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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




197 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/09(Mon) 22:18
当時はレコードの普及もラジオもなかった頃で、普及には全国行脚するしかなかっただろう。全国行脚といえば、大正から昭和の初めにかけての本居長世と三人の娘さんの全国行脚が有名だが、もう一つ野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子の全国歌の旅(「新民謡・童謡普及運動研究会」)がある。

新民謡運動には野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子をはじめ、作曲家の藤井清水、詩人の佐藤惣之助、西条八十などがいる。こうした大正から昭和にかけて童謡・新民謡運動に結集した詩人、作曲家、歌手らは、その後の昭和の歌謡・歌曲を担う中心人物となっていく。

新作地方民謡が沢山作られるとともに、「船頭小唄」「紅屋の娘」(野口雨情/中山晋平)・・のように、新民謡は歌謡・歌曲として盛んになり、その後の歌の原型がみられる。

 古賀政男は、昭和3年学生時代作曲した「影を慕いて」を、中山晋平の歌を世に広めた歌手であり、晋平の弟子である佐藤千夜子の力添えで作曲家になった。まさに日本が大衆音楽を作り出して行くさ中である。長世が出なかったら、多分日本の大衆音楽は違ったものになっていたかもしれません。

昭和3年「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」、彗星のように大衆の中に浸透していった「古賀メロディ」が、やがて晋平の時代を引き継いで、さらに大衆の中に新しい時代を作り上げていくことになるのである。

そして、晋平の時代と「古賀メロディ」の時代を繋ぐ歌手がレコード歌手第一号・佐藤千夜子といえるだろう。




198 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/09(Mon) 23:29
☆新妻鏡


最近の歌には、めっきり感動できる歌がめっきりすくない。一方むかしの歌も歌われる機会が少なくなりつつある。

 西條八十とともに、古賀メロデーの中で大きな位置を占めるのが、佐藤惣之助ですが、古賀メロデーは、何であっても「人生」・・人生の苦悩・・と言うものが隠れてると思いますが、特に佐藤惣之助の詩を聞くとそうおもわずにいられません。


「新妻鏡」・・昭和15年、太平洋戦争開戦直前、東宝映画『新妻鏡』は、目の見えない薄幸の新妻が苦労の果てに結ばれると言う話で、霧島昇、二葉あき子(戦後島倉千代子)歌。

 人生を歌った詩としては、『人生の並木道』にも匹敵したすばらしい応援歌ではないかと思います。(「遠くさびしく離れても」・・と言うと結婚式に不向きかもしれぬが、こころでは願いたいもの・・)


僕がこころの良人(おっと)なら
君はこころの 花の妻
遠くさびしく 離れても
啼くな相模の 鴎(かもめ)どり

たとえこの眼が 見えずとも
聖いあなたの 面影は
きっと見えます 見えました
愛のこころの 青空に

むかし乙女の 初島田
泣いて踊るも 生計(いのち)なら
清いふたりの 人生を
熱い涙で 謳おうよ

実は2番と3番の間にもうひとつあって、


  強くなろうよ 強くなれ
  母となる身は 幼児(おさなご)の
  愛の揺籠(ゆりかご) 花の籠
  なんで嵐に あてらりょう


この歌は、すごい重みのある歌で、男女年齢を問わず勇気ずける人生の応援歌として、時代を超えて、味わいのある歌だと思います。

なお、挿入歌に「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲) (霧島昇、ミス・コロムビア歌) がある。


199 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/09(Mon) 23:34
訂正

たとえこの眼が 見えずとも ・・ たとえこの眼は見えずとも



200 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 00:57
>>194

・新興キネマ1935 「貞操問答」(菊池寛原作)
 主題歌  白い椿の唄(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)
挿入歌  思い出の雪(佐藤惣之助作詞、松島詩子歌)


201 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 01:05
>>198>>199

☆新妻鏡
佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲 1940

1)
僕がこころの良人(おっと)なら
君はこころの 花の妻
遠くさびしく 離れても
啼くな相模の 鴎(かもめ)どり

2)
たとえこの眼は 見えずとも
聖いあなたの 面影は
きっと見えます 見えました
愛のこころの 青空に

3)
強くなろうよ 強くなれ
母となる身は 幼児(おさなご)の
愛の揺籠(ゆりかご) 花の籠
なんで嵐に あてらりょう

4)
むかし乙女の 初島田
泣いて踊るも 生計(いのち)なら
清いふたりの 人生を
熱い涙で 謳おうよ


  


202 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 10:46

松平晃 サーカスの唄 投稿者:SPレコード歌謡倶楽部 投稿日:2013年 7月 3日(水)07時49分15秒
 昭和八年の陽春四月、東京で開催された大博覧会に、遠くドイツから世界一の大サーカス団(ハーゲンベックサーカス団)が来演することになっていた。このサーカスの宣伝歌が作られた。西條八十は、幼い頃の記憶、九段の靖国神社の祭礼でみた天幕張りのイメージを描きながら作詞した。旋律は、作曲者の古賀政男の少年時代の音楽体験がベースになった。それは、子供心をときめかせた旅まわりのサーカス(当時は曲馬団)の、なつかしいジンタの響きだったのである。
 真っ赤に染まる夕陽が沈み始める頃、旅から旅へと流れるサーカス(曲馬団)の楽隊の奏でる音色が畦道の向こうからしだいに近づいてくる。その光景をあたかも連想させるように前奏がヴァイオリンのピアニッシモから、途中にアコーディオンが入りクレッシェンドさせながら哀愁を込めて奏でられるのだ。昭和初期、松平晃は全国各地の実演ショーはおろか明大マンドリン倶楽部の地方演奏会でも《サーカスの唄》を熱唱したと伝えられている。甘いマスクの松平晃が十六分音符が連なる前奏にのって颯爽と登場する姿が浮かんできそうだ。古いOB諸兄の語るところによれば、松平晃という歌手は、青春の甘さを持ちタキシード姿が舞台で似合う誇り高き歌手だったらしい。
 《サーカスの唄》の原調は、♭ひとつのDマイナーのキーだが、松平は♭三つのCマイナーで吹込んでいる。この歌は、実に音域が広い。原調のキーでは加線の「A」=ラ(固定ド表記)から「F」=ファ(固定ド)までの十三度の音域がある。これをあくまでも滑らかに、その旋律を生かしながら郷愁と哀歓を伝えなければならないのだから、歌手の技量のほどがわかるというものだ。松平は、Cマイナーに落としたキーでも加線のついている「G」=ソ(固定ド)をしっかりと発声している。この歌手も低音の安定度が抜群である。低音に安定がある歌手は、キーを下げることによって楽曲の曲調が変化してもその魅力を伝えることができる。
 

203 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 10:46
《サーカスの唄》は松平の旅から旅へ彷徨う心情を甘く包んだ歌唱で大ヒットした。ところが、コロムビアは、大サーカスの宣伝歌にはふさわしくないという批判が周囲からあがっていたので、この歌は大して売れまいと多寡をくくっていた。作詞・作曲の著作権を一切博覧会側に売り渡していたのである(一千円)。そのため、西條と古賀は地団駄を踏んで悔しがったという裏話が残っている。《サーカスの唄》のカップリングは、同じ古賀作品の《来る来るサーカス》(西條八十・作詞/古賀政男・作曲)である。これは佐藤千夜子・創唱の《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲*作曲者・不祥説有り)の焼き直しで妖艶なソプラノ歌手淡谷のり子の歌唱だった。
 翌六月新譜では松平の歌唱による《恋しき夢》(西條八十・作詞/江口夜詩・作曲)が《十九の春》(西條八十・作詞/江口夜詩・作曲)のB面で発売された。いずれも松竹映画『十九の春』の主題歌。映画は昭和八年五月十八日、帝国館で封切られた。監督は五所平之助、出演、伏見信子、高峰秀子、竹内良一等々。松平は、この抒情詩的な歌謡を〈夢の続きが知りたさに 眠れど淋し夜の風〉としっとりと歌っている。伴奏はコロムビアオーケストラ。これも《サーカスの唄》に続いて売れ行きが快調だった。
 松平がミスターコロムビアの階段を上りつめた頃、藤山一郎は、声楽家増永丈夫として昭和八年六月十八日、日比谷公会堂でベートーヴェンの《第九》のバリトン独唱のソリストとして登場した(指揮・クラウスプリングスハイム)。甘い流行歌のテナーにはつながらない堂々とした独唱ぶりであった。また、バリトン本来の美しさをもつテナー藤山一郎の豊かな歌唱力は、晋平節の名作《燃える御神火》(西條八十・作詞/中山晋平・作曲)をヒットさせる。レコードは六月の新譜発売だった。レコード売上げは、小唄勝太郎の《大島おけさ》(西條八十・作詞/中山晋平・作曲)のB面ということもあったが、18万枚を記録。それに対して、コロムビアの松平は、七月新譜の《島の御神火》(島田芳文・作詞/近藤政二郎・作曲)で対抗した。
 一方、古賀政男は、《サーカスの唄》がヒットしたにもかかわらず、九月新譜の《東京祭》(門田ゆたか・作詞/西條八十・補作/古賀政男・作曲)が幕末のええじゃないかの昭和版と言われた《東京音頭》(西條八十・作詞/中山晋平・作曲)に完敗する。《東京祭》のA面は、藤本二三吉、B面は松平が歌った。昭和八年の夏は、異常ともいえるほどの《東京音頭》で興奮した。狂乱ともいうべき《東京音頭》の熱狂は、不気味な前触れの予兆に敏感に反応するかのような民衆の情念の発散といえる。古賀政男は、その後、疲労困憊から、肺浸潤を患い八月二十日神田杏雲堂病院に入院した。中村千代子との結婚生活の行き詰まりなど、相当な精神的疲労が原因であった。
 松平の歌唱による昭和八年十月新譜の《はてなき旅》(西條八十・作詞/古賀政男・作曲)は、古賀の心中を象徴しているようだ。
 この歌は、《街の灯》(浜田広介・作詞/古賀政男・作曲)の焼き直し(淡谷のり子歌唱)。だが、松平晃の音色は、江口メロディーにマッチする。そのため、残念ながら古賀メロディーの感傷をうまく表現しきれていない。《サーカスの唄》のようにはいかなかった。古賀政男は、病気回復の静養とその精神的傷を癒すため昭和八年の晩秋から翌九年の四月まで伊東の温泉で静養した。この間に江口夜詩がコロムビアの中心になるのである。歌手は当然、ニットー、ポリドール、キングで江口メロディーを存分に歌いまくっていた松平晃である。
 

204 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 10:46
一方、かつての古賀政男芸術の表現者藤山一郎は、昭和八年九月二十日、ベートーヴェン編曲のスコットランド民謡特集がNHKラジオから放送され、バリトン増永丈夫で出演し独唱した。他にソプラノ岩谷廣子、アルト四家文子、テノール薗田誠一、ヴァイオリン大岡運英、チェロ小沢弘ら新進気鋭の音楽家たちが出演した。十月九日には、『藤山一郎と増永丈夫の会』を日比谷公会堂で開催。一部ではドイツリート、オペラのアリアを独唱。ヴェルディーの《椿姫》では、増永丈夫(藤山一郎)がヂ(ジ)ェルモン(父役=バリトン)、ヴィオレッタは美貌のソプラノ歌手中村淑子が演じた。声量豊かな美しいバリトンの響きによるレガートな歌唱が聴衆に感銘をあたえた。第二部は、ビクター管弦楽団の演奏に今度はマイクロフォンに響きをうまくのせたクルーン唱法で藤山一郎のジャズと流行歌のオンパレード。第三部では、ミュージカル『僕の青春』を上演。マイクロフォン無しの独唱とそれを使ったクルーン唱法の二つの方法で響き・共鳴・声量を自由自在にコントロールしての実演だった。
 松平は、この「テナー藤山一郎とバリトン増永丈夫」を同一の音楽空間で表現する音楽技術に驚く。まさに天才なのである。だが、松平の体内に熱く流れる葉隠れ武士の血は、行動のエネルギーとなり怯むことはない。しかも、コロムビアの期待は、《サーカスの唄》でギャラントなダンディーに変化し今や押しも押されぬスター歌手になった松平晃にますます集まった。古賀政男が《サーカスの唄》や《ほんとにそうなら》(久保田宵二・作詞/古賀政男・作曲)のヒットにもかかわらずスランプ状態ならば、コロムビアの目玉商品は脚光を浴びつつある江口メロディーということになるのだ。それは、松平晃の真骨頂が試されることでもある。
 昭和八年十一月、松平晃は、ついに東京音楽学校師範科を退学する。彼は《サーカスの唄》でどうやら決心したようだ。こうなるとコロムビアも松平晃の宣伝に力を入れる。翌年二月のコロムビアの新譜案内でようやく松平晃の端正なマスクが登場する。もうクラシックには未練はない。どうせ、クラシックに固執しても自分は、主役のテノールではない。主役よりも美男で明るいリリコの声質をもつバス・バリトンでは歌劇の配役構成が成立しないのである。そう考えるなら、懐が豊かになる流行歌手の途を選択した方がましである。そう決心すれば話は早い。「佐賀っぽ」は、儚い刹那的人生を目前にしても思い切りが良いのだ。だが、《サーカスの唄》のつぎのような歌詞は、表面上の行動様式はともかくも松平の内奥に潜む心情を表現しているようだ。
 西條八十は、敢えて「クラリネット」とは書かず「クラリオネット」という言葉を使っているが、旅回りのうらぶれた音色をイメージすれば、この歌の歌唱者である松平晃の思い切りのよさに潜む「寂寥」をやはり象徴していると思えるのである。《サーカスの唄》によって、松平の人生航路も波瀾万丈にむかってその航跡が決められたといえよう。
 コロムビアは、昭和八年十二月二十六日、麹町区内幸町の東洋拓殖ビル一階に文芸部と吹込み所を移転した。昭和九年一月二十六日から、そのスタジオで録音使用が開始され音質の良いレコードが製作されることになる。さあ、「江口夜詩メロディー」を歌う松平晃の体内に補給されたガソリンが点火され、いよいよエンジンがかかるのである。





205 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 10:49
ビクター専属藤山一郎への対抗 投稿者:SPレコード歌謡倶楽部 投稿日:2013年 4月23日(火)08時12分53秒
 春、桜の枯れ枝に生気が膨らんだかと思うと、ほんのりと紅の色を含んだ白い花がいっせいにほころぶ。フランス山の桜が妖艶な色を発しながら、春満開と言わんばかりに咲き誇っているのである。松平晃は、その妖しいほどに精を放つ桜の花びらを受けながら横浜山手の小高い丘から港を見下ろしていた。波止場には、外国船が停泊している。抜錨の合図をする汽笛が鳴る。彼は、青い海を眺めることのできるこの小高い丘の風景を満喫していた。
 この横浜の地に、F・W・ホーンが『ホーン商会』を設立したのは、明治二十九年である。明治四十年十月三十一日、十万円の資本金をもって神奈川県橘樹郡川崎町久根崎に日米蓄音機製造株式会社が誕生(松本武一郎は設立の日を見ずに急死)。明治四十三年十月一日、株式会社日本蓄音器商会が新設(日米蓄音器商会は廃止)、明治四十五年一月八日、日蓄は日米蓄音機製造株式会社を合併。吉田奈良丸の浪花節レコードで驚異的な躍進をしめした日蓄は、大正八年、J・R・ゲアリーが社長に就任するとさらなる飛躍を遂げた。日蓄は、複写による海賊盤レコードの問題に操業以来悩まされていた(リチャード・ワダマンの敗訴がその跋扈に拍車をかけていた)。だが、大正九年七月、「著作権法改正法律案」によってその駆除に成功した。それが業界制覇を狙う日蓄に大きな起爆をあたえたのである。だが、

昭和三年一月十八日、日蓄は英米資本によって新たな製造会社を設立。昭和SP歌謡の序盤戦、コロムビアはビクター独走を許す。晋平節とジャズソングに沈黙したのだ。だが、コロムビアは藤山一郎の古賀メロディーで劣勢を挽回する。そして、藤山がビクター専属になると松平晃がコロムビアの専属歌手になる。『コロムビア五十年史』は「昭和八年四月一日、松平晃入社」と記している。 藤山一郎は東京芸大の前身「上野」(東京音楽学校)を首席で卒業し、晴れて誰憚ることなく、ビクター四月新譜の《僕の青春》(佐伯孝夫・作詞/佐々木俊一・作曲)で見事カムバックした。卒業を祝福するかのように踊りだしたくなるような青春賛歌だった。レコード売上げは10万枚。また、晋平節の情緒豊かな《浅草の唄》(西條八十・作詞/中山晋平・作曲)でもレガートな歌唱表現で人々に感銘をあたえた。流行歌手テナー藤山一郎は健在だった。
 松平は、今日もアクセルを目一杯踏んで横浜へと車を走らせる。彼の愛車はフォードのオープンカーである。自動車は昭和モダンの象徴であり、そのエンジンの音はネオンが輝く帝都のアスファルトに軽い軋みをあたえた。松平の車はボディーの色も派手でモータリゼーションの展示場のようなダンスホールに横付けしても周囲の目をひいた。当時、珍しいスポーツカーを転がしていたのも藤山一郎を意識してのことだった。松平が横浜の繁華街を車でゆっくりと通り抜けようとしていると、カフェーから《僕の青春》が流れてくる。彼は、葉隠れ武士の情念をますます滾らせ、握るハンドルにも力が入った。三月十日にコロムビアで吹込んだ《サーカスの唄》が待ち遠しい。音楽技術では絶対に適わぬ相手とはいえ、敢えてライバル心を滾らせるところに彼のモダンぶりとは対照的な「佐賀っぽ」の気質がみられたのである。
 昭和八年四月二十七日、日比谷公会堂では、楽壇待望の花開く『オール日本新人演奏会』(読売新聞主催)が開催された。松平の母校「上野」は声楽において異例の二人が出演した。ソプラノの長門美保とバリトンの増永丈夫(藤山一郎)である(尚、武蔵野音楽学校も異例の二人、渡辺はま子と井崎加代子が出演)。増永丈夫は、レーベ作曲《詩人トム》を独唱し、「上野最大の傑作」をアピールした。これを聴いた「上野」の新入生たちは、確実な歌唱と美しいバリトンに感銘する。
 

206 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 10:50
この情報は当然、コロムビアで一応専属契約を結んでいたとはいえ、まだ、音楽学校に学籍のある松平の耳目にも届いていた。銀杏並木が新緑に包まれようとしていた上野の構内でも新人演奏会は話題になっていた。そこに、増永丈夫がレッスンに来ようものなら、奏楽堂は女子生徒で溢れかえったと云われている。流行歌とクラシックの二刀流の噂を聞くと葉隠れ武士の血が騒ぐ。闘志溢れる「佐賀っぽ」は、冷静に正格歌手藤山一郎の発声法を分析する。松平は、平円盤時代のものから録音機材を集めて愛用し自分の声を分析していたほどだから、発声のメカニズムには深い関心があった。
 藤山一郎(増永丈夫)は、バリトンの低い音域で歌っているのに、まるでテノールの高い音域で歌っているように聴こえてくる。「E」=ミ(固定ド)がまるで「G」=ソ(固定ド)のように聴こえるのだ。しかも、声区の変わるところでも響きが均等で音色の統一性があり、レガートな歌唱を支える低音が抜群の安定度をしめしていた。松平は、その分析・解明を試みたのである。
 藤山一郎は、響きを飛ばす場合、もしくは身体から離すそれにおいて軟口蓋の後ろから鼻腔に抜き頭部共鳴に連動させる方法と硬口蓋から鼻腔に抜くという二つの武器(マスケラに響きをのせる)がある。蓄音器のラッパを想像していただければよい。ファルセットと実声の連動がスムーズで、口腔内の「オ」の口形からの変換、ジラーレが速い。しっかりとした横隔膜の支えと瞬発力があるので声帯の締まりが速く、口腔内の響きを前に移動するスピードが速いのだ。上顎の使いかたが非常にうまい。バリトン(増永丈夫)の音域内でありながら共鳴の変換が瞬時にテノール(藤山一郎)へ神業的に行われるのである。この場合、メッツァヴォーチェにするか、緊張感のあるスピントの効いた張りのある美声にするかは、曲想によって決められる。外国に留学する現代の声楽家たちは、向こうで「響き」は共鳴する骨の振動と教えられるそうだが、藤山はすで昭和の初期にこの原理を理解していた。だから、声量と響きの増幅が自由自在なのである。
 

207 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 10:51
松平は、ファナティックな行動様式とはいえ頭脳明晰な歌手である。彼は、喉を開くと太いバスバリトンである。このままで歌うと共鳴が奥になるので母音の響きだけが目立ち日本語が不明瞭になる。ドラマティックな歌劇のアリアならよいがこれでは歌にならない。しかも、軟口蓋の後ろに共鳴を置いた重厚な響き(バスバリトン)を作れても頭部共鳴には連動ができにくいのだ。テナー藤山一郎のように奇麗に頭声に抜くことは不可能である。さらに、バスバリトンでありながらリリコテノールの声質と音色が明るいという特殊性もある。藤山は、松平の特殊な声質・音色を見抜いていたが、それは、彼の本格的な声を聴いた経験があるからなのだろう。松平晃が歌った《そよ風》(藤浦洸・作詞/バルチ・チイボー・作曲)というタンゴを聴けば、彼の声の特徴が分かる。「バスの声域」・「リリコの声質」・「明るい音色」という声は、その生かし方が難しい。松平にしてみれば、この特徴をどう流行歌にいかすかが問題である。声楽的にはりっぱな持ち声だが、それがはたして流行歌に適しているかどうかは別問題である。だが、彼には、コロムビアの看板を背負わなければならない使命があった。そこで、理論家の松平は一計を案じた。
 藤山は流行歌を歌う場合でも喉を縦に完全に開くが、松平は、喉の開きを浅くして硬口蓋に響きを充て、たとえそれが鼻腔から抜けなくてもレコード盤では甘いテナーの音色になればよいと考えた。流行歌において誰も専門的知識をもって聴く人などはいない。音楽は現象の錯覚である。発声のメカニズムの根本が違っても甘いテナーと同じような声に聴こえればよいのだ。藤山一郎の正統な声楽技術の解釈をデフォルメしようが聴く人に心地よく響けばそれでよいのである。松平は歌唱力には自信がある。もうすでに、ポリドールなどで実証済みである。松平自身も計算あってのことだった。
 山本常朝(神右衛門常朝)が祖述した『葉隠聞書』には「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」と記されている。己から発し己以上のものに没入する行動のエネルギーは「死」の覚悟をもって行うときに最大になる。死にもの狂いになって利害打算が渦巻く地獄にさえも飛び込む気概が重要である。松平晃は、流行歌に不向きな明るい音色とリリコの声質をもつ特殊なバスバリトンでありながら、「葉隠魂」の精神を己の体内に血肉化して「藤山一郎」という流行歌の寵児にコロムビアの命運をかけて対抗しようとしたのである。 前号では、藤山が松平をニットーに紹介したと書いたが、実は、つぎのような説が伝えられている。それは、藤山の母親が、流行歌の吹込みの一件で息子(藤山一郎)が「上野」(東京音楽学校)を停学処分となり、ニットーで吹込みができなくなってしまいニットーに迷惑をかけることになったので、その代償として藤山の代わりに松平を紹介したということなのである。ニットーのスタジオには藤山の母親が丸坊主の松平を連れて現れたと云う。とにかく、増永青年(藤山一郎)と福田青年(松平晃)の二人は、それ以来の付き合いであり、後に古川ロッパに松平を引き合わせたのも藤山だったらしい。だが、二人の友情はともかくも、松平晃の藤山一郎への対抗意識は並々ならぬものがあった。




208 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 21:10
※お知らせ

       【SP歌謡・回顧と展望】

       が、平成25年9月10日をもって
    廃止されましたので、こちらに移転致しました。
 

     《日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史》
       @10cH 歴史BBS
       ttp://www.10ch.tv/

         ここです。
     よろしくお願いいたします。

209 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/11(Wed) 09:36
>>208

《SP歌謡・回顧と展望》 - Teacup   (2013、9、10廃止)


以下を含みます。(検索用)

昭和SP歌謡についての貴重で詳細な資料です、

当スレに移転しましたのでご利用ください。


松平晃 サーカスの唄 | SP歌謡・回顧と展望 -
学生スター歌手 | SP歌謡・回顧と展望 -
李香蘭と古賀メロディ | SP歌謡・回顧と展望
ビクター専属藤山一郎への対抗 | SP歌謡・回顧と展望
西條八十と古賀政男 | SP歌謡・回顧と展望
古賀メロディの戦後 | SP歌謡・回顧と展望 ?
関 種子と「古賀メロディ」 | SP歌謡・回顧と展望 -
映画主題歌にみる古賀メロディ | SP歌謡・回顧と展望
古賀政男と「荒城の月」 | SP歌謡・回顧と展望 -
藤山一郎と増永丈夫 | SP歌謡・回顧と展望
古賀政男 二つの「思い出の記」 | SP歌謡・回顧と展望
三浦環と古賀政男 | SP歌謡・回顧と展望 -
“歌謡界の大御所”古賀政男と、“国民的歌手・歌う昭和史”藤山一郎 | SP歌謡・回顧と展望...
古賀メロディの戦後 | SP歌謡・回顧と展望 -
古賀政男、その音楽遺産と旧古賀邸 | SP歌謡・回顧と展望
古賀メロディ−と映画主題歌 | SP歌謡・回顧と展望
佐藤千夜子と古賀政男 | SP歌謡・回顧と展望 -
詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」 | SP歌謡・回顧と展望 -
古賀政男アメリカへー古賀政男音楽博物館企画展 | SP歌謡・回顧と展望
明治大学の昭和歌謡史群像 | SP歌謡・回顧と展望 -
古賀メロディとその時代 | SP歌謡・回顧と展望 -

(その他)
菊池清麿-SP歌謡の世界・なつかしの歌声
昭和の流行歌掲示板 - EZBBS.NET
島田芳文 - Yahoo!検索(人物)



210 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/11(Wed) 10:17
参考

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211 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/11(Wed) 11:30
索引

>>2 影を慕いて
>>23 古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)
>>101 日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
>>31 西條八十は
>>37 詩人・佐藤惣之助は
>>46 「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
>>95 古賀政男アメリカへ
>>106 ->>111 古関祐而と古賀政男
>>112 ☆初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
>>114 ☆西岡水朗と初期古賀メロディ
>>117 古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
>>118 李香蘭と古賀メロディ
>>120 ☆古賀メロディと霧島昇
>>121 ※古賀政男と「荒城の月」
>>122-123 ☆「荒城の月」について
>>124 ☆三浦環と古賀政男
>>127-130 ☆西條八十と古賀政男
>>133 >>148 ☆古賀政男 二つの「思い出の記」
>>134 ☆昭和戦前の作曲家
>>135 ☆昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)
>>136 ☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>138 ☆「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・
>>139 ☆関 種子と「古賀メロディ」
>>140 ☆古賀メロディと藤山一郎
>>141 ☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
>>143 ☆テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ
>>145 ☆テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫
>>146 ☆楠木繁夫の代表曲
>>147 ☆古賀メロディと霧島昇
>>149 ☆関 種子と「古賀メロディ」 2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手
>>152 ☆「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」
>>153 ☆佐藤千夜子と古賀政男
>>155-157 ☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
>>158 ☆詩人・サトウハチローと古賀メロディ
>>160 ※サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
>>161 ☆サトウハチローと「童謡」
>>164 ☆佐藤惣之助没後70年
>>165 ・佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
>>166 「古賀政男音楽博物館」
>>167 ☆古賀メロディの戦後
>>168-169 ◇戦後の主な古賀メロディ・・
>>170 ☆萩原朔太郎と古賀メロディ
>>172 ☆西岡水朗と初期古賀メロディ
>>173 名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
>>174 ☆詩人・佐藤惣之助
>>175 ☆古賀メロディ、その隠れた名曲!・・沖縄民謡となった《二見情話》など
>>176 ◇古賀政男編曲作品
>>177 ☆二見情話(HUTAMI JOOWA) 沖縄民謡
>>178 ☆古賀メロディを支えた主な名歌手たち
>>179 <「古賀政男」のドラマ>
>>180 ☆「古賀メロディ」と、その秘密
>>181 ☆古賀メロデー」とは
>>183 藤山一郎と増永丈夫
>>185 ☆「古賀政男と「荒城の月」 2  ・・・李香蘭と[荒城の月]
>>186 ☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>188 ☆古賀政男生誕100年記念CD
>>190 嘆きの夜曲 関種子.wmv
>>191 ☆SPレコード歌謡とSPレコード
>>193 -195 ☆[古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
>>196 ☆古賀メロディとその時代
>>198 ‐201 ☆新妻鏡
>>202 松平晃 サーカスの唄
>>205 ビクター専属藤山一郎への対抗



212 名前:かいき ◆J8/Awaoo 投稿日:2013/09/17(Tue) 17:38
vfvf

213 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/23(Mon) 09:51
>>211

>>106-111 古関祐而と古賀政男


214 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/23(Mon) 09:59
>>211


>>133-148 ☆古賀政男 二つの「思い出の記]

215 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/29(Sun) 11:18

>>106-111 古関祐而と古賀政男

人生の苦悩から始まった古賀メロディ。一方、コンクールに入賞?して、留学を目指した古関・・。何と言っても、古関作品の残念なのは、断片的で一貫した「テーマ」というのがみあたらないということだろう。
古関の場合、戦後間もないころのラジオドラマ作品やテーマ音楽などに注目すると、いい作品がたくさんある。

しかし、ネットなどの評伝をみると、戦前を含めて、どれをみても,元の間違った評伝などがそのままコピーされたかのようにパターンが決まってしまって、史実の間違いも同じでいるのは大変残念なことではないだろうか。間違いから出たものが正しいものにはなりえないのだ。
どれを見ても同じだが、たとえば米山正夫作詞の「高原列車は行く」その他、戦後を含めマイナ−なごくありきたりの普通の歌謡曲などに「クラッシック」という一語をつけて格上げされるべきでない。
「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものではないはずなのだが。
やはり歌謡曲(レコード歌謡)というのは「詩」があって、詩で決まってしまうものだろう。「曲」は「詩」を超えることができないのだ。




216 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(Tue) 09:17
訂正

×米山正夫作詞の
○丘灯至夫作詞の

217 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(Tue) 10:19
test

218 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(Tue) 10:19
test

219 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(Tue) 20:13
☆古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)

古賀政男ほど詩を大切にし、歌と真剣に取り組んだ作曲家もいない。
佐藤惣之助、原阿佐緒、西條八十、萩原朔太郎、サトウハチロー、大木敦夫・・古賀政男ほど多くの詩人や歌人に恵まれ、直接深い付き合いを持っていた作曲家もいないだろう。



昭和7年、大衆文芸映画社 配給=新興キネマ『佳人よ何処へ』・・この原阿佐緒主演で原阿佐緒の人生を描いたといえる映画に主題歌が要るからと、阿佐緒は自分で「あけみの歌」を書きます。阿佐緒は赤ん坊を背中に背負って、コロムビア本社に古賀政男を訪ねて作曲を依頼します。見れば歌詞には「あけみかなしや 何処へ行く/恋にも世にも敗れ果てて/せめて子のため ながらえよ/ああああ あけみ 何処へ行く」などとあります。この姿と、子どもと生きる苦労話に、古賀は打たれ、承諾します。その夜から作曲にとりかかった古賀は、自分を育てるのに苦労した母の姿を重ね、「ギターの胴を涙で濡らしながら曲を書いた」(自伝や関係者の話)のでした。

映画のほうはさっぱり客が入らず、とうとうプロダクションもつぶれてしまいましたが、今聞いてもなかなかいい旋律で、歌は長く歌われ今日でも古さは感じない。
その詩は、80年経った今でも、歴史を超えて今日の社会でも十分普遍性を持って生きているすばらしい歌です。

初期の古賀メロディを支えた美貌の名ソプラノ歌手、関種子の切々と歌う哀愁を帯びた古賀メロディの佳曲「あけみの歌」、U-Tubeでも聞ける。

子供の虐待とかが世間を騒がせている今こそ、ぜひこの名曲を聴かせてあげたい。
聴いてください。(次を参照)



原阿佐緒は、明治40年(1909年)、新詩社に入って与謝野晶子に師事、『スバル』に短歌を発表。『スバル』終刊後は『アララギ』に移り、今井邦子や三ヶ島葭子とともにアララギ女流の新鋭と見なされるようになる。
アララギ派の女流歌人、美貌の持ち主であり若くからさまざまな恋愛問題を引き起こしてきた。
昭和7年( 1932年)、直木三十五の紹介で「大衆文芸映画社」に入社、阿佐緒が原作を書き女優として主演したサイレント映画『佳人よ何処へ』(監督福西譲治)が製作され、同年6月1日に新興キネマが配給して公開された[2]。

同作の公開に先行し、阿佐緒が作詞し古賀政男が作曲・編曲、淡谷のり子が歌った同名の主題歌「佳人よ何処へ」、および美貌のソプラノ歌手関種子が歌った『あけみの唄』を、日本コロムビアが同年5月に発売している。



・原阿佐緒歌集
涙痕 歌集 東雲堂 1913
白木槿 歌集 東雲堂書店 1916
うす雲 歌集 不二書房 1928
原阿佐緒抒情歌集 平凡社 1929
原阿佐緒全歌集 小野勝美編 至芸出版社 1978.6
死をみつめて 歌集 短歌新聞社 1995.9 (短歌新聞社文庫)
原阿佐緒自伝・黒い絵具 西田耕三編・制作 耕風社 1997.8 (みやぎ文学館ライブラリー)



・原阿佐緒作品
『恋人形の唄』: 作曲・編曲堀田公明、歌唱淡谷のり子、ポリドール、1931年3月
『浪花小唄』: 作曲山野芳作、編曲奥山貞吉、歌唱かね本幾松、タイヘイ、1933年12月
『あけみの唄』: 作曲・編曲古賀政男、歌唱関種子、コロムビア、1932年5月
『佳人よ何処へ』作曲・編曲古賀政男、歌唱淡谷のり子、コロムビア、1932年5月
『山の娘』: 作曲・編曲・演奏高倉彰、歌唱三浦環、コロムビア、1940年7月


『原阿佐緒の生涯 その恋と歌』、小野勝美、古川叢書、古川書房、1974年



220 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(Tue) 20:20
>>219

あけみの唄

1932
作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関  種子


(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの

(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ

(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ




221 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(Tue) 22:50
>>219

[山の娘」(原阿佐緒作詞 高倉 彰作曲) 三浦 環   昭和15年7月 コロムビア 青盤 37001



222 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/03(Thu) 12:50
☆古賀政男に関する文献

宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)
・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。

くろがね会「くろがね叢書 1944.10.31」 ・・「勝利の日まで」について
古賀政男「私の音楽生活二十年」(全音楽譜出版社1949)
毎日新聞社編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1955)
古賀政男「我が心の歌」(展望社1965)
日経新聞社編「私の履歴書 第48集」(日経1973)
「人間の記録93 古賀政男」(日本図書センター)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977
茂木大輔「誰か故郷を・・素顔の古賀政男」(講談社1979)
毎日新聞社『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』(毎日新聞社1979)
利根川祐「人物昭和史」(ちくま文庫720) (1989)
沢憲一郎著「二人の千代子 : 古賀政男の結婚」(文園社1994)
下嶋哲朗著「謎の森に棲む古賀政男」(講談社1998)
「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版)・・昭和53年、古賀政男追悼本
高平一記「うさぎ―古賀政男十三回忌年出版作品」 (単行本) 日本ブックマネジメント (1990/08)
菊池清麿「佐藤千夜子 ・永遠の歌姫 」(東北出版企画) 
菊池清麿「評伝 古賀政男」(アテネ書房2004)
「夢人生を奏でて」 : (古賀政男生誕百年記念特別版)古賀政男音楽文化振興財団(小学館スクウェア2004)


『古賀政男110 名曲集 古賀政男生誕百年記念 ギターでつまびく 我が心の歌』(全音楽譜出版社、平成15 年11 月刊)103 頁
佐高信『悲歌 古賀政男の人生とメロディ』(毎日新聞社)
佐高信『酒は涙か溜息か 古賀政男の人生とメロディ』(角川書店 角川文庫)
読売新聞文化部編『愛唱歌ものがたり』(岩波書店2003)・・ふと口ぐさむ愛唱歌66曲
寺山修司編著『日本唱歌集』』〈光文社カッパブックス30−17, 1972〉
藍川由美著「「演歌」のススメ」(文春新書2002)・・「演歌」という言葉は必ずしも適当でないと思うのだが

福田俊二「昭和流行歌総覧(戦前・戦中編〉」(拓殖書房1994)
コロムビア50年史編纂委員会編「コロムビア50年史」(日本コロムビア〈株〉)(昭和36年)
古賀政男編著「古賀政男ピアノ伴奏名曲集. no.1」(シンフオニー楽譜出版社(昭和14年)
「古賀政男ギター新奏法」シンフオニー楽譜出版社(昭和17年)
古賀政男編著「古賀政男作曲集. 第4輯」(全音樂譜出版社1948)
堀野羽津子編「古賀政男名曲集」(成美堂出版1978)
「古賀政男傑作全集 : 昭和歌謡50年史」(東京音楽書院1979)
古賀政男音楽文化振興財団編「ギターでつまびく古賀政男110名曲集 我が心の歌」全音楽譜出版社2003
「生誕100年記念 古賀政男大正琴名曲集」全音楽譜出版社2004
信長貴富編曲「混声3部合唱とピアノのための楽譜 近代日本名歌抄」(河合楽器製作所2008)宵待草、ゴンドラの唄、影を慕いて他

長田暁二編「楽譜 日本抒情歌全集4」(ドレミ楽譜出版社2008)
 「秋の野 - 北原白秋 團伊玖磨」、「川 - 千家元麿 橋本国彦」「鶯の夢 - 野口雨情 中山晋平」「秋の夜 - 長田秀雄 山田耕筰」「働くお山 - 高橋掬太郎 弘田龍太郎」
「酒は涙か溜息か - 高橋掬太郎 古賀政男」他


223 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/03(Thu) 23:39
☆古賀政男に関する文献2

 ・古賀政男傑作全集 : 昭和歌謡50年史
古賀 政男著 東京音楽書院 1978
 
 ・森下 節著 [孤独の宴 : 小説・古賀政男 ]仙石出版1972

 ・田辺 明雄  「古賀政男論」
 掲載誌 季刊芸術 / 季刊芸術出版株式会社 [編] 臨時増刊号(1989年秋) 1989-10 p.p180〜189

 ・高橋 功「"回想の雅兄・古賀政男"」
  掲載誌 心 31(10) 1978-10 p.p129〜140

 ・「日録20世紀 1931 昭和6年」(講談社1997)注記:12/30 第1巻       第43号 通巻43号
  
 
 ・九州の偉人たちを育んだ「おふくろ物語」(2)古賀政男の母「セツ」
  掲載誌 財界九州 46(3) (通号 966) 2005-03 p.159〜162
  
 ・大石 さち子 「趣味と私 古賀政男音楽博物館--昭和と共に生きた古賀メロディ」
  掲載誌 共済新報 / 共済組合連盟 [編] 41(8) 2000-08 p.50〜52

 ・石出 法太 「古賀政男--「古賀メロディー」と民衆 」(20世紀の歴史のなかの人物)
  掲載誌 歴史地理教育 / 歴史教育者協議会 編 (通号 576) 1998-03 p.56〜57
 
 ・古賀 政男 「人との出会いにめぐまれて 」(わが人生を天職に生きて<特集> ; わが人生を天職に生きて--この道ひとすじ五十年--味わい深い人生哲学の数々) 掲載誌 潮 / 潮出版社 [編] (通号 214) 1977-03 p.p246〜247

 ・下嶋 哲朗 「太平洋戦争秘話=「歌謡曲の天皇」渡米の裏に外務省の謀略があ  った--古賀政男に下った「日米開戦前夜の密命」」
  掲載誌 「現代」 32(9) 1998-09 p.218〜228

 ・古賀 政男 「昭和を歌う我が涙の幾千曲 」
  掲載誌 潮 / 潮出版社 [編] (通号 120) 1969-12-00 p.350〜354

 ・松山祐士 編著「わが心の日本抒情歌集 」
 ドレミ楽譜出版社 2003 (シニアのためのピアノ曲集)

 ・舘野晰 編著「韓国・朝鮮と向き合った36人の日本人 : 西郷隆盛、福沢諭吉から現代まで 」 明石書店 2002
  
 ・里村あきら 著 影を慕いて… : 「古賀メロディー」知ったかぶり
  雄文社出版企画室 1993




224 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/04(Fri) 12:05
☆古賀政男に関する研究文献

森田哲至…「昭和歌謡」成立の系譜と黎明期の展開・・―日本橋と『昭和歌謡』の関係についての一考察―
(「日本橋学研究」日本橋学館大学 第3巻1号 2010年3月)

The Birth and Early Development of Showa Kayoh (popular hit songs in the Showa era) : A Consideration of its Beginnings in Nihonbashi
([日本橋学研究] 日本橋学館大学 3(1) (20100331))

ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110008895600
ttp://www.nihonbashi.ac.jp/nihonbashiology/pdf/nihonbashigaku_3-1.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%81%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7'

「日本橋」のキーワードのもとで、中山晋平、佐藤千夜子、古賀政男、藤山一郎 の関係する「SP歌謡」たる黎明期の「昭和歌謡」成立の系譜と展開について詳しく述べ られている。


225 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/04(Fri) 20:28

参考

・【東京】不滅の古賀メロディー【ラプソディー】
  ttp://unkar.org/r/natsumeloj/1122559619

・【人生の並木路】佐藤惣之助【新妻鏡】
  ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1162563164/

・【童謡】詩人・西條八十と、その歌【歌謡曲】
  ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1154785781/

・【究極の】日本の歌こころの歌【癒し】
ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1011539806/

・歌う昭和史、藤山一郎
 ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1011539806/

・歌う昭和史、藤山一郎2
 ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1196428914/



(古いBBSで終了移転されていて広告などが入っています。)

226 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/04(Fri) 22:48
>>222

利根川祐「人物昭和史」(筑摩書房 ちくま文庫720) (1989)

天  皇
近衛文麿
東条英機
吉田茂
大原孫三郎
小林一三
松永安左エ衛門
正力松太郎
野間清冶
菊田一夫
古賀政男




227 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/05(Sat) 11:38
昭和のSPレコード歌謡、それは「三分間の芸術」ともいわれる。

基本的にはクラッシックによる洋楽を基したもので、当時殆どクラッシック畑から出たものであるが、日本的な風土に由来する詩情(詩)を短い制約で表現するという点では、ごく日本的文化の極地と言え、クラッシックそのものとは同一視にはできない。

古賀の作品には、16分音符や3連符などが多用されているものが多く見られ、歌の詩情が細かい節回しで表現されている。ここが「古賀メロディ」と呼ばれ、多くの人々の心の琴線に触れ長く愛されている理由でもある。

なお、細かい節回し,これを(「小節・しょうせつ」。「こぶし」ということがある。)という。

古賀は、自分で自由に調弦できるギターやマンドリンなどの弦楽器を使うことによって作曲において、ピアノでは出せない音を求めたようです。

一方これに対し、一般的に外国曲には、詩にはあまり重きをおくわけでもない、あっさり、さっぱりした歌が殆どだ。ひたすら、こうしたどちらかというと洋風のさっぱり曲を素敵だとするものもいるだろう。

彼らはそうしたものを、なぜか「クラッシック」と混同することがあるようだ。

時代を超えて人の心を掴むことができなければ長く生き続けることはできない。
やはり歌の生命は「詩」と「メロディ」に尽きるといえるだろう。



228 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/07(Mon) 11:20
ゆかりの唄

作詞:佐藤惣之助
作曲:古賀政男
歌 :ディック・ミネ (台詞;星玲子)

都のともしび たのしく燃ゆれど
わが胸は
露にむしばむ かよわき花
涙にかがやく 初恋も
あゝ短きは 乙女の命

あゝ傷つきぬわが胸は、真白きリラの花のごと、
一人さびしく夕月に、すすり泣きつつしのびつつ、
あわれ今宵も散りて行く、ああ美わしの花よ、
なれの名は乙女、はかなくも消え行く雪よ、
なれの名も乙女、紅そめし頬も、
みどりのくろ髪も、束の間の秋の嵐にちりゆく。

高嶺の白雲 ほのかになびけど
わが夢は
さびし浅間の煙の影
嘆けどうつつに 消えゆきて
あゝ短きは 乙女の命



1935日活映画『緑の地平線』の挿入歌。いずれも佐藤惣之助の詩、星玲子の朗読があり、日本最高のジャズシンガーの称号を持つディック・ミネが歌唱しました。戦後、藤山一郎も歌っている。

「緑の地平線」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲,楠木繁夫歌)とは前奏から対照的に、繊細な乙女の心情を描く物静かな名曲。


229 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/08(Tue) 12:07
>>226

古賀メロディについては、1956年3月に出た毎日新聞社「写真 昭和30年史」にも取り上げられているように
昭和の歴史において偉大な存在で、社会的、文化的存在であった。

かつ昭和30年代において、すでに「古賀政男」といえば、押しも押されぬ歌謡界の「大御所」であっただけでなく、
≪日本の名士≫でもあった。

230 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/09(Wed) 22:54
緑 の 地 平 線

作詩 佐藤惣之助  
作曲 古賀政男
歌  楠木繁夫

昭和10年

1 なぜか忘れぬ 人故に
  涙かくして 踊る夜は
  ぬれし瞳に すすり泣く
  リラの花さえ 懐かしや


2 わざと気強く ふりすてて
  無理に注がして 飲む酒も
  霧の都の 夜は更けて
  夢もはかなく 散りてゆく


3 山の煙を 慕いつつ
  いとし小鳩の 声聞けば
  遠き前途(ゆくて)に ほのぼのと
  緑うれしや 地平線




231 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/13(Sun) 21:32
夕べ仄かに

   作詞:島田芳文
   作曲:古賀政男
   歌唱:ディック・ミネ
   
    (一)
    夕べ仄かに 窓辺に立てば
    山のかなたの 空の色
    遠いあの日の 夢に似て
    かいなき君の 偲ばれる

    (二)
    夕べ彩なす あかねの空よ
    何故に思いを こがすやら
    山の遠さよ 過ぎし日の
    儚なき君の 想い出よ
    

    (三)
    夕べ仄かに またたく光
    星になりたや 一つ星
    黒い瞳に うつる影
    誰故流す わが涙

 
これも昭和10年(1935)、日活映画「緑の地平線」の挿入歌です。松島詩子のもある。


232 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/17(Thu) 10:34
「古賀メロディ」というのは、(単に佐曲家の名前の後に「メロディ」という言葉をつけたものでなく)、長い日本の歌謡史の中で生まれ多くの大衆によって育まれ与えられたもので、「メロディ」というのは、古賀作品のみに使われる特別の「称号」ということができるでしょう。

日本人の心の琴線に触れる一種哀調を帯びた優しいメロディ、稀有で卓越した一連のたくさんの古賀作品、それに対する敬意と賞賛の意味が込められているのです。


「古賀メロディ」紛いで、最近なんでもかんでも、いろいろ作曲家、それがリズム系であっても、その名前の後に、「メロディ」をつけて、作曲家の曲を「何とかメロディ」で呼ぶことがあるようで違和感を感じている人もあるのではないでしょうか。
これらは、いつからか戦後昭和40年代前後の頃のテレビ(12チャンネル等)に始まる「ナツメロブーム」の影響でしょうか。
使い方も間違っていると思います。

西條八十、佐藤惣之助、サトウハチローなど、詩人の日本人の琴線に触れるの詩情溢れる「古賀メロディ」・・、昭和の初めから、人は敬意を持って「古賀メロディ」と呼んだのだ。

しかし、最近のはもちろん、「古賀メロディ」以外が、実際SP黄金時代に、そのように「メロディ」をつけて呼ばれてきたわけではないのです。


昭和の長い歌謡の歴史の中で「メロディ」をつけて実際にそう呼ばれてきたのは、たくさんある中で、「古賀メロディ」しかないのです。





233 名前:貴志俊彦 投稿日:2013/10/22(Tue) 10:36
突然の書き込みで失礼します。
下記のような拙著を刊行いたしましたでの、関心をもっていただけそうな方々に、ご案内をさしあげているしだいです。
よろしくご一読のほど、お願い申し上げます。

========
書籍名 『東アジア流行歌アワー――越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)
著者名 貴志 俊彦 著
発行者名 岩波書店
発行年月 2013年10月18日
ページ数 288頁
価格(税込) 2415円
備考

【目 次】
序章 「帝国圏」と「華語圏」の流行歌
第1章 東西音楽の融合―ダンス音楽とレコード歌謡の幕開け
第2章 ラジオとトーキー映画―抵抗と啓蒙から生まれた流行歌
第3章 一九三〇年代―東アジアにおける流行歌の時代
第4章 戦争と流行歌―「軍歌」「戦時歌謡」Vs. ジャズソング
第5章 戦争の残影―戦後直後の流行歌の光と影
第6章 植民地と革命の継続―香港と中国
終章 「歌」の解放?それとも分断?

コラム
 1.東アジアの流行歌に関する主要目録
 2.日本におけるジャズ創成期の音源
 3.東アジアの流行歌を考える四冊の基本書
 4.流行歌CDコレクション
 5.日本の流行歌に関する主要目録
 6.三つの流行歌データベース
 7.個人記念館と音楽資料館

あとがき
主要参考文献
索引

234 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/29(Tue) 00:42
日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男

『古賀メロディ』と呼ばれたその作品は、昭和一桁時代から数多くの人に親しまれました。

その曲は底辺に寂寥感や哀愁を漂よわせたものが多く、それが同時代の日本人の心の琴線に触れて長く愛されて、日本歌謡史に多大の足跡を残しました。

その数多くのヒット作品、その多くは「映画主題歌」でもあります。「古賀メロディー」ほど多くのヒット曲を持つ作品群はありません。同時に「古賀メロディー」ほど、数多くの「映画主題歌」を持つものもありません。 

昭和6年、「チャッカリしてるわね」(天野喜久代歌)に始まり、「酒は涙か溜息か」(想い出多き女)「丘を越えて」、「鳩笛を吹く女の歌」(同、いずれも藤山一郎歌)など無声映画の時代から始まり、戦後30年代頃までよどみなく続きます。



235 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 20:41
戦中戦後における童謡について

ここで歌謡曲だけでなく昭和、戦中戦後の
ラジオで放送された児童のための童謡について触れる。

戦中から戦後にかけて、レコード童謡だけでなくラジオ放送に於いて、もっとも活躍した童謡作曲家は、「音羽ゆりかご会」主宰の海沼實だった。

<音羽ゆりかご会>は戦中戦後の一時期、昭和18年から昭和25年くらいまで、「東京放送児童合唱団」の名称でNHKラジオ放送で活躍した。現在も<音羽ゆりかご会>として存続する日本屈指の合唱団(大人の合唱団も含め)である。ゆりかご会という名称は、故郷の先達である草川信の名曲「ゆりかごの唄」に対する思い入れが感じられる。こうして海沼実の作曲家人生は、自身が創設した、<音羽ゆりかご会>とともに彩られることとなるが、海沼の名前があまり人口に膾炙していないのは川田三姉妹や<音羽ゆりかご会>があまりにも有名だったため、座付作者のような扱いを受けていたためかもしれない。

 海沼実は<音羽ゆりかご会>のために多くのオリジナル曲を作曲したが、またそのため多くの童謡詩人を発掘した。まず最初は同郷の童謡詩人山上武夫【1917年(大正6年)〜1987年(昭和62年)】である。山上は、海沼実が草川信に憧れたように、故郷の先達を頼って信州から上京してきた。そのころ海沼はすでに童謡を試作作曲しており<音羽ゆりかご会>に供給していたものの、詩を提供してくれる高名作詞家もなく、詞も曲も自分で作って色々と試作していて、あまり見るべきものは無かった。しかしその中で後に「からすの赤ちゃん」としてヒットした歌が生まれる。この作品を見ると、作曲は言うまでもなく、作詞に対する感性、いや童謡に対する感性が並々ならぬものであることが伺われる。
昭和13年の真夏、山上は暑さに辟易しながら新しい童謡制作に呻吟していた。海沼から二人で童謡を作ろうともちかけられていたのだ。詩は山上が作るので、海沼はアドバイスしながらも、待っているより仕方がない。二人で作るのはなかなか大変だ。詩と曲を息をあわせて作らないとうまくいかない。まるで駕籠屋みたいだ。海沼との話し合いにあれこれ想いに耽っていた山上は、嫁ぎ先の姉の家の裏庭を出て故郷の方の空を見ながら、あの山の猿は今頃どうしているかな、と考えていた。途端、「そうだ!お猿が駕籠を担ぐようにしてみよう!」書き上げたのをすぐに海沼に渡し、海沼が曲を付けて出来上がったのが「お猿のかごや」。これは日中戦争の始った年であったが、全国的にヒットした。海沼実としても童謡作家としてやっていける自信を感じた最初の一作だった。その後も山上武夫とのコンビで多数の童謡を作ったが、ヒットは昭和20年の「見てござる」まで待たねばならなかった。
次に発掘したのが滋賀県日野町出身の細川雄太郎【1914年(大正3年)〜1999年(平成11年)】である。細川が「泣く子はだあれ」「ちんから峠」を作詞して童謡雑誌『童謡と唱歌』に発表したのが昭和14年。「お猿のかごや」から一年たって、海沼は、曲をつけられる童謡作家の詩を探していた。そこで見つけたのが細川の、<泣く子はだあれ>という詩だった。時節柄ということもあるし、曲も明るいものの方が良いだろうというディレクターの提言や、海沼の、<だあれ>は音が汚いし、音楽に乗りにくい部分を修正したほうがいいとしたアドバイスでできたのが「あの子はたあれ」という歌だった。同年、「ちんから峠」とともにヒットし世に歌い継がれる童謡となっている。海沼実は終戦前後の童謡・流行歌不毛の時期に、日本人に癒しと希望の歌を送った作曲家であった。



236 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 20:41
海沼實は、 昭和戦後期の童謡作曲家としては最も多く愛唱された作品を持つことから「最後の童謡作曲家」と呼ばれ、川田三姉妹の発掘や、結成した音羽ゆりかご会を通して、戦後童謡黄金期を形成した作曲家としての功績は日本童謡界において屈指のものと評価されている。
現在でもYou Tubey等で聞くことができる。

『またあしたね』作詞:横堀恒子
『あの子はたあれ』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『めだかの幼稚園』作詞:斎藤信夫
『花屋さん』作詞:高田三九三
『つばめの旅』作詞:三苫やすし
『お猿のかごや』昭和13年、作詞:山上武夫
『ちんから峠』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『やさしいお母さま』昭和15年、作詞:稲穂雅己
『からすの赤ちゃん』昭和16年、作詞:海沼實
『またあしたね』作詞:横堀恒子
『あの子はたあれ』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『めだかの幼稚園』作詞:斎藤信夫
『花屋さん』作詞:高田三九三
『つばめの旅』作詞:三苫やすし
『お猿のかごや』昭和13年、作詞:山上武夫
『ちんから峠』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『やさしいお母さま』昭和15年、作詞:稲穂雅己
『からすの赤ちゃん』昭和16年、作詞:海沼實



237 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 20:48
1943年(昭和18年)、当時の日本放送協会(NHK)が放送合唱団を公募し、スタジオでの厳正なる審査の結果、「音羽ゆりかご会」を「東京放送児童合唱団」として任命。
同合唱団は戦中戦後のラジオ放送に大きく貢献した。

1951年(昭和26年)には、NHK独自の児童合唱団として再編成された、昭和27年3月に「NHK東京放送児童合唱団](現在の東京児童合唱団)を編成した。

NHK東京放送児童合唱団は、『みんなのうた』『歌のメリーゴーラウンド』など、同局の音楽番組、教育番組に出演、現在に至る。

「東京放送児童合唱団」が戦中・戦後にかけて多くのNHKラジオ番組に貢献した。「前線へ送夕べ」「農村へ送る夕べ」・・
. まだテレビもない時代、戦中戦後はひたすらラジオ放送がすべてでした。

「農村へ送る夕べ」の主題歌・農家のみなさんこんばんは・・♪農家の 皆さん今晩は一日お仕事ご苦労さんお疲れ直しのこの時間ラジオのおそばにさあどうぞ ♪ ...

農村へ送る夕べ

♪農家の皆さん今晩は
一日お仕事ご苦労さん
お疲れ直しのこの時間
ラジオのおそばにさあどうぞ♪
 
まだまだ雑音が多く聴きづらいものだったが、夕食後の大きな楽しみが増えた。「戦地へ送る夕べ」、「農家へ送る夕べ」には、多数の有名歌手がでていた。
なかでも「童謡歌手川田正子」が歌うテーマソング「戦地(農家)の皆さん今晩は、今日も一日ごくろうさん、お疲れ直しのこの時間、ラジオのおそばにサァーどうぞ」のメロデーが鮮明に残っている。

敗戦直後のNHKのラジオ番組「農家に送る夕べ」のテーマソング(作詞:山上武夫 作曲:海沼実)でした。
当時は食糧難で、NHKも農家に気をつかって特別番組を用意していたようです。

戦後の食糧難の時代、ラジオで流れてくる ♪農家の皆さん今晩は 一日お仕事ご苦労さん・・の唄声に農家のみなさんは仕事に励めたそうだ。






238 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 20:51
敗戦後の童謡の盛衰

敗戦直後には、海沼實を中心としたレコードとラジオ放送とが連携したいわゆる「レコード童謡」が復興し、第二の童謡黄金時代、戦後童謡黄金時代と言われた。
「レコード童謡」という言葉には、すでに軽蔑の響きがあるが、1955(昭和30)年、それまで童謡界をリードしてきた海沼實、中山晋平、河村光陽、山口保治らの作品に対し、童謡等の実績を持たなくNHKラジオ子供の歌番組に拠る若手音楽家グループたちが、「童謡」に対し「幼稚な歌詞」を持つ「子どもの歌謡曲」「営利目的の「レコード童謡」」として厳しく批判し排斥運動(童謡排斥運動)を起こしたのだ、その中心になったのが中田喜直ら「ロバの会」だった。彼らは、「童謡」という用語そのものも過去の遺物として、これを否定して幼児を対象とした「新しい子どもの歌」をつくろうとした。まあ、実績の無い自分たちのためのめだったのだ。

「ろばの会」に結集した若手の二世作曲家たちであった。ろばの会では、「童謡」という言葉を嫌って、もっぱら「(新しい)こどものうた」としたが、それは従来の「(レコード)童謡」に対決する姿勢を強く打ち出そうとしたからである。また、「ろばの会」の会員ではなかったが、「うたのおばさん」を通して童謡の作曲に深く関わった團伊玖麿、次のように述べている。「戦後、私たちがNHK「うたのおばさん」を舞台に新しい子どもの歌を作り始めたとき、あえて童謡という言葉を使わなかったのは、戦前のレコード童謡への反発があったからでした」。しかし、このレコード童謡への反発と否定は、正当な部分はあったがにいても、このあとその排斥した「童謡」の名をかたって「童謡協会」を作って会長に収まったという、辿った歴史を見ると、行き過ぎのところ、自分たちのためという動機不純なところがあったと言わざるを得ない。

昭和44年(1969年)に童謡の再興を期して「日本童謡協会」が設立され海沼は常任理事に、加藤は事務局長に就任した。
しかし、役員の人選をめぐってもめた。初代会長サトウハチロー、二代目中田喜直)

2年後の総会の翌日、海沼は過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。「憤死」に近い。
加藤は代表作「みかんの花咲く丘」が酷評されたことに、生涯を通じて心を痛めた。死の1ヵ月前、美知子さんの運転で故郷の富士市に行く途中、助手席でふと「あのとき、あの歌を作って良かったんだよな」とつぶやいた。「自分に問いかけ、自分を納得させるような口ぶりでした」と美知子さんは思い起こす。「父も海沼さんも川田さんも、みんな純粋で一途でした」と続けた。

彼らは、「あたらしいこどもの歌」を排斥した「童謡」といいかえた。

「童謡」が「童謡」を排斥した「ロバの会」の延長メンバーによる「童謡協会」に乗っ取られたのだ!・

ここに童謡運動は終焉を迎えた。

しかし、その「あたらしいこどもの歌」も今歌われていない。知る人もいない。

真に心がこもったものでない限り、時代を超え、世代を越えて受け容れられることは無い。
このことを、これはものがたっている。




239 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 21:05
「童謡」は人の心を豊かにします。しかし、『童謡』と彼らが自分たちの領分を勝ち取ろうとした「あたらしいこどもの歌」とは似て非なる別物だった。

寺山修司は、その編著「日本童謡集」〈光文社カッパブックス1972〉と言う本の最初で、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」と。

「童謡協会」と言うのは、『童謡』には関心が無いらしく、「童謡200選」の中で、童謡は「里の秋」あたりまで60曲弱。全体のわずか30%弱と、申し訳程度の扱いで、戦後の「童謡」、戦後の「童謡黄金時代」と言われた『童謡』がごっそり抜け落ちてカバーされて無いのです。

『童謡』は日本の文化です。童謡は主に大正時代に大方作られた、名曲童謡と言っているおののはかに、実際は昭和に入ってからも昭和10年代以降も、たくさん作られ歌われたのでした。より生活に密着してきて、特に戦後、昭和20年代、30年代、「童謡黄金時代」と言われ「童謡」が花開いた時代と言えるでしょう。まだ日本がまだ貧しかった時代、草深く、食糧難の時代、多くの童謡歌手の歌声に、人々はどんなに心慰められたことでしょう。

昔は「りんごのひとりごと」〈河村光陽〉「やさしいお母さま」(海沼實)「ないしょ話」)結城よしを作詞・山口保治作曲)「あの子はだあれ」「母さんたずねて」・・「船頭さん」「仲良し小道」「夕日」、『かわいい魚屋さん』(加藤省吾・作詞)などが盛んに歌われたものです。

童謡・・そこには「人」(人と人との情愛)が醸し出されてくるのです。「りんごのひとりごと」昭和20年代、30年代にかけてよく歌われたものでした。
今でこそリンゴなど誰も見向きもしないが、昔日本がまだ貧かった時代,流通も今ほどでなく貧しい家庭が多かったでしょうから高価で貴重品だったろう。リンゴは、子供が風邪をひいた時に、お母さんが枕元に出してくれたものだったようで、特別な思いもあったとう。

さっちゃんだとか、ぞうさんとか、他愛もない小さなこどもの歌とは歌の思いが違うのです。

「あたらしいこどもの歌」は、学齢前の幼児を対象としたものです。「童謡」は子供であっても、ある程度年齢がいったものでないといけないもの。





240 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 21:12
日本童謡協会は、昭和44年(1969年)4月に設立された。会長任期は二年で、初代会長はサトウハチロー、そして第2代会長は中田喜直、第3代会長は湯山昭。「童謡」を排斥した中田喜直、湯山昭ら『童謡』を排斥の中心にいた者が会長となり、日本の文化である「童謡」を乗っ取ったのだ。日本の童謡史に残る、許されざる恥ずべきこと、童謡の歴史を汚す童謡史に記録されるべき汚点である。
会の目的としては、童謡の振興発展を図ること、童謡著作者の生活権および著作権を擁護すること、音楽文化の向上に寄与することなどが謳われ、平成元年(1989年)から社団法人日本童謡協会となり今日に至る。

しかし、[童謡]はかっての[童謡] ではなく、幼児対象の「あたらしいこどもの歌」を,そのまま「童謡」と言いかえただけのものだった。

会員数は詩人、作曲家合わせて400名を超えているが、「日本童謡協会」は、批評家や研究者を入会させず、作品の鋭い批評にも踏み込まず、「職能擁護的な会」と言われているようだ。
この第二代会長・中田喜直を選んだ総会の翌日、「最後の童謡作曲家」と言われ、戦後の童謡黄金時代を築いた作曲家・海沼實は、過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。そして次も同じ童謡を排斥した湯山昭が選ばれた・・・・。

いまどんな活動をしてるのかどうかしらない。
しかし新しい子供の歌というのが歌われているのはきたことがない。

大正時代に始まった幾多の先人が取り組んだ、日本の文化でもある童謡運動は、ここに終焉を迎えることになったのだ。





24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/29(Tue) 14:46
日本童謡協会は、昭和44年(1969年)4月に設立された。会長任期は二年で、初代会長はサトウハチロー、そして第2代会長は中田喜直、第3代会長は湯山昭。「童謡」を排斥した中田喜直、湯山昭ら『童謡』を排斥の中心にいた者が会長となり、日本の文化である「童謡」を乗っ取ったのだ。日本の童謡史に残る、許されざる恥ずべきこと、童謡の歴史を汚す童謡史に記録されるべき汚点である。
会の目的としては、童謡の振興発展を図ること、童謡著作者の生活権および著作権を擁護すること、音楽文化の向上に寄与することなどが謳われ、平成元年(1989年)から社団法人日本童謡協会となり今日に至る。




25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/29(Tue) 14:48
しかし、[童謡]はかっての[童謡] ではなく、幼児対象の「あたらしいこどもの歌」を,そのまま「童謡」と言いかえただけのものだった。

会員数は詩人、作曲家合わせて400名を超えているが、「日本童謡協会」は、批評家や研究者を入会させず、作品の鋭い批評にも踏み込まず、「職能擁護的な会」と言われているようだ。
この第二代会長・中田喜直を選んだ総会の翌日、「最後の童謡作曲家」と言われ、戦後の童謡黄金時代を築いた作曲家・海沼實は、過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。そして次も同じ童謡を排斥した湯山昭が選ばれた・・・・。

大正時代に始まった幾多の先人が取り組んだ、日本の文化でもある童謡運動は、ここに終焉を迎えることになったのだ。




241 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 22:04
童謡、童謡協会とサトウハチローについては

>>161 ☆サトウハチローと「童謡」  参照


242 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/05(Tue) 14:08
サトウハチローは「童謡協会」に利用されたのでしょう。

初代会長にはサトウハチローを、二代目は中田喜直。以後、湯山昭、「童謡協会」は「童謡」を完全にのっとった。
その代わり、童謡協会もいまや完全に過去のものとなり顧みる人もいない。

何であっても、真に心からのものでなければ、聞く人の心を捉え続けることはできない。

この「ロバの会→童謡協会」の「童謡のっとり」は、自らのためであり、こどものためでなかった。

そのことを教えている。

「童謡」に限らない、「歌謡」の世界でも同じ。

真に心からのものでなければ、聞く人の心を捉え続けることはできない。

それはいまや顧みる人もいない職能擁護的団体と化した、今の「童謡協会」の現状を目のあたりにすれば、よくわかる。


You Tubeには過去の本物の童謡があふれている。

243 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/10(Sun) 18:20
・CD[西條八十全集  生誕百年](CD16枚)(1992/10/1) ・発売元:日本コロムビア(株)
 童謡から新民謡,歌謡曲までを手がけた詩人・西條八十生誕100年記念の全集です。日本コロムビア,ビクター,キング,ポリドールなどのオリジナル音源を収録し,八十自身による詩の朗読や古賀政男,古関裕而との対談まで収録した文字通りの全集です。昭和の歌謡曲を作った中山晋平,古賀政男,古関裕而,服部良一らとのコンビによる作品集も編まれている。昭和の戦前・戦中・戦後を色どった歌の多くが西條八十の詞であった。時代の気分を反映した歌謡曲の詞を書いただけに批判される面もあるが,昭和の唄そのものであることは間違いない。付録のブックレットは八十資料としても貴重な内容。昭和を生きた日本人の心を洗う唄ばかりです。

・CD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]日本コロムビア
 発売日:1998年7月18日  CD16枚、
 昭和の大衆歌謡を象徴する作曲家・古賀政男の作品を,彼が活躍したビクター,コロムビア,テイチクから集めた文字通りの大全集。戦前の彼の曲は実にモダンなサウンドで,ギターやマンドリンなどを使い,当時としては新鮮で心地好い都会的なサウンドによる歌謡曲を作り出している。



244 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/10(Sun) 18:22
日本コロムビア創立100周年記念 藤山一郎生誕100年記念 (決定盤)国民的歌手 藤山一郎全集(上/下)~栄光の軌跡~
上 CD6枚
下 CD3枚


245 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/10(Sun) 18:35
生誕100年国民的作曲家 古関裕而全集(CD)
 CD139曲CD6枚DVD1枚 コロムビア 2009年8月5日発売

決定盤 服部良一 〜僕の音楽人生〜(CD)
アーティスト名:服部良一
CD 3枚組 63曲 D3937 COCA-71103 コロムビア2006年9月27日発売


246 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/12(Tue) 09:24
(参考)

古茂田信男「日本流行歌史・戦前編」(社会思想社1981)

数多くの戦前の歌が歌詞とともにまとめられている。

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