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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




272 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 22:50
>>269-271 昭和SP歌謡  主な歌手(戦前・戦中)

273 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 23:07
古賀政男総合スレ 
ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/

274 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 16:43
>>259-264「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」
>>265-268「中山晋平と「ゴンドラの唄」



275 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 16:58

《索 引》 

    (主なもの)>>256,
>>258,>>272,>>274

(その他もあり)

 検索法   >>257



276 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 20:32
《索  引》 (参考・主なもの)>>275

>>2  影を慕いて
>>23 古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)
>>31 西條八十は
>>37 詩人・佐藤惣之助は
>>46 「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
>>95 古賀政男アメリカへ
>>101 日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
>>112 初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
>>114 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>117 古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
>>118 李香蘭と古賀メロディ
>>120 古賀メロディと霧島昇
>>121 古賀政男と「荒城の月」
>>122-123 「荒城の月」について
>>124 三浦環と古賀政男
>>127-130 西條八十と古賀政男
>>133-148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>134 昭和戦前の作曲家
>>135 昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)
>>136 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>138 「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・
>>139 関 種子と「古賀メロディ」
>>140 古賀メロディと藤山一郎
>>141 藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
>>143 テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ
>>145 テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫
>>146 楠木繁夫の代表曲
>>147 古賀メロディと霧島昇
>>148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>149 関 種子と「古賀メロディ」2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手
>>152 「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」
>>153 佐藤千夜子と古賀政男
>>155-157 佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
>>158 詩人・サトウハチローと古賀メロディ
>>160 サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
>>161 サトウハチローと「童謡」
>>164 佐藤惣之助没後70年
>>165 佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
>>166 「古賀政男音楽博物館」
>>167 古賀メロディの戦後
>>168-169 戦後の主な古賀メロディ・・
>>170 萩原朔太郎と古賀メロディ
>>172 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>173 名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
>>174 詩人・佐藤惣之助
>>175 古賀メロディ、その隠れた名曲!・・沖縄民謡となった《二見情話》など
>>176 古賀政男編曲作品
>>177 二見情話(HUTAMI JOOWA) 沖縄民謡
>>178 古賀メロディを支えた主な名歌手たち
>>179 「古賀政男」のドラマ
>>180 「古賀メロディ」と、その秘密
>>181 古賀メロデー)とは
>>183 藤山一郎と増永丈夫
>>185 「古賀政男と「荒城の月」 2  ・・・李香蘭と[荒城の月]
>>186 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>188 古賀政男生誕100年記念CD
>>190 嘆きの夜曲 関種子.wmv
>>191 SPレコード歌謡とSPレコード
>>193-195 [古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
>>196 古賀メロディとその時代
>>198-201 新妻鏡
>>202 松平晃 サーカスの唄
>>205 ビクター専属藤山一郎への対抗
>>106-111 古関祐而と古賀政男
>>215-216

続く・・

277 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 20:32
>>219-220 古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>227-232 昭和のSPレコード歌謡、それは「三分間の芸術」ともいわれる。
>>233 書籍名『東アジア流行歌アワー――越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)
>>234 日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男
>>235-242 戦中戦後における童謡について(童謡排斥運動と童謡協会の発足)
>>243-245 CD全集 西條八十、古賀政男、藤山一郎等
>>246-247 日本流行歌史・戦前編
      日本歌謡集−明治・大正・昭和の流行歌
>>251-255 テイチク50年史・・
>>259-264「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」
>>265-268 中山晋平と「ゴンドラの唄」
>>269-271 昭和SP歌謡 主な歌手(戦前・戦中)

この他にもあります。



278 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/13(Fri) 00:21
>>113(参考) 島田芳文詩集
>>115 民謡詩集


279 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/19(Thu) 11:46
>>119 李香蘭の歌う古賀メロディ
>>140 ディックミネの代表曲(古賀メロディ)
>>149-151 関種子と「古賀メロディ」2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手


280 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/19(Thu) 12:00
>>144 ディックミネの代表曲(古賀メロディ)



281 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/20(Fri) 10:18
昭和も遠くなりにけり、来年(2014年)は昭和89年にあたる。
こうした中、今テレビの若者歌番組などで頻繁に飛び交う言葉、それは、『名曲』と言う言葉です。その重い言葉が鴻毛のごとく、いとも軽々しく飛び交っている若者文化には違和感を覚えると供に困ったことではないでしょうか。
しかも、「昭和」といっても、60年以上ある。 60年以上ある「昭和」の末期、豊かな時代の真っ盛り、50年代以降になってしまったようだ。言葉は重要です、『昭和』ではなく、あきらかに『昭和末期の』と言い換えるべきだろう。

今から81年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは昭和歌謡史に残る記念すべきビッグな企画を発表。ライバル・ビクター専属の看板作詞家・西条八十と、コロムビアの看板作曲家である古賀政男に、専属を超えて1年間コンビを組ませるというもの。この専属を超えた企画によって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。戦後に至るまで数多くの「名曲」を世に送り出すことになる黄金コンビは、ここにスタートする。


282 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/22(Sun) 23:30
斎藤 憐 「ジャズで踊ってリキュルで更けて―昭和不良伝 西条八十」] 岩波書店 (2004/10/28)
唄を忘れたカナリアが、歌い続けて二千曲―「東京行進曲」「東京音頭」「サーカスの唄」「同期の桜」「青い山脈」「トンコ節」「王将」…純粋詩と流行歌、フランス文学科教授と株屋。天才か凡俗の巨人か、大きな振幅を描いた西条八十の生涯にからむ五人の男たち―野口雨情、中山晋平、サトウ・ハチロー、古賀政男、服部良一。名もなき人びとの哀感を歌い、時代と共に泣いた、「唄の伝記」―昭和への鎮魂歌。

西條/八十
明治25年(1892)年、東京・牛込生まれ。詩人・作詞家・フランス文学者。早大在学中から「早稲田文学」などに作品を発表、「未来」同人となる。大正7(1918)年、鈴木三重吉の「赤い鳥」創刊に参加、童謡「かなりあ」を発表。以後、北原白秋、野口雨情とならぶ大正期の代表的童謡詩人として、多くの童謡を発表した。翌年第一詩集「砂金」を刊行、大正9年、訳詩集「白孔雀」を刊行。大正10年、早大英文科講師となり、大正13年、ソルボンヌ大学に留学、帰国後早大仏文科助教授、昭和6(1931)年、教授に就任。また、流行歌から軍歌まで幅広い分野で作詞家としても活躍し、「東京行進曲」(昭和4年)、「東京音頭」「サーカスの唄」(昭和8年)などがヒットした。戦後は早大を辞し、ランボーの研究に打ち込んだ。日本詩人クラブ初代理事長、日本音楽著作権協会会長など歴任。昭和45(1970)年没。


283 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/23(Mon) 00:05
筒井 清忠「西條八十」 (中公文庫) 中央公論新社 (2008/12)

戦前戦後のヒット曲に作詞家として名を連ね、ランボー研究をはじめ、詩人・フランス文学者としても大きな足跡を残した西條八十。多大な功績にもかかわらず近代文学の系譜から疎外されてきた、忘れられた巨人の生涯を精緻に描いた初の本格的評伝。第57回読売文学賞、第14回山本七平賞特別賞、第29回日本児童文学学会特別賞受賞。

西條八十の初めての本格的な評伝が本書だと言うのには驚いた。フランス文学の教授、詩人として出発し、作詞家として童謡「かなりあ」から「東京行進曲」、「東京音頭」、「愛染かつら」、「青い山脈」、「王将」等、戦前、戦後の多くのヒット曲を作った。その作詞のエピソードによると、いつも苦もなく言葉が浮かんでくるようで、まさに天性の詩人である。しかし、学界、詩壇は、、ランボー研究、詩人としての多大な業績を無視してきた。著者は、庶民の心情を詩として定着させた西條を「大衆化されたロマン主義」の中心人物としている。日本人が西條八十から受けた多大な恩をおもい出させてくれる優れた伝記である。
西條八十作詞、古賀政男作曲の数え切れないほどの歌謡曲、「東京音頭」をはじめとする日本各地のご当地民謡の数々は戦前、戦中育ちの我われの郷愁をそそる。
その一面、早稲田大学の文学部教授としてフランス文学を教えていたことは、余り知られていない。
フランス文学における学問的業績も、ただ大衆受けする歌の作詞者であるという一点においてのみ、学会からは無視された。しかし、西條は歌は一般大衆と共にありとの態度を貫いた。
沢山の歌謡曲、民謡、童謡の引用は懐かしくもあり、現代の散文的へたくそな作詞家と較べて、西條八十の作詞がいかに優れていたか、あらためて認識させられた。
しかし、詩壇における派閥の流れの詳細なる説明は、学問的には価値があるものなのだろうが、人間西條八十をしりたい読者にとっては、いささか退屈な側面である。


西條 八束 (著), 西條 八峯 (編集)「父・西條八十の横顔」風媒社 (2011/07)

西条 八十, 上田 信道 「名作童謡 西条八十100選」 春陽堂書店 (2005/09)




284 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/23(Mon) 07:11
「お蝶夫人」の唄
(昭和8年=1933、西条八十作詞、古賀政男作曲、ミス・コロムビア・歌)

おもうお方は 帰らぬ人か
旅のつばめは また来たに
恋の長崎 港の雨は
お蝶夫人の 涙雨

わたしゃ初恋心(おぼこ)の 日本娘
港育ちの 女郎花(おみなえし)
恋は気まぐれ 降るアメリカの
露に濡れたか 恥ずかしや

ねんねおころり 坊やの父(てて)は
青い目の人 ふねのひと
ねんねおころり 謳(うた)うたとても
声もとどかぬ 波の上

来るか来るかの 便りは来ずに
春の丸山 花が咲く
情け知らずの 入船出船
きょうも散る花 のせてゆく


戦後にいたるまで20曲以上ある「お蝶夫人」の歌のはじめとなる名曲。
同時に、東京音楽学校(研究科)をでたばかりのミス・コロムビア最初の古賀メロディでもある。
ミス・コロムビアの初々しい歌である。


285 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/03(Fri) 22:17
佐藤惣之助 かわさき区の宝物シート
ttp://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26355/31-4.pdf#search='%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%83%A3%E4%B9%8B%E5%8A%A9%E3%80%81%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%83%93%E3%82%A2%E5%B0%82%E5%B1%9E'


286 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/09(Thu) 22:22
「サヨンの鐘」によせて―「サヨンの鐘」資料一斑―(十訂稿)
―日本統治下台湾警察史の一齣―
ttp://home.hiroshima-u.ac.jp/tatyoshi/sayun001.pdf#search='%E3%80%8C%E3%82%B5%E3%83%A8%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%90%98%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%9B%E3%81%A6'


287 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/09(Thu) 23:03
4.歌でつづる大正・昭和日本の流行歌 上
上山敬三著 <767.8-Ka298n>  東京 早川書房 昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和7年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

ttp://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/tmp/79.pdf#search='%E8%A5%BF%E6%A2%9D%E5%85%AB%E5%8D%81%E4%BD%9C%E8%A9%9E%2C%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7%E4%BD%9C%E6%9B%B2%2C%E6%98%AD%E5%92%8C1%EF%BC%99%E5%B9%B4'

国会図書館 第79回 常設展示
流行歌に見る世相と大衆のこころ ―昭和のはじめから東京オリンピックまで―
平成9年3月25日〜4月25日


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289 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 10:10
商業レコードの黎明期、その最初は新民謡『波浮の港』(昭和3年)であったように、歌謡曲(流行歌=レコード歌謡)は、「新民謡」から発展した。
そこに若き古賀政男が現れ、晋平の時代に新風を吹き込むこととなった。

これからは、何々「節」の時代ではなく「メロディー」の時代だと言っていた。
80年以上前から、古賀政男は歌謡において、これまで以上に「メロディー」の重要さを強調していた。

実際に,晋平(節)の時代から「古賀メロディ」の時代へ、ビクター時代からコロムビア時代へと流れが大きく変わってゆく。
そして、古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。




290 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 19:31
作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。

古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。 今有る歌の殆どはまだ存在しなかった。

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』『美わしの宵』『嘆きの夜曲』『青春図絵の唄』『朝顔の唄』『笛は冴ゆれど』『愛は紅い』『秘めたる恋』(関種子)、『キャンプ小唄』『スキーの唄』、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎) 、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『私此頃憂鬱よ』『アリランの唄』『春の唄』(淡谷のり子)・・

古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せます。

古賀政男の音楽は、洋楽を基本に、仏教音楽以来の日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたもので、その後の歌にも影響を与えているといえます。

『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・ セレナーデ風の佳曲。ジプシー音楽(ジプシー短音階)。


291 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 19:42
タンゴと歌謡曲は戦前から密接な関係があったようで、歌謡曲の創世記に、ハバネラタンゴのリズムが使われた。古賀政男(「正男」)作曲、佐藤千夜子がビクターで吹込んだ《日本橋から》のリズムがそうである。
その後、関種子によって再録音(コロムビア)された。邦人歌曲においてタンゴのリズムが使われた最初の例であろう。

「日本橋から」以来、戦後にいたるまで歌謡曲では旋律に変化をあたえるリズムとして多用されるようになり、流行歌の発展には欠かせなくなりました。 
「赤い花」「銀座セレナーデ」「黒いパイプ」「夢去りぬ」「落葉しぐれ」・・、昭和22年東宝 『音楽五人男』挿入歌「バラ咲く小径」などがあげられる。

ジプシー音楽とハバネラが古賀メロディーの原点だった!ともいわれる所以だろう。



292 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 19:44
(参考)

「赤い花」    1934、飯田信夫作詞 松平 信博作曲   藤山一郎 
「夢去りぬ」   1939 奥山 靉作詞、服部良一作曲.   霧島昇
「銀座セレナーデ」1946 村雨まさを作詞、服部良一作曲  藤山一郎
「黒いパイプ」  1946 サトウ ハチロー作詞、服部良一作曲 二葉あき子
「バラ咲く小径」 1947 野村 俊夫作詞、古関裕而作曲  藤山一郎
「落葉しぐれ」  1953 吉川 静夫作詞、吉田正作曲   三浦洸一




293 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 19:58
今から83年前、昭和6年(1931)が明けてまもなく、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から古賀政男に面会の申し入れがあった。

コロムビアの専属作曲家となって、『影を慕いて』のような作曲をしてほしいとのことであった。このとき古賀に破格な『印税』が支払われると言う条件でである。しかもまだ印税制度が一般的でなかった時代である。

昭和4年から昭和5年末にかけて、佐藤千夜子によって『文のかをり』(1930年3月発売)をはじめとして、『影を慕いて』(1931年1月発売)など7曲が吹き込まれた。

栄えあるレコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手、佐藤千夜子(ビクター)の力添えで、作曲家・古賀政男は誕生したといえる。この辺りのことは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」(1977年(昭和52年)4月4日から10月1日)に描かれている。
ttp://www.youtube.com/watch?v=Vz_pa0HGiwU

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。



294 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 20:33
81年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは、ライバルであるビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表した。

これによって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。

昭和14年から、二人はコロムビア専属となり黄金コンビが復活、「誰か故郷を想わざる」「あの花この花」「春よいづこ」「熱砂の誓い」「紅い睡蓮」「サヨンの鐘」「麗人の歌」「三百六十五夜」・・
など戦後に至るまで、数え切れないほど沢山の「西條八十作詞・古賀政男作曲」の名曲を世に送り出すのです。



295 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/13(Mon) 22:53
今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989〉と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

今や、ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年(1925)7月12日、現在NHK放送博物館のある東京港区・愛宕山の放送所で本放送が開始された。この時、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がラジオ本放送の始まりだそうだ。佐藤千夜子はレコードだけでなくラジオで歌うようになる。

参考までに、佐藤千夜子の最初のレコードは、大正14年(1925) 内外蓄音器、「青い芒(すすき)」(野口雨情作詩、中山晋平作曲)、これは全国歌の旅の途中で録音したもので、ビクターで再録音されている。
なお、そのNHK本放送直後の7月28日に、長田幹彦原作のラジオドラマ「悲しき遍路」が放送された。佐藤千夜子出演で、NHKアーカイブスで聴くことが出来、現存する最古の公開ライブラリーとなってる。まさに「佐藤千夜子」は新しい時代のスターだったのだ。
佐藤はその中で、「悲しき遍路」(長田幹彦作詞、中山 晋平作曲)を歌っている。
「作曲家・古賀政男」は、この栄えあるレコード歌手第一号「佐藤千夜子」の力添えで誕生し、メジャーデビューしたといえる。



296 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/14(Tue) 14:51
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#2

297 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/15(Wed) 12:22
佐藤千夜子は、日本初のレコード歌手で、NHK 朝の連続テレビ小説「いちばん星」のヒロインになった人です。

1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学し、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀正男、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、激動の時代を駆け抜けてゆきます。

菊池寛 原作の映画「東京行進曲」の主題歌(作詞 西条八十、作曲 中山晋平 ♪ 昔恋しい 銀座の柳…)や「波浮の港」の空前の大ヒットなど、かれらの活躍はめざましいものでした。


298 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/15(Wed) 12:50
天童公園愛宕沼の近くに顕彰碑があり、中2丁目の生家が復元され、民芸館として公開されている。(1 9 7 7 年佐藤千夜子顕彰碑建設会が記念碑を建立、)
ttp://tohoku-monogatari.org/spot/?lid=11102
ttp://www.geocities.jp/seppa06/0901/siryo.html


佐藤千夜子顕彰碑 天童市 舞鶴山公園
ひとは うれしいにつけ 悲しいにつけ歌を口ずさむ うたは 思い出とともに人の心に刻みこまれる 日本の大衆文化の黎明期を築き 歌謡歌手の嚆矢となった佐藤千夜子を われわれは忘れてはならないだろう 千夜子よ永遠なれ   「あゝ東京行進曲」著者 結城亮一

 1 9 7 7 年佐藤千夜子顕彰碑建設会建立 



299 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/20(Mon) 22:47
昭和3年、昭和の初め、人生の苦悩からはじまった「古賀メロディ」の歴史、若き古賀政男の人生の苦悩から生れた昭和流行歌(レコード歌謡)の最高傑作とされる「影を慕いて」。

この歌には古賀の人生の苦悩・絶望からの叫びが込められているといわれる、時代を超えた日本の名曲である。この歌が作られるのは『波浮の港』と同じ昭和3年の夏といわれる。現在ある殆どすべての日本の歌謡はまだ存在していなかった時代。
そして、菊池寛原作、日本最初の映画主題歌である「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)が流行した昭和4年、6月22日、 佐藤千夜子を招いての明治大學マンドリン倶楽部定期演奏會初演(ギター合奏)。
昭和5年10月20日、佐藤千夜子は、ビクタースタジオで吹込み。大衆音楽の黎明期、まだ一学生演奏家に過ぎなかった無名の作家の作品。ビクター内では反対もあっただろう、しかし佐藤千夜子のすごいところは、反対を押し切る形での録音だったことだ。


この録音の8日後には佐藤千夜子は日本を離れるのだ。ちなみに『影を慕いて』は『日本橋から』のB面だった。この『影を慕いて』のレコードがビクターから発売されたのは、まだ古賀政男は作曲家になる前の昭和6年1月早々である。コロムビアは、放っておかなかった。

このレコードを浅草・鳥越の斉藤楽器店で発見した人物が、コロムビアの営業マンだった伊藤正憲だった。当然コロムビアはレコードの発売を待っていたはずで、偶然ではないだろう。

影を慕いて  古賀正男作詞  佐藤千夜子 1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介作詞  同     1931年1月 ビクター 51519

昭和6年(1931)が明けてまもなく、古賀政男(正男)は、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から面会の申し入れを受ける。>>170

そして古賀政男(正男)26歳は、昭和6年(1931)3月20日付けで、日本コロムビアの専属作曲家として迎えられる。



伊藤正憲「レコードと共に四十五年―私のアルバム」日本クラウン, 1971




300 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/22(Wed) 15:30
☆古賀政男(正男)初期の作品(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)
 
初期古賀作品ビクター録音は,歌わせてほしいとの千夜子の熱望で実現、以下の7曲が昭和4年から翌5年10月にかけて吹き込まれた。

参考までに、最初に専属制度をはじめたのはビクターで、最初の専属は、西條八十、中山晋平、藤江義江、佐藤千夜子、藤本 二三吉、佐々紅華、時雨音羽、平井英子の8人だった。

文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688  
以上は,作曲家になる前の作品  年月は発売年
*『青い小鳥』は、『星の飛ぶ夜』(堀正明作詩、小松平五郎作編曲・佐藤千夜子歌唱)  とカップリング

※古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
・『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作編
 曲・淡谷のり子歌)
・『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作編曲・丸山和
 歌子歌)
・『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作編曲・
 関種子歌)。

なお、『影を慕いて』『日本橋から』(井田一郎編曲)は、昭和7年3月、藤山一郎、関種子により再吹き込み。『片想い』は、昭和7年6月、『かた思い』として関種子 再吹き込み。

・コロムビア専属作曲家・古賀政男   専属最初期の作品
乙女心    鹿山鶯村作詞 関種子 1931年6月 COL26275〈関種子専属第一作〉
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年6月 26275
キャンプ小唄  島田芳文  藤山一郎  1931年7月 26325 (藤山一郎第一作)
月の浜辺    島田芳文  河原喜久恵 1931年7月 26325

関種子、藤山一郎、河原喜久恵は東京音楽学校、関種子、藤山一郎は主席卒業(藤山一郎はまだ本科二年生でアルバイトだった。)天野喜久代は、日本橋高等女学校卒業、大正2年 帝劇歌劇部を経て、声楽は東京音楽学校で教えていたハンカ・ペツォールドにも師事しており、この時期に培った基礎が長い音楽生活を可能とした。二村定一とジャズ・ソングの名曲・『青空』など歌う。昭和20年3月10日の東京大空襲で焼死したと伝えられている。


301 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/26(Sun) 14:00
>>76
2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』
ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html





302 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/26(Sun) 19:21
【究極の】日本の歌こころの歌【癒し】

ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/healing/1113312511/


303 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/26(Sun) 19:36
>>301
関種子

藤山一郎の影で、彼ほど知られていないが、藤山一郎とともに、忘れてはならない歌手に、東京音楽学校本科を首席で卒業し、ドイツリートの傍ら、初期の「古賀メロディ」を支えたクラッシックのソプラノ歌手・関種子がいる。
『乙女心』『窓に凭れて』『日本橋から』『青春図絵の唄(貞子の唄)』『博多小夜曲』『かた思い』『あけみの唄』『金色夜叉(お宮の唄)』『笛は冴ゆれど』『朝顔の唄』『秘めたる恋』『美わしの宵』『嘆きの夜曲』『去りゆく影』
『初恋の唄』『愛は紅い』『さらば上海』・・など多くの「古賀メロディ」を歌っている。

古賀政男がテイチクに移った後、1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍。


2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』
ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html



304 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/26(Sun) 20:32
古賀メロディの佳曲・『嘆きの夜曲』がある。
藤山一郎・『影を慕いて』と同じ、昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲、關(関)種子さん歌唱です。

丁度、東北・東日本大震災(2012)の80年前に作られたものです。
このYou Tubeには、「東日本大震災から1年になり、心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。」とあります。

震災復興支援ソング『花は咲く』と言うのがあります。花を持った若手が大勢歌う。でも、あれっ!?て思うのは、「追悼」であるのに、そこに最初にあるべき《哀しみ》というのが無いこと、いかにも残念なことだと思います。

今や「童謡」選の中に「影を慕いて」など「古賀メロディ」が入っている。癒しという点でも日本の共有財産、「日本の歌」になっている。

80年も前に作られたこの「古賀メロディ」、その簡潔な短い詞の中に、「普遍性」をもって、この大災禍の嘆き・哀しみさえをも予言したかのように包含したかのように、時代を超えて、
80年も後に起こった災禍に追悼の気持ちをぴったり共有しているというのは驚きとしかいえません。

「古賀メロディ」ほど無駄の無い音楽も無いだろう。
また「哀しみ」を歌ったら右に出るものもない「古賀メロディ」。


時代を超えた普遍性を持つ、ここに「古賀メロディ」の「古賀メロディ」たる所以がある。



嘆きの夜曲 関種子.wmv
公開日: 2012/03/05
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。
なお背景の画像は津波被害のものが多いですので、衝撃を受けやすい方々はご遠慮ください。
背景の画像と曲は直接は関係がありません。古いレコードですので雑音が多いのかもしれません。画像はおもにグーグルの検索画像から引用させていただきました。
ttp://www.youtube.com/watch?v=giaWCvjmsoY&feature=endscreen&NR=1




305 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/30(Thu) 21:19
他スレですがこのスレの皆様の意見を。

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=sportcombative&key=391028124

306 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/31(Fri) 08:58
日本のタンゴ名唱集〜(戰前・戰後編)

ttp://saasuraai.at.webry.info/201210/article_19.html


307 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/04(Tue) 23:19
寺山修司の編著作の名著に「日本童謡集―青い目の人形から唐獅子牡丹まで」〈光文社カッパブックス1972、1995年復刻版〉と言う本がある。童謡の概念は子供の歌に限らない、その中には「影を慕いて」など沢山の古賀メロディの名曲が入っている。

寺山修司は、この本のまえがきで、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。
「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」と。

また、童謡の価値は、子供時代に歌われた頻度によって決まるのではなく、大人時代の思い出された頻度によって決まるとも言っている。

80年を超える「童謡」も歌謡曲も、やはりすぐれた歌、年月に耐えた歌というものは、長い人生の中で繰り返し現れる。年を重ねるうちに、その短い詞の中にああこういうことなのかと、解釈や感じ方にも深みを増す。
映画に「主題歌」があるように、人生にも主題歌があるはずだという。

昭和が終わって平成の時代がはじまった平成元年(1989)に、忘れ去られつつある日本の
「うた」を日本全国の人々とともに掘り起こし、つぎの世代に伝える「文化遺産」として集大成して、記録にとどめようという趣旨のもとにNHKは、「日本の歌・ふるさとの歌 ベスト100曲」を選定、11月4日に放送。

唱歌・童謡が殆どである中に、「荒城の月」、「城ケ島の雨」、「波浮の港」、それに「影を慕いて」、時を越えた日本のスタンダ-ド、日本の歌・ふるさとの歌として、数多有る中で特にこの日本の名曲4曲だけがジャンルを超えて選ばれているのが印象的である。
ttp://www.geocities.jp/fujiskre/ka94.html

温かい家庭の和と憩いを夢見た古賀政男、養女に「おとうちゃん」と呼ばれて嬉しくて涙を流した。「明日に残す心に残るうた」・・、「赤い靴」など唱歌童謡の中に「影を慕いて」が含まれる。
HP・童謡新聞 「心の故郷」はこう報じている。




308 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/05(Wed) 10:47
>>285

佐藤惣之助

かわさき区の宝物シート 31−4 NPO法人かわさき歴史ガイド協会
044-221-9117
■昭和51年(1976)、古江氏の提唱によって「川崎今昔会」が設立された。同会の主催で
毎年2回、5月の命日の「酔花忌」と12月の誕生日の「闇汁会」という惣之助を偲ぶ会合
が現在も開催されている。
■平成22年(2010)に、佐藤惣之助の生誕120周年を記念して、川崎今昔会と川崎区役所の
主催による「佐藤惣之助生誕120年記念展『華やかな散歩』」が開催された。
■郷土川崎をこよなく愛した詩人。大正から昭和初期にかけて活躍した佐藤惣之助は、代々川崎宿砂子の本陣職を務め、明治維新後は雑貨商「藤屋」に転じていた佐藤家の次男として明治23年(1890)12月3日に生まれる。東京麻布の商家に丁稚奉公に出ていた12歳の頃から俳句を始め、劇作を経て、詩作へと活動の中心が移った。大正5年(1916)、25歳で処女詩集『正義の兜』翌年には『狂へる歌』を出版、以後生涯にわたり22冊の詩集を刊行した。さらに随筆、句集、小説、釣書、戯曲など多才で自由闊達な創作活動にも身を投じた。川崎市からの委託による『川崎小唄』『川崎音頭』の作詞(昭和5年(1930))や高津区溝ノ口の国木田独歩の記念碑建立の発案(昭和9年(1934))など、川崎における文化活動へも大きく貢献している。
■昭和8年(1933)に初めて歌謡曲の作詞を手掛けると、翌年に『赤城の子守歌』が大ヒット。歌謡曲作家としても不動の地位を築き、『緑の地平線』『男の純情』『青い背広で』『人生劇場』などが次々とヒットした。      
有名な阪神球団歌『六甲颪』は、昭和11年(1936)に『大阪タイガースの歌』としてつくられたが、広く愛唱されるようになったのは昭和40年代半ば以降のことである。
■昭和15年(1940)、日本コロムビアの専属作詞家となって『湖畔の宿』『燃ゆる大空』などを手掛けたものの、2年後の昭和17年(1942)5月15日、過労から倒れ帰らぬ人となった。享年51歳。惣之助が作詞した歌謡曲の数は660編をこえるといわれている。
■惣之助は酒と釣りと旅もまたこよなく愛したと伝えられる。大正11年(1922)、31歳での初の沖縄・台湾旅行から、昭和10年(1935)頃までの間に満州・北支、朝鮮、上海・香港、広州、マカオなど旺盛にアジアへの巡遊の旅を楽しんだ。特に初めての沖縄への旅は、惣之助の人生にとって大きな意味をもった。沖縄本島を馬車で巡り、慶良間諸島では巫女の家に滞在し大いに学ぶべきものを得たという。
旅の成果は、詩集『琉球諸島風物詩集』『颶風の眼』や紀行文『蠅と蛍』などに結実し、伊波南哲など沖縄出身詩人が惣之助主宰の「詩の家」に出入りし親交を深めた。そして昭和元年(1926)、富士瓦斯紡績工場で働く女子工員など沖縄出身者が中心となって芸能大会が開かれた際に、惣之助が激励に駆けつけ、主催者一同大いに感激したという。
■この沖縄芸能は第二次大戦後「川崎沖縄芸能研究会」の結成へと発展し、昭和29年(1954)には神奈川県の無形文化財に指定されたのであるが、他県由来の伝統芸能の指定に尽力したのが、当時川崎市教育委員会に在職していた古江亮仁氏(故人)であった。翌昭和30年、惣之助の詩碑の建立の話が進められた時に、古江氏は偶然にも故郷の先人・佐藤惣之助の沖縄への深い関心と愛情をはじめて知ることとなり、驚きとともに深い感銘を受けたという。そしてすぐに、川崎市民の名で惣之助の詩碑を沖縄に贈呈建立することを発案した。現在、惣之助がかつて漁船で巡った島々を遙かに望む那覇市首里城の景勝地には、琉球諸島風物詩集の中の一編『宵夏』の詩碑が建っている。
■現在、区内には佐藤惣之助の詩碑が3箇所に置かれている。川崎市体育館前の碑は、昭和30年(1955)武者小路実篤に『華やかな散歩』の一節を揮毫してもらい建立したもの。佐藤本陣跡の向かい・川崎信用金庫前には昭和54年(1979)に生誕の地記念碑が建てられ円鍔勝三氏による彫像と嗣子・佐藤沙羅夫氏による揮毫の『青い背広で』の詩が刻まれる。また、惣之助が幼い頃、山王祭りの日に横浜から遊びにくる親類の女の児への想いを綴った『祭りの日』の碑は稲毛神社境内に建つ。幼い客こそは後の花枝夫人であり、惣之助夫妻生誕100年を記念して昭和62年(1987)に建立されたものである。
■市立川崎小学校の校門脇に同校の出身である佐藤惣之助、坂本九の功績を記した看板が設置され、平成17年(2005)3月8日に除幕式が行われた。__


309 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/05(Wed) 14:13
>>308

有名な阪神球団歌『六甲颪』は、昭和11年(1936)に『大阪タイガースの歌』としてつくられたが、広く愛唱されるようになったのは昭和40年代半ば以降のことである。


310 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/05(Wed) 14:15
■昭和15年(1940)、日本コロムビアの専属作詞家となって『湖畔の宿』『燃ゆる大空』などを手掛けたものの、2年後の昭和17年(1942)5月15日、過労から倒れ帰らぬ人となった。享年51歳。惣之助が作詞した歌謡曲の数は660編をこえるといわれている。

311 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/06(Thu) 10:52
>>309

参考
>有名な阪神球団歌『六甲颪』は、昭和11年(1936)に『大阪タイガースの歌』としてつくられたが、広く愛唱されるようになったのは昭和40年代半ば以降のことである。


『六甲颪』(佐藤惣之助作詞、古関祐而作曲)は、昭和11年(1936)に、『大阪タイガースの歌』としてつくられ,中野忠晴の歌でレコード化されるも、殆ど知られなかった。

一般に歌われるようになったのは戦後、昭和40年代後半で、昭和47年(1972年)に、朝日放送ラジオ番組『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で、中村が歌ったことによる。

1970年代の多くのファンに広めら、昭和60年(1985年)にタイガースが日本シリーズで優勝してからは、全国的に知られるようになった。
『六甲颪』は中村の案と言われる。

·中野忠晴 - 1936年(昭和11年)『大阪タイガースの歌』殆ど歌われなかった。
·若山彰  - 1961年(昭和36年)『阪神タイガースの歌』改題後初録音
·中村鋭一 - 1972年(昭和47年)『六甲颪』朝日放送アナウンサー



312 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/06(Thu) 10:57
>>308
佐藤惣之助

かわさき区の宝物シート 31−4 NPO法人かわさき歴史ガイド協会
ttp://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26355/31-4.pdf#search='%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%83%A3%E4%B9%8B%E5%8A%A9%E3%80%8166%EF%BC%90%E6%9B%B2

313 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/09(Sun) 22:19
古賀政男大全集〜二十世紀の遺産〜 [16CD]
ttp://artist.cdjournal.com/d/-/3198052509
規格品番: COCA-15216〜31
発売日: 1998/07/18


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316 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/13(Thu) 20:25
西條八十全集 生誕100年 [16CD]
ttp://artist.cdjournal.com/d/-/1193010669

·レーベル: CO
·規格品番: COCA-10026〜41
·価格: 48,544 円 (+税)
·発売日: 1992/10/01

童謡から新民謡、歌謡曲までを手がけた詩人・西條八十生誕100年記念の全集です。日本コロムビア、ビクター、キング、ポリドールなどのオリジナル音源を収録し、ハナ自身による詩の朗読や古賀政男、古関裕而との対談まで収録した文字通りの全集です。昭和の歌謡曲を作った中山晋平、古賀政男、古関裕而、服部良一らとのコンビによる作品集も編まれている。昭和の戦前・戦中・戦後を色どった歌の多くが西條八十の詞であった。時代の気分を反映した歌謡曲の詞を書いただけに批判される面もあるが、昭和の唄そのものであることは間違いない。付録のブックレットは八十資料としても貴重な内容。昭和を生きた日本人の心を洗う唄ばかりです。


[Disc 1]〈童謡編〉
[Disc 2]〈歌曲編〉
[Disc 3]〈外国曲編〉
[Disc 4]〈新民謡編〜中山晋平作品集〉
[Disc 5]〈歌謡曲編(1)〜中山晋平作品集〉
[Disc 6]〈歌謡曲編(2)〉
[Disc 7]〈歌謡曲編(3)〉
[Disc 8]〈歌謡曲編(4)〉
[Disc 9] (歌謡曲編(5)〜古賀政男作品集1〉
[Disc 10]〈歌謡曲編(6)〜古賀政男作品集2〉
[Disc 11]〈歌謡曲編(7)〜古賀政男作品集3〉
[Disc 12]〈歌謡曲編(8)〜古関裕而作品集〉
[Disc 13]〈歌謡曲編(9)〜服部良一作品集〉
[Disc 14]〈歌謡曲編(10)〉
[Disc 15]〈歌謡曲編(11)〉
[Disc 16]〈詩人の声〉〈朗読〉



317 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/13(Thu) 21:00
>>316

[Disc 16]〈詩人の声〉〈朗読〉
01はじめの詩
02奈良の一夜
03母の部屋
04哀唱 (歌:奈良光枝)
05関東大震災の一夜
06汽車の窓にて
07終戦の詩:ねずみとり〜秋風
08おわりの詩
〈回想〉
09「かなりや」について
〈対談〉
10サーカスの唄 (対談:古賀政男)
11ゲイシャ・ワルツ (対談:古賀政男)
12誰か故郷を想わざる(対談:古賀政男)
13旅役者の唄 (対談:古賀政男)
14伊豆の佐太郎 (対談:古賀政男)
15若鷲の歌 (対談:古関裕而)
〈お話〉
16ベルリン・オリンピックみやげ話



318 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/17(Mon) 09:31
西條八十は、わが国最初の芸術童謡「かなりあ」にはじまる数多くの童謡、「東京行進曲」「同期の桜」「青い山脈」「王将」ほか歌い継がれる流行歌など、生涯の作詞数は数知れない。研究者によると、童謡八五四篇(うち訳詞六十三篇)流行歌三千二百曲、校歌・社歌七百以上、計一万五千曲にのぼる。

歌謡分野では、特に長い歴史をもつ古賀政男とのコンビは黄金コンビと言われ、多くの作品を放つことで知られる。


319 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/17(Mon) 16:58
ttp://www.geocities.jp/jose_yacopi1977/2007_12_07malgorzata.htm

320 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/18(Tue) 12:59
佐藤惣之助    〜歌謡曲普及の功労者〜 >>312

古賀メロディーの作詞家を調べてみて驚くのは、名曲と言われる歌に「佐藤惣之助・作詞」というのがなんと多かったことか。古賀メロディーのヒットは、西條八十とともに、佐藤惣之助の日本人の心に訴える名詞があったことを否定できません。
昭和の日本人の古き良き哀歓を謳いあげ、今も延延と根強く愛唱されています。
一般庶民の生活を題材とした詞によって、歌謡曲を身近な音楽として大衆に普及させた功績は大きいです。

   藤山一郎・・・・「男の純情」 「青春日記」 「青い背広で」      
   ディックミネ・・・「人生の並木路」          
   霧島 昇・・・・ 「新妻鏡」
   楠木繁夫・・・・ 「緑の地平線」      
   村田英雄・・・・「人生劇場」                

72年前、太平洋戦争が始まって5ヶ月ほどした昭和17年5月15日(1942)、 佐藤惣之助(51歳)が、外出先の東京都大田区雪谷で、脳溢血のため亡くなりました。 2日前に義兄の萩原朔太郎の告別式があり、 佐藤はそこで葬儀委員長をやったというので、その時はまだ元気だったはずです。
佐藤惣之助 (1890〜1942) 詩人。神奈川県生まれ。民衆詩派系の人道主義詩人として出発
大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる

ttp://designroomrune.com/magome/daypage/05/0515.html
ttp://touyoko-ensen.com/syasen/tudukiku/ht-txt/tudukiku21.html




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