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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




251 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/17(Sun) 22:17
(参考)

テイチク50年史・・

テイチク社史編纂委員会編「レコードと共に五十年」(テイチク株式会社1986)
142ページ

昭和9年(1934)2月設立したテイチクレコード50年史

コロムビア社を退社し、同社に重役待遇で招聘された古賀政男は同9年5月テイチク東京文芸部(古賀文芸部)発足させ、
いわゆる「テイチク黄金時代」を築いた、

252 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/17(Sun) 22:29
南口重太郎が奈良で蓄音機、レコード事業に進出したのは昭和六年である。三年間、浪花節で事業基盤を作ってきた。古賀政男を迎えて東京に進出し、正式に帝国蓄音器株式会社を創立したのは昭和9年2月11日である。
帝蓄は創立間もないころ日活と映画主題歌獲得のためのタイアップをまとめていた。音楽制作費を帝蓄が負担する条件で提携したのである。

古賀政男は帝蓄に入ってから藤山一郎のビクターの契約切れを待っていた。古賀は茂木了次を説得にあたらせた。古賀は一作家ではなく、帝蓄専務の立場だったから、条件交渉もその場で決着をつけられたから話は早かった。
古賀、藤山の第一作「東京ラプソディー」(門田ゆたか作詞)は、コロムビア文芸部首脳が青ざめるほどの大ヒットになった。創業まもない小さなレコード会社だった帝蓄は、古賀のお陰でレコードメーカーとしての基盤を築き、驚くほど短期間に黄金時代を築いてしまった。


253 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/18(Mon) 21:52
・1931年2月、吉川島次と、南口重太郎が合資会社帝国蓄音器商会を設立した。
・1934年5月、日本コロムビアから作曲家の古賀政男を引き抜き重役(専務取締役)とし、録音技師と社員も呼び寄せた。
・東京進出に際して文芸部を銀座に、録音スタジオを杉並堀之内に置く。楠木繁夫、松島詩子を専属として主力歌手とし、年末にはディック・ミネも専属とした。
・1934年(昭和9年)7月、古賀政男テイチク専属第1回発売新譜4曲のひとつ佐藤惣之助作詞、楠木繁夫『国境を越えて』。
・1936年、藤山一郎、美ち奴が入社。本店を奈良市肘塚町へ移転し、工場も設備拡大を行う。
・1938年、古賀政男退職。
・ 1944年5月25日 帝蓄工業株式会社と改称。
・1953年4月1日 社名をテイチク株式会社に変更


254 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/20(Wed) 23:50
コロムビア専属だった古賀政男がテイチクレコードへ重役として迎えられたのは病気療養後の昭和9年のことだった。翌十年からの作曲活動はまことに目覚ましく、最初の仕事の「白い椿の唄」(楠木繁夫)につづき、「ふたりは若い」(ディックミネ・星玲子)「緑の地平線」(楠木繁夫)「東京ラプソディー」(藤山一郎)「ああそれなのに」(美ち奴)「うちの女房にゃ髭がある」(美ち奴・杉狂児)「男の純情」(藤山一郎)「人生の並木路」(ディックミネ)「人生劇場」(楠繁夫)…と、退社する13年までテイチクの黄金時代を築いた。
昭和12年に作曲した「青い背広で」も藤山一郎の歌で、若いファンを魅了したが、 この歌を作詞した佐藤惣之助は神奈川県川崎生まれ。大正末期、新感覚派運動の最先端を行って注目された詩人。昭和に入ってからフリーの流行歌作詞家として活躍した。

255 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/22(Fri) 15:15
古賀メロディー乗せて JR桜井線 京終駅

朝日新聞デジタル
2009年1月10日


JR京終駅の構内には、かつて貨物列車を引き込んだレールが残る。隣の本線を電車が通り過ぎていった。

京終駅の乗降客は少ない。鉄道好きの親子が訪れ、ホームで電車を眺めていた=いずれも奈良市南京終町

夕日を浴びながら京終駅近くを走る電車=奈良市北永井町

奈良町には昔ながらの路地が残る。観光客が着物姿で散策していた=奈良市餅飯殿町

京終駅にある路線案内板。読みにくい駅名が並ぶ

   
フォトギャラリー
 平城京の中心部から南東へ約4キロ。京終(きょうばて)という地名がついたのは、奈良の都の果てに位置したからだ。
 
 昭和の初め、ここから多くの歌声が全国に発信され始めた。

 レコード化されるのはジャズやシャンソンが中心だった当時、奈良で蚊帳を製造していた南口重太郎(なんこう・じゅうたろう)は歌謡曲を広めたいと考え、1934(昭和9)年に帝国蓄音器(現テイチクエンタテインメント)を創立。2年後に本社を京終駅の近くに置いた。

 南口は会社創立のころ、偶然を装い、大手レコード会社の人気作曲家だった古賀政男に伊東温泉の湯で声を掛けた。「奈良でオモチャみたいなレコード会社をやっております。先生に来ていただいたら『掃きだめに鶴』や思いまんねんけどいかがでしやろか」。この引き抜き話に応じた古賀は後年、「裸の時は素直に心が和む」と南口の作戦を回想したという。

 藤山一郎が歌った「東京ラプソディ」、美(み)ち奴(やっこ)の「ああそれなのに」、ディック・ミネの「人生の並木路(なみきみち)」……。古賀作品を得たテイチクはヒット曲を連発した。

 録音スタジオは東京の他に京終の本社にもあった。「線路が近いため蒸気機関車の音が入り、やり直しがよくあったらしい」と工場長などを務めた岡田守隆さん(71)。資料は残っていないが、できあがったレコードは京終駅から貨物列車に積み込まれ、各地に発送されたのだろう。



256 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/23(Sat) 10:24
索 引 (主なもの)

>>2  影を慕いて
>>23 古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)
>>31 西條八十は
>>37 詩人・佐藤惣之助は
>>46 「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
>>95 古賀政男アメリカへ
>>101 日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
>>112 初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
>>114 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>117 古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
>>118 李香蘭と古賀メロディ
>>120 古賀メロディと霧島昇
>>121 古賀政男と「荒城の月」
>>122-123 「荒城の月」について
>>124 三浦環と古賀政男
>>127-130 西條八十と古賀政男
>>133-148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>134 昭和戦前の作曲家
>>135 昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)
>>136 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>138 「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・
>>139 関 種子と「古賀メロディ」
>>140 古賀メロディと藤山一郎
>>141 藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
>>143 テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ
>>145 テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫
>>146 楠木繁夫の代表曲
>>147古賀メロディと霧島昇
>>148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>149 関 種子と「古賀メロディ」2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手
>>152 「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」
>>153 佐藤千夜子と古賀政男
>>155-157 佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
>>158 詩人・サトウハチローと古賀メロディ
>>160 サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
>>161 サトウハチローと「童謡」
>>164 佐藤惣之助没後70年
>>165 佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
>>166 「古賀政男音楽博物館」
>>167 古賀メロディの戦後
>>168-169 戦後の主な古賀メロディ・・
>>170 萩原朔太郎と古賀メロディ
>>172 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>173 名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
>>174 詩人・佐藤惣之助
>>175 古賀メロディ、その隠れた名曲!・・沖縄民謡となった《二見情話》など
>>176 古賀政男編曲作品
>>177 二見情話(HUTAMI JOOWA) 沖縄民謡
>>178 古賀メロディを支えた主な名歌手たち
>>179 「古賀政男」のドラマ
>>180 「古賀メロディ」と、その秘密
>>181 古賀メロデー)とは
>>183 藤山一郎と増永丈夫
>>185 「古賀政男と「荒城の月」 2  ・・・李香蘭と[荒城の月]
>>186 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>188 古賀政男生誕100年記念CD
>>190 嘆きの夜曲 関種子.wmv
>>191 SPレコード歌謡とSPレコード
>>193? [古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
>>196 古賀メロディとその時代
>>198-201 新妻鏡
>>202 松平晃 サーカスの唄
>>205 ビクター専属藤山一郎への対抗
>>106-111 古関祐而と古賀政男
>>215-216
>>219-220 古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>227-232 昭和のSPレコード歌謡、それは「三分間の芸術」ともいわれる。
>>233 書籍名 『東アジア流行歌アワー――越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)
>>234 日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男
>>235-242 戦中戦後における童謡について(童謡排斥運動と童謡協会の発足)
>>243-245 CD全集 西條八十、古賀政男、藤山一郎等
>>246-247 日本流行歌史・戦前編
     日本歌謡集−明治・大正・昭和の流行歌
>>251-255 テイチク50年史・・

この他もあります。

257 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/23(Sat) 10:28
参考

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258 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/23(Sat) 21:19
>>193-195 [古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)


259 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/24(Sun) 11:04
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。


260 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/24(Sun) 12:13
懐メロには小節(しょうせつ・。ぶしともいうことがある)が多く使われています。特に古賀政男は、5連符6連符といった小節を多く用いました。デッィク・ミネが古賀政男に流行歌を進められた時、「私はジャズ歌手なので小節(こぶし)が苦手でして」と躊躇したと伝え聞いています。

小節が廻るとは4部音符2部音符のように長い音符の小節(しょうせつ)に比べて16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげることだと思います。

5連符6連符といった小節を多く用い、16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげ、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、あの独特の哀調を帯びたメロディ、人はそれを「古賀メロディ」と呼んで支持したのです。

ジャズなど洋楽には日本の流行歌のような小節(こぶし)の小節(しょうせおれをつ)はないですね。演奏するにも歌うにも、「古賀メロディ」は難しいと思います。
初期の頃、古賀政男は自らのギターなど伴奏で多数録音しています。ほかに、自らの明大マンドリンクラブを引きつれ、あるいは名前を変えて録音しています。

古賀政男はギターやマンドリンの名手でもあり、演奏家でもありました。こうした難しい歌は、藤山一郎とか席種子をはじめ、淡谷のり子、楠木繁夫、霧島昇など音楽学校出身歌手によって支えられていたのです。


261 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/24(Sun) 12:18
訂正
×席種子 ○関種子

262 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/24(Sun) 21:45
日本の「流行歌」(歌謡歌曲)独特のもので、ジャズやポピュラーは、もちろんクラッシックを含め外国系にはありません。
参考までに、よくクラッシックの香りとか格調と言われるのも、こうした意味合いではないでしょうか。

263 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/25(Mon) 00:21
日本以外、世界のどこを探しても無い、日本の文化ですね。

264 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/25(Mon) 13:48

昭和の流行歌(レコード歌謡)というのは、クラッシックを基調とした洋楽。
しかし、「歌詞」(詩)を持つ「歌謡」であると言う点で、クラッシックそのものとは根本的に大きく異なるもの。



265 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/26(Tue) 20:33
☆中山晋平と「ゴンドラの唄」


中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千代子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

その後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、ビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原生活秋 作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。
以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。

晋平が、昭和27年の暮、東京の映画館で黒沢監督の名作「生きる」を観ます。主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

昭和27年12月2日、ある恩人の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした28日後、今から61年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは《誰でも歌える歌ずくり》でした。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
1942年(昭和17年)、日本音楽文化協会理事長に就任。同年、日本音楽著作権協会理事長、1948年(昭和23年)同会長となる。
抱月・須磨子の死のあと晋平は藝術座を離れ、西条八十、野口雨情、北原白秋らと組んで精力的に童謡を作曲してゆく。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。


266 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/26(Tue) 20:39
訂正

「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晋平作曲)



267 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/26(Tue) 21:22
訂正
昭和23年「日本音楽著作権協会会長」等の要職を歴任します

268 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/03(Tue) 10:58
>>259,>>265

古賀メロディが、[古賀メロディ] という愛称で呼ばれ、広く一般化するきっかけとなるのが、

『中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ』との新聞報道とすれば、昭和7,8年。

今から80年くらい前となる。


これに対し、その他に対して何でも後ろに「メロディ」をつけるのは、「懐メロブーム」が起こる戦後も昭和40年代以降の話し。


269 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 09:13
☆昭和SP歌謡  主な歌手(戦前・戦中) 1,

「昭和」と言う、まだ日本がまだ草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、レコード歌謡が花開き、人々に迎えられたのです。SPレコードの時代です。
その歌手の多くは音楽学校出身者でした。以下にその主な歌手と主な歌を。

佐藤千代子(1897-1968)(東京音楽学校)波浮の港、東京行進曲、当世銀座節、
レコード歌手第一号、大正から昭和の初めにかけて、中山晋平の歌を世に広めた歌手です。古賀政男の才能を発見したことで、日本の大衆音楽史の中で忘れてはならない歌手です。
童謡、新民謡、歌曲、歌謡曲、新日本音楽など100曲を超えるレコードを残しいている。


藤原義江(1898−1976)     出船の港、 波浮の港、鉾をおさめて、出船,特幹の歌
二村定一(1900-1948)   私の青空、アラビアの唄、君恋し、神田小唄
内海一郎(宇津美清)(1898―1972)(東京音楽学校)道頓堀行進曲、銀座行進曲
天野喜久代(1897-1945)(帝劇歌劇部)私の青空、アラビアの歌、チャッカリしてるわね
曽我直子(1905−1995)  (東洋音楽学校)蒲田行進曲、沓掛小唄、明眸花の唄、
藤本二三吉(1897-1976)     祇園小唄、唐人お吉小唄(明烏篇)
河原喜久恵(1902-1997) (東京音楽学校)麗人の唄、月の浜辺、無憂華の唄
四家文子(1906−1981) (東京音楽学校)銀座の柳、踊り子の唄、不壊の白珠
徳山l(たまき)(1903−1942)(東京音楽学校)侍ニッポン、天国に結ぶ恋、隣組
関 種子(1907-1990)  (東京音楽学校)窓に凭れて、嘆きの夜曲、あけみの唄、
藤山一郎(1911-1993)  (東京音楽学校)酒は涙か溜息か、丘を越えて、影を慕いて
松平晃(1911-1961)   (東京音楽学校)サーカスの唄,望郷の唄、人妻椿
淡谷のり子(1907-1997) (東洋音楽学校)私この頃憂鬱よ、佳人よ何処へ
羽衣歌子(1902−1979) (東洋音楽学校)女給の唄、
中野忠晴(1909-1970)(武蔵野音楽学校)山の人気者、高原の唄、歓喜(よろこび)の歌
ミス・コロムビア(松原操) (1911−1984)(東京音楽学校) 十九の春、旅の夜風、目ン無い千鳥
楠木繁夫(1904-1956)  (東京音楽学校)緑の地平線、女の階級、人生劇場
新橋喜代三(1903-1963)    明治一代女、 酋長の娘
和田春子(渡辺光子)(1906−2003)幌馬車の唄、強くなってね、
二葉あき子(1915-2011) (東京音楽学校)あの花この花、新妻鏡、春よいづこ
小唄勝太郎(1904-1974) 島の娘
東海林太郎(1898-1972) 赤城の子守唄,国境の町、すみだ川,旅笠道中、野崎小唄
上原  敏(1908-1944)  妻恋道中、裏町人生、流転
児玉好雄(1909-1986)  無情の夢 
林伊佐緒(1912-1995)  出征兵士を送る歌
美ち奴 (1918〜1996)  ああそれなのに、うちの女房にゃ髭がある
杉狂児(1903−1975)  (東京音楽学校)うちの女房にゃ髭がある
由利あけみ(1913-)(東京音楽学校)黒いパイプ、愛国六人娘、茶坊の花、長崎物語、
ディック・ミネ(1908−1991)二人は若い、愛の小窓、人生の並木路、ゆかりの唄
霧島昇(1914-1984)   (東洋音楽学校)誰か故郷を想わざる,新妻鏡、旅の夜風
李香蘭(1920−)  迎春花、紅い睡蓮、夜霧の馬車、サヨンの歌、蘇州夜曲
奥田瑛子(1907- ) 緑の月、別れの歌、南国の乙女、浜辺の哀唱
奥山彩子(1916-)    (東洋音楽学校) 蛇姫絵巻,母立つ丘、興亜三人娘
菊池章子(1924--2002)  (東洋音楽学校)相呼ぶ歌、愛馬花嫁、馬、湖畔の乙女
渡辺はま子(1910-1999) (武蔵野音楽学校)サヨンの鐘,蘇州夜曲、夏子の歌
三原純子(1920−1959)  南から南から、固い約束
市  丸(1906−1997)   天竜下れば、濡れつばめ
松島詩子/千早淑子(1905-1996)  マロニエの木陰、夕べ仄かに 
伊藤久男(1933-1983)(帝国音楽学校)暁に祈る、白蘭の歌、熱砂の誓い(建設の歌), 馬


270 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 09:14
2、
志村道夫(1914-)     (東京高等音楽学院) 蛇姫絵巻
有島通男(1911-)    (東洋音楽学校)春まだ浅く
小林千代子(1910−1976) (東洋音楽学校)涙の渡り鳥、 旅のつばくろ
小夜福子(1909-1989)    (宝塚音楽歌劇学校)小雨の雨
高峰三枝子(1918-1990)  純情二重奏、南の花嫁さん、湖畔の宿
能勢妙子(1915-1999)   あなたなしでは
伏見信子(1915−)    あの夢この夢、花言葉の唄、初恋日記
北廉太郎(1920-1940)   潮来夜船,青春の丘
奈良光枝(1923-1977)   青い牧場、祖国の花、勝利の日まで
井口小夜子(1914-2003) (武蔵野音楽学校) 乙女十八,ねんねのお里、
轟由紀子(1917−1967) (宝塚音楽歌劇学校) お使いは自転車に乗って、 祖国の花
波平暁男(1915−1983) (東京音楽学校)    月夜船、勝利の日まで
近江俊郎(1918−1992) (武蔵野音楽学校)   明日もまた、勝利の日まで
灰田勝彦(1911−1982)  煌く星座、鈴懸の径
高田浩吉(1911−1998)  大江戸出世小唄、故郷の唄
田端義夫(1919−2013)  大利根月夜、シンガポールだより  
小畑 実(1923−1979)  勘太郎月夜唄,湯島の白梅
岡晴夫 (1916-1970)   上海の花売り娘、港シャンソン


(参考)
東京音楽学校  (現 東京藝術大学音楽学部)
東洋音楽学校 (現 東京音楽大学)
武蔵野音楽学校(現 武蔵野音楽大学)


271 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 22:37
3、追加
内田栄一(1901−1985) (東京音楽学校) 起てよ一億
中村淑子(1911− ) (東京音楽学校) 愛国行進曲、日の丸行進曲
伊藤武雄(1905-1987) ) (東京音楽学校) 愛馬進軍歌
酒井 弘(1914-1996)   (東京音楽学校) ああ紅の血は燃ゆる、働く力
波岡惣一郎(1910−1951) (東洋音楽学校)かちどきの歌、興亜行進曲、日の丸行進曲
永田絃次郎(1909−1985)  出征兵士を送る歌
大谷冽子(1919−2012)   (武蔵野音楽学校)ジャワのマンゴ売り
結城道子(1908−?)    (東京高等音楽学院)裏町人生
三島一声(1889-1974)  東京音頭
小笠原美都子(1920-)  十三夜
青葉笙子(1918-2012)    鴛鴦道中
川端文子(1916−2007) 上海リル、青空
三門順子(1915−1954)   愛国千人針
服部富子(1917−1981)   満州娘
江戸川蘭子(1913-1990) (日劇音楽舞踊学校)上海リル
小野 巡(1910−2009)    祖国の護り
塩まさる(1908-2003)    九段の母、
樋口静雄(1911−1973)  チンライぶし、緑の幌馬車、田園交響楽
赤坂小梅(1906−1992)   ほんとにそうなら、
豆千代(1912−2004)   夕日は落ちて
市丸(1906−1997)     天龍下れば、ちゃっきり節
音丸(1906―1976)     船頭可愛や、下田夜曲





272 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 22:50
>>269-271 昭和SP歌謡  主な歌手(戦前・戦中)

273 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 23:07
古賀政男総合スレ 
ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/

274 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 16:43
>>259-264「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」
>>265-268「中山晋平と「ゴンドラの唄」



275 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 16:58

《索 引》 

    (主なもの)>>256,
>>258,>>272,>>274

(その他もあり)

 検索法   >>257



276 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 20:32
《索  引》 (参考・主なもの)>>275

>>2  影を慕いて
>>23 古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)
>>31 西條八十は
>>37 詩人・佐藤惣之助は
>>46 「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
>>95 古賀政男アメリカへ
>>101 日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
>>112 初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
>>114 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>117 古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
>>118 李香蘭と古賀メロディ
>>120 古賀メロディと霧島昇
>>121 古賀政男と「荒城の月」
>>122-123 「荒城の月」について
>>124 三浦環と古賀政男
>>127-130 西條八十と古賀政男
>>133-148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>134 昭和戦前の作曲家
>>135 昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)
>>136 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>138 「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・
>>139 関 種子と「古賀メロディ」
>>140 古賀メロディと藤山一郎
>>141 藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
>>143 テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ
>>145 テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫
>>146 楠木繁夫の代表曲
>>147 古賀メロディと霧島昇
>>148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>149 関 種子と「古賀メロディ」2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手
>>152 「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」
>>153 佐藤千夜子と古賀政男
>>155-157 佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
>>158 詩人・サトウハチローと古賀メロディ
>>160 サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
>>161 サトウハチローと「童謡」
>>164 佐藤惣之助没後70年
>>165 佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
>>166 「古賀政男音楽博物館」
>>167 古賀メロディの戦後
>>168-169 戦後の主な古賀メロディ・・
>>170 萩原朔太郎と古賀メロディ
>>172 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>173 名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
>>174 詩人・佐藤惣之助
>>175 古賀メロディ、その隠れた名曲!・・沖縄民謡となった《二見情話》など
>>176 古賀政男編曲作品
>>177 二見情話(HUTAMI JOOWA) 沖縄民謡
>>178 古賀メロディを支えた主な名歌手たち
>>179 「古賀政男」のドラマ
>>180 「古賀メロディ」と、その秘密
>>181 古賀メロデー)とは
>>183 藤山一郎と増永丈夫
>>185 「古賀政男と「荒城の月」 2  ・・・李香蘭と[荒城の月]
>>186 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>188 古賀政男生誕100年記念CD
>>190 嘆きの夜曲 関種子.wmv
>>191 SPレコード歌謡とSPレコード
>>193-195 [古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
>>196 古賀メロディとその時代
>>198-201 新妻鏡
>>202 松平晃 サーカスの唄
>>205 ビクター専属藤山一郎への対抗
>>106-111 古関祐而と古賀政男
>>215-216

続く・・

277 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 20:32
>>219-220 古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>227-232 昭和のSPレコード歌謡、それは「三分間の芸術」ともいわれる。
>>233 書籍名『東アジア流行歌アワー――越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)
>>234 日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男
>>235-242 戦中戦後における童謡について(童謡排斥運動と童謡協会の発足)
>>243-245 CD全集 西條八十、古賀政男、藤山一郎等
>>246-247 日本流行歌史・戦前編
      日本歌謡集−明治・大正・昭和の流行歌
>>251-255 テイチク50年史・・
>>259-264「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」
>>265-268 中山晋平と「ゴンドラの唄」
>>269-271 昭和SP歌謡 主な歌手(戦前・戦中)

この他にもあります。



278 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/13(Fri) 00:21
>>113(参考) 島田芳文詩集
>>115 民謡詩集


279 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/19(Thu) 11:46
>>119 李香蘭の歌う古賀メロディ
>>140 ディックミネの代表曲(古賀メロディ)
>>149-151 関種子と「古賀メロディ」2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手


280 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/19(Thu) 12:00
>>144 ディックミネの代表曲(古賀メロディ)



281 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/20(Fri) 10:18
昭和も遠くなりにけり、来年(2014年)は昭和89年にあたる。
こうした中、今テレビの若者歌番組などで頻繁に飛び交う言葉、それは、『名曲』と言う言葉です。その重い言葉が鴻毛のごとく、いとも軽々しく飛び交っている若者文化には違和感を覚えると供に困ったことではないでしょうか。
しかも、「昭和」といっても、60年以上ある。 60年以上ある「昭和」の末期、豊かな時代の真っ盛り、50年代以降になってしまったようだ。言葉は重要です、『昭和』ではなく、あきらかに『昭和末期の』と言い換えるべきだろう。

今から81年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは昭和歌謡史に残る記念すべきビッグな企画を発表。ライバル・ビクター専属の看板作詞家・西条八十と、コロムビアの看板作曲家である古賀政男に、専属を超えて1年間コンビを組ませるというもの。この専属を超えた企画によって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。戦後に至るまで数多くの「名曲」を世に送り出すことになる黄金コンビは、ここにスタートする。


282 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/22(Sun) 23:30
斎藤 憐 「ジャズで踊ってリキュルで更けて―昭和不良伝 西条八十」] 岩波書店 (2004/10/28)
唄を忘れたカナリアが、歌い続けて二千曲―「東京行進曲」「東京音頭」「サーカスの唄」「同期の桜」「青い山脈」「トンコ節」「王将」…純粋詩と流行歌、フランス文学科教授と株屋。天才か凡俗の巨人か、大きな振幅を描いた西条八十の生涯にからむ五人の男たち―野口雨情、中山晋平、サトウ・ハチロー、古賀政男、服部良一。名もなき人びとの哀感を歌い、時代と共に泣いた、「唄の伝記」―昭和への鎮魂歌。

西條/八十
明治25年(1892)年、東京・牛込生まれ。詩人・作詞家・フランス文学者。早大在学中から「早稲田文学」などに作品を発表、「未来」同人となる。大正7(1918)年、鈴木三重吉の「赤い鳥」創刊に参加、童謡「かなりあ」を発表。以後、北原白秋、野口雨情とならぶ大正期の代表的童謡詩人として、多くの童謡を発表した。翌年第一詩集「砂金」を刊行、大正9年、訳詩集「白孔雀」を刊行。大正10年、早大英文科講師となり、大正13年、ソルボンヌ大学に留学、帰国後早大仏文科助教授、昭和6(1931)年、教授に就任。また、流行歌から軍歌まで幅広い分野で作詞家としても活躍し、「東京行進曲」(昭和4年)、「東京音頭」「サーカスの唄」(昭和8年)などがヒットした。戦後は早大を辞し、ランボーの研究に打ち込んだ。日本詩人クラブ初代理事長、日本音楽著作権協会会長など歴任。昭和45(1970)年没。


283 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/23(Mon) 00:05
筒井 清忠「西條八十」 (中公文庫) 中央公論新社 (2008/12)

戦前戦後のヒット曲に作詞家として名を連ね、ランボー研究をはじめ、詩人・フランス文学者としても大きな足跡を残した西條八十。多大な功績にもかかわらず近代文学の系譜から疎外されてきた、忘れられた巨人の生涯を精緻に描いた初の本格的評伝。第57回読売文学賞、第14回山本七平賞特別賞、第29回日本児童文学学会特別賞受賞。

西條八十の初めての本格的な評伝が本書だと言うのには驚いた。フランス文学の教授、詩人として出発し、作詞家として童謡「かなりあ」から「東京行進曲」、「東京音頭」、「愛染かつら」、「青い山脈」、「王将」等、戦前、戦後の多くのヒット曲を作った。その作詞のエピソードによると、いつも苦もなく言葉が浮かんでくるようで、まさに天性の詩人である。しかし、学界、詩壇は、、ランボー研究、詩人としての多大な業績を無視してきた。著者は、庶民の心情を詩として定着させた西條を「大衆化されたロマン主義」の中心人物としている。日本人が西條八十から受けた多大な恩をおもい出させてくれる優れた伝記である。
西條八十作詞、古賀政男作曲の数え切れないほどの歌謡曲、「東京音頭」をはじめとする日本各地のご当地民謡の数々は戦前、戦中育ちの我われの郷愁をそそる。
その一面、早稲田大学の文学部教授としてフランス文学を教えていたことは、余り知られていない。
フランス文学における学問的業績も、ただ大衆受けする歌の作詞者であるという一点においてのみ、学会からは無視された。しかし、西條は歌は一般大衆と共にありとの態度を貫いた。
沢山の歌謡曲、民謡、童謡の引用は懐かしくもあり、現代の散文的へたくそな作詞家と較べて、西條八十の作詞がいかに優れていたか、あらためて認識させられた。
しかし、詩壇における派閥の流れの詳細なる説明は、学問的には価値があるものなのだろうが、人間西條八十をしりたい読者にとっては、いささか退屈な側面である。


西條 八束 (著), 西條 八峯 (編集)「父・西條八十の横顔」風媒社 (2011/07)

西条 八十, 上田 信道 「名作童謡 西条八十100選」 春陽堂書店 (2005/09)




284 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/23(Mon) 07:11
「お蝶夫人」の唄
(昭和8年=1933、西条八十作詞、古賀政男作曲、ミス・コロムビア・歌)

おもうお方は 帰らぬ人か
旅のつばめは また来たに
恋の長崎 港の雨は
お蝶夫人の 涙雨

わたしゃ初恋心(おぼこ)の 日本娘
港育ちの 女郎花(おみなえし)
恋は気まぐれ 降るアメリカの
露に濡れたか 恥ずかしや

ねんねおころり 坊やの父(てて)は
青い目の人 ふねのひと
ねんねおころり 謳(うた)うたとても
声もとどかぬ 波の上

来るか来るかの 便りは来ずに
春の丸山 花が咲く
情け知らずの 入船出船
きょうも散る花 のせてゆく


戦後にいたるまで20曲以上ある「お蝶夫人」の歌のはじめとなる名曲。
同時に、東京音楽学校(研究科)をでたばかりのミス・コロムビア最初の古賀メロディでもある。
ミス・コロムビアの初々しい歌である。


285 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/03(Fri) 22:17
佐藤惣之助 かわさき区の宝物シート
ttp://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26355/31-4.pdf#search='%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%83%A3%E4%B9%8B%E5%8A%A9%E3%80%81%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%83%93%E3%82%A2%E5%B0%82%E5%B1%9E'


286 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/09(Thu) 22:22
「サヨンの鐘」によせて―「サヨンの鐘」資料一斑―(十訂稿)
―日本統治下台湾警察史の一齣―
ttp://home.hiroshima-u.ac.jp/tatyoshi/sayun001.pdf#search='%E3%80%8C%E3%82%B5%E3%83%A8%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%90%98%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%9B%E3%81%A6'


287 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/09(Thu) 23:03
4.歌でつづる大正・昭和日本の流行歌 上
上山敬三著 <767.8-Ka298n>  東京 早川書房 昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和7年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

ttp://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/tmp/79.pdf#search='%E8%A5%BF%E6%A2%9D%E5%85%AB%E5%8D%81%E4%BD%9C%E8%A9%9E%2C%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7%E4%BD%9C%E6%9B%B2%2C%E6%98%AD%E5%92%8C1%EF%BC%99%E5%B9%B4'

国会図書館 第79回 常設展示
流行歌に見る世相と大衆のこころ ―昭和のはじめから東京オリンピックまで―
平成9年3月25日〜4月25日


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289 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 10:10
商業レコードの黎明期、その最初は新民謡『波浮の港』(昭和3年)であったように、歌謡曲(流行歌=レコード歌謡)は、「新民謡」から発展した。
そこに若き古賀政男が現れ、晋平の時代に新風を吹き込むこととなった。

これからは、何々「節」の時代ではなく「メロディー」の時代だと言っていた。
80年以上前から、古賀政男は歌謡において、これまで以上に「メロディー」の重要さを強調していた。

実際に,晋平(節)の時代から「古賀メロディ」の時代へ、ビクター時代からコロムビア時代へと流れが大きく変わってゆく。
そして、古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。




290 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 19:31
作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。

古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。 今有る歌の殆どはまだ存在しなかった。

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』『美わしの宵』『嘆きの夜曲』『青春図絵の唄』『朝顔の唄』『笛は冴ゆれど』『愛は紅い』『秘めたる恋』(関種子)、『キャンプ小唄』『スキーの唄』、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎) 、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『私此頃憂鬱よ』『アリランの唄』『春の唄』(淡谷のり子)・・

古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せます。

古賀政男の音楽は、洋楽を基本に、仏教音楽以来の日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたもので、その後の歌にも影響を与えているといえます。

『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・ セレナーデ風の佳曲。ジプシー音楽(ジプシー短音階)。


291 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 19:42
タンゴと歌謡曲は戦前から密接な関係があったようで、歌謡曲の創世記に、ハバネラタンゴのリズムが使われた。古賀政男(「正男」)作曲、佐藤千夜子がビクターで吹込んだ《日本橋から》のリズムがそうである。
その後、関種子によって再録音(コロムビア)された。邦人歌曲においてタンゴのリズムが使われた最初の例であろう。

「日本橋から」以来、戦後にいたるまで歌謡曲では旋律に変化をあたえるリズムとして多用されるようになり、流行歌の発展には欠かせなくなりました。 
「赤い花」「銀座セレナーデ」「黒いパイプ」「夢去りぬ」「落葉しぐれ」・・、昭和22年東宝 『音楽五人男』挿入歌「バラ咲く小径」などがあげられる。

ジプシー音楽とハバネラが古賀メロディーの原点だった!ともいわれる所以だろう。



292 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 19:44
(参考)

「赤い花」    1934、飯田信夫作詞 松平 信博作曲   藤山一郎 
「夢去りぬ」   1939 奥山 靉作詞、服部良一作曲.   霧島昇
「銀座セレナーデ」1946 村雨まさを作詞、服部良一作曲  藤山一郎
「黒いパイプ」  1946 サトウ ハチロー作詞、服部良一作曲 二葉あき子
「バラ咲く小径」 1947 野村 俊夫作詞、古関裕而作曲  藤山一郎
「落葉しぐれ」  1953 吉川 静夫作詞、吉田正作曲   三浦洸一




293 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 19:58
今から83年前、昭和6年(1931)が明けてまもなく、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から古賀政男に面会の申し入れがあった。

コロムビアの専属作曲家となって、『影を慕いて』のような作曲をしてほしいとのことであった。このとき古賀に破格な『印税』が支払われると言う条件でである。しかもまだ印税制度が一般的でなかった時代である。

昭和4年から昭和5年末にかけて、佐藤千夜子によって『文のかをり』(1930年3月発売)をはじめとして、『影を慕いて』(1931年1月発売)など7曲が吹き込まれた。

栄えあるレコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手、佐藤千夜子(ビクター)の力添えで、作曲家・古賀政男は誕生したといえる。この辺りのことは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」(1977年(昭和52年)4月4日から10月1日)に描かれている。
ttp://www.youtube.com/watch?v=Vz_pa0HGiwU

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。



294 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 20:33
81年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは、ライバルであるビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表した。

これによって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。

昭和14年から、二人はコロムビア専属となり黄金コンビが復活、「誰か故郷を想わざる」「あの花この花」「春よいづこ」「熱砂の誓い」「紅い睡蓮」「サヨンの鐘」「麗人の歌」「三百六十五夜」・・
など戦後に至るまで、数え切れないほど沢山の「西條八十作詞・古賀政男作曲」の名曲を世に送り出すのです。



295 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/13(Mon) 22:53
今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989〉と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

今や、ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年(1925)7月12日、現在NHK放送博物館のある東京港区・愛宕山の放送所で本放送が開始された。この時、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がラジオ本放送の始まりだそうだ。佐藤千夜子はレコードだけでなくラジオで歌うようになる。

参考までに、佐藤千夜子の最初のレコードは、大正14年(1925) 内外蓄音器、「青い芒(すすき)」(野口雨情作詩、中山晋平作曲)、これは全国歌の旅の途中で録音したもので、ビクターで再録音されている。
なお、そのNHK本放送直後の7月28日に、長田幹彦原作のラジオドラマ「悲しき遍路」が放送された。佐藤千夜子出演で、NHKアーカイブスで聴くことが出来、現存する最古の公開ライブラリーとなってる。まさに「佐藤千夜子」は新しい時代のスターだったのだ。
佐藤はその中で、「悲しき遍路」(長田幹彦作詞、中山 晋平作曲)を歌っている。
「作曲家・古賀政男」は、この栄えあるレコード歌手第一号「佐藤千夜子」の力添えで誕生し、メジャーデビューしたといえる。



296 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/14(Tue) 14:51
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#2

297 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/15(Wed) 12:22
佐藤千夜子は、日本初のレコード歌手で、NHK 朝の連続テレビ小説「いちばん星」のヒロインになった人です。

1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学し、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀正男、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、激動の時代を駆け抜けてゆきます。

菊池寛 原作の映画「東京行進曲」の主題歌(作詞 西条八十、作曲 中山晋平 ♪ 昔恋しい 銀座の柳…)や「波浮の港」の空前の大ヒットなど、かれらの活躍はめざましいものでした。


298 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/15(Wed) 12:50
天童公園愛宕沼の近くに顕彰碑があり、中2丁目の生家が復元され、民芸館として公開されている。(1 9 7 7 年佐藤千夜子顕彰碑建設会が記念碑を建立、)
ttp://tohoku-monogatari.org/spot/?lid=11102
ttp://www.geocities.jp/seppa06/0901/siryo.html


佐藤千夜子顕彰碑 天童市 舞鶴山公園
ひとは うれしいにつけ 悲しいにつけ歌を口ずさむ うたは 思い出とともに人の心に刻みこまれる 日本の大衆文化の黎明期を築き 歌謡歌手の嚆矢となった佐藤千夜子を われわれは忘れてはならないだろう 千夜子よ永遠なれ   「あゝ東京行進曲」著者 結城亮一

 1 9 7 7 年佐藤千夜子顕彰碑建設会建立 



299 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/20(Mon) 22:47
昭和3年、昭和の初め、人生の苦悩からはじまった「古賀メロディ」の歴史、若き古賀政男の人生の苦悩から生れた昭和流行歌(レコード歌謡)の最高傑作とされる「影を慕いて」。

この歌には古賀の人生の苦悩・絶望からの叫びが込められているといわれる、時代を超えた日本の名曲である。この歌が作られるのは『波浮の港』と同じ昭和3年の夏といわれる。現在ある殆どすべての日本の歌謡はまだ存在していなかった時代。
そして、菊池寛原作、日本最初の映画主題歌である「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)が流行した昭和4年、6月22日、 佐藤千夜子を招いての明治大學マンドリン倶楽部定期演奏會初演(ギター合奏)。
昭和5年10月20日、佐藤千夜子は、ビクタースタジオで吹込み。大衆音楽の黎明期、まだ一学生演奏家に過ぎなかった無名の作家の作品。ビクター内では反対もあっただろう、しかし佐藤千夜子のすごいところは、反対を押し切る形での録音だったことだ。


この録音の8日後には佐藤千夜子は日本を離れるのだ。ちなみに『影を慕いて』は『日本橋から』のB面だった。この『影を慕いて』のレコードがビクターから発売されたのは、まだ古賀政男は作曲家になる前の昭和6年1月早々である。コロムビアは、放っておかなかった。

このレコードを浅草・鳥越の斉藤楽器店で発見した人物が、コロムビアの営業マンだった伊藤正憲だった。当然コロムビアはレコードの発売を待っていたはずで、偶然ではないだろう。

影を慕いて  古賀正男作詞  佐藤千夜子 1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介作詞  同     1931年1月 ビクター 51519

昭和6年(1931)が明けてまもなく、古賀政男(正男)は、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から面会の申し入れを受ける。>>170

そして古賀政男(正男)26歳は、昭和6年(1931)3月20日付けで、日本コロムビアの専属作曲家として迎えられる。



伊藤正憲「レコードと共に四十五年―私のアルバム」日本クラウン, 1971




300 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/22(Wed) 15:30
☆古賀政男(正男)初期の作品(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)
 
初期古賀作品ビクター録音は,歌わせてほしいとの千夜子の熱望で実現、以下の7曲が昭和4年から翌5年10月にかけて吹き込まれた。

参考までに、最初に専属制度をはじめたのはビクターで、最初の専属は、西條八十、中山晋平、藤江義江、佐藤千夜子、藤本 二三吉、佐々紅華、時雨音羽、平井英子の8人だった。

文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688  
以上は,作曲家になる前の作品  年月は発売年
*『青い小鳥』は、『星の飛ぶ夜』(堀正明作詩、小松平五郎作編曲・佐藤千夜子歌唱)  とカップリング

※古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
・『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作編
 曲・淡谷のり子歌)
・『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作編曲・丸山和
 歌子歌)
・『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作編曲・
 関種子歌)。

なお、『影を慕いて』『日本橋から』(井田一郎編曲)は、昭和7年3月、藤山一郎、関種子により再吹き込み。『片想い』は、昭和7年6月、『かた思い』として関種子 再吹き込み。

・コロムビア専属作曲家・古賀政男   専属最初期の作品
乙女心    鹿山鶯村作詞 関種子 1931年6月 COL26275〈関種子専属第一作〉
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年6月 26275
キャンプ小唄  島田芳文  藤山一郎  1931年7月 26325 (藤山一郎第一作)
月の浜辺    島田芳文  河原喜久恵 1931年7月 26325

関種子、藤山一郎、河原喜久恵は東京音楽学校、関種子、藤山一郎は主席卒業(藤山一郎はまだ本科二年生でアルバイトだった。)天野喜久代は、日本橋高等女学校卒業、大正2年 帝劇歌劇部を経て、声楽は東京音楽学校で教えていたハンカ・ペツォールドにも師事しており、この時期に培った基礎が長い音楽生活を可能とした。二村定一とジャズ・ソングの名曲・『青空』など歌う。昭和20年3月10日の東京大空襲で焼死したと伝えられている。


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