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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




234 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/29(Tue) 00:42
日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男

『古賀メロディ』と呼ばれたその作品は、昭和一桁時代から数多くの人に親しまれました。

その曲は底辺に寂寥感や哀愁を漂よわせたものが多く、それが同時代の日本人の心の琴線に触れて長く愛されて、日本歌謡史に多大の足跡を残しました。

その数多くのヒット作品、その多くは「映画主題歌」でもあります。「古賀メロディー」ほど多くのヒット曲を持つ作品群はありません。同時に「古賀メロディー」ほど、数多くの「映画主題歌」を持つものもありません。 

昭和6年、「チャッカリしてるわね」(天野喜久代歌)に始まり、「酒は涙か溜息か」(想い出多き女)「丘を越えて」、「鳩笛を吹く女の歌」(同、いずれも藤山一郎歌)など無声映画の時代から始まり、戦後30年代頃までよどみなく続きます。



235 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 20:41
戦中戦後における童謡について

ここで歌謡曲だけでなく昭和、戦中戦後の
ラジオで放送された児童のための童謡について触れる。

戦中から戦後にかけて、レコード童謡だけでなくラジオ放送に於いて、もっとも活躍した童謡作曲家は、「音羽ゆりかご会」主宰の海沼實だった。

<音羽ゆりかご会>は戦中戦後の一時期、昭和18年から昭和25年くらいまで、「東京放送児童合唱団」の名称でNHKラジオ放送で活躍した。現在も<音羽ゆりかご会>として存続する日本屈指の合唱団(大人の合唱団も含め)である。ゆりかご会という名称は、故郷の先達である草川信の名曲「ゆりかごの唄」に対する思い入れが感じられる。こうして海沼実の作曲家人生は、自身が創設した、<音羽ゆりかご会>とともに彩られることとなるが、海沼の名前があまり人口に膾炙していないのは川田三姉妹や<音羽ゆりかご会>があまりにも有名だったため、座付作者のような扱いを受けていたためかもしれない。

 海沼実は<音羽ゆりかご会>のために多くのオリジナル曲を作曲したが、またそのため多くの童謡詩人を発掘した。まず最初は同郷の童謡詩人山上武夫【1917年(大正6年)〜1987年(昭和62年)】である。山上は、海沼実が草川信に憧れたように、故郷の先達を頼って信州から上京してきた。そのころ海沼はすでに童謡を試作作曲しており<音羽ゆりかご会>に供給していたものの、詩を提供してくれる高名作詞家もなく、詞も曲も自分で作って色々と試作していて、あまり見るべきものは無かった。しかしその中で後に「からすの赤ちゃん」としてヒットした歌が生まれる。この作品を見ると、作曲は言うまでもなく、作詞に対する感性、いや童謡に対する感性が並々ならぬものであることが伺われる。
昭和13年の真夏、山上は暑さに辟易しながら新しい童謡制作に呻吟していた。海沼から二人で童謡を作ろうともちかけられていたのだ。詩は山上が作るので、海沼はアドバイスしながらも、待っているより仕方がない。二人で作るのはなかなか大変だ。詩と曲を息をあわせて作らないとうまくいかない。まるで駕籠屋みたいだ。海沼との話し合いにあれこれ想いに耽っていた山上は、嫁ぎ先の姉の家の裏庭を出て故郷の方の空を見ながら、あの山の猿は今頃どうしているかな、と考えていた。途端、「そうだ!お猿が駕籠を担ぐようにしてみよう!」書き上げたのをすぐに海沼に渡し、海沼が曲を付けて出来上がったのが「お猿のかごや」。これは日中戦争の始った年であったが、全国的にヒットした。海沼実としても童謡作家としてやっていける自信を感じた最初の一作だった。その後も山上武夫とのコンビで多数の童謡を作ったが、ヒットは昭和20年の「見てござる」まで待たねばならなかった。
次に発掘したのが滋賀県日野町出身の細川雄太郎【1914年(大正3年)〜1999年(平成11年)】である。細川が「泣く子はだあれ」「ちんから峠」を作詞して童謡雑誌『童謡と唱歌』に発表したのが昭和14年。「お猿のかごや」から一年たって、海沼は、曲をつけられる童謡作家の詩を探していた。そこで見つけたのが細川の、<泣く子はだあれ>という詩だった。時節柄ということもあるし、曲も明るいものの方が良いだろうというディレクターの提言や、海沼の、<だあれ>は音が汚いし、音楽に乗りにくい部分を修正したほうがいいとしたアドバイスでできたのが「あの子はたあれ」という歌だった。同年、「ちんから峠」とともにヒットし世に歌い継がれる童謡となっている。海沼実は終戦前後の童謡・流行歌不毛の時期に、日本人に癒しと希望の歌を送った作曲家であった。



236 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 20:41
海沼實は、 昭和戦後期の童謡作曲家としては最も多く愛唱された作品を持つことから「最後の童謡作曲家」と呼ばれ、川田三姉妹の発掘や、結成した音羽ゆりかご会を通して、戦後童謡黄金期を形成した作曲家としての功績は日本童謡界において屈指のものと評価されている。
現在でもYou Tubey等で聞くことができる。

『またあしたね』作詞:横堀恒子
『あの子はたあれ』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『めだかの幼稚園』作詞:斎藤信夫
『花屋さん』作詞:高田三九三
『つばめの旅』作詞:三苫やすし
『お猿のかごや』昭和13年、作詞:山上武夫
『ちんから峠』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『やさしいお母さま』昭和15年、作詞:稲穂雅己
『からすの赤ちゃん』昭和16年、作詞:海沼實
『またあしたね』作詞:横堀恒子
『あの子はたあれ』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『めだかの幼稚園』作詞:斎藤信夫
『花屋さん』作詞:高田三九三
『つばめの旅』作詞:三苫やすし
『お猿のかごや』昭和13年、作詞:山上武夫
『ちんから峠』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『やさしいお母さま』昭和15年、作詞:稲穂雅己
『からすの赤ちゃん』昭和16年、作詞:海沼實



237 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 20:48
1943年(昭和18年)、当時の日本放送協会(NHK)が放送合唱団を公募し、スタジオでの厳正なる審査の結果、「音羽ゆりかご会」を「東京放送児童合唱団」として任命。
同合唱団は戦中戦後のラジオ放送に大きく貢献した。

1951年(昭和26年)には、NHK独自の児童合唱団として再編成された、昭和27年3月に「NHK東京放送児童合唱団](現在の東京児童合唱団)を編成した。

NHK東京放送児童合唱団は、『みんなのうた』『歌のメリーゴーラウンド』など、同局の音楽番組、教育番組に出演、現在に至る。

「東京放送児童合唱団」が戦中・戦後にかけて多くのNHKラジオ番組に貢献した。「前線へ送夕べ」「農村へ送る夕べ」・・
. まだテレビもない時代、戦中戦後はひたすらラジオ放送がすべてでした。

「農村へ送る夕べ」の主題歌・農家のみなさんこんばんは・・♪農家の 皆さん今晩は一日お仕事ご苦労さんお疲れ直しのこの時間ラジオのおそばにさあどうぞ ♪ ...

農村へ送る夕べ

♪農家の皆さん今晩は
一日お仕事ご苦労さん
お疲れ直しのこの時間
ラジオのおそばにさあどうぞ♪
 
まだまだ雑音が多く聴きづらいものだったが、夕食後の大きな楽しみが増えた。「戦地へ送る夕べ」、「農家へ送る夕べ」には、多数の有名歌手がでていた。
なかでも「童謡歌手川田正子」が歌うテーマソング「戦地(農家)の皆さん今晩は、今日も一日ごくろうさん、お疲れ直しのこの時間、ラジオのおそばにサァーどうぞ」のメロデーが鮮明に残っている。

敗戦直後のNHKのラジオ番組「農家に送る夕べ」のテーマソング(作詞:山上武夫 作曲:海沼実)でした。
当時は食糧難で、NHKも農家に気をつかって特別番組を用意していたようです。

戦後の食糧難の時代、ラジオで流れてくる ♪農家の皆さん今晩は 一日お仕事ご苦労さん・・の唄声に農家のみなさんは仕事に励めたそうだ。






238 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 20:51
敗戦後の童謡の盛衰

敗戦直後には、海沼實を中心としたレコードとラジオ放送とが連携したいわゆる「レコード童謡」が復興し、第二の童謡黄金時代、戦後童謡黄金時代と言われた。
「レコード童謡」という言葉には、すでに軽蔑の響きがあるが、1955(昭和30)年、それまで童謡界をリードしてきた海沼實、中山晋平、河村光陽、山口保治らの作品に対し、童謡等の実績を持たなくNHKラジオ子供の歌番組に拠る若手音楽家グループたちが、「童謡」に対し「幼稚な歌詞」を持つ「子どもの歌謡曲」「営利目的の「レコード童謡」」として厳しく批判し排斥運動(童謡排斥運動)を起こしたのだ、その中心になったのが中田喜直ら「ロバの会」だった。彼らは、「童謡」という用語そのものも過去の遺物として、これを否定して幼児を対象とした「新しい子どもの歌」をつくろうとした。まあ、実績の無い自分たちのためのめだったのだ。

「ろばの会」に結集した若手の二世作曲家たちであった。ろばの会では、「童謡」という言葉を嫌って、もっぱら「(新しい)こどものうた」としたが、それは従来の「(レコード)童謡」に対決する姿勢を強く打ち出そうとしたからである。また、「ろばの会」の会員ではなかったが、「うたのおばさん」を通して童謡の作曲に深く関わった團伊玖麿、次のように述べている。「戦後、私たちがNHK「うたのおばさん」を舞台に新しい子どもの歌を作り始めたとき、あえて童謡という言葉を使わなかったのは、戦前のレコード童謡への反発があったからでした」。しかし、このレコード童謡への反発と否定は、正当な部分はあったがにいても、このあとその排斥した「童謡」の名をかたって「童謡協会」を作って会長に収まったという、辿った歴史を見ると、行き過ぎのところ、自分たちのためという動機不純なところがあったと言わざるを得ない。

昭和44年(1969年)に童謡の再興を期して「日本童謡協会」が設立され海沼は常任理事に、加藤は事務局長に就任した。
しかし、役員の人選をめぐってもめた。初代会長サトウハチロー、二代目中田喜直)

2年後の総会の翌日、海沼は過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。「憤死」に近い。
加藤は代表作「みかんの花咲く丘」が酷評されたことに、生涯を通じて心を痛めた。死の1ヵ月前、美知子さんの運転で故郷の富士市に行く途中、助手席でふと「あのとき、あの歌を作って良かったんだよな」とつぶやいた。「自分に問いかけ、自分を納得させるような口ぶりでした」と美知子さんは思い起こす。「父も海沼さんも川田さんも、みんな純粋で一途でした」と続けた。

彼らは、「あたらしいこどもの歌」を排斥した「童謡」といいかえた。

「童謡」が「童謡」を排斥した「ロバの会」の延長メンバーによる「童謡協会」に乗っ取られたのだ!・

ここに童謡運動は終焉を迎えた。

しかし、その「あたらしいこどもの歌」も今歌われていない。知る人もいない。

真に心がこもったものでない限り、時代を超え、世代を越えて受け容れられることは無い。
このことを、これはものがたっている。




239 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 21:05
「童謡」は人の心を豊かにします。しかし、『童謡』と彼らが自分たちの領分を勝ち取ろうとした「あたらしいこどもの歌」とは似て非なる別物だった。

寺山修司は、その編著「日本童謡集」〈光文社カッパブックス1972〉と言う本の最初で、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」と。

「童謡協会」と言うのは、『童謡』には関心が無いらしく、「童謡200選」の中で、童謡は「里の秋」あたりまで60曲弱。全体のわずか30%弱と、申し訳程度の扱いで、戦後の「童謡」、戦後の「童謡黄金時代」と言われた『童謡』がごっそり抜け落ちてカバーされて無いのです。

『童謡』は日本の文化です。童謡は主に大正時代に大方作られた、名曲童謡と言っているおののはかに、実際は昭和に入ってからも昭和10年代以降も、たくさん作られ歌われたのでした。より生活に密着してきて、特に戦後、昭和20年代、30年代、「童謡黄金時代」と言われ「童謡」が花開いた時代と言えるでしょう。まだ日本がまだ貧しかった時代、草深く、食糧難の時代、多くの童謡歌手の歌声に、人々はどんなに心慰められたことでしょう。

昔は「りんごのひとりごと」〈河村光陽〉「やさしいお母さま」(海沼實)「ないしょ話」)結城よしを作詞・山口保治作曲)「あの子はだあれ」「母さんたずねて」・・「船頭さん」「仲良し小道」「夕日」、『かわいい魚屋さん』(加藤省吾・作詞)などが盛んに歌われたものです。

童謡・・そこには「人」(人と人との情愛)が醸し出されてくるのです。「りんごのひとりごと」昭和20年代、30年代にかけてよく歌われたものでした。
今でこそリンゴなど誰も見向きもしないが、昔日本がまだ貧かった時代,流通も今ほどでなく貧しい家庭が多かったでしょうから高価で貴重品だったろう。リンゴは、子供が風邪をひいた時に、お母さんが枕元に出してくれたものだったようで、特別な思いもあったとう。

さっちゃんだとか、ぞうさんとか、他愛もない小さなこどもの歌とは歌の思いが違うのです。

「あたらしいこどもの歌」は、学齢前の幼児を対象としたものです。「童謡」は子供であっても、ある程度年齢がいったものでないといけないもの。





240 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 21:12
日本童謡協会は、昭和44年(1969年)4月に設立された。会長任期は二年で、初代会長はサトウハチロー、そして第2代会長は中田喜直、第3代会長は湯山昭。「童謡」を排斥した中田喜直、湯山昭ら『童謡』を排斥の中心にいた者が会長となり、日本の文化である「童謡」を乗っ取ったのだ。日本の童謡史に残る、許されざる恥ずべきこと、童謡の歴史を汚す童謡史に記録されるべき汚点である。
会の目的としては、童謡の振興発展を図ること、童謡著作者の生活権および著作権を擁護すること、音楽文化の向上に寄与することなどが謳われ、平成元年(1989年)から社団法人日本童謡協会となり今日に至る。

しかし、[童謡]はかっての[童謡] ではなく、幼児対象の「あたらしいこどもの歌」を,そのまま「童謡」と言いかえただけのものだった。

会員数は詩人、作曲家合わせて400名を超えているが、「日本童謡協会」は、批評家や研究者を入会させず、作品の鋭い批評にも踏み込まず、「職能擁護的な会」と言われているようだ。
この第二代会長・中田喜直を選んだ総会の翌日、「最後の童謡作曲家」と言われ、戦後の童謡黄金時代を築いた作曲家・海沼實は、過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。そして次も同じ童謡を排斥した湯山昭が選ばれた・・・・。

いまどんな活動をしてるのかどうかしらない。
しかし新しい子供の歌というのが歌われているのはきたことがない。

大正時代に始まった幾多の先人が取り組んだ、日本の文化でもある童謡運動は、ここに終焉を迎えることになったのだ。





24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/29(Tue) 14:46
日本童謡協会は、昭和44年(1969年)4月に設立された。会長任期は二年で、初代会長はサトウハチロー、そして第2代会長は中田喜直、第3代会長は湯山昭。「童謡」を排斥した中田喜直、湯山昭ら『童謡』を排斥の中心にいた者が会長となり、日本の文化である「童謡」を乗っ取ったのだ。日本の童謡史に残る、許されざる恥ずべきこと、童謡の歴史を汚す童謡史に記録されるべき汚点である。
会の目的としては、童謡の振興発展を図ること、童謡著作者の生活権および著作権を擁護すること、音楽文化の向上に寄与することなどが謳われ、平成元年(1989年)から社団法人日本童謡協会となり今日に至る。




25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/29(Tue) 14:48
しかし、[童謡]はかっての[童謡] ではなく、幼児対象の「あたらしいこどもの歌」を,そのまま「童謡」と言いかえただけのものだった。

会員数は詩人、作曲家合わせて400名を超えているが、「日本童謡協会」は、批評家や研究者を入会させず、作品の鋭い批評にも踏み込まず、「職能擁護的な会」と言われているようだ。
この第二代会長・中田喜直を選んだ総会の翌日、「最後の童謡作曲家」と言われ、戦後の童謡黄金時代を築いた作曲家・海沼實は、過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。そして次も同じ童謡を排斥した湯山昭が選ばれた・・・・。

大正時代に始まった幾多の先人が取り組んだ、日本の文化でもある童謡運動は、ここに終焉を迎えることになったのだ。




241 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 22:04
童謡、童謡協会とサトウハチローについては

>>161 ☆サトウハチローと「童謡」  参照


242 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/05(Tue) 14:08
サトウハチローは「童謡協会」に利用されたのでしょう。

初代会長にはサトウハチローを、二代目は中田喜直。以後、湯山昭、「童謡協会」は「童謡」を完全にのっとった。
その代わり、童謡協会もいまや完全に過去のものとなり顧みる人もいない。

何であっても、真に心からのものでなければ、聞く人の心を捉え続けることはできない。

この「ロバの会→童謡協会」の「童謡のっとり」は、自らのためであり、こどものためでなかった。

そのことを教えている。

「童謡」に限らない、「歌謡」の世界でも同じ。

真に心からのものでなければ、聞く人の心を捉え続けることはできない。

それはいまや顧みる人もいない職能擁護的団体と化した、今の「童謡協会」の現状を目のあたりにすれば、よくわかる。


You Tubeには過去の本物の童謡があふれている。

243 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/10(Sun) 18:20
・CD[西條八十全集  生誕百年](CD16枚)(1992/10/1) ・発売元:日本コロムビア(株)
 童謡から新民謡,歌謡曲までを手がけた詩人・西條八十生誕100年記念の全集です。日本コロムビア,ビクター,キング,ポリドールなどのオリジナル音源を収録し,八十自身による詩の朗読や古賀政男,古関裕而との対談まで収録した文字通りの全集です。昭和の歌謡曲を作った中山晋平,古賀政男,古関裕而,服部良一らとのコンビによる作品集も編まれている。昭和の戦前・戦中・戦後を色どった歌の多くが西條八十の詞であった。時代の気分を反映した歌謡曲の詞を書いただけに批判される面もあるが,昭和の唄そのものであることは間違いない。付録のブックレットは八十資料としても貴重な内容。昭和を生きた日本人の心を洗う唄ばかりです。

・CD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]日本コロムビア
 発売日:1998年7月18日  CD16枚、
 昭和の大衆歌謡を象徴する作曲家・古賀政男の作品を,彼が活躍したビクター,コロムビア,テイチクから集めた文字通りの大全集。戦前の彼の曲は実にモダンなサウンドで,ギターやマンドリンなどを使い,当時としては新鮮で心地好い都会的なサウンドによる歌謡曲を作り出している。



244 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/10(Sun) 18:22
日本コロムビア創立100周年記念 藤山一郎生誕100年記念 (決定盤)国民的歌手 藤山一郎全集(上/下)~栄光の軌跡~
上 CD6枚
下 CD3枚


245 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/10(Sun) 18:35
生誕100年国民的作曲家 古関裕而全集(CD)
 CD139曲CD6枚DVD1枚 コロムビア 2009年8月5日発売

決定盤 服部良一 〜僕の音楽人生〜(CD)
アーティスト名:服部良一
CD 3枚組 63曲 D3937 COCA-71103 コロムビア2006年9月27日発売


246 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/12(Tue) 09:24
(参考)

古茂田信男「日本流行歌史・戦前編」(社会思想社1981)

数多くの戦前の歌が歌詞とともにまとめられている。

247 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/12(Tue) 18:42
(参考)

時雨音羽編『日本歌謡集−明治・大正・昭和の流行歌』(現代教養文庫)(社会思想社1963)

ASIN: B000JAHOT6
書誌ID 000001285505 

454ぺージの文庫本、数多くの戦前の歌が歌詞とともにまとめられていて貴重。
国立国会図書館ディジタル化資料。




248 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/13(Wed) 00:11

 主な索引 >>211

249 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/13(Wed) 00:34
索引

主な索引 >>211

>>219-220 古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>227-232 昭和のSPレコード歌謡、それは「三分間の芸術」ともいわれる。
>>235-242 戦中戦後における童謡について(童謡排斥運動と童謡協会の発足)


250 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/15(Fri) 17:12
>>243-245 CD全集 西條八十、古賀政男、藤山一郎等
>>246-247 日本流行歌史・戦前編
     日本歌謡集−明治・大正・昭和の流行歌

251 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/17(Sun) 22:17
(参考)

テイチク50年史・・

テイチク社史編纂委員会編「レコードと共に五十年」(テイチク株式会社1986)
142ページ

昭和9年(1934)2月設立したテイチクレコード50年史

コロムビア社を退社し、同社に重役待遇で招聘された古賀政男は同9年5月テイチク東京文芸部(古賀文芸部)発足させ、
いわゆる「テイチク黄金時代」を築いた、

252 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/17(Sun) 22:29
南口重太郎が奈良で蓄音機、レコード事業に進出したのは昭和六年である。三年間、浪花節で事業基盤を作ってきた。古賀政男を迎えて東京に進出し、正式に帝国蓄音器株式会社を創立したのは昭和9年2月11日である。
帝蓄は創立間もないころ日活と映画主題歌獲得のためのタイアップをまとめていた。音楽制作費を帝蓄が負担する条件で提携したのである。

古賀政男は帝蓄に入ってから藤山一郎のビクターの契約切れを待っていた。古賀は茂木了次を説得にあたらせた。古賀は一作家ではなく、帝蓄専務の立場だったから、条件交渉もその場で決着をつけられたから話は早かった。
古賀、藤山の第一作「東京ラプソディー」(門田ゆたか作詞)は、コロムビア文芸部首脳が青ざめるほどの大ヒットになった。創業まもない小さなレコード会社だった帝蓄は、古賀のお陰でレコードメーカーとしての基盤を築き、驚くほど短期間に黄金時代を築いてしまった。


253 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/18(Mon) 21:52
・1931年2月、吉川島次と、南口重太郎が合資会社帝国蓄音器商会を設立した。
・1934年5月、日本コロムビアから作曲家の古賀政男を引き抜き重役(専務取締役)とし、録音技師と社員も呼び寄せた。
・東京進出に際して文芸部を銀座に、録音スタジオを杉並堀之内に置く。楠木繁夫、松島詩子を専属として主力歌手とし、年末にはディック・ミネも専属とした。
・1934年(昭和9年)7月、古賀政男テイチク専属第1回発売新譜4曲のひとつ佐藤惣之助作詞、楠木繁夫『国境を越えて』。
・1936年、藤山一郎、美ち奴が入社。本店を奈良市肘塚町へ移転し、工場も設備拡大を行う。
・1938年、古賀政男退職。
・ 1944年5月25日 帝蓄工業株式会社と改称。
・1953年4月1日 社名をテイチク株式会社に変更


254 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/20(Wed) 23:50
コロムビア専属だった古賀政男がテイチクレコードへ重役として迎えられたのは病気療養後の昭和9年のことだった。翌十年からの作曲活動はまことに目覚ましく、最初の仕事の「白い椿の唄」(楠木繁夫)につづき、「ふたりは若い」(ディックミネ・星玲子)「緑の地平線」(楠木繁夫)「東京ラプソディー」(藤山一郎)「ああそれなのに」(美ち奴)「うちの女房にゃ髭がある」(美ち奴・杉狂児)「男の純情」(藤山一郎)「人生の並木路」(ディックミネ)「人生劇場」(楠繁夫)…と、退社する13年までテイチクの黄金時代を築いた。
昭和12年に作曲した「青い背広で」も藤山一郎の歌で、若いファンを魅了したが、 この歌を作詞した佐藤惣之助は神奈川県川崎生まれ。大正末期、新感覚派運動の最先端を行って注目された詩人。昭和に入ってからフリーの流行歌作詞家として活躍した。

255 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/22(Fri) 15:15
古賀メロディー乗せて JR桜井線 京終駅

朝日新聞デジタル
2009年1月10日


JR京終駅の構内には、かつて貨物列車を引き込んだレールが残る。隣の本線を電車が通り過ぎていった。

京終駅の乗降客は少ない。鉄道好きの親子が訪れ、ホームで電車を眺めていた=いずれも奈良市南京終町

夕日を浴びながら京終駅近くを走る電車=奈良市北永井町

奈良町には昔ながらの路地が残る。観光客が着物姿で散策していた=奈良市餅飯殿町

京終駅にある路線案内板。読みにくい駅名が並ぶ

   
フォトギャラリー
 平城京の中心部から南東へ約4キロ。京終(きょうばて)という地名がついたのは、奈良の都の果てに位置したからだ。
 
 昭和の初め、ここから多くの歌声が全国に発信され始めた。

 レコード化されるのはジャズやシャンソンが中心だった当時、奈良で蚊帳を製造していた南口重太郎(なんこう・じゅうたろう)は歌謡曲を広めたいと考え、1934(昭和9)年に帝国蓄音器(現テイチクエンタテインメント)を創立。2年後に本社を京終駅の近くに置いた。

 南口は会社創立のころ、偶然を装い、大手レコード会社の人気作曲家だった古賀政男に伊東温泉の湯で声を掛けた。「奈良でオモチャみたいなレコード会社をやっております。先生に来ていただいたら『掃きだめに鶴』や思いまんねんけどいかがでしやろか」。この引き抜き話に応じた古賀は後年、「裸の時は素直に心が和む」と南口の作戦を回想したという。

 藤山一郎が歌った「東京ラプソディ」、美(み)ち奴(やっこ)の「ああそれなのに」、ディック・ミネの「人生の並木路(なみきみち)」……。古賀作品を得たテイチクはヒット曲を連発した。

 録音スタジオは東京の他に京終の本社にもあった。「線路が近いため蒸気機関車の音が入り、やり直しがよくあったらしい」と工場長などを務めた岡田守隆さん(71)。資料は残っていないが、できあがったレコードは京終駅から貨物列車に積み込まれ、各地に発送されたのだろう。



256 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/23(Sat) 10:24
索 引 (主なもの)

>>2  影を慕いて
>>23 古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)
>>31 西條八十は
>>37 詩人・佐藤惣之助は
>>46 「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
>>95 古賀政男アメリカへ
>>101 日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
>>112 初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
>>114 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>117 古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
>>118 李香蘭と古賀メロディ
>>120 古賀メロディと霧島昇
>>121 古賀政男と「荒城の月」
>>122-123 「荒城の月」について
>>124 三浦環と古賀政男
>>127-130 西條八十と古賀政男
>>133-148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>134 昭和戦前の作曲家
>>135 昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)
>>136 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>138 「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・
>>139 関 種子と「古賀メロディ」
>>140 古賀メロディと藤山一郎
>>141 藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
>>143 テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ
>>145 テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫
>>146 楠木繁夫の代表曲
>>147古賀メロディと霧島昇
>>148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>149 関 種子と「古賀メロディ」2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手
>>152 「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」
>>153 佐藤千夜子と古賀政男
>>155-157 佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
>>158 詩人・サトウハチローと古賀メロディ
>>160 サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
>>161 サトウハチローと「童謡」
>>164 佐藤惣之助没後70年
>>165 佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
>>166 「古賀政男音楽博物館」
>>167 古賀メロディの戦後
>>168-169 戦後の主な古賀メロディ・・
>>170 萩原朔太郎と古賀メロディ
>>172 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>173 名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
>>174 詩人・佐藤惣之助
>>175 古賀メロディ、その隠れた名曲!・・沖縄民謡となった《二見情話》など
>>176 古賀政男編曲作品
>>177 二見情話(HUTAMI JOOWA) 沖縄民謡
>>178 古賀メロディを支えた主な名歌手たち
>>179 「古賀政男」のドラマ
>>180 「古賀メロディ」と、その秘密
>>181 古賀メロデー)とは
>>183 藤山一郎と増永丈夫
>>185 「古賀政男と「荒城の月」 2  ・・・李香蘭と[荒城の月]
>>186 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>188 古賀政男生誕100年記念CD
>>190 嘆きの夜曲 関種子.wmv
>>191 SPレコード歌謡とSPレコード
>>193? [古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
>>196 古賀メロディとその時代
>>198-201 新妻鏡
>>202 松平晃 サーカスの唄
>>205 ビクター専属藤山一郎への対抗
>>106-111 古関祐而と古賀政男
>>215-216
>>219-220 古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>227-232 昭和のSPレコード歌謡、それは「三分間の芸術」ともいわれる。
>>233 書籍名 『東アジア流行歌アワー――越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)
>>234 日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男
>>235-242 戦中戦後における童謡について(童謡排斥運動と童謡協会の発足)
>>243-245 CD全集 西條八十、古賀政男、藤山一郎等
>>246-247 日本流行歌史・戦前編
     日本歌謡集−明治・大正・昭和の流行歌
>>251-255 テイチク50年史・・

この他もあります。

257 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/23(Sat) 10:28
参考

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258 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/23(Sat) 21:19
>>193-195 [古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)


259 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/24(Sun) 11:04
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。


260 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/24(Sun) 12:13
懐メロには小節(しょうせつ・。ぶしともいうことがある)が多く使われています。特に古賀政男は、5連符6連符といった小節を多く用いました。デッィク・ミネが古賀政男に流行歌を進められた時、「私はジャズ歌手なので小節(こぶし)が苦手でして」と躊躇したと伝え聞いています。

小節が廻るとは4部音符2部音符のように長い音符の小節(しょうせつ)に比べて16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげることだと思います。

5連符6連符といった小節を多く用い、16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげ、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、あの独特の哀調を帯びたメロディ、人はそれを「古賀メロディ」と呼んで支持したのです。

ジャズなど洋楽には日本の流行歌のような小節(こぶし)の小節(しょうせおれをつ)はないですね。演奏するにも歌うにも、「古賀メロディ」は難しいと思います。
初期の頃、古賀政男は自らのギターなど伴奏で多数録音しています。ほかに、自らの明大マンドリンクラブを引きつれ、あるいは名前を変えて録音しています。

古賀政男はギターやマンドリンの名手でもあり、演奏家でもありました。こうした難しい歌は、藤山一郎とか席種子をはじめ、淡谷のり子、楠木繁夫、霧島昇など音楽学校出身歌手によって支えられていたのです。


261 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/24(Sun) 12:18
訂正
×席種子 ○関種子

262 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/24(Sun) 21:45
日本の「流行歌」(歌謡歌曲)独特のもので、ジャズやポピュラーは、もちろんクラッシックを含め外国系にはありません。
参考までに、よくクラッシックの香りとか格調と言われるのも、こうした意味合いではないでしょうか。

263 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/25(Mon) 00:21
日本以外、世界のどこを探しても無い、日本の文化ですね。

264 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/25(Mon) 13:48

昭和の流行歌(レコード歌謡)というのは、クラッシックを基調とした洋楽。
しかし、「歌詞」(詩)を持つ「歌謡」であると言う点で、クラッシックそのものとは根本的に大きく異なるもの。



265 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/26(Tue) 20:33
☆中山晋平と「ゴンドラの唄」


中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千代子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

その後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、ビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原生活秋 作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。
以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。

晋平が、昭和27年の暮、東京の映画館で黒沢監督の名作「生きる」を観ます。主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

昭和27年12月2日、ある恩人の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした28日後、今から61年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは《誰でも歌える歌ずくり》でした。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
1942年(昭和17年)、日本音楽文化協会理事長に就任。同年、日本音楽著作権協会理事長、1948年(昭和23年)同会長となる。
抱月・須磨子の死のあと晋平は藝術座を離れ、西条八十、野口雨情、北原白秋らと組んで精力的に童謡を作曲してゆく。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。


266 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/26(Tue) 20:39
訂正

「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晋平作曲)



267 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/26(Tue) 21:22
訂正
昭和23年「日本音楽著作権協会会長」等の要職を歴任します

268 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/03(Tue) 10:58
>>259,>>265

古賀メロディが、[古賀メロディ] という愛称で呼ばれ、広く一般化するきっかけとなるのが、

『中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ』との新聞報道とすれば、昭和7,8年。

今から80年くらい前となる。


これに対し、その他に対して何でも後ろに「メロディ」をつけるのは、「懐メロブーム」が起こる戦後も昭和40年代以降の話し。


269 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 09:13
☆昭和SP歌謡  主な歌手(戦前・戦中) 1,

「昭和」と言う、まだ日本がまだ草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、レコード歌謡が花開き、人々に迎えられたのです。SPレコードの時代です。
その歌手の多くは音楽学校出身者でした。以下にその主な歌手と主な歌を。

佐藤千代子(1897-1968)(東京音楽学校)波浮の港、東京行進曲、当世銀座節、
レコード歌手第一号、大正から昭和の初めにかけて、中山晋平の歌を世に広めた歌手です。古賀政男の才能を発見したことで、日本の大衆音楽史の中で忘れてはならない歌手です。
童謡、新民謡、歌曲、歌謡曲、新日本音楽など100曲を超えるレコードを残しいている。


藤原義江(1898−1976)     出船の港、 波浮の港、鉾をおさめて、出船,特幹の歌
二村定一(1900-1948)   私の青空、アラビアの唄、君恋し、神田小唄
内海一郎(宇津美清)(1898―1972)(東京音楽学校)道頓堀行進曲、銀座行進曲
天野喜久代(1897-1945)(帝劇歌劇部)私の青空、アラビアの歌、チャッカリしてるわね
曽我直子(1905−1995)  (東洋音楽学校)蒲田行進曲、沓掛小唄、明眸花の唄、
藤本二三吉(1897-1976)     祇園小唄、唐人お吉小唄(明烏篇)
河原喜久恵(1902-1997) (東京音楽学校)麗人の唄、月の浜辺、無憂華の唄
四家文子(1906−1981) (東京音楽学校)銀座の柳、踊り子の唄、不壊の白珠
徳山l(たまき)(1903−1942)(東京音楽学校)侍ニッポン、天国に結ぶ恋、隣組
関 種子(1907-1990)  (東京音楽学校)窓に凭れて、嘆きの夜曲、あけみの唄、
藤山一郎(1911-1993)  (東京音楽学校)酒は涙か溜息か、丘を越えて、影を慕いて
松平晃(1911-1961)   (東京音楽学校)サーカスの唄,望郷の唄、人妻椿
淡谷のり子(1907-1997) (東洋音楽学校)私この頃憂鬱よ、佳人よ何処へ
羽衣歌子(1902−1979) (東洋音楽学校)女給の唄、
中野忠晴(1909-1970)(武蔵野音楽学校)山の人気者、高原の唄、歓喜(よろこび)の歌
ミス・コロムビア(松原操) (1911−1984)(東京音楽学校) 十九の春、旅の夜風、目ン無い千鳥
楠木繁夫(1904-1956)  (東京音楽学校)緑の地平線、女の階級、人生劇場
新橋喜代三(1903-1963)    明治一代女、 酋長の娘
和田春子(渡辺光子)(1906−2003)幌馬車の唄、強くなってね、
二葉あき子(1915-2011) (東京音楽学校)あの花この花、新妻鏡、春よいづこ
小唄勝太郎(1904-1974) 島の娘
東海林太郎(1898-1972) 赤城の子守唄,国境の町、すみだ川,旅笠道中、野崎小唄
上原  敏(1908-1944)  妻恋道中、裏町人生、流転
児玉好雄(1909-1986)  無情の夢 
林伊佐緒(1912-1995)  出征兵士を送る歌
美ち奴 (1918〜1996)  ああそれなのに、うちの女房にゃ髭がある
杉狂児(1903−1975)  (東京音楽学校)うちの女房にゃ髭がある
由利あけみ(1913-)(東京音楽学校)黒いパイプ、愛国六人娘、茶坊の花、長崎物語、
ディック・ミネ(1908−1991)二人は若い、愛の小窓、人生の並木路、ゆかりの唄
霧島昇(1914-1984)   (東洋音楽学校)誰か故郷を想わざる,新妻鏡、旅の夜風
李香蘭(1920−)  迎春花、紅い睡蓮、夜霧の馬車、サヨンの歌、蘇州夜曲
奥田瑛子(1907- ) 緑の月、別れの歌、南国の乙女、浜辺の哀唱
奥山彩子(1916-)    (東洋音楽学校) 蛇姫絵巻,母立つ丘、興亜三人娘
菊池章子(1924--2002)  (東洋音楽学校)相呼ぶ歌、愛馬花嫁、馬、湖畔の乙女
渡辺はま子(1910-1999) (武蔵野音楽学校)サヨンの鐘,蘇州夜曲、夏子の歌
三原純子(1920−1959)  南から南から、固い約束
市  丸(1906−1997)   天竜下れば、濡れつばめ
松島詩子/千早淑子(1905-1996)  マロニエの木陰、夕べ仄かに 
伊藤久男(1933-1983)(帝国音楽学校)暁に祈る、白蘭の歌、熱砂の誓い(建設の歌), 馬


270 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 09:14
2、
志村道夫(1914-)     (東京高等音楽学院) 蛇姫絵巻
有島通男(1911-)    (東洋音楽学校)春まだ浅く
小林千代子(1910−1976) (東洋音楽学校)涙の渡り鳥、 旅のつばくろ
小夜福子(1909-1989)    (宝塚音楽歌劇学校)小雨の雨
高峰三枝子(1918-1990)  純情二重奏、南の花嫁さん、湖畔の宿
能勢妙子(1915-1999)   あなたなしでは
伏見信子(1915−)    あの夢この夢、花言葉の唄、初恋日記
北廉太郎(1920-1940)   潮来夜船,青春の丘
奈良光枝(1923-1977)   青い牧場、祖国の花、勝利の日まで
井口小夜子(1914-2003) (武蔵野音楽学校) 乙女十八,ねんねのお里、
轟由紀子(1917−1967) (宝塚音楽歌劇学校) お使いは自転車に乗って、 祖国の花
波平暁男(1915−1983) (東京音楽学校)    月夜船、勝利の日まで
近江俊郎(1918−1992) (武蔵野音楽学校)   明日もまた、勝利の日まで
灰田勝彦(1911−1982)  煌く星座、鈴懸の径
高田浩吉(1911−1998)  大江戸出世小唄、故郷の唄
田端義夫(1919−2013)  大利根月夜、シンガポールだより  
小畑 実(1923−1979)  勘太郎月夜唄,湯島の白梅
岡晴夫 (1916-1970)   上海の花売り娘、港シャンソン


(参考)
東京音楽学校  (現 東京藝術大学音楽学部)
東洋音楽学校 (現 東京音楽大学)
武蔵野音楽学校(現 武蔵野音楽大学)


271 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 22:37
3、追加
内田栄一(1901−1985) (東京音楽学校) 起てよ一億
中村淑子(1911− ) (東京音楽学校) 愛国行進曲、日の丸行進曲
伊藤武雄(1905-1987) ) (東京音楽学校) 愛馬進軍歌
酒井 弘(1914-1996)   (東京音楽学校) ああ紅の血は燃ゆる、働く力
波岡惣一郎(1910−1951) (東洋音楽学校)かちどきの歌、興亜行進曲、日の丸行進曲
永田絃次郎(1909−1985)  出征兵士を送る歌
大谷冽子(1919−2012)   (武蔵野音楽学校)ジャワのマンゴ売り
結城道子(1908−?)    (東京高等音楽学院)裏町人生
三島一声(1889-1974)  東京音頭
小笠原美都子(1920-)  十三夜
青葉笙子(1918-2012)    鴛鴦道中
川端文子(1916−2007) 上海リル、青空
三門順子(1915−1954)   愛国千人針
服部富子(1917−1981)   満州娘
江戸川蘭子(1913-1990) (日劇音楽舞踊学校)上海リル
小野 巡(1910−2009)    祖国の護り
塩まさる(1908-2003)    九段の母、
樋口静雄(1911−1973)  チンライぶし、緑の幌馬車、田園交響楽
赤坂小梅(1906−1992)   ほんとにそうなら、
豆千代(1912−2004)   夕日は落ちて
市丸(1906−1997)     天龍下れば、ちゃっきり節
音丸(1906―1976)     船頭可愛や、下田夜曲





272 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 22:50
>>269-271 昭和SP歌謡  主な歌手(戦前・戦中)

273 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 23:07
古賀政男総合スレ 
ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/

274 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 16:43
>>259-264「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」
>>265-268「中山晋平と「ゴンドラの唄」



275 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 16:58

《索 引》 

    (主なもの)>>256,
>>258,>>272,>>274

(その他もあり)

 検索法   >>257



276 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 20:32
《索  引》 (参考・主なもの)>>275

>>2  影を慕いて
>>23 古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)
>>31 西條八十は
>>37 詩人・佐藤惣之助は
>>46 「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
>>95 古賀政男アメリカへ
>>101 日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
>>112 初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
>>114 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>117 古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
>>118 李香蘭と古賀メロディ
>>120 古賀メロディと霧島昇
>>121 古賀政男と「荒城の月」
>>122-123 「荒城の月」について
>>124 三浦環と古賀政男
>>127-130 西條八十と古賀政男
>>133-148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>134 昭和戦前の作曲家
>>135 昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)
>>136 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>138 「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・
>>139 関 種子と「古賀メロディ」
>>140 古賀メロディと藤山一郎
>>141 藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
>>143 テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ
>>145 テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫
>>146 楠木繁夫の代表曲
>>147 古賀メロディと霧島昇
>>148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>149 関 種子と「古賀メロディ」2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手
>>152 「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」
>>153 佐藤千夜子と古賀政男
>>155-157 佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
>>158 詩人・サトウハチローと古賀メロディ
>>160 サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
>>161 サトウハチローと「童謡」
>>164 佐藤惣之助没後70年
>>165 佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
>>166 「古賀政男音楽博物館」
>>167 古賀メロディの戦後
>>168-169 戦後の主な古賀メロディ・・
>>170 萩原朔太郎と古賀メロディ
>>172 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>173 名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
>>174 詩人・佐藤惣之助
>>175 古賀メロディ、その隠れた名曲!・・沖縄民謡となった《二見情話》など
>>176 古賀政男編曲作品
>>177 二見情話(HUTAMI JOOWA) 沖縄民謡
>>178 古賀メロディを支えた主な名歌手たち
>>179 「古賀政男」のドラマ
>>180 「古賀メロディ」と、その秘密
>>181 古賀メロデー)とは
>>183 藤山一郎と増永丈夫
>>185 「古賀政男と「荒城の月」 2  ・・・李香蘭と[荒城の月]
>>186 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>188 古賀政男生誕100年記念CD
>>190 嘆きの夜曲 関種子.wmv
>>191 SPレコード歌謡とSPレコード
>>193-195 [古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
>>196 古賀メロディとその時代
>>198-201 新妻鏡
>>202 松平晃 サーカスの唄
>>205 ビクター専属藤山一郎への対抗
>>106-111 古関祐而と古賀政男
>>215-216

続く・・

277 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 20:32
>>219-220 古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>227-232 昭和のSPレコード歌謡、それは「三分間の芸術」ともいわれる。
>>233 書籍名『東アジア流行歌アワー――越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)
>>234 日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男
>>235-242 戦中戦後における童謡について(童謡排斥運動と童謡協会の発足)
>>243-245 CD全集 西條八十、古賀政男、藤山一郎等
>>246-247 日本流行歌史・戦前編
      日本歌謡集−明治・大正・昭和の流行歌
>>251-255 テイチク50年史・・
>>259-264「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」
>>265-268 中山晋平と「ゴンドラの唄」
>>269-271 昭和SP歌謡 主な歌手(戦前・戦中)

この他にもあります。



278 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/13(Fri) 00:21
>>113(参考) 島田芳文詩集
>>115 民謡詩集


279 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/19(Thu) 11:46
>>119 李香蘭の歌う古賀メロディ
>>140 ディックミネの代表曲(古賀メロディ)
>>149-151 関種子と「古賀メロディ」2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手


280 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/19(Thu) 12:00
>>144 ディックミネの代表曲(古賀メロディ)



281 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/20(Fri) 10:18
昭和も遠くなりにけり、来年(2014年)は昭和89年にあたる。
こうした中、今テレビの若者歌番組などで頻繁に飛び交う言葉、それは、『名曲』と言う言葉です。その重い言葉が鴻毛のごとく、いとも軽々しく飛び交っている若者文化には違和感を覚えると供に困ったことではないでしょうか。
しかも、「昭和」といっても、60年以上ある。 60年以上ある「昭和」の末期、豊かな時代の真っ盛り、50年代以降になってしまったようだ。言葉は重要です、『昭和』ではなく、あきらかに『昭和末期の』と言い換えるべきだろう。

今から81年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは昭和歌謡史に残る記念すべきビッグな企画を発表。ライバル・ビクター専属の看板作詞家・西条八十と、コロムビアの看板作曲家である古賀政男に、専属を超えて1年間コンビを組ませるというもの。この専属を超えた企画によって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。戦後に至るまで数多くの「名曲」を世に送り出すことになる黄金コンビは、ここにスタートする。


282 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/22(Sun) 23:30
斎藤 憐 「ジャズで踊ってリキュルで更けて―昭和不良伝 西条八十」] 岩波書店 (2004/10/28)
唄を忘れたカナリアが、歌い続けて二千曲―「東京行進曲」「東京音頭」「サーカスの唄」「同期の桜」「青い山脈」「トンコ節」「王将」…純粋詩と流行歌、フランス文学科教授と株屋。天才か凡俗の巨人か、大きな振幅を描いた西条八十の生涯にからむ五人の男たち―野口雨情、中山晋平、サトウ・ハチロー、古賀政男、服部良一。名もなき人びとの哀感を歌い、時代と共に泣いた、「唄の伝記」―昭和への鎮魂歌。

西條/八十
明治25年(1892)年、東京・牛込生まれ。詩人・作詞家・フランス文学者。早大在学中から「早稲田文学」などに作品を発表、「未来」同人となる。大正7(1918)年、鈴木三重吉の「赤い鳥」創刊に参加、童謡「かなりあ」を発表。以後、北原白秋、野口雨情とならぶ大正期の代表的童謡詩人として、多くの童謡を発表した。翌年第一詩集「砂金」を刊行、大正9年、訳詩集「白孔雀」を刊行。大正10年、早大英文科講師となり、大正13年、ソルボンヌ大学に留学、帰国後早大仏文科助教授、昭和6(1931)年、教授に就任。また、流行歌から軍歌まで幅広い分野で作詞家としても活躍し、「東京行進曲」(昭和4年)、「東京音頭」「サーカスの唄」(昭和8年)などがヒットした。戦後は早大を辞し、ランボーの研究に打ち込んだ。日本詩人クラブ初代理事長、日本音楽著作権協会会長など歴任。昭和45(1970)年没。


283 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/23(Mon) 00:05
筒井 清忠「西條八十」 (中公文庫) 中央公論新社 (2008/12)

戦前戦後のヒット曲に作詞家として名を連ね、ランボー研究をはじめ、詩人・フランス文学者としても大きな足跡を残した西條八十。多大な功績にもかかわらず近代文学の系譜から疎外されてきた、忘れられた巨人の生涯を精緻に描いた初の本格的評伝。第57回読売文学賞、第14回山本七平賞特別賞、第29回日本児童文学学会特別賞受賞。

西條八十の初めての本格的な評伝が本書だと言うのには驚いた。フランス文学の教授、詩人として出発し、作詞家として童謡「かなりあ」から「東京行進曲」、「東京音頭」、「愛染かつら」、「青い山脈」、「王将」等、戦前、戦後の多くのヒット曲を作った。その作詞のエピソードによると、いつも苦もなく言葉が浮かんでくるようで、まさに天性の詩人である。しかし、学界、詩壇は、、ランボー研究、詩人としての多大な業績を無視してきた。著者は、庶民の心情を詩として定着させた西條を「大衆化されたロマン主義」の中心人物としている。日本人が西條八十から受けた多大な恩をおもい出させてくれる優れた伝記である。
西條八十作詞、古賀政男作曲の数え切れないほどの歌謡曲、「東京音頭」をはじめとする日本各地のご当地民謡の数々は戦前、戦中育ちの我われの郷愁をそそる。
その一面、早稲田大学の文学部教授としてフランス文学を教えていたことは、余り知られていない。
フランス文学における学問的業績も、ただ大衆受けする歌の作詞者であるという一点においてのみ、学会からは無視された。しかし、西條は歌は一般大衆と共にありとの態度を貫いた。
沢山の歌謡曲、民謡、童謡の引用は懐かしくもあり、現代の散文的へたくそな作詞家と較べて、西條八十の作詞がいかに優れていたか、あらためて認識させられた。
しかし、詩壇における派閥の流れの詳細なる説明は、学問的には価値があるものなのだろうが、人間西條八十をしりたい読者にとっては、いささか退屈な側面である。


西條 八束 (著), 西條 八峯 (編集)「父・西條八十の横顔」風媒社 (2011/07)

西条 八十, 上田 信道 「名作童謡 西条八十100選」 春陽堂書店 (2005/09)




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