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1: 日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史 (661)  2: 日本における児童労働・児童虐待の歴史 (22)  3: 日本の歴史における「男色」について (149)  4: 【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!! (216)  5: 日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】 (30)  6: 【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】 (183)  7: この歴史スレについて (5)  8: 苗字とは・・ 明治8年 平民苗字許可令 (55)  9: 支那・東洋史における「宦官」の歴史 (62)  10: ☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1, (128)  11: タンゴ100年、日本におけるアルゼンチンタンゴの歴史と古賀政男 (19)  12: 昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌 (91)  13: 【魏の三曹】 建安文学について語れ 【建安七子】 (23)  14: 歴史・世界史 (88)  15: 織田信長は実は弱かった (25)  16: 911の自作自演! アメリカのヤラセの歴史 (12)  17: 武将の強さ (15)  18: 江戸時代のお姫様!? (79)  19: 日本に於ける売春、遊郭の歴史 (16)  20: なぜ被差別部落が誕生したの (14)  21: 日本における飢饉の歴史 (56)  22: NHK大河ドラマの嘘 (26)  23: 筑豊てなんであんなに柄悪いの (18)  24: 韓国の歴史 (27)  25: 八王子の歴史について語ろう (6) 
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【1:661】  日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。





652 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/16(Sat) 22:14

大正から昭和の初めにかけて、大衆が誰でも歌える歌といえるものが
民謡など除いて存在しなかった。

誰でもが歌える歌ずくり、それを一貫して目指した作曲家、それが中山晋平。

晋平の歌は【晋平節】と言われた。

劇中歌から、童謡、新民謡、歌謡歌曲。

中山晋平は詩人の野口雨情、歌手の佐藤千夜子と組んで、大正から昭和の初めにかけて「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)を行っていた。

まだ新幹線も飛行機もない時代に全国行脚を行い民謡採譜や新民謡など普及運動を行っていた。

この中から生まれたのが新民謡「波浮の港」、が昭和3年、ビクタ―発足に伴いレコード第一号となり、レコード歌謡(流行歌といった)第一号となった。

これを歌った佐藤千夜子は『レコード歌手第一号』と言われ、昭和53年、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」で取り上げられた。

「晋平節」の中山晋平の時代と「古賀メロディ」の時代をつなぐ歌手それがレコード歌手第一号佐藤千夜子である。

古賀政男は、このレコード歌手第一号佐藤千夜子の力添えで誕生するのである。 古賀政男は自伝「我が心の歌」で『終生の恩人』と書いている。

昭和の初め、まだ日本が貧しかったころ、満州事変の勃発と東北大凶作、宮沢賢治が「雨にも負けず風にも負けず‥」と歌った、日本の歴史に残る最後の飢饉とされた。

昭和東北大凶作の中、昭和6年(1931)1月、佐藤千夜子の歌で、7年3月藤山一郎の歌で「影を慕いて」などが世に出た。

そして、【古賀メロディ】は、晋平の【晋平節】の次に世の流れになっていく。

「古賀メロディ」の「メロディ」とは、「晋平・節」の「節」のに対するもので、古賀政男が「メロディ」を大切にその重要性を主張していたそのことによる。

今年、昭和を継ぐ平成最後の平成31年(2019)は『古賀メロディ誕生88年』。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

653 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/06(Sat) 22:50
>>155-156
>>652

☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲)   大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇   (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす     (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲)  同
ひばり  1929.4 (西條八十作詞、 宮城道雄作曲)   同
鶯の夢 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5  (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪 1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節1928.7 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様   1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲  1929.6  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し    1929.10 (時雨音羽作詞 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒    1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄 1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲)   ビクター50776
港おどり  1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴  1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花  1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50881
紅屋の娘   1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50936
文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

654 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/06(Sat) 22:53

※1932録音
カチューシャの唄 1932.6(島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター52393
船頭小唄 1932.6(野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクター52393


※古賀政男(正男)初期のレコード(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)上記

文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
以上は,作曲家になる前の作品

※古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
・『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編
曲・淡谷のり子歌)

・『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和
  歌子歌)

・『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・
  関種子歌)。

1934年(昭和9年)、イタリア留学中だった佐藤千夜子が、帰国を前にイタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。上記に加えて佐藤千夜子の名唱が聴けます。ゴンドラの唄、さすらいの唄など、
レコード歌手第一号・佐藤千夜子の本格的な歌唱(1934,2)が絶品です。
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏)。佐藤さんのイタリア録音曲ビクター VDR-5171

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

655 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/15(Mon) 00:43
DSi

656 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 23:49
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


657 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 23:51
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


658 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/16(Tue) 22:31
メロディパタンのクラスタ分析 : 古賀メロディパタンの特徴
Cluster analysis of melody pattern : A characteristics of KOGA melody style
秋山、松田、日本音響学会誌 53(12), 915-921, 1997


659 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/22(Mon) 09:10
>>658

抄録
古賀政男音楽作品は"古賀メロディ"として多くの人々に親しまれてきた。本論文では, 古賀メロディに共通する旋律の特徴を述べている。特徴抽出にはメロディパタンのスペクトル表現に階層的ファジィクラスタ分析を適用した。クラスタ分析において古賀メロディが集群する階層が存在した。この集群したクラスタから得られる類似関係は, 旋律輪郭の滑らかさにあることが分かった。実験結果から, 古賀メロディの特徴の一つとして, 旋律全体の滑らかさと部分旋律における滑らかさに相似関係が存在することが明らかになった。このことは, 16小節程度の旋律進行は4小節程度の部分旋律における旋律進行から予測できることを意味している。



660 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/10(Sat) 13:15
>>658-659

メロディパタンのクラスタ分析 : 古賀メロディパタンの特徴
Cluster analysis of melody pattern : A characteristics of KOGA melody style
秋山、松田、日本音響学会誌 53(12), 915-921, 1997

各種コード
NII論文ID(NAID) 110003106845
NII書誌ID(NCID) AN00186234
本文言語コード JPN
資料種別 ART
ISSN 0369-4232
NDL 記事登録ID 4352162
NDL 雑誌分類 ZM35(科学技術--物理学)
NDL 請求記号 Z15-15
DOI 10.20697/jasj.53.12_915

661 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/18(Sun) 16:18


名前:

【2:22】  日本における児童労働・児童虐待の歴史
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/04(Sun) 12:21
明治以降急速に欧米化を目指して突き進んだ日本の歴史、その中で
貧富の差は激しかった。その中で人の人生は12歳、小学校卒業で決まってしまった。
教育の機会均等も戦後御昭和24年位までなかった。
多くは幼くして奉公とかに出されたのだった。



13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 20:33
坪井栄の小説「二十四の瞳」は、昭和27年〈1952)に発表、29年に映画化された。
1928年(昭和3年)から1946年(昭和21年)まで、すなわち、昭和の戦前期、終戦、その翌年まで、18年間が描かれている。
日本がまだ貧しかった時代である。またそれはレコード歌謡の黄金時代、日本の映画黄金時代ともかさなる。
当時の時代背景を知るうえで非常に貴重で参考となる。

昭和3年〈1928)には。日本におけるレコード歌謡の初めたる「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が生まれた。
また「影を慕いて」はこの昭和3年に作られたものである。

14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 20:40
この時代と重なる代表的な歌に「人生の並木路」がある。昭和12年日活映画「検事とその妹」の主題歌である。

昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。



古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。




人生の並木路

(佐藤惣之助 作詞、古賀政男 作曲 )

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 20:46
>>14
日活映画1937.1渡辺邦男監督「検事とその妹」は昭和10年竹田敏彦原作「検事の妹」の映画化作品。
幼くして親を亡くした幼き兄弟が支え合って生きていく姿をえがいたもの。

人生の並木路


雪も降れ降れ 夜路のはても
 やがてかがやく あけぼのに
 わが世の春は きっと来る

3番目の詞と4番目の

 生きて行こうよ 希望に燃えて
 愛の口笛 高らかに
 この人生の 並木路

〜この詞に救われる思いがします。

 だれもがそう励まされて人生のたどって来た道すがら、人という物は道の末にあると思う我が世の春を、今も夢見て歩くようです。
 厳しい世は世の中や出逢う人々が辛くあたり意地悪をするわけではないのですね。
 『世の総ての厳しさこそ、幸福の手がかり』
 と、く二人の背にやがては登る太陽の暖かさに励まされて我が人生の並木道を行く姿の中に「常楽我浄」があると聖者は説いた。すなわち・・・
 諸行無常 是生滅法 消滅滅己 寂滅為楽

 『常楽我浄偈』(じょうらくがじょうげ)として世の人々の火灯りとして智慧の灯りを点されていますね。
 この歌を聞くとき何時も、このように思うのですよ。


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/17(Sun) 00:04
江戸時代から見習い奉公というのがありました。
5〜6歳の頃から、食事とスズメの涙ほどの僅かな給金のみでお店奉公に上がり、一心に働いて、その中で行儀・世渡り・世間常識を獲得して、一人前となって世間に通用するようにする、という制度です。
それが職人の徒弟制度のように、戦前の社会には残っていました。貧困な家から口減らしのために裕福な家に奉公に上がるのです。<食べられればよい>身分制度から貧富の差が拡大した時代でした。

17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/17(Sun) 00:14

大正時代に作られた多くの童謡、その一つ「叱られて」はそうした、<山を越えた彼方の花の村>の貧しい家から町の裕福な家に子守り・使い走りとして奉公に来ている、10歳前後の少年少女のことを歌った歌です。

「叱られて」

作詞 清水かつら
作曲 弘田龍太郎


(一)
 叱られて 叱られて
 あの子は町まで お使いに
 この子は坊やを 寝んねしな
 夕べさみしい 村はずれ
 コンと狐が 鳴きゃあせぬか

(二)
 叱られて 叱られて
 口にはださねど 目に涙
 二人のお里は あの山を
 超えて彼方の 花の村
 ほんに花見は 何時のこと


18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/17(Sun) 21:30
昔、子供たちは10歳前後、尋常小学校や高等小学校の卒業を契機に奉公に出るのが通常で、奉公にあがれば、まず丁稚の修行からで、はじめは主人のお供や子守、掃除などの雑用を受け持ち、少し長じると商用の使い走りなどをしました。
商家では、こうした丁稚奉公を4〜5年勤めた後、17〜8歳頃になれば手代に昇格します。
こうした「奉公」が無くなるのは戦後のことで、田舎では昭和も30年代くらいまでありました。

19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/22(Thu) 17:44
日本における児童労働・児童虐待の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=351999297&ls=50

20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/22(Thu) 17:51
日本における貧困と人身売買の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=364610266&ls=50


21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/21(Fri) 22:04
>>17-18

コガミュージアムコンサート 

三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第23回 弘田龍太郎


第23回は作曲家弘田龍太郎を取り上げます。
懐かしのレコードとゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で
「叱られて」や「雨」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。


2019月年2月17日(日)

開演 14:00  (13:30開場)

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (指定席制 要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

東京メトロ・小田急線代々木上原駅
南口1 右側、駅舎に沿った「音楽村通り」を歩いて 井之頭通り 駅前交番前



22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/09(Fri) 10:46
漢方

名前:

【3:149】  日本の歴史における「男色」について
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/12(Wed) 14:18
日本の歴史には古く寺院に始まり、武家社会で謳歌され明治に引継がれた
男色=少年愛と言うのが有ります。

これを無視して武家社会=日本史を正しく語ることはできません。

「男色」って知ってましたか?。

男色って?・・


140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/05(Wed) 20:58
賤のおだまき    国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 ttp://kindai.ndl.go.jp/index.html
 こちらから見れます。
1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂, 明20.8

三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収(平凡社1974))
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002
平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
鹿児島県立図書館編纂・北川鉄三著「郷中教育」、薩摩の郷中教育頒府委員会、
松本彦三郎著「郷中教育の研究」原版(1944年)復刻版(2007年)、尚古集成館
若者制度の研究・復刻版(原発行昭和11年)、財団法人青年館出版昭和43年、
安藤保「幕末維新期、薩摩藩の郷中教育」
鹿児島市史編さん委員会「鹿児島市史U」昭和45年発行、
出水郷土誌、
都城史・中世・近世編 宮崎県史蹟調査八号  
宮崎県史蹟調査八号、都城市史通史中世・近世編


柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993に詳しい。
 花咲一夫「江戸の蔭間茶屋]     三樹書房1982
 樋口清之「史実 江戸」      芳賀書店 1967
 稲垣足穂 「少年愛の美学」河出文庫 河出書房新社1991
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/05(Wed) 21:13
白洲 正子[両性具有の美] (新潮文庫)



142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/07(Fri) 18:26
(参考)
上野 篤「健児之社」(中文館書店 昭12) ソメ2-60(国会図書館。浜松町、三庚図書館蔵)


143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/11(Fri) 21:54

賤のおだまき    国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 ttp://kindai.ndl.go.jp/index.html
 こちらから見れます。
1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂,    明20.8

三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収(平凡社1974))
礫川全次「男色の民俗学」歴史民俗学資料叢書・第二期 (批評社 2003年)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002
平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
鹿児島県立図書館編纂・北川鉄三著「郷中教育」、薩摩の郷中教育頒府委員会、
松本彦三郎著「郷中教育の研究」原版(1944年)復刻版(2007年)、尚古集成館
若者制度の研究・復刻版(原発行昭和11年)、財団法人青年館出版昭和43年、
安藤保「幕末維新期、薩摩藩の郷中教育」
鹿児島市史編さん委員会「鹿児島市史U」昭和45年発行、
出水郷土誌、
都城史・中世・近世編 宮崎県史蹟調査八号  
宮崎県史蹟調査八号、都城市史通史中世・近世編


柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993
花咲一夫「江戸の蔭間茶屋]     三樹書房1982
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/11(Fri) 22:05
森鴎外 ヰタ・セクスアリス

十三になった。
 去年お母様がお国からお出になった。
 今年の初に、今まで学んでいた独逸語を廃(や)めて、東京英語学校にはいった。これは文部省の学制が代ったのと、僕が哲学を遣りたいというので、お父様にねだったとの為めである。東京へ出てから少しの間独逸語を遣ったのを無駄骨を折ったように思ったが、後になってから大分益(やく)に立った。
 僕は寄宿舎ずまいになった。生徒は十六七位なのが極若いので、多くは二十代である。

中には貸本屋に借る外に、蔵書としてそういう絵の本を持っている人もあった。硬派は可笑しな画なんぞは見ない。平田三五郎という少年の事を書いた写本があって、それを引張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これが毎年元旦に第一に読む本になっているということである。三五郎という前髪と、その兄分の鉢鬢奴(ばちびんやっこ)との間の恋の歴史であって、嫉妬(しっと)がある。鞘当(さやあて)がある。末段には二人が相踵(あいつ)いで戦死することになっていたかと思う。
 軟派は数に於いては優勢であった。何故というに、硬派は九州人を中心としている。その頃の予備門には鹿児島の人は少いので、九州人というのは佐賀と熊本との人であった。 僕は硬派の犠牲であった。何故というのに、その頃の寄宿舎の中では、僕と埴生(はにゅう)庄之助という生徒とが一番年が若かった。埴生は江戸の目医者の子である。色が白い。目がぱっちりしていて、唇は朱を点じたようである。体はしなやかである。僕は色が黒くて、体が武骨で、その上田舎育である。それであるのに、意外にも硬派は埴生を附け廻さずに、僕を附け廻す。僕の想像では、埴生は生れながらの軟派であるので免れるのだと思っていたのである。
 学校に這入(はい)ったのは一月である。寄宿舎では二階の部屋を割り当てられた。同室は鰐口弦(わにぐちゆずる)という男である。この男は晩学の方であって、級中で最年長者の一人であった。白菊石(あばた)の顔が長くて、前にしゃくれた腮(あご)が尖(とが)っている。痩(や)せていて背が高い。若(も)しこの男が硬派であったら、僕は到底免れないのであったかと思う。
 幸に鰐口は硬派ではなかった。どちらかと云えば軟派で、女色の事は何でも心得ている 教師が憚るくらいであるから、級中鰐口を憚らないものはない。鰐口は僕に保護を加えはしないが、鰐口のいる処へ来て、僕に不都合な事をするものは無い。鰐口は外出するとき、僕にこう云って出て行く。
「おれがおらんと、又穴(けつ)を覗う馬鹿もの共が来るから、用心しておれ」
 僕は用心している。寄宿舎は長屋造であるから出口は両方にある。敵が右から来れば左へ逃げる。左から来れば右へ逃げる。それでも心配なので、あるとき向島の内から、短刀を一本そっと持って来て、懐(ふところ)に隠していた。
 
 盲汁仲間はがやがやわめきながら席を起(た)った。鰐口も一しょに出てしまった。
 僕は最中にも食い厭(あ)きて、本を見ていると、梯子(はしご)を忍足(しのびあし)で上って来るものがある。猟銃の音を聞き慣れた鳥は、猟人(かりゅうど)を近くは寄せない。僕はランプを吹き消して、窓を明けて屋根の上に出て、窓をそっと締めた。露か霜か知らぬが、瓦は薄じめりにしめっている。戸袋の蔭にしゃがんで、懐にしている短刀のをしっかり握った。
 寄宿舎の窓は皆雨戸が締まっていて、小使部屋だけ障子に明(あかり)がさしている。足音は僕の部屋に這入った。あちこち歩く様子である。
「今までランプが付いておったが、どこへ往ったきゃんの」
 逸見の声である。僕は息を屏(つ)めていた。暫(しばら)くして足音は部屋を出て、梯子を降りて行った。
 短刀は幸に用足たずに済んだ。



145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/14(Mon) 16:31
>>139-143

上野 篤「健児之社」(中文館書店 昭12) ソメ2-60(国会図書館。浜松町、三庚図書館蔵)

146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/07/27(Fri) 16:27
年齢的にそういう菊の強制を社会システムとして受け入れた人らって、今何歳くらいの長老達だろうか?自分の見当では現在90歳半ばで、高学歴で社会的身分の結構高い人たちに見える。敗戦後、アメリカ合衆国のいいなりになって、おとなしく、正常愛の仮面をつけて暮らしてきたわけだ。なんか、からくりがさらけ出されると、笑っちゃうな。

147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/03(Fri) 21:15
笑った

148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/03(Wed) 23:01
日本の歴史における「男色」について

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=347427116&ls=50

149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/30(Tue) 13:16
新薩藩叢書 第3巻
頼山陽 [賤のおだまき]
鹿児島県立図書館

名前:

【4:216】  【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/06/19(Sun) 18:45

唱歌・童謡、新民謡、歌曲・歌謡曲、多くの詩人、作曲家が生まれ、明治以来たくさんの「日本の歌」が生まれました。

その歌は多くの詩人や作曲家の人一倍の歌にかけるたゆまぬ情熱と努力の賜物であり結晶であり、かけがえのない文化遺産です。

日本の音楽文化遺産、日本の名歌・名曲・名盤を語りましょう。



207 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/12(Tue) 18:09
☆サトウハチローと「童謡」
童謡を書きたいと希望して、15歳の時、詩人・西条八十に入門したハチローだったが、童謡で生活は出来ない。父・紅緑の書いた小説の映画化で主題歌を書き、そのヒットによって、歌謡曲の世界を歩いてきたハチローは、敗戦という大きな社会の変化の中で、本来希望していた童謡の道への手がかりを得た。しかし、それはこれまでの「童謡」とはだいぶ違ったものだった。

戦後のサトウハチローの作品に「ちいさい秋みつけた」 「かわいいかくれんぼ」「わらいかわせみに話すなよ」 「とんとんともだち」などある。
しかし、詩としてはいいが、今でも広く歌われ続けているのは、こうしたもの(「あたらしいしいこどものうた」というらしい。)ではなく、この70年以上前に作られた童謡・「うれしいひなまつり」(1936年、山野三郎名義)だった。


サトウハチローが、東京・上野の百貨店で豪華なひな飾りを買ったのは昭和10年のことだった。

サトウハチローが、ちょうど「うら街の交響樂」を書いていたころだった。価格は200円。大卒の初任給が50円くらいの時代だった。
その頃、妻と別居して子供を引き取っていて、小学生の女の子が2人いた。贈り物に喜ぶ娘を見ているうちに歌詞が浮かんだ。

あかりをつけましょ ぼんぼりに はなをあげましょ 桃の花・・

   ttp://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/ureshiihinamatsuri.html
   ttp://www.youtube.com/watch?v=_zv8bCakElM&feature=related

2番の歌詞に〈お嫁にいらした姉様に よく似た官女の白い顔〉とある。ハチローには、大好きな姉がいた。結婚式の前に病気で亡くなっている、19歳だった。面影を歌詞にしのばせ、童謡の世界で嫁がせた。
寺山修司編著の「日本童謡集」〈光文社カッパブックス1972〉と言う本の最初に、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」、「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」・・と。

「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか「ぞうさん」とか、[あたらしいこどもの歌」というのは 、NHKラジオ放送で昭和24年「歌のおばさん」が主体となっている。 当時はレコード主体の童謡黄金時代であったが、これはレコードではなくラジオである。 このラジオ番組で歌うのは童謡歌手でなく、歌の“おばさん”であった。

新しい“ラジオ”番組(「歌のおばさん」)で「あらしいこどものうた」をつくろうとした、大中恩、中田喜直、磯部俶、宇賀神光利、中田一次ら若手音楽家からなる、五人の作曲家グループは、昭和三十年「ろばの会」を作った。

サトウハチローは「ロバの会」には加わらなかったものの、詩は中田喜直に指定して渡した。

大中恩、中田喜直ら、ロバの会は、これまでの童謡歌手の歌う(レコード)「童謡」の排斥運動を展開した。
サトウハチローは「ロバの会」には加わらなかったものの、詩は中田喜直に指定して渡した。

(「排斥運動」は、主に戦後の童謡黄金時代において中心的な役割を果たし、川田三姉妹(正子、孝子、美智子)ら戦前から多くの「童謡歌手」を育成・輩出した「音羽ゆりかご会」主宰の、最後の童謡作曲家「海沼 實」などに向けられた。)
  ttp://www.0108.tv/nagano_kyouikukai.htm
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

208 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/12(Tue) 18:23
>>207

「うれしいひな祭り」

サトウハチロー作詞  
河村光陽作曲




あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓(ふえたいこ)
今日はたのしい ひな祭り

お内裏様(だいりさま)と おひな様
二人ならんで すまし顔(がお)
お嫁(よめ)にいらした 姉(ねえ)様に
よく似(に)た官女(かんじょ)の 白い顔

金のびょうぶに うつる灯(ひ)を
かすかにゆする 春の風
すこし白酒(しろざけ) めされたか
あかいお顔の 右大臣(うだいじん)

着物をきかえて 帯(おび)しめて
今日はわたしも はれ姿(すがた)
春のやよいの このよき日
なによりうれしい ひな祭り


(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

209 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/12(Tue) 18:54
■殆どの洋楽はクラッシックを基本としてる。日本では元々「歌謡曲」とは、いわゆるクラシック音楽の歌曲(リート)を指していた 。
したがって、[クラシック]そのものが、なんらの特長になるものではないことを心に留めなければならない。


いい音楽・曲は短かくも適切かつ十分な賞賛の言葉がでてくるはず。
ただ漠然と「クラッシックの香りがする」とかは、テクニック的で、あまり特徴のもないものでしょう。


■ たいせつなことは、歌は心(詩)であり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないということ。
曲は詩を越えることはできない。・・詩を大切にした古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」と繰り返しのべている。


「クラシック」は音楽の「必要条件」ではるが、「十分条件」にはなりえない。



■ 歌は「詩」を心で歌うものであり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たもの(詩情)でなければ、けっして聴く人の心を感動させるこはできない 。(必要十分条件)

因みに「クラッシックの香り」とは、消臭剤の香り(クラシックジャスミンなど)のことであることを付け加えておきたい。






210 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/20(Wed) 18:48
   
   「さすらいの唄」

北原白秋作詞・中山晋平作曲


行(ゆ)こか戻ろか 北極光(オーロラ)の下を
露西亜(ロシア)は北国 果てしらず
西は夕焼 東は夜明
鐘が鳴ります 中空(なかぞら)に

泣くにゃ明るし 急げば暗し
遠い灯(あかり)も チラチラと
とまれ幌馬車 やすめよ黒馬(アオ)よ
明日(あす)の旅路が ないじゃなし

燃ゆる思いを 荒野にさらし
馬は氷の 上を踏む
人はつめたし 我が身はいとし
町の酒場は まだ遠し

わたしゃ水草(みずぐさ) 風吹くままに
流れ流れて 果てしらず
昼は旅して 夜(よ)は夜で踊り
末はいずくで 果てるやら

大正6年(1917)松井須磨子
昭和9年(1934)佐藤千夜子

佐藤千夜子盤絶品!

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211 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/20(Wed) 18:55
『ゴンドラの唄』

吉井勇作詩 中山晋平作曲 

1.いのち短し恋せよ乙女
紅き唇褪せぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを

2.いのち短し恋せよ乙女
いざ手をとりてかの舟に
いざ燃ゆる頬を君が頬に
こヽには誰も来ぬものを

3いのち短し恋せよ乙女
黒髪の色褪せぬ間に
心のほのほ消えぬ間に
今日はふたたび来ぬものを


『ゴンドラの唄』は、1915年(大正4年)芸術座公演『その前夜』における劇中歌として作曲され松井須磨子が歌った。昭和9年(1934)、佐藤千夜子が吹き込んでいる。


212 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/20(Wed) 22:46
>>211

生涯3000曲にも及ぶ中山晋平の原点となった「ゴンドラの唄」は苦労した母の人生をしのぶ歌でもあった。 晋平が8歳のとき父が死亡。その後、女手一つで4人の子供を育てた母が亡くなるのは、藝術座公演『その前夜』の幕開けが迫っていたときである。歌詞は吉井勇がすでに書きあげていた。
大ヒットした「カチューシャの唄」に次いで2度目の劇中歌であることから、関係者の期待や不安が晋平を襲っていた。どうしても曲ができず悩んでいた晋平のもとへ、故郷から「ハハキトク」の知らせが届いた。急ぎ帰京するも間に合わなかった。東京に戻る列車の中で母のことを思い悲しみに暮れていると、「ゴンドラの唄」の歌詞が語りかけてきて、列車の揺れとともに自然と旋律がわいてきたという。『その前夜』開幕8日前のことであった。
抱月・須磨子の死のあと晋平は藝術座を離れ、西条八十、野口雨情、北原白秋らと組んで精力的に童謡を作曲してゆく。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

大正から昭和の初めにかけて活躍した作曲家中山晋平、信州中野出身の晋平の目指したもの、晋平のすごいところ、偉大なところ、それは自らがクラッシックの作曲家として賞を獲得したり栄誉を勝ち取ることではなく、【誰でも歌える歌ずくり】だった。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
昭和27年12月2日、野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。
その28日後、今から67年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。 晋平が目指したのは一貫して《誰でも歌える歌ずくり》でした。

信州中野に一度帰った時、母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。



213 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/02(Sat) 00:36
古賀政男総合スレ 2CH


h ttp://2chb.net/r/natsumeloj/1320231349/


ここのyou Tube で李香蘭歌う「荒城の月」(土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲 1942)が聴けます。

李香蘭が戦地慰問でいつも最初に歌ったのが、この「荒城の月」です。


214 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/02(Sat) 23:22

大正から昭和の初めにかけて、大衆が誰でも歌える歌というものが
民謡など除いて存在しなかった。

誰でもが歌える歌ずくり、それを一貫して目指した者、それが中山晋平。

晋平の歌は【晋平節】と言われた。劇中歌から、童謡、新民謡、歌謡歌曲。

中山晋平は野口雨情、佐藤千夜子と組んで、大正から昭和の初めにかけて「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)を行っていた。

まだ新幹線も飛行機もない時代に全国行脚を行い民謡採譜や普及運動を行っていた。

この中から生まれたのが新民謡「波浮の港」で、この『波浮の港」がビクタ―発足に伴いレコード第一号となり、レコード歌謡(流行歌といった)第一号。

これを歌った佐藤千夜子は『レコード歌手第一号』と言われた。

このレコード歌手第一号佐藤千夜子の力添えで誕生するのが古賀政男。

昭和6年(1931)1月佐藤千夜子の歌で「影を慕いて」「日本橋から」が世に出た。(後に昭和7年3月藤山一郎)

そして、晋平の【晋平節】の次に世の流れになっていくのが古賀政男の【古賀メロディ】。

「古賀メロディ」の「メロディ」とは、「晋平節」の「節」のに対するもので、古賀政男が「メロディ」を大切にその重要性を主張していたそことによる。

今年、平成31年は『古賀メロディ 88年』

影を慕いて、丘を越えて、酒は涙か溜息か、窓に凭れて、月の浜辺・・

もうすぐ90年!


(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

215 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/12(Tue) 13:39

童謡を次世代へ、学会創設 雨情の作曲コンクール開催
2019 3/5(火) 16:49配信 共同




日本童謡学会の会見に出席した松尾一彦さん(後列左)、野口不二子さん(前列中央左)、海沼実さん(同右)ら=東京都内
 童謡を次世代へ歌い継ごうと、歌手や研究者らが昨年、日本童謡学会(東京都新宿区)を創設。今春から詩人野口雨情の詩に曲をつける作曲コンクールを開催するなど、普及や研究に向けた活動を本格化させた。

 同学会理事長で、長年合唱団などで童謡の指導をしてきた音楽教育家の海沼実さんは「童謡は想像力をかき立てる作品が多い。心にとっておやつのような、栄養を満たしてくれるもの。子どもたちに、創作当時に込められた思いを大切にしながら、伝承していきたい」と話す。
同学会は、北原白秋らが童謡を発表した雑誌「赤い鳥」の創刊100年に当たる昨年7月に創設された。昨今、幼稚園や保育園などの教育現場以外では童謡を歌う機会が激減しており、海沼さんは「風前のともしび」と危機的状況を訴える。

 「七つの子」や「シャボン玉」を生み出した雨情の詩に曲をつける作曲コンクールは、プロ・アマ問わず、8月末まで作品を募集している。審査員を務めるのは、雨情の孫野口不二子さんや、NHK「みんなのうた」で放送された童謡の作曲も手掛けた元「オフコース」の作曲家松尾一彦さんらと、力が入る。
 今後は、童謡を使った音楽療法で高齢者の心身ケアをする「童謡セラピスト」の養成や、童謡に関するデータベース構築なども計画している。
名誉理事に就任した、落語家の故初代林家三平さんの妻でエッセイスト海老名香葉子さんは1月、都内で開かれた会見で、戦災孤児となった自身の経験を踏まえて思いを語った。「私は童謡や唱歌によって生き永らえました。歌は人の心を優しくしてくれます。(雨情ら)先生方がつくった童謡を永遠に歌い継がなくてはいけない」



216 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/22(Mon) 18:14
「荒城の月」

「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)という歌は、現在の東京芸術大学〈音楽学部〉の前身である「東京音楽学校」主導で中学の音楽教科書のためにつくられた。

明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされる。
明治44年、師である瀧廉太郎が日本最初にドイツに留学するにあたって、門下生である三浦環は、送別演奏会で「荒城の月」(『荒城月』)を歌った。
当時は「歌曲」と言えば外国曲(でなければばらない)とうのが一般的風潮だった中で、昭和3年、藤原義江によってビクターで吹き込まれたのが「荒城の月」レコードの最初。
哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。
世界で活躍していた我等のテナー「藤原義江」は、どこの国に行っても自分の生れた国の歌も歌えないようでは相手にされないとして、率先して日本の歌曲を歌い広めた事でしたれる。
三浦環の「歌姫は強き愛国心をもたざれば」に通ずることだ。
他に、藤原義江は山田耕筰の「この道」その他や、弘田龍太郎の「叱られて」「浜千鳥」などをレコードにしている。

『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたというものではないが、つい30年前「明治維新」 における日本の内戦である戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜- 明治2年(1868年 - 1869年))と無関係ではないのだ。
武家の「栄枯盛衰」とそれに伴う「無常感」が滲んだ詩は、お寺の「講話」にも使われている。

「荒城の月」は、1898(明治31)年、土井晩翠は会津の「鶴ヶ城」をイメージして造られたものだと土井晩翠自身が語っている。(※)
※土井晩翠が1927年6月29日滝廉太郎45年祭で語り、放送された。
幼い頃から父と祖父から戊辰戦争における会津の悲劇と仙台から見た会津の英雄伝をたくさん聞かされて育った晩翠。
そして二高の時、明治維新後、落城したまま、ほったらかされていた「鶴ヶ城」に行き、悲惨な戦争の跡地から月を見て、なんとも儚い想いを詩にした晩翠の詩、それに子供のころを過ごした・大分県竹田の「岡城」から曲を着想した滝廉太郎の作曲がおりなす「荒城の月」。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが昭和17年古賀政男編曲になる。
戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「荒城の月」をオペラでも歌うつもりか、頭の芯に突き刺さるような激しい声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手が今、少なくないが、戦時中慰問先で「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンター、歌は以下に含まれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏

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名前:

【5:30】  日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/19(Mon) 23:51
何でも有り余る飽食の時代と言われて久しい今、歌もありあまり、そしてなんでも「名曲」となって本当の名曲を知らない人が多くなった今、
明治以降の長い歴史の中で、優れた日本の文化遺産としての真の名曲を振り返り、
つつ、真の【日本の名曲】について語ろう!。


21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/27(Thu) 08:33
「荒城の月」

「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)という歌は、現在の東京芸術大学〈音楽学部〉の前身である「東京音楽学校」主導で中学の音楽教科書のためにつくられた。

明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされる。

明治44年、師である瀧廉太郎が日本最初にドイツに留学するにあたって、門下生である三浦環は、送別演奏会で「荒城の月」(『荒城月』)を歌った。

当時は「歌曲」と言えば外国曲(でなければばらない)とうのが一般的風潮だった中で、昭和3年、藤原義江によってビクターで吹き込まれたのが「荒城の月」レコードの最初。

哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。

世界で活躍していた我等のテナー「藤原義江」は、どこの国に行っても自分の生れた国の歌も歌えないようでは相手にされないとして、率先して日本の歌曲を歌い広めた事でしたれる。

三浦環の「歌姫は強き愛国心をもたざれは」に通ずることだ。

他に、藤原義江は山田耕筰の「この道」その他や、弘田龍太郎の「叱られて」「浜千鳥」などをレコードにしている。

『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたというものではないが、つい30年前「明治維新」 における日本の内戦である戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜- 明治2年(1868年 - 1869年))と無関係ではないのだ。

武家の「栄枯盛衰」とそれに伴う「無常感」が滲んだ詩は、お寺の「講話」にも使われている。
「荒城の月」は、1898(明治31)年、土井晩翠は会津の「鶴ヶ城」をイメージして造られたものだと土井晩翠自身が語っている。(※)

※土井晩翠が1927年6月29日滝廉太郎45年祭で語り、放送された。

幼い頃から父と祖父から戊辰戦争における会津の悲劇と仙台から見た会津の英雄伝をたくさん聞かされて育った晩翠。

そして二高の時、明治維新後、落城したまま、ほったらかされていた「鶴ヶ城」に行き、悲惨な戦争の跡地から月を見て、なんとも儚い想いを詩にした晩翠の詩、それに子供のころを過ごした・大分県竹田の「岡城」から曲を着想した滝廉太郎の作曲がおりなす「荒城の月」。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが昭和17年古賀政男編曲になる。

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22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/27(Thu) 08:38
☆「荒城の月」について

『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲(歌李香蘭)


23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/27(Thu) 08:44
☆(参考)「荒城の月」 SP時代の主な名盤

 1928.02 藤原義江 VIC1175赤盤

 1931,01 萩野綾子 VIC13109赤盤         (橋本国彦編曲版)

 1931,02 奥田良三 POL631631

 1933.05 四家文子 VIC52673

 1933.07 増永丈夫(藤山一郎)VIC52756      (橋本国彦編曲版)

 1936.01 関屋敏子 VIC13452赤盤

 1937.10 藤原義江 VIC13527赤盤

 1942.09 李香蘭  COL100542 @赤盤(スダレ)   (古賀政男編曲版)


24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/27(Thu) 11:16
「宵待草」
大正浪漫を代表する画家・詩人である竹久夢二によって創られた詩歌『宵待草』。
”待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな”
宵待ち草は、日暮れを待ちかねたように月を映して咲きはじめ、一夜限りにはかなく散ってゆきます。
一般には月見草と呼ばれていますが、正しくは”オオマチヨイグサ”。
夢二によって創られた『宵待草』は、「待ち」「宵」にかけているのでしょう。
大正浪漫を代表する詩人の付けたタイトルには、どこか粋とロマンを感じます。。
恋多き夢二だったようですが、これは実ることのなかったひと夏の恋を詞に謳い上げたものです。

「宵待草」
竹久夢二作詩
多忠亮(おおのただすけ)作曲

待てど 暮らせど
こぬひとを
宵待草の
やるせなさ
こよいは月も
出ぬそうな




25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/27(Thu) 11:19
宵待草 名盤

宵待草  藤原義江 竹久夢二 多 忠亮  0307 VIC4045 赤盤
宵待草  柴田秀子 竹久夢二 多 忠亮  0606 COL26271 黒盤
宵待草  井上脇子 竹久夢二 多 忠亮  0704 VIC52216 黒盤
宵待草  和田春子 竹久夢二 多 忠亮  0711 PAR E1941
宵待草  内木 実 竹久夢二 多 忠亮  0807 COL35365 青盤
宵待草  奥田良三 竹久夢二 多 忠亮  0905 POL2051 黒盤
宵待草  関屋敏子 竹久夢二 多 忠亮  1006 VIC13430 赤盤
宵待草  三浦 環 竹久夢二 多 忠亮  1106 COL35435 青盤
宵待草  内木 実 竹久夢二 多 忠亮  1110 NIT61002 青盤
宵待草  川路美子 竹久夢二 多 忠亮  1100 NIT S1413 大衆S盤
宵待草  長門美保 竹久夢二 多 忠亮  1306 KIN20096 群青盤
宵待草  柴田秀子 竹久夢二 多 忠亮  1310 VIC J54395 黒盤
宵待草  長門美保 竹久夢二 多 忠亮  1411 KIN30123 群青盤
宵待草  東海林太郎 竹久夢二 多 忠亮  1410 POL2883 黒盤
宵待草  長門美保 竹久夢二 多 忠亮  1704 KIN67025 群青盤
宵待草  李香 蘭 竹久夢二 多 忠亮  1709 COL100542 赤盤

0307 :発売年月 昭和3年7月









26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/30(Sun) 23:04
>>24-25

ほかに


宵待草 ベラトラメリ能子 竹久夢二 多 忠亮 1008 COL35471 青盤

四家文子(1928)、関種子(1934)などの盤がある。

27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/03(Thu) 22:51
日本の名曲・・それは日本の歴史を凝縮し、その上にそれなりの知る人ぞ知る名詩人が、知る人ぞ知る大作曲家が心を込めて
作った、そして昨日今日できたものではなく、戦前から80年以上の長きにわたって、藤原義江、三浦環、
関谷敏子、ベラトラメリ能子,川路美子、奥田良三、四家文子、関種子など知る人ぞ知る日本の名歌手たちが
競って歌い広めた歴史を持つもの。

28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/04(Fri) 12:36
>>22-23

荒城の月
作詩 土井晩翠  作曲 滝廉太郎

藤原義江 0302 VIC1175 赤盤
藤原義江  0310 ORI30012
ブカナン  0511 COL26015
荻野綾子  0601 VIC13109 赤盤
奥田良三  0602 POL631
黒田 進  0606 TAI3034
牧 嗣人  0701 COL35221
内本 実   0801 COL35336
四家文子 0805 VIC52673
藤山一郎 0800 VIC52756
藤山一郎 0907 VIC53108
関屋敏子 1101 VIC13452 赤盤
奥田良三 1104 POL2268@
永田絃次郎 1110 KIN10002
藤原義江 1210 VIC J54098
藤原義江 1211 VIC13527 赤盤
藤山一郎、女声合唱団1501 COL30467@
井口小夜子 1704 KIN67025
李 香蘭 1709 COL100542@
帝国合唱団 1803 TEI T3418




29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 23:56
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/16(Tue) 22:19

メロディパタンのクラスタ分析 : 古賀メロディパタンの特徴
Cluster analysis of melody pattern : A characteristics of KOGA melody style
秋山、松田 日本音響学会誌 53(12), 915-921, 1997


名前:

【6:183】  【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 17:53
【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
古賀政男(1904−78)作曲家、福岡県生まれ。明治大学卒業。ギターの伴奏で七五調二句からなる『酒は涙か溜息か』(歌:藤山一郎、詞:高橋掬太郎、1931年コロムビア)ほか、哀調を帯びたその旋律は"古賀メロディー"と呼ばれ、日本人の心をとらえた。『誰か故郷を想はざる』(歌:霧島昇、詞:西条八十、40年コロムビア)や『悲しい酒』(歌:美空ひばり、詞:石本美由起、66年コロムビア)は大ヒット。国民栄誉賞。

代々木上原一、二丁目,小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、当時の金で数十億といわれる群を抜いた著作権料。車がまだ一般的でなかったころから、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった昭和最高最大の印税長者古賀政男。





174 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/08(Sat) 20:45
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男と藤山一郎との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。

175 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/18(Tue) 22:54
月の浜辺

   作詞 島田 芳文
   作曲 古賀 政男
   唄  河原喜久恵

 1.月影白き 波の上
   ただひとり 聞く調べ
   告げよ千鳥
   姿いずこ かの人
   ああ 悩ましの夏の夜
   こころなの 別れ

 2.月早やかげり 風立ちぬ
   われ啜り泣く 浜辺
   語れ風よ
   姿いずこ かの人
   ああ狂おしの夏の夜
   とこしえの 別れ



 1931年(昭和6年)5月、コロンビアから河原喜久恵の歌で
 発売されたもので、A面が藤山一郎の『キャンプ小唄』でした。
 青白い月の光に、わけもなく瞼がうるむ、淡く、なつかしい
 センチメントに溢れている曲です。作詞の島田芳文は、古賀政男
 がコロンビア専属初期のコンビですが、『丘を越えて』『キャンプ小唄』
 と主に、古賀の明朗な曲でヒットが多かった人です。オリジナル
 のレコードは古賀のギターだけの伴奏で河原が歌ったセレナーデ
 風の佳曲で、古賀が好んだジプシーの短音階で作曲されています。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

176 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/07(Mon) 13:29
昨年2018年12月30日、TPPがアメリカを除外で発行、著作権は死後50年だったものが、70年になった。
これに合わせ、著作権法が改正され著作権保護期間が50年から70年になった。

古賀 政男(1904年11月18日 - 1978年7月25日)は、昭和53年7月25日亡くなり、昨年昭和93年7月で40年であと10年だったが、
この改正で2048年12月まであと30年ということになる。

177 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/03(Sun) 23:29
丘を越えて(藤山一郎)
キャンプ小唄(藤山一郎)
月の浜辺(河原喜久恵)
乙女心 (関種子)
窓に凭れて(関種子)
酒は涙か溜息か(藤山一郎)

昭和6年(1931)に入ると、ビクタ‐1月新譜「影を慕いて」(佐藤千夜子、昭和5年10月吹込)以降、3月にコロムビア専属作曲家となった新星古賀政男は次々にヒット作品を世に送り出し、これまでの晋平節とは一味違う哀調を帯びた「古賀メロディ」と呼ばれることになる新しい歌謡曲(歌謡歌曲)のジャンルを確立してゆく。
影を慕いては、昭和7年藤山一郎に依って再び吹き込まれる。
「古賀メロディー」を支えたのは、河原喜久恵、関種子、藤山一郎など、東京音楽学校(東京芸大音楽学部の前進)出身の若き首席卒業歌手たちなどだった。当初ビクターの一人勝ちで出発したレコード界の主流は古賀政男のコロムビアに移ってゆく。

他に昭和6年には、「侍ニッポン」(西條八十作詞、松平信博作曲、徳山 l(たまき))などがある。



今年平成最後の平成31年(2019)は昭和94年、古賀メロディ発祥88年。

古賀メロディの殆どの名曲は80年を超える【日本のクラッシック】の名に恥じないものと言っていい。

178 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/30(Sat) 22:25
>>133

古賀政男音楽博物館、代々木上原駅から徒歩2〜3分のところにある博物館です。立派な建物で、演奏ホールも併設しているみたいで、ちょうど何かの発表会があるのか団体さんがいらっしゃいました。
古賀政男という人を自分はよく知らなかったのですが、昭和の代表的な作曲家なんですね。お隣にJASRACがあって、おお、と思いました。これも博物館と一体の古賀財団ビルの一部だそうです。


代々木上原の駅から徒歩でアクセスしました。5分もかからない場所です。もともとは作曲家の古賀政男さんのお屋敷だった場所で、今もピアノや書斎などが見られました。大衆音楽の有名人も紹介されていましたよ。観光客は多くはなく、静かな環境で見学できるのはよかったです。

日本作曲家協会初代会長として日本レコード大賞を制定、音楽界の発展に尽力し、国民栄誉賞を受賞した古賀氏の博物館。代々木上原駅から徒歩3分ほど。ジャスラック本部が横にあります。コンサートホール、自身の歌を録音できるカラオケスタジオ、古賀氏や顕彰者の作品視聴、私邸の一部を移築した展示等を観ることができます。




小田急線代々木上原駅前、3000坪の古賀政男邸、昭和日本の著作権王を象徴する古賀邸は、昭和13年に作られた、テイチクを退社し、14年にコロムビアに復帰するわけだが、この間に外務省音楽文化親善使節として、アメリカ、南米を回り、1分間1万ドルのNBC放送から全世界に流れた。

14年、コロムビア復帰、JASRACのもととなる大日本音楽著作権協会設立にコロンビアとして深く関与。

古賀政男は著作権としても圧倒的であって、「著作権」と切っても切れない関係。

現在、古賀政男音楽博物館になっている、その財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。

戦後、古賀政男は、中山晋平、西條八十、堀内敬三、サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長。


財団法人古賀政男音楽文化振興協会、古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも不思議ではない。


179 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/31(Sun) 21:45
古賀政男音楽博物館、代々木上原駅から徒歩2〜3分のところにある博物館です。立派な建物で、演奏ホールも併設しているみたいで、ちょうど何かの発表会があるのか団体さんがいらっしゃいました。
古賀政男という人を自分はよく知らなかったのですが、昭和の代表的な作曲家なんですね。お隣にJASRACがあって、おお、と思いました。これも博物館と一体の古賀財団ビルの一部だそうです。
代々木上原の駅から徒歩でアクセスしました。5分もかからない場所です。もともとは作曲家の古賀政男さんのお屋敷だった場所で、今もピアノや書斎などが見られました。大衆音楽の有名人も紹介されていましたよ。観光客は多くはなく、静かな環境で見学できるのはよかったです。

日本作曲家協会を作り自ら初代会長として日本レコード大賞を制定、作曲家の権利向上など、音楽界の発展に尽力し、国民栄誉賞を受賞した古賀氏の博物館。代々木上原駅から徒歩3分ほど。ジャスラック本部が横にあります。コンサートホール、自身の歌を録音できるカラオケスタジオ、古賀氏や顕彰者の作品視聴、私邸の一部を移築した展示等を観ることができます。・・

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。
大きな屋敷に住み、指には大きなダイヤをつけ、幅2mもあるリンカーンなど大きな外車に乗り、テレビが家庭に普及していく中で、歌謡番組では審査委員長として「よかったね、よかったね」と。


小田急線代々木上原駅前、3000坪の古賀政男邸、昭和日本の著作権王を象徴するその豪華な古賀邸は昭和13年に作られた。
テイチクを退社し、14年にコロムビアに復帰するわけだが、この間に「外務省音楽文化親善使節」として、アメリカ、南米を回り、1分間1万ドルのNBC放送から全世界に流れた。
昭和13年、代々木上原の駅前3000坪を手に入れた古賀はここに古賀村を作るべく古賀邸の建設を始める。
当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水組(現清水建設)に建てさせ昭和13年に完成した。

その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。
「日本の洋館 第6巻 昭和篇2 」講談社2002(ISBN-13: 9784062614863)
そして、テイチクを退社した古賀政男は藤原義江の見送りを受けて横浜港へ出発。
14年8月には、1分間1万ドルのNBC放送から古賀の曲が全世界に流れた。14年、「世界の古賀」となって帰国凱旋した古賀は三浦環の歓迎祝賀会を受けた。そしてコロムビア復帰。
このコロムビア時代は、初期コロンビア黄金時代、テイチク黄金時代と並んで、「古賀政男第三期黄金時代」と言われる。
同時に14年には、日本の著作権行政に大きく影響を及ぼすことになる、JASRACの前身『大日本音楽著作権協会』が設立される。
第三期黄金時代の古賀はコロムビアの古賀としてだけでなく、日本の古賀、世界の古賀として、この「大日本音楽著作権協会」の設立に大きく関わっている。



180 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/31(Sun) 21:52
古賀政男は著作権長者として有名、自身もコロンビアからテイチクに移るのに著作権に苦労し弘田竜太郎に助けられた。毎朝玄関でカネを数える音がするという伝説もある。
著作権料も圧倒的であって、JASRACの前身「大日本音楽著作権協会」設立にも深く関与、戦後「日本音楽著作権協会会長」など、「著作権」と切っても切れない関係にある古賀政男。

現在、古賀政男音楽博物館になっている、その財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。
日本音楽著作権協会(JASRAC)は現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、昭和14年(1939年)に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
著作権に関する仲介業務に関する法律 (昭和 14年法律 67号) により主務官庁の許可を得た日本唯一の音楽著作権仲介団体となった。

西新橋にあった本部は古賀政男没によって創設された、東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有する同博物館と一体の同ビルに移転。22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。
戦前の大日本音楽著作権協会では政治家が会長をつとめたが、昭和23年から作曲家と詩人が交代となって、作曲家古賀政男は、作曲家中山晋平、詩人西條八十、作曲家堀内敬三、詩人サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長を歴任している。



財団法人古賀政男音楽文化振興財団、古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも不思議ではない。


多くの人が歌った聴いた、80年の歴史の重みをもつそれはもう「古賀メロディ」を越えた、「童謡」に匹敵する名実ともに【日本のクラッシック】である。


181 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/01(Mon) 23:44

小田急線代々木上原駅前、3000坪の古賀政男邸、昭和日本の著作権王を象徴するその豪華な古賀邸は昭和13年に作られた。
テイチクを退社し、14年にコロムビアに復帰するわけだが、この間に「外務省音楽文化親善使節」として、アメリカ、南米を回り、1分間1万ドルのNBC放送から全世界に流れた。
昭和13年、代々木上原の駅前3000坪を手に入れた古賀はここに古賀村を作るべく古賀邸の建設を始める。
当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水組(現清水建設)に建てさせ昭和13年に完成した。

その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。
「日本の洋館 第6巻 昭和篇2 」講談社2002(ISBN-13: 9784062614863)
そして、テイチクを退社した古賀政男は藤原義江の見送りを受けて横浜港へ出発。

14年8月には、1分間1万ドルのNBC放送から古賀の曲が全世界に流れた。14年、「世界の古賀」となって帰国凱旋した古賀は三浦環の歓迎祝賀会を受けた。そしてコロムビア復帰。


このコロムビア時代は、初期コロンビア黄金時代、テイチク黄金時代と並んで、「古賀政男第三期黄金時代」と言われる。
同時に14年には、日本の著作権行政に大きく影響を及ぼすことになる、JASRACの前身『大日本音楽著作権協会』が設立される。
第三期黄金時代の古賀はコロムビアの古賀としてだけでなく、日本の古賀、世界の古賀として、この「大日本音楽著作権協会」の設立に大きく関わっている。



古賀政男は著作権長者として有名、自身もコロンビアからテイチクに移るのに著作権に苦労し弘田竜太郎に助けられた。毎朝玄関でカネを数える音がするという伝説もある。
著作権料も圧倒的であって、JASRACの前身「大日本音楽著作権協会」設立にも深く関与、戦後「日本音楽著作権協会会長」など、「著作権」と切っても切れない関係にある古賀政男。

現在、古賀政男音楽博物館になっている、その財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。
日本音楽著作権協会(JASRAC)は現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、昭和14年(1939年)に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
著作権に関する仲介業務に関する法律 (昭和 14年法律 67号) により主務官庁の許可を得た日本唯一の音楽著作権仲介団体となった。

西新橋にあった本部は古賀政男没によって創設された、東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有する同博物館と一体の同ビルに移転。22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

182 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/07(Tue) 03:56
古代文明

183 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/13(Sat) 00:13
メロディパタンのクラスタ分析 : 古賀メロディパタンの特徴 Cluster analysis of melody pattern : A characteristics of KOGA melody style

参考文献: 19件
被引用文献: 2件

秋山 好一 Akiyama Kouichi
大阪電気通信大学短期大学部

松田 稔 Matsuda Minoru
大阪電気通信大学工学部

抄録
古賀政男音楽作品は"古賀メロディ"として多くの人々に親しまれてきた。本論文では, 古賀メロディに共通する旋律の特徴を述べている。特徴抽出にはメロディパタンのスペクトル表現に階層的ファジィクラスタ分析を適用した。クラスタ分析において古賀メロディが集群する階層が存在した。この集群したクラスタから得られる類似関係は, 旋律輪郭の滑らかさにあることが分かった。実験結果から, 古賀メロディの特徴の一つとして, 旋律全体の滑らかさと部分旋律における滑らかさに相似関係が存在することが明らかになった。このことは, 16小節程度の旋律進行は4小節程度の部分旋律における旋律進行から予測できることを意味している。


収録刊行物 日本音響学会誌
日本音響学会誌 53(12), 915-921, 1997
一般社団法人 日本音響学会






名前:

【7:5】  この歴史スレについて
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/10/29(Mon) 23:39
この歴史スレについて、スレの守るべき事などについて書きます。


2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/10/29(Mon) 23:42
歴史スレに無関係な商品の宣伝を目的としたスレが多数出ました。

これらは、本スレの趣旨に反し、かつ利用規約に反します。
やめてください。



3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/10/29(Mon) 23:44
削除願います。

4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/10/31(Wed) 11:34
商品の宣伝行為など、本スレの趣旨に反し利用規約に反するスレ立てを発見した場合は、ただちにここの補助・要望掲示板の中の削除依頼専用スレッドに連絡してください。

5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/05(Fri) 12:29
ぱやぴい

名前:

【8:55】  苗字とは・・ 明治8年 平民苗字許可令
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/25(Thu) 19:59

昔、明治になるまでは平民が「苗字」を名乗ることはできませんでした。

よくテレビ番組で「苗字」についてやってるが、祖先が藤原氏だとか武田(信玄)だとか思ってしまうが、
間違いです。

日本国中の誰もが名字を名乗るようになったのは、
明治維新後の明治8年2月13日の「平民苗字必称義務令」からです。

姓名はどうやって名乗ったか〜それは明治8年2月13日に遡ることが重要です。



46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/03(Wed) 22:58
苗字とは・・ 明治8年 平民苗字許可令

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=495709999&ls=50

47 名前:疑問解決したい爺 投稿日:2019/01/14(Mon) 08:30
「斎部」は使ってはいけない名字なのでしょうか?
また「忌部」「斎部」はなぜ皆、改称したのでしょうか?
何か、調べる手立てがあるならばおしえてください。

48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/04(Tue) 08:20
テレビで日本人の名前とかやってるが、日本人の殆どは明治時代に姓をもった。
寺院とか、名主だった人につけてもらったりしたもの。武将だとか地域の有名な人の
名にあやかったりしてつけたもの。
江戸時代から姓を持っていた名主など名家は必ずどこかに古文書や墓石,石碑等に名が残っているはず。


コタツでミカンを剥きながらテレビを見ていたかのようなテレビ番組の全員姓名論は荒唐無稽。

古文書や墓石に名が残っていない限り、明治時代初期の法律により以下の法令で義務化されたことにより急遽つけられたもの。


明治3年  平民苗字許可令 

明治8年  平民苗字必称義務令



日本の歴史は飢饉の歴史、明治以降も東北地方では例外による飢饉が頻発、最後の飢饉と言われた昭和6年から9年にかけての昭和東北大凶作、
東北の人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えを凌ぐ惨状。

宮沢賢治の「雨にも負けず」は昭和6年の冷害のことをうたったもの。
雨にも負けず風にも負けず‥この最後には夏の寒さにも負けず、寒さの夏はおろおろ歩きとある。

江戸時代以前ともなれば燦たるものだったろう。
昔、平民でも全員姓をもっていたとか抜かす輩がいるようだが、こういうのは歴史を知らぬ人の考えること。




49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/04(Tue) 08:30
日本の歴史、それは飢饉の歴史、多くの名もなき庶民が餓死し、餓死した人の人肉を食べた、



現代の日本では、どんなに貧しくても餓死というのはあり得ませんが、江戸時代においては多くの人が餓死で亡くなりました。

特に全国規模で起こった天明の大飢饉のときの被害は、とても大規模なものでした。

1782年に各地で起こった大洪水や関東地方の大地震、1783年の浅間山の噴火などにはじまり、1787年まで続いた天候不順により農作物が壊滅的は被害を受けたのです。

天明の大飢饉による餓死者は30万人とも50万人ともいわれていますが、大地震や浅間山の噴火、洪水などで亡くなった人の人数を合わせると、100万人以上の人が亡くなったといわれています。

1700年代の日本の人口は2800万人から2900万人であったと推定されていますから、100万人以上の死者というのが真実だとすれば、日本の総人口の3.5%ほどの人が亡くなったことになります。

30人に1人が亡くなったことになりますから、その被害の大きさは想像を絶するものであったといえるでしょう。


特に東北地方での被害は甚大でした。

弘前藩では人口の3分の1が餓死したといわれており、津軽藩でも人口の3割〜4割にあたる8万人が餓死をしたそうです。

また、盛岡藩でも死者が6万人にのぼったという記録が残されています。

飢えをしのぐために人肉を食べた人もいた!?

天明の大飢饉では、飢えによって多くの人が亡くなりましたが、一部の人たちは飢えをしのぐために餓死をした人の人肉を食べていたといわれています。

食べるものがなくて極限まで追い込まれると、人間はそういった行動に走ってしまうのかも知れません。

八戸領における天明の大飢饉の様子を記録した「天明卯辰簗(てんめいうたてやな)」に次のような記述が残っています。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/04(Tue) 08:36
日本における飢饉の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=347618517&ls=50

51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/04(Tue) 08:49
日本は未だ、世界の「人身売買」の規制対象国となっています。

「山椒大夫」の話、「安寿と逗子王」の話は説話ですが人身売買の話です。

日本にも古くから人身売買がありました。少女や少年などが売られ、庄園の労働力や売春、男色〈男の子)や外国への人身売買などです。

こうした背景には、貧困が有ります。

今では想像すらできない貧困国だった日本、現在のような豊かな?国になるのは、人々のたゆまぬ努力の賜だったことでしょう。

貧困と、飢饉、疫病、多くの民が死んだ歴史。飢饉では死んだ子供の死体さえ食う飢餓地獄、姨捨山伝説など、それが日本の偽らざる歴史。

決して、民が姓をもっていたなどということはないのです。

52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/04(Tue) 08:55
日本における貧困と人身売買の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=364610266&ls=50

53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/09(Sun) 22:38
今では想像すらできない貧困国だった日本、現在のような豊かな?国になるのは、人々のたゆまぬ努力の賜だったことでしょう。

貧困と、飢饉、疫病、多くの民が死んでいった日本の歴史。飢饉では死んだ子供の死体さえ食う飢餓地獄、姨捨山伝説など、それが日本の偽らざる歴史。

決して、民が姓をもっていたなどということはないのです。


54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/09(Sun) 22:49
NHKの「日本人の名前」さえ、もはや姓の話などでてきませんね。

55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/23(Sun) 23:00
明治時代以降、日本国民の全てが名字(苗字)を名乗るようになった。誰もが知っている通り、それ以前の時代では公家や武士、医師や学者、そして一部の豪農(庄屋・名主など)や有力な町人(町名主・年寄など)などに限って名字(苗字)を持つことが許されていた。
それが明治3年(1870年)9月19日の『平民苗字許可令』を経て、明治8年(1875年)2月13日の『平民苗字必称義務令』により、我国の国民は皆、公的に名字(苗字)を持つことになった。これは、明治維新を迎えて武士の世が終わりを告げ、文明開化と共に四民平等の世界が来たことの象徴の様に思えるが、しかしそこには意外な理由が存在していたのだった・・・。

江戸時代までは、武士階級などを除く多くの平民(農民・職人・商人などの庶民)は「何々屋(屋号)の誰それ」とか「何処の誰々」といったように、携わっている職業やその居住地の地名を名前の上につけて名字(苗字)の代わり(識別の為の呼称)としていた。
それが明治時代になると、前述の様に平民もすべて名字(苗字)を付けなくてはならないという法律が出来たが、この国民全員が名字(苗字)を付けるという決まり事は、身分制度の撤廃を優先した発想によるものではなかったのだ。

結論から言うと、国民全員が名字(苗字)を名乗ることになったのは、実は「徴兵制度(ちょうへいせいど)」との関係が強いとされているのだ。そしてこの制度とは、国家が国民に兵役に服する義務を課す制度のことで、「志願兵(募兵)制度」の対義語である。
国家が強力な常備軍を維持し、また一朝事ある時には速やかに戦力の拡大を要することを考慮して(国民皆兵のもとに)多くの兵員を集め、また一定期間にわたり兵役に服すことを可能とした体制を整備したのが「徴兵制度」である。但し、明治6年1月10日発布の法律では「一家ノ主人タル者」や家産・家業維持の任に当たる者は兵役の義務から免除されていた。
さてこの「徴兵制度」を確立する上では、何処に何と言う名前の者が住んでいるのかを正確に把握することが最も重要であった。兵士となる候補者を集める上では、江戸時代までの様な多くの庶民が適当で(いい加減な)呼び名で呼ばれていた状態では確実に「徴兵制度」を遂行することは能わなかったし、同様に何処に常住しているかを知る必要もあったのだ。
そこでこの「徴兵制度」をスムーズに遂行・達成する為に必要なものとされたのが、徴兵対象者を含む国民全ての年齢・性別や氏名と住所を記した「戸籍(こせき)」の整備であったが、この「戸籍」とは、「戸」と呼ばれる一定の家族集団単位で国民たちを登録・管理する目的で作成された公文書類のことである。
江戸時代までの徳川幕藩体制下では、人民把握の基礎となったものに「人別帳」等があったが、近親の家族以外にも遠縁の親類縁者や使用人なども含めた「家」単位で編纂されていた。
しかし明治時代になると、我国は中央集権的な国家体制の樹立を目指して、それ以前の時代の「家」間の主従関係や支配者側と被支配者側の立場の解消が企図されたのである。
そこで律令制の頃の「戸籍」に範をとった制度を復活させて、江戸時代までの「家」単位ではなく「戸」単位での国民に関する情報の掌握体制を確立して、それまでの「家」制度が封建体制下では公的なものであったのが、以降は私的な繋がりの集団・組織へと改変されて、国家は「家」を通さずに直接的に個別の国民を個人単位で管理することが可能となったのである。
こうして、明治期以降の「戸籍」は徴兵制や徴税の効率を上げる為に設けられ、戦前(第二次世界大戦終結以前)の新たな「家」制度の根幹となっていく。この制度は、1898年(明治31年)に制定された民法において規定された我国固有の家族制度であり、親族関係を有する者の内で更に狭い範囲の者を、「戸主(こしゅ)」とその家族として一つの「家」に所属させて、「戸主」に「家」の統率権限を与えた制度のことである。またこれは、江戸時代に発達した武士階級の「家父長制」を基にしていたと考えられている。



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【9:62】  支那・東洋史における「宦官」の歴史
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/21(Sun) 19:58
宦官の歴史は,人類の歴史、中国殷の時代から20世紀初頭まであった。中国を中心としてイスラム、インド、シリア・・・など宮廷に仕えた「宦官」と呼ぶ去勢された男子がいて宮廷の雑務をつかさどっていた。

何千人、何万人もいた宮廷に、男子は皇帝ただ一人、皇帝以外の女官を除く男は宦官と言って女官と交接できぬよう去勢され男の資格を完全に奪われた去勢男子のみ。中国清代は其のほとんどは少年の時去勢(完全去勢)された少年宦官だった。




53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/24(Wed) 20:13
宦官・高力士

 URLリンク(www002.upp.so-net.ne.jp)

54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/24(Wed) 23:30
高力士は、宦官とは思えないたくましい肉体を持っていました。高力士は、少年時代、金剛という少年と共に、則天武后に捧げられた 宦官であったと伝わっています。女帝である則天武后はおそらく、中性的な宦官を望まなかったでしょう・・・・ ひょっとすると、高力士は、他の宦官とは違 う特殊な去勢を施されていたのかもしれません。

55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/24(Wed) 23:40
本名は馮元一。則天武後が政権を握っていた時、高家が皇帝反対の叛乱に参加した疑いで、ほぼ一家全員が殺されました。当時11歳の彼は未成年ということで死を免れましたが、そのかわりに宮刑を受け、後宮に送られ、宦官になりました。力士という名前はその時に付けられたのです。やがて高延福という宦官の養子になったので,高力士と呼ばれるようになりました。

56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/26(Fri) 22:18
・マルセル・シュウォッブ著 多田 智満子訳「少年十字軍」(王国社1998)
1212年フランスのヴァンドーム地方に少年十字軍という子供の集団が発生。マルセイユから船で出帆した彼らはアレクサンドリア
へ奴隷として売られてしまう。神に導かれた彼らの悲しい運命を天才作家が透明な詩情でうたう。

・古屋兎丸「インノサン少年十字軍」(上・中・下 )大田出版2008 (マンガ・エロティクス・エフ)
無垢なる少年たちを待ち受ける、残酷な 運命。――鬼才・古屋兎丸、渾身の衝撃歴史絵巻、誕生! この名もなき少年たちが、
歴史 に名を残すことになる――1212年の春、フランス北部の田舎町。神に愛されし“奇跡の子” ...


57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/30(Tue) 22:01
中国といえば宦官、清朝末期には、紫禁城の近辺には宦官を作る去勢場があった。清の低級官吏である七品官の畢五家と小刀劉の2家が、政府公認の手術小屋「小廠(チャンツ)」を開いていて、そこで「刀子匠(タオツチャン=切り師) が、があった。自宮といって宮刑という刑罰によらない宦官製造(去勢)を行っていた。
その2ヶ所とも、今は宦官に関する博物館となっている。


58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/30(Tue) 22:05
ここでは1912年の清朝崩壊後も、残された旧王室や、地方の有力者が宦官を募集していたので、1940年代まで自宮が行われていたそうだ。

59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/30(Tue) 22:33
性器を切断してしまう宮刑(きゅうけい)は、「書経」の篇名の一つで周の穆王時代(前10世紀頃)の刑書と云われる「呂刑」と云う書物の中に、黥(顔面に入れ墨をする刑)・?(鼻そぎの刑)・?(足切りの刑)といった刑(五刑という)の一つで、死刑に次ぐ重刑。
死刑に処せられるところ、少年とかで死一等を減ぜられるときは宮刑。
宮刑は、去勢され生殖能力を完全に奪われて宦官として、一生紫禁城に閉じ込められるが実際には宦官が権力をほしいままにした。

そこで、貧しい貧民が志願して、あるいは親にされて宦官を志願するようになった、これを刑罰によらない自宮宦官、志願して金を払って去勢されることを自宮という。清代〜清末は宦官の殆どは自宮宦官で、ほとんど親に去勢されたり、親に去勢場に連れていかれてした貧しい少年だった。


60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/02(Thu) 00:38
14歳以下の少年は死刑でも宮刑とされた。
その代わり、男の資格と生殖能力を奪われ宦官として紫禁城に一生閉じ込められた。
宦官は外に出てはならないとされ、出たものは死刑とされた。清末少年宦官で宦官にされた安徳海は外に出て死刑になった。


61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/23(Sun) 22:51
清末、つまり20世紀初頭まで、ほとんどが少年宦官で自宮による。北京にはチャンツという自宮宦官を作る去勢場があった。
今でも宦官博物館になってるそうだ。(自宮体験ができるとのことだが、本当にするという。)

62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/23(Sun) 22:52
三田村 泰助「宦官―側近政治の構造 」(中公新書7)中央公論社
池島信平著「歴史よもやま話・東洋編」文芸春秋社

宦官: 中国四千年を操った異形の集団 (徳間文庫カレッジ) 文庫 ? 2015/12/3
顧 蓉 (著), 葛 金芳 (著), 尾鷲 卓彦 (翻訳)

________________________________________
寺尾 善雄 「宦官物語―男を失った男たち」 (河出文庫) 文庫 ? 1989/9
賈 英華 (著), 林 芳 (原著, 翻訳), NHK出版 (翻訳) 「最後の宦官秘聞ーラストエンペラー溥儀に仕えて」 NHK出版
加藤 康男 (著) 「ラストエンペラーの私生活 」(幻冬舎新書) 新書 ? 2019/1/30
加藤 康男 (著)「禁城の虜 ラストエンペラー私生活秘聞」 ? 2014/1/9

賈 英華「最後の宦官―」溥儀に仕えた波乱の生涯」NHK出版
「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店  1968(昭和43)年2月13日発行
(親本:「東洋史説苑」1927(昭和2)年5月10日発行)
「トプカプ宮殿の光と影」法政大学出版局 (1992-01-25出版)
「紫禁城探検3・最期の宦官が明かした秘話」(「週間朝日」1991.11.22号)
「最後の宦官」(上下2巻、朝日ソノラマ文庫)
ラストエンペラー [Blu-ray][DVD]
ジョン・ローン (出演), ジョアン・チェン (出演), ベルナルド・ベルトルッチ (監督) 形式: Blu-ray


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【10:128】  ☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/12(Fri) 23:17

「昭和」も遠くなりました。昭和は明治、大正を合わせたより長く、1926年12月から1989年1月まで62年あまりあります。

「昭和」と言う、まだ日本がまだ草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、レコード歌謡が花開き、人々に迎えられたのです。SPレコードの時代です。
その歌手の多くは音楽学校出身者でした。以下にその歌謡史と歌謡史を支えた主な歌手と主な歌を。




119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/07(Sat) 21:53
「天国に結ぶ恋」・・この歌は大磯、坂田山で昭和7年に起こった慶応大生の心中事件。

それは世間を驚かせる猟奇事件にも発展するのだが、映画になった。主題歌を頼まれた西條八十も
気が進まず拒否、でも名前を出さないということでで来たのが「天国に結ぶ恋」。

86年前に起きた、この事件は歌とともに、今でも市のホームページに大きく取り上げられている。

それは、西條八十の優しく清廉な、詩人ならでは簡潔な名詩、そして徳山l・四家文子、知る人ぞ知る二人の名歌手の優しい明唱のゆえんだと思われます。
ぜひ、聞かれることをお勧めいたします。

120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/22(Fri) 07:22
☆藤山一郎と古賀メロディ

藤山一郎がラジオに登場したのは、昭和3年の慶応普通部時代で、それ以来、音楽放送の歴史とともに歩んできた。
『日本放送史』(日本放送協会編)には、「藤山は、《丘を越えて》《影を慕いて》などの古賀政男のいわゆる古賀メロディーで流行歌手としての地位を確立、音楽学校卒業後、増永丈夫の名でクラシック曲を、藤山一郎の名で流行歌曲を歌いのち、指揮者として活躍し、戦前、戦後を通じて放送音楽に重要な役割を果した。」とある。

「藤山一郎」とは、昭和6年(1931)、「キャンプ小唄」をはじめとする古賀作品をレコード吹き込みにあたっての名前で、これが昭和歌謡史に残る「藤山一郎」の実質的レコードデビュー。

「歌う昭和史・藤山一郎」の原点は昭和6年(1931)、「キャンプ小唄」「酒は涙か溜息か」・・。

平成四年、国民栄誉賞受賞。愛宕山のNHK放送博物館には彼のコーナーがあり、業績や記念物の展示があり、ビデオが見れる。

ビクター時代の藤山は『燃える御神火』、『僕の青春』などがヒットしたが音楽学校在校中に吹込んだ『古賀メロディー』ほどの大ヒット曲には恵まれなかった。

藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。

ビクターのライバルコロムビアでかつて放ったヒットをしのぐことはできなかった。

ビクターとの契約期間は3年で満了を迎えた。ビクターは藤山との再契約を望んだが、当時コロムビアからテイチクに移籍して重役作曲家になっていた古賀政男はテイチクへの移籍を促した。契約金は1万円であった(ちなみに、同時期の内閣総理大臣の月給は800円)。

1936年(昭和11年)、古賀が作曲した『東京ラプソディ』が販売枚数35万枚のヒットとなった。これにより藤山はB面の『東京娘』とあわせて2万1000円の歌唱印税を手にし、学生時代から抱えていた生家の借金を完済することができた。

PCLによって『東京ラプソディ』を主題歌にした同じタイトルの映画も制作され、藤山が主演した。『東京ラプソディ』と同じく古賀が作曲し1936年に発売された『男の純情』、翌年の『青い背広で』『青春日記』もヒットした。

藤山はこの時期に歌った曲の中から印象に残る曲として、『東京ラプソディ』とともに『夜明けの唄』(大阪中央放送局が1936年に企画した、有名な詩人の作品に歌をつける企画、国民歌謡、国民合唱と呼ばれた)を挙げている。

1933年(昭和8年)3月、藤山は東京音楽学校を首席で卒業した。卒業直後にビクターに入社し、同社の専属歌手となった。ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていた。『酒は涙か溜息か』などのヒット曲がコロムビアから発売された曲であったことから藤山はコロムビア入社も考えたが、停学となって以来長らく接触が途絶えた上、ようやく交渉を開始してからも藤山が求めた月給制を拒絶したため、月給100円に加え2%のレコード印税支払いを約束したビクター入社を決めた。

藤山は1931年から1932年にかけておよそ40の曲を吹込んだ。代表曲は古賀政男が作曲し1931年9月に発売された『酒は涙か溜息か』で、100万枚を超える売り上げを記録した。塩沢実信によると、当時の日本にあった蓄音機は植民地であった台湾や朝鮮を含めおよそ20万台で、「狂乱に近い大ヒット」であった。

デビュ−以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ」」の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・「藤山一郎」の代表的な曲を次にあげる。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/22(Fri) 07:31
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
*コロムビア
キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月(井上静雄名)
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
*テイチク
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12   加寿子のうたえる…
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊    (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
*コロムビア
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)       1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
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122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/25(Mon) 15:37
日本が生んだ世界的プリマドンナ三浦環。大正から昭和にかけ、ロイヤルアルバートホールをはじめ、世界のオペラハウスで「蝶々夫人」2000回公演。エンリコ・カルーソ―と共演したこの大ソプラノ歌手,山中湖に疎開していた中で病気を患い、昭和21年5月26日63歳、東京渋谷の病院で亡くなり、山中湖平野の寿徳寺に母堂とともに眠っている。上野寛永寺にもある。

墓碑には自筆で、こう刻まれている・・

《うたひめは強き愛國心を持たざれば、眞の藝術家とはなり得まじ .. 環》

環は、ただ日本が生んだ世界的プリマドンナというだけでなく、当時の日本の音楽芸術家と言われる人たちの多くがとかく西洋かぶれして、日本の文化を見失っていた中で、日本をこよなく愛した。

祖国愛に満ちた、日本の島国的な発想の中に収まりきらない、たいへんスケールの大きな人物として知られている。かってNHKでもドラマがあった。古賀政男(1904 - 1978)と三浦環(1884〜1946),この二人の大家の間には信頼と親交があったとしてもおかしくない。

三浦環はこの後、昭和13年の『古賀政男藝術大観』に萩原朔太郎などとともに序文を寄せていて、古賀政男の芸術を高く評価していた。

三浦環は大正11年4月、懐かしい故国に錦を飾って帰朝した。6ケ月の里帰り中、全国を公演して回った。古賀政男の上記自伝によると、大正11年7月14日、学生時代、欧米で活躍していた三浦環が道内ツアーの折函館で演奏会を開いた。そして「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」などを歌った、そして多勢の観衆を前にして「大日本帝国 万歳」と叫んだ。

古賀はそこにこの歌姫の類いまれな祖国愛と信念を感じ取り感銘を受けたこという。

展望社刊の自伝『わが心の歌』には、「昭和12年ごろの第一線作曲家が集まった写真」が載っていて、中山晋平、小松耕輔、弘田龍太郎、本居長世・・など錚々たる作曲家と共に古賀政男が写った写真である。
そこからは、昭和10年代に於いて、分野は異なるが、古賀政男は日本の第一線作曲家として、すでに日本音楽界の重鎮たちと比肩すべき大きな存在になっていただろうことが窺い知れる。

上記、昭和十一年六月十六日、日本青年館で明大マンドリン倶楽部第二十六回定期演は、昭和11年(1936年)『蝶々夫人』公演2000回達成後の凱旋帰朝でのことである。

その三浦環が古賀政男のファンで、あるとき古賀に言った。・・

 「古賀さん、あなたの歌こそほんとうの日本の歌ですよ。私は、あなたの歌に恋をしているの。日本にも、もっともらしい歌曲が出てきましたが、こんなの、みんなアチラのまねごとなのよ」三浦環も相当な異端者にちがいないが、外国に長く暮らすと、日本の伝統の素晴らしさに気づくということがある。この言葉に古賀政男は励まされたと自伝に書いている。(『我が心の歌』(展望社刊1965))


 その古賀政男の唄には、三拍子が多いといわれる。「影を慕いて」ができるまで日本にメジャ―な三拍子の曲はなかった.「影を慕いて」「人生の並木道」「誰か故郷を思わざる」「湯の町エレジー」等々これらすべて三拍子である。日本の歌には伝統的に三拍子はない。なのになぜ古賀に三拍子が多いのかというと、彼の不幸な生い立ちに関係があるともいわれる。

 
古賀政男がテイチクに移ったのは昭和9年5月。コロムビアは契約違反だとして抵抗、テイチクに移ってからも作曲に使う古賀のピアノを差し押さえた。

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123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/07/22(Sun) 12:56
■[古賀メロディ]を支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

日本歌謡界の大御所と言うべき作曲家である古賀政男,その作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、社会的、歴史的、文化的にも大きな影響を及ぼし、
日本人の琴線をがっちりと掴んで離さない大きな存在となった。

東の正横綱・中山晋平、西の正横綱・佐々紅華、まだ「新民謡」や「青空」などのあちらの音楽の時代から抜け出なかった昭和の初め、そこに「古賀メロディ」の登場によって、大衆歌謡としての「歌謡曲」というジャンルが確立していった。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。「古賀メロディ」には、東京音楽学校主席卒業の関種子、藤山一郎はじめ、それを支えた音楽学校卒の優れた歌手が揃っていた。

「古賀メロディ」を支えた30人に近い主な歌手、そのうち23人は音楽学校、うち、主席を含む12人が東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)でした。

今の演歌歌手はもちろん、クラッシックを標榜する歌手でも歌いこなせない古賀メロディ、そのすごい理由といえます。

以後、「古賀メロディ」を支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作・・。


☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

佐藤千夜子  東京音楽学校  文のかおり (古賀正男作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校  月の浜辺   (島田芳文作詞) 1931.7
淡谷のり子  東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児    東京音楽学校 のぞかれた花嫁 (玉川英二作詞) 1935.10
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124 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/09(Sun) 00:04
ぱやぴーーぃーー

125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/08(Sat) 20:50
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。

126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/08(Sat) 21:49
藤山一郎(1911.4.8-1993.8.21)が初吹込したのは、当時唯一の官立の音楽学校だった東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)在学中だったが、非常に完成された唱い方だった。昭和6年(1931)、まだ20歳になったかならないかの若さである。古賀政男27歳。まだ東京音楽学校本科2年生のアルバイト吹き込みで30曲を吹き込んだのだった。
戦前の藤山一郎の、「丘を越えて」「青い背広で」「東京ラプソディ」「春よいづこ」などの青春を謳歌する若く溌剌とした張りのある歌声で「古賀メロディー」の青春を高らかに歌いあげている。古賀政男の数々の青春歌謡に相応しい。それは在学中に校則に反してアルバイトでレコード吹込みしたからで、そのからで、若く溌剌とした歌声は「青い山脈」(1949)など、戦後抑留生活の後、日本に帰った30代後半を過ぎ40代近くなった頃の戦後の歌声と比べればよくわかる。
限界を感じていた藤山一郎は、その後昭和29年(1954)に歌手を引退、NHK嘱託となった。


127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/15(Sat) 10:44
昭和の日本歌謡史上に燦然とした足跡を残す名歌手藤山一郎、歌う昭和史・藤山一郎は「歌謡曲」はもちろん、それ以外でも本名増永丈夫を含めて数え切れないほど沢山歌っている。しかし「藤山一郎」と言えば古賀メロディ。

藤山一郎は、アルバイト時代のコロムビアを皮切りに、ビクター、テイチク、コロムビアと、ビクターを除いて古賀政男に合わせて転籍しています。
彼の歌声は明るくて、清潔そのものの感じを受けていました。作曲家の「古賀政男」とのコンビの歌を沢山歌っていましたが、何処へに行っても聞こえて来るのは此の歌声でした。

「藤山一郎」としての戦前のメジャーな代表曲としては、「影を慕いて」「丘を越えて」「東京ラプソディ」など、昭和6年以来の古賀メロディが圧倒的で、それ以外で知られるのは、ビクタ―時代の「浅草の唄」「赤い花」「僕の青春(はる)」「チェリオ」など。

戦後は昭和29年にコロムビアレコードを辞めてレコード歌手から引退するまで、長い抑留生活から焼け野原の祖国に帰ってからの戦後の代表曲は、「青い山脈」[長崎の鐘]「銀座セレナーデ」「浅草の唄」など。



128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/04(Tue) 00:10
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


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