の多かったことも、知られています。

昭和二年生まれの亡母は、ひもじい思いをさせられた女学校の苦しい動員生活を、奪われた青春として、何度も語っていて、戦後はシャンソン系にはまっていました。

晩年に、このメロディを聞くと女学生時代を思い出して、こっそり涙ぐんでいました。
戦時歌謡は、TVも映画もない当時の国民の 唯一の娯楽だったのでしょう。

85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/08(Thu) 21:00
「西条八十作詞・古賀政男作曲」の沢山ある名曲の一つに、松竹映画「サヨンの鐘」(清水宏監督、1943年7月)の主題歌で格調高い「サヨンの鐘」(1941)他がある。
今ほとんど知られてないが、日台の架け橋のような歌で、現在も台湾で知らない人は無い歌だそうで参考までに、中国名「月光小夜曲」。

「サヨン」というのは、この台湾奥地に住む少数民族・高砂族の娘で、昭和13年、日本人警官の出征に際し、嵐の中、荷物を持って決死で送ってくれるんですが、
自分は丸太の橋で足を踏みはずして転落してしまう、そして日本の台湾総督府は、少女の兄に鐘を送る。それを聞いた渡辺はま子が
、太平洋戦争直前にこの歌を歌う。後昭和18年に映画が作られる。

平成10年9月7日NHK 特集で放送された。日本人の高校生の女の子が台湾に行き、「サヨン」のお姉さんや知り合いに、当時の様子を 取材して歩くというもの。
「サヨンの鐘」は、中国語では「月光小夜曲」というタイトルで歌われていますが、 サヨンの村では、日本の歌詞をそのまま中国語に訳して歌われてる。
台湾原住民(かつての高砂族)の小学生達が学校で合唱していました。




「サヨンの鐘」(西条八十)渡辺はま子・・中国名「月光小夜曲」
  ♪あらし吹き巻く 峯ふもと  流れあやふき 丸木橋・・

「サヨンの歌」(西條八十) 李香蘭(山口淑子)
  ♪花を摘み摘み 山から山を 歌いくらして 夜露に濡れる・・

「なつかしの蕃社」(西條八十)霧島昇、菊池章子
  ♪春はやさしい 緋桜が 赤く七つの 峰染めて・・

<CD 紹介>
CD「渡辺はま子 / シナの夜 (SP盤復刻による懐かしのメロディー)」・・サヨンの鐘
CD「李香蘭 / 蘇州夜曲 (SP盤復刻による懐かしのメロディー)」・・・・サヨンの歌
CD「SP原盤復刻による日本映画主題歌集 5」(「サヨンの歌」「なつか  
   しの蕃社」「勝利の日まで」他)(「サヨンの鐘」は入ってない。)

「サヨンの鐘」の“鐘”と、『組曲 サヨンの鐘』
  h ttp://www1.ocn.ne.jp/~shoji/sayon.html
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 22:28
コガミュージアムコンサート 

三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第22回 童謡誕生100年記念 西條八十


2018年は児童雑誌「赤い鳥」創刊100年の年で、童謡誕生100年記念の年とされます。
第22回は「赤い鳥」にも多数の作品を発表した、詩人西條八十さんを取り上げます。
懐かしのレコードと、ゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で「カナリヤ」や「肩たたき」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。


2018年2月18日(日)

開演 14:00  (13:30開場)

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

東京メトロ、小田急線代々木上原駅
南口1 井之頭通り 駅前交番前



87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/09(Fri) 18:30
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/05/06(Sun) 10:46
大女優原節子(1920年6月生まれ))の映画初演は昭和10年、15歳の時で、
『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲 監督、1935年)節子 をはじめに戦後まで多くの映画に出演。

その中で、「古賀メロディ」を主題歌とする作品が多い。

『緑の地平線』前篇(阿部豊 監督、1935年)ゆかり(原初のトーキー作品)
『緑の地平線』後篇(阿部豊 監督、1935年)ゆかり(原初のトーキー作品)
『白衣の佳人』(阿部豊 監督、( 1936年)由紀子
『検事とその妹』(渡辺邦男 監督、1937年)明子
『蛇姫様』第一編(衣笠貞之助 監督、1940年)琴姫
『勝利の日まで』(成瀬巳喜男 監督、1945年)(冒頭の15分のみ現存、原はクレジットされているが出演場面を確認できないため、原節子作品リストに掲載されることがない幻の作品)
『麗人』    (渡辺邦男 監督、 1946年)菊小路圭子



89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/07(Sun) 12:47
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


ラジオ番組について

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=351156284&ls=50



90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/16(Sun) 09:33
>>86

コガミュージアムコンサート 

三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第23回 弘田龍太郎


第23回は作曲家弘田龍太郎を取り上げます。
懐かしのレコードとゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で
「叱られて」や「雨」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。


2019月年2月17日(日)

開演 14:00  (13:30開場)

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (指定席制 要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

東京メトロ・小田急線代々木上原駅
南口1 右へ 井之頭通り 駅前交番前



名前:

【9:127】  ☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/12(Fri) 23:17

「昭和」も遠くなりました。昭和は明治、大正を合わせたより長く、1926年12月から1989年1月まで62年あまりあります。

「昭和」と言う、まだ日本がまだ草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、レコード歌謡が花開き、人々に迎えられたのです。SPレコードの時代です。
その歌手の多くは音楽学校出身者でした。以下にその歌謡史と歌謡史を支えた主な歌手と主な歌を。




118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/07(Sat) 12:52
>>116

訂正

2)
 あなたを他所(よそ)に嫁がせて
 なんで生きよう 生きらりょう
 僕も行きます 母様の
 お傍へ あなたの手を取って

119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/07(Sat) 21:53
「天国に結ぶ恋」・・この歌は大磯、坂田山で昭和7年に起こった慶応大生の心中事件。

それは世間を驚かせる猟奇事件にも発展するのだが、映画になった。主題歌を頼まれた西條八十も
気が進まず拒否、でも名前を出さないということでで来たのが「天国に結ぶ恋」。

86年前に起きた、この事件は歌とともに、今でも市のホームページに大きく取り上げられている。

それは、西條八十の優しく清廉な、詩人ならでは簡潔な名詩、そして徳山l・四家文子、知る人ぞ知る二人の名歌手の優しい明唱のゆえんだと思われます。
ぜひ、聞かれることをお勧めいたします。

120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/22(Fri) 07:22
☆藤山一郎と古賀メロディ

藤山一郎がラジオに登場したのは、昭和3年の慶応普通部時代で、それ以来、音楽放送の歴史とともに歩んできた。
『日本放送史』(日本放送協会編)には、「藤山は、《丘を越えて》《影を慕いて》などの古賀政男のいわゆる古賀メロディーで流行歌手としての地位を確立、音楽学校卒業後、増永丈夫の名でクラシック曲を、藤山一郎の名で流行歌曲を歌いのち、指揮者として活躍し、戦前、戦後を通じて放送音楽に重要な役割を果した。」とある。

「藤山一郎」とは、昭和6年(1931)、「キャンプ小唄」をはじめとする古賀作品をレコード吹き込みにあたっての名前で、これが昭和歌謡史に残る「藤山一郎」の実質的レコードデビュー。

「歌う昭和史・藤山一郎」の原点は昭和6年(1931)、「キャンプ小唄」「酒は涙か溜息か」・・。

平成四年、国民栄誉賞受賞。愛宕山のNHK放送博物館には彼のコーナーがあり、業績や記念物の展示があり、ビデオが見れる。

ビクター時代の藤山は『燃える御神火』、『僕の青春』などがヒットしたが音楽学校在校中に吹込んだ『古賀メロディー』ほどの大ヒット曲には恵まれなかった。

藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。

ビクターのライバルコロムビアでかつて放ったヒットをしのぐことはできなかった。

ビクターとの契約期間は3年で満了を迎えた。ビクターは藤山との再契約を望んだが、当時コロムビアからテイチクに移籍して重役作曲家になっていた古賀政男はテイチクへの移籍を促した。契約金は1万円であった(ちなみに、同時期の内閣総理大臣の月給は800円)。

1936年(昭和11年)、古賀が作曲した『東京ラプソディ』が販売枚数35万枚のヒットとなった。これにより藤山はB面の『東京娘』とあわせて2万1000円の歌唱印税を手にし、学生時代から抱えていた生家の借金を完済することができた。

PCLによって『東京ラプソディ』を主題歌にした同じタイトルの映画も制作され、藤山が主演した。『東京ラプソディ』と同じく古賀が作曲し1936年に発売された『男の純情』、翌年の『青い背広で』『青春日記』もヒットした。

藤山はこの時期に歌った曲の中から印象に残る曲として、『東京ラプソディ』とともに『夜明けの唄』(大阪中央放送局が1936年に企画した、有名な詩人の作品に歌をつける企画、国民歌謡、国民合唱と呼ばれた)を挙げている。

1933年(昭和8年)3月、藤山は東京音楽学校を首席で卒業した。卒業直後にビクターに入社し、同社の専属歌手となった。ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていた。『酒は涙か溜息か』などのヒット曲がコロムビアから発売された曲であったことから藤山はコロムビア入社も考えたが、停学となって以来長らく接触が途絶えた上、ようやく交渉を開始してからも藤山が求めた月給制を拒絶したため、月給100円に加え2%のレコード印税支払いを約束したビクター入社を決めた。

藤山は1931年から1932年にかけておよそ40の曲を吹込んだ。代表曲は古賀政男が作曲し1931年9月に発売された『酒は涙か溜息か』で、100万枚を超える売り上げを記録した。塩沢実信によると、当時の日本にあった蓄音機は植民地であった台湾や朝鮮を含めおよそ20万台で、「狂乱に近い大ヒット」であった。

デビュ−以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ」」の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・「藤山一郎」の代表的な曲を次にあげる。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/22(Fri) 07:31
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
*コロムビア
キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月(井上静雄名)
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
*テイチク
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12   加寿子のうたえる…
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊    (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
*コロムビア
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)       1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
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122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/25(Mon) 15:37
日本が生んだ世界的プリマドンナ三浦環。大正から昭和にかけ、ロイヤルアルバートホールをはじめ、世界のオペラハウスで「蝶々夫人」2000回公演。エンリコ・カルーソ―と共演したこの大ソプラノ歌手,山中湖に疎開していた中で病気を患い、昭和21年5月26日63歳、東京渋谷の病院で亡くなり、山中湖平野の寿徳寺に母堂とともに眠っている。上野寛永寺にもある。

墓碑には自筆で、こう刻まれている・・

《うたひめは強き愛國心を持たざれば、眞の藝術家とはなり得まじ .. 環》

環は、ただ日本が生んだ世界的プリマドンナというだけでなく、当時の日本の音楽芸術家と言われる人たちの多くがとかく西洋かぶれして、日本の文化を見失っていた中で、日本をこよなく愛した。

祖国愛に満ちた、日本の島国的な発想の中に収まりきらない、たいへんスケールの大きな人物として知られている。かってNHKでもドラマがあった。古賀政男(1904 - 1978)と三浦環(1884〜1946),この二人の大家の間には信頼と親交があったとしてもおかしくない。

三浦環はこの後、昭和13年の『古賀政男藝術大観』に萩原朔太郎などとともに序文を寄せていて、古賀政男の芸術を高く評価していた。

三浦環は大正11年4月、懐かしい故国に錦を飾って帰朝した。6ケ月の里帰り中、全国を公演して回った。古賀政男の上記自伝によると、大正11年7月14日、学生時代、欧米で活躍していた三浦環が道内ツアーの折函館で演奏会を開いた。そして「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」などを歌った、そして多勢の観衆を前にして「大日本帝国 万歳」と叫んだ。

古賀はそこにこの歌姫の類いまれな祖国愛と信念を感じ取り感銘を受けたこという。

展望社刊の自伝『わが心の歌』には、「昭和12年ごろの第一線作曲家が集まった写真」が載っていて、中山晋平、小松耕輔、弘田龍太郎、本居長世・・など錚々たる作曲家と共に古賀政男が写った写真である。
そこからは、昭和10年代に於いて、分野は異なるが、古賀政男は日本の第一線作曲家として、すでに日本音楽界の重鎮たちと比肩すべき大きな存在になっていただろうことが窺い知れる。

上記、昭和十一年六月十六日、日本青年館で明大マンドリン倶楽部第二十六回定期演は、昭和11年(1936年)『蝶々夫人』公演2000回達成後の凱旋帰朝でのことである。

その三浦環が古賀政男のファンで、あるとき古賀に言った。・・

 「古賀さん、あなたの歌こそほんとうの日本の歌ですよ。私は、あなたの歌に恋をしているの。日本にも、もっともらしい歌曲が出てきましたが、こんなの、みんなアチラのまねごとなのよ」三浦環も相当な異端者にちがいないが、外国に長く暮らすと、日本の伝統の素晴らしさに気づくということがある。この言葉に古賀政男は励まされたと自伝に書いている。(『我が心の歌』(展望社刊1965))


 その古賀政男の唄には、三拍子が多いといわれる。「影を慕いて」ができるまで日本にメジャ―な三拍子の曲はなかった.「影を慕いて」「人生の並木道」「誰か故郷を思わざる」「湯の町エレジー」等々これらすべて三拍子である。日本の歌には伝統的に三拍子はない。なのになぜ古賀に三拍子が多いのかというと、彼の不幸な生い立ちに関係があるともいわれる。

 
古賀政男がテイチクに移ったのは昭和9年5月。コロムビアは契約違反だとして抵抗、テイチクに移ってからも作曲に使う古賀のピアノを差し押さえた。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/07/22(Sun) 12:56
■[古賀メロディ]を支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

日本歌謡界の大御所と言うべき作曲家である古賀政男,その作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、社会的、歴史的、文化的にも大きな影響を及ぼし、
日本人の琴線をがっちりと掴んで離さない大きな存在となった。

東の正横綱・中山晋平、西の正横綱・佐々紅華、まだ「新民謡」や「青空」などのあちらの音楽の時代から抜け出なかった昭和の初め、そこに「古賀メロディ」の登場によって、大衆歌謡としての「歌謡曲」というジャンルが確立していった。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。「古賀メロディ」には、東京音楽学校主席卒業の関種子、藤山一郎はじめ、それを支えた音楽学校卒の優れた歌手が揃っていた。

「古賀メロディ」を支えた30人に近い主な歌手、そのうち23人は音楽学校、うち、主席を含む12人が東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)でした。

今の演歌歌手はもちろん、クラッシックを標榜する歌手でも歌いこなせない古賀メロディ、そのすごい理由といえます。

以後、「古賀メロディ」を支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作・・。


☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

佐藤千夜子  東京音楽学校  文のかおり (古賀正男作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校  月の浜辺   (島田芳文作詞) 1931.7
淡谷のり子  東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児    東京音楽学校 のぞかれた花嫁 (玉川英二作詞) 1935.10
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124 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/09(Sun) 00:04
ぱやぴーーぃーー

125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/08(Sat) 20:50
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。

126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/08(Sat) 21:49
藤山一郎(1911.4.8-1993.8.21)が初吹込したのは、当時唯一の官立の音楽学校だった東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)在学中だったが、非常に完成された唱い方だった。昭和6年(1931)、まだ20歳になったかならないかの若さである。古賀政男27歳。まだ東京音楽学校本科2年生のアルバイト吹き込みで30曲を吹き込んだのだった。
戦前の藤山一郎の、「丘を越えて」「青い背広で」「東京ラプソディ」「春よいづこ」などの青春を謳歌する若く溌剌とした張りのある歌声で「古賀メロディー」の青春を高らかに歌いあげている。古賀政男の数々の青春歌謡に相応しい。それは在学中に校則に反してアルバイトでレコード吹込みしたからで、そのからで、若く溌剌とした歌声は「青い山脈」(1949)など、戦後抑留生活の後、日本に帰った30代後半を過ぎ40代近くなった頃の戦後の歌声と比べればよくわかる。
限界を感じていた藤山一郎は、その後昭和29年(1954)に歌手を引退、NHK嘱託となった。


127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/15(Sat) 10:44
昭和の日本歌謡史上に燦然とした足跡を残す名歌手藤山一郎、歌う昭和史・藤山一郎は「歌謡曲」はもちろん、それ以外でも本名増永丈夫を含めて数え切れないほど沢山歌っている。しかし「藤山一郎」と言えば古賀メロディ。

藤山一郎は、アルバイト時代のコロムビアを皮切りに、ビクター、テイチク、コロムビアと、ビクターを除いて古賀政男に合わせて転籍しています。
彼の歌声は明るくて、清潔そのものの感じを受けていました。作曲家の「古賀政男」とのコンビの歌を沢山歌っていましたが、何処へに行っても聞こえて来るのは此の歌声でした。

「藤山一郎」としての戦前のメジャーな代表曲としては、「影を慕いて」「丘を越えて」「東京ラプソディ」など、昭和6年以来の古賀メロディが圧倒的で、それ以外で知られるのは、ビクタ―時代の「浅草の唄」「赤い花」「僕の青春(はる)」「チェリオ」など。

戦後は昭和29年にコロムビアレコードを辞めてレコード歌手から引退するまで、長い抑留生活から焼け野原の祖国に帰ってからの戦後の代表曲は、「青い山脈」[長崎の鐘]「銀座セレナーデ」「浅草の唄」など。



名前:

【10:16】  タンゴ100年、日本におけるアルゼンチンタンゴの歴史と古賀政男
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/19(Mon) 20:42
日本におけるアルゼンチンタンゴの歴史と古賀政男、2014年は日本にアルゼンチンタンゴが伝えられて100年。
80年以上の歴史、日本のクラッシック・古賀メロディ。昭和の初め「影を慕いて」を始めとして、日本の古典音楽を含め広く世界の音楽を取り入れたことで知られる古賀政男の音楽。
その名は日本におけるタンゴの権威、日本タンゴ・アカデミーにも取り上げられる、思えば古賀政男とは日本におけるラテン系音楽の創始者みたいな人だとも言えるだろう。

参考
私のタンゴ年表
h ttp://members.optusnet.com.au/~yhosaka/mytangohistory.html


昭和6年、「月の浜辺」はジプシー短音階、「日本橋から」はタンゴ。
日本におけるアルゼンチンタンゴ第一号、タンゴの名曲でもある。




7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/19(Mon) 21:22

ダンス:歓喜の歌
作詞・作曲・編曲・
古賀 政男[作曲]. Dufour[編曲]
フロリダ・アルゼンチン・タンゴ・バンド
コロムビア 1934-01


8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/19(Mon) 21:30
☆古賀政男とタンゴ

古賀政男は、クラッシック音楽を土台に世界の音楽を広く取り入れた作曲家で知られる。

特にタンゴで古賀政男の世界における存在は大きなものが有る。
佐藤千夜子が歌った「日本橋から」(昭和6年1月 ビクタ―)は日本最初の和声タンゴとして知られる。

昭和14年秋、古賀政男は,外務省の音楽文化親善使節として渡米。ハワイ、アメリカ、アルゼンチンを訪問。
1939年(昭和14年)秋、アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、15分間放送された。
古賀政男アルゼンチンを訪問。Mariano Moresと親交を結び、Moresの楽団演奏で古賀の
「青い背広で」「東京ラプソディ」「望郷の歌」を録音。

古賀の提供した「荒城の月」の楽譜を元に、Tangueraを作曲。 古賀は、アルゼンチンのタンゴのテンポの速さに驚く。

タンゲーラ(Tanguera)とは、マリアーノ・モーレスが作曲したタンゴである。
タンゲーラは、「タンゴ的なもの」という意味である。タンゲーラ(Tanguera)とは、マリアーノ・モーレスが作曲したタンゴである。
「荒城の月」と似たようなメロディーが出てくることでも知られているが、このとき古賀政男の提供したもの。
古賀政男には「荒城の月」の編曲もある。

タンゴダンスにもよく用いられ、よく聴かれる曲である。
マリアーノ・モーレス楽団の演奏が最もよく聞かれるが、他の楽団の演奏もある。

(参考)私のタンゴ年表(保坂)
ttp://members.optusnet.com.au/~yhosaka/mytangohistory.html





9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/19(Mon) 21:37
(参考)古賀政男と日本タンゴの歴史


(保坂「私のタンゴ年表」 から参考抜粋)

明治20年 1888
Tangoをタイトルにした楽譜・span class=SpellE>Baltoro・/span>が出版され、これをタンゴ発祥の起源とする。
明治22年  1890
日本最初の音楽学校として1890年5月12日に開校された。


ヤマハオルガン製作所が学校向けオルガンの大量生産を行う。

1904
古賀 政男(こが まさお、1904年11月18日 - 1978年7月25日)
大正14年 1925
日本初のラジオ放送は1925年3月22日午前9時30分、社団法人東京放送局(JOAK)より発信。
昭和2年 1926
目賀田綱美男爵、6年に及ぶパリ遊学より帰国。アルゼンチン・タンゴを日本に伝える。


Bianco/Bachicha, Manuel Pizaro、O.T.Victorなどのレコード。


Caminito・・・Fuan De Dios Filiberto 作曲
昭和4年  1929
影を慕いて・・・古賀政男作曲


和製タンゴ「君恋し」大ヒット。作曲・佐々紅華 /作詞・時雨音羽 ,

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/19(Mon) 21:48
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

☆日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50

☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50

☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50

☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50

☆【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50

☆懐かしの銀座を歌った歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=510311914&ls=50

☆名前を名にした歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=513078845&ls=50

☆昭和歌謡が好きな人集まれ!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50

11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/19(Mon) 21:55
☆タンゴ100年、日本におけるアルゼンチンタンゴの歴史と古賀政男
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=542627758&ls=50

12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/20(Tue) 09:35
古賀政男は、テイチク退社後、古賀政男は昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、「外務省音楽親善使節」としてアメリカ各地を訪問しています。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流など、古賀政男の音楽人生の中でも大きなトピックとなる出来事が起きています。

南米・アルゼンチンにも回っています。これには、自らの意志と、直前に南米各地、アルゼンチンなど48カ所を南米演奏旅行で回った藤原義江の強い勧めもあったと自伝『わが心の唄』にあります。

そして、古賀政男は藤原義江に見送られて横浜港を出港します。



日本のタンゴ界でも、1937年に声楽家の藤原義江がアルゼンチンで、タンゴを録音し、1940年に作曲家古賀政男も『東京ラプソデイ―』等をタンゴのレコードとして出しています。そして往年のファンにはとても懐かしい早川真平率いる“オルケスタ・ティピカ東京”や歌手藤沢嵐子等が日本のタンゴ黄金時代の荷い手でした。




13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/20(Tue) 09:47
1938年の藤原義江・世界歌の旅

1938年(昭和13年)の藤原義江氏・世界歌の旅。前年(1937年)7月から南米各地での演奏会回数が合計48回。アルゼンチン・ビクターでタンゴ曲レコーディング(同年7月、日本発売)。4月ローマでは政治犯と間違えられ、ベルリンで独唱会。トルコ首都アンカラやルーマニアのブカレストで歌い、ロンドンに直行。8月帰国、10月「Das Land des Lachelns 微笑の国」を有楽座で日本初演。この主題歌は翌1939年2月発売の『Dein ist Mein Ganzes Herz わが光の君(ルートヴィッヒ・ヘルツァー&フリッツ・レーナー作詩、柳園子訳詩、フランツ・レハール作曲)』。





14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/20(Tue) 22:00
を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。

古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。 今有る歌の殆どはまだ存在しなかった。

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』『美わしの宵』『嘆きの夜曲』『青春図絵の唄』『朝顔の唄』『笛は冴ゆれど』『愛は紅い』『秘めたる恋』(関種子)、『キャンプ小唄』『スキーの唄』、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎) 、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『私此頃憂鬱よ』『アリランの唄』『春の唄』(淡谷のり子)・・

古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せます。

古賀政男の音楽は、洋楽を基本に、仏教音楽以来の日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたもので、その後の歌にも影響を与えているといえます。

『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・ セレナーデ風の佳曲。ジプシー音楽(ジプシー短音階)。



タンゴと歌謡曲は戦前から密接な関係があったようで、歌謡曲の創世記に、ハバネラタンゴのリズムが使われた。古賀政男(「正男」)作曲、佐藤千夜子がビクターで吹込んだ《日本橋から》のリズムがそうである。
その後、関種子によって再録音(コロムビア)された。邦人歌曲においてタンゴのリズムが使われた最初の例であろう。

「日本橋から」以来、戦後にいたるまで歌謡曲では旋律に変化をあたえるリズムとして多用されるようになり、流行歌の発展には欠かせなくなりました。 
「赤い花」「銀座セレナーデ」「黒いパイプ」「夢去りぬ」「落葉しぐれ」・・、昭和22年東宝 『音楽五人男』挿入歌「バラ咲く小径」などがあげられる。

ジプシー音楽とハバネラが古賀メロディーの原点だった!ともいわれる所以だろう。




(参考)

「赤い花」    1934、飯田信夫作詞 松平 信博作曲   藤山一郎 
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15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/20(Tue) 22:11
(参考)

「思い出の記」?古賀政男 作品集/藍川由美
Omoide no Ki - Songs of MASAO KOGA YUMI AIKAWA & Wiener Schrammel Ensemble






音源の形式
CD

ジャンル: 声楽曲
品番: CMCD-28010
ディスク枚数: 1枚
税抜価格: 2,800円
税込価格: 3,024円
発売日: 2002年11月20日
JAN: 4990355000359
歌唱言語: 日本語
歌詞対訳: あり

藍川由美


内容解説
■ 曲目
古賀政男:
[1] 日本橋から(濱田廣介)
[2] 片想い(濱田廣介)
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16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/20(Tue) 22:23
「(ダンス音楽)日本橋から」

浜田 広介[作詞]
古賀 政男[作曲]
バクナデル[編曲]
巴里・ムーランルージュ楽員
製作者(レーベル) コロムビア(戦前)
発売年月日 1932-08

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